2011 11/12 19:00
……とある蛙
基本的な考え方は去年考えていたことと変わらず、次のとおりです。
何となく最近書く気がしないので、改めてに最近詩について考えていることをアトランダムにかつ文体において統一性無く書いてみます。
飯島耕一の詩集「バルセロナ」を読んで
題材は身辺の見聞、私的個人的な記憶→語法も日常的
伝達性のみの日常的な散文に近い形で書かれています。
日常に対する感想を 詩を形成する素材としています。
詩的な素材 非詩的な素材という区別がそもそも無いと思います。
詩的な言語 詩的で無い言語という区別も無いと考えます。
そんな区別が存在する訳も無い。
日常的な出来事こそ、
たとえば夫婦兄弟など親族間の出来事は普遍性をもちます。
ロバートブライも普遍性に関して親族間の出来事を述べているが当たり前のことです。また、日常接する風景、自然などに普遍性はあります。芸術と呼ばれるためには時間的普遍性と空間的普遍性が必要だとさうれば日常想起する出来事、日常接する自然風景こそ題材とすべきでは無いかという考えに行き着きます。
詩における飛躍した言語など
天澤退二郎など執拗なリフレインによるリズムなどによって言葉の伝達性の希薄化を図ろうとしているようです。
独りよがりのメタファはごく例外を除けば、詩のもつ普遍性を抹殺するもので、詩を第二芸術にしてしまう元です。
口語の中に文章語が既に成立しています。
文章語とは書き言葉→近代になって発達して来た第二言語
本質的に実証的な言葉で「自然主義者、学者、法律家、自然科学者など」によって開拓され、科学的、社会学的な文章又は政府や報道機関などが用いる散文などがこの言葉で書かれている。
日本語もこのような傾向にある。現代詩は現代死語と呼ぶべき一連の文章語を屈指している。物事の外面を書くのには適していて内面を書くには適さない事は自明である。
しかし、文章語で内面を書こうとするので無理なレトリックというか造語にすらならない暗喩に彩られるのではないか。詩人以外興味を示さないような言い回しのオンパレード。そのような詩は詩ではなく、独白以下である
ポオのように緻密に組み立てるのも一つの手であろうし、構成を考え上、一気に感性に委ねて書くのも一つの手だろうとはおもいますが。
ロジックの裏付けの無いメタファもどきは単なる独りよがりであることを留意すべきです。
安藤元雄の「詩の初心」をめぐって と題するエッセイの中で 山本太郎ー「スサノオ」などで有名ーの東京新聞に書いた現代詩に対する批判、山本は現代詩の病弊としているが「詩壇の詩、同人誌の詩にはびこる三悪ーワカラナサ、オモシロクナサ。ナガッタラシサーつまりヒトリヨガリ」を指摘している。この方法でしか表現できないというものもあるかも知れないという理屈もなりたつ。しかし、」それはその表現のための語法書法用語の選択など根底から見直さずに怠惰にしているものの屁理屈に過ぎないとも言えよう。
決して自己正当化には成らないと安藤は指摘するが、他方別の怠惰を正当化する可能性もある。
としています。
読み手を選ぶなどというよまい言をいっている人もいるようです。
しかし、読み手を小ばかにしたものに何の芸術性があるでしょうか。
音楽において聴衆を小ばかにしたものは120パーセントあり得ないし、絵画も同様である。一部下劣な評論家がうぬぼれて芸術の受け手をばかにしているだけです(芸術作品を発掘、紹介するのが批評家の役割だ)。そんな批評を前提とすれば芸術何ぞは一握りの知ったかぶりの持ち物になり、普遍性は獲得できない。詩は宗教上の神に対する特殊言語ではないし、秘密結社の暗号では無いのだから。
※詩作する者は自らを過去の基準で評価してはならない。評論論評など過去の基準で論評するものです。創造的評論家が出れば別です。
芸術としての詩を標榜する以上ね
私は常々反詩的な平明さの中に anti-poeticにより内面的な深みを表現することが課題と考えてきました。つまり、芸術に要求されるのは 時間的普遍性と空間的普遍性をもち かつ感動を与えることだと考えてきました(感銘力ある詩)。全く普遍性のないものは独り言だと考えているわけです。
少ない言葉によって言葉の外側にある感動を人に与えなければならないと思ている。(感動とはいっていますが、感心する程度のモノも含みます)
そのためには 現段階では何でもないような情景を詩にすることが必要であり、そのための修練も必要です。
単純さと平明さの中に(もちろん言葉も語法も含めて)内面の世界と現実世界の自分との合一が一瞬でも出来れば と思って書く必要があります。
と考えています。
※一つの目安としての目標はロバート・ブライの「トウモロコシ畑にキジを撃ちにきて」の世界です。