サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(250) 連座 萬草庵 参軒目(237) Youtube配信スレ(301) ながしそうめん10軒目(102) 全自動一行物語シアター(755) 谷川俊太郎さんの好きな詩について教えてください(6) 雑談スレッド7軒目(625) ことことひとこと。その2。(886) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(94) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] 参照先不明 sage 「触手の条件」。いや、まじで。ろくろっくびの首は白くて細くてやわかくて長いけど触手っていわないやん?先っぽに首がついてるからってだけではないと思う。あれだってちゃんと何かに触ったらざらざらしてるとかすべすべだとか温かいとか冷たいとか分かるだろうに。昆虫の触角、あれはけっこう硬質なものだから(なにしろ外骨格)触手とは違うってわかるのだけど。 同様の課題として「鈍器の定義」というのもあるな。うむ。ルルイエとなく秋の虫は風情だがもしテケ・リ・リと鳴く虫が現れたら野原は静まり返ることであろう。いろいろな意味で。 sage 「廃人がポツリとつぶやく部屋」没ネタ>「触パン」。手で持たずに食べるパンもそうそうはないが。触パン一斤、6枚切りかな。フレンチトースト。 題名だけのスレッド没ネタ>「触手の海」。しかして海に触手は、海に触手は余りにも普通なのであった。なぜだろう、海にばかり。 sage 触診という言葉がありますが、なんか、こう、他にも、だんだん、違うものに思えてきて。触診はあくまでも触診であって触手診ではないはずなのですが。触震とか、触前酒とかも。 by 小池房枝 消して書き消しては書きも二週間。人通り乞う。ひとでなくても。 #ここがどんなスレッドかは前書きの通り。カタコトたち、永久保存とも思ってないですけどどうせ消しちゃうんだから言い捨て御免というつもりもないので流石にたまにはageてみます。 by 小池房枝 sage 初音ミクは実は本名、初音未句で妹は初音未詩、従兄弟に鏡音独白とかいるのであった。嘘だけど。 by 小池房枝 「誰にも読まれない覚悟」で書いてみやがれ。 #なんか乱暴な口調で書きたかったのsage by 佐々宝砂 sage リス園のツチノコの正体は巨大化したモルモットだそうです。 #自重でつぶれて扁平になったのか。 by 小池房枝 >>261 なぜドリアン、突然ドリアン、つながりが、やっと見えました。 そんなばかな!そんなバナナ!そんなドリアンな!だったんですねー。 考え続けていたわけでもないのに湯船の中でふっと気がついて あっそーかーとユリイカでした。 #ちなみにドライバナナも袋のままです。これはまぁ、きっとばななちっぷす。 by 小池房枝 おお、誤解だった。いやしかし誤解を思いつくのもまた楽しきかな。 実は大外れ大得意な小池です。 ユリイカ温泉は古来各地きっと五階建ての建物なのでしょう。 #ドリアンってそうなんですか。木の実と果物の境目ってその辺にも引けるかも。 by 小池房枝 sage 「はじめ人間ギャートルズ」のEDテーマ曲を思い出したです。 #生まれた〜生まれたぁ♪なにが生まれた〜星がひとつ〜暗い宇宙に〜生まれ〜た〜♪ by 佐々宝砂 作文ごっこ作文大会。作詩ごっこ作詩大会。 作詞という言葉はあるけど作詩という言葉はないね。作るものではないからなのかな。 作詞家とか、音楽家とか批評家とかいうけど、作詩家ってまだ国語辞典にとられるような言葉ではない。現代用語の基礎知識にでもあれば面白いのに。というか現代用語の基礎知識やイミダスなんかの中扉ごとに作詩家が執筆した詩のページとかあれば詩人の雇用促進になるのに。「ゲノムのポエム」とか、交響組詩「惑星以外」とか。 科学ジャーナリストじゃなくて科学ポエマーだね。化学のポリマーみたいだ。 by 小池房枝 ではねたフィクションなら?。 # sage... by PULL. 参照先不明 近親怪女。もうすぐ半分になるところですけど題名だけのスレッド、次はスレオペ、特にやりたい人がいなかったら私しますね。 #おかわりなく? by 小池房枝 sage おお、何よりです。重荷も何もしかたもないことで近臣突入されるよりはせめても引き受けてしかるべき分は引き受けますのでPULL.さんもチーママばかり頑張らないでおくんなさいまし。 雑談スレッドデビューを果たしてまたひとつ開き直ってしまった小池より。 良いお年を。どなたにおかれましても。 sage >>436 見ているこちらが身にこたえましたですよ。私がお願いしたのはあのスレッドではないし題名だけのスレッドとてもそれこそ私のものでも誰のものでもないものを私がお願いしたという言い方はおかしいわけですがそれでも肝苦しいと書いてこういうときチムグルシヤッサと沖縄では言います。チムグルシヤッサでした。 さておき来年、もうすぐ新年、どうぞ心おきなくご活動くださいますように。 #お休みしてる間にとろつきさんや北村さんにすっかりリードされてしまいましたでしょう?お二方大活躍でしたから。 by 小池房枝 # >>435 # 責任を取るならまず自分からでないと意味がないので、 # ああいう形になったのですが、 # それで対外的に何か意味あったのかどうかは解りません。(笑) # やり過ぎたり言い過ぎた場合退会などではなく、 # ああいう責任の取り方もあるという「見せしめ?」にはなったかもしれませんが、 # 他のひとがどうのというのではないですし、 # やっぱりいつもの通り「無風」だったのではないかと。(笑) # # こちらを見ておられる方も見ておられない方も、 # やり過ぎずほどほどゆるいよいお年を!。 # sage... by PULL. おむすびころりんかかりむすびん。花が咲いたよ。花咲きけり。 花ぞ咲きける。指し示し。ああほら花が咲きました。 花なむ咲きける。念を押す。ねぇねぇ聞いてよ、花が咲いたよ。 花こそ咲きけれ。取り立てて、あけてびっくり玉手箱。 花や咲きける。あらまぁあなや!花か咲きける。咲いたのは花か! 同じく強調、強意といっても、それぞれこんな感じらしい。 by 小池房枝 参照先不明 sage 脱字ってことばの脱の部分ってなんか見てますと脱肛とか脱腸とか連想しちゃって脱税とか脱稿とかはあんまり思い浮かばないのでした。脱衣所/脱字所の話は/作品?は一度は既出でしたし、あ、でも、更なる期待。 by 小池房枝 先日めでたくも「文字の歴史 ヒエログリフから未来の世界文字まで」スティーブン・ロジャー・フィッシャーを読了したので今度は「羊皮紙に眠る文字たち スラブ言語文化入門」黒田龍之助を読もうと思っています。でもその前に他の図書館本が 不覚暁 読むべき本の十四、五冊 なのですが。 by 小池房枝 「ロシア語のしくみ」は入門書中の入門書でしょうにユーさんには易しすぎるのでは・・・。「文字の歴史」はとてもよかったです。特に東アジアについての第五章は事情を知ってるだけに手にとるように笑えて。「羊皮紙に眠る文字たち」は作者の黒田氏が、もしかして師事してらしたのかわかりませんが私にとっては一連の千野栄一本を思い出させてくれる文章を書く人なので借りてきたのです。大学がとか専攻がとかでなくただほんとに予備知識ゼロの立場から(つまり私ですが)言語学に興味のある方には町田健等よりも千野栄一をおすすめしたいです。 #いっそつっぱしっちゃうお方にはマリナ・ヤグェーロを。 by 小池房枝 むこうずねのお見舞い。どなたも足元にはご注意を。 http://sf.lovelove.jp/horror/mania.cgi by 小池房枝 先だって読んだ西江雅之の「自選紀行集」にあったのですが、スワヒリ語的にはシマウマはむしろシマロバというそうです。うーん、わかりません。名詞のカテゴリーか何かのことでしょうか。国境について、境界線は共有線でもあるのだと、そんな一文もありました。ああ、そうか。水平線はさておき汀線もまた、海そのものも。 by 小池房枝 参照先不明 参照先不明 なるほど、不二家の店先にベコちゃん。フレッシュなミルクとバター。 #焼肉屋の店先にベコちゃん、フレッシュな・・・。フレッシュな牛タンと、ではボコちゃんは? by 小池房枝 自意識過剰が目立つのは寧ろ独り言より会話やそれこそネットならRTやらにおいてでは、と思ってしまいました。自意識過剰ってあくまでも相手があってこそなのだろうなぁと。 #フォーラムには人間しかいなくてさびしいです。言葉たちのほかには。 by 小池房枝 知ってると思っていたことと違うことが起きたら、それは知ってたんじゃなくて信じていたんじゃないかな。 by 佐々宝砂 参照先不明 ちくま学芸文庫の宮本常一「日本文化の形成」、下巻まで読み終わりました。遺稿集に講演のテープ起こし原稿を合わせたものなので話がずいぶん重複してるのですが、おかげで同じこと少しずつ違う形で何度も聞けて、私にとってはかえって分かり易く有難いことでした。情報とか、表現とか、あまりタイトでないほうがいいこともある。冗長さにも利点がある。遺伝子なんかまさにそうなんだろうなぁとも思われたことでした。 by 小池房枝 sage いつだったか、これを読めば/飲めばあなたの記憶力がみるみる良くなる、という本だったかサプリメントだったかの広告かCMを見かけたのだが、記憶力をみるみる操作されたりはしたくないなぁ。 >>800 記憶力の話追記。今から思えば「アルジャーノンに花束を」と「くらやみの速さはどれくらい」は対になる作品だったのかもしれない。施設内外を問わず、たくさんの、大勢のアルジャーノンたち、じゃなくてアルジャーノンはネズミのほうで青年の名はまた忘れてしまった。ああ、そう、チャーリーか。大勢の、チャーリーたち。 by 小池房枝 わたし電信柱にぶつかって「あ、ごめん」って言っちゃったことがあるよ。相手が電信柱だってのはちゃんと分かってたのですが。 #芝生広場でごろんと大の字して地球をおんぶというのはどうだ?ちょっと腰、傷めそうですけど。お仕事、お体大切にがんばっておくんなさいまし。腰に来ることも多かりましょう? by 小池房枝 参照先不明 #バチ、即ちメバチが当たります。抽選で。 #http://www.weblio.jp/content/%E3%83%90%E3%83%81 #嘘ですごめんなさい。 by 小池房枝 よそスレッドで注意を受けましたので改めて紹介文を書き添えます。以下、 ネットで調べもの中、こんなHPを見つけました。 http://starscafe.net/kotoba/misuse/ なかなかに読んで楽しく面白く、また実はフォーラム中のとある表現について「え?これ××の間違いじゃないの?」と思っての調べものが実は私の方が勘違い覚えだったという顛末付きで、なかなか皆さんにも広めたいと思い此処に置く次第です。 by 小池房枝 sage あははー、孤蓬さんが867に☆下さいましたか。 867で紹介したリンク先のtopページには「注意点」とてして前略以下 >>身内や知人にならまだしも、赤の他人に――たとえ親切心であろうとも――指摘されて感謝が先行するとは思えませんから、話の種くらいに使うのが得策かと以下略、 とあり、笑ってしまったのでした。感謝されようなどと勘違いしてなくても(感謝する気持ちが大事と連呼することが大事と勘違いしてる方もおられますが)誰にでもある「曲げられない自分」部分はそう簡単に曲げられるものでなく、例えば語感であれ、見栄であれプライドであれ、苦労が絶えない世の中です。 by 小池房枝 sage another よりも other person または someone のほうが自然な気がします。another を使うと、別の同質の者、というニュアンスがあり、(嘘つきに嘘つきと言われた)他人も嘘つき、という意味合いが言外に加わる気がします。someone や other person なら他人が何者かについて、より中立的な印象を読み手に与えることができると思います。 なんてことは彼方に書くとスレ違いなのでここに書きます。多分皆様、彼方の愛読者なので。 それと、自信ないです。検証をおすすめします。私も検証し、誤りなら訂正します。 #指摘って、しんどいですね。ドキドキ。 #>>874 #やはりここに書いて正解でした。もちろん最終的な表現はお任せします。 by 深水遊脚 参照先不明 参照先不明 参照先不明
馴致はしても家畜化はせずにいたいものです。仮にヒト社会がある種の動物園だとしても。あともちょっと飼い慣らしたい。自分で自分を。 猫がやってますよねこれ。エサだけは貰いに来るクセに絶対触らせないノラとか。 馴致と家畜化ってたぶん別なことですよね。動物園の動物は自然圧力から逃れてるわけだけど、馴致されてるとは限らないし、家畜化されているわけでもない。私は自然圧力を避けて生きられる状態イコール家畜化とは思っていなくて、だから人類の自己家畜化説にはちょっと懐疑的なんです。自然に戻れない状態に品種改良された動物(カイコなど)を家畜動物と呼ぶなら人間って確かに家畜なんですけど。私のなかで家畜の定義がさだかじゃないんだと思います。 馴致、多分じゅんちって読むんだけどヒトにとって飼い馴らすことが出来る動物と出来ない動物がいるんだって話を読んだことがあります。家畜化ならびに家畜の定義って何?って思ってしまった。前者の代表的な例はイヌ(イヌ家畜かしら?)とかウマ(まさか食肉用かしら?)とか。後者の例にあがってたのはシマウマで、シマウマ凶暴(だそうです)。動物園で飼育することは出来ても馬車をひかせたり人を乗せてくれたりは絶対にしないそうな。 #スレ渡り。ひとは自分たち同士で馴致しあったんだろうかまだ途中か。 わんわん。 イヌから見るとニンゲンは「なんでこいつらこんなに”臭弱”なんだろう。さっき誰がここ通ったか全然わかんないでやんの」って思われてるのかしれません。 ネコはネコでニンゲン見て「こいつら”触弱”じゃん。ヒゲなくちゃ狭いとこ歩けねーだろ」とか。 以下、ツさんが書かれたことと話題、ずれちゃってたらごめんなさい。 今の宇宙を、時間と空間とを、いろんな感覚器と受容器官と意識と認識でニンゲンのみならず生物だけにも限らず未生のものも含めてあらゆる存在で重なりながら受け持ち分け合ってるってイメージがあります。私にとっては、「世界」という言葉。 にゃふ。 わんこ一般も、ついでにうちの実家の犬さんも、そうだと思われます。 昔は、犬は色盲だとされてましたが、どうもある程度の色覚を持ってるらしいとゆーことがわかった、みたいな話をきいたことがあります。 さておき。一般的に、昼行性のいきものさんは色覚を持ってて、夜行性のいきものさんは色覚がないことが多いとか(あと。浅瀬の魚貝類さんには色覚があり、水中の深いところの魚貝類さんには色弱色盲が多かったり)。色覚の程度はそのいきものさんの生活環境にある光具合に対応してる場合が多いとか(もちろんそーじゃないことも)。 それと関係あるかどーかしらないけど、ええと、なんか犬や猫さんにもビミョーな色覚はあるみたいですにゃふ。 色についての話、お話、以前からたびたびしてらっしゃいましたね。”色弱”の犬さん、犬が一般に、ということでしょうか?それともツさんのうちの犬さんが? #でがけですので、また・・・。 色、について考えてみる。 うちの色弱の犬はたぶん、当たり前だけれど、、赤が、ぼくと違う淡い色に見えてる。。 や、色弱とゆうか。たとえばまあ色覚を担当している、目の網膜の視細胞の、すいたい細胞の、、ええと 仮に赤の波長の光に反応する細胞の数が先天的にちょこっと少ない人と、ぼくとでは、やはり、同じ波長の光(赤)が少し違った色に見えるだろう。 もちろん、ヒトは主に感光色素を持つ3種類のすいたい細胞で、3原色的な強弱のバランスの中で可視光線を色として処理しているわけだから、赤だけじゃなく、青や緑の光に反応する細胞の数や感度によっても、相対的に色具合は左右されるわけだけれど、あ、こまかいことはいいかも。 で、ぼくやうちの犬やそういう人の赤や緑や青の波長の光に反応する、すいたい細胞の種類だとか、個数だとか、感度だとかをまったく同じになるよーに操作したとしたら(技術的に可能かどーかはさておいといて、、)、 ひいてはうちの犬も、ぼくも、すいたい細胞の数がちょっとばかし少ない人においても視覚世界、色世界を可能たらしめている光の取り入れ口である?目?という感覚器の諸条件をまったく等しく同一に揃えることに成功したとしたら、きっとうちの犬なんかも赤とオレンジの違いがはっきりくっきりとわかるよーになるかもしれないし、 だからといってぼくとまったく同じに高度に複雑な色を見分けられるようチューンナップされたうちの犬の目に、ある特定の波長の赤い光が、ぼくに見えているのと?同じ赤?に見えているのかとゆえば必ずしも、そうだ、ともいい切れないところに色問題の本質があるのだけれど、、 いちおう、目の条件、及び脳に至る神経節細胞以降の諸条件までそれぞれまったく同一に揃えた場合、とりあえず皆?同じ波長の光が、同じ色に見える?と、そう仮定した場合、この仮定は、?どこかに一つの客観的な世界がある? みたいな方向にも行きかねない危うさ?を孕んでいるというか、示唆しているよーなきがする。 私は歩く。歩く、ことの主体/主語/主格の「私」。 サブジェクトのサブってサブマリンのサブなんだそうです。サブスタンスのサブ。サブジェクト、オブジェクト、プロジェクト。歩く、という行為/宣言に隠されてそこにあるもの。歩く、という現象を託されて、歩く、に投影されてそこにいたもの。 #宇宙はきっと今、面映いというか何かとこそばゆくっているのではないか。いわば自分の一部のそのまた一部分が遙かまでを見通すつもりで転ぶほどに己が背中を振り向き振り返り見届けようとしてるわけですから。 私は右目と左目で色の見えかたが微妙に違うので、子どものころから人によって色の見えかたって違うんだろうなあと思ってました。また私のオットは色弱で(色弱って言い方嫌いだけど通じやすいので使います)、当然のことながら私とは色の見えかたが違います。でも二人とも信号機の色を認識できるし、紅葉を楽しむこともできる。感覚的なものが多少違っても共通認識はありうるわけで、そういう共通認識は知と言ってもいいんじゃないでしょうか。ま、共通認識が間違ってる可能性は常にあるわけですが。 朝がきてつらつら思うに、ゾウリムシだって記憶があるのだからゾウリムシだってなにがしかを知っているってことなんだよなあ(詳しく知りたいひとはぐぐってね)。ゾウリムシより複雑な猫だの犬だの人間の赤ちゃんだのはもっといろいろ覚えることができて、つまりいろいろ知ってる。 #で、何を言いたいかってこれはお出かけ前の覚え書き。 小池さん!(^^)v いいねぇドーナツ型♪ 満月故かよるひる逆転うさぎになり候…小池さん発言に触発されて出てきてしまったなりぃ、ダダット。 すみません、こういう話好きなもので突っ走ってしまって。こんな風に全力で雑談できる機会もここでは久しぶりなので。地球って、平らかと問われれば丸いですし立方体かと聞かれれば球ですしそれならつるんつるんかと言えば凸凹してるしほんとにほんとにほんとに球なんだなとしつこく食い下がられたらああわかったよもちょっと厳密には確か下半身太り気味の回転楕円体だよとかジオイドっていうもんがあってなとか脂肪吸引みたいにして月が海水を引っ張るから微妙にいつも形が違うぜとかどっからどこまでが地球だよ地圏に限るのかよ気圏は含めないのかよとか長い目で見れば大陸がうわうわ動き回ってたり陸地の形が変わるほど彗星か何かがぶち当たることもあるし縦横奥行き含めて三次元に時間軸を入れて四次元で考えれば公転してるんだからほんとにドーナツ型かもしれないしななどといつもは一人でつぶやいております。 #今、ここは、私がいる地球のこのあたりは一月で冬で、夏は、太陽の向こう側。真夜中には足元の地球の丸ごと真下の彼方の太陽のさらにもっともっと遠く。二月へ、三月へとコロコロ転がっていくところです>地球。 [745]小池房枝[2011 01/21 18:58] まだ続く地球が丸いかどうかの話。磁力線の目で見たらまた違う形だろうしとか話をしていた相手から「その場合にはつぶれりんご吹流し形だな」と言われました。つぶれりんごふきながし・・・。芯の部分に磁場があってヘタとかお尻の部分にオーロラがかかるわけですね。おおう。つぶれりんご吹流し丸くない地球よきかな。 地球が丸いことの証明方法、ではなく、むしろ状況証拠?しかも丸いことではなく、少なくとも平らではないということの。でも地球が真っ平らじゃないなんてそんなの山あり谷あり平野ありの凸凹でそのうんと凹ってるとこがおっきな水溜りで海であってもいっかなおかしくないわけで昔の人は「地球は球体であるらしい」と「知ってはいて」も「信じらんねー」と思ってたのかも知れません。本当はドーナツ型なのに。 #[734]小池房枝[2011 01/21 00:26] #自分つっこみ。星々に対しては地球は平ら、海は平ら、でも良かったんだろうか。良かったような気もする。水平線って言うか地平線がだんだんに空へせり上がって行ってつまりいつのまにか大地が空になっている、SFでそんな光景を読んだことがあるような気もします。あー、ガンダムのスペースコロニーが実際円筒形という設定でしたっけ。 うわ、名指しされてしまいました。宜しくお願いいたします。地球を何周したところで円筒形かドーナツ型か球形かは言えないんじゃないか、について考えてみますればその通り。いろんな方向へいっせいに船を出して地図を作りながら付き合わせて行ったのでしょうか昔の人たちは。ほんとに? あと雑談の続きとしては、地球が平らかではない、おそらく球だという考え方は割と昔からあったようで、えっと、誰かが離れた2地点で同時刻にそれぞれの井戸に落ちる影の角度から地球の大きさを計算したという話が有名ですが、日常感覚からも水平線におっきな船が見えてくるときにはまず一番高い部分から、とか、月蝕のとき月が潜り抜けるのは地球の影なわけなんですけどやっぱ丸いみたいよとか、水平線の果てにはとりあえず滝はないとか地球の反対側の人も空に落っこちたりはしてないようだしとか、月も太陽も丸いし、あいや、じつは月も太陽も球じゃなくて円筒形の底か天辺かどっちかだけが見えてるともいえるわけですが月の模様や肉眼黒点とか観察してるとやっぱ球形みたいだしとか、あと、ミクロネシアとかポリネシアとかメラネシアとかで星だけを頼りに遠方に航海していたような人たちは、なんていうのかな、地球儀上での「まっすぐ」の意味をちゃんと知っていたんじゃないかなとも思います。地図の上でのまっすぐと違いますでしょう? わき道にそれます。地球が丸いかどうかという話。船で、えんえん西なり東なりに向かって、あるいは西とは何か東とは何かと問うのであれば日の沈む方向なり日の昇る方向なりに向かってまっすぐに航海を続けるとします。まぁまっすぐの定義はユークリッドさんににでもお願いするとして、お日様もとりあえず期待していい程度には気まぐれでないとして、此処のこの話はあくまでも雑談だとして、つまりまぁそんな航海を続けると出発地に戻りますよね。水平線の果てで海が滝になって果てていたりはしなかったわけです。地球が丸いことの証明。かと思いきやこれって実は地球が球形じゃなくて円筒形だった場合にも成り立つのでした>ぐるっと一周。ましてや地球がドーナツ型だったりした場合には縦方向にも横方向にも。以前に宇宙幾何学(?)かの本で読んで、まったくだと思って笑ってしまったのでした。 ものの名前は確かに知ってることのような気がする。カタバミ。ニンジン。ヤスデ。猫。わたしは誰かに教わったからそれらの名前を知ってる。いつ誰に教わったか覚えてないけど。保育器のなかにいた赤ちゃんは、もうわたしの声を知ってた。胎内で聞いてたのだから不思議はないけど不思議だった。 ああ、そっか、知ってると思わなくても知ってることありますね。知ってるって思ってても知らないことがあるように。 あとあれですね、知っているのか知っていると信じているだけなのかという話をするなら命題についての話なのか受け止め方についての話なのか等々を分けないと。命題についてなら、知ってるって即ちそれは真である、という意味なのでどの範囲でなら言えることなのか条件をはっきりさせること。今生の宇宙が終わったあとまで地球に朝は来ますまい。ひとの受け止め方についての話なら、そう、きっと信じられなくても知ってたりすることもありますし、あと知ってるとか分かったとかそうじゃないのに人がそう思っちゃう時ってどんな時なのかとか、そういう話もできますね。 #「題名だけの詩のスレッド」も賑わってほしい。せめて「萬草庵」と「ながしそうめん」ぐらいに。 やぁ、突然にぎわうケータイ優先スレッド。知っていると信じていること。信じているだけだと知っていること。 だけどやはり私にとって知っていることと知っていると信じていることとは別物で、この感覚は省みてある種の訓練というかそういう教育を受けたときに自分の性に合ってしまってそのままそれが自分の思考のクセになってしまったものみたいなのだけど、何かから言えることと言えないこと、何かからわかることとそれだけではそうとは言えないかもしれないこととを何時でも区別して考えようとする。 知りえないこと、知らないこと、知ってるって思ってるだけで本当はどうかわからないこと、そういう有象無象の中でほんの少し、ほんとに少しの知っていることと、それらを知っているということと、だからこそ大事にしてます。 疑うことが可能か、疑いが許されるか(どこまで許されるか)、それによっても違ってくると思うのです。単純に「知っている」と「信じている」の違いを無化することはできないでいます。 「知っている」って「知っていると信じている」ことなのかもね。 根拠や理由があっても間違いはあるよね。 科学史をひもとくとそう思う。 知ってると思っていたことと違うことが起きたら、それは知ってたんじゃなくて信じていたんじゃないかな。 何かが思ったことと違うとき 信じていた場合→裏切られる 知っていた場合→混乱する 違いは微妙。そもそも分解できるか分からない。確かなのは私の場合、どちらもしんどい。 #>>720 なるほど。分解出来ないわけだ。 知ってると信じてるの違いってなんだろうな。きっと本質的に違うんだよな。私は知ってる、私がいつか死ぬってことを。 私は何を信じてるかな。朝がくれば日が昇ることや止まない雨はないことやひとつひとつの星のことなんかは、私は信じてるんじゃなくて知ってる。 あー、反、忘れてました。ありがとう。あら、でもちょっと違うかも。 非や否や不や無や未よりももちょっと反は積極的かも。 正負の負のほうのように。真偽の偽の場合のように。 私はいろんなことを信じている。蛇口をひねれば水が出ることや、一錠の白い薬が私を安定させることや、抗生物質の点滴が感染症を治癒させることを信じている。明日がくることも信じている。晴れた夜なら星がみえることも信じている。星のひとつひとつがこことは違う地平を持つと信じている。私はとても信じやすい。 小池さん。 反くらいしか思い浮かばない。 非と否と不と無と未とあと何か。 擬音語・擬態語。四つの法則。賢治自身は”自分の独特”を法則でやっていたわけではないのだろうなぁ、とは思いました。ただ文字に写して/移していただけではないか。ものごと、モノとコトと、自分に聞こえて、見えているとおりに。後から分析してみれば四つのやり方に分類できるって話だったのかな。何だろう、妖怪とか、お化けとかの分類に、既存の、普通のものの過剰、過少、倒置・転位、異種組み合わせ合体、というのがあって、それぞれ例えば三つ目小僧だったり、一つ目小僧だったり、手のひらに目玉とか鵺とかなのですけど、似てるなって思ってしまいました。何かを材料に新しいものを作るときにとても大きく共通するやり方なのかと思いました。作る、ということは材料あってのことなのかもしれない。生むのとは違って。 しばらく前に詩と散文を作る手段全般のスレッドで、物事?や作品に対して「好き・嫌い・どうでもいい」という分け方についての話があって、そのとき思いがけず自分について気付かされたこと。その「どうでもいい」グループが往々にして自分には苦痛だっていうこと。「どうでもいい」であるべきなのに、クールに、或いは温かい目でスルー出来て然るべきことなのに、しんどい。「嫌い」なのとは違う。しんどいので「嫌」ではあるかもしれない。ああ、だからテレビとか見てられないんだなと、発見でしたが、わたくしごとなのでこっちに。 #何ゆえなのか、当事者にとっては重要なこと/作品なのに此方はそう思えないことが申し訳ないとか、送り手?自身の作品に対する「どうでもよさ」に言葉や作品や時間が可哀想だと思ってしまうのか、あんた何様?>自分。ってなものですが、兎に角つらいのです。 うんと久しぶりに自分でコーヒーをいれてみた。いつ買ったか分からないくらいのコーヒー豆をハンドミルでひき、1人用のドリッパーにフィルターを水で貼付けたそのうえに投入する。ドリッパーの下には特売で投げ売りされていた安物の急須。器具は不完全でも手順は基本を守る。あらかじめマグカップに水を入れ、電子レンジで1分間チンする。そのお湯を急須に入れて急須を温め、ドリップの直前にお湯を急須からもとのマグカップに戻す。レンジでチンしている間にすでに温まっているマグカップの熱を、こうしてコーヒーを注ぐまで保つ。 さてドリップを開始。最初の1回目のお湯は豆を蒸らすためのもの。注ぎすぎぬように、かといって小心になりすぎ蒸らすに足りない量にならぬように。豆のどのあたりにどれくらいお湯が染みたかイメージしながら注ぐ。均一に注げたらそこから1分弱待つ。この1回目がうまく行けばあとのプロセスは大胆に行って構わない。ドリッパーから溢れない程度のお湯を何回かに分けて気楽に注ぐ。飲みたい分量のコーヒーを抽出できたら、なお数滴落ちるのを待ってドリッパーを急須から離し、急須の蓋を閉めて準備完了。マグカップを温めていたお湯を捨てて、そこに急須のコーヒーを注いでは飲む。気分をゆったりとさせてそれを繰り返す。 古い豆に錆びた腕。もっとまずいものが出来るかと思っていたが、案外うまく入った。少し不快な雑味があったが、まずまず濃厚。深いりの豆の焦げたにおいと苦味、そこに隠れたかすかな酸味が一口ごとに時間を置いて現れ、楽しめた。 飲みながらいろいろ考えた。仕事上の段取りのまずさ、一つひとつ家事を、やれば出来るくせによく出来た妻についつい任せてしまう自分、いまは行く機会がなく足が遠のいたショットバーの、大量の注文を捌きながらも美しく仕事をし会話もするバーテンダーのこと。食べ物ネタで少しだけふれた小泉武夫氏の、味の表現を通しておそらく強く伝えようとした何か。 沼底に帰られましたか春までを氷の下で寝てすごされませ #はみだしながしそうめん。 [710]小池房枝[2010 12/04 00:02] #9月に読んでいた本からの書き抜き。手書きじゃないけど、活字ページをスキャンできるわけでもなくぱちぱちとメモ帳に打ち直しておいたもの。 引用:私たちが銘記しておくべきことは、ある有力言語の普及には他者の言語的人権を脅かす側面がついて回るということである。特に歴史的に母語が脅かされたことがなく/少なく、母語以外の自国内公用語の必要もなかったという場合、このような言語権の問題に鈍感になりがちなのである。引用終わり。 #上での意味合いとは違いますが、ある意味、ひとは誰もが自分だけの母語を持っているとも言えるでしょう。さてその上で、例えば心の中とか家庭とか日記以外の場所で、誤字脱字誤用誤表記タイプミス等の指摘は指摘されたほうが言語的人権を脅かされたと主張するのか指摘せずにはいられない処まで追い込まれている側がそうなのか、と読んだとき思ったものでした。直接に今何か/何方かのことではありません。念のため。 「あんただれや?」「わたしだりや・・・。」大船植物園にて。 #昔に花の本読んでいて、原産地ではダリアは種類によっては高さ30メートルにも及ぶとあって、30メートルはないだろう30メートルは、何の間違いだ、とその時には思っていたのですけどあれもしかすると3m or 300cm の誤植だったのかもしれないです。それとも本当に30メートルになるのか。植物園で一番高い木、モミジバフウがそれくらいだと説明にあったが本当に本当にその辺のメタセコイア、アケボノスギより高くなるのか。 #テイオウダリアの黄色バージョンを見て驚いたのでした。でっかいイヌキクイモな感じ。 きみは多年草のタネを植えたね? そうだね。 でももう冬だよ? だからきっとタネたちもう寝たね。(no.710より) あれ使ってたの柳田だけだっけ? ミンナツカッテルヨ ワカリキッタコトキクナヨ ワカリキッタコトカクナヨ クウキヨメヨ 普段詩を特には読まない人に自分の詩を読んでもらえる機会があった。「此れ詩かなってとこはあるけどいんじゃない?」とのこと。何ゆえ此れ詩かな、かな?何故ならば私それよく言われるのでと問えば「詩とエッセイの中間みたいよ」との答え。納得。逆に普通に書いた文章で今度は詩人ですねぇとか言われちゃったりもするわけだ。つまり何書いても私は私だ。よし。 #よしなのか?いいのか自分? #いいんだ。詩であろうと何であろうとしようと思ったことができているかどうかだけが問題だ。 変態は大切な営みです。その変態に完全変態と不完全変態があることは知っていましたがしかして不完全変態にもまた半変態と小変態があったのでした。いろいろなことがそうですが、変態もまた奥深いものです。 #半変態はトンボなど。ヤゴからサナギを経ずにトンボへ。また小変態はバッタなど。脱皮のたびに少しずつ大人の形に近づいてゆく。 押し花絵、というのがありますよね。押し花にした花びらを材料に組み合わせて重ね合わせて貼り合わせて絵を作っていくあれです。そこで私は考えました。これからの季節、くっつき虫セーターというのはどうでしょうか。くっつき虫をセーターの胸か背中にぎっしり、絵や幾何学模様に埋めていくのです。少し重たいかもしれませんが、世界にたった一つであるのみならず、その日一日だけのあーとです。 #友人知人に出会うごとにハグしてちくちく攻撃です。 信じられる大人、は別に探していなかった。 ただ、さんざん本を読む中で、信頼できる著者かどうかだけはいつも測って来た。 #何を語るか、何を語らないか、どう語るか。例えば言語学者であるなら母語、母国語、国語、公用語といったタームに無自覚なままの文章だったりしないかどうか。 言語はインターフェイス条件への「最適な」解である、だそうだ。生成文法理論において各言語各構文ごとの個別的な変形規則は最終的には Move α つまり「範疇αを移動せよ」という一般原理にまで還元されるという。 詩の書き方も、結局はこれかも知れない。品詞やテーマやレーマや語順や意味やテンスやアスペクト、言葉に付随する何もかも、Move α つまり「範疇αを移動せよ」と、規則内ではなく規則外でのメタ規則な移動をすることで生まれるのが詩なのかも。 #ああなんんだ、異化作用っていうんだね。ちゃんと言葉がありました。 sage さびしいのか>自分?というような気分の時には例えばRT会議室にでもさびしがりに遊びに来なはれ、と思いきや既にいらしてたので笑ってしまいました。 さびしがるというのも、誰かがいないと出来ないことですね。反応があろうとなかろうと、そこに誰かがいてくれると思えればこそ。 先月図書館から借りて来ていたままだった「現代言語学の潮流」と「方程式四千年の歴史」の二冊。先日、同時に代わりばんこに読み始めた。こういう読み方がまだできる自分に呆れもしたが安心もした。で、先ほど「方程式の歴史」のほうが先に終わった。同時に読み始めたところで同時に読み終わるものではないのである。 #最後のほう、五次方程式に解の公式が存在しないことの証明、という章に(編集部注 難しいぞ!)とあったので笑ってしまいました。いやもう五次を待つまでもなくとっくについてけてませんてば。 五次方程式に解がないわけではないが、解の公式は存在しない。では逆に解とは何か、解の公式が立てられるとはどういうことか、というような話だったのですね。ついてけてなくても面白かったのでした。 自意識過剰が目立つのは寧ろ独り言より会話やそれこそネットならRTやらにおいてでは、と思ってしまいました。自意識過剰ってあくまでも相手があってこそなのだろうなぁと。 #フォーラムには人間しかいなくてさびしいです。言葉たちのほかには。 独り言が多いのは自意識過剰とかでなく ただ寂しがりか すでに寂しいか なのか と思った 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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