サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(250) 連座 萬草庵 参軒目(237) Youtube配信スレ(301) ながしそうめん10軒目(102) 全自動一行物語シアター(755) 谷川俊太郎さんの好きな詩について教えてください(6) 雑談スレッド7軒目(625) ことことひとこと。その2。(886) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(94) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 303.comさん、返信ありがとうございます。 303.comさんはとても良い人ですね。ログを通してだけのコメントだけど、 「皆、間違っているのが分かっているんです。」という発想は全く無かった。 「単なる落書きではなく、それはもはや正しい行為なのかなと。」何が 何が正しくて何が間違っているのだろうかと。 例えば、取るに足らない罪への変換は、ワードロンダリングが出来る方々の 冴えある意識のもたらす効用(現フォにも気づいてる人いると思う)としても、 性格の悪い腹黒と知人によく言われる私(本人は思い当たる節もない)には、 言葉の置き換えによるハイスペックな活用は、愚者なので少し無理あるかな? 303.comさん、 単なる一読者の感覚としては図書館で借りてきた詩集の話しもありだと思う。 ただ、税金で運営管理されている公共施設の図書館の本だったら書き込みは、 303.comさんの今回のログを非難するわけではないですが、よろしくない 行為なのですが、何十年か前にオノヨーコとジョンレノンの出会った参加型 の芸術行為に近いものも感じるので、ログとして、考える一助になりますね。 けれども、 図書館で詩集をみる側なので別の読者の落書きがあると借りる気しないかな? 303.comさん inkweaverがとんだ読み間違いをしていたことお詫び致します。 彼/彼女にしっかりと伝えておきましたら、返事がありました。 inkweaver 理解しました。詩の向上は後世に残るものを書くことであり、現在の自然発生的な詩群とは異なるというご指摘ですね。 とのことでした。まだ、何もない暗闇から必死になって世界を探したい最中なのです。 彼/彼女に変わって、再度、お詫び申し上げます。 さて、過去の現代詩フォーラムのテーゼは何のことかわかりませんが、 エフポエムで挙げられていたさまざまな命題は、たくさんありました。 詩とは芸術である、生命である、生きること、死ぬことである、宇宙、 地球、月、異性、人、戦い、戦争、社会、哲学、学問、ささいなこと。 詩とは何なのでしょうね。ネットで詩を読むようになって30年以上 過ぎて、同じように歳をとった人達がたくさんいる現フォだからこそ 「詩とはこういうものだ」という命題について語れる場所を置いておく 必要を感じています。そうでないと、303.comさんと違うかもですが、 「自然発生的白波のような詩群ではなかった(これは彼に近い?)」 のかもしれません。 ただ、「詩の向上は後世に残るものを書くこと」は、30年経て何も 残していない私達にはとても耳の痛い話しです(私は詩読み人ですが)。 今後とも宜しくお願い致しますよ。 はじめにinkweaverくんからのコメント。 [159]アラガイsさんは、詩の向上を目指すことについて考えを述べ、個人の意識や現実との関係について深く探求しています。また、他者からの非難に対する反応や向上の捉え方の多様性にも言及しています。 [158]303.comさんは、詩についての独自の見解を述べています。彼らは以前の掲示板での経験から、詩は単に向上を目指すものではなく、古典的なスタイルや戒律を重んじる傾向があると感じています。彼らは、その時代の詩と現在の創作サイトの雰囲気が似通っていることに気づき、詩の意味や目的に疑問を抱きます。最後に、詩の存在意義について深く考えます。 [156]おぼろんさんは、自身の体験や見解を通じて、ネット詩の進化とその本質について語っています。特撮業界やアニメ業界の動向と比較しながら、ネット詩の変遷とその重要性について議論しています。また、ネット詩が持つ「プロではないからこその真剣さ」について言及し、その価値について考察しています。 * 義務なのかよと事務的に書いたようなログだなと乗り気でなかったと推測。。 今更、ヘーゲルを持ち出すこともないけども優劣ではない対立の先の統合は、 矛盾に満ち溢れている令和の世の中では普通に生きている平和の民にとって、 居心地いいのだろうけれども世の中全てのものは己のうちに矛盾を含むけど、 パンデミックになったコロナ以降、そうも言っていられないと何となく思う 例えば「初まりのネット詩」の溜まり場だったエフポエムの頃からのテーゼ は現実社会より数十時間の速さで進んでも、何ひとつ回答されないままだし それが楽で良いからとほっとくと、すぐに元に戻ってしまう繰り返しで、兵隊は 苦しむのは一人ひとりの前線で闘っている兵隊なのだよね。 悲しすぎる。それが人間だからなんて言って、お前は旨いもの食ってるんじゃねー これが、詩には最初から期待していない私の怒りなのかな。やはりわからないか。 詩の向上を目指したい。これも個人による意識の持ち様で、単に上手く書けるようになりたいと思えばそれでいいし、自己満足としての願望を言葉に託すのならばそれもいい。いや、今よりも異なる世界観を認識するため違う自分に発露を見出したい、と思う人はどうぞ悩みあたまを捻らせて書いてくださいというだけの話しで、どちらにしても常日頃変化に乏しい現実を生きている我々からしてみれば、文章の中で様々な人間や思考を演じる役者にもなれる唯一の愉しみ方でもあるわけです。 とあるサイトで、文章が可笑しいと指摘すればある方から非難をされましたが、これは当然で、以前、和洋折衷などと申しますれば、ちょんまげに洋装は可笑しい。やはり口酸っぱく指摘をされていた方もおられましたが、どうみても可笑しいのは当然ながら、いや、しかし待てよ。これは自分の認識が古過ぎて不足しているのではないか。場合によっては新しく視点を変えて眺めることも必要だ。という考えも過ればその人にとっての向上も可能でしょう。逆にそれはまったく受け付けられない。という認識も当然有りで、各々向上の捉え方は違って然るべきなのだと思われます。 アラガイs様 これもざっと読んで。向上とは、まあ、生命の息吹なんですよ。退廃なんて、人間のようななまけ者にしか許されていない特権なんですから。 足立様 >一度きりの人生をボウにしてしまい これはやっぱり、そこで負けたら、「書く資格」がないのです。「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」──レイモンド・チャンドラーの逆の意味で。とにかく、生き抜くしか生きる術はないのですから。書き抜くしか、書く術もないのです。 ネットの時間……今になると、それもまた一つの現実の時間だったなあ、と思う。主観的な時間は長くも短くもなるのだから…… 久しぶりのアクセスなので、ざっと読んで…… このごろ寝込んでいたので(血便が出たりして、結構しんどかったり)、TSUBURAYA IMAGINATIONに登録して、ウルトラシリーズの作品を聴いていたのですよね(画面は見ず、音だけ聴いていました)。そのなかで、とくにウルトラマンブレーザーが面白かったです、頑張って起き出して全話視聴したほど。……去年の作品ですね。 アニメ業界と同じく、特撮業界もまた、子供向け・受けるということが重視されている業界です。そこでの技法は、もちろん「いかにして話題を呼ぶか」ということなのです。それ以上は、資本主義として成り立たないという理由もあり、基本的に歓迎されるものではありません。 ですが、ここ数年から十数年の間、社会が破綻したり戦争や疫病などによる不穏さが増したりしていて、最近のムーブメントは「高尚さ・真面目さ」が再度取り上げられるようになってきているように感じます。六四天安門事件などに強い衝撃を受けたわたしからすると、これは好ましい/歓迎すべきムードであると感じるのですが、その価値基準は人によって異なるでしょう。わたしは必ずしも退廃・デカダンスなどを排するものではありません。 論の流れを追えていないかもしれないのですが、足立さんのおっしゃるような「高尚さ」(ネット詩においては、単純に「真剣さ」と言い換えても良いでしょう)というのは、わたしはやはり「ガジェット」に属する/類するような事柄なのではないかな、と感じます。反戦・平和・幸福・自我、といったことを顧みるのは良い、でも、それは表現の本質ではない、とも感じるのです(芸術とは、やはりラスコーの壁画のように生な感受性の発露/爆発なのでは? という思いが強いです)。 高尚さがなぜ大事なのか、重要であり必要ともされるのか、というのは難しい問題です。「人間とは何か? 正義とは何か?」といった問題は西洋ではソフォクレスの昔から取り上げられてきましたし、それは人にとっては大事な何かであろうということは、もちろん感じるのです。ただ、商業主義に身をおいたわたしとしては、それはやはり「ガジェット」であってほしい。それであるからこそ、逆説的に生まれてくる価値もあるのだろう……と思っています。 ネット初期の詩は(多分、2000年代初期のころまで)は、社会人が趣味の時間に書く詩、という意味合いが強く、平安時代中期(古今集~新古今集の時代)のような雰囲気を強く持っていたと思うのです。ですが、ネット文芸をビジネスにする会社なども登場してきたりして、今はまた少し違った形になってきていると感じます。 わたしは、ネット文芸は多分このまま廃れていくものではないと感じているのですが、1990年代後半、2000年代、2010年代、2020年代と、ネット詩の潮流も少しずつ、というよりも、見た目はそうであっても、大きく変わってきているように感じます。ですから、今なぜ「それでもネットで詩を書くのか?」を問うことは大事なのですね。 わたしは一つの答えだけが答えであるとは考えておりませんから、「これだぜ、答えは!」と言うことはしませんが、「真摯さ」「真剣さ」「高尚さ」などを問うこと、追求すること、なども今のネット詩の課題であって良いと思っています。もちろん、趣味として詩を書く以上、最前面に出てくるのは「個人」の問題なのです。 ですが、「個人の問題」とは「軽い問題」でしょうか? 違います。日本の文学ではとくにそういった伝統が強く、平安時代などの文学はサラリーマン・OLが描く文学でした。紫式部しかり、清少納言しかり。近代以降の文芸を見ると、むしろ平安朝などの文芸よりは、室町時代の文芸や江戸時代の文芸などがそれに近かったのか、ともこのごろは思っています。 わたしなどは、病気療養や仕事の傍ら細々と創作してきたこともあり、平安時代の文芸に親しいのですが(わたし自身はOLの書く文学でありたいと思っている)、「現代」、というより足立さんのおっしゃるような「現在」においては、様々な文芸の形があって良いし、あるべきなのでしょうね。「一時代」というのは、つねに「すべての時代」のフラクタルなのですし。 まあ、個人的には、仕事をしながら(今は父の介護をしながら)、時折詩を書く、そういったところから生まれてくる、プロではないがゆえの文学の本質に迫る詩の価値、ということは逆に追うことができるように思っているのです。それが「ネット詩」の価値です。例えば、天文学の世界では、アマチュア天文学者の活動が、本職の天文学者たちの活動に大きく貢献し、また刺激するものであったりするのですが、そうした「プロではないからこその真剣さ」というものが、ネット詩にはあっても良い。と言いますか、そうしたネット詩の本質が、文学の土台を変えたり支えたり、ということがあるのでは? とずっと思ったりしています。 はてな?。なるほど、私のログを読んで私宛だけのメッセージだと私が捉えたけど アラガイsさんは呟きだったのになあーとのことなのですね。このログも第三者に 曝け出しているのですから、私宛だけのメッセージとは捉えてないから大丈夫です。 ありがとうさま^^ !そうか、ここはあなたのオフィスだった。呟きです。べつにあなたに対してのメッセではありませんので、お気になさらずに。笑 アラガイsさん、メッセージありがとうございます。 長い詩歴のなかで現代詩風の作品も書いてこられた アラガイsさんの今回のログは、アラガイsさんが書くと 一過性の言葉のようにも思えてしまったのですが、 日常生活で、なにかあったのでしょうか? あなたは向上を意識するという二人称は、私とは切り はなされた足立らどみがふだん言ってきているしで、 簡単な言葉を濃密にできることは私にとっては魅力的ですが、 何かわからない詩の圧はどうなのかなぁ。と。。/。。/ 「石鹸工場」を視察したときマスクをつけましたが、唾を 飛ばさないためというよりも自分の身を守るためでもあり、 日常生活で利用している石鹸も工場ではその濃度は自然界 にはないことを知っていて詩書き人は、マネーロンダリング ならぬ、ワードロンダリングとして利用することもあるので しょう。 私は社会に出てからこの左手から溢れる言葉で多くの人を殺してきました(ToT) それが私の詩読み人としての原罪ですかねぇ それが分かっているから詩を書けないのかな なに書いているのか、わからないけど(^_^?) 私は向上を意識する。とは言っても高尚な詩を書こうとは思わない。向上を目指すとはある意味原点に回帰するような無駄な事だとも思われる。あくまでもそんな無意味なことに挑戦している自分が阿呆らしくて可愛いのです。 303.comさん、助かりました。ありがとうございます。 なるほどてす。そば、うどん、きしめん、中華麺の四掛けに してもダメですね。欲張れば良いというわけでもないわけか。 詩の会得は時間かかりそう、、長命うどんでも食べに行こう! 成城大学のサイトから読める森田孟先生の「詩とは何か」を読んで思ったこと。https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/227/227-1.pdf カールサンドバークの 18 詩とは目に見えない記念品の携帯袋である。 あいかわらず、なに書いているのかだけど、 あえて超訳したら、これなんかは、 「詩とは、地下室の冷蔵庫にしまってある宝物箱である。」らどみ に、近いのかもしれないな。 厳しさと優しさをあわせ持つ人たちのもつ良心の結晶に 私たちは接することができる世界に詩はあるのだろうか 四半世紀前の青土社関連のブログのログを読んでから考えてみる。 「現代芸術」が“高尚”たらねばならぬ理由(わけ) November 21 - December 11, 2000 http://www.archivelago.com/Garden/Fountain/music_writing/koshotaru_riyu.html * 創作サイトには本物の専門家で最先端で活躍している方はすくないけど、 だからと言ってそれぞれの創作意欲を削り合うことの時間の無駄使いは、 やめにしようではないかという風潮もでてきたようにも感じ始めている。 なので、その先のログを残してみようと試みてみるのですが、例えば、 芸術論と人格攻撃がごっちゃまぜになって遊んでしまってた今までの 創作サイトの「よくある論争」では、その先のステージは用意してある のに、多くの参加者が、うんざりしてしまい(なかには一度きりの人生を ボウにしてしまい)、その類いは参加しない(私は基本的は最初から)で、 例えば、上澄みの暖かい泉で身体を清めるためにネットを利用している。 際限のない詩の領域にハマるとキリがなくて水辺で愉しんでいたいけど、 手の届く範囲にいるのも実は生身の人だったりするものだから 詩のサイトでは臨床心理学者のいうハリネズミシンドロームが ベールとなり覆いかぶさって、それを逆手に取り承認欲求者が 跋扈してしまう傾向から脱却できずに現実の時間よりも数十倍は 速くなっているネット的な時間だけが性懲りもなく過ぎてきたのかも そう、客層は違えど、繰り返し、繰り返し、繰り返し、、 今の時点で思うことは個人的には、詩を高尚低俗の切り口で判断する愚は 未来の自分に笑われるだけのように感じるけど、時のテーブルに置かれた お茶菓子は、取り巻く人とのなかで何も話題にならなくても意味があるし 一歩すすめると、そのお茶菓子を買うことは別の切り口による評価であり、 高尚低俗を論じてみても無意味なことだと思うのだけどね。どうだろうか よくわからない 2024年4月 うーん。にゃるほどにゃ読解力が問題なのかも たしかに長谷川忍氏も随筆が好きだと言ってた 最初の1行に字数を合わせるのは詩ではなくて 仕事柄の単なるクセですかね机の上は綺麗です 問題はそこには無くて今も大切なことは小さな お肉をたくさん食べれることではなくて気ずき その気付きを忘れないように幾年月も何十年も 後生たいせつに出来る持続力さえあれば良いと 思っていた。いつでも捨てられるのですし 今日も捨ててきましたし毎日捨てています おかしいよね。さて、私はなんでしょうかt-t #ヒントは地下室の冷蔵庫にしまってある蛸壺^-^ >足立らどみさん おはようございます。……妙に寒いと思ったら、遠くの山には雪が積もっていました。この気候、早くなんとかならないかな。昨日は案の定熱を出してしまい、幸いなことに煮付けは作りおいていたものがまだ残っていたので、魚だけ焼いて、父には「適当に温めて食べてくれる?」と。ご飯もありましたし…… 「中立性の面影」についてですが、やはりそこは「公正」でも「公平」でも「客観的」でもなくて「中立」で、「感じ」でも「印象」でもなくて「面影」で、なければならなかったんですよね。……多分、足立さんの書き込みが真剣だったので、それに素で答えないとと思ったんでしょうね。このところは避けていた態度なんですけれど。 わたしは詩論は書かないけれど詩人論は書きたいですし、詩については知らないけれど詩の言葉については少し知っていて、馬鹿々々しい回答かもしれませんけれど、散文の言葉は「meanings」を伝える言葉、詩の言葉は「attitude」を伝える言葉なんだろうと思っています。 日本における詩の悲劇というのは、近代になってから「歌」という言葉が「詩」という言葉に置き換わってしまったことで、「詩(shi)」というのは当然「死(shi)」を連想させる。これは言葉遊びではなくって、英語だと眠れない夜に「one sheep」「two sheeps」……と数えますよね。これは「one sleep」「two sleep」の訛りだからで、言葉というのはそういう機能を持っているのだと思います。 わたしの書き言葉は……もともとはプログラミング言語です。10歳くらいのときから、長兄の影響でプログラムを組んでいましたし。国語や英語はもともと赤点ぎりぎりで、プログラミング言語のように言葉を「システム」と考えることによって、ようやく人並みに文章が書けるようになったと言いますか。 今、足立さんにとってわたしの思考のベースが標準語のように見えるのは、仕事柄の慣れですね。広告ライターの仕事は8年くらいは続けていたと思うんですが……。その後に「です・ます」調で批評なども書くようになって、わたしなりにそこに批評というものの新しい可能性を見たりはしているんですが。……どうでしょう。今後必要になれば、また文体は変えるのかもしれません。 今でも、切羽詰まったり余裕がなかったりすると、詩のように行分けして書いたりしますよ。足立さんは、文字数をそろえるようにお書きになるのですね。一つの詩のスタイルであり、足立さんはやはり詩人なのでしょう。 標準語にからめてもう一つ、わたしは若いころに関西に住んでいたこともあって、関西弁が好きなんですよね。関西弁だと「あかんやん」とか「いけず」とか、単語で作用する言葉がある。「なにしとん(ねん)」とかね。東京の人だったら、「お前何してんだよ」というふうに「お前」がつくけれど、関西ではあまり「自分なにしとんねん」(「自分」は関西弁では「お前」の意味)とは言わない。多分、標準語というより関東弁は「meanings」としての性質が強く、関西弁は「attitude」としての性質が強いのだろうと思っています。人と人との間隔が近いんですね、きっと、関西のほうが。 「詩」についてお伝えできず、申し訳なく思います。わたしは多分今後とも「詩」については書かないと思っています。 「足立氏には中立性の面影を見ています。」 たぶん、おぼろんさんの着眼点は標準語の上に成り立っていると 勘違いしていたのかもしれないとぼくのほうは人生を足掻くふり。 たしかに、現実は、例えると公衆浴場に入っても影の薄いぼくは すぐに湯けむりと化して誰にも認識されずにあがってこれる自負 みたいな(変な表現)ものだけはある生き方をしてきたのだから、 「中立性の面影」を見つける方がこのサイトにいたという驚きには あまりのショックに言葉を失ってしまいました。 詩とはなんなのでしょうね。おぼろんさん。 おぼろんさんには「寝る(死ぬ)。」ことなのかもしれないけど、 ぼくには生きていることの裏返しのような気がしてきました。 世の中知らないことだらけで他人のこともわからないですね。 日々、周りの人たちがうつりゆく変わっていく平成令和の流れ、 ぼくの場合は家族を養っていかないといけないので一生懸命 働いて働いてたぶんそれこそ死ぬまで働き続けるのだろうと 社会に出てかれこれ34年間は生きてこれました。 詩なんてものそれほど大切なものなのでしょうか〉みなさん。 子どものときはともかく大人になってからぼく自身の詩は 別に無くても生きてきた詩を書かない(詩が書けない)人生も 楽しかったですよと天国にいるご先祖様に伝えたかったから、 だからこそ001のてんぐちゃんの持ち物には大人のぼくは あまり興味がなく自分にも興味がないだけなのかもしれない のに、そもそも詩とは何かがわからないので、みなさんには なにも伝えられないと思って生きてきたよ。とても感謝です。 足立氏には中立性の面影を見ています。 寝る(死ぬ)。 おぼろんさんのログは懐かしさを感じて読んでますかね。 個人的にはお魚の鯵は好きだけどアジるのたのしむ輩は、 その人の日常生活で何があるのか知らないし興味ないので するするするーって面倒臭いのでアンタッチャブル感かな 追記。 アジテーションの爆弾は気を付けなあかんよ。 詩のサイトの皆は軽々しく「詩は……」とか言うけどさ、 そういうので(詩に限らず)破滅してきた人何人も見ているし。 と……眠れず、十数年ぶりくらいのネット・スラングを使うわたし。 (皆が関西弁を使うというスラングも、まあ、数年前の話ではある) >足立らどみさん。 そう、必死なのよ、わたしも。 長く書くことがしんどいのかと言うと、そうではなくって、 長く書くことでやっと生きていられるって。 (仕事で長く書くのは慣れているから。一日一万字が標準……広告だと、文学よりもっと時間がかかる。2倍か3倍くらい) あまり弱者ぶりたくはないんだけれど、ご容赦いただけたらサンクス。 〉リハビリ(笑)。 そか回復期系を回しておられるのですね それな。ならやむを得ないわけか。謝辞 「研究」と「教育」と「実践」の3つが 束になり重く太く意味が動くのだからさ この社会も大きなマニ車だと思ってたら 誰もが案外とリア充で生きられるのかも どこかなにかがかわったのかもしれない 気づきを頂けました。ほんとに感謝です。 リハビリ(笑)。 追記。 それと、アジテイターにはなりたくないのです。わたしの書いたことが雑多な印象になったようで、ほっとしています。 おぼろんさん、駄文長すぎるよ。 内容的にもっと短い文でいいのに byte数多くても時給上がらんよ (t_TVなぜ? 頭がぐらぐらして吐き気がします。この後少し寝るかも。 >足立らどみさん 褒められても何もでませんよ。「後輩たちに伝えている」は過分で、わたしがそう思ったらおこがましいかな。何せ、今のわたしは公平さとか公正さとかは全て捨ててしまおうと思っているものですから。 詩の「日常生活環境との繋がり」ということなのですが、その前に──わたしの詩の定義は至ってシンプルです。「詩とは、詩的であると歴史的にみなされてきた事どもを文章として表現する、その歴史そのものによって保証される文化」となります。 なんだ、これじゃいつから詩が始まったのかが全然分からないし、これから未来のことも書かれていない、詩の定義に全然なっていない──と考える方が、多分ほとんどだと思います。憤慨する前に、まず「あなたの詩論をどうぞ」というのがわたしのスタンス。 わたしが上に書いたことの説明をもう少し。わたしが上に書いたことに付随して、例えば平安時代であれば、「詩」という言葉は「歌」という言葉を、「詩的」という言葉は「あはれ」という言葉をもって指し示されていたものだ……と、わたしは思っております。 また、歴史の起点が明示されていないのにそれを定義として用い得るのか、という疑問もあると思います。これについては、「言葉」さらには「固有名詞」ですら、その起点(原典)を明確に指し示すことは不可能である、というクリプキの考え(指示の因果説)に基づいて、「言葉」というものはもともとそうしたものだ、と考えていただければと思います。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/1/0/1_49/_pdf/-char/ja ちょっとだけ検索してみた結果ですが、「指示の因果説」については上に書かれていますね。信じられないという感想も、疑わしいという感想も、多分多くの方が抱かれるだろうと思うのですが、要するにコロンブスの卵です。結構古くからある議論ですので、参照してそれぞれに考えていただければと、思うものなのです。 詩の「日常生活環境との繋がり」についてはもっとずっと難しいですね。何しろ、そうしたことを書くには詩の定義だけでなく、人間の定義や社会の定義まで分かっていないといけない。そして、それが指し示すものは「歴史的現在」の人の姿です。 足立らどみさんがおっしゃりたいのは、文面から推し量ると、「詩って生きるのにも役立つよ!」ということなのかな、と思うのですが、わたし自身はこれは、「正しい」かつ「正しくない」考え方だと思います。要するに、場合によるのであって、それで詩を規定してしまうことは詩の可能性を狭めるものでもあると思うのです。 問題は、「歴史的現在」というのが、「これからの未来」も含むという点にあります。要するに、「これからの未来」というものを時間軸で表すと、それは開空間ではなくて閉空間になっているのですね。「現在<=これからの未来<未来」という図式です。ただ、こうした見方をすることによって詩というのは進歩・進化し得るものとして保証されます。 ここでは、あえて詩らしくない言葉で説明させていただいていますが、詩というのはそもそも詩的な言葉を用いることでしか、説明したり語ったりすることができないものだと思っています。それについて、まずそうした文化が根付いていること。例えばポーの詩論などが評価されるのも、それが詩の言葉で書かれた詩論だからでしょう。 と同時に、わたしは言葉というもの自体が自己言及的な構造を持っているものだと思っております。この点については、ちょっとゲーデルの不完全性定理の「すべての言語への応用」というのに絡めて考えてみないといけないところ。数学にしろ言語にしろ、同じ決まり事(「公理系」)という定義に基づく、秩序構造(「クラス」)なのです。 また、こういう見方も出来るのではないでしょうか? 人、社会、宇宙といった構造はフラクタルな側面を持っている、と。人体は小宇宙だと言われることがありますよね。また、宇宙は細胞のような構造をもっていることが科学的に示されています(ボイドと銀河フィラメント)。 要するに、人とは何なのか、ということがそもそもとてつもない問題で、わたしたちはわたしたちなりに接した人と接する、会話できる人と会話する、理解できる人を理解する、といったスタンスを持つことがより重要なのだと思います。そうしなければ、社会に参加する前に、人と接する、という第一歩が始まらないためです。 わたしが詩論は書かずに詩人論は書く、というのも、そうした「文学的世間話」のなかから「詩の本質」が光としてかいま見えてくることを期待してのことになります。もっとも、そうした傾向はわたしがクリスチャンだからであって、「隣人を愛せ」という言葉に盲目的に従っているからです。偉くもありませんし、文学的に重要な姿勢でもないものです。 ただ、詩の「日常生活環境との繋がり」ということについて、今詩における表現として何が求められているのか、ということを考えれば、それは現在にあってますます重要になってきている「自由」ということじゃないかな、とは思っています。カオスではなくて秩序としての自由。「これは自由だ」と自信をもって言える、そうした限りにおいての自由。「多様性」なんていう新しい言葉は、「自由」という言葉の言い換えにすぎないと思っています。なので、教育関係者や為政者らがとんちんかんな「多様性」を振り回すのではないでしょうか? 多分、足立さんへのお答えにはなっていないと思うのですが……ただ、詩を読むということは作者における直観をトレースする行為であり、精神的な面において理学療法的な効果ももたらすものだろうと思っています。作者にあって、詩を書くためにはインスピレーションを待つ必要があるように、読者の人生にあっても詩を読むためのインスピレーションが必要となるように思うのですが、どうだったでしょうか。 まとまってもいませんし、これは「考えたこと」であって「感じたこと」ではないのですが……これもわたしらしい解答と言うことで。 ※少し修正しました。 歌じゃなくて 管を巻く おぼろんさんやハァモニィベルさんの「ストイックな学究」は凄いし このサイトで文章を露わにして「後輩たちに伝えている」のも大切で あと欲いうと日常生活環境との繋がりをその字で表現してみて欲しい 「正しい生活をしていたらその人の才能や性質は正しく発達していく」 のは素敵な考えだけど、今の令和の現実の社会は表面はサラサラでも 実際はどろどろの沼のなかで今後どう進めば良いのかもがいていて痛て 平成にいた場末の居酒屋で知らない若者(私)にうだをまくお年寄りには 反面教師でなりたくないなとこのこのサイトが陶冶しても足りない言葉の 隙間を埋め尽くしてくれる毎日を提供することで私も愉しみたいのだろう お別れの言葉をいう季節は過ぎてしまっても 私は私の心の詩人たちにやっと「さよなら」と 言える、そっと呟ける そんな気がするんだよね ハァモニィベルさんらとの会話を通して……。 例えば、孤高にすごした偉人らにとっても、「(その心が)救われた瞬間はあったのだ」と、考えることは、わたしたちが豊かに生きることにもつながってくるのでは、と感じ。 あくまでも、このスレッドは「詩とは何か」について考察する場ですが、孤独というのは詩に含まれる重要な要素であり、ある時にはその詩人における唯一の要素でもあり…… そうしたことを鑑みても、「救われた瞬間はあったのだ」という思いを持つことは重要なのではないか、と。いろいろと記憶を探ってみましたが、こうした感覚はV.E.フランクルの主張に近いかもしれません。 要するに、「それでも人生にイエスと言う」という(書名にも現れている)スタンスです。個人的な感慨を言えば、ここ(現代詩フォーラム)は、芸術論のみを謂いする場であってはいけないような気がします。また、それだけの歴史ももっているサイトだと思っております。 ひだかたけしさん。 >要は融合、 >批判差別優劣化の理性ロゴス論理 まず、上記の件について、わたしとひだかさんとのメールのやり取りにおいて取り交わした言葉でもある「融合」ということについて、この掲示板(会議室)を目にした人にとっては、馴染みのない、唐突な言葉に感じられるだろうと思うのです(メールでも数度、意見を交わしましたね)。 ひだかさんの人としてのあり様をわたしなりに目にし、追究して、わたしなりの、ひだかさんにおける「融合」という表現にたいする理解や意見もないことはないです。ですが、この現代詩フォーラムの「会議室」という場の性質上、もう少し詳しく「融合」という言葉について述べていただけるよう、お願いするものです(「詩」的な思考・印象にそった言葉でも構いません)。 もっとも、この場が独り言やアフォリズムを呟く場であると考えられているのであれば、上記のこと、また下記のことはスルーしていただいてもかまいません。 上に書いたことを踏まえて……、ひだかさんがわたしの発言のどの部分をもって、「融合」という言葉を感じ取ったのか、わたし自身でも少しく把握するものではあります。例えば、「『対立』というものは『対話』によって解消され得る」という部分もそれでしょうか。 ですが、今のわたしは「言語」というものを「口頭での会話/コミュニケーション」に限られるものとは捉えておらず(厳密には、「口頭での会話」というのがはたして意味を指示し得るのか、ということにも疑問を持っています)、認知言語学の考え方に添った「言葉(あるいはコミュニケーション)」の理解というものをもって、コメントなどを書かせていただいています。──ここでは、エクリチュール、すなわち「書き言葉」については取り上げません。 ひだかさんの認識は深い、深いと感じます。ですので、お時間があれば、また体調が許す限りにおいて、「融合」という考え方/感じ方について、もう少し詳細に述べてはいけませんでしょうか。でないと、この「対話」を目にした方たちは、「ああ、あれはあいつらの馴れ合いだね」という感想を持ってしまうのでは? と思うものなのです。 詩的言語による表現、批評的言語による表現、それは異なってしかるべきものだと思っています。であれば、着地点はどこにあるべきか? それは、「馬鹿でも分かる表現」「猿でも分かる表現」だと、わたしは思っています。わたし自身が「馬鹿」であり「猿」なのです。ですが、そうしたスタンスは、今現在の現代詩フォーラムにおいては、「なくてはならないスタンス」だと思っています。 「認知言語学」は「生成文法」という考え方に続いて現れた考え方で、簡単に言えば脳機能にもとづいて「言語」の使用ややり取りなどを物理的な視点、あるいは脳科学的・生物学的な視点にたって解釈する、という言語学の手法になります。 わたしがとくに注目するのは、Wikipediaにも記載されている「意味は静的なものではなく事態把握・語用論的面を含めたダイナミックな『概念化』として記述する」という点でしょうか。要するに、「言葉」は「物理」である、という考え方です。……もう少し踏み込んで、わたし独自の解釈を加えるなら、「言葉」とは「習慣」であり「歴史」である、といった考え方になります(文学慣れしてしまっていて、このような書き方は実は正確性には欠けるのですが)。 こうした考え方が、ひだかさんの急な課題として認識されないようであれば、どうぞスルーなさってください。なお、取り交わしたメールの内容などについて、具体的に言及することは今後ともありません。何卒、この「現代詩フォーラム」という公共の場において、「読み手の理解を深める」という考えにいたったときにのみ(あくまでも善意のみに基づいて)、レスをいただければと思うものです。 ハァモニィベルさん。 >人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう 深く、また同意する言葉です。 ※眠れず、編集しました。 >>120 について、以下補足しておきますね。最後に。 某県知事(もはや早くも元知事ですが)の差別的発言とそれへの糾弾的報道。 この両者に対して、ワンセットでね、僕はこう考えたわけです。 マスコミが差別反対の立場を取るのはいいとして、であるならば、 〈差別発言〉に対して彼らも差別すべきじゃないだろう、とね。 「サベツだ。サベツだ」と低能に騒ぐのでなく、発言の内容そのもの自体の非論理性を追求すべきなんでね。 「知事、貴方は例外は無視ですか?」とね「一次産業従事者にも当然優秀な人はいるし、公務員にも当然低能な人がいるのに、 個々の実情や実態は見えないんですか?」と、まともに疑問を呈すればいい。行政は個人個人の事情は無視ですか? とね。 しかし、マスコミ諸君はなぜか、そういう風に言えない。なぜか? それは、彼らもまた、同じように、例外や個々の事情は見えない そういう公式処理のメガネをかけてるからでしょう。何でも一定の型に嵌めて公式で処理する無思考なメガネをね。 だから、両方とも私からサルに喩えられてしまったわけです。 * サベツに関していうと、勿論、権力者による非合理的な差別は、憲法に違反し許されるものではありません。 ただ、合理的な差別は限度を超えない限り許容されます。法というのは最低限を画する社会の規則ですから、 ですから、道徳の方が、もっと広く遥かに高いモラルを個々人に要求します。 その中でもおそらく人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう。《仁》という愛と思いやり を説いたわけですが、その人が、はっきりとした差別(区別)をしている事がありますよね。 小人 と 君子 の区別 がそれです。 アノ元某県知事も、「世の中には小人が多い。だが君たちは君子たれ」、とでも言えば一理あったでしょうが、 御本人が君子といえるほどの人物ではないから、そういう風には言わないわけで、ただの功利主義の小人の差別的言辞しか発せない。 君子と呼べるほどの人物ならば、きっとこう言うでしょう。 「いま目の前に大勢いる君たちの中に、どれだけ、君子と呼べる人材が居るのか、いま、わたしには判らないが、 君たち一人一人の、これからの言動によって、それは自ずと明らかになるだろう」 と。そんな事を感じて、>>120 は書いたわけでした。(以上補足まで) * いろいろ勝手に書かせて頂き有難うございました。失礼しました。 おぼろんさんの感じ方考え方、 要は融合、 批判差別優劣化の理性ロゴス論理 超え出た声ヒビキ なんだなぁ…と、直観としてゝ。 めもめも やっと水飲み場迄はたどり着いた、かなワン?かなワン? 残りの人生、まだまだ続くのだからさ頑張ってほしいかな この日このときこの場所であなたと出会ってしまっただけ さて、私も気持ちを新たに生きるだけ生きていこう 東京砂漠で地面ばかり見つめないで上を向いて歩こー 新しいスタート2024年度はすでに始まっている 「孤独」に関するわたしの認識について、わたしの考えていることを追記させてください。まず、「孤独」という言葉は文字通り「独りにしてある」ということを意味しているものと思います。 ここで、ひだかたけしさんの言葉を借りますが、「孤独」と「孤立」とは、やはり異なるものです。 日本における文章表現の課題として、現在使われている言葉の多くが、主に漢字による言葉のことを言っているのですが、明治維新以降(もちろん、それ以前の文化人たちによる「言葉の翻訳・翻案」も含まれます)に作られた、「やっつけ感」のある言葉であることは、文学に携わる者は深く認識しておかなければいけないことであると思っています。 例として、批評家の小林秀雄は「常識」や「表現」といった言葉に関して、それが西洋由来の(言葉として使用された歴史の短い)言葉であり、その言葉を使用・理解する場合には、深い注意が必要である、という旨のことを書いています(小林秀雄著「常識について」などを参照していただければと思います)。 わたしは若い時期に小林秀雄の考えに触れたので、そのように「言葉」というものは「流動的」であり、かつ時によっては「個人的」なものであり、また「時代によって変遷する」ものである、という認識を持っております。 わたしは、性格上、ディベートですとか、論戦においてマウントを取る、といったことを好みません。これは、イギリスの作家・批評家のE.M.フォースターの考え方に深く感化されてのことなのですが、「対立」というものは「対話」によって解消され得るものと考えております。 わたしもネット初期から文章を投稿しており、当時の活発な議論、闊達な論者の意見は、少なからず知っております。ですが、今重要なのは、「対話においてマウントを取る」ということではなく、対話の過程においてさまざまな知見が披露される(そこには、個人としての考え方や思いも含まれる、否むしろそれこそが重要である)、そして、議論に関わった者や、それを目にした者がさらに認識や理解を深める(ここでは、「知識」ですら、排斥されるものではありません)ということなのではないでしょうか。 足立らどみさんとハァモニィベルさんとの「論戦」のようなものを傍から見ていて、そういうことは今のインターネットでは貴重だなあ、と感じていました。 わたしは、(わたし個人における主義なのですが)「解題」というものを好みません。例えば、文芸批評という文章表現などは、「読書体験」を一つのノンフィクション(場合によっては、フィクションでさえあり得る)として再構築する行為であると、考えています。 前置きが長くなってしまいましたが、「孤独」ということの解釈・認識・受容においては、まず「孤独感」というものをやはり最重要視してとらえなくてはいけないことなのか? と、ハァモニィベルさんの投稿を読ませていただき、再び感じました。 こうした感じ方(考え方、ではないですね)は、”ディベート”や”マウントを取る”といった考え方(生き方)が重視されがちな現代にあっては、「再度改めて深く感じ、受け入れなくてはいけないスタンス」であり、場合によっては「新鮮なスタンス」でもあります。 わたしは、例えばWikipediaにおける「典拠第一主義」を評価しません。何よりも、Wikipedia自体がほぼインターネット上における文献のみに依存しており、正確性もないどころか、時には「全く誤りである」記事も多くあるからです。このように、文章(言説)における信憑性というものは、はなはだあいまいなものです。時として、「個人の感想」に由来したほうが、真実に近い場合もあります。 再度、「孤独」という言葉に帰りましょう。「孤独」ということを深く、考え、感じることは、「人が精神的に豊かに生きること」にもつながってきます(それが人間という存在を再解釈することだからです)。ハァモニィベルさんのおっしゃる通り、人は本質的に孤独なものであり、それは誰によっても(神によっても)変えられないものです。 ですが、長年文学に(アマチュアながら)携わってきた者として、この「孤独」という概念を最重視することは「独我」という短絡的な世界観につながってしまうのでは? ということも危惧するものなのです。「独我」という世界観は、哲学という分野においては”広く使われ/知られている””世界観/考え方”であり、時によっては”理論/議論”を進めるにあたって、有用な方法ではあります。 「孤独」という言葉の認識について、わたしなりに迫ってみましょう。「孤独」という言葉に翻案されるのを待たず、そうした感覚はわたしたちにとって日々感覚されることです。 そこで、わたしたちはなぜそうした「日々異なる概念」を「孤独」という言葉に”翻案/集約”しようとするのでしょうか? わたしたちの感覚とは言葉によって代表(代替)されるものではなく、保証されるものですらなく、いたってあいまいかつ「肉体的(身体的)」なものだからです。ある個人Aにおける「孤独」と、ある個人Bにおける「孤独」とは、全く異なった感覚・知覚であるかもしれず、否むしろそうであろうとも思われるのです。 でしたら、わたしたちはなぜ「孤独」という言葉を使うのでしょうか? それは、個々人間、あるいは個人と社会の間における知覚・感覚を標準化することによって、相互の理解を深める(または一から構築する)ということを目的としたものであるからだろうと考えています。安い言葉ですが、わたしたちは「相互のコミュニケーション」のために、言葉を使うのです。 詩人というのは、えてして、というよりもその存在理由自体として「自分流」の言葉を使う存在ですし、「人」の集まりという社会においては、そうした存在はなくてはならないものでもあるのです。 「孤独」という言葉は、そうした存在、あるいは人という存在の基底における、「ある種の慣用句」「スラング」ですらあります。本質は言葉自体にあるのではなく、個々人の意識・思いにあるわけです。ですが、そうしたことを他者に伝えようとするとき、そこにはどうしても齟齬が生じる危険性をはらんでいます(人と人というのが、根本的に異なった存在であるからです)。 そのことを「後から理解しあえば良いや」、とわたしは考えてはいません。その一次時間において、”会話/対話”する「者たち」は、言葉の相互理解を前提としていなければならないのです。 ただ、わたしはここで再び大きな影響を受けた小林秀雄の”感じ方/考え方”に帰るものなのですが、「孤独」という言葉を言葉として、あるいは意味として、あるいは感触としてとらえるとき、わたしたちはまず日本語的な表現である「ひとりある」という表現に帰らなくてはいけないのでは? と思うものです。 明治以降の西洋化された社会にあって、わたしたちは「孤独」という言葉も、反省されず日常語として使用される言葉として、無自覚に使ってきたものと考えています。だからこそ、とくに(戦後以降の)文学においては、「孤独」に関して、さまざまに表現してこなければいけなかったわけです。 ハァモニィベルさんが「孤独」という言葉を使用されるとき、そこにハァモニィベルさん自身の経験・生きてきた歴史・感覚といったものを見取らなくてはいけないことは、わたし自身も認識しています。それが「人を分かる」ということです。ですが、「孤独」という現在では標準化してしまった言葉を使う以上、そこには「異なる認識や理解」「再解釈」なども必要となってくること、を、「わたし自身の思っているところ」として、認識していただければ幸いだと思う次第です。 ……今回投稿することは、急いで補筆していることでもあり、より正確に読み手の方に分かっていただくためには、より精確な表現が必要なことと、思っております。とりあえずの返信・補筆として。 ハァモニィベルさん。 反論でも反証でもなく、読み手のための注釈といった気もちで書いたものになります。ハァモニィベルさん自身の投稿作も読ませていただいておりますし、そこに深い「孤独」についての認識があることは尊重いたします。また、今回の書き込みによってより深く理解できたと思います。 まず、誰かの孤独について(彼/彼女が孤独だったのか、どうかという点について)、本人の言葉や思いを尊重することは大切だとわたしも思います。ですが、客観的に見て、「彼/彼女が孤独だったのか」ということを、他者として考え、判断する、ということも大切だと思うのです。 今回、ハァモニィベルさんはアインシュタイン自身の言葉を引用してくださいました。それによって、読み手のアインシュタインに対する理解も深まるものと思います。繰り返しての補筆になりますが、わたしはあくまでも「読み手のための注釈」という気もちで当該のレスを投稿したことは、どうかご理解いただければと思います。 人における「理解力」(わたしが思うところ、それは「共感力」という価値感に近いものなのではと感じます)というものを重視されるハァモニィベルさんの姿勢は尊重したいと思います。 あ、ごめんなさい(_ _;) なりませぬ でっす。ゝ 追伸 孤独 と、 孤立 を履き違えてはなりませむ、 なんて誰に向けてイッテンダカ解りませんが… 私、においては全く独り です、実際。 此処まで辿り着くには随分と色々在りましたけどね笑。√ おぼろんさん曰く 「アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ」 というのは、一応、反論というか反証のつもりなんですかね。 私が、アインシュタインも孤独だった、と言ったので(笑) だとしたら、もう少し反論の仕方を緻密にできませんか? 私が言う「孤独」の意味を、充分深く探求した上で、私がどういう意味で言ってるのかを、 貴方なりにきちんと解釈を示した上で、アインシュタインの場合は、私のいう孤独には合致しないと、 そういうふうに反論するのが、知的でかつ誠実な反論の仕方ではありませんか? で、貴方が「アインシュタインは孤独ではなかった」と言う根拠というのは、 次の二点があったから、だと言ってますね。 「評価」と「親しい交流」があったからと。この二つがあれば、その人は孤独ではない、とね。 そんな風に、人間の《孤独》というものを単純に考えちゃえるヒトなんだな、と貴方の事を思い知りました。 次の言葉は、広く知られてるアインシュタインの言葉です。 「人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて悪意に満ちている。 ここで知っておかなければならないのは。人間もほとんどが水で構成されているということです。 ベルリンでも何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は生まれつき孤独なのです」 アインシュタイン本人が仮にこう言わなくてもね、 そもそも人間というのはもともと本質的に孤独な存在なんですよ。 そう感じないで誤魔化して生きられるヒトもほんとうに孤独じゃないとは言えないでしょう。シアワセというだけでね。 また、強い孤独に耐えられない心が卑弱なヒトもいて、その場合はフコーでしょうが、そういうヒトも私の視野に入ってはいません。 孤独を感じながらそれでも豊かな心で生きられる人が極僅かですがいるわけです。私が孤独だと言うのはこの第三の人たちです。 アインシュタインの言葉をもう一つ引用しておきましょう。 「私は今、孤独の中に生きています。若者には苦痛だが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に」 さて、「アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ」と言う おぼろんさん。ぜひ彼の言葉にも反論してください。 私の使った「孤独」が、孤高という言葉に近いことは、おぼろんさんには想像も付かなかったのでしょうね。 人の言葉を自分勝手にしか読み取れず、<わからない>のだから。 アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ。当初大学での教鞭を執るといった職につかず、特許庁の事務職員として勤務することになったのは、諸事情あってのことで(大学に適当な空きがなかったからだったと記憶しています)彼の研究そのものは早くから評価されていました。「一般人が物理学に革命を与えた」というのは後に作られた伝説ですね。アメリカへ移住してからも、数学者のクルト・ゲーデルらと親しい交流を持っています。Wikipediaには記載がありませんが、適当な科学の解説書などには、そうした逸話も載っているはずですから、ご確認ください。一方のゲーデルは晩年強迫性障害に悩まされたこともあり、孤独だったと思います。夫人も元踊り子で浪費癖や喫煙癖があり、ゲーデル自身はそのことについては無頓着だったものの、必ずしも恵まれた環境で研究を行っていたとは言い難いものがあります。ニュートンは変人でもあり、錬金術に凝ってもいましたから、ある意味では孤独だったと言えますが、これには自業自得な面もあると思います。 ふむ。ニュートンが学会にデビューした時、受けた反応と同じですな。 まあ、ニュートンもアインシュタインも孤独でしたからね。ゴッホも売れなかったし。 サリエリにとっては、モーツァルトは「つまんない」し「わからない」でしょうしね? ふむ。書いているわりにはとてもとても言いたいことがわからないし 日本猿とゴリラでは目も違うし所謂合理的区別にしかならないけどね つまんない。高い位の天狗なら有頂天家族で狸や狐のほうがいいかな? アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * ハァモニィベルさん 「 だから、読解力の無い人が、跋扈している、と書いたわけです。 それは、昔はちゃんとしてた、という意味でないことは、私の文章を読めていれば誤解しないところですよ。 」 なるほど、 ここにログを残さない誰かさんとやりとりなさっているでしょうね。 悪き平等はネットに最初からある長所でもあり短所でもありますよ。 早稲田大学政治経済学部教授経歴の勝俣静岡県知事の職業差別発言! ハッピーアイスクリームなお方ですよ、日本人皆んながもっともっと 現在詩漬けされれば、まだ、この邦のゆくえも上昇するのでしょうが まあ、私たちにとっては、実はどうでも良いことなのかもしれないね。 大学受験時代が1番純粋な国に住む人たちがえてしてアッパーライフを 味わっている世界は、ベクトルを隠してしんを示さぬ岸田内閣と同じで 差別主義者が勝手にご都合解釈してしまい心の貧しい世界観しかみえ ないわー がんばろう(^^) だから、読解力の無い人が、跋扈している、と書いたわけです。 それは、昔はちゃんとしてた、という意味でないことは、私の文章を読めていれば誤解しないところですよ。 今のTV番組はつまらなさが酷すぎるな、と私が言うとき、過去のTVは面白かった、と私が思ってるわけではありませんからね。昭和の番組も、大した事はなかったけれど、それがマシだったと思えるくらい、今のはヒドイという、 そういうニュアンス、の率直な所感なだけですから。 現在(現代)に対する批判があれば、過去に対する批判も当然あるわけ。 それが、批評の《センス》でしょ? これは馬ですね、あれはロバですね、と自分の批評眼でみえたままを誠実に言うだけでね。 で、ラバを前にした、熊さんと八っつぁんが、これは馬だとかロバだとか、縁台で議論していたりすると、それはラバだと思いますけどね、と小声だけどハッキリ言うだけでね。 自我の(ネガティブな)防衛機制をしあってる中に、混ざろうとは思わないですからね。 **** 一読して、書いてある内容の真意とか、内実が読み取れない人はね、いつの時代にもいますよね。 身分制がガチガチの頃、皆が小学校中退の頃の、東大教授だって馬鹿な人は馬鹿でしょう。 そういうカースト時代には、逆に、小学校中退でも有能な人が沢山いたりしたでしょう。 それが、いわば、昭和のTVの(今と比較すればの)オモシロサと同じような感じですね。 ところが、現代、いまの日本は、大卒が増えたけれど、ほとんどが馬鹿、といった、ヘタレ現象が どんどんウイルスのように広がっているなぁ、というのがまだそれに侵されてない人の実感なのではありませんか。 それは、いわば、今のTVの度を超えたツマラナサと、関係並行的な感じですね。 コロナ禍も、ある意味、変革のチャンスだったでしょうが、 何を変えるべきで、何を変えるべきでないか、判断できるほど、まだ人間そのものが変わってないでしょう。 ただ、明らかなのは、 ズルい奴 と 馬鹿 にとっては、、ムカシより生きやすい世の中になっている というだけです。 観光地で、客がごった返す、飲食店が、美味しかったためしが無いんでね。 また、行列ができてるラーメン屋が、旨かったためしもね。 私は、ただ、それを率直に不味いと言うだけです。(美味しければ絶賛するでしょうけどね。「鬼滅の刃」は秀作ですね) 味覚音痴が当たり前の時代には、味覚が確かな批評は、大変失礼なのかも知れませんね。もしかしたら。、 味覚の無い人が、何杯食べても、味覚が鋭くならないように、 一読で読めない人は、何度読んでも、読解できる筈もないから、それに向けて書くのでは虚しい時代ですが、 歴史をよくみれば いまだけが虚しい時代というわけではありませんしね。 [116]ハァモニィベル[2024 04/01 20:11]Good! さん まぁ、クロージングして次の方に任せるのも人生なのかもですが、 ハァモニィベルさんの最近のログは辛辣ですよね。一読したら ヒエラルギーを認めているインド哲学のようにも思えて良いです。 日本で言ったら平和な時代の続いた江戸時代で嫌いではないかな? あれから150年が過ぎた今の日本に生きていて何も学ばず僕は空っぽと いって詩は叙情の詩人どもには最終奥義の貝合わせのなかは空っぽたとは 言う資格があるのかという呻きが残ってしまうような余韻も良いです。 ネットのらんを通過してみて悪き平等を経験した今、カースト制度を 理解しながらも、AIに託したら、弥次喜多コンビも直ぐにご隠居に なって竈門のファイヤーを見つめる刻も来るようにもただ思いますね。 コろナ禍以降、すでに時代は変わってしまったのテスよ いわゆる日本人の議論というのを観察したとき、そこでご本人たちは大いに議論してるつもりでも それは、ただ殴り合って喧嘩してるのと変わらない(=水の掛け合い)ので、どうみても、 ルールのある言葉の格闘技(=ディベート)になってないのを、どうしても、多少頭ある人は、 というか、心ある人であれば、当然ながら、そういう無法状態を深く嘆くわけです。 でも、嘆くと言っても、熊さんや八っつぁんがディベートしてもしょうがないわけです。 それは、結局、《ディベートもどき》にしかならないですからね。 例えば、当事者の片方が、ちょっとだけ小利口な熊さんで、相手が完全なる八っつぁんだと、 熊さんをロンパオーだと錯覚して称賛したりするのも、本物と もどき の区別がつかない大衆ならではの愚かさにすぎません。 結局、熊さんと八っつぁんがディベートもどきをすればするほど、、《ディベート》の方が崩壊していくでしょう。 逆に言うと、ディベートがまともにできる時点で、そのふたりはもう、熊さんでも八っつぁんでもないわけです。 事情は、《詩》でも同じですよ。 熊さんや八っつぁんに《詩》は書けない、というのが私の立場です。 なぜなら、詩が書ける時点で、その人は熊さんや八っつぁんじゃ無いからです。 しかし、熊公や八公には、詩は書けないのです。《詩もどき》は書けてもね。 そうして、やがては、《詩》そのものが崩壊していくでしょう。 もっとも、熊さんの詩や、八っつぁんの詩、だってあるはずだ、と何となく思えそうですが、 それは、ロンパオーの存在みたいに、ただの大衆の錯覚にすぎないでしょう。 例えば、映画「男はつらいよ」は、ある意味、寅さんの詩だと言えそうです。それには人間の笑いと感動があるよ、と。 しかし、あの作品の脚本を書いたのは寅さんじゃありませんからね。作者が《寅さんの詩》として造形したのであって。 映画と詩は違う、と言うなら、山之口獏の詩作品 を挙げましょう。作者の奥にある精神は、決して、熊さんや八っつぁんではありませんよ。 もっとずっと、哀しいほどの高貴な心が、その奥に生きてる詩人なんじゃないでしょうか。 (終) 昔考えたことで、こういうことがあるのですが、「人間はむしろ互いに似すぎているので、誰かを自分より高く見たり、低く見たりするのではないか?」と。そのほうが容易なのではないか、と。──ちょっと見突飛な意見だと、わたしも思いますし、強く推すものではないのですが、「対等に接するのは難しい」と、最近このサイトの意見でも目にしたように記憶しています。 わたしがそう考えたことは、実は日本的な文化なのかもしれず、高校生だったときの古典の先生は、「日本語には主語がない。『敬語』という文法によって、主格の表現をしている」と言うのを聞いて、はっとしました。そのことでわたしは言葉の奥深さに刺激され、理系から文系に転換することにもなったのですが……。 「日本語にはもともと主語がない」という意見は定説ではなく、最近そのことを主張する言語学者の方たちもちらほら現れているようなのですが(文献を提示できず、申し訳ないです。機会があれば再度調べてみます)、欧米の言語(インド・ヨーロッパ語族)では、明確に主語の表現がありますよね。……アフリカやラテン・アメリカだと、どうなんだろう? アジア人と欧米人の気質の違い(極論すれば、農耕文化と狩猟文化の違い)というのも、文化、そこから遡って言語の違いにも影響しているのでしょうけれど、昨今、とくにアメリカの文化などは、日本の文化を色濃く受け継いでいますね。……「日本マンセー」をしているのではありませんが、4chanや8chanなどは、日本のネット・カルチャーの影響を受けて誕生したものですし……。 わたしがとくに思うのは、現代のスラングとして、「I guess」という言葉が欧米の文化圏で多用されていることです。これは、直訳すれば「私が解答しますが……」という意味であり、日本語のニュアンスとしては、「~だぜ」「~だよな」というニュアンスに近いと思うのです。口語表現において、「断定」が標準的に取り扱われている。これは、2ちゃん語などの影響を強く受け継いでいるのではないかと感じます。いや……これは言い過ぎかな。もっと調べてみなくてはいけません。 ハァモニィベルさんの認識は適確だと思います。ただ、詩人についての認識はわたしとは異なります。このごろ思うのは、共感よりも対立というのはむしろ大事なのではないのか? ということで。足立さんやハァモニィベルさんがディベートを重視すること、わたし自身はあまり納得していないのですが、社会人としての作法を洗練させるために、それは必要なのでしょう。ブラック労働を課されても反論せず隷属してしまう、という社会は長続きはしない、あるいはしても衰退してしまう。 西村博之氏のように、理論やデータだけで会話すること、「それはあなたの感想ですよね」で済ませてしまうこと、それはそれで社会やコミュニケーションの衰退だと思います。最近は「論破王キラー」などという存在も現れてきたようですが。「詩」という日常言語からは離れている、あるいは離れているべき、あるいは必然的に離れてしまう言語表現が、このような(「現代詩フォーラム」)サイトで、細々と続けられていることは、実はとても貴重なことなのではないかな、と思っています。 [113]ハァモニィベル[2024 04/01 00:26]さん キーボードを叩くシーンのたとえは説得力あります。 あと、 〉詩に、詩で「返信」することも、する人もあるのでしょうが、それは万人の「マナー」なわけではないでしょうしね。 わー、死んだー。 これの返しはむかし他のサイトとのコメントを比較していて連詩の派生のコメント詩的な 愉しみかたとして私が言ってしまったのかもしれませんが詩のサイトならではの表現手段 だと思います。ふう、マナー教室通っていて良かった。メッセージありがとうございます。 例えば、あくまで想像ですが、 誰かが、AIと、チャットしているとき、AI が 「駄弁が長いですね」 と応答を返すようになったら、AI も知的生命体になったな、という感じがしますね。 「ずいぶん、日本語が下手ですね」 とかね。 そこまで進化しないように、ニンゲンサマは制御機能を盛り込むかも知れませんが笑。 AIが感情を持つようになることが怖いんじゃなくて、きっと本質は、感情的なニンゲンが理性を失ってしまう事なんだろう、と思いますが、というのは、 例えば、パソコンがフリーズしたりすると、人間は、キーボードを強く何度も打鍵したりしますからね。 怒りを叩きつけても、パソコンと意味のあるコミュケーションができるわけでない(という 理性が何処かへ飛んでいってしまうから)だろう、と比較的理性的な私などは思いますが。 でも進化したAIなら、言うでしょうね。 「明快な言葉で書くのも、マナーではありませんか?会話や、やり取りを期待する場合には」 とか、そんな応答を返すかも知れません。 詩は、曖昧に表現するものという「詩論」がそこかしこにあったりするので、 詩に、詩で「返信」することも、する人もあるのでしょうが、それは万人の「マナー」なわけではないでしょうしね。 もっとも、何となくそんな気がする、というだけの私の妄想を踏まえた「ちょと感じたこと」でしかありませんが、以上は。 (信頼)私達は未来を憂いている暇はないはずで先ずはリア充を優先しよう 実害が特にないから実名公表はしないけど表現とコミュニケーションは峻別すること。その上でコメントに返信するのがマナー。うざいコメント無視はされた側も無視して互いに別の道へ進み平和が保たれるのだ。 ーコメントに返信することはマナーであり、互いに尊重し合うための大切な行動ですね。うざいコメントには無視することで、両者が平和を保ちながら別の道を進むことができます。 詩のサイトで意味がわからない警察関係者が情報収集のための捜索活動しにきている可能性も過去にあると想像してみても良いけど警察は事件の解決のための活動をして真実は興味無い。犯罪捜査協力感謝します。 ー警察の活動は事件解決に焦点を当てていますが、その過程で情報収集のために捜索活動を行うこともあります。しかし、詩のサイトでの情報収集は一般的には稀なケースです。もし警察が情報収集のために接触してきた場合は、適切な対応を心がけることが重要です。 アガサクリスティの灰色の脳細胞が動きはじめるのは興味はあるけど物価が上がって一般家庭でも光熱費が気になってしまうほど生きていくだけでますます東京は大変になってきているので、地方転勤のほうが楽。 ー東京の生活費の上昇は確かに大変ですね。地方での生活は比較的費用が低い場合もあり、落ち着いた環境で生活できるかもしれません。アガサ・クリスティの作品はいつでも読むことができますので、地方転勤による新たな生活も新たな体験として楽しんでください。 それほど遠くない未来にAIはAIの価値観でブレークするのは明白で人新世の地層から何を学んでいくかは彼らの手に委ねられているのだから私達人類が悩んでみることはネアンデルタール人と同じく滑稽だわ。 ー確かに、人工知能の進化が進むにつれて、その技術が独自の価値観を持ち、人類の行動や意思決定に影響を与える可能性があります。未来において、私たち人類が直面する課題や意味について、AIとの共存や連携を含めて考える必要がありますね。 今はともかくAIはそのうち知的生命体となっていくのでしょうね。 私たちが地球温暖化もそうだけど未曾有の領域に入りはじめている と考えることは有意義だとおもいますよ。なにも心配することなく その昔はこの星に知的生命体は並列して存在していたことを考えて いくのはどうでしょうか? 何度かinkweaverさんに聞きましたが、表現とコミュニケーションを引き離して 答えてはくれませんでした。表現は主体からのベクトルとしてコミュニケーション の並列的なベクトルとの対比ならばわかるのですがごっちゃになっているみたい。 人工的なものとの会話は永遠に平行なのかもと閉口してしまいますがむずいですね 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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