2024 09/15 22:19
朧月夜
続きです。
そうですねえ、<衝動>と書いたこと、「生まれながらの詩人はいる」というわたしなりの詩人論を
推し進める意味で書くのだとしたら、<衝動>は<本能>と書かれなくてはいけなかったのでしょうね。
例えば、動物がつがいを求めるときの<デモンストレイション>、これは本能から来るものですけれど、
<詩人>の<詩を書く行為>というのは、そういった野性的な行動に近いものがある──と。
わたしの思っていることは、そういうことです。もっとも、ビジネスとして詩をつづる詩人がいてもいっこうにかまいません。
いずれにせよ、それらは芸術家における<動機>の一パターンにしか過ぎないのでしょうけれど……
そこで、それらを一々羅列することは止めにして、ひだかさんが<本能>と<衝動>は明確に区別されなければならない、
と考えていらっしゃるとしたら、それは正しいですし、必要な指摘ですし、詩にたいする理解を深める指摘なのだろうと思います。
そこで、<本能>と<衝動>とはどう違うのか? ということ、これについて、
今あらためてそう聞くと、そういうことへの<理解>というものは、ひだかさんの詩のなかにあまねく表れていて、
本人から散文的な説明を聞くのも良いし、でも、実際に詩作品を読んで、
「氏のこのような主張はこうした部分に表れている」というのを読み取っても良いし、
<詩を楽しむ>という姿勢からすれば、後者の立場をとってじっくり味わい考えたほうが良いとは思うのですが……
ただ、
「普段は夢見がちに在る感情が覚醒状態のZONEに入ったONになった時、そういう気分を呼び寄せられた瞬間にどどっと入って来る根源からのイメージ と云うか…」
という文章は──あくまでも「文章」についてです──実際に、ひだかさんの詩を読んだときに得られる実感・感覚には、
遠く及んでいなくって、かと言って不完全なわけでもなく、
これは、単にひだかさんにおける詩を書くときの「モチベーション」について言っているのではなくって、
詩の本質とはこうである、という詩の本質論に隣接して出て来た言葉なのだとは思います。
詩論を言える詩人が優れているのかというとそうではなくって、
優れた詩論を言える人物というのはやはり詩論者や批評家だと思うのですが(でなければ批評家の意味・立場がなくなります)、
詩人が詩論──これは、ぶっちゃけて言えば「僕はどう書いているのか」ということを語ることは貴重で、
例えば、村上春樹なんかは、「小説家というのは嘘によって書くという仕事です」と言った、
ネットのインタビューか何かによってでしょうか、というのは作家としてはあまりにも稚拙で、
小説家という商売論にもなっていないし、ましてや小説論にもなっていないし、村上氏の旺盛な創作意欲や、
外国文学の翻訳などをしてきた功績を否定するわけではないのですが、
「とうてい作家や作家になりたい人間を導く言葉ではない」というのが、わたしの思いです。
そこで、ネットでちゃかされるとしたら「僕の考えた詩論」、それを乗り越えるとしたら「俺の詩論」というものを、
一詩人が語るということは貴重で、例えば萩原朔太郎以降、
「日本語の自由詩」というものをゼロから作り出さなくてはいけなかった世代にとって、
「俺の詩論」というものを語り、なおかつ実践し、それを「詩」という形にする、ということは、
詩人にとっての死活問題でもあったし、まさに命を削るようなものだった……だからこそ、
あの時代の作家たちはぽろぽろと死んでいったので、それは悲しまれるべきことでもあり、讃えられるべきことでもあり、
でも、──「今」の時代ははっきりと違う。わたしたちは、彼らの「遺産」を手にし、それらを十分に検証しつくし、
そのうえで自在に詩を綴ることが許されている、そういうのが現代だと思うのですが、
だとしたら、「彼ら」の詩論を一歩でも二歩でも前に進めるということが、
わたしたち詩人の役割ではないのかな、というそんな感じはしていて……
単純な問題として、わたしは詩というより文学は<ビジネス>としてとらえていましたので、
「かつてあった」あるいは「今ある」技巧以外の詩の技巧というものを求めることは困難なのですが、
真に詩人であるのであれば、そういったことは獲得され得るし、結果として、それが「新しい詩」になっているのだと思います。
ただ、ゴッホがそうであったように、詩人が「新しい詩の技巧」を提示すればそれは鑑賞者によって絶句されるのであって、
「売り物にならない」「死後評価される」そのような詩人の創作態度・生き方・その結実について、
わたしはまだ十分な言葉を紡げないでいます。
で……何を言いたいの? と、ここまで読んできた方は当然思われるだろうと思うのですが、
今のわたしの姿勢としては、言葉とはやはりMeaningsではなくてAttitudeを伝えるためにまずは存在するのだと思っていて、
あらためて立ち返るとすれば、ひだかさんが、
「本能」と「衝動」とを混濁するかのようなわたしの文章に苛立った、
そこにたいして「なぜ?」と思える人が真の詩人なのだろうとは思います。
今は、自己弁護も面倒臭くなってしまったので、こんな感じで。
……せっかく縦書きもルビも使える良いサイトなんだし、もっと「現代詩フォーラム」を活用しようよ、
というのが、「真に」わたしが言いたいことで、
詩論を活発に展開する<すごい>ネット詩人たちが登場、または再登場したら、わたしは何も言わないですけれどね。
※言葉の間違いを直しました。