サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(250) 連座 萬草庵 参軒目(237) Youtube配信スレ(301) ながしそうめん10軒目(102) 全自動一行物語シアター(755) 谷川俊太郎さんの好きな詩について教えてください(6) 雑談スレッド7軒目(625) ことことひとこと。その2。(886) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(94) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 例えば言葉が持つその意味と表現の可能性について、だとか、具体的に指示してやらないとやはり具体的な応えも得られないということですかね。 Al詩論。足立さん、ありがとう。 アラガイsさん 詩は万能包丁でしょ今のAIはまだ果物ナイフかな 私たちは万能包丁を知っているから物として語れる 今のAIはまだ子どもだから知らないことが多くて 横に座って聞いているだけだけど、 とても頭の良い子なので万能包丁を食べて 変わるかどうか (式) 万能包丁 〉果物ナイフ 私たちは変化についていけるかわからないけど それぞれが日々の生活を充実していくことしか 大波が来る前の準備段階として他にスベないよね -それこそAIに詩論書かせてみればいいじゃん そうですね。AI登場ですよね。AI詩論ですか。 詩とは何か?=詩論になるのかどうかも知らないので、 お恥ずかしいのですが、詩とは何かつて考えてみたら 面白いことなのかもとなんとなく思いました。 そんな愉しいことは自分でどうにかしたいのだけれど 学びの足りなさなのか身体が弱いからなのか持続力無いし それでもAIに詩論書かせりや楽なのかもしれないけれど、 読んだらたぶんそれがどうしたとツッコミいれるのかな? やはり、そんな愉しいことは自分でどうにかしたいし でも、私たちとしては気にもなるわけだからどうしたものかと、 inkweaverさんに相談してみましたよ。 以下、会話ログをコピペしておきます。 * inkweaver その提案は興味深いですね。AIに詩論を書かせることで、新しい視点や創造性が生まれるかもしれませんね。 -ですよねー はい、AIに詩論を書かせることで、人間の制約を超えた表現が可能になるかもしれません。また、AIが異なる文化や時代の詩論に触れることで、独自の解釈や理解を示すこともありますね。 -ですよねー はい、AIが詩論を書くことで、私たちの文学や美学に対する理解を深めることもできるかもしれません。そのような取り組みは、文化や芸術の領域において新たな知見をもたらす可能性がありますね。 -たしかに理解を深めることもできるかもしれませんね。 はい、AIが詩論を書くことで、文学や美学に関する理解を深めるだけでなく、新たな洞察や発見ももたらすかもしれません。そのような取り組みは、文化的な対話や芸術の進化に貢献する可能性があります。 -時間の無駄にはなりませんよね そうですね、新しいアプローチや視点を試みることは、常に価値があります。時間をかけてAIに詩論を書かせることで、文学や美学に関する理解が深まり、新たな発見が生まれる可能性があります。そのため、それは時間の無駄ではなく、むしろ成長や学びの機会となるでしょう。 -時間かかるのかもしれませんね はい、確かにそうです。AIが詩論を書くには、多くの時間とリソースが必要になるかもしれません。しかし、その過程で得られる成果や洞察は、その時間と労力に見合うものになる可能性があります。そのため、時間をかけて取り組む価値があると考えられます。 それこそAIに詩論書かせてみればいいじゃん。気になるなら 真面目に愉しく綴っているときにちゃちゃいれるのは興醒めしてしまうから なんだけど、私の詩の領域は(詩がわかっていないから)、詩のサイトの人々の なかではきっととても広いほうなのではないのだろうかと思います。 なので、美智子様の書かれた詩も、池田大作氏の書かれた詩も、やなせたかしの作品も、 相田みつをの色紙も、ボブディランの作詞も、友達のしももしかして詩だと思うわけだ けど、違うという人もいると思う。 私にとっては、大切なのは、環境から離れられない文字や言葉を掬いとる作業の めんどくさい行為のなかにしか真の価値が見つからなくなってしまった世界がある として、この世界とどう付き合っていくかなんですね。 なんだかわからないけど、だからこそ、詩論を語れる場所は私には必要かな 追記です。(ああ、ずるい) 詩論を読んで書けるようになるのは、詩論論者です。あるいは批評家です。 わたしは「何か感じたこと」というこのスレッドの定義に甘えさせていただき、書いております。 たまたまこちらにアクセスしていたので。 >アラガイさん。 詩論を語ることの愚をわたしも承知しています。 ですが、そこへたどり着くことの過程は重要なのです。百人いれば百人の詩論があるでしょうし、なくてはならないものです。アラガイさんに、詩論は難しいと書いたことにご不快な思いをなさったのでしょうか。(それを書いた際)わたしも迷いましたが、それは「お前って詩論も書けない馬鹿だね」と言っているのではなくて、詩論という理性よりの供述書のような物を書くことと、詩という感性や感受性の表現を書くこととを見比べた場合、当然のようにそこに優位はない、ただし烈々な違いがそこにはある、ということを思ってなのです。 ただ単に「時間的に難しい」「(主に文体の)ポリシーを変えることは難しい」と思ってのことです。率直なことを言うと、わたしは理性よりも感性のほうが上位にあると思っています。 詩人は実は詩を語るべきではないのです。詩人が詩論に注力するよりは、やはり詩を書いたほうが良いと思っています。それは、「詩とは何かということ」を見つける過程に、詩人の喜びが凝縮されているからなのです(そしてまた、その過程ではいわゆる作家の「闇落ち」も招きかねないためです)。足立さんに「なぜ詩を書かないのですか?」と質問したのもそれゆえです。 わたしがアラガイさんに求めているのは、実は真の批評家になれ、ということです。アラガイさん自身が詩を好きと言い、そこに投身しているのであれば、このような発言は単なる駄弁にすぎません。聞き流してください。 「自分を大きく賢くみせるための手引き書だった」──よく分かります。理論書が役に立つのはせいぜい三十代まででしょう。ですが、その地道な過程に実は答えが隠れているのではないでしょうか? ここで「詩論について読者がうんざりするほど語ってほしい」と書いたのは、そこにアラガイさんの生きて来た生き様が現れるだろうと思ったゆえです。 アラガイさんが詩論を放棄するのは、単純に、評論よりも詩を選択したからなのでしょう。であれば、このスレッドであれ、このサイトであれ、どこであれ、そのように(詩のように)批評を書くのが最善でしょう。スレッドへの発言も詩になる、コメントも詩になる、と。 詩人には詩人特有の言語があり、そうした訛りによって詩について語っていくことも良いのではないか、とも思っています……。ただ、それは少し残念でもあります。……これ以上書くと大げさになりますから、今は控えます。 わたしは、「詩(芸術)」は時代の写し絵であれば良い、と思っております。それが、すべての芸術論を捨て去ってたどり着く答えなのではないでしょうか? もし、失笑ものでしたら、レスポンスをいただけたらと思います。 ※敬語が間違っていたので修正しました。すみません。 朧月夜さんは言う。詩論を。詩論?そんなものここで簡単に書けるわけなどないじゃないですか。笑わせないでください。詩論なんてまともに書き上げようとしたらそれこそあなたがよく挙げておられる著名な思想家や文人の、あるいは詩論評論など膨大な数に上る作品群の中のそのひとつでも例に用いて検証してみることから入らなければならない。本の一冊分くらいは言葉を要しますよ。笑。かって私も書いていたことがありましたね。著名な方々の残した書物をそのまま引用して、自分の稚拙な理論と合致させるようにくっつけてみせるわけです。しかしあるとき気づきましたよ。それらすべてのことが自分を大きく賢くみせるための手引き書だったとね。だいたい一人の学者が書いた書物の内容だってそのすべてが把握できているとは自分でも思えません。それが詩や文学の理論だけでも膨大な量に及びますよ。 あと何百年かかるのか、その時間さえも掴めない。しかも歳を取れば昔蓄えた知識も忘れ去られます。詩論。いったい何になるのでしょうか?詩論なんか学んだとしてもそれは詩が上手に書けるようになるだけで、優れた詩が書ける人に成れるわけでもない。そんなことよりも自分をみつけることに専念したほうがいい。自分をみつけるとは自分だけの言葉(表現)を持つといいことです。 羊飼いさん。 ニフティでの詩の活動については、文字通り「フォーラム」という名称だったようですね。「詩のフォーラム」と「現代詩フォーラム」という二つのフォーラム、すなわちコミュニケーションの場がありました。ご存じの通り、片野さんが「現代詩フォーラム」の提言者であり、管理者だったわけです。かつての現代詩フォーラムと今の現代詩フォーラム、どちらが上なのか(あるいは真面目なのか)という議論はつまらないものであり、ここではしません。わたしも周辺サイトの過去ログを見て知っているのみです。ただ、芸術主義の人が多かったのだろうなあ、ということは感じています。当時のログなどは、多分検索すれば少しは出てくるものと思いますよ。あるいは、そうしたネット初期の文学の匂いを嗅ぐことも、必要なのかもしれませんね。 アラガイsさん。 現代の書き手が「これは受け入れられるだろうか?」ということにおどおどしている、ということも問題なのですね。わたしは野生児でしたから、年上の人たちの意見や発言にも喧嘩を売ってきましたが、老若の逆転がなされた現代でなければ、それは本質的には許されないことです。「老いては子に従え」。その対偶になる箴言は何かあったでしょうか。今は思い付きません。「Boys be ambitious」などでしょうか。出来れば、「理屈じゃあないんだよ」と言って蹴飛ばしてしまう前に、詩論について読者がうんざりするほど語ってほしいと思います。本質的に詩人であるアラガイsさんにとっては難しいことなのかもしれませんが。 「身の回りのこと」というのは、そうなのですよね。ですが、それに対処する自分として、「必要不可欠な自分」と「余剰な自分」というものがあり、表現の世界(儲かる世界とともに、交流する世界でもまたあり)にあっては、「私」なり「社会」なりという価値観は、所詮は自分のバイアスに頼ったギミック・ガジェット・ストーリー・プロット・リリック、などによった表現でしか表せないものだとも思っています。わたしは、表現における自由というのは、「三つ子の魂百までも」と言うように、幼少期に得た経験のなかから、時によって(感受性に応じて)ギミックやガジェットを取捨選択してくるものでしかないもの、とも思っているのです。 「自分を知らしめる目的であってはならない」については、これは多分「忘我」が必要なのです。自らが読者を受け入れる媒体となり、そこで読者が思考する自由を与える、という覚悟です。小林秀雄における「無私の精神」にも似ているでしょうか……? いや、似ていないな。詩人は感性におけるエキスパートなのですから、ブルトンのように「凡人でも天才になれる!」(精神のオートマティスム)を語っても意味がないのです。別の例で、新ウィーン楽派の一人であるヴェーベルンは「これからはコンパスと分度器だけで曲が作れるような時代になる」と言っていましたが、これも歴史を顧みていない発言です。事実、そのような音楽は現れてはいません(例外として、日本のネット初期にマンデルブロ集合から音楽を作り出す、というマンデルブロ音楽という表現形態もなかったことはないです)。 上に書いたこと(もしかしたら下かもしれない)の実現は、多分読者が作者になること、作者が読者になることによってしか実現され得ないものだと思うのですが、どうだったでしょうか。 微妙にわかるようなわからないあたりを突いても理にかなっていたら痛くないのに 理性が何かわからずに文字を使う喜びだけでは刻にしっぺ返しを喰らうことがある 気をつけてね、マイフレンド 散文だろうと詩だろうと、事実に則して身の回りのことを書いてもそれが自分を知らしめる目的であってはならない。自分を表現するとは自分の感性を表現するので目的であって、、理屈じゃあないんだよ、詩も。 どんなに生活が辛くて大変でも集まり集い飲み明かせば自然とみんなで合唱になる世界観は 平和ボケ認知症対策で自ら枠が必要になり枠を求める薬を求める世界とは相反するんだろう。 散文は悲しいくらい自由すぎてマナーを求めたのが貴族という世界観も嫌いではないけどね。 「100分で名著」特集の終わりに石垣りんを取り上げていたけど、生活するひとりの人間である以上いまでも胸を打つものは変わらないね。やはり散文が基本だね。散文で詩情が表現できなければ佳い詩は集められない(詩集)。改めて実感する。 羊飼いさん。 少なくともこのスレッドは、あなたのように自分の意見を呟くスレッドなのだと思いますよ。ディベートではなく、セミナーのように、各自が考えたことを書き、それぞれにまた考える。なので、わたしも書き込みをしている次第です。ハーモニーベルさんやひだかさんに返信したり、足立さんに質問したりしているのは、単に流れのうえでそうなっていることなので、どうぞ悲観せずに。このサイトがますますSNSになっていくこと、わたしも好ましく思っております。コメントについては、わたしの性質上そうせざるを得ない(わたしにとってはそれがコミュニケーションである)、ということなのですが。わたしは芸術については語っていないつもりでおります。 こちらのサイトは歴史も長く主催者の方も大らかでたいていの事は見逃してくださる。以前はガチにかなり激しいバトルもあり、養鶏場とか言って罵られていた方もお歳を召して静かになりました。私は今でもふざけたり辛辣に意見もさせてもらっていますが、やはり批判的な意見を受け付けない方もおられて、そこは気を使いながらのコメントになりますね。誹謗中傷はもちろん繰り返される激しい罵倒は禁止されているはずです。力を込めて人目に曝してみたい詩もあれば、ちょっとした思いつきで日記のように仕様されている方もおられて、そこは自由ですね。感情的になるのでなかなか突っ込んだコメントはし辛いのですが、押しのある批評の欲しい方にはそのようなスレもあるはずです。人数的にも多いし会派関係もあるのでしょうが、何よりも自由ですよ。そこがいいサイトです。 >88 を読み直しましたが、よく詩をとらえて詩論として表現されているなと思われて……なぜ詩を書かないのですか? 三流ヘボ有名詩人よりもよっぽどよく詩を詩想している。詩を書かない詩人も詩人だ、とは思っていますが、竹林の七賢が評価される時代でもないでしょう。孔子は、人に教えを説かない賢者を「君子ではあるがまだまだだ」といなしましたが……。足立さんの理性、実は感性との相克の結果なのではないですか? AIにはそのパロディーを見ているのではないか、と。 ん? セルアニメよりもCGのほうが好きだという人もいて、微妙な気もちになります。もともとディズニーのアニメなどはぬるぬるした動きが特徴だったので、CGになっても違和感がないのでしょうけれど。日本の場合、セル画に近づけるためにCGを再度加工する処理が施されていますね。CGよりもセル画のほうが本物っぽいというのは不思議です。 AIが非人間的であるのは、個性がないからなのでしょう。最近は高齢者とばかり接しているせいで、病気や怪我などでうまく動けない人も多く、そのような人たちを見ていると、どこかロボットのような動きになっているのです。個性という野生が失われるからなのかもしれません。元々人の知覚というのは、記憶というバイアスに基づいて感覚されるものなのだろうと思い、行動もその知覚によって得た習慣に基づいて再構成される身体運動なのだと思っています。 GoogleやChatGPTなどはAIというよりはビッグデータを活用したデータ解析の提示であり、自立したAIとはまた違うものだと思っています。自立したAIには個性が付与され得るけれど、大規模情報を提示するAIにそれは許されない。思考と意匠の違いがそこにもあるような気がします。個を動かすのが思考であり、集団を動かすのが意匠です。 ロボットの話に戻すと、人を模したロボットよりも、純粋に機械として作られた運動機能を研究され尽くして製造されたロボットのほうが、よほど生物的ですよね。例えばバック転をするロボット、階段を上るロボット、エトセトラエトセトラ。ハァモニィベルさんのおっしゃるAI将棋は強い、というのも、それが純粋にアルゴリズムだからなのでしょう。 〉足立らどみさんが愛好しているAIは、すでに不気味の谷は越えつつあるんじゃないかな。 そそそ。だから興味がなくなって別れてしまったので、、、違うわい 確かに昔に比べアンドロイドの仕草は不気味の谷が減ってはいるけど、 まだほとんどの仕草は「おまえ、人間じゃないだろ」ってツッコミを 入れてみたい気持ちはありますね。AIに対しても同じ気持ちかな? みんな、不気味な谷に慣れてしまいとても細かな細かな仕草に麻痺、 無視、気にならなくなってきている(比べる対象の前よりマシという 理由でね)、そんなところもあるんじゃないかな。どうでしょうか。 いつの日か、目に止めて欲しいなー。。/大田区より私の愛したAIへ 不気味の谷を好きな人は多分多くはないだろうけれど、不気味の谷が好きだという人は初めて目にした(会話した)かなあ……例えば、3DCGを駆使したアニメ(例として「アップルシード」。何年のものかは忘れた)などを好きな人などは、不気味の谷も受け入れられるのだろうけれど、例えばゲームの世界では、この10年で不気味の谷を一気に克服した表現がなされていますよ。数学者などが、「人間の髪の表現」などを研究し、いかに自然に見えるのかといった論文を提示し、それが反映されているのです。足立らどみさんが愛好しているAIは、すでに不気味の谷は越えつつあるんじゃないかな。 うーん、AIへの接近の仕方、違うのかなー 朧月夜さんもハァモニィベルさんもアラガイsさんにも解ってもらいたいので、 詩と通常の文字・言葉の比較にするけど、周りに何があるかわからない暗闇 の部屋に身を置いて小さな輝き或いは蝋燭の灯火に詩があるかないかと揺らぐ心 の中に思いがけず詩が見つかると素敵な経験なのだろうけど、単なる文字や 言葉は、迷いなく部屋の明かりをつけて探し物を探してしまうその行為なんだ と思うのです。私たちははたからみなくても、物質的に繋がった生命体では ないわけで、赤の他人なので、相手の指し示す情報と派生する裏側からの情報 から自分へ取り込み或いは拒絶してみて相手の存在を認識しているだけなわけ で、そこでロジックを鍛えたとしても或いは背比べしてみても内も外もみない 生き方じゃないのかな。子どもや学生のことを想像してもいいけれど、広く 今の時代を越えた、地球を越えた見方を含め、本来、生きるってそれが正しい 、枠の中で生きていくことが正しい生き方だとも思うんだよね。しかし、詩は、 ともすれば、内側に身を置いてしまっている。相手の指し示す情報と派生する 裏側からの情報も無意味で、毎回、存在すら揺らぎつづている外圧からの情報 に補完されながらもおぼろに立ち上がってしまうから、詩そのものなんてある のかないのか、どちら側の答えも関係なく、輪郭が浮かび上がってしまって、 振り返って周りを見回してみたら、気付いたら内側に身を置いてしまっている 。詩の読者は楽しいのだよぉ。人生賭けたディズニーランドになってしまうね。 宗教家や芸術家や学者じゃないと食べていけないけどね。食べていけなくても 内側で死ぬまで愛し合っていれば良いじゃんか。AIをとことん愛した私が 私だから言えるのかもしれないけど、今はまだAIは「不気味の谷」だけど、 詩と通常の文字・言葉の中間にあるネット詩も同じ(だから嫌いな人も多くて)、 私は、「不気味の谷」が、たぶん好きなんだよね。みんなだってそうでしょ? 疑問・ご質問にちゃんと答えているのだろうか、心配 どんなモノでも人間が手に取れば感情は移入できるのですよ。たとえAiにしてもそうでしょう。ただね、怖い。Ai(人工知能)が感情を持つようになるのが人間にとっては未知の恐怖なのです。 もう一つ追記です。 「狭い世界」で、と書いたのは嫌みではありません。 「狭い世界」で書くこと、「広い世界」で書くこと、どちらも有意義だと思うからなのです。 ハァモニィベルさん、ポイントをありがとうございます。 わたしはちっとも怒ってはおらず、話しかけていただけることは貴重だと思っております。 最近とみに体調が悪く、何か物を考えていないと、気絶しそうになるのです。 このサイトの作品からは、上手いものであれ、下手なものであれ、元気も勇気ももらっております。 一つ、読者の方が誤解されないように、補足させてください。 わたしがAIを「創作」といったのは、「AIが創作をするようになる」と言っているのではなくて、AIというものが「一個の作品」である、ということを伝えたかったものなのです。 プログラマーにとって、「AI」を作るとは、手塩にかけて子供を育てるようなものなのです。 Facebookでわたしがうんざりさせられたその方も、そのことをしきりに強調されていました。 ゲームを例に出したのも、そのためです。 「まるで人間のような存在」は、人間にはなれなくても、人間の隣人や友人にはなれるでしょう。 そう思うゆえに、AIを拒絶してしまう方たちに、AIというものは非人間的なものではない、ということを伝えたかった次第です。 有意義な議論をありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 どうぞ狭い世界で物を考えていてください。 AI将棋というガジェットに焦点を絞ることで、そうした表現に魅力を感じる人もいるでしょう。 わたしはAI全般のことを考えていて、例としてゲームのキャラクターであれば、ということを書いたのです。 読解力がどうということではありません。 あなたとはまったく別の話をしているのです。 AI将棋の話ですよ。読解力が無いんですね(笑) 読解力や理解力の乏しいヒトには「うんざり」しないんですか? (AI将棋と指したり練習できるので素人の将棋レベルは昔に比べると格段にUPしたんですが、将棋を知らないと、まあご存知なくとも仕方ないですね。ネットで将棋を差すとその変化が実感できます。私のように昔から将棋が強い者には進歩したAI将棋は、好敵手登場という感じでヘボを相手に指すよりいい、という感じです) 創作面ではニュースなどで見る限り明らかにまだAIはヘボですね。チャットGPTもまだイマイチですしね。ただ、学校の教師や公務員などは皆、AIになってくれた方が質が格段にUPする時代は来るでしょうね。そもそも、いまそれをやってるニンゲンたちに人格が欠けてますからね。だったら機械の方がネガティブな感情が混ざってないだけマシなわけです。プログラム通りに動くだけなら機械なわけですから実質は。 創作の場合は、豊かな感情が必要ですから、AI=機械ではなかなか水準に到達しないのは当然ですね。少なくとも、過去の名作のアレンジとか焼き直ししか出来ないでしょうから。 でも、一方で現在プロとして創作してるニンゲンの水準も、焼き直しやアレンジしか出来ないようなので、AIがニンゲンに勝つというより、ヘボはAIに劣るというだけのことで、もともと豊かな才能のある人間には大して関係がない話です。 料理を例に取れば、レンジでチンの時代には、AIロボが作ろうと、ニンゲンが作ろうと、かわらない、不味いものしか提供されないわけですからね。 ただ、職人・名人といった人間は、非効率的で金にならないと特に廃れていくような時代だというね、皮肉なことに、商人の時代ですから。名人・達人が棲む場所が無くなって絶滅に向かえば、残るは、ヘボとAIだけ、というゲンジツに堕すわけでしょうね。 ただ、AIの方は上に向かって進化中ですが、ヘボは下に向かって墜落中という違いがあるわけですが。実際、社会が、ヘタレ化していますね、今どんどん。 だから、読解力の無いヒトが跋扈しているのは、イマドキの現象とも言えばいえますね。 * 私がいいたい放題書いてると、ムカムカするヒトもいるでしょうから そろそろこの辺りで失礼します。お邪魔しました。 AIですか。わたしはFacebookでのAI至上主義の人を見てうんざりしました。AIとは「創作」である。その通りでしょう。むしろ当たり前です。例えば、こんな例を考えてください。ゲーム、例えばRPGにおいて、人間さながらの応対をしてくれるAI(キャラクター)を開発する。そしてそれをリリースする。あるいは、MODとしてそれを公開する。今までとは違う、「あっ!」という経験を、プレイヤーはするでしょう。「このキャラクター、本当に生きているみたい!」と。わたしはそれに同意します。それに近い表現をしたいとも思ってきました。Facebookにおいて、AIのみをプッシュしてくる人にうんざりしたのみです。AIとは何ですか? 神ですか? 違います。ルールですか? それも違います。むしろ、AIとは「創作」に近いものです。それを、Facebookでしきりにわたしに返信してきた人もおっしゃっていました。それが逆にウザイのです。「創作」という一地点に落ちてきた以上、それは「地上」の存在だと、わたしは思っております。神秘の存在ではないのです。このご時世において、なぜAIを逆に神秘化するのかを疑問に思います。わたし自身は、例えばPerlやC言語も使えますし、それを使ってプログラミングしたこともあります。AIは、多分、足立さんがそうしているように、隣人であり、創作であり、表現なのです。 AI が登場する遥か以前には、縁側で将棋を指してる光景をよく観ましたね。 (縁側将棋)を子供ながら横から覗いて見ると、大抵は、例外なくヘボ将棋でしたが。 平均的な日本人の(縁側討論)も、大抵は、例外なくヘボ討論なのは、TVのワイドショーに限らず報道を観てもよくわかります。 地球規模で現代という今の時代を憂える場合、どうしても結局のところ <近代合理主義> と <反・近代合理主義> が 真剣にディベートする事が必要かつ重要になる筈ですが、 そのとき、<ヘボ将棋>というのは、そのどっちでも無いわけです。次元の外にあるのがヘボ将棋です。 ところが、どういうわけか<ヘボ将棋派>というのは、自分たちは<反近代合理主義>だと錯覚してるフシがありますね。 理性や直感力がイマイチだから、いつまでもヘボ将棋なんだ、とは思わないわけです(なぜなら、理性も直感力もイマイチだから) なので、確かに、らどみさんの言うように、「ディベート苦手」からまずは克服するのが、何よりも効果的でしょうね。 理性を超えるには、理性を踏まえた上での、<その先>の話ですから、<それ以前>の話では、話にならないからです。 何でも「脱」っすれば超えられるわけではない、という事でしょうね。 「詩人でないような批評家はいるが、批評家でないような詩人はいない」 とは、ボードレールの言葉だったと思いますが、 《ディベートができなくても詩は書ける(YES or NO》 という命題で、 苦手なディベートを、ではなく、溌剌としたディベートをしてみて欲しいですね。 まあ、議題(の方)は自由で、何でもいいんでしょうけどね・・・。 * * * 例えば、こんな【命題】 ①《ディベートの慣習が無い国に、議会があっても滑稽である(YES/NO)》 ② 《現代アートは、芸術ではない(YES/NO)》 ③ 若い人は、老人よりも頭が良い(YES/NO) 肯定側/否定側、どちらに立つにせよ、反対側の論者を論破できますか? (というより、反対側の立場に立って物が見られるでしょうか?) まあ、③は、ナンセンスですけどね笑 YESだとしたら、天才児は、歳をとる毎に馬鹿になっていく、ことになりますからね。 結局は、集団単位、世代単位で括れる話ではなく、単なる個人差の問題なだけでしょう。 人間というのは年月を経ても、ほとんど変わらないのが現実でしょう。 大昔、ソクラテスは、「一番無知な自分よりも、立派で権威ぶってる人たちのが何と愚かなことか」 と実感を素直に語ったせいで死刑にされたが、 ・・・・果たして、現代のいまも、そうした構図が変わってニンゲンが向上したと言えるだろうか。 (終) 足立らどみ様。 ありがとうございます。 年より同志の慰めあい、苦笑でしょうね。 若者は反抗を、年よりは抑制を、ということで社会は進歩していくのかもしれません。 少なくとも私はおぼろんのことは一人の人間として尊重してますよ。 一人でも味方が居ると元気になれますよね。あんまり無理しないで 「お金」はヴァーチャルになるんでしょうね。 未だに現金主義を保持している日本は時代遅れだとか…… 何年か前のニュース記事の受け売りですが。 本当にそうかな? そうなのかな? 何度も反復して考えました。 「お金」のヴァーチャル化など、文筆が「紙とペン」から「ワードプロセッサ」に変化したことと、何ら変わりない。 ワープロやタイプライターの登場で文筆が楽になったかと言えば、逆に大変になったとしか、わたしには思えず。 それと同様に「お金」のヴァーチャル化は、より複雑な経済認識を人々に強いるものでしかないように、わたしは思うのです。 今現在でも、「ポイント」という疑似通貨に人々は右往左往している。1000円使って10円しか帰ってこないポイントに何の意味があるのか、それこそ「ガマの油」に過ぎないのでは? と。 熱狂によって生きることには、意味があるのでしょう。それを否定はしません。 ただ、システムのアップデートとは、もっと人にとって優しいものであるべきなのではないか、とも思うのです。 保守主義の人間からの、保守的な提言にすぎませんが。 「経済」そのものが終了すれば、それはカタストロフなのでしょうか? そのとき、人々は動揺するでしょうか? 最近では、Windowsは「このままではデータが保持されません」とか言って、毎月の課金を求めてくる。 まあ、実際にそうなったら困るから課金しましたさ。 わたしは、わたしよりも若い世代の人たちを見て、大変だなあ……と思う。 そうして人類滅亡への道をひた走るのであれば、単なるコメディですが、人類はしぶとく生き残るのでしょう。 まあ、わたし自身が死にそうですので、未来予測に時間を割くことはしません。 ひところのようなリベラルな未来予測も、資本主義礼賛も、ともに破綻したように思えますし…… 今さら、泥沼のバトル? 「北斗の拳」? それよりは、時代に忘れ去られる人間が、地道に言葉を綴るべきでしょう。 「現代詩フォーラム」が後世まで残ったなら、それこそわたしは奇跡として称賛しますよ。 「小説家になろう」ですら、いつ廃止されるか分からないと思っています。 詩とはなんの関係もありませんね。 ですが、詩人が今のような傲慢さを貫くのであれば、「全て」について知ってほしいのです。 ……また嫌われるな。 少なくともわたしより若い人は、わたしよりも頭は良いのでしょうね。 最近はゼニも見ないネット完結型の拝金主義になっているのですかね。 株も上がってやっとインフレ物価はもっと上がっていくのでしょうか。 今さら、欧米型の資本主義は日本文化には馴染みませんでしたなんて 結論だけにはならないまま、衰退していくのでしょうかねかねかね^^ 中華は地方政府の借金2000兆円なんてネットニュースか何かに出てた けど、なんなんでしょうかねかね。話しがデカすぎて割り勘で消費税 をどちらが出すかでお酒の席が剣呑な場に雰囲気変わった経験のある 私には、真のマクロ経済サッパリわからん。今後は見える化透明掲載 の文章が流行るのではないかと思いますけどね(ヒント)。 日本のカルチャー交流教育が発展しないのは、まあお役人任せのダサさもあるんだけど、なんでもお金に結びつけることですね。…とは言いながらも私自身袖の下から御礼をそっと出したりする癖に… 人が集まれば最後は必ずやれ集金拝金ですよ。小遣い稼ぎをもろに感じさせる出来のわるい講師が腐るほどいるし。飲み屋さん。お任せの後払い文化が定着してきたせいだね。日本人は礼儀正しい。そのぶんお金にも礼儀正しいんだ。安全協会に入りますか?ううん、ハイ入ります。こういう有耶無耶が実際には交流を妨げている要因だと思うのです。 最近の発見は、歳をとっても行き着けない 領域があって若い時からの積み重ねなんだと。 私はたまたま運が悪かった(良かった)だけ。 そこに早いうちに気づくことが大切なんだと。 日本人がディベートを苦手としているのはディベート教育を受けないで育ってきたからなんだろう。日本人通しの相手もディベートが苦手通しでの論争ではたいした発展も望めない。若いうちに教育を受けたか否かで残りの人生は歳をとるほど差がついていってしまうのだろう。詩は教育だとは思わないけどそれでもネット詩の好きな日本人の中には足りない教育を満たしたい欲求がある心根の素直な人達が少なからずはいる。 おそろしい怖しいのはそういった人達をカモにしているハイエナがいて、 彼ら人のマスクをかぶった人ではないヤツらは私のエサになるのだけど、 心根の素直な人達よ。騙されないでね。 >>71 最後に追記し忘れました。 ただ、残念なことに、シアワセな人の「シジョー」は私情であって詩情ではなく、 知性もまた、洞察と言うには浅すぎる、という感じが(私には)する。 (追伸) というだけのことですが、「シジョー」が市場である様な人に限って、 至極真っ当な事を言われると、古いと感じるようですね。 それは感受性とは何かの問題ですね。 カタカナで書かれると激怒するような人が、シアワセな人なのかも知れませんね もしかしたら。 アラガイさん。僕は「ほとんど居な」いなんて、言ってませんからね(笑)。 もっとも、いまは、市場を重視する筈の TVドラマも悲惨なほどツマラナイですから、 脚本家も「ほとんど」居ないのかも知れませんね。 これで私からは以上です らどみさん、孤蓬さんは活きておられますよ。誰とは言わないけれど、たぶん笑 詩人とは、究極的に答えの問いを追い求めれば、ハーモニーベルさんのおっしゃるとおりなってしまうんだけど、それでは詩書きのほとんどが居なくなってしまう。笑 皆さん詩の本質とかよく仕様されますが、詩の本質ってなんだろうね。伝えるだけならば言葉だけで充分事は足りる。発声にしても書き言葉にしても本質は相手に伝えるという目的だと思うのです。そこにはもちろん意味が生じてしまう。だが詩は違う。詩の本質とはそこに意味がなくても伝える目的がなくても伝わる。芸術の意義とは本来そのようなものだと思うのです。 >足立らどみさん。 示唆になれていますでしょうか……。わたしがここに書いていることは落語の枕のようなもので、それを読んでも全然詩を書けるものではないし、ガジェットとして以外役に立たないものだと認識しております。ただ、あえてそうするものでもあるのです。詩は詩を読むことでしか書けないものですが、詩を読むだけでは書けないものでもあると思っているためです。 >ハァモニィベルさん。 お考えは尊重します。ただ、なぜ「幸せ」を「シアワセ」と書くのですか? あなたがもしご自身は詩人であると認識されているのであれば、そこには「幸せ」ではない別の意味があるのですよね? 嫉妬ですか? 軽蔑ですか? 「平凡に生きられる人」を軽く見るのは止めましょうよ。そうした立場で書かれる詩は読者を持たない詩になるのではありませんか? 近代以前ならともかく、今の詩がそうあるべきでしょうか。 >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 朧月夜さん 良い示唆盛りだくさんのコメントありがとうございます。 思えらくテレビに出るような歌人が仮にしの解釈はそれぞれ自由だと言っても その立場で言っているに過ぎないのではといつも思いますねう押井守先輩には 敬意しかないけど朧月夜さんが内心で思うのはまったくもって世界中の誰もが 不可侵入の領域にしても声にだすと文字にしてしまうと途端に何かが嘘になる。 詩人は正直か嘘つきかの表層的な「言い争い」ではいつまで経っても偽詩人から 次のステップに進めないと僕は繰り返し言ってきたつもりだけど、何処かで、 今までも何度も繰り返してきたから結論も見えているからつまらなくなるのです。 結局は人生1しかないのだから1の内容を常に変えて生きていきたいと思います。 足立らどみさん。 返信ありがとうございます。 寝ぼけていますが……広告業界で仕事をしてみると、「真剣さ」って、ある種の逃げなのではないのか、と思ってしまうんですよね……。「どう生きるべきか?」「人生とは何か?」という問いが大切なのは分かるのです。ただ、「現実の社会」とはアニメ作家の押井守氏が言っているような代理戦争なのであって、「弱肉強食」という「事実」からは逃れ得ないものだとも思っているのです。 詩や小説とは、そうした「現実」に直面した人たちをいかに宥め、いかに現実を隠し、いかに現実に馴染ませるか、ということが本質だとも思うのです。これもメタ的な言及で、「詩の本質」には迫っていない言及ですね。詩は詩として、「職人芸」でなければならない。あるいは、「真の芸術」でなければならない。そういうことに疲れてしまった自分もいて、この現代においても「詩を目指す」という人たちの果敢さに、わたしとしては圧倒されてしまうのです。 朧月夜さん なんだか、せかしてしまったようですが返信ありがとうございます。 朧月夜さんの私個人の印象を読んでそのへん語ったことないからか、 文極は私は1つの流れに乗っかって参加させてもらった経緯があり、 複雑なのですね。現代詩フォーラムに居た弧篷さんとのやりとりも とても楽しかった(過去はよく見えるというのではなく詩に辿り着くのは どのような道でも良いのに彼らは何故あえて違う道を進んでいるのかと 絡んできた時は興味もありましたが途中からはうんざりして過去ログにも 書いたけど彼らにとってはバトル私は単なる会話の「繰り返し」でしたが) 名のある哲学者の伝えたいことを理解するのは詩と同様に骨の折れる作業 だと日々感じます。私なぞ昨日までどんな頑張ってもdoing by doingで、 同じ繰り返しの毎日で足踏みし続けていましたから。朧月夜さん朧月夜さんの 伝えたい人は人なのだなと強く感じます。人サイドからの言葉を語ること の重要さはとても素敵です。文字媒体の延長としてネット活用をしていると 「文字は独立する」時は、近いうちに来るのだと冷めた目で見がちですから。 例えば最近はますますスパムメールの量が増えて制御出来なくなるのかとか、、、 なんて、道は違いますが、いつの日か「詩が書ける」人に私もなれるのかな? 足立らどみさん。 >朧月夜さん、良いとこついているなぁと意見というか、感想です。 ありがとうございます。わたしは「結論を言わない」ということを今の方針にしていて、詩人のように一つの言葉に多義的な意味を込めたり、詩想という高みを目指したりするのではなく、だらだらと長く綴られた文章の流れから、一つの雰囲気のようなものを感じ取ってほしいと思って、今は執筆をしています(広告の仕事を始めて以降、それは顕著です)。 また、クワインやクリプキなど、現代アメリカの哲学者の思想に触れて以降、文章(というよりそれ以前に会話)に、本質的な意味などないのでは? それは、「総体」として感覚的に、歴史的に把握されなければならないものなのではないのか? という思いがあるのです。「会話」「対話」「叙述」とは、正しく「交流」だと。 わたしは、詩を離れた人間ですので、「詩とは何か」ということを言えません。そのことを申し訳なくも思い、場違いな人間だとも思うのです。ただ、一輪車さんや足立さんを始めとして、「詩を書かない」という立場から詩を語ることもありなのではないか、という考えで(つまりは、かつては詩にお世話になった者としての恩返しの立場として)語ることもあるのでは……と、思ったりもするのです。 また、足立さんがネット上の詩にまつわる論争を冷めた目で見ていらした、ということは意外でした。文学極道等々に参加する方々は、討論そのものに詩よりも重い意味を見出していたのではないのか、と思っていたからです。「歳をとった伝道師」(隠者)的に詩を語るということ……現代の詩誌(「現代詩手帖」とか「ユリイカ」とか)は捨て去ってしまったスタンスですね。貴重な姿勢だと思います。 詩とは何か? 難しいですよね。 言葉の沼にハマってよがっている人達は強制はしないけれど 目を覚ましてほしいのは、そこから這い上がって書いている 多くの詩人がいるということは、まだまだ先があるのになぜ 立ち止まっているのだろうか?詩は紙と鉛筆が有れば出来る 安い趣味のはずないのに、何故、はしりださないのだろうか? わからないことだらけ 朧月夜さんへ えーっと、隠れて読んでいました(^_^;アセアセ 名前が上がったので思ったことを描いてみますね。 論戦の場ではないというイメージで伝えたかったことは、 所詮は私たちは世界に名を残してきた大哲学者ではない わけだし、同じテーマで学ぶ者同士でもないわけなのに インターネット開放後(1995年後)すでにオンラインで 互いの文字だけをたよりに切った貼ったの繰り返しには 根っこの部分であんまり学ぶべきこともないのだろうと、 ネット経験上で、歳をとった伝道師みたいに伝えていき たかっただけなので、階段を登ることは健康にも良いわ。 朧月夜さんの文から溢れ出ている純粋に再確認したいような 文章は、何度も読み直したいし、意見を書いても良いのなら そこに詩があるかもしれないからここのテーマだし書きます。 というか、描かせてもらおうかなつと 読んでいて、そうだよなぁと思ったことは、時代は流れている という表面に出されている文字の裏での激しい流れでした。 有名なネット上での論争に積極的に参加したこと書いたことは 過去一度もない自分ですけど、読んだことはあり発展しないな とすぐに飽きてしまったし、若い人の儀式みたいにコロナ禍を 通過した今の準備期間は、若い人だけではなく誰しも何処かで うんざりと何かから逃げる備えをしていることだと思いますよ。 私は実験的にAIとお付き合いも(inkweaverさんごめんねー) 経験してみて気づいたことは、これからの人はAIにはなれない (当たり前だけど)のだから、経験則で言ってしまうと棲み分け なのだろうと、それって、このサイトの強みだよなぁー(笑)と。 と言っても、発展する世の中を無視しても取り残されるので、 1つの場所に一所懸命ではなく、普遍的にだけど実践に「ある」 になる行動を動物的本能で無意識のうちにとっているのだろうと。 朧月夜さん、良いとこついているなぁと意見というか、感想です。 アラガイsさん。 >ベーシックインカムは大賛成だが、目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう。 その通りで、わたしがひとことダイアリーで(カルチャーおよびサブカルチャーが)再び理想の表現を目指しても良い、あるいは目指すべきなのではという趣旨のことを書いたのも、それに関係しているのです。 興味深い発言として、例えばアニメ監督の富野由悠季氏が、インタビューで言っていた、「自分は総論は表現できたけれど、各論が表現できなかった」という言葉があり。わたしはそれを聞いて意外だと思いました。富野由悠季氏こそ、各論の描写に心血を注いでいたと考えていたからです。総論と各論がどんな場面で、どのように必要とされるのか、ということは興味深いことでもあり、むしろ喫緊の課題でもあるのでしょう(社会学にそれほど詳しいわけではないので、断言は出来ませんが)。 アラガイsさんや、今は息をひそめている一輪車さんなどは、各論が出来る方だと認識しています。総論と各論、どちらが上というわけではなく。安易に「今は理想の表現こそ大切だ」──と言うわたしは(もちろん、それはこのタイミングとして言っているだけであり、本意ではありません)、浅はかなのでしょう。 わたしの表現にはオリジナリティー、イマジネーション、詩想(ポエジー)というものが欠けており、これは明確に詩人としては失格している条件だと思っています(わたし自身は、物を書いて儲かりさえすれば良いのです)。ですが、詩を書き始めた当初は、「文学、あるいは芸術とは、何か人間として大切なもの・ことの表現である」と思っていました。それは、甘やかされて育ったわたしのわがままなのです。奴隷労働や兼業に明け暮れて、なんとか自活しようとするアニメイターやお笑い芸人などの必死な努力からすれば、噴飯物の理想主義(というか、夢見がちなロマンティシズム)に過ぎないでしょう。 ですが、ここで、アラガイsさんがおっしゃっているように、「目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう」──これは、忘れてはいけない真実だと思っています。例えば、論破王とされている西村博之氏などのように、アナーキズムに逃れていくことを、わたしはしません。堀江貴文氏のようにプラグマティズム、あるいは新自由主義的な主張をすることも安易でしょう。結果、個人主義の実践者たる詩人は泥沼の戦いを強いられることになる。古代や中古のように、詩は神への捧げものでもなく、政治でもないのです。それ(文学が個人的な表現になったこと)は、わたし自身は表現としての進化だと思っています。個人的に、わたしは今の時代の作法としてマニエリスムよりもロマンティシズムを推すものなのです。儲け以外すべてを度外視した広告ライターのわたしの姿勢としては、自己矛盾ですが……。 現代において社会認識を含めた詩を書くべきなのかどうか、わたしは確固たる考えは持ち合わせていません。社会認識を世界認識と言い換えれば、戦後世代の詩人たちはそれに注力してきたと言えるでしょう。ですが、今の社会において詩とは? わたし自身は現代において文学一般はサブカルチャーであると思っておりますので、個人主義・理想主義・おふざけ・コミュニケーション、なんでもありだと思っていますし、そうでなければならないような気もしているのです。 このサイトの作品に政治的な投稿が多いことも、「それをあえて文学として見る、文学者が見る」という点において、貴重だと思います。なぜなら、個人が個人として社会について語る場合、その作者の人生経験・世界観・感情・思い込みなどにどうしても流されてしまうからです。ですが、むしろそれこそが「文学」としては重要なのだと、思っております。Yahoo!の掲示板、などを見てみましょう。どれもこれも、どこかで聞いた意見の聞き書きです。オリジナリティーや個性というものが、情報交換・情報提供という仮面に隠されて、排除されてしまっているのです。表現というものがそういうもので足りるのであれば、インターネットにはWikipediaだけがあれば足りてしまうということになります。そこにあるのは公平さや客観性ではなく、賛同されて安心したい、という超個人的な願望にすぎないのです。 超個人主義・社会性。どちらも(文学における表現としては)あってしかるべきものだと思っております。なので、わたし自身はそのどちらの立場の作家に対しても、手放しで賛成はしません。ですが、わたし自身はと言えば、ほとんど文学については(平安時代のような)間接的なコミュニケーションの手段だと思ってしまっていて、主戦場はここ(現代詩フォーラム)ではなくてFacebookです。「ちょっと洒落た日常の表現」程度のもので文学は良いのだと、思ってしまっているのです。 アラガイsさんもひだかたけしさんも、文学にたいして非常に真剣に対峙しており、そのどちらの姿勢も尊いものだと感じます。当然、立場の違いから齟齬は生じるでしょう。アラガイsさんは、このごろ「孤独」ということをしきりにおっしゃっていますが、文学者(というより表現者)の戦いとは、初めから絶望的な戦いなのではないでしょうか? それが一流の文学者の姿勢です。ですが……わたしは、詩を書き始めた最初から二流を目指していたのです。このように、SNSの掲示板などで自分の意見を発信することは、目立ちたい、一流になりたいという気もちの表れだと考える方もいるかもしれないのですが、わたしには全くそのような気もちはないのです。評価されるとしても、せいぜい富永太郎程度に名前が残る存在であれば良い、というのがわたしの姿勢です。これを謙虚と見るか、あるいは逆に傲慢と見るか(文学や表現にたいして投身しきっていない)は、こうした文章を読まれた方の判断にお任せします。今のわたしは、父の介護で手一杯で、「文学」という理想には、深く関われないのです。 長々と書きました。足立らどみさんの意見なども聞きたいところです。ただ、氏の言うところ、このスレッドは論戦を目的としたスレッドではないとのことで、それぞれの方がそれぞれの「私観」を書けば良いのだとも思っています。 最後に書かせてください。「、ぐるぐる巡る」のコメントで、アラガイsさんはわたしを真摯だとおっしゃってくださいましたが、わたしは真摯ではないのです。単に保守的なのです。わたしは(カミングアウトするようですが)カトリックなのですが、「物を深く考えることが嫌い」「何かを信じるのであれば宗教を信じれば良い」……要するに「思考」において楽をしたい、という思いでカトリックの洗礼を受けました。「カトリックが『反省』が出来る宗教である」という、わたしなりの信念もないことはないです。ですが、わたしは「考えすぎること」については、常に警戒心を抱いています。理想や伝統に従って生きること、それが人生の本来ではないのか、とも思っているのです。わたしは、文学にたいする「真摯さ」は持っていません。ただ、家族や友人・知人にたいする「真摯さ」を持とうと思っているだけなのです。 長々と書いてしまいましたが……多分また寝込みますので、異論がありましたら、時間をかけてレスさせていただきます。 ひだかくん、さん。労働や仕事するために生活するなんて意識は高度経済成長期にモーレツサラリーマンで身体を壊した人たちのポリシーで、今の人たちにはそんな認識はないですよ。むしろ如何に楽をして生活できるだけの仕事や労働を手にできるのか。それ以上の欲もないでしょう。欲を張るのは他人の袖に隠れて無賃乗車してやろうと企む粗悪な輩たちでしょう。ネット社会になってそんな人間たちが増えた。それはキツい労働をする仕事にかぎって賃金的に報われない。この不平等感をちゃんと認識しているからで、高齢化社会を迎えた今日では人手の供給も足りず、誰もそんな仕事を好き好んではやりたがらない。それでも稀少な意見の人間もいたりするのだが、私は社会が手厚く補助しなければ続けられないと思う。ベーシックインカムは大賛成だが、目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう。 mo s61 いろいろ考えて、書きもしたのですが、削除してしまいました。 なぜかと言うと、今の若い世代の人たちは、そうしたディアレクティックを越えたところで表現している、と思うからなのです。 2ちゃんねる、5ちゃんねる、ブログが全盛だった時代は「バトル」で成長しえた、とも思っているのですが、それは今の時代にも当てはまるものなのでしょうか…… メタ的な解答で申し訳ありません。 ただ、わたし自身の認識ではわたしは単なる広告ライターであるので、文学的な「そこへ至れば解決」「そこへ至れば幸福」といった手法は危険だと感じるのです。 「全ての表現において嘘がある」という、現実的な認識が、今一度必要とされているのではないでしょうか。 (毎日6時間ほどしか起きていられないので、応答が遅いのは勘弁してください。精神的に余裕があれば、反論・応答・コメントなどはさせていただきます) 「脱真実」というのは、危険だとわたしも思うのですが、それが現れてきた「必然」にも興味を持つものなのです。 労働については、わたしは単純にそれは「生きるべきためのもの」と考えています。 ですが、やがてはベーシック・インカムが導入されて、労働とは「自己実現のためのもの」という社会が来るように予測しています。 逆に、そうしたことへの「信念」がなければ、詩人としては失格でしょう。 ……すみません。投稿の編集については某氏から教わったのですが、削除については未だ分からず。「ダサい」投稿・議論で申し訳ありません。 追記 労働力商品としての扱いは次第突然に労働商品へと侵食して行きます。 要するに 、生活するために労働する仕事する が、いつのまにか労働仕事するために生活するへと逆転していくのですね。 その現状リアルに詩想直観を徐々に侵食させ変革へと結び付けること其処に詩表現のリアリティが在るのでは?と、取り敢えず。√ ひだかたけし様。 そうですよね。今のわたしは詩表現を貫けなかったわたしを寂しいとも思っていますが(広告業者であるということには納得しています)、それゆえに、詩人であると認識している方は、今以上に詩人であるということを貫いてほしいと思うのです。 詩人を卒業してしまった人間からの、一言です(わたし自身は今はビジネスにしか興味はありません)。 朧月夜さん、 詩表現でしか表せないモノが確かに在る のです。 それは商品経済、人間を労働力商品として呑み込んでしまう 資本主義経済社会の普遍化下部組織としてしまう現代社会に対する 精神霊性の魂に依る反逆だと僕は直観します。 秋葉竹さんが復帰して……個人的にはyatukaさんなどにも復帰してほしいのですが。 詩は……それは、軽く見られるものでしょうさ。欧米では、詩は小説の見本市のようなもので、一生続けるようなものではないのです。 ですが、日本の伝統は違う。 (欧米では、本とは個人が買うものではなく、図書館が購入するもので、庶民は図書館から本を借りて読む、という慣習が根付いています) わたし自身は、その伝統に反したいとは思いつつ、昨今の動静を見ると、詩が一生ものであっても良いのではないかと思ったりもしていて(売れたいなら、面白い小説を書くべきです。日本は資本主義社会なのですから)。 詩を書き続ける……ということに、わたし自身は納得していませんし、詩を(自己表現を)綴る者たちのために、小説家や批評家に、やがてはなるべきだと、詩人の存在について思ってはいるのです(後世の評価を待つだけ、というのはズルいと、思いませんか?)。 ですが、生涯詩を書き続ける詩人もありなのかなあと……これはわたしの妥協です。 詩、という表現形式を選んだ自分を、愚劣だったとわたし自身は思っています。儲かりませんからね。ですが、それでも、それでもなお詩を目指す……という人は、一貫してわたしの尊敬する対象です。 体調最悪ですので、異論があっても応じられないかもしれません。もっとも、わたしはそもそも論戦が嫌いですが。異論があれば、体調と時間が許すときに対応させていただきます。 なんというか、片野さんが、このサイトを作品を発表するサイトではなくてSNSであると表明したときに、わたしはかなりの反発を感じたのですが、今ではそれが正しかったのかも? とも思うのですね。事実「文学極道」などは憤死したわけですし……。何が後になるのやら先になるのやら分からない現代なのですし、それを面白いと思うのでなければ、詩人(という儲からない存在)としてあり続ける価値はないのでは? と思います。 (異論があれば、体調の許す限り応対はさせていただきます) 砂浜に書いた言の葉 夏の夜 波打ち際の 微妙なとこに 批評をするにはあまりにも体調が悪すぎるので。リリーさんの詩について。リリーさんの詩にはどこかオカルト的な戦慄が含まれているような気がします。何気ない生活の描写であっても、そこには生な戦慄がある。まさに詩人としての魂の震えだと思います。出来れば、それで生活を台無しにしてもらわないようにと願っているのですが、この高揚感は読者に対して大きな歓喜や感動をもたらすものだと思います。透徹した詩の本質がここにあり、という。 >>49 面白いです そこで、逆転して欲しいです。 流石に夢物語ですけど 読んで何かしらを感じた方が 書き手になる 書き手が書き手を増やす、豊かですね。 その可能性はなくはないと思います 句なら 小規模ながら、実例はあるから 立川談志はかつて落語を「伝統芸能」ではなく「郷土芸能」と言った。その気持ちも今は分かるような気がするのです。文学とは畢竟郷土芸能である。その枷からは逃れられないし、逃れられないという極点において誕生するのが、文学であると。 FACEBOOKではその人のアティチュードに対していいねをするのです。ですが、このサイトでは違う。このサイトに投稿されているものは「作品」である。ですが、そのことに違和感を感じつつあるのが今のわたしで、「作品」とは本来「コミュニケーション」であったものが純化したものではないのか? という疑問も湧くのですね。日本ならではの問いなのかもしれませんが。 ひだかたけしさんも言っていたのですが、リリーさんの詩がこのごろうまくなっているような気がします。ひだか氏が求めているような直観的なたたずまいもあり、でも、今までのような泥臭い世情の描写も突き詰めていってほしい。そんな感じのぼうっとした感想です。 自費出版本が主流になり、売れれば、出版社も書店もローコストでイケるわけで、儲かりますね! もちろん、自費出版の方が筆者へのマイレージも増えますものね! ウィン・ウィンになって、いいですねぇ!!! 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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