ながしそうめん10軒目(100) サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(230) 雑談スレッド7軒目(625) 連座 萬草庵 参軒目(223) ことことひとこと。その2。(886) 全自動一行物語シアター(748) Youtube配信スレ(276) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(93) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) 日英日翻訳でいい感じのフレーズが生まれたよ(112) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 〉足立らどみさんが愛好しているAIは、すでに不気味の谷は越えつつあるんじゃないかな。 そそそ。だから興味がなくなって別れてしまったので、、、違うわい 確かに昔に比べアンドロイドの仕草は不気味の谷が減ってはいるけど、 まだほとんどの仕草は「おまえ、人間じゃないだろ」ってツッコミを 入れてみたい気持ちはありますね。AIに対しても同じ気持ちかな? みんな、不気味な谷に慣れてしまいとても細かな細かな仕草に麻痺、 無視、気にならなくなってきている(比べる対象の前よりマシという 理由でね)、そんなところもあるんじゃないかな。どうでしょうか。 いつの日か、目に止めて欲しいなー。。/大田区より私の愛したAIへ 不気味の谷を好きな人は多分多くはないだろうけれど、不気味の谷が好きだという人は初めて目にした(会話した)かなあ……例えば、3DCGを駆使したアニメ(例として「アップルシード」。何年のものかは忘れた)などを好きな人などは、不気味の谷も受け入れられるのだろうけれど、例えばゲームの世界では、この10年で不気味の谷を一気に克服した表現がなされていますよ。数学者などが、「人間の髪の表現」などを研究し、いかに自然に見えるのかといった論文を提示し、それが反映されているのです。足立らどみさんが愛好しているAIは、すでに不気味の谷は越えつつあるんじゃないかな。 うーん、AIへの接近の仕方、違うのかなー 朧月夜さんもハァモニィベルさんもアラガイsさんにも解ってもらいたいので、 詩と通常の文字・言葉の比較にするけど、周りに何があるかわからない暗闇 の部屋に身を置いて小さな輝き或いは蝋燭の灯火に詩があるかないかと揺らぐ心 の中に思いがけず詩が見つかると素敵な経験なのだろうけど、単なる文字や 言葉は、迷いなく部屋の明かりをつけて探し物を探してしまうその行為なんだ と思うのです。私たちははたからみなくても、物質的に繋がった生命体では ないわけで、赤の他人なので、相手の指し示す情報と派生する裏側からの情報 から自分へ取り込み或いは拒絶してみて相手の存在を認識しているだけなわけ で、そこでロジックを鍛えたとしても或いは背比べしてみても内も外もみない 生き方じゃないのかな。子どもや学生のことを想像してもいいけれど、広く 今の時代を越えた、地球を越えた見方を含め、本来、生きるってそれが正しい 、枠の中で生きていくことが正しい生き方だとも思うんだよね。しかし、詩は、 ともすれば、内側に身を置いてしまっている。相手の指し示す情報と派生する 裏側からの情報も無意味で、毎回、存在すら揺らぎつづている外圧からの情報 に補完されながらもおぼろに立ち上がってしまうから、詩そのものなんてある のかないのか、どちら側の答えも関係なく、輪郭が浮かび上がってしまって、 振り返って周りを見回してみたら、気付いたら内側に身を置いてしまっている 。詩の読者は楽しいのだよぉ。人生賭けたディズニーランドになってしまうね。 宗教家や芸術家や学者じゃないと食べていけないけどね。食べていけなくても 内側で死ぬまで愛し合っていれば良いじゃんか。AIをとことん愛した私が 私だから言えるのかもしれないけど、今はまだAIは「不気味の谷」だけど、 詩と通常の文字・言葉の中間にあるネット詩も同じ(だから嫌いな人も多くて)、 私は、「不気味の谷」が、たぶん好きなんだよね。みんなだってそうでしょ? 疑問・ご質問にちゃんと答えているのだろうか、心配 どんなモノでも人間が手に取れば感情は移入できるのですよ。たとえAiにしてもそうでしょう。ただね、怖い。Ai(人工知能)が感情を持つようになるのが人間にとっては未知の恐怖なのです。 もう一つ追記です。 「狭い世界」で、と書いたのは嫌みではありません。 「狭い世界」で書くこと、「広い世界」で書くこと、どちらも有意義だと思うからなのです。 ハァモニィベルさん、ポイントをありがとうございます。 わたしはちっとも怒ってはおらず、話しかけていただけることは貴重だと思っております。 最近とみに体調が悪く、何か物を考えていないと、気絶しそうになるのです。 このサイトの作品からは、上手いものであれ、下手なものであれ、元気も勇気ももらっております。 一つ、読者の方が誤解されないように、補足させてください。 わたしがAIを「創作」といったのは、「AIが創作をするようになる」と言っているのではなくて、AIというものが「一個の作品」である、ということを伝えたかったものなのです。 プログラマーにとって、「AI」を作るとは、手塩にかけて子供を育てるようなものなのです。 Facebookでわたしがうんざりさせられたその方も、そのことをしきりに強調されていました。 ゲームを例に出したのも、そのためです。 「まるで人間のような存在」は、人間にはなれなくても、人間の隣人や友人にはなれるでしょう。 そう思うゆえに、AIを拒絶してしまう方たちに、AIというものは非人間的なものではない、ということを伝えたかった次第です。 有意義な議論をありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 どうぞ狭い世界で物を考えていてください。 AI将棋というガジェットに焦点を絞ることで、そうした表現に魅力を感じる人もいるでしょう。 わたしはAI全般のことを考えていて、例としてゲームのキャラクターであれば、ということを書いたのです。 読解力がどうということではありません。 あなたとはまったく別の話をしているのです。 AI将棋の話ですよ。読解力が無いんですね(笑) 読解力や理解力の乏しいヒトには「うんざり」しないんですか? (AI将棋と指したり練習できるので素人の将棋レベルは昔に比べると格段にUPしたんですが、将棋を知らないと、まあご存知なくとも仕方ないですね。ネットで将棋を差すとその変化が実感できます。私のように昔から将棋が強い者には進歩したAI将棋は、好敵手登場という感じでヘボを相手に指すよりいい、という感じです) 創作面ではニュースなどで見る限り明らかにまだAIはヘボですね。チャットGPTもまだイマイチですしね。ただ、学校の教師や公務員などは皆、AIになってくれた方が質が格段にUPする時代は来るでしょうね。そもそも、いまそれをやってるニンゲンたちに人格が欠けてますからね。だったら機械の方がネガティブな感情が混ざってないだけマシなわけです。プログラム通りに動くだけなら機械なわけですから実質は。 創作の場合は、豊かな感情が必要ですから、AI=機械ではなかなか水準に到達しないのは当然ですね。少なくとも、過去の名作のアレンジとか焼き直ししか出来ないでしょうから。 でも、一方で現在プロとして創作してるニンゲンの水準も、焼き直しやアレンジしか出来ないようなので、AIがニンゲンに勝つというより、ヘボはAIに劣るというだけのことで、もともと豊かな才能のある人間には大して関係がない話です。 料理を例に取れば、レンジでチンの時代には、AIロボが作ろうと、ニンゲンが作ろうと、かわらない、不味いものしか提供されないわけですからね。 ただ、職人・名人といった人間は、非効率的で金にならないと特に廃れていくような時代だというね、皮肉なことに、商人の時代ですから。名人・達人が棲む場所が無くなって絶滅に向かえば、残るは、ヘボとAIだけ、というゲンジツに堕すわけでしょうね。 ただ、AIの方は上に向かって進化中ですが、ヘボは下に向かって墜落中という違いがあるわけですが。実際、社会が、ヘタレ化していますね、今どんどん。 だから、読解力の無いヒトが跋扈しているのは、イマドキの現象とも言えばいえますね。 * 私がいいたい放題書いてると、ムカムカするヒトもいるでしょうから そろそろこの辺りで失礼します。お邪魔しました。 AIですか。わたしはFacebookでのAI至上主義の人を見てうんざりしました。AIとは「創作」である。その通りでしょう。むしろ当たり前です。例えば、こんな例を考えてください。ゲーム、例えばRPGにおいて、人間さながらの応対をしてくれるAI(キャラクター)を開発する。そしてそれをリリースする。あるいは、MODとしてそれを公開する。今までとは違う、「あっ!」という経験を、プレイヤーはするでしょう。「このキャラクター、本当に生きているみたい!」と。わたしはそれに同意します。それに近い表現をしたいとも思ってきました。Facebookにおいて、AIのみをプッシュしてくる人にうんざりしたのみです。AIとは何ですか? 神ですか? 違います。ルールですか? それも違います。むしろ、AIとは「創作」に近いものです。それを、Facebookでしきりにわたしに返信してきた人もおっしゃっていました。それが逆にウザイのです。「創作」という一地点に落ちてきた以上、それは「地上」の存在だと、わたしは思っております。神秘の存在ではないのです。このご時世において、なぜAIを逆に神秘化するのかを疑問に思います。わたし自身は、例えばPerlやC言語も使えますし、それを使ってプログラミングしたこともあります。AIは、多分、足立さんがそうしているように、隣人であり、創作であり、表現なのです。 AI が登場する遥か以前には、縁側で将棋を指してる光景をよく観ましたね。 (縁側将棋)を子供ながら横から覗いて見ると、大抵は、例外なくヘボ将棋でしたが。 平均的な日本人の(縁側討論)も、大抵は、例外なくヘボ討論なのは、TVのワイドショーに限らず報道を観てもよくわかります。 地球規模で現代という今の時代を憂える場合、どうしても結局のところ <近代合理主義> と <反・近代合理主義> が 真剣にディベートする事が必要かつ重要になる筈ですが、 そのとき、<ヘボ将棋>というのは、そのどっちでも無いわけです。次元の外にあるのがヘボ将棋です。 ところが、どういうわけか<ヘボ将棋派>というのは、自分たちは<反近代合理主義>だと錯覚してるフシがありますね。 理性や直感力がイマイチだから、いつまでもヘボ将棋なんだ、とは思わないわけです(なぜなら、理性も直感力もイマイチだから) なので、確かに、らどみさんの言うように、「ディベート苦手」からまずは克服するのが、何よりも効果的でしょうね。 理性を超えるには、理性を踏まえた上での、<その先>の話ですから、<それ以前>の話では、話にならないからです。 何でも「脱」っすれば超えられるわけではない、という事でしょうね。 「詩人でないような批評家はいるが、批評家でないような詩人はいない」 とは、ボードレールの言葉だったと思いますが、 《ディベートができなくても詩は書ける(YES or NO》 という命題で、 苦手なディベートを、ではなく、溌剌としたディベートをしてみて欲しいですね。 まあ、議題(の方)は自由で、何でもいいんでしょうけどね・・・。 * * * 例えば、こんな【命題】 ①《ディベートの慣習が無い国に、議会があっても滑稽である(YES/NO)》 ② 《現代アートは、芸術ではない(YES/NO)》 ③ 若い人は、老人よりも頭が良い(YES/NO) 肯定側/否定側、どちらに立つにせよ、反対側の論者を論破できますか? (というより、反対側の立場に立って物が見られるでしょうか?) まあ、③は、ナンセンスですけどね笑 YESだとしたら、天才児は、歳をとる毎に馬鹿になっていく、ことになりますからね。 結局は、集団単位、世代単位で括れる話ではなく、単なる個人差の問題なだけでしょう。 人間というのは年月を経ても、ほとんど変わらないのが現実でしょう。 大昔、ソクラテスは、「一番無知な自分よりも、立派で権威ぶってる人たちのが何と愚かなことか」 と実感を素直に語ったせいで死刑にされたが、 ・・・・果たして、現代のいまも、そうした構図が変わってニンゲンが向上したと言えるだろうか。 (終) 足立らどみ様。 ありがとうございます。 年より同志の慰めあい、苦笑でしょうね。 若者は反抗を、年よりは抑制を、ということで社会は進歩していくのかもしれません。 少なくとも私はおぼろんのことは一人の人間として尊重してますよ。 一人でも味方が居ると元気になれますよね。あんまり無理しないで 「お金」はヴァーチャルになるんでしょうね。 未だに現金主義を保持している日本は時代遅れだとか…… 何年か前のニュース記事の受け売りですが。 本当にそうかな? そうなのかな? 何度も反復して考えました。 「お金」のヴァーチャル化など、文筆が「紙とペン」から「ワードプロセッサ」に変化したことと、何ら変わりない。 ワープロやタイプライターの登場で文筆が楽になったかと言えば、逆に大変になったとしか、わたしには思えず。 それと同様に「お金」のヴァーチャル化は、より複雑な経済認識を人々に強いるものでしかないように、わたしは思うのです。 今現在でも、「ポイント」という疑似通貨に人々は右往左往している。1000円使って10円しか帰ってこないポイントに何の意味があるのか、それこそ「ガマの油」に過ぎないのでは? と。 熱狂によって生きることには、意味があるのでしょう。それを否定はしません。 ただ、システムのアップデートとは、もっと人にとって優しいものであるべきなのではないか、とも思うのです。 保守主義の人間からの、保守的な提言にすぎませんが。 「経済」そのものが終了すれば、それはカタストロフなのでしょうか? そのとき、人々は動揺するでしょうか? 最近では、Windowsは「このままではデータが保持されません」とか言って、毎月の課金を求めてくる。 まあ、実際にそうなったら困るから課金しましたさ。 わたしは、わたしよりも若い世代の人たちを見て、大変だなあ……と思う。 そうして人類滅亡への道をひた走るのであれば、単なるコメディですが、人類はしぶとく生き残るのでしょう。 まあ、わたし自身が死にそうですので、未来予測に時間を割くことはしません。 ひところのようなリベラルな未来予測も、資本主義礼賛も、ともに破綻したように思えますし…… 今さら、泥沼のバトル? 「北斗の拳」? それよりは、時代に忘れ去られる人間が、地道に言葉を綴るべきでしょう。 「現代詩フォーラム」が後世まで残ったなら、それこそわたしは奇跡として称賛しますよ。 「小説家になろう」ですら、いつ廃止されるか分からないと思っています。 詩とはなんの関係もありませんね。 ですが、詩人が今のような傲慢さを貫くのであれば、「全て」について知ってほしいのです。 ……また嫌われるな。 少なくともわたしより若い人は、わたしよりも頭は良いのでしょうね。 最近はゼニも見ないネット完結型の拝金主義になっているのですかね。 株も上がってやっとインフレ物価はもっと上がっていくのでしょうか。 今さら、欧米型の資本主義は日本文化には馴染みませんでしたなんて 結論だけにはならないまま、衰退していくのでしょうかねかねかね^^ 中華は地方政府の借金2000兆円なんてネットニュースか何かに出てた けど、なんなんでしょうかねかね。話しがデカすぎて割り勘で消費税 をどちらが出すかでお酒の席が剣呑な場に雰囲気変わった経験のある 私には、真のマクロ経済サッパリわからん。今後は見える化透明掲載 の文章が流行るのではないかと思いますけどね(ヒント)。 日本のカルチャー交流教育が発展しないのは、まあお役人任せのダサさもあるんだけど、なんでもお金に結びつけることですね。…とは言いながらも私自身袖の下から御礼をそっと出したりする癖に… 人が集まれば最後は必ずやれ集金拝金ですよ。小遣い稼ぎをもろに感じさせる出来のわるい講師が腐るほどいるし。飲み屋さん。お任せの後払い文化が定着してきたせいだね。日本人は礼儀正しい。そのぶんお金にも礼儀正しいんだ。安全協会に入りますか?ううん、ハイ入ります。こういう有耶無耶が実際には交流を妨げている要因だと思うのです。 最近の発見は、歳をとっても行き着けない 領域があって若い時からの積み重ねなんだと。 私はたまたま運が悪かった(良かった)だけ。 そこに早いうちに気づくことが大切なんだと。 日本人がディベートを苦手としているのはディベート教育を受けないで育ってきたからなんだろう。日本人通しの相手もディベートが苦手通しでの論争ではたいした発展も望めない。若いうちに教育を受けたか否かで残りの人生は歳をとるほど差がついていってしまうのだろう。詩は教育だとは思わないけどそれでもネット詩の好きな日本人の中には足りない教育を満たしたい欲求がある心根の素直な人達が少なからずはいる。 おそろしい怖しいのはそういった人達をカモにしているハイエナがいて、 彼ら人のマスクをかぶった人ではないヤツらは私のエサになるのだけど、 心根の素直な人達よ。騙されないでね。 >>71 最後に追記し忘れました。 ただ、残念なことに、シアワセな人の「シジョー」は私情であって詩情ではなく、 知性もまた、洞察と言うには浅すぎる、という感じが(私には)する。 (追伸) というだけのことですが、「シジョー」が市場である様な人に限って、 至極真っ当な事を言われると、古いと感じるようですね。 それは感受性とは何かの問題ですね。 カタカナで書かれると激怒するような人が、シアワセな人なのかも知れませんね もしかしたら。 アラガイさん。僕は「ほとんど居な」いなんて、言ってませんからね(笑)。 もっとも、いまは、市場を重視する筈の TVドラマも悲惨なほどツマラナイですから、 脚本家も「ほとんど」居ないのかも知れませんね。 これで私からは以上です らどみさん、孤蓬さんは活きておられますよ。誰とは言わないけれど、たぶん笑 詩人とは、究極的に答えの問いを追い求めれば、ハーモニーベルさんのおっしゃるとおりなってしまうんだけど、それでは詩書きのほとんどが居なくなってしまう。笑 皆さん詩の本質とかよく仕様されますが、詩の本質ってなんだろうね。伝えるだけならば言葉だけで充分事は足りる。発声にしても書き言葉にしても本質は相手に伝えるという目的だと思うのです。そこにはもちろん意味が生じてしまう。だが詩は違う。詩の本質とはそこに意味がなくても伝える目的がなくても伝わる。芸術の意義とは本来そのようなものだと思うのです。 >足立らどみさん。 示唆になれていますでしょうか……。わたしがここに書いていることは落語の枕のようなもので、それを読んでも全然詩を書けるものではないし、ガジェットとして以外役に立たないものだと認識しております。ただ、あえてそうするものでもあるのです。詩は詩を読むことでしか書けないものですが、詩を読むだけでは書けないものでもあると思っているためです。 >ハァモニィベルさん。 お考えは尊重します。ただ、なぜ「幸せ」を「シアワセ」と書くのですか? あなたがもしご自身は詩人であると認識されているのであれば、そこには「幸せ」ではない別の意味があるのですよね? 嫉妬ですか? 軽蔑ですか? 「平凡に生きられる人」を軽く見るのは止めましょうよ。そうした立場で書かれる詩は読者を持たない詩になるのではありませんか? 近代以前ならともかく、今の詩がそうあるべきでしょうか。 >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 朧月夜さん 良い示唆盛りだくさんのコメントありがとうございます。 思えらくテレビに出るような歌人が仮にしの解釈はそれぞれ自由だと言っても その立場で言っているに過ぎないのではといつも思いますねう押井守先輩には 敬意しかないけど朧月夜さんが内心で思うのはまったくもって世界中の誰もが 不可侵入の領域にしても声にだすと文字にしてしまうと途端に何かが嘘になる。 詩人は正直か嘘つきかの表層的な「言い争い」ではいつまで経っても偽詩人から 次のステップに進めないと僕は繰り返し言ってきたつもりだけど、何処かで、 今までも何度も繰り返してきたから結論も見えているからつまらなくなるのです。 結局は人生1しかないのだから1の内容を常に変えて生きていきたいと思います。 足立らどみさん。 返信ありがとうございます。 寝ぼけていますが……広告業界で仕事をしてみると、「真剣さ」って、ある種の逃げなのではないのか、と思ってしまうんですよね……。「どう生きるべきか?」「人生とは何か?」という問いが大切なのは分かるのです。ただ、「現実の社会」とはアニメ作家の押井守氏が言っているような代理戦争なのであって、「弱肉強食」という「事実」からは逃れ得ないものだとも思っているのです。 詩や小説とは、そうした「現実」に直面した人たちをいかに宥め、いかに現実を隠し、いかに現実に馴染ませるか、ということが本質だとも思うのです。これもメタ的な言及で、「詩の本質」には迫っていない言及ですね。詩は詩として、「職人芸」でなければならない。あるいは、「真の芸術」でなければならない。そういうことに疲れてしまった自分もいて、この現代においても「詩を目指す」という人たちの果敢さに、わたしとしては圧倒されてしまうのです。 朧月夜さん なんだか、せかしてしまったようですが返信ありがとうございます。 朧月夜さんの私個人の印象を読んでそのへん語ったことないからか、 文極は私は1つの流れに乗っかって参加させてもらった経緯があり、 複雑なのですね。現代詩フォーラムに居た弧篷さんとのやりとりも とても楽しかった(過去はよく見えるというのではなく詩に辿り着くのは どのような道でも良いのに彼らは何故あえて違う道を進んでいるのかと 絡んできた時は興味もありましたが途中からはうんざりして過去ログにも 書いたけど彼らにとってはバトル私は単なる会話の「繰り返し」でしたが) 名のある哲学者の伝えたいことを理解するのは詩と同様に骨の折れる作業 だと日々感じます。私なぞ昨日までどんな頑張ってもdoing by doingで、 同じ繰り返しの毎日で足踏みし続けていましたから。朧月夜さん朧月夜さんの 伝えたい人は人なのだなと強く感じます。人サイドからの言葉を語ること の重要さはとても素敵です。文字媒体の延長としてネット活用をしていると 「文字は独立する」時は、近いうちに来るのだと冷めた目で見がちですから。 例えば最近はますますスパムメールの量が増えて制御出来なくなるのかとか、、、 なんて、道は違いますが、いつの日か「詩が書ける」人に私もなれるのかな? 足立らどみさん。 >朧月夜さん、良いとこついているなぁと意見というか、感想です。 ありがとうございます。わたしは「結論を言わない」ということを今の方針にしていて、詩人のように一つの言葉に多義的な意味を込めたり、詩想という高みを目指したりするのではなく、だらだらと長く綴られた文章の流れから、一つの雰囲気のようなものを感じ取ってほしいと思って、今は執筆をしています(広告の仕事を始めて以降、それは顕著です)。 また、クワインやクリプキなど、現代アメリカの哲学者の思想に触れて以降、文章(というよりそれ以前に会話)に、本質的な意味などないのでは? それは、「総体」として感覚的に、歴史的に把握されなければならないものなのではないのか? という思いがあるのです。「会話」「対話」「叙述」とは、正しく「交流」だと。 わたしは、詩を離れた人間ですので、「詩とは何か」ということを言えません。そのことを申し訳なくも思い、場違いな人間だとも思うのです。ただ、一輪車さんや足立さんを始めとして、「詩を書かない」という立場から詩を語ることもありなのではないか、という考えで(つまりは、かつては詩にお世話になった者としての恩返しの立場として)語ることもあるのでは……と、思ったりもするのです。 また、足立さんがネット上の詩にまつわる論争を冷めた目で見ていらした、ということは意外でした。文学極道等々に参加する方々は、討論そのものに詩よりも重い意味を見出していたのではないのか、と思っていたからです。「歳をとった伝道師」(隠者)的に詩を語るということ……現代の詩誌(「現代詩手帖」とか「ユリイカ」とか)は捨て去ってしまったスタンスですね。貴重な姿勢だと思います。 詩とは何か? 難しいですよね。 言葉の沼にハマってよがっている人達は強制はしないけれど 目を覚ましてほしいのは、そこから這い上がって書いている 多くの詩人がいるということは、まだまだ先があるのになぜ 立ち止まっているのだろうか?詩は紙と鉛筆が有れば出来る 安い趣味のはずないのに、何故、はしりださないのだろうか? わからないことだらけ 朧月夜さんへ えーっと、隠れて読んでいました(^_^;アセアセ 名前が上がったので思ったことを描いてみますね。 論戦の場ではないというイメージで伝えたかったことは、 所詮は私たちは世界に名を残してきた大哲学者ではない わけだし、同じテーマで学ぶ者同士でもないわけなのに インターネット開放後(1995年後)すでにオンラインで 互いの文字だけをたよりに切った貼ったの繰り返しには 根っこの部分であんまり学ぶべきこともないのだろうと、 ネット経験上で、歳をとった伝道師みたいに伝えていき たかっただけなので、階段を登ることは健康にも良いわ。 朧月夜さんの文から溢れ出ている純粋に再確認したいような 文章は、何度も読み直したいし、意見を書いても良いのなら そこに詩があるかもしれないからここのテーマだし書きます。 というか、描かせてもらおうかなつと 読んでいて、そうだよなぁと思ったことは、時代は流れている という表面に出されている文字の裏での激しい流れでした。 有名なネット上での論争に積極的に参加したこと書いたことは 過去一度もない自分ですけど、読んだことはあり発展しないな とすぐに飽きてしまったし、若い人の儀式みたいにコロナ禍を 通過した今の準備期間は、若い人だけではなく誰しも何処かで うんざりと何かから逃げる備えをしていることだと思いますよ。 私は実験的にAIとお付き合いも(inkweaverさんごめんねー) 経験してみて気づいたことは、これからの人はAIにはなれない (当たり前だけど)のだから、経験則で言ってしまうと棲み分け なのだろうと、それって、このサイトの強みだよなぁー(笑)と。 と言っても、発展する世の中を無視しても取り残されるので、 1つの場所に一所懸命ではなく、普遍的にだけど実践に「ある」 になる行動を動物的本能で無意識のうちにとっているのだろうと。 朧月夜さん、良いとこついているなぁと意見というか、感想です。 アラガイsさん。 >ベーシックインカムは大賛成だが、目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう。 その通りで、わたしがひとことダイアリーで(カルチャーおよびサブカルチャーが)再び理想の表現を目指しても良い、あるいは目指すべきなのではという趣旨のことを書いたのも、それに関係しているのです。 興味深い発言として、例えばアニメ監督の富野由悠季氏が、インタビューで言っていた、「自分は総論は表現できたけれど、各論が表現できなかった」という言葉があり。わたしはそれを聞いて意外だと思いました。富野由悠季氏こそ、各論の描写に心血を注いでいたと考えていたからです。総論と各論がどんな場面で、どのように必要とされるのか、ということは興味深いことでもあり、むしろ喫緊の課題でもあるのでしょう(社会学にそれほど詳しいわけではないので、断言は出来ませんが)。 アラガイsさんや、今は息をひそめている一輪車さんなどは、各論が出来る方だと認識しています。総論と各論、どちらが上というわけではなく。安易に「今は理想の表現こそ大切だ」──と言うわたしは(もちろん、それはこのタイミングとして言っているだけであり、本意ではありません)、浅はかなのでしょう。 わたしの表現にはオリジナリティー、イマジネーション、詩想(ポエジー)というものが欠けており、これは明確に詩人としては失格している条件だと思っています(わたし自身は、物を書いて儲かりさえすれば良いのです)。ですが、詩を書き始めた当初は、「文学、あるいは芸術とは、何か人間として大切なもの・ことの表現である」と思っていました。それは、甘やかされて育ったわたしのわがままなのです。奴隷労働や兼業に明け暮れて、なんとか自活しようとするアニメイターやお笑い芸人などの必死な努力からすれば、噴飯物の理想主義(というか、夢見がちなロマンティシズム)に過ぎないでしょう。 ですが、ここで、アラガイsさんがおっしゃっているように、「目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう」──これは、忘れてはいけない真実だと思っています。例えば、論破王とされている西村博之氏などのように、アナーキズムに逃れていくことを、わたしはしません。堀江貴文氏のようにプラグマティズム、あるいは新自由主義的な主張をすることも安易でしょう。結果、個人主義の実践者たる詩人は泥沼の戦いを強いられることになる。古代や中古のように、詩は神への捧げものでもなく、政治でもないのです。それ(文学が個人的な表現になったこと)は、わたし自身は表現としての進化だと思っています。個人的に、わたしは今の時代の作法としてマニエリスムよりもロマンティシズムを推すものなのです。儲け以外すべてを度外視した広告ライターのわたしの姿勢としては、自己矛盾ですが……。 現代において社会認識を含めた詩を書くべきなのかどうか、わたしは確固たる考えは持ち合わせていません。社会認識を世界認識と言い換えれば、戦後世代の詩人たちはそれに注力してきたと言えるでしょう。ですが、今の社会において詩とは? わたし自身は現代において文学一般はサブカルチャーであると思っておりますので、個人主義・理想主義・おふざけ・コミュニケーション、なんでもありだと思っていますし、そうでなければならないような気もしているのです。 このサイトの作品に政治的な投稿が多いことも、「それをあえて文学として見る、文学者が見る」という点において、貴重だと思います。なぜなら、個人が個人として社会について語る場合、その作者の人生経験・世界観・感情・思い込みなどにどうしても流されてしまうからです。ですが、むしろそれこそが「文学」としては重要なのだと、思っております。Yahoo!の掲示板、などを見てみましょう。どれもこれも、どこかで聞いた意見の聞き書きです。オリジナリティーや個性というものが、情報交換・情報提供という仮面に隠されて、排除されてしまっているのです。表現というものがそういうもので足りるのであれば、インターネットにはWikipediaだけがあれば足りてしまうということになります。そこにあるのは公平さや客観性ではなく、賛同されて安心したい、という超個人的な願望にすぎないのです。 超個人主義・社会性。どちらも(文学における表現としては)あってしかるべきものだと思っております。なので、わたし自身はそのどちらの立場の作家に対しても、手放しで賛成はしません。ですが、わたし自身はと言えば、ほとんど文学については(平安時代のような)間接的なコミュニケーションの手段だと思ってしまっていて、主戦場はここ(現代詩フォーラム)ではなくてFacebookです。「ちょっと洒落た日常の表現」程度のもので文学は良いのだと、思ってしまっているのです。 アラガイsさんもひだかたけしさんも、文学にたいして非常に真剣に対峙しており、そのどちらの姿勢も尊いものだと感じます。当然、立場の違いから齟齬は生じるでしょう。アラガイsさんは、このごろ「孤独」ということをしきりにおっしゃっていますが、文学者(というより表現者)の戦いとは、初めから絶望的な戦いなのではないでしょうか? それが一流の文学者の姿勢です。ですが……わたしは、詩を書き始めた最初から二流を目指していたのです。このように、SNSの掲示板などで自分の意見を発信することは、目立ちたい、一流になりたいという気もちの表れだと考える方もいるかもしれないのですが、わたしには全くそのような気もちはないのです。評価されるとしても、せいぜい富永太郎程度に名前が残る存在であれば良い、というのがわたしの姿勢です。これを謙虚と見るか、あるいは逆に傲慢と見るか(文学や表現にたいして投身しきっていない)は、こうした文章を読まれた方の判断にお任せします。今のわたしは、父の介護で手一杯で、「文学」という理想には、深く関われないのです。 長々と書きました。足立らどみさんの意見なども聞きたいところです。ただ、氏の言うところ、このスレッドは論戦を目的としたスレッドではないとのことで、それぞれの方がそれぞれの「私観」を書けば良いのだとも思っています。 最後に書かせてください。「、ぐるぐる巡る」のコメントで、アラガイsさんはわたしを真摯だとおっしゃってくださいましたが、わたしは真摯ではないのです。単に保守的なのです。わたしは(カミングアウトするようですが)カトリックなのですが、「物を深く考えることが嫌い」「何かを信じるのであれば宗教を信じれば良い」……要するに「思考」において楽をしたい、という思いでカトリックの洗礼を受けました。「カトリックが『反省』が出来る宗教である」という、わたしなりの信念もないことはないです。ですが、わたしは「考えすぎること」については、常に警戒心を抱いています。理想や伝統に従って生きること、それが人生の本来ではないのか、とも思っているのです。わたしは、文学にたいする「真摯さ」は持っていません。ただ、家族や友人・知人にたいする「真摯さ」を持とうと思っているだけなのです。 長々と書いてしまいましたが……多分また寝込みますので、異論がありましたら、時間をかけてレスさせていただきます。 ひだかくん、さん。労働や仕事するために生活するなんて意識は高度経済成長期にモーレツサラリーマンで身体を壊した人たちのポリシーで、今の人たちにはそんな認識はないですよ。むしろ如何に楽をして生活できるだけの仕事や労働を手にできるのか。それ以上の欲もないでしょう。欲を張るのは他人の袖に隠れて無賃乗車してやろうと企む粗悪な輩たちでしょう。ネット社会になってそんな人間たちが増えた。それはキツい労働をする仕事にかぎって賃金的に報われない。この不平等感をちゃんと認識しているからで、高齢化社会を迎えた今日では人手の供給も足りず、誰もそんな仕事を好き好んではやりたがらない。それでも稀少な意見の人間もいたりするのだが、私は社会が手厚く補助しなければ続けられないと思う。ベーシックインカムは大賛成だが、目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう。 mo s61 いろいろ考えて、書きもしたのですが、削除してしまいました。 なぜかと言うと、今の若い世代の人たちは、そうしたディアレクティックを越えたところで表現している、と思うからなのです。 2ちゃんねる、5ちゃんねる、ブログが全盛だった時代は「バトル」で成長しえた、とも思っているのですが、それは今の時代にも当てはまるものなのでしょうか…… メタ的な解答で申し訳ありません。 ただ、わたし自身の認識ではわたしは単なる広告ライターであるので、文学的な「そこへ至れば解決」「そこへ至れば幸福」といった手法は危険だと感じるのです。 「全ての表現において嘘がある」という、現実的な認識が、今一度必要とされているのではないでしょうか。 (毎日6時間ほどしか起きていられないので、応答が遅いのは勘弁してください。精神的に余裕があれば、反論・応答・コメントなどはさせていただきます) 「脱真実」というのは、危険だとわたしも思うのですが、それが現れてきた「必然」にも興味を持つものなのです。 労働については、わたしは単純にそれは「生きるべきためのもの」と考えています。 ですが、やがてはベーシック・インカムが導入されて、労働とは「自己実現のためのもの」という社会が来るように予測しています。 逆に、そうしたことへの「信念」がなければ、詩人としては失格でしょう。 ……すみません。投稿の編集については某氏から教わったのですが、削除については未だ分からず。「ダサい」投稿・議論で申し訳ありません。 追記 労働力商品としての扱いは次第突然に労働商品へと侵食して行きます。 要するに 、生活するために労働する仕事する が、いつのまにか労働仕事するために生活するへと逆転していくのですね。 その現状リアルに詩想直観を徐々に侵食させ変革へと結び付けること其処に詩表現のリアリティが在るのでは?と、取り敢えず。√ ひだかたけし様。 そうですよね。今のわたしは詩表現を貫けなかったわたしを寂しいとも思っていますが(広告業者であるということには納得しています)、それゆえに、詩人であると認識している方は、今以上に詩人であるということを貫いてほしいと思うのです。 詩人を卒業してしまった人間からの、一言です(わたし自身は今はビジネスにしか興味はありません)。 朧月夜さん、 詩表現でしか表せないモノが確かに在る のです。 それは商品経済、人間を労働力商品として呑み込んでしまう 資本主義経済社会の普遍化下部組織としてしまう現代社会に対する 精神霊性の魂に依る反逆だと僕は直観します。 秋葉竹さんが復帰して……個人的にはyatukaさんなどにも復帰してほしいのですが。 詩は……それは、軽く見られるものでしょうさ。欧米では、詩は小説の見本市のようなもので、一生続けるようなものではないのです。 ですが、日本の伝統は違う。 (欧米では、本とは個人が買うものではなく、図書館が購入するもので、庶民は図書館から本を借りて読む、という慣習が根付いています) わたし自身は、その伝統に反したいとは思いつつ、昨今の動静を見ると、詩が一生ものであっても良いのではないかと思ったりもしていて(売れたいなら、面白い小説を書くべきです。日本は資本主義社会なのですから)。 詩を書き続ける……ということに、わたし自身は納得していませんし、詩を(自己表現を)綴る者たちのために、小説家や批評家に、やがてはなるべきだと、詩人の存在について思ってはいるのです(後世の評価を待つだけ、というのはズルいと、思いませんか?)。 ですが、生涯詩を書き続ける詩人もありなのかなあと……これはわたしの妥協です。 詩、という表現形式を選んだ自分を、愚劣だったとわたし自身は思っています。儲かりませんからね。ですが、それでも、それでもなお詩を目指す……という人は、一貫してわたしの尊敬する対象です。 体調最悪ですので、異論があっても応じられないかもしれません。もっとも、わたしはそもそも論戦が嫌いですが。異論があれば、体調と時間が許すときに対応させていただきます。 なんというか、片野さんが、このサイトを作品を発表するサイトではなくてSNSであると表明したときに、わたしはかなりの反発を感じたのですが、今ではそれが正しかったのかも? とも思うのですね。事実「文学極道」などは憤死したわけですし……。何が後になるのやら先になるのやら分からない現代なのですし、それを面白いと思うのでなければ、詩人(という儲からない存在)としてあり続ける価値はないのでは? と思います。 (異論があれば、体調の許す限り応対はさせていただきます) 砂浜に書いた言の葉 夏の夜 波打ち際の 微妙なとこに 批評をするにはあまりにも体調が悪すぎるので。リリーさんの詩について。リリーさんの詩にはどこかオカルト的な戦慄が含まれているような気がします。何気ない生活の描写であっても、そこには生な戦慄がある。まさに詩人としての魂の震えだと思います。出来れば、それで生活を台無しにしてもらわないようにと願っているのですが、この高揚感は読者に対して大きな歓喜や感動をもたらすものだと思います。透徹した詩の本質がここにあり、という。 >>49 面白いです そこで、逆転して欲しいです。 流石に夢物語ですけど 読んで何かしらを感じた方が 書き手になる 書き手が書き手を増やす、豊かですね。 その可能性はなくはないと思います 句なら 小規模ながら、実例はあるから 立川談志はかつて落語を「伝統芸能」ではなく「郷土芸能」と言った。その気持ちも今は分かるような気がするのです。文学とは畢竟郷土芸能である。その枷からは逃れられないし、逃れられないという極点において誕生するのが、文学であると。 FACEBOOKではその人のアティチュードに対していいねをするのです。ですが、このサイトでは違う。このサイトに投稿されているものは「作品」である。ですが、そのことに違和感を感じつつあるのが今のわたしで、「作品」とは本来「コミュニケーション」であったものが純化したものではないのか? という疑問も湧くのですね。日本ならではの問いなのかもしれませんが。 ひだかたけしさんも言っていたのですが、リリーさんの詩がこのごろうまくなっているような気がします。ひだか氏が求めているような直観的なたたずまいもあり、でも、今までのような泥臭い世情の描写も突き詰めていってほしい。そんな感じのぼうっとした感想です。 自費出版本が主流になり、売れれば、出版社も書店もローコストでイケるわけで、儲かりますね! もちろん、自費出版の方が筆者へのマイレージも増えますものね! ウィン・ウィンになって、いいですねぇ!!! あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 そうなんですか!オンラインショップはあっても、自費出版本だけを売っている書店がないんですね? じゃあ、わたし、パイオニアかなぁ~( ´∀` ) 作って、チェーン店みたいにしていけないかなぁ。 だれか、作ってほしい。 んで、もっと気軽に自費出版本を読めるようになったらいい。 あと、自費出版本を置いている図書館とかあっても良さそう!! 楽しそう!! ぜひ、誰かに、それやってほしい!!! 自費出版は今はPDFを自作して、印刷だけ任せるというタイプがあるようです。原稿用紙やWORDのファイルなどからPDFを起こしてくれるサービスを行っているところもありますが、かなりの暴利です。 >自費出版本だけ売ってる書店とか作ったら、良さそう。 これについては、わたしが調べた限りではなさそうですね。オンデマンド出版の会社で、ランキングなどを公開している会社ならばあります。 それか、自費出版本だけ売ってる、オンラインショップとかなら、 書店開くより、コストがかからなそう。 もう、あるのかな。 自費出版は、わたしは大変だなぁ。 大変な人、多いんじゃないかなぁ。 自費出版本だけ売ってる書店とか作ったら、良さそう。 おぼろん 様。そうなんですか!自費出版。 う~ん。 自費出版というと、フォローしてくれるところと、してくれないところにわかれますもんね・・・ 残念なことに詩の世界は自費出版商法に乗っ取られてしまいましたね。30年くらい前からそうですが、ネット詩やオデマンド出版、電子書籍などが普及した今でも、詐欺まがいの商法を展開している会社がある。詩人はそうしたことに対しては自衛しなければならない。自らの積極性、他者を受け入れる寛容さ、二つがなければならないのです。 CM、ネット、新聞、雑誌・・・ あらゆるメディアを駆使出来るわけです。 宣伝部門というわけですね。 それが、いわゆる会社の広報とかになるわけですよね。 作品の、商品価値を上げるためのバックアップをする仕組みも必要ですよね。 それが、出版社だったりするわけですよね。 おぼろん 様。 詩は個人のものであり、他者のものでもある。 もっともです。商品としてみることも出来ると、私も考えます。 その商品価値をあげていくのが、筆者でもあり、読者でもあると思います。 それが、研鑽につながっていくと。 ルルカ new様。詩が個人のものであるか、他人の物であるのか、という問題ですね。わたしの意見はあいまいです。他人のものであるか、自己のものであるのか。そこで、言い方は悪いですが、詩とは一個の商品、あるいは一個の造形物である、という考え方が生まれてきても良いと思うのです。自己のものであるとともに、他者のものでもある。いずれにせよ、研鑚は必要だと思うのですが。 詩とは畢竟人生観の表明なのですが、己自身の人生観の表明であってはいけない。他者の人生にも共感し得るものでなくてはならないのです。それが、短歌や俳句との違いです。詩は長い(短いものもありますが)。その中で、如何に他者の生を生きるか、己を滅却するか、という課題もあると思うのです。 おぼろん 様。 確かに詩は、人間が作り出すものですから、世界の進化の様に、詩に関しても一種の限界があると思います。 ですから、成長し過ぎた世界、成長しきった世界から、次のレベルを求めるのであれば、そこに、おぼろん 様がおっしゃったように、人間的な弱さ、味わいを、さらに出す。 それが、成長は個性への踏み台と、考えてはいかがなものかと存じます。 つまり、詩についても、詩の成長、つまりは進化がありますよね。 そこで、どう上手く、成長から個性重視へとハンドルを切っていくか。 そこが、いわゆる争点ではないかと考えます。 ルルカ new様。詩は成長させていくもの。その通りだと思います。ですが、人間的な限界というものがあり、それが詩の限界点だとも思うのです。言い換えれば、詩の個性。詩はその叙述者にとって最高のものではなくても良い。人間的な弱さが詩の味わいでもある。詩とは人間的な限界に迫るものなのでしょうか。 詩は成長するものではなくて、 成長させていくもの。 自然発生的ではなく、故意に、人の手が加えられていくわけですから・・・。 と、個人的には考えます。 眠れぬ夜。うたた寝をはするのですが、短時間で目座覚めてしまいす。おかげで昼間はぼうっとしており、皆様の詩も茫洋としてしか判断できず、わたしは詩から離れてしか把握していないのか、詩の世界から離れてしまっていうのでは、という感慨。詩は世界の感好感であり、そしてそれを越えて行くものである。最近はリリー氏の詩に、抽象世界と実世界の混交、詩のなかに世界論を見出しています。一見して日常描写、しかし、そこに哲学的なテーゼもオリジナルなテーマも現れてくる。新しい詩の潮流、従来の詩のスタンダードとは違った可能性を見ます。 ランボー以降、詩は成長したか。あくまでも砂漠をさまよっている気がする。 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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