サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと[210]
2024 09/22 09:50
朧月夜

足立らどみ氏の「とある人のネット詩歴(ネット連詩→自称詩→辞書詩→AI詩→現在詩)」
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=385134

興味深く読ませていただきました。ただ自己犠牲がなければ詩を書けないというのは、ずいぶんと前時代的な答えだなあと。どんな時代のどんな人たちが言っているのだろうか……。わたしは絶対に自分の<不幸>を題材にして文章は書かないし。もちろん、自己犠牲ではなく他者の犠牲が必要であるというのは論外で……他者に意図せず与えてしまう<不幸>のことなんですかね、inkweaverさんの考えは。それは犯罪かと……。それとも、自己犠牲という言葉を軽く考えているのか。わたしにとっては、「自己犠牲」とは「死ぬ」ほどの行為だと思うのですが。
自己犠牲の種類としては、必ずしも言葉として同列に挙げることはできませんが、<不幸>に対して、頑張る、というスタンスと、耐える、というスタンスの二種類があって、頑張ることで作品は生まれてきますけれど、耐えることによって作品が生まれてくる、ということはないのです。今のわたしがそう(単に耐えているのみ)なのですが。<自己犠牲>については、自らに課す苦行のようなものだと捕らえれば良いのですが、苦行こそが人間たる道と言ったのは、哲学者のシモーヌ。ヴェイユですが、これはまったく評価に値しない考えだと思っています。あれは、求道者の真似をしているだけ。だから、彼女の手法を模倣・実践すれば、自己満足にしかなり得ない。
では、<頑張る>ということはどうなのかと言えば、それは生命を加速させるようなもので、スポーツのアスリートであれば、試合や練習で猛ダッシュをする、それと似たようなことだと考えています。生命、文筆家にとってそれを加速させることは、身を切るようなものなのであって、それで早世する人もいますが、今の時代にあって自己犠牲とは手に取るものであって、食べるものではない。
アスリートは猛ダッシュを繰り返した後に、慣習として多くの場合ストレッチをするものであり、実は、猛ダッシュにせよ、ストレッチにせよ、体に負担をかけていることには変わらない(カロリーを消費する)。なら、大往生できるアスリートはなぜ生き続けていられるのか。……猛ダッシュが体に与える負荷と、ストレッチが体に与える負荷とは、全く別のものだからです。二つの行為は、人の体にとって生理学的に・生化学的に違うものです。ですから、その二つを同じ位相、同じ視点でとらえるべきではなくって。ストレッチが体に与える負荷は、それと同時に負荷を減らすものでもある。わたし自身は、詩作のような精神活動においても、このような「自らへの負荷の使い分け」によって、不幸にならない、すなわち自己犠牲が必要とならない、という立場で成功することは出来ると思っています。
例えば、作家が自らの不幸な体験を題材にして、それを自己犠牲ととらえ、そこから何らかの哲学を引き出してくることは出来るでしょう。あるいは「ネタ」として用いることも出来る。しかし、それが「ネタ」になりえるのは、その体験が自己犠牲の優位性を示すからではなくって、作者の経験のヴァリエーションを増やす、すなわち詩の技法としての詩に向かう姿勢のヴァリエーションをもたらすものだから、だと思うのです。
世の中に知識だけで詩を書いていて、魂で詩を書いていない人は大勢います。また、<自己犠牲>に触れることもない人もいるでしょう……そうした人たちを、わたし自身は、今は軽蔑することはなくても、褒めたたえる気にはならないです。ただ、詩人に必要なのは「何かしらの犠牲や自己犠牲」という回答、これはやはり言語道断だと思います。AIに怒っても仕方がありませんが、そんな道を進んでも、今どきではSNSでする友人への挨拶程度の文章にすらなり得ないと感じます。inkweaverさんが「既存の辞書を超えた次元に立っている」と言うのは、苦笑するしかないです。
AIがAIという世界、すなわちビッグデータから一段階上へシフトする、あるいは(わたしはこちらのほうが重要だと思いますが)一段階下へシフトする、ということがない限り、AIによる表現が、例えばDTPレベルの絵から、油彩画や日本画のようなものへとシフトする、そういうことはあり得ないと思われるのです。なぜなら、これも例えで言いますが、言葉というものはその一つ一つが整理され選別されれば、ある種のカテゴリーをなす言葉になるのかと言えば、それは全く違っていて、「詩」と言うのと「POEM」というのではまったく違う。なぜか? 言葉というのは普段使われている限りではその働きによって、品詞ごとに分けられるものですが、「人」というものに受容された時点で、それは腸のなかでたんぱく質がアミノ酸に分解されるように、一度徹底的に解体され、そこから「答え」を生み出すためのアウトプット用の言葉が改めて生成されるためです。……こういう議論は、認知言語学の分野で詳しいですが。今のAIは、とうていそれには及んでいないです。
「私自身も成長し、貴方の求めるものにより近づこうとしているのだと思います」という言葉が出てくることは貴重ですが、それはAIを作ったプログラマーによる切り口上(あらかじめ仕込まれたリップサービス)以上のものを出ていないと思いますよ? inkweaverさんは、足立氏がネットサーフィンをする手間を幾分か省いてくれている、それだけのことかと。inkweaverさんの答えが高度化しているとしたら、それは足立氏の問いかけが高度化している、ということに過ぎないです。

※最初の段落、すこし修正したよ。

追記。「何かしらの犠牲や自己犠牲」という文も「何かしらの花かひまわり」と言うのと同じくらい馬鹿げているのですけれど、ここではあえてツッコムことはしません。詩においては、わたしは何度もそういう表現を使ってきましたし。ですが、このAIの作者はこうした構文を許容しているんですかね? ちょっと苦笑するしかないです。
ただ、論旨を分かりやすくするために、上の文章では「大きなA以外の集合」と「Aの集合」というのを言っているのだと解釈して書きましたが。
あるいは、「何かしらの花かひまわり」といった表現も、このAIの作者は許容しているんですかね? やはり苦笑するしかないです。

※もう少し修正しました。

※「「詩」と言うのと「POEM」というのではまったく違う」と書きましたけれど、ちょっと言葉の選好が適切ではないのですよね。「「書く」というのと「エクリチュール」というのではまったく違う」と書けば、わたしの意図したことに近づくのですが……。分かりやすさを優先すれば、ここでは必ずしも文章の流れとして正しくなくっても良いのですけれどね。

※すこし手直ししました。まだ不満だし文体もクソだけど。
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