2024 05/10 19:40
朧月夜
久しぶりのアクセスなので、ざっと読んで……
このごろ寝込んでいたので(血便が出たりして、結構しんどかったり)、TSUBURAYA IMAGINATIONに登録して、ウルトラシリーズの作品を聴いていたのですよね(画面は見ず、音だけ聴いていました)。そのなかで、とくにウルトラマンブレーザーが面白かったです、頑張って起き出して全話視聴したほど。……去年の作品ですね。
アニメ業界と同じく、特撮業界もまた、子供向け・受けるということが重視されている業界です。そこでの技法は、もちろん「いかにして話題を呼ぶか」ということなのです。それ以上は、資本主義として成り立たないという理由もあり、基本的に歓迎されるものではありません。
ですが、ここ数年から十数年の間、社会が破綻したり戦争や疫病などによる不穏さが増したりしていて、最近のムーブメントは「高尚さ・真面目さ」が再度取り上げられるようになってきているように感じます。六四天安門事件などに強い衝撃を受けたわたしからすると、これは好ましい/歓迎すべきムードであると感じるのですが、その価値基準は人によって異なるでしょう。わたしは必ずしも退廃・デカダンスなどを排するものではありません。
論の流れを追えていないかもしれないのですが、足立さんのおっしゃるような「高尚さ」(ネット詩においては、単純に「真剣さ」と言い換えても良いでしょう)というのは、わたしはやはり「ガジェット」に属する/類するような事柄なのではないかな、と感じます。反戦・平和・幸福・自我、といったことを顧みるのは良い、でも、それは表現の本質ではない、とも感じるのです(芸術とは、やはりラスコーの壁画のように生な感受性の発露/爆発なのでは? という思いが強いです)。
高尚さがなぜ大事なのか、重要であり必要ともされるのか、というのは難しい問題です。「人間とは何か? 正義とは何か?」といった問題は西洋ではソフォクレスの昔から取り上げられてきましたし、それは人にとっては大事な何かであろうということは、もちろん感じるのです。ただ、商業主義に身をおいたわたしとしては、それはやはり「ガジェット」であってほしい。それであるからこそ、逆説的に生まれてくる価値もあるのだろう……と思っています。
ネット初期の詩は(多分、2000年代初期のころまで)は、社会人が趣味の時間に書く詩、という意味合いが強く、平安時代中期(古今集~新古今集の時代)のような雰囲気を強く持っていたと思うのです。ですが、ネット文芸をビジネスにする会社なども登場してきたりして、今はまた少し違った形になってきていると感じます。
わたしは、ネット文芸は多分このまま廃れていくものではないと感じているのですが、1990年代後半、2000年代、2010年代、2020年代と、ネット詩の潮流も少しずつ、というよりも、見た目はそうであっても、大きく変わってきているように感じます。ですから、今なぜ「それでもネットで詩を書くのか?」を問うことは大事なのですね。
わたしは一つの答えだけが答えであるとは考えておりませんから、「これだぜ、答えは!」と言うことはしませんが、「真摯さ」「真剣さ」「高尚さ」などを問うこと、追求すること、なども今のネット詩の課題であって良いと思っています。もちろん、趣味として詩を書く以上、最前面に出てくるのは「個人」の問題なのです。
ですが、「個人の問題」とは「軽い問題」でしょうか? 違います。日本の文学ではとくにそういった伝統が強く、平安時代などの文学はサラリーマン・OLが描く文学でした。紫式部しかり、清少納言しかり。近代以降の文芸を見ると、むしろ平安朝などの文芸よりは、室町時代の文芸や江戸時代の文芸などがそれに近かったのか、ともこのごろは思っています。
わたしなどは、病気療養や仕事の傍ら細々と創作してきたこともあり、平安時代の文芸に親しいのですが(わたし自身はOLの書く文学でありたいと思っている)、「現代」、というより足立さんのおっしゃるような「現在」においては、様々な文芸の形があって良いし、あるべきなのでしょうね。「一時代」というのは、つねに「すべての時代」のフラクタルなのですし。
まあ、個人的には、仕事をしながら(今は父の介護をしながら)、時折詩を書く、そういったところから生まれてくる、プロではないがゆえの文学の本質に迫る詩の価値、ということは逆に追うことができるように思っているのです。それが「ネット詩」の価値です。例えば、天文学の世界では、アマチュア天文学者の活動が、本職の天文学者たちの活動に大きく貢献し、また刺激するものであったりするのですが、そうした「プロではないからこその真剣さ」というものが、ネット詩にはあっても良い。と言いますか、そうしたネット詩の本質が、文学の土台を変えたり支えたり、ということがあるのでは? とずっと思ったりしています。