2024 09/13 02:39
朧月夜
足立らどみ様
本当の話ですか? んまあ、死を前にして遺伝子を残そうとする、という話は以前にも聞いたことはありますが……詩人が詩を残そうとする本能はそれとはまた別のことなんじゃないかな。
売れればなんでも良い、というのが当然時代遅れなのは当然として、……そんな話を今の子にしたら、「おじさん(おばさん)昭和の人?」と言い捨てられて終わりでしょうね。
作品と作者は無関係という、戦後くらいからの文壇の風潮にわたしはずっと疑問を抱いてきましたけれど、今このサイトでひだかさんやホロウさんがそうした姿勢に共感してくれているのは、ありがたいかなと思います。
わたしは、もう、言葉というのは意味を伝えるものですらない、というふうにまで思ってしまっているので(これは、認知症の父と接するなかで極まってきていますが)。
ある人がAと言ったとする。その後、そのAについてある人は後でBという補足をする。その時点でAという言葉の価値(Value)というものはBを基準としたものに変化してしまうのだと思います。物理的な意味すら、です。
もちろん過去が変わると言っているわけではありませんが、それすら「もしかして?」と疑ってみるべきかとは思っていて。単純に、補足によって解釈に変化が生じた、ということだけでも良いんですが……
ただ、言葉に対峙するとき、その言葉を「発する我」「聞く我」というものが明確に区別されて存在し、言葉はその媒介物でしかない時、価値的に変化すべきなのは言葉のほうなのか、話者or読者のほうなのか? といった疑問は抱いても良いと思っていて。
単純に例えれば、花を見る時、もっと無機的に小石などを見るとき、そこに生じる「思い」を発生させているのは、人間たるわたしなのか、それとも人間たるわたしは単に受動的にそう思わされているだけであって、「思い」を生んでいるのは小石のほうなのか?
といったところまで考えてみても良いのではとも思うのです。AIが進化すれば、知識人とはいかにAIに問いかけ、いかにAIから答えを引き出せるか、という、そういうものになってしまうのですし……
そういう時に、個性というものが「わたしはこうなりたい」というだけのものだったら、「この前見た!」とか「この前聞いた!」とかで終わってしまうような気もします。わたしがそういう思いにいたったのは、AIについて考えるのとはまったく別の側面からですが。
もっとも、今そういうことを書いてもお金にはなりませんから、身を削ってまで書く気にはなれませんが。