サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと[64]
2024 03/17 17:18
おぼろん

アラガイsさん。

>ベーシックインカムは大賛成だが、目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう。

その通りで、わたしがひとことダイアリーで(カルチャーおよびサブカルチャーが)再び理想の表現を目指しても良い、あるいは目指すべきなのではという趣旨のことを書いたのも、それに関係しているのです。

興味深い発言として、例えばアニメ監督の富野由悠季氏が、インタビューで言っていた、「自分は総論は表現できたけれど、各論が表現できなかった」という言葉があり。わたしはそれを聞いて意外だと思いました。富野由悠季氏こそ、各論の描写に心血を注いでいたと考えていたからです。総論と各論がどんな場面で、どのように必要とされるのか、ということは興味深いことでもあり、むしろ喫緊の課題でもあるのでしょう(社会学にそれほど詳しいわけではないので、断言は出来ませんが)。

アラガイsさんや、今は息をひそめている一輪車さんなどは、各論が出来る方だと認識しています。総論と各論、どちらが上というわけではなく。安易に「今は理想の表現こそ大切だ」──と言うわたしは(もちろん、それはこのタイミングとして言っているだけであり、本意ではありません)、浅はかなのでしょう。

わたしの表現にはオリジナリティー、イマジネーション、詩想(ポエジー)というものが欠けており、これは明確に詩人としては失格している条件だと思っています(わたし自身は、物を書いて儲かりさえすれば良いのです)。ですが、詩を書き始めた当初は、「文学、あるいは芸術とは、何か人間として大切なもの・ことの表現である」と思っていました。それは、甘やかされて育ったわたしのわがままなのです。奴隷労働や兼業に明け暮れて、なんとか自活しようとするアニメイターやお笑い芸人などの必死な努力からすれば、噴飯物の理想主義(というか、夢見がちなロマンティシズム)に過ぎないでしょう。

ですが、ここで、アラガイsさんがおっしゃっているように、「目指す社会のビジョンがなければこれも幻想に押しつぶされてしまう」──これは、忘れてはいけない真実だと思っています。例えば、論破王とされている西村博之氏などのように、アナーキズムに逃れていくことを、わたしはしません。堀江貴文氏のようにプラグマティズム、あるいは新自由主義的な主張をすることも安易でしょう。結果、個人主義の実践者たる詩人は泥沼の戦いを強いられることになる。古代や中古のように、詩は神への捧げものでもなく、政治でもないのです。それ(文学が個人的な表現になったこと)は、わたし自身は表現としての進化だと思っています。個人的に、わたしは今の時代の作法としてマニエリスムよりもロマンティシズムを推すものなのです。儲け以外すべてを度外視した広告ライターのわたしの姿勢としては、自己矛盾ですが……。

現代において社会認識を含めた詩を書くべきなのかどうか、わたしは確固たる考えは持ち合わせていません。社会認識を世界認識と言い換えれば、戦後世代の詩人たちはそれに注力してきたと言えるでしょう。ですが、今の社会において詩とは? わたし自身は現代において文学一般はサブカルチャーであると思っておりますので、個人主義・理想主義・おふざけ・コミュニケーション、なんでもありだと思っていますし、そうでなければならないような気もしているのです。

このサイトの作品に政治的な投稿が多いことも、「それをあえて文学として見る、文学者が見る」という点において、貴重だと思います。なぜなら、個人が個人として社会について語る場合、その作者の人生経験・世界観・感情・思い込みなどにどうしても流されてしまうからです。ですが、むしろそれこそが「文学」としては重要なのだと、思っております。Yahoo!の掲示板、などを見てみましょう。どれもこれも、どこかで聞いた意見の聞き書きです。オリジナリティーや個性というものが、情報交換・情報提供という仮面に隠されて、排除されてしまっているのです。表現というものがそういうもので足りるのであれば、インターネットにはWikipediaだけがあれば足りてしまうということになります。そこにあるのは公平さや客観性ではなく、賛同されて安心したい、という超個人的な願望にすぎないのです。

超個人主義・社会性。どちらも(文学における表現としては)あってしかるべきものだと思っております。なので、わたし自身はそのどちらの立場の作家に対しても、手放しで賛成はしません。ですが、わたし自身はと言えば、ほとんど文学については(平安時代のような)間接的なコミュニケーションの手段だと思ってしまっていて、主戦場はここ(現代詩フォーラム)ではなくてFacebookです。「ちょっと洒落た日常の表現」程度のもので文学は良いのだと、思ってしまっているのです。

アラガイsさんもひだかたけしさんも、文学にたいして非常に真剣に対峙しており、そのどちらの姿勢も尊いものだと感じます。当然、立場の違いから齟齬は生じるでしょう。アラガイsさんは、このごろ「孤独」ということをしきりにおっしゃっていますが、文学者(というより表現者)の戦いとは、初めから絶望的な戦いなのではないでしょうか? それが一流の文学者の姿勢です。ですが……わたしは、詩を書き始めた最初から二流を目指していたのです。このように、SNSの掲示板などで自分の意見を発信することは、目立ちたい、一流になりたいという気もちの表れだと考える方もいるかもしれないのですが、わたしには全くそのような気もちはないのです。評価されるとしても、せいぜい富永太郎程度に名前が残る存在であれば良い、というのがわたしの姿勢です。これを謙虚と見るか、あるいは逆に傲慢と見るか(文学や表現にたいして投身しきっていない)は、こうした文章を読まれた方の判断にお任せします。今のわたしは、父の介護で手一杯で、「文学」という理想には、深く関われないのです。

長々と書きました。足立らどみさんの意見なども聞きたいところです。ただ、氏の言うところ、このスレッドは論戦を目的としたスレッドではないとのことで、それぞれの方がそれぞれの「私観」を書けば良いのだとも思っています。

最後に書かせてください。「、ぐるぐる巡る」のコメントで、アラガイsさんはわたしを真摯だとおっしゃってくださいましたが、わたしは真摯ではないのです。単に保守的なのです。わたしは(カミングアウトするようですが)カトリックなのですが、「物を深く考えることが嫌い」「何かを信じるのであれば宗教を信じれば良い」……要するに「思考」において楽をしたい、という思いでカトリックの洗礼を受けました。「カトリックが『反省』が出来る宗教である」という、わたしなりの信念もないことはないです。ですが、わたしは「考えすぎること」については、常に警戒心を抱いています。理想や伝統に従って生きること、それが人生の本来ではないのか、とも思っているのです。わたしは、文学にたいする「真摯さ」は持っていません。ただ、家族や友人・知人にたいする「真摯さ」を持とうと思っているだけなのです。

長々と書いてしまいましたが……多分また寝込みますので、異論がありましたら、時間をかけてレスさせていただきます。
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