2024 04/01 20:11
ハァモニィベル
いわゆる日本人の議論というのを観察したとき、そこでご本人たちは大いに議論してるつもりでも
それは、ただ殴り合って喧嘩してるのと変わらない(=水の掛け合い)ので、どうみても、
ルールのある言葉の格闘技(=ディベート)になってないのを、どうしても、多少頭ある人は、
というか、心ある人であれば、当然ながら、そういう無法状態を深く嘆くわけです。
でも、嘆くと言っても、熊さんや八っつぁんがディベートしてもしょうがないわけです。
それは、結局、《ディベートもどき》にしかならないですからね。
例えば、当事者の片方が、ちょっとだけ小利口な熊さんで、相手が完全なる八っつぁんだと、
熊さんをロンパオーだと錯覚して称賛したりするのも、本物と もどき の区別がつかない大衆ならではの愚かさにすぎません。
結局、熊さんと八っつぁんがディベートもどきをすればするほど、、《ディベート》の方が崩壊していくでしょう。
逆に言うと、ディベートがまともにできる時点で、そのふたりはもう、熊さんでも八っつぁんでもないわけです。
事情は、《詩》でも同じですよ。
熊さんや八っつぁんに《詩》は書けない、というのが私の立場です。
なぜなら、詩が書ける時点で、その人は熊さんや八っつぁんじゃ無いからです。
しかし、熊公や八公には、詩は書けないのです。《詩もどき》は書けてもね。
そうして、やがては、《詩》そのものが崩壊していくでしょう。
もっとも、熊さんの詩や、八っつぁんの詩、だってあるはずだ、と何となく思えそうですが、
それは、ロンパオーの存在みたいに、ただの大衆の錯覚にすぎないでしょう。
例えば、映画「男はつらいよ」は、ある意味、寅さんの詩だと言えそうです。それには人間の笑いと感動があるよ、と。
しかし、あの作品の脚本を書いたのは寅さんじゃありませんからね。作者が《寅さんの詩》として造形したのであって。
映画と詩は違う、と言うなら、山之口獏の詩作品 を挙げましょう。作者の奥にある精神は、決して、熊さんや八っつぁんではありませんよ。
もっとずっと、哀しいほどの高貴な心が、その奥に生きてる詩人なんじゃないでしょうか。
(終)