サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと[101]
2024 03/27 22:48
おぼろん

アラガイsさん。

現代の書き手が「これは受け入れられるだろうか?」ということにおどおどしている、ということも問題なのですね。わたしは野生児でしたから、年上の人たちの意見や発言にも喧嘩を売ってきましたが、老若の逆転がなされた現代でなければ、それは本質的には許されないことです。「老いては子に従え」。その対偶になる箴言は何かあったでしょうか。今は思い付きません。「Boys be ambitious」などでしょうか。出来れば、「理屈じゃあないんだよ」と言って蹴飛ばしてしまう前に、詩論について読者がうんざりするほど語ってほしいと思います。本質的に詩人であるアラガイsさんにとっては難しいことなのかもしれませんが。
「身の回りのこと」というのは、そうなのですよね。ですが、それに対処する自分として、「必要不可欠な自分」と「余剰な自分」というものがあり、表現の世界(儲かる世界とともに、交流する世界でもまたあり)にあっては、「私」なり「社会」なりという価値観は、所詮は自分のバイアスに頼ったギミック・ガジェット・ストーリー・プロット・リリック、などによった表現でしか表せないものだとも思っています。わたしは、表現における自由というのは、「三つ子の魂百までも」と言うように、幼少期に得た経験のなかから、時によって(感受性に応じて)ギミックやガジェットを取捨選択してくるものでしかないもの、とも思っているのです。
「自分を知らしめる目的であってはならない」については、これは多分「忘我」が必要なのです。自らが読者を受け入れる媒体となり、そこで読者が思考する自由を与える、という覚悟です。小林秀雄における「無私の精神」にも似ているでしょうか……? いや、似ていないな。詩人は感性におけるエキスパートなのですから、ブルトンのように「凡人でも天才になれる!」(精神のオートマティスム)を語っても意味がないのです。別の例で、新ウィーン楽派の一人であるヴェーベルンは「これからはコンパスと分度器だけで曲が作れるような時代になる」と言っていましたが、これも歴史を顧みていない発言です。事実、そのような音楽は現れてはいません(例外として、日本のネット初期にマンデルブロ集合から音楽を作り出す、というマンデルブロ音楽という表現形態もなかったことはないです)。
上に書いたこと(もしかしたら下かもしれない)の実現は、多分読者が作者になること、作者が読者になることによってしか実現され得ないものだと思うのですが、どうだったでしょうか。
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