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+ + こひもさんへ。 ツイッターではお世話になりました。とりあえずご挨拶として、なぜわたしがヒヒョーについて、こひもさんのご意見を伺いたいのかを率直に述べます。 それはこひもさんが、わたしのヒヒョーを訴求したい読者の象徴だからです。 こひもさんは一昨年、わたしの前回HHMヒヒョー対象が文極に投稿された際、当該作品に関するわたしの個人ブログ記事に、深い関心を寄せてくださいました。 文極のコメ欄で当該作品を、かなり辛辣に批判なさっていたにもかかわらずです。 (むしろ、批判なさったからこそ情報を収集なさったのかもしれませんが) あのできごとはわたしにとって、まったく望外の喜びでした。 今回もこひもさんは、「読解自体に否定される要素はないが、この読解が作品評価の基準として妥当か否かが疑問」というような趣旨(とわたしは判断しました)のコメントを寄せてくださいました。 あの疑義も、そこらの腰抜けなら確実に忌避するであろう類であり、こひもさんの男気に再び痺れた次第です。 わたしは「作品はジャンルを問わず、賛否両論の白熱するものほど良質」と考えていますが、賛否両論は読者のあいだでしか生まれません。本当に生産的な物議は「支持者対不支持者の論争」でしか成しえないと確信しています。 ですからわたしは、叶うならぜひ、こひもさんと生産的に物議したい。わたしの今回読解対象二著作者の作風や姿勢に疑問がおありなら、ぶっちゃけ著作者ご本人方よりわたしの話を聞いていただきたい。なんならわたしのヒヒョーごと、ヒヒョー対象二作品を罵倒してください。 わたしが述べられるのはわたしの意見だけなので、かれらの代弁はできませんが、どのようなヒヒョーを書けば、わたしの思うかれらの魅力をこひもさんに伝達できるか、一生かけて考えます。 by 澤あづさ >>22 澤あづささんへ 個人的見解・印象として、前回と今回のHHMにて澤さんが取り上げた批評対象作品より、澤さんの偏執読解文(ヒヒョー文)のほうがおもしろいという意見に変わりはありません。 >「読解自体に否定される要素はないが、この読解が作品評価の基準として妥当か否かが疑問」 この文章に対しては若干修正して >読解文自体はおもしろいのだが、対する作品の書き手が、そこまで考えて書いているのか否かが疑問 となります。 「この読解が作品評価の基準として妥当か否か」という判定を私はしません。どんなに稚拙な作品であったとしても、それを誰かが批評する価値はないとは思いません(時として言葉で書いてしまうことはありますが)。ではなぜ澤批評文はおもしろいのに、対象作品はおもしろくないと意見するのかと問われれば、この作品の書き手が、読み手に伝わるように書こうとした文章を読んだことがない、ということにつきます。 自分に可能な限りの技術を使い、他人に伝わるように文章を書いたことがあるのか? どこまで説明しても捻くれて読もうとする読み手に対して、それでも自分の書いた文章を正確に伝わるように書いたことがあるのか? これは、言葉数をかけなければ出来ないことです。 私が田中宏輔さんに全幅の信頼を置いているのは、彼は、ちょっとやそっとじゃない分量の説明・解説文を実際に書いている。詩集一冊を丸まる使った「The Wasteless Land.II」は詩論詩だし、ネット上で読める『理系の詩学』でも、彼の作品の理論を知ることができる。 詩の説明は「しない・したくない・できない」。この物言いのうちで、私が理解できるのは「できない」というものだけです。けれど「できない」のであれば、「詩の説明はできないけれども、詩は書きまくりますので、そこからなにかを拾ってください」という人しか信頼は置けない。「しない・したくない」は勝手にすればいい。けれども、詩の説明は「しない・したくない・できない」し、詩の量産もしませんと言う人をどう評価すべきなのかは、私にはわからない。 by こひもともひこ >>24 こひもともひこさんへ。※横槍も歓迎します。 んんんんんーむ! >詩の説明は「しない・したくない・できない」し、詩の量産もしませんと言う人をどう評価すべきなのかは、私にはわからない。 まず説明を試みますが、わたしの知る限り紅月さんは、「詩の説明をしない」ような人ではありません。 むしろ強い意志を持って議論する人です。ただ信条として、自作を解題しないだけです。 量産に関しては、いまはしていないだけで、三年半まえには三日に一度現フォに投稿していたような時期もありました。 (その「しりかげる」というアカウントは消されちまったので、証拠を出すことはできないんですが……) もっともかれは「量より質」という具合で、安易な投稿を忌避するタイプですから、批評の場への投稿数は多くありません。 たとえば文極の2月優良に入った『albus』(http://bungoku.jp/monthly/#a10)は、昨年4月の作品(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=271532 日付をご覧ください)です。10ヶ月も寝かされて、ようやく投稿に至るような作品もあるんです。 >ではなぜ澤批評文はおもしろいのに、対象作品はおもしろくないと意見するのかと問われれば、この作品の書き手が、読み手に伝わるように書こうとした文章を読んだことがない、ということにつきます。 わたしの読解をおもしろいと評価していただけたのに、その読解への評価が「自作を解題しないという作者の信条」への評価に繋がらないのは、やはり悔しいですね。 紅月さんにその信条とプライドがなかったら、おにゃのことわたしの愉快な錯乱合評など、生まれすらしなかったのです。 このことへの賛意は持論として、ヒヒョーのなかで熱弁すべきだったかもしれません。 かれが自作を解題しない理由はたぶん、根本的にはただひとつ。心ある読者に気づきの財産を与えるため、鑑賞の楽しみに水を差さないためです。ほかになんの理由を推測できるでしょうか。 自作を解題しないということは、自己完結しないということ、作品の読解可能性を作者の独善でつぶさないということ、読者を信頼して作品を委ねるということです。 読者がいかに心なく当てにならないか、わたしは自分の読解の当てにならなさから痛感しているので、その当てにならない読者をあえて信頼している作者を、心の底から尊敬します。 以上の言説について、理解しがたい部分や得心しかねる部分がありましたら、ぜひご指摘ください。 どう説明すれば伝わるのか、一生かけて考えます。 + + + >自分に可能な限りの技術を使い、他人に伝わるように文章を書いたことがあるのか? >どこまで説明しても捻くれて読もうとする読み手に対して、それでも自分の書いた文章を正確に伝わるように書いたことがあるのか? この「文章」というのが具体的になにを指すのかよくわかりませんが、たとえば紅月さんが著作者としての意向(自作を解題しないという信条を含む詩論など)について「正確に伝わるように書いた(が諸般の事情により理解されなかった)こと」の実例なら、掃いて捨てるほどあります。 そういったものを紹介すれば、こひもさんのかれへの見解が変わる可能性もあるのでしょうか? ちょっとした作家論的な情報があれば、この書き手への入り口が広がるのかもしれないのでしたら、情報をまとめてみたいという気持ちはないでもありません。 わたしはテクスト至上主義者ですが、作品理解には作家論も欠かせないと思っています。特に紅月さんはキャラが派手ですから、言行をまとめるだけでもちょっとした読み物になるかもしれません。 ただ、かれはとても若い書き手で、詩論をまとめたり作家論を書かれたりする段階にはないと思います(この点を田中宏輔さんと比較するのは無意味だと思います)し、ご本人が作家論的な先入見を疎んじていることを知っているので、安易には公開したくありません。 それを書きさえすればこひもさんの見解に影響を与えられるという確信があれば話は別ですが、こひもさんの知りたい情報がかれの詩論でなく、あくまで「かれの自作解題」なのでしたら、そこでわたしが努力しても無駄だということになりますから、慎重を期したいと思います。ご意見を伺えたら幸いです。 by 澤あづさ はっぱをかけたので、せっかくなのでcaseも。 以前、りすさんが囲碁と将棋を例に「詩を読むこと」の話をどこかでされていました。 case的に要約すると、よく似た形式であっても、ルールが異なれば、その楽しみを楽しむことができない。 caseがおもうに、ヒヒョとは、これを逆にいったものではないか、と。 つまり、ルールのわからないゲームであっても、別の形式に整えて提出すれば、だれかが受容してくれるかもしれない、と。 caseは碁をやったことありませんが『ヒカルの碁』というマンガは面白く読めました。 テレビゲームもTRPGも不案内ですが、ゲームの攻略本やニコニコ動画にあげられているようなプレイ動画・再現プレイを面白く視聴できます。 こひもさんの仰る「澤読解文はおもろい、だけど、澤読解対象作品はおもんない」ってのは、澤読解文と読解対象作品の形式の違いからくる、読解というルールの差異がポイントなんじゃないんかなあ、とかおもいました。 by 香瀬 >>25 澤あづささんへ こひもともひこ: >詩の説明は「しない・したくない・できない」し、詩の量産もしませんと言う人をどう評価すべきなのかは、私にはわからない。 澤あづさ: >まず説明を試みますが、わたしの知る限り紅月さんは、「詩の説明をしない」ような人ではありません。 >むしろ強い意志を持って議論する人です。ただ信条として、自作を解題しないだけです。 ここは、難解な作品を作る書き手の多くが、自作の改題をしたり、他人の作品の読解をしたりしない傾向があるということを、紅月さん個人にも当てはめて書いてしまっていたようです。私の思い込みですね、反省。 紅月さん個人に対しては、「同一人物が書いた言葉の群れから、そのひととなりが浮んでくる」というテキスト論を考え中の私にとっては、澤さんの提出されたHHM2作中にあるように「めんどくさ」くはあります。 澤あづさ:【HHM2参加作品】 >「上記メビ版には『suigyo』と署名されていますが、著者は下記改訂版決定稿と同一です」 >「めんどくさっ」 >「メビおよび文極では『no title』と題されましたが、現フォ版からあきらかなように『題名なし』の意です」 >「めんどくさっ」 つぎに、ここは合点しました。 澤あづさ: >わたしの読解をおもしろいと評価していただけたのに、その読解への評価が「自作を解題しないという作者の信条」への評価に繋がらないのは、やはり悔しいですね。 >紅月さんにその信条とプライドがなかったら、おにゃのことわたしの愉快な錯乱合評など、生まれすらしなかったのです。 書き手本人による解題がないからこそ、読み手が自由に偏執読解することができる。 私自身の見解は、かつてメビウスリング内で書いたとおりです。 こひもともひこ:メビウスリング(プロ詩投稿城)内に提出された澤あづさ『スイスのことは知らん(改訂)』のコメントより。 >ものすごく率直な疑問として、多くの人はなぜ、自作を語ることを恥や、してはいけないことと考えるのかは、私にはさっぱりわからない。仮に私が澤さんの作品を「〜のことを書いたもの」として読んだあと、澤さん本人が自作解説したのを読むと、まったく的外れだったとしても、「でも私はこう読んだ」と考える性格をしています(もちろん、少しは凹みますが)。 書き手・作者が自作の解題をしたとしても、それは作者という読み手による読解として判断するので、作者による解題を「こう読め」という風には捉えません。「こう読め」ではなく、作者という読み手による個人読解になるのか、作品の構造分析になるのかは、その説明文を読んで判断する。 なので、 澤あづさ: >著作者としての意向(自作を解題しないという信条を含む詩論など) は、私は興味がありません。 澤あづさ: >「正確に伝わるように書いた(が諸般の事情により理解されなかった)こと」の実例なら、掃いて捨てるほどあります。 これは、わたし自身、自作に対する他人とのやり取りでいやになるくらい経験しているので、さらに知ろうとは思いません。 澤あづさ: >ちょっとした作家論的な情報があれば、この書き手への入り口が広がるのかもしれないのでしたら、情報をまとめてみたいという気持ちはないでもありません。 >わたしはテクスト至上主義者ですが、作品理解には作家論も欠かせないと思っています。特に紅月さんはキャラが派手ですから、言行をまとめるだけでもちょっとした読み物になるかもしれません。 このやり取りをしていて輪郭がはっきりしてきたのですが、作者の情報(年齢・性別・政治思想など)を元にして作品を読み解こうとする作家論と、作者が書いた言葉(テクスト)の群れから、だんだんと作者のひととなりが浮かび上がってくるということは、実はつながっているのじゃないかと感じはじめています。けれどそうなると、テクストというものを、作者の一作品だけ(ぶつ切り)にしてみるテクスト論は、構造分析以外にできることがあるのか? 澤さんの批評文(特に前回のHHM提出作品)は、言葉を徹底的に調べることから作品読解をしようとしている。これは書かれた言葉を調べて辿っていく説明であり、作中に書かれていないことを読み手の印象で勝手に創りだしているわけではない。これは「書かれた言葉の分析」といってもいい。ああ、これが構成になるのかな? で、私の分析は構成には踏み込まず、それがどういう手法(引用・本人文・句点までの区切り・詩)で書かれているのかをブロックわけしているので構造の分析になる。 これで返事になりましたでしょうか。 あとはなんだろう、私は澤さんからの影響を受けてますよ確実に。 by こひもともひこ >>26 caseさんへ ※横槍を大歓迎します。 >ルールのわからないゲームであっても、別の形式に整えて提出すれば、だれかが受容してくれるかもしれない、 そうですね、たぶんそこで満足するのが常套なんであろうと思います。 わたしの読解はわたしの作品わたしの自己表現以外のなにものでもないのだし、ヒヒョー対象よりおもしろいと言われてうれしくないわけもないのだから、すなおに喜んで終わればいいのかもしれません。 こひもさん以外の方だったらそうしたかもしれませんッッガ! ぶっちゃけ、こんな禁断の話につき合ってくれる男前は、どうせこひもさんしかいない。 (主催者でなければcaseさんもつき合ってくれたに違いないのに!) + + + >>27 こひもともひこさんへ ※横槍も歓迎します。 紅月さんについては、誤解が解けてよかったです! 作家論に必要がなければ、これ以上人様の話をしてもしかたないので、ツイッターでの本題を。 ◆構造論等についてのお話◆ わたしもよくわかってないのでうまく言えないんですが、こひもさんのおっしゃる構造分析は、巷で言われている構造主義とは違うと思います。 たとえばわたしの脳内において、わたしの今回読解は構造を重視した読解です。ボルカさんが「意味の柱を立てて構造を見渡す」と指摘してくださいましたけど、そんな具合です。 まず細部表現を整理し、たとえば「この作品は『片眼』すなわち偏見の構造を描いている」とかいう、話の前提をぶっ立てる。 作品の核心を言い当てることから話をおっぱじめて、その核心について説明するようなかたちで話を盛っていく。 というようなのが、わたしの脳内構造主義です。 それを構造主義と自称するのが適切なのか否かはさておき(どなたか詳しい方のツッコミをいただきたいです)、そういう読解は、しょっぱなにぶっ立てた前提が的確でなかった場合、100%話にならないというところに難しさがありますね。 加えて、単なる印象に終始し「作品そのものとは関係ない話」に陥りがちな傾向も顕著であるように思います。 その作品(あるいは作家)をネタにして自分の私見をもっともらしく陳列してるだけで、「そんな話はこの作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」みたいな系統です。 話がちょっと逸れますが、わたしは、そういう論調が根本的に嫌いです。 特に不特定の他人に説教するふりして自分の思想なり作風なりを正当化してるだけの類は、品性下劣ですので軽蔑します。 もちろん下劣だろうがなんだろうが、話がおもしろけりゃあいいんですけど。下劣な品性が編み出した持論はほぼ例外なく、もっともらしいだけで根拠のまったくない、ただの詭弁です。ご立派な詩人様のご大層なご批評には、その類の詐欺が多すぎるように思ってますね。(その詐欺に騙される愚鈍な詩人様が多すぎるから、詐欺が隆盛するんでしょうね!) 取材も考証もせず、はなから逃げを打って無根拠に他人を説教する卑劣な話術は、なんの説得力もないし、偏見を強化する以外のなんの役にも立たない。って例のおにゃのこにみずから罵倒されたことなんですけどねこれ。わたしの所感はそんな感じです。 by 澤あづさ >>29 澤あづささんへ 構造主義ではないと自分でも思っています。おそらく私が力を入れているのはポスト構造主義に近いのでしょう。でも、どちらにしろ私は「自分が主張する」という意味での主義以外の「〜主義」というものにはあまり興味がありません。哲学もそうなのですが、「そんなの自分で考えりゃいいじゃん」と思ってしまうところがある。これは、参考になる書籍や意見を無視して我を通すという意味ではありません。そうではなくて、「それはデリダのいう〜でしょ」というような物言いをする相手の話に納得した経験の少なさからくる偏見というのでしょうか、「分かりやすく説明できないのなら、デリダとかいってんじゃねーよ」ということからきています。 >しょっぱなにぶっ立てた前提が的確でなかった場合、100%話にならない これはよく分かります。この「100%話にならな」くなくするために、私のやる構造分析をする意味もあるのだろうと思います。 ファーブル昆虫記にある話で、タマムシとゾウムシしか狩らないツチスガリというハチが出てきます。このハチは、いろんな種類のタマムシ・ゾウムシを、針の一刺しで生きたまま仮死状態にして、そこに自分の卵を生みつけます。でも、このハチが狩るのがなぜタマムシとゾウムシだけなのかが分からない。これはやがて、昆虫の神経系を調べる生理学から解答を得られるようになります。タマムシとゾウムシは、神経節が一箇所に集まっている昆虫だった。このハチは、この神経の集中している箇所に針の一刺しを行い、全身麻痺をさせていた。他の甲虫はこの神経節が数箇所あるので、一刺しで仮死させることができないことが分かった。(簡単に説明したものがこちらで読めます→http://www.k5.dion.ne.jp/~sasara-p/konchuu_7012.htm ) この理由を考えるとき、「ツチスガリはそういう進化をしてきたからだ」と進化論から説明することも可能ではあるでしょう。けれど、神経系を調べるという、動物行動学とは別のアプローチから事の理解につながることもある。 次に移って、 >「そんな話はこの作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」みたいな系統です。 というのは、言える場合もあるのかな、とは思います。 >まず細部表現を整理し、たとえば「この作品は『片眼』すなわち偏見の構造を描いている」とかいう、話の前提をぶっ立てる。 という手法をされている澤さんの場合は、取り上げた批評対象作品である必要性は高いように思います。今回提出した私の作品の場合は、「この作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」という見方はできるでょう。ただし、私の批評対象作品と同程度のブロック分け(分量)を使わなくてはならない詩を他で見たことがない。この「見たことがない」ということを軽んじる向きは、特に詩人の中にあるような印象を持っています。 by こひもともひこ ※このコメントには「某所で近代文法学とソシュールとかの言語学を混同なさり文法の存在意義を否定なさってたご大層な詩人様」への口汚い批判が含まれます。批判の対象は、あえてお名前は挙げませんが特定個人であって、ほかの方には一切なんの関係もありませんので、誤解なきよう願います。 >>30 こひもともひこさんへ。※横槍も歓迎します。 >「それはデリダのいう〜でしょ」というような物言いをする相手の話に納得した経験の少なさからくる偏見 「脱臼」(†デリダ先生)と「異化」(†シクロフスキー先生)を混同しているようなスノッブジャーゴンカオスよりは、「だれそれの言った○○」と出典が明記されているほうが、わたしにとっては親切ですね。 スノッブジャーゴンをつかいたいのは人間の性ですが、おおむね単にファッションであるため定義が不確かで誤解を招きがちという甚大な難を看過できません。「私秘性が高い」とか言われると頭痛がするほどいらいらします、論述は詩じゃねえんだ努めて語弊を避けろよと。思ってしまいますねわたしも。 わたしが某所で出くわしたあるご大層な詩人様(魂のリズムがどうこうとかにこだわるタイプ)なんか、近代文法学とソシュールとかの言語学を混同して、日本語文法の存在意義を否定なさってましたからね。あのときわたしは、詩人様が彼岸のご在住であり、此岸の凡夫とは対話不可能であることを悟りました。 どういう唯我独尊でもって、なにをどう取り違えたら、そんな脳みそ腐ったリズムが魂から涌いてくるのか、わたしには理解できそうにありませんし理解したくもありません。 (↑これ偏見ですかね、ツッコミをいただけたら幸甚です) ◆ツチスガリの話に関係して◆ http://www.k5.dion.ne.jp/~sasara-p/konchuu_7012.htm (この話おもしろかった!) >このハチが狩るのがなぜタマムシとゾウムシだけなのかが分からない。 このような疑問から研究を始め、仮説を検証していく、いわゆる科学的な姿勢が、読解には不可欠であると、わたしは思っています。 ※二次創作などを含む「鑑賞」は、この話とは関係ありません。ソシュールと日本語文法を混同するような脳みそでは、芸術ができたとしても国語はできまいと申したいのです。 疑問を持って仮説を立て、自分の立てたその仮説にも疑問を持って検証する。 その検証のために、こひもさんのようにテクストを調査する必要が出てくる場合も、当然あるでしょう。 しかし>>30のお話は、「構造」という用語の語弊のために、話がかみ合っていないように思います。 >今回提出した私の作品の場合は、「この作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」という見方はできるでょう。 わたしが>>29で述べた「そんな話はこの作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?みたいな系統」というのは、「わたしの述べた脳内構造主義が陥りがちな傾向」の話で、こひもさんの作品とは関係ありません。 わたしが今回やった読解は、要するに解題です。合評の部分では主に「形容矛盾が鑑賞に及ぼす効果」の具体例を挙げています。対してこひもさんのヒヒョーは、わたしの知る用語で言えば「形式」(フォルム)の調査であり、仮説も結論もないので論(話)が成立していませんし、わたしのヒヒョーとはなんの共通点もありません。比較する意味はないと思います。 たとえばわたしが今回、『no title』の読解にかこつけてカミュ『異邦人』のあらすじやら『幸福な死』の紹介やらカミュの交通事故死の話やらを延々述べてたら、「カミュの話は紅月さんを引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」ということになると思います。 今回のHHM2参加作品ですと、N.K.さんの参加作品(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288639)も「エリオットの話は関係なくね?」と思われるぎりぎりの線かもしれません。でもこのヒヒョーは、わたしの目にはあきらかに、ヒヒョー対象の引き立て役としてエリオットを引いていますので、わたしにはその表敬がとても心地好く読まれました。 その問題における今回最大の問題作は、廊下に硬貨さんの参加作品(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288764)ですかね。なにせ二次創作ですから「ヒヒョー対象と関係なくね?」と思われるかもしれません。しかしわたしの目には、この二次創作が分析の成果であることがあきらかですので、わたしにはその好奇心がとても興味深く読まれました。 わたしは「ヒヒョー対象に表敬しないヒヒョー」が嫌いです。 HHM2でも、ヒヒョー対象に表敬していない、あるいは論が拙劣であり表敬が成立していないと判断されたヒヒョーには、言及したくないという理由でポイントを入れませんでした。 そのわたしからポイントを受けたということは、こひもさんのヒヒョーは「わたしの見地からすると作品への表敬が成立している」ということ、そしてわたしの論評の俎上に乗っているということです。 わたしの評価などなんの足しにもなりませんが、そのような次第ですのでご了承ください。 by 澤あづさ >>31 つっこんで欲しいと書いてあったので。 わたしは、幼児や、教養がないとされる生活の玄人の紡ぐ言葉にも詩があると思います。 日本語の文法は後から追いかけてきたもので、国語の文法とは違います。国語の文法というのは、方言や若者言葉など、国語の文法です。 わたしの書く言葉が日本語の文法にそっていないことで、「リズム」「隠喩」などかばっていただくケースはあるのですが、今回のお話には横道にそれるかも知れず、このケースでのひとつの情報と受け取っていただけたらと思います。 公の広報のパンフレットでも、長野木曽福島と、東京の昭島ではまるでちがいます。 木曽福島は文学的で、昭島はマニュアルです。そうした、同じ日本のなかでも、違う当たり前を生活にしている人がネットでは同席しますから、リアルで色々探検して、「それ違わね?」をしていただきたいな。 なんでこんなことをいうかって、ディベートではなく、探し物があるのかな?と思い、書きました。 わたしは、星の王子さまが愛読書なので。 by 鵜飼千代子 >>31 澤あづささんへ >「だれそれの言った○○」と出典が明記されているほうが、わたしにとっては親切ですね。 デリダの脱臼、シクロフスキーの異化、こひもともひこのマグマ星人&ババルウ星人、をどこまで説明しているのか。私の偏見の中に、「だれそれくらい読んどけ」という人物は『○○』の説明をしない(できない)というものがあります。出典の明記はありがたいし、自分が興味のあるものなのであれば勉強もしますが、それと「○○とはなんぞや」を説明することとは別の話になる。 ここに挙げた「マグマ星人とババルウ星人」は、私のツイート上で「スノッブとジャーゴン」の比喩として使ったネタからきています。スノッブは「知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋(ウィキより)」で、ジャーゴンは「隠語。ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語(ウィキより)」として意味を拾い、それをマグマ星人とババルウ星人にあてています。マグマ星人は、連れ歩く双子怪獣のブラックギラス・レッドギラスがいるから偉そうにしているスノッブで、ババルウ星人は、ウルトラマンレオの弟であるアストラに化けて悪さをしたのでジャーゴン。二星人まとめて、仲間内だけで通じるネタ(ジャーゴン)ということも比喩しています。 この比喩はゆるいくくりしかないので、語弊はあるでしょう。なので真面目に追求する場合には使用しない。けれど、「だれそれの言った○○」をよく使うタイプの人物は、こういった説明さえしようとしないように見受けられる。 >ソシュールと日本語文法を混同するような脳みそでは、芸術ができたとしても国語はできまい ここは、なにを云わんとしているのかはよく分からないのですが、「混同する」ことへの批判なら分かります。ソシュールさんは、日本語を使ってシニファンやシニフィエを説明したわけではありませんからね。 >しかし>>30のお話は、「構造」という用語の語弊のために、話がかみ合っていないように思います。 ここは、ふたりの視点の違いから起きたズレのように思います。 澤さんの脳内構造主義から考えられる「カミュの話は紅月さんを引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」ということと、私の形式構造主義から考えられる「田中作品と同量のブロックを使った詩があれば、田中作品じゃなくてもよくね?」というのはどちらも言おうと思えば言える。けれど、批評文を書いたわれわれには、この作品でなければならない理由はある。まあ、これは批評文を書くわれわれの問題・熱量の話になちゃいますけどね。ですので、 >わたしが>>29で述べた「そんな話はこの作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?みたいな系統」というのは、「わたしの述べた脳内構造主義が陥りがちな傾向」の話で、こひもさんの作品とは関係ありません。 ここで言われている29への返信内容は、私と澤作品のどちらにも当てはめることができることとして書きました。 >わたしが今回やった読解は、要するに解題です。合評の部分では主に「形容矛盾が鑑賞に及ぼす効果」の具体例を挙げています。対してこひもさんのヒヒョーは、わたしの知る用語で言えば「形式」(フォルム)の調査であり、仮説も結論もないので論(話)が成立していませんし、わたしのヒヒョーとはなんの共通点もありません。比較する意味はないと思います。 これは現在悩み中です。 批評ってなんだろう? と考えた場合に、私のやった形式分析と、読解・解題とはどちらがいい方法なのか。HHM2の提出作品の簡単な個人読解がこれ→LEGOの実践+こひもともひこの解釈文 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288807 になるのですが、論として成立させるのであれば、これも不完全でしょう。批評と、自分のやりたがることとのズレは感じています。 最後に、ファーブル昆虫記の岩波文庫版は、どれでもいいので一冊は読んでおいたほうがいいと思います。ファーブル先生は詩人です。ちょいと書き出します。 ◇◆ 誰にでも、その人の思想の向きに従って、それまでは夢にも思いつかなかった展望を見せてくれて、精神に一つの紀元を劃【かく】してくれる本があるものだ。それは新しい世界の扉を大きく開いてくれ、その後我々は知力をそこに傾けることになる。それは一つの火花で、炉に焰の口火を運んでくれるものだ。炉の中の薪はこの火花の助けがなければ、いつまでも役に立てられないままで終る。そして、我々の思想の発展上、新しい紀元の出発点となるこんな本を手にする機会は、よく偶然が与えてくれるものだ。ほんのつまらない事情、どうかして眼にふれた数行の文字が、我々の将来を決定し、運命の轍【わだち】の中に我々を引き入れてしまうのだ。 『完訳 ファーブル昆虫記1』山田吉彦・林達夫 訳(岩波文庫)より 生の偉大なる全体【インテグラール】は、丁度幾何学者たちの積分【インテグラール】がゼロに近い量で構成されているように、こうした無に近いもので構成されているのである。 能力の起源は我々にはわからない。何故ここにはある才能があり、かしこにはちがった才能があるのであろうか。誰がそれを知っていよう。我々はいつかそれを知ると自負することさえできるであろうか。 レオミュールがすでに書いた蝉の博物誌を、また書くということは、先師の知らなかった一つの取り柄がないかぎり、不必要である。 伝統の密林の中に時おり斧を入れることはよいことである。既成観念の束縛を振り切ることは有益なことである。真理は邪魔な滓を取りのぞかれたとき、はじめて、従来我々に教えこまれたものよりもはるかにすばらしい姿で輝きわたることがある。 類推はもちろん貴重な手段ではある。だが直接に観察された事実には及びもつかないものである。 我々には、我々がかなり誇りとしている我々の論理がある。糞をこねる虫には、この場合、我々のよりもすぐれた彼等の論理がある。この虫は明智、物事を見透す力を持っている。 ものの「如何にして?」と「何故?」との領域に足を踏み入れることが危険なことは私も知っている。この神秘の国では、足をとられやすいものである。地盤はぐらぐらし、足はずぶずぶとめりこみ、向こう見ずの者を誤りの泥沼に呑み込んでしまう。が、危険だからといって、このような突進を断念せねばならぬであろうか。何故? 「道具は職人を作らない。」昆虫はどんな道具を身に備えていようが、それで専門家としての能力を発揮するのである。 おお、本の中ではあんなにも勝ち誇り、現実に直面しては全く役に立たない素朴な理論よ。 なんと、理論よ、お前はこれをどう考える? 前二本の肢について、お前は説明らしいことをいっている。しかも他の四本の肢はこれが偽だということをきっぱりお前にいっているではないか。おまえの根も葉もない幻想を真理だなどと振りかざすのはよしてくれ。 私はこれについて絶対に何も知らないとはっきりいっておこう。 『完訳 ファーブル昆虫記5』山田吉彦・林達夫 訳(岩波文庫)より ◆◇ by こひもともひこ 参照先不明 参照先不明 >>32 鵜飼千代子さんへ。※横槍を熱烈歓迎します。 ※こひもさんとボルカさんもご覧ください。(←命令) コメントありがとうございます。 わたしの罵倒が口汚なすぎたために、よけいな心配をおかけしたでしょうか。おそろしくわかりにくいツッコミ希望で申しわけありません。 とりあえず、>>31の罵倒について詳述します。 + + + 恨みの発端は、以下のようなできごとでした。 某所の読書会(つまり読解力を養う会)で、わたしがある詩文の文法解析からその読解可能性に言及するというような読解を披露しておりましたら、問題の崇高なる詩人様(文極で優良を獲れるレベルの、大変教養のある方)が、 「近代文法学は言外の意について放置しており、その悪しき風潮に記号論が拍車をかけているため、文法を学習すると事物と記号は所詮一致しないというような考えに染まってしまう。よって文法の解析による詩の読解は悪徳である」 というような超絶イミフのいやがらせをかましてきやがったのです。 ※注1:文法は「その言語の法則」であり、言外の意とはなんの関係もありません。 ※注2:「事物と記号は所詮一致しないというような考え」は、実在するどの国語のどの文法にも存在しません。なん度も言いますが文法は単に「その言語の法則」です。 文法学(語学)とポスモの言語学(実在のどの言語の文法とも関係ない机上の空論)を混同するというばか丸出しの詭弁で、無根拠に先人の研究を侮辱した挙句、読書会(つまり読解力を養う場)で文法解析(つまり最も客観的にして論理的な読解手段)を悪徳呼ばわりするなど、わたしにはもはや病気だとしか思えませんでした。 そこでわたしは、その腐れ詭弁が脳みそ腐ってるレベルで間違っている旨を指摘したうえで、なぜ事実無根の流言で先人の研究を侮辱するのかと崇高な詩人様に問いましたが、なぜかガン無視されました。反論どころか返信すらせずお逃げあそばされました。 自分の無知浅学を正当化するために先人の研究を讒言で貶め、その腐った詭弁と根性を指摘されたら逃げるなんてのは、人間として最悪だと、わたしは率直に思います。 その場では良識的社会人を装う必要があったので引いたものの、こひもさんとの話の流れでその恨みを思い出し、あのような脳みそ腐った詐欺師を批判しないわけには行かないと思い立ったので、>>31にその旨を書いた次第です。 + + + >日本語の文法は後から追いかけてきたもので、国語の文法とは違います。国語の文法というのは、方言や若者言葉など、国語の文法です わたしが>>31で述べた「国語」は、学校の国語教育のことです。 ソシュールの言語学は国語や語学(文法)とは関係ないので、勉強しても外国語は習得できませんし、自国語の理解も深まりませんし、ぶっちゃけなんの役にも立ちません。あの詩人様が宣ってた「魂のリズム」も、それと目くそ鼻くその非実用なんじゃねえの、というような思いから「ソシュールと日本語文法を混同するような脳みそでは、芸術ができたとしても国語はできまい」という罵倒が出てきた次第です。 どうも罵倒までもややこしくて、申しわけありません。 + + + >わたしは、幼児や、教養がないとされる生活の玄人の紡ぐ言葉にも詩があると思います。 >>31ではこのようなことには言及していないのですが、ごもっともなご意見です。たとえばわたしは英検三級の貧しい整体屋おまけに視覚障碍者ですが、わたしの吐く言葉にも詩はあると思っています。 聴覚障害者の言葉にも、老人の言葉にも、教養はあるが生活感のないような人の言葉にも、この世のだれの言葉にも詩はあると思っていますが、なににせよ詩は「ある」だけでは読まれませんし愛されません。 わたしはわたしの好きな詩に、もっと読まれ愛されてほしい、あるいはわたしの好きなタイプの詩が増えてほしい。そうした野望のためわたしにはなにができるのか、ここで模索している次第です。 >わたしは、星の王子さまが愛読書 そこでこのご発言に便乗しHHM2ヒヒョー対象を宣伝させていただきたいのですが、折りしも今回HHM2のためいかいかさんの『星遊び』(http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12)を友人と合評した際、星の王子さまの件も話題にのぼりました。 うちの弟嫁は星の王子さまの原著を読むためフランス語を習ったおたくで、実家の部屋という部屋に王子さまを飾っています。そういうよしみで鵜飼さんにも、よかったら『星遊び』を読んでいただきたいのです。 そしてもし「こんな星はぜんぜん王子さまじゃないしつまらないわ!」と思われたら、ぜひわたしを率直に罵倒していただきたいのです。この詩が読まれるためにわたしができることを、一生かけて考える所存です。ヒヒョー対象伝道のことしか考えてなくて申しわけありません。 by 澤あづさ >>33 こひもともひこさんへ。 ※鵜飼さんとボルカさんへのレスもご参照ください。 >私の偏見の中に、「だれそれくらい読んどけ」という人物は『○○』の説明をしない(できない)というものがあります。 タイプが違いますけど、>>34に事態をまとめた>>30の詩人様は、「お話がイミフすぎますので説明してください、先人の研究を侮辱するなら根拠出してください」というわたしの要求をガン無視してお逃げあそばされました。説明どころか「なにそれ読んで勉強しろ」程度のことすら言わなかったんですから、出せる根拠がなかったんだろうとしか推測しようがありません。 もっとも、説明は労力を要しますし、間違ったことを述べたり誤解を招いたりしてはならないという精神的負担も大きいので、良心ある相手にその労を過剰に強いるのは、控えるべきだろうなとは思っています。 >批評ってなんだろう? と考えた場合に、私のやった形式分析と、読解・解題とはどちらがいい方法なのか。HHM2の提出作品の簡単な個人読解がこれ→LEGOの実践+こひもともひこの解釈文 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288807 になるのですが、論として成立させるのであれば、これも不完全でしょう。批評と、自分のやりたがることとのズレは感じています。 んんーむ。 ではわたしの反省につき合っていただいたお返し(そしてファーブルの紹介のお礼)ということで、ひとつ論評を。 ◆こひもさんのヒヒョーとヒヒョー対象のお話◆ ・ヒヒョー 本文:http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288723 付記:http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288807 ・ヒヒョー対象『THE GATES OF DELIRIUM。』 http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/380.html#20131007_419_7061p 率直に言ってわたしには、こひもさんのヒヒョーのデータは読めませんでした。 だから「こひもさんがこのデータをどう読んだ(分析した)のか」を、やはり書いてほしかったと思います。それを書かなければ、データを出した意味がないと考えるからです。 たとえば、わたし自身が『THE GATES OF DELIRIUM。』の詩形を眺めて真っ先に思ったのは、特に引用の部分に「三の倍数」で構成された段が多いということでした。 テルツァ・リーマ(ダンテが『神曲』でつかった「三位一体」の押韻構成)ほど整っていないし随所で崩れる、というような印象が、不完全で罪深いがロゴス(言葉/論理/キリストの位格)には違いない光みたいな雰囲気を醸成しているように感じました。 ですから、もしわたしがこの詩を分析するとしたら、「乱れた(あるいは淫らな)三位一体のロゴス」とかいう前提を、とりあえず立ててみるでしょうね。そしてその仮説を、段の行数について統計を取るなどの方法で検証するだろうと思います。 そんな着眼はものすげーありがちだし、労が大きいばかりでつまらないので、もちろんヒヒョーは書きませんが。もし書くとしたら、聖書や『神曲』や相対性理論など「この詩を読むに当たり知っておいて損はないと思われる雑学」の紹介に留めるでしょう。海外文学に慣れてる人ならだれでもわかりきってるような雑学でも、知らない人は知らないので、紹介の価値がないとは言えません。 対してこの詩を解題するなんてヒヒョーは、まったく無価値だと個人的に思います。「ヒヒョーの駄文なんか読むひまがあったら詩を読んだほうがいい」としか言いようがないからです。 こひもさんのヒヒョーのデータは、こひもさん自身の恣意的な分類に拘泥しているので、わたしが注目した「三の倍数が多い」という情報を読むことができません。よってこのデータは、わたし自身の読解のためには「不要」です。 ではこひもさんの読解はどうなのか、こひもさんがこの詩形に見出したものはなんなのか、データを眺めてもわたしにはさっぱり読めません。そういう意味でこのデータは、わたしには「無益」です。データを読むより原詩を読むほうが簡単です。 ですから、このデータがどういう仮説のために収集されたのかという概論と、結果としてこのデータからなにが分析されたのかという結論がないと、このヒヒョーはわたしにとって「無益であるから不要である」ということになってしまうのです。 その個人的疑問を払拭しがたいという旨を、コメ欄で述べました。今後の研究の参考になったら幸いです。 by 澤あづさ >>34 蛾兆ボルカさんへ。※横槍を熱烈歓迎します。 ※鵜飼さんへのレスとこひもさんへのレスもご参照ください。(←命令) >澤さんは幸せなのかもよ(*^^*) >ソシュールにナチュラルに言及できるなんて。 >僕には彼の講義録、まったく面白くなかったですよ。 やはり読んだのが丸山圭三郎の『ソシュールの思想』だったのが僥倖だったんでしょう。一番の見所はサルトルの項です。 おっしゃる通りソシュールなんかおもしろいわけねーんですよだってなんの役にも立たねーんだもの実在の文法となんの関係もねーんだものそれを近代文法学と混同って文法研究をソシュール呼ばわりってかれはあれですか動詞の活用表を丸暗記せずにフランス語を習得でもしたんですか許せないあんな詐欺師は絶対許せないのでボルカさんに殴られるまで狸のように執念深く恨み続けますわたしを殴ってください。 >魂のリズムの話は、言葉の発生の話だと思います。 そのときの人間の鳴き声が、既存の名作(例えば「雪」)に、こだましてるのを読み取りたい、と、いう。 ソシュールはどうか知らないけど、言語学の一部には、そんな気持ちを共有するひとたちがいたような気がしますよ。 ですからわたしはその「実在のどの文法ともなんの関係もないポスモ言語学」と実在の文法研究を混同して謂れもなく文法研究を愚弄しやがったあの崇高な詩人様の脳みそ腐りすぎな詭弁をh(ry さあ殴ってくださいませ! by 澤あづさ 澤さん!はじめまして!こひもともひこさんとのやりとり興味深く読ませていただきました!澤さんの紅月さんへの並々ならぬ愛に感動してます。そこまで愛してもらえる紅月さんが羨ましくさえあります((笑))批評をあえてヒヒョーにしてる感も好きです。わたしは、詩など文学や音楽、美術などは、好きか嫌いしかないです。それいっちゃあおしまいだぜ〜的なことにもなりますが、そもそも興味ない作品(詩に限らず)の批評は最初から読まないし、スルーでござる。が、批評してる作者に興味あれば読む。結果、興味なかった作品に興味を示すことになったり、好きになったりする。←これがヒヒョーの力っすね!って、今回澤さんのヒヒョーがまさに、そうでした。 わたしも、澤さんがおっしゃってるように自分の好きな詩や詩人をもっとたくさんの人に知ってもらいたいなあって思っていますが、どんなに好きかを文章化するのは、自分には向いてないなあとつくづく思っている今日この頃であります。 好きとしか言い様がなくって((笑))。 澤さんのおすすめの詩のヒヒョーを、ここ現フォで読めるの楽しみにしてます!。 #ガラケー参加故にメビウスやら文極やら、みれない故に by 阿ト理恵 参照先不明 参照先不明 >>37 澤あづささんへ 比較対象か、個人的アイデアは書かないと、やり取りから得られるものは少ない(場合によってはない)ですからね。 今回、澤さんとやりとりをして、澤さんの手法が、ボルカさんの言われた「意味の柱を立てて構造を見渡す」というものであることの理解はできました。また、カミュやエリオットを持ってくることにより作品に近づくやり方は、>>31で澤さんが書かれたように、N.K.さんの作品にも見られる手法といえる。真似できるかどうかは別にして、どういう風に作られるのかは分かりました。 「意味の柱を立てて構造を見渡す」手法の場合、 澤あづさ: >そういう読解は、しょっぱなにぶっ立てた前提が的確でなかった場合、100%話にならないというところに難しさがあります ということの問題もあるのですが、私が一番もったいなく感じるのは、作者に答えが聞けるのになあ・・・というところですね。もちろん、作者の自作解題が正解というわけではないのですが、澤読解と作者解題を見比べて、そこからさらなるなにかが生まれる可能性はある。これは、ネット時代でなければできないことといえる。 これまでの時代は、作者は作品を書籍で発表し、それを読んだ側がどこかで批評するという形か、同人内においてだけ意見しあうことしかできなかった。これが、ネットで見ず知らずの他人とつながれる時代になったことにより、普通の生活上では出会えなかったであろう他人の意見を取り入れて作品展開をさせられるようになった。しかも、やり取りは作品発表後すぐにできる。けれど、作者解題があると澤読解は書けなく(書かなく)なるし、そもそも作者は自作解題しない理由ばかり考えている。 私は、ツイッター上でやっている連詩なんかは、かなり面白い試みだと感じています。これも、通常であれば出会えない人物とのやり取りから生まれる変化に面白さがある。ここにもったいなさがあるなと。 最後に、私のヒヒョー文への論評をしてくれてありがとうございました。 by こひもともひこ >>40 阿ト理恵さんへ >澤さんの紅月さんへの並々ならぬ愛に感動してます。そこまで愛してもらえる紅月さんが羨ましくさえあります((笑)) >澤さんのおすすめの詩のヒヒョーを、ここ現フォで読めるの楽しみにしてます! 名が……名が売れた……! 紅月さんの……!(※わたしの名前ももちろん売りたいですっ) ツンデレ未満ちゃんさんのような萌え系キャラでもって、書き手本人が愛されれば、自動的に全作品が愛され、わたしの野望は全面解決。 というような目論見で、現フォでの戦略を深刻に練ろうと思います。 とりあえず紅月さんの200本の詩から厳選した10本くらいのレビューを……わたしの最も苦手なレビューを……! それにしても、 >わたしも、澤さんがおっしゃってるように自分の好きな詩や詩人をもっとたくさんの人に知ってもらいたいなあって思っていますが、どんなに好きかを文章化するのは、自分には向いてないなあとつくづく思っている今日この頃であります。 どうも阿ト理恵さんは、ご自分の引用の才能をご存じないようです。 ◆阿ト理恵さんのヒヒョーとヒヒョー対象◆ ・ヒヒョー『ドアノブと未満ちゃんの事情』 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288182 ・ヒヒョー対象『未完成した』 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=273365 このヒヒョーは未満ちゃんさんのひとことダイアリーという、ふつう読まないような話の、ヒヒョー対象以上に未満ちゃんさんの作風を象徴しているような短文の連続引用からはじまります。その時点でわたしは未満ちゃんさんがうらやましいです。 さらにヒヒョー内で、ヒヒョー対象からの引用が三箇所書き換えられているわけですが、 ?原詩「チョコヘン」→ヒヒョー「チョコへん」 ?原詩「わたしが甘いものをです」→ヒヒョー「わたしが甘いものです」 ?原詩「そりゃあ笑顔しょ。」→ヒヒョー「そりゃあ笑顔しょっ」 特に?で、ツンデレ未満ちゃんさんのきゅんきゅんキャラが鮮やかに表現されており、未満ちゃんさんが大変うらやましいです。 この書き換えという行為そのものが愛だと思います。 好きという気持ちの示しは、難しいですよね。まずもって「好きになることが迷惑でないかどうか」が不安です。 でも、難しい難しいと思ってたら、なにも書けずなにも示せない、まずヒヒョーを書くという「行為」を示すしかないだろうなと思っています。 そのような関係で、わたしは阿ト理恵さんのヒヒョーに感化されました。 まず引用の着眼点から、自分のヒヒョーを練り直そうと思います。 by 澤あづさ >>41 >>42 蛾兆ボルカさんへ ※マサオの件は、気づきませんでした、 >この拍車云々という比喩は、サンプリング方法などに記号論の手法を文法研究者が使っている、とか、文法研究のシーンが記号論の問題意識の影響を受けている、とかいう状況の指摘ではなかろうか。と、私は思います。 >これに対して、『ソシュールと日本語の文法の話は関係ない』、と突っ込むのも一つの突っ込み案だろうけど、そう突っ込むと、話はよりわかりにくくなりますね。 激白しますがわたしは近代文法学の問題意識を知りません。 マ━ズ━Σ(・ω・|l|)━イ━Σ(・ω・|l|)━━ゾォ わたしの脳内で文法の問題意識というのは「東京弁(共通語)はイ形容詞を正しい文法で敬語にすることができないので問題がある「よくよく考えたら『ありませんでした』の二重敬語だっておかしい「いっそ日本の共通語を秋田弁にしろ「志賀直哉はあれだ」とかいう純然実用のレベルなので、その時点で齟齬が甚大だったんでしょうか。 自分のあほは、もちろん重々反省します。 が、わたしがあほであったら、かれが詭弁でないということにはなりません。 「文法研究のシーンが記号論の問題意識の影響を受けている」から文法解析が悪徳なんだとしたら、文語やラテン語はどう読解するんです? 文語やラテン語には読解される必要がないんですか? ……ってまあ、もちろん、これも充分に詭弁なんですけどね。 詭弁に詭弁返してたってしょうがないんですよね、とガチでいま頭が冷えました。 >たまにヘソを曲げるひともいたって良いじゃん。 (´・ω・)y━・~~ なんつうか、かれは結局、わたしを侮辱するネタが欲しかっただけなんですよね。 そのこと自体はたしかにどうでもいいっつうか、無理もないと思います。 詩が「生理的に無理」とかいう理不尽な理由で罵倒されてる以上、読解も同じように理不尽に罵倒されるべきだとわたしは思っています。 (※そういう認識が人としてどうであるのか、ツッコミをいただけたら幸いです) >メビだからお行儀よくするってことはいらないと思うのですよ。 >そりゃあおかしいよ、という発言への反論があるときは、遠慮なくあのスレですれば良いのだと思いますよ。 お行儀というか、諦めでした。ガン無視され逃げられた相手に無駄な論争を煽って、議事の進行を妨げてはならないと思ったので、ああいう結果になりました。 代わりに現フォで学校裏サイトを開設し、ボルカさんのお手を煩わせてるんじゃあ本末転倒ですが、ボルカさんのおかげで頭も冷えました。今後、かれのいる場には行かないという、商売人にふさわしい対処を取ろうと思います。 >他に拡散すると『学校裏サイト』みたいになっちゃって良くないですよ。 このご忠告は、粛々と真摯に受け止めます。 ガン無視され逃げられた恨みをここで煽ったって、かれが乗ってくれる可能性は皆無です。 やはりかれはここを見てたのに出て来なかったんだという事実を、さっき目撃しました。 ボルカさんのお手を無駄に煩わせ、申しわけありませんでしたが、頭は完全に冷えました。 自分に有利な環境を選び、安全圏から知りもしない他人を説教するのは、まぬけですしふぬけです。 言うまでもなくわたしは卑劣な人間であると改めて自戒し、今後、どんな意味でも目的でもかれに関与せず言及しませんが、わたしが別の件でなにか間違ったことを述べているのを目撃なさったら(あるいはすでに目撃なさっていたら)容赦なく殴っていただきたいです。 特に「たまにヘソを曲げるひともいたって良いじゃん」で、本当に頭が冷えました。 わたしは間違った読解をしたわけではないのだから、わざわざ自分を正当化する必要などなかったんだ、という意味で。 ご厚意に心から感謝します。 by 澤あづさ >>44 こひもともひこさんへ >私が一番もったいなく感じるのは、作者に答えが聞けるのになあ・・・というところですね。もちろん、作者の自作解題が正解というわけではないのですが、澤読解と作者解題を見比べて、そこからさらなるなにかが生まれる可能性はある。 >けれど、作者解題があると澤読解は書けなく(書かなく)なるし、そもそも作者は自作解題しない理由ばかり考えている。 いま不意に思ったんですが、ともするとこひもさんの目には、わたしの言動が「作者の自作解題を牽制している」かのように映っているんでしょうか。 そのように取られても無理のない言動を取っているような気が、いまさらしてきました。 (語調の鼻息が無意味に荒すぎたことを、いまさら反省しています) そうだとしたら誤解なので述べますが、わたしは「自作解題は無益・有害な行為である」とは微塵も思っていません。 著名作でいうと、たとえば鴎外の『高瀬舟』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html)は、わかりやすすぎるほどわかりやすい小説ですが、作者はさらに『高瀬舟縁起』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/46234_22010.html)で自作解題までしています。ここまでして「伝えたい」というのが、創作の常套なんだろうと思いますし、異論を唱える理由などどこにもありません。 共感を得られるかわかりませんが、ご参考までに、以下のやり取りをご覧いただけたら幸甚です。 ◆水魚(紅月)さん『delphinium』に関するコメント授受◆ http://mb2.jp/_prs/7746.html-0,2,4 ※No.0が作品、No.2が澤あづさのレス、No.4が作者さんのレスレスです。 わたしは、こひもさんのおっしゃるネットの特長を活かし、作者さんとの上記のようなコメント授受をなん度も繰り返しました。 今回の読解も、「あるいは書きたいことが最早そこにしかないのかもしれません」(http://mb2.jp/_prs/7746.html-4)と作者さんから聞いた題に、自分なりに沿ったつもりです。 わたしとこひもさんの持論は、物言いが違うだけで、そう甚だしく乖離していないはずだと自分では思っているのですが、いかがでしょうか。 繰り返しますが、わたしは「自作解題は無益・有害な行為である」とは微塵も思いません。 『高瀬舟縁起』のような、作品として成立している自作解題は特に。 by 澤あづさ >>47 澤あづささんへ 澤さんは、私に似て、コメントのやり取りから何かを得ようとするタイプだと思っています。「わたしとこひもさんの持論は、物言いが違うだけで、そう甚だしく乖離していないはず」というのは完全に同意します。 「水魚(紅月)さん『delphinium』に関するコメント授受」は、作者の側に、もう一歩踏みこんだコメントをして欲しいですね。かつて私が澤作品でしたやり取りのように。 ◇澤あづさ『スイスのことは知らん(改訂)』メビウスリング・プロ詩投稿城より →http://mb2.jp/_prs/7465.html このコメント欄のNo.9あたりからの二人のやり取りは、おもしろいものだと思っています。 他の例では、 ◇『ぼくも、もう限界だな』Moe Bowstern 作 田中宏輔 訳 文学極道より →http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/352.html#20130101_614_6588p この作品のコメント欄に見られるようなやり取りから、作品が変化していくのが、私が一番やりたかったものでした(過去形になったのは、いまは違う興味対象があるからです)。 by こひもともひこ 参照先不明 あわわわ、澤さん!、スルーされてもよいようなものにまで、励ましのお言葉をありがとうございます!そして、ごめんなさい。その???は単なるうつしまちがえでありまする(*^_^*)わたしは、3B鉛筆と消しゴムと罫線なしノートがありゃあいいのさ派です。最近弟からもらったパソコンは埃かぶっています…。未満ちゃんのひとことやら作品等に魅了されて、ノートに書きうつしていたんですが、ノート確認したら書いたものが、すでに間違えていました。お恥ずかしい限り。今回の批評もどきモノは未満ちゃんには内緒でしたから、アップした時はドキドキしました。正直、ノート上で未満ちゃんワールドに関わっている時間がウルトラ楽しくってたまらなかったです。また、来年はこうだたけみさんの作品の批評もどきを書こう!なあ〜んて思っていたんですが、廊下に硬貨さんの創作料理文に出逢っちゃったんですねぇ。はい、がつんとうちのめされました。あまりのおもしろさに!で、向いてない、とつぶやいてしまいました。いやはや。 そうそう、こひも ともひこさんの田中さんへの愛もはんぱなくって、すごく好きです。なんか、澤さんもそうですが、すごい熱量で好きをいかに好きか表現するって、素敵ですよね!批評に限らず、自分の好きを、なんらかの形であらわすことって、いいですよね。昔、ニフティでこのサイトを片野さんがはじめられた時に、わたしはちょっこし在籍していて、オフ会で出逢った魅力的な人たちがいたので、その人たちを詩の材料にしてしまったことがあります。タイトルはその人の名前ズバリです。例えば、「奥主榮」、「田代深子」、「岡実」とか。今思うとヒヒョー的だったなあ、と。ちなみに今は短歌に恋してる毎日です(*^_^*)。狙え新人賞!穂村弘(ファン)と同じ年なのにスタートが今じゃあなあ、だけど、好きの情熱だけで突っ走るのさ(笑) 話がそれてすみません。ヒヒョーもどきスイッチも入った時は書いてみまあ〜す! んじゃ! by 阿ト理恵 参照先不明 参照先不明 >>48 こひもともひこさんへ あー……。最凶黒歴史が……。 わたしだったら、わたしみたいなやつには、絶対レスしたくないお……。 コメ欄での自作解題に関するわたしの考えはいまでも、あのとき述べたとおりです。 いかにも難解な作品を必死こいて読解しレスしたのち、作者に詳らかに自作解題され「あなたの意見は誤読です」と宣言されたら、わたしは恥ずかしいです。 田中宏輔さんの英訳詩(http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/352.html#20130101_614_6588p)のコメ欄で行われていることは翻訳の研究であり、作者が不在ですから、「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」とはわけが違います。これは自作に対するコメント授受を「研究」と定義するか「評価」と定義するかの相違かもしれません。 評価なら、粛々と甘受せねばなりません。ド素人のネット詩を共同研究してくれる親切なレッサーなどふつういません。 こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。 わたしはプロ詩でいかれた作者(もちろん圧倒的少数です)にさんざん徒労を食らわされ、嫌気が差してプロ詩のレッサーを引退したほど、「レッサーに恥をかかせたがるくそ作者」が嫌いです。 にもかかわらず、自分自身がその恥ずかしい作者の典型なんですよね。そういう自分に嫌気が差して詩を書くのをやめたほど、いやみったらしい恥ずかしい作者が嫌いです。 だから>>25に書いたとおり、自作解題で読者に恥をかかせない詩人を、心から尊敬します。 繰り返します。 自作を解題しないということは、自己完結しないということ、作品の読解可能性を作者の独善でつぶさないということ、読者を信頼して作品を委ねるということです。 紅月さんが自作を解題しないのは、心ある読者に気づきの財産を与えるため、鑑賞の楽しみに水を差さないためです。わたしは紅月さんを心から尊敬していますから、かれの信条に絶対的に表敬します。 ですから、 >「水魚(紅月)さん『delphinium』に関するコメント授受」は、作者の側に、もう一歩踏みこんだコメントをして欲しいですね。 このご意見、つまり紅月さんに対するこういう態度には、絶対的に反対します。 対話は、得られた回答で満足すべきです。作者が「言いたくないから黙っていること」を、自分ならそうはしないという理由で、無理やり吐かせるのは横暴です。 答えないという行為も回答ですし、その行為の意味を読解するのも文学だと思います。 by 澤あづさ >>51 蛾兆ボルカさんへ (ΘェΘ;) 見解が違いすぎて、趣旨が正直よくわかりません。 とりあえず再三述べているように、「ポスモの言語学は文法と関係ない」とわたしは考えています。 あの類が重視するのはランガージュ(言語活動)で、ラング(言語)ではないからです。丸山圭三郎を読んだ限りでは、そのような印象だったからです。 ラング(言語)にはパロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)があり、その法則を扱うのがいわゆる「文法」です。とわたしは認識しています。 ボルカさんは文法と「書法」を混同なさっているようだけれども、文法は「言語の法則」であって「書法の法則」ではありません。当然、パロールも文法の範疇です。 >『シニフィエとシニフィアンが必然的に結び付いている』、というゲド的な発想は、ポストモダニズムの流れのなかで、ソシュールを源流とするひとびとによって、一度否定されたけど、みんながみんな、そう感じてるわけじゃないですよ。 「みんながみんなそう感じてるわけじゃない」からこそ、自分ひとりで勝手に考えた説明不足のシニフィエ(記号内容)は、他人には通じないわけですよね。なぜなら説明不足の文脈では、レフェラン(指示対象)を特定できないからです。 そんなことは、ポスモの言語学なんか勉強するまでもなく、国語力があれば中学生でもわかることです。 >魔法学校で魔法使いの弟子たちが学ぶという、『まことの名前』みたいなことも、そうそうむげにできません。 それはなんつうか、信仰の自由ですね。 つまり、信仰しないのも自由です。 他人に「自分と信仰(価値観)を共有しない自由」を認められず、自分の価値観を他人に強要しようとする向きを、世知辛い世間は自己中とか差別思想とか恐怖政治とか呼ぶわけです。まことの名狂信者は、布教活動に慎重になるべきです。 >文法学で詩を解析することには限界はあるでしょ。 「文法」で「文章」を解析する人間がいても、「文法学」で「詩」を解析する人間はいないと思います。 当然、わたしがあの場でしたことは「文章の文法構造の解析」であって「詩の解析」ではありません。そもそも口語自由詩に解析手段なんて存在しないでしょう、特定の書法が存在してないんですから、解析の対象が存在しません。 そんなことは、まことの名狂信に騙されない程度の学力さえあれば、中学生でも理解できるはずです。中学の国語と英語と数学で教わっているはずです。 >もちろん、だからと言って、文法が無意味なんてことはない 文法の丸暗記なしにラテン語を習得できる人間がいない以上、「文法が無意味」なんて超絶イミフを伝道するのは、まことの名狂信者だけだと思います。 by 澤あづさ 参照先不明 >>53 こひもともひこさんへ ※ツイッターでのご発言にも関係して。 >>53の物言いは、確かに物言いが悪すぎました。その点は謝罪します。 わたしはこひもさんの人柄を信頼していますし、方々でいただいたご意見に感謝しています。 だからこうして話につき合っていただいているわけです。 自作解題に関しては、絶対的に必要になる場合もあるでしょう。 たとえば曲解によって、名誉毀損に相当するような中傷を受けた場合です。 わたしにも、執念深い自注まで添えた思い入れのある詩を、すさまじい曲解で犯罪行為と糾弾され、なぜこんなものを書いたのか説明しろ説明しろ説明しろとすさまじく粘着されて、しまいにはキレたことがありました。 しかしそのお相手は、わたしが作品を解題したら、あっさり納得し引いてくれました。 話せばわかる人だったんだから、ちゃんと話せばよかった、議論の相手を信頼しなかったのが悪かったんだと、あのときはずいぶん後悔したものです。 が。 そこまで他人に粘着し糾弾し続けるという行為にも、相当な問題があったと思います。 こひもさんがそんな人でないことを、わたしは知っていますが、ほかの人の目にどう映るかはわかりません。 「口は災いのもと」の格言どおり、どんな語弊がどんな誤解を招くかわからないからです。 >>48のような事態に至ると、お互い生理的に無理ってことで話が終わりますが、語弊を避ければ話し合える場合もあるかもしれないのに、それに努めないのはそれこそ「もったいない」と思います。 わたしは自作解題しない作者についての私見を、>>25から再三に渡って述べました。 「だからと言って自作解題する作者を否定したいわけではない」ことについても、>>47で述べました。 自作解題をすることにもしないことにも意義はあり理由がある、一概にどちらがいいとは言えないはずだ、「自作解題しないのはもったいない」と決め付けることはできないはずだと、言葉を尽くして説明したつもりです。 これでもこひもさんに「自作解題しないことにも利益がある」(作者の解題の代わりに読者の読解が隆盛する)と認めていただけないなら、とりあえず諦めるしかありません。 それを認めていただけるほどの読解を書けるように、一生かけて精進します。 by 澤あづさ 参照先不明 >>59 澤あづささんへ >わたしにも、執念深い自注まで添えた思い入れのある詩を、すさまじい曲解で犯罪行為と糾弾され、〜 が。 そこまで他人に粘着し糾弾し続けるという行為にも、相当な問題があったと思います。 私は、自作解題・自作説明をしない人はしない人で、それはその人の自由だと思っています。その実例として、『papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium』葉月二兎さん→http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/339.html#msg6352 のコメント欄での私のやりとりを挙げておきます。このやり取りも、なにがなんでも作者の自作解題を求めているわけではありません。「自作の説明はしない」と主張する人は、それはそれで仕方がない。 >※ツイッターでのご発言にも関係して。 というコメントがなんのことか分からない人もいると思うので、私がツイッターで書いた文章も挙げておきます(少し手直しして)。 ◇ツイッターで書いたこひもともひこの文章◇ うーむ・・・ 職場の上司命令とかならともかく、ネット上でしか付き合いのない相手の言うことが号令に聞こえるという人たちの考え方が分からないのよね。それって、変わらなければいけない自分ということが自分でも分かっているのに、外側の誰かから言われたら、「そんなこといちいち言われなくても分かってます」だとか、「いちいち命令しないでください」だとか、過剰に反応してるだけじゃないのだろうか。私は、最初に文学極道に提出した『あいす』という作品について相当の自信を持っているけれど、あそこでもらったアイデア・意見はちゃんと採用して、作品を改良させてるのよね。良いアイデアであれば、喧嘩した相手だろうが、嫌いな人物からの助言であろうが取り入れる。貪欲さが違うねん。まあ、他人は他人やけどね。 ・『あいす』文学極道に提出した作品。 →http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/316.html#20120326_374_5966p ・『あいす(大画面専用)』文学極道でもらったコメントを参考にして改良したもの。 →http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287365 「意見を言わないという意見にも耳をかたむけるべき」だとかを突き詰めると、「よって、この件についてはなにも言えません」という結論にしか行けない。それでええんやったらええけどね。そんなんもうええねん。ほんで、なんの意見も無くリスカでもしとったらええやん。助けて欲しいんなら、「助けてちょー」って言えばええやん。 なんにも言いたいことなんかないんなら、「なんにも言いたいことなんかない詩」を突き詰めて書いてみればいい。でもな、「なんにも言いたいことなんかない」とかいいながら、言いたいことだらけな詩なのは分かるねん。「助けてちょー」というのを言えないから、濁せるだけ茶を濁してごまかしてるだけ。 私の詩は、私の言いたいことを読み手に伝わるように書くことを目指して書いている。これな、やってみたらめちゃくちゃ難しいねん。どう書いてもひねて読もうとする奴らがどこにでもおる。けれどへこたれずに、そういうやつらにも自分の言いたいことが伝わるように何度でも書く。コメントでやり取りできるのであれば、そこで喧嘩もする。 まあなあ、結局は、他人の作品なんかに興味がないということなんやろなあ。引用も含めて、「この人は前向きなことばっかり書くなあ」と感じてる誰かの書いた文章をすべてまとめて読んでみる。すると、その人物のひととなりが浮んでくる。書き言葉が、(自分を含めた)人にどういう影響を与えうるのか? そして、自分がどんな言葉を書いているのか? by こひもともひこ 参照先不明 >>64 こひもともひこさんへ >「自作の説明はしない」と主張する人は、それはそれで仕方がない。 だったらそこには、言及する必要はないと思います。 「仕方ない」ではなく、「それにも一理ある」と認めるべきだと思います。 これは至極単純に、物言いの問題です。対話を潤滑にするための。 もしこひもさんに、話を>>48に戻して「ネット詩の批評の場において自作解題することの意義や難点」について話し合いたいというお気持ちがあるのでしたら、わたし自身はそちらを擁護したい人間ですし、>>53の話がでたらめすぎたと後悔もしているので、改めて>>48から仕切りなおしたいと思うのですが、いかがでしょうか。 わたしはこひもさんを信頼しています。これは信じていただきたいです。 + + + >>65 蛾兆ボルカさんへ 物言いがあまりに煩わしすぎ、人をなめくさりすぎてて、心底対話不可能だと思うんですけどね。 わたしが支持しているのは「外国人学習者のための日本語習得の文法」だと、あの場でも説明しました。 それを記憶してなくたってそんなもん、ナ形容詞をググれば一発でわかります。 で、ボルカさんは、日本共通語(東京弁)の文法を、韓国公用語(ソウル方言を整理したもの)やトルコ公用語(イスタンブール方言を整理したもの)の文法と比較したことがあるんですか? 韓国公用語文法との違いから、日本共通語文法の特徴を指摘する程度もできない人間に、「語学」として日本語を語る資格はありません。 比較言語学の研究法も知らない人間がポスモの言語学なんかやったって、>>51のソシュールジャーゴンカオスのようにひたすら間違うだけです。 「日本語の構造に主部や主語はないとする立場」なんて概念は、あなたにはクソの役にも立たないと思いますよ。 なにせあなたは例の会の時点で、助動詞「す/する」と「す/せる」の区別もついてなかったし、主観的ナ形容詞(「好きだ」など)の正しい用法すらご存じありませんでした。 そこまで基礎のできてない人間が、概念だけ覚えてなにになるんです? 割り算のルールを理解できない人間が線形代数を論じるくらい、ばかばかしい詭弁を捏造するだけです。 あなたには、対話の相手への敬意が微塵もありません。 相手の論旨を汲む気が毛頭なく、ただ「おれ様は正しい」(しかも間違ってる)これだけ。 わたしにあなた様を信仰する義理は微塵もないので、たしかに対話不可能です。 by 澤あづさ 参照先不明 >>66 澤あづささんへ >「仕方ない」ではなく、「それにも一理ある」と認めるべきだと思います。 >これは至極単純に、物言いの問題です。対話を潤滑にするための。 ここは全くそのとおり・・・書き方が下手なんですよね、まだまだ。 >「ネット詩の批評の場において自作解題することの意義や難点」 については、自作解題を「書き手という読み手の一読解」として捉えて作品を読み解いていくのは面白いんじゃないかなと思っています。作者が一人でグルグル回るだけの自己完結になる危険性もありますが、そこにコメント者が加わり、作者の読解も、澤さんの読解も、他の人の読解も、どの読解も作品に対する一読解として接してみる。そして、それを読んだ作者が「ああ、これはいい読解だからいただこう」とか、「ここまでこだわって作ってなかったわ、もっと精度を上げよう」とか思考しながら作品が変化していく(必ず変化する必要があるわけではない)。難点はやはり、作者自身の解題を「正解」だと捉えてしまう「ものの見方」でしょうか。 >田中宏輔さんの英訳詩(http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/352.html#20130101_614_6588p)のコメ欄で行われていることは翻訳の研究であり、作者が不在ですから、「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」とはわけが違います。これは自作に対するコメント授受を「研究」と定義するか「評価」と定義するかの相違かもしれません。 >評価なら、粛々と甘受せねばなりません。ド素人のネット詩を共同研究してくれる親切なレッサーなどふつういません。 >こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。 ここに書かれている >いやみったらしく披露する ということも、大きなポイントになるように思います。その人が、「自分は知識を持っているぞ」ということを言いたいがためにコメントしているのか、そうじゃなくて、「この作品をより良くしよう」だとか、「このやり取りから次に繋がるアイデアが生まれる」だとかを求めてコメントしているのか。 なので、 >こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。 これがそのまま、やりたいことに繋がっていく。一般化されていることなのであれば、コメントのやり取りをするより、そのことの説明を上手にしている書籍でも教えてもらうほうが役に立ちますから。 by こひもともひこ >>68 こひもともひこさんへ。 >>「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」 >その人(※自作解題する作者)が、「自分は知識を持っているぞ」ということを言いたいがためにコメントしているのか、そうじゃなくて、「この作品をより良くしよう」だとか、「このやり取りから次に繋がるアイデアが生まれる」だとかを求めてコメントしているのか。 解題に限らず「作者がコメ欄で自作を解説する」という行為を否定する意見には、 「作品として表現できなかったことを解題で穴埋めするのは、言い訳でしかない」 といったものが多いという印象を持っています。 そしてこういう意見が多く出てくるということは、言い訳がましい作者が多いということなんじゃないかなー、とわたしは推測しています。 ほかならぬ自分自身がその類なので、わりと自信のある推測です。 ですからやはり、作品は作品として完成させるのが大原則だろうと思うのですね。 詩だけでは足りないので言葉を尽くしたいなら、注解や解題を作品にするという手もあります。田中宏輔さんの愛読者には言うまでもないことですが。 この機に乗じて、ヒヒョー対象関連作品を宣伝させてください。 ◆いかいかさんの前回HHM参加作品◆ ・ヒヒョー『こんなことを考えながら作品を書いている』 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267971 ・ヒヒョー対象『祖母』(※自作) http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a30 いかいかさんの貴重な自作解題です。元祖JJMなので、わたしはポイントを入れませんでしたが、もちろん精読しました。『星遊び』(http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12)精読のために。 わたしの知る限り、かれは自作解題しない人ではないけれど、レスレスはくれないことが多い。かれの作風を知りたければ、作品から情報を収集するほうが早いです。 「投稿しときながらレスレスしない」 この姿勢こそは、こひもさんには得心しがたいんじゃないか、とわたしは推測しています。わたし自身、レスにはレスレスしてくれよと思うからです。 しかし反面わたしはメビで「作者のレスレスはみっともないから禁止したほうがいい」という意見(もちろんいかいかさん以外の人の)を複数回見かけてもいます。 コメ欄での解題を「言い訳」として、そこまで忌み嫌う人もいるようです。 という前提で、以下。 <quote>------------- ?自作解題を「書き手という読み手の一読解」として捉えて作品を読み解いていくのは面白いんじゃないかな ?難点はやはり、作者自身の解題を「正解」だと捉えてしまう「ものの見方」でしょうか。 ?「いやみったらしく披露する」ということも、大きなポイントになるように思います。 ------------</quote> このうちまず?ですが、コメ欄のやり取りが評価でなく「アドバイス」なんだとすると、作者が事前に作品を解題して「わたしはこういうつもりで書いたんですけど、書けているでしょうか?」とレッサーに問うほうが、話が早いんじゃないかしら?と、わたしは現場にいたころしばしば思いました。 それと言うのも、ものすげーあたりまえの話ですけど、知らないことは読んだってわかりません。 特に詩は表現を凝縮しますから、詰めたネタがわかりにくくなることも多い。すさまじく難解あるいはネタのマイナーな作品の場合、作者が「なにを書いたつもりなのか」をはっきりさせない限り、アドバイスの手段などないということもあり得ますから。 そういう前提でのやり取りだと、?の理想は実現しませんが、こひもさんもおっしゃっているようにわたしは、?が一般的な風潮として定着するとは思えません。 そもそも、?のような交流が有益になり得るほど読み幅のある投稿作品がどれほどあるのか。そして?のような交流を望んでいるレッサーがどれほどいるのか。 このレッサー側に関するわたし個人最大の難関が、?です。 ガチで、わたしはわたしのようなやつにはレスしたくない(だからこひもさんの男気を尊敬するわけですが)、これはわたしひとりの所感ではないと思っています。 メビで活動していたころ「実力がないからプロ詩には行けない」「的外れなことを言ったら恥ずかしいからレスできない」というような話を、頻繁に聞きました。 実際そのころメビには、「難解そうな詩にはレスがつきにくい」という顕著な傾向がありました。 難解そうな詩ほど、便乗レスみたいなのが多くなる傾向もあったように記憶しています。最初に賛辞がつくと賛辞だらけになり、最初に批判がつくと批判だらけになる、みたいな。つまり合評は、どうしたって他人の意見に左右されやすいということです。 さらにプロ詩の周辺には、 「読解をもらっても無意味、技術を評価してほしい」 という意見も散見しました。 わたし自身も、やはり文芸は「芸」ですから、評価するなら技術が最優先だろうと思っています。内容を重視するってことになると、話も「共感できるかできないか」に終始しがちですし、わたしのやるような読解には、冷静な技術評価を妨げる側面が否めません。 しかし技術(表現にどの程度の効果があるかということ)は、内容を前提にしなければ評価しようがない、つまりまず読解しなければ論評も始まらない。というのがわたしの所感で、こうなると話がだいぶ厄介になりますね。 と、ひとまず半端なところで終わっておきます。 by 澤あづさ (*横槍とゆーか、、誤配、、独り言です。。 ―「一緒に拘束されている、だって?」―「同じ話へと拘束されているんだ」―「そのとおり、でもまた、だからこそじつに注意深くしていなければいけない。ぼくは自分の責任を意識している」―「きみはそうだ、それを認めなければ友愛に外れよう、けれど、ある程度までのことだね」 この限界とは何だろうと彼は考える、ついで彼は自問するのをやめる。「つまり、ぼくらが話をするかぎりで、という意味だね。そのとおりだ、話すということが、ぼくらに残された唯一のチャンスだ、話すということがぼくらのチャンスなのだ」 ブランショ『終わりなき対話』 「契約、結合が生じる〔場を持つ〕ためには、つまり「はい、はい」が両側で生じるためには、それが同時に二つの言語で行われる必要があります。この「同時」の二つの言語とは、二つの国語〔中略〕であるとも言えますが、しかしそれはまた、同一の言語内の二つの言語、つまりあなたのフランス語と私のフランス語―これは当然、同じものではないわけですが―であるとも言えます。したがって、約束、すなわち契約一般は、透明性としての翻訳可能性を内に含むのではなく、諸言語の差異還元〔縮約〕されていると同時に手つかずの〔無傷の〕ままに残されている<バベル>的状況を内に含んでいるはずなのです。もし純粋かつ単純に翻訳できるなら、約束は存在しません。もし翻訳ができないとすれば、やはり約束は存在しないのです。約束が存在するためには、<バベル>的状況が存在する必要があります。」 デリダ『他者の耳』 *** ええと。 自然言語とゆーか、んー、方言とかネトスラングとか幼児語を考えてみればわかることですが、あるどこかの大きな集団の中でも、音素などはもちろんのこと、じつは語彙や文法に関しても各人の偏差は大きいですよね。そしてたぶん、文字以前の声の時代にはさらにバラバラで遊びというか自由度が高かったはずです。おなじ共同体内での個々人のパロールはけっして一様なものでなく今よりも揺らいでいた。しかし、文字がうまれることでそれは?ある程度?規範化される(また、文字とはことばを空間にピン留めする技術のことでもあり、世界はふり返りや分析の対象になります)。そしてそのことはさらに大きな集団の形成を可能にし、より大きな集団(さまざまな自然言語や俗語にあふれたイロンな共同体からなる)をまとめ上げるための言語はさらに恣意性や揺らぎの少ない安定したもの(それはおそらく?透明性としての翻訳可能性を含むもの?)でなければならない。(18世紀に『英語辞典』を編纂したサミュエル・ジョンソンも「ヨシ、不安定な英語を?固定?する!」的なことをサクッとゆってるし、またそれはその地の人々から待望されてもいた) ここまでカナリ駆け足なのでツッコミどころもありましょうけど、、とにかく、そうしてことばの意味もそれが使用されていた各々の発生時の時間軸から切り離されて、ますます字句の論理的な意味関係によって定まっていった。 *** *Bさんがいうように、僕たちぞれぞれが投げ出されている現実の言語慣習には、確立された単一のシステムみたいなものはないように思います。つまり揺らいでいる。(たとえニホン語における?4月の平均気温?や?平年値?みたいなものをグーグル先生が知っていたとして、それさえ常に揺らいでいる。あ、もちろんこの?平年値?の比喩は?国語?とか、?まことの言葉?やプラトニズムとは関係ないです。) だけど、にもかかわらず、かつて僕がSNSでぽつりと「うなぎなう」とつぶやいた時には、みんなからちゃんと「俺はきのうからペヤングしか食ってねぇ…」とか「おなかすいたお…」とか「うるせー、shiね!」とか、、だいたい合ってるイチャモンをつけられました(「ニホン語でおk」みたいな反応はなく)。。まぁ僕が「うなぎなう」を最初に言った人でもないんだろうけど。 ことばを解釈する場面においてあらかじめ学習されていないこと、統語論の観点からみても、文法的な間違いやマツガイや逸脱や不完全なところがある?オレ語?でさえ、時として話者の意図に関する?了解?でもってうっかり通じたりすることがままある、、とゆーのは驚異的なことですね。 *Sさんがいうように、もちろんラテン語や文語、それから謎の古文書や暗号文を解読しようとするさいには文法理論とか考古学の知識とかいろいろ、カナリ必要だと思います。やったことないのでわかりませんけど、いやカナリ絶対に必要だ。。 そしてそれは現代ニホン語文を読むときもそうで、そしゅーるというよりも、参照項として脳内の辞書・文法書的(あるいは歴史文化個別経験的)データベースを使ったり、テキスト空間を命題ロンリ〜述語ロンリまでを駆使してケーシキ的に交通整理したり、デイヴィドソンがいうところの真理条件的意味論で意味らしきものを探り当てる(制作する)必要があると思います。 *対立するものではなく、強いて言えばSさんはデイヴィドソンがいうところの?事前理論?、Bさんは?当座理論?に関する話をしている気がします。 *** *引用・参考文献…手元にないんだけどたぶん昔読んだ『デイヴィドソン〜「言語」なんて存在するのだろうか』 森本浩一 (*http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509 カンケーありませんが、ここでは文法の必要性を十分に認めた上で、言語は文法に先立つ、ということを書いていて途中で投げてしまいました。。orz) 独り言ですが、長々と失礼しました。) by ツ >>71 こひもともひこさんへ >澤さんとのこのやり取りも、なんらかの結論が出る可能性の有無も大事なことではありますが、これだけ沢山の言葉の群れが出てきたことが重要だったりします。 うん。 つまり、ボルカさんへのわたしの態度は、完全に間違いですね。 ごめんなさい。(と、こひもさんに言っても意味ない) >仮に自作の解題が完全なる「言い訳」であったとしても、その「言い訳」として書かれた文章がおもしろかったら問題ない …………これも確かに…………確かに…………。 >私自身が音楽・バンド畑の出身であることによる「ものの見方」の違いのように思っています。バンドでは、作曲者が持ってきた曲に対して、楽器演奏者がアイデアを出し合って、観客の前で演奏するための楽曲にしていく。けれど、一度完成させて疲労した楽曲も、以降の練習中のふとしたアイデアの追加により、生まれ変わることがある。 ネット詩でも改訂という行為が頻繁になされますから、このような事例はネット詩でも起こると言えるように思います。 ただこの事例の場合、その楽曲はそのバンドというチームの編曲によって制作されているわけで、「ネット詩の投稿者とそれにレスするレッサー」がチームを組み共同制作に励めるのかどうかですね。 よくわかりませんが、mixiはそういう環境なんでしょうか。教えていただけたら幸いです。 ◆「 」のお話◆ mixiアカウントないので20作は読めませぬが。 これ一本拝読した限りだと、「角砂糖」でも通るような気がしました。 【光る鉄に恐怖を覚えさせ/冷え切った二人の仲を繋ぎとめ 】のあたりに多少無理がありますが、カフェ・ロワイヤル(http://blogs.yahoo.co.jp/pinchan_good_1951/37585152.html)ってことで。スプーンに焼かれる恐怖を覚えさせるってことで。 >塩は氷を引っ付ける作用があるので「冷え切った〜」としています。 やはりこういう比喩はわかりにくいので、解題の価値も高いでしょうね。 こういうのをイベントとして企画できたら楽しそうだな、と思いました。 ◆「評価する」問題のお話◆ >澤さんのいう精読も同じところがあると思いますが、今の私が興味を持っているのは、同一人物が書いた「書き言葉」の群から、その人物のひととなりが浮んでくるのじゃないか? というものです。テクスト論主義者(?)だろうがなんだろうが、われわれは興味ある作家の作品・メモ・手紙なんかを知ろう・読もうとする。 話が>>25/>>27に戻りますが、この件には完全に同意します。 たとえばデリダ先生だって、作家の背景を無視して文芸批評を書いていたわけではありません。その作家の持論みたいなものがテクストとして存在していれば、それを看過できるテクスト至上主義などいないとも言えるでしょうか。 バルト先生が批判してた作家論(かれの定義だと作品論)は、「ゴッホは狂人」という前提でしかゴッホの作品を鑑賞できないような姿勢であって、たとえば「一編の詩をその収録詩集のコンセプトや同一作者の他作品から無理やり乖離させる」のが正しいなんて述べたわけじゃありません。 >私は、カミュは大好きな作家なので、作品のみならず、作品を書くためのメモ・ノートである『太陽の賛歌』『反抗の論理』を読む。未完成の『最初の人間』も買う(まだ読んでない)。誰かに見せることを目的として書いたわけではないメモを、その死後に発表されるということと、作者自らがメモを開示することには違いはあるのかもしれませんが、どちらにしろ、そのメモが読解のヒントに成り得ることはある。 討論にもなににもならない発言に飛びますが、カミュってまじすげー作家ですよね。今回ヒヒョー準備に『異邦人』と『幸福な死』を再読しましたけど、あまりに文章うますぎて、わたしは初読でどこを読んでいたのか……と思いました(←わりとなにを再読してもこう思います)。 こひもさんがツイッターで勧めてらした『ペスト』は、今回準備不足で再読の時間がなかったので、時間が空き次第読もうと思います。ほかに絶対おすすめがあったら伺いたいです。 ちなみに一見関係ない話ですが、わたしの友人のおにゃのこは今回ガッピョーののち、マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』にすっ飛びました。わたしはシクスー/デリダの『ヴェール』に飛びたいんですけど、図書館にないので飛べてません。 なんで『ヴェール』に飛びたいかったら、いかいかさんがツイッターで紹介してたからですよ、われわれはそのような意味でも好きな書き手を読む。その書き手がネット詩人なら、コメントひとつツイートひとつだって看過しない。こひもさんだって田中宏輔さんから甚大な影響を受けてるのに違いない。(とわたしは確信している) だから皆さん、コメントも気合い入れたほうがいいですよ。とひとまずオチをつけておきます。 by 澤あづさ あのう、肝心の「批評」の方は投稿はどうなっているのでしょう。 書き込みにくいような・・・気がいたします。 by 伊藤透雪
現代詩フォーラムの名物イベントである批評祭を前回に引き続き開催しちゃいました。 詳しくはこちら HHM2要項(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287568&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7764) HHM2を開催します。(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287569&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7764) みなさまの「ご参加」お待ちしております! 質問・要望等々、ございましたらコメントください、善処します。 Twitterもやってます。(https://twitter.com/namatamago_tori) よろしくお願いします! 遅ればせながら。講評を投じました。 ご笑覧くだされば幸甚です。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=289793&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5 HHM2はこれにて閉幕です。 皆様、ありがとうございました! 大賞受賞者へは後日ご連絡差し上げたいと思います。 よろしくお願いします。 (こんにちは、誤配こと骨山です。。そしてこれはひとりごとです。。 *** まず僕もなんでウェールズ語とアイヌ語の話になってしまったのか、、はんぶんくらいしかわかりませんが(半分ぐらいは理解できます)が、、それはそれで興味深い話とお題をありがとーございます、とゆーことで、ナニカひとりごとをつぶやいてみよーと思います。 えーと、現在、地球上にどのくらいの生物種が生息しているのか、という問に、100万と答える生物学者さんもいれば、ざっと2000万くらいかな…とおっさるセンセーもいますが、この総数は未発見の種も考慮して、ということ以上に?ちょっとした線引き?で大きく変わるのですが、、まぁ、とにかく、地球上にはたくさんの多様な生物さんが棲んでいます。 で、言語も、どこで方言を区切るか、みたいな、ちょっとした分け方でびみょーに数が違ってくると思われますが、、仮に、現在地球上には数千(6000位?)種位の言語があるとします。 それで、どんどん減っていってますよね。しかも残念なことに僕は、この流れは止められないんじゃないかなー…という気がします。 >日本でアイヌの末裔に対しこのような教育をおこなうのは困難でしょう。 おっさるとおり難しい思います。なんで最初に生物の話をしたのかといえば、どうぶつや植物の保護(つまり自然の操作)と違って、やはり、とくしゅな理由(例えば戦争とか法的なこととか)がない限り、対-人間を客体のように扱うことはできないと僕は考えるからです。たとえば、琉球語(方言)を若者が話さなくなったからとゆって、「俺は自分で選択して標準語を喋ってるんだよ、オレンジレンジとかまじ誇りに思ってるっす。上京してえ」みたいな沖縄の若者をつかまえていかに琉球方言が素晴らしいかとゆーことを説得し、雇用の厳しい県内に就職しろ、とゆーわけにもゆかず。。 あと。外部の者が調査・保護目的で未開の少数部族の村に介入した結果、輝かしい文明を持ち込んでしまい、村を滅ぼしてしまった、、みたいな話もありますし。 >日本語がいつか滅ぼされたのち、日本語の文書が語り継がれるためにも、文法は必需です。 はい。そう思います。テクストには未来の他者に読まれる夢があるきがします。そして、それとは別の次元で、日本人としてのナニカのアイデンティティに関わる問題として、アイヌ語は絶対的に保存・アーカイブ化(伝統や文化も含めて、国立博物館にでも)されるべきだとおもいます。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509 感想ありがとーございます。) >>74 澤あづささんへ:最終便。 質問されたことだけ簡単に返信します。 詩や勉強会などは、mixiでの活発な議論は期待できません。眠っている人はいると思うのですが、活発な動きをしている詩のコミュニティーはなくなりました。 本の紹介はツイッターでもやってるので、それを拾ってください。『ペスト』はぜひ再読を! 田中さんの紹介する本はチェックしてます。エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』は絶対に購入するつもりです。 シクスー/デリダの『ヴェール』はおもしろそうですね。これも要チェックです。 >>75 蛾兆ボルカさんへ >あなたも、形容詞と形容動詞を区別する必要がない文法の実在や有用性をわかってない。 学校口語文法でナ形容詞を形容動詞と教えるのは、文語教育との兼ね合いです。 文語文法と一緒に口語文法を覚えるなら、同じ用語をつかったほうが都合がいい。単に利便の問題ですね。 文語の形容動詞は、口語では助動詞「だ」に変化したため、実質的に形容詞としての機能しか果たしません。 よって文語を覚える必要のない外国人学習者は、「形容動詞」という概念を覚える必要がないわけです。 この程度のことを知らずに文法論議をする人間は、まあいませんよ。 >確信があるなら思うことをどこででも語ればよい。 というわけで、以上でした。 + + + caseさん、おつかれさまです! 罵倒も含めて講評を楽しみにしております! >>75 伊藤透雪さま 参加作品一覧としてはHHMのツイッターアカウントをみるのがよいかと思います。 https://mobile.twitter.com/HiHyoMatsuri あとは散文カテゴリーのタイトルから【HHM2参加作品】のついたものをピックアップして読むとよいです(一作品だけ自由詩カテゴリーに投稿されています) 投稿期間は3月31日で終了しています。評価期間は今日までですが、コメント欄に作品の感想を書き込むことはいつでも出来ます。遅刻作品の投稿というのも過去によくありましたし、なにかネタをお持ちでしたら、強引に参加されてみてもよいかと思いますよ。 いや、主催の仕事を増やす方向で煽るのも無責任でしたね。すみません。香瀬さん、おつかれさまです。 おお。ちょっと見ない間に凄いことになってる。 すみません、全然掲示板を終えてないです。 申し訳ないです。 申し訳ない話はもうひとつありまして、 一応、本日がHHM2終了日なのですが、プライベートが立て込んでおりまして、いましばらくお待ちください。 今月中には必ず講評を出します。 お待ちくださっている皆様、今しばらくお待ちいただけますよう、何卒ご寛恕ください。 香瀬 あのう、肝心の「批評」の方は投稿はどうなっているのでしょう。 書き込みにくいような・・・気がいたします。 >>71 こひもともひこさんへ >澤さんとのこのやり取りも、なんらかの結論が出る可能性の有無も大事なことではありますが、これだけ沢山の言葉の群れが出てきたことが重要だったりします。 うん。 つまり、ボルカさんへのわたしの態度は、完全に間違いですね。 ごめんなさい。(と、こひもさんに言っても意味ない) >仮に自作の解題が完全なる「言い訳」であったとしても、その「言い訳」として書かれた文章がおもしろかったら問題ない …………これも確かに…………確かに…………。 >私自身が音楽・バンド畑の出身であることによる「ものの見方」の違いのように思っています。バンドでは、作曲者が持ってきた曲に対して、楽器演奏者がアイデアを出し合って、観客の前で演奏するための楽曲にしていく。けれど、一度完成させて疲労した楽曲も、以降の練習中のふとしたアイデアの追加により、生まれ変わることがある。 ネット詩でも改訂という行為が頻繁になされますから、このような事例はネット詩でも起こると言えるように思います。 ただこの事例の場合、その楽曲はそのバンドというチームの編曲によって制作されているわけで、「ネット詩の投稿者とそれにレスするレッサー」がチームを組み共同制作に励めるのかどうかですね。 よくわかりませんが、mixiはそういう環境なんでしょうか。教えていただけたら幸いです。 ◆「 」のお話◆ mixiアカウントないので20作は読めませぬが。 これ一本拝読した限りだと、「角砂糖」でも通るような気がしました。 【光る鉄に恐怖を覚えさせ/冷え切った二人の仲を繋ぎとめ 】のあたりに多少無理がありますが、カフェ・ロワイヤル(http://blogs.yahoo.co.jp/pinchan_good_1951/37585152.html)ってことで。スプーンに焼かれる恐怖を覚えさせるってことで。 >塩は氷を引っ付ける作用があるので「冷え切った〜」としています。 やはりこういう比喩はわかりにくいので、解題の価値も高いでしょうね。 こういうのをイベントとして企画できたら楽しそうだな、と思いました。 ◆「評価する」問題のお話◆ >澤さんのいう精読も同じところがあると思いますが、今の私が興味を持っているのは、同一人物が書いた「書き言葉」の群から、その人物のひととなりが浮んでくるのじゃないか? というものです。テクスト論主義者(?)だろうがなんだろうが、われわれは興味ある作家の作品・メモ・手紙なんかを知ろう・読もうとする。 話が>>25/>>27に戻りますが、この件には完全に同意します。 たとえばデリダ先生だって、作家の背景を無視して文芸批評を書いていたわけではありません。その作家の持論みたいなものがテクストとして存在していれば、それを看過できるテクスト至上主義などいないとも言えるでしょうか。 バルト先生が批判してた作家論(かれの定義だと作品論)は、「ゴッホは狂人」という前提でしかゴッホの作品を鑑賞できないような姿勢であって、たとえば「一編の詩をその収録詩集のコンセプトや同一作者の他作品から無理やり乖離させる」のが正しいなんて述べたわけじゃありません。 >私は、カミュは大好きな作家なので、作品のみならず、作品を書くためのメモ・ノートである『太陽の賛歌』『反抗の論理』を読む。未完成の『最初の人間』も買う(まだ読んでない)。誰かに見せることを目的として書いたわけではないメモを、その死後に発表されるということと、作者自らがメモを開示することには違いはあるのかもしれませんが、どちらにしろ、そのメモが読解のヒントに成り得ることはある。 討論にもなににもならない発言に飛びますが、カミュってまじすげー作家ですよね。今回ヒヒョー準備に『異邦人』と『幸福な死』を再読しましたけど、あまりに文章うますぎて、わたしは初読でどこを読んでいたのか……と思いました(←わりとなにを再読してもこう思います)。 こひもさんがツイッターで勧めてらした『ペスト』は、今回準備不足で再読の時間がなかったので、時間が空き次第読もうと思います。ほかに絶対おすすめがあったら伺いたいです。 ちなみに一見関係ない話ですが、わたしの友人のおにゃのこは今回ガッピョーののち、マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』にすっ飛びました。わたしはシクスー/デリダの『ヴェール』に飛びたいんですけど、図書館にないので飛べてません。 なんで『ヴェール』に飛びたいかったら、いかいかさんがツイッターで紹介してたからですよ、われわれはそのような意味でも好きな書き手を読む。その書き手がネット詩人なら、コメントひとつツイートひとつだって看過しない。こひもさんだって田中宏輔さんから甚大な影響を受けてるのに違いない。(とわたしは確信している) だから皆さん、コメントも気合い入れたほうがいいですよ。とひとまずオチをつけておきます。 >>71 骨山ヒビ吉さんへ ※http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509への感想は、コメ欄に書きました。 個人的希望として、骨山さんにチョムスキー先生を説明してほしいです。 >対立するものではなく、強いて言えばSさんはデイヴィッドソンがいうところの?事前理論?、Bさんは?当座理論?に関する話をしている気がします。 わたしに対立していた自覚はないんです。そもそも理論の話をしていません。 だから「なぜこの話の流れで、わたしにそんな話が振られたのかがわからない」と主張していただけなのです。 つまるところ、わたしの単なる被害妄想です。 話終わり、以下「わたしが話題にしていた文法」について便乗余談。 + + + 「言語は文法に先立つ」と骨山さんもおっしゃっているように、文法は先人の研究の成果です。それは社会の「制度」でもあり、「政策」にも大いに関与します。 だから無形文化遺産の至極である言語が、しばしば侵略者の弾圧によって滅ぼされます。 民族の宝である言語を守るために、あるいは殺されてしまった言語を蘇らせるために、文法は編集され実用されています。 日本語文法(語学)も同様の意義がある、その歴史と現実は愚弄できるような軽いものではない、と最初から書けばよかったのかもしれません。 >そしてたぶん、文字以前の声の時代はさらにバラバラで遊びというか自由度が高かったはずです。おなじ共同体内での個々人のパロールはけっして一様なものでなく今よりも揺らぎがあった。しかし、文字がうまれることでそれは?ある程度?規範化される(また、文字とはことばを空間にピン留めする技術のことでもあり、世界はふり返りや分析の対象になります)。そしてそのことはさらに大きな集団の形成を可能にし、より大きな集団(さまざまな自然言語や俗語にあふれたイロンな共同体からなる)をまとめ上げるための言語はさらに恣意性や揺らぎの少ない安定したもの(そしておそらく?透明性としての翻訳可能性を含むもの?)でなければならない。(18世紀に『英語辞典』を編纂したサミュエル・ジョンソンも「ヨシ、不安定な英語を?固定?する!」的なことをサクッとゆってるし、またそれはその地の人々から待望されてもいた) こういうことの現実的な事例として、ウェールズ語が挙げられるように思います。 古代には口伝・口承文化によって発展した「パロールしかない言語」があまた存在していました。UKの一国ウェールズの土着語、アーサー王伝説でも有名なCymraeg(ウェールズ語)もそのひとつです。 ウェールズ語は、ゲルマン語派の英語とはまったく異なる、ケルト語派の言語です。 たとえば英語の「I’m your love.」(構文はSVC)を、ウェールズ語では「Dw i’n dy garu di.」(構文はVSC、発音は「ドゥインディガリディ」みたいな感じ)と言います。語彙どころか文法からして異なる、まったく別の言語です。 中世までウェールズの公文書はすべてラテン語で書かれていました。ウェールズ語の口伝がラテン字で編纂されはじめたのは、14世紀に入ってからでした。 かつてウェールズの各地(古代ウェールズは天下統一されなかった土地と有名です)で話されていた本当のパロールの真相を知る手段は、もはやありません。イングランドによる侵略と言語弾圧のためにひとたび、完全消滅(話者がひとりもいなくなったということ)したからです。 なので現今ウェールズ内政府は、14世紀ごろからラテン字転写で編集されてきた口伝から文法を再現した、言わば人工言語としてのウェールズ語を、政策として保存しています。 これはパロールとして、そして日常語としてつかうことのできる完全なラングであり、新造語も生まれ方言も復活し、本も書かれて隆盛しています。ウェールズが「天下統一できない土地」のままだったら、こんな言語は生まれなかったかもしれません。 ウェールズの義務教育では、ウェールズ語が必修科目です。公共機関の看板も英語とウェールズ語の併記を義務付けられています。 そのような政策で保存しない限り、ウェールズ語が再び消滅してしまうことは明白です。 生活するにも教育を受けるにも英語が欠かせず、英語さえ話せれば不自由しないという環境のなかでは、人口的な保存以外にウェールズ語を生き残す道はありません。 それと同じ危機に、日本でアイヌ語も瀕しています。 きわめて深刻な消滅危機に瀕しているアイヌ語を保存するために、アイヌ語用の特殊カタカナなどを駆使した「日本語話者がアイヌ語を習得するための文法」が編集されています。そうしたものがなければ、アイヌ語は歴史からすら消滅してしまいます。 ハワイ語消滅の危機に瀕しているハワイでは、幼児へのイマージョン教育による保存運動などが起きています(http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon090321s.html)が、日本でアイヌの末裔に対しこのような教育をおこなうのは困難でしょう。結局「日本語話者がアイヌ語を習得するしかない」そのとき文法が不可欠になるわけです。 日本語がいつか滅ぼされたのち、日本語の文書が語り継がれるためにも、文法は必需です。 わたしが述べていた文法は、そういう社会と実用の次元でのお話でした。 >>70 澤あづささんへ >解題に限らず「作者がコメ欄で自作を解説する」という行為を否定する意見には、 「作品として表現できなかったことを解題で穴埋めするのは、言い訳でしかない」 といったものが多いという印象を持っています。 多くの人に見られるこの印象は、私も同意します。けれど、 >そしてこういう意見が多く出てくるということは、言い訳がましい作者が多いということなんじゃないかなー ここは、私にとってはどうでもいいことになります。理由は、仮に自作の解題が完全なる「言い訳」であったとしても、その「言い訳」として書かれた文章がおもしろかったら問題ないからです(毎度のこと、おもしろさの線引き問題はありますが)。 >ですからやはり、作品は作品として完成させるのが大原則だろうと思うのですね。 ここは難しい。これはおそらく、私自身が音楽・バンド畑の出身であることによる「ものの見方」の違いのように思っています。バンドでは、作曲者が持ってきた曲に対して、楽器演奏者がアイデアを出し合って、観客の前で演奏するための楽曲にしていく。けれど、一度完成させて披露した楽曲も、以降の練習中のふとしたアイデアの追加により、生まれ変わることがある。完成形の捉え方の違い。 >詩だけでは足りないので言葉を尽くしたいなら、注解や解題を作品にするという手もあります。田中宏輔さんの愛読者には言うまでもないことですが。 これは、自作ではすでにやっています。一作だけ紹介。 ・「 」 壁にぶつかってはサカサカと笑う ギザついたスタイルは丸くなる事を拒み 浮きだす白さは混ざる事許さぬ純粋か 毒なのか薬なのか未だ決着はつかず 必要悪といわれる以上に必要とされる 洒落たアクセントとしてすべからく利用され 過ぎたる場合はとたんに嫌われ者となる とかく世知辛い世の中加減がむつかしい 光る鉄に恐怖を覚えさせ 冷え切った二人の仲を繋ぎとめ あまり湿度の高い部屋でほって置くと みなが抱き合って出てこなくなりました ◇◆ この題名の「 」は、題名なしという意味ではなく、題名をみんなに当ててもらうクイズのための空白となっています。この作品に対するミクシー内でのやり取りを読みたければ→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1706801216&owner_id=32593294 で見られます。 この作品は20作ありますが、最初はみんな、「自分が間違った答えを書いたら恥ずかしい」という考えから、なかなか答えを書いてくれなかった。けれど、書き手である私の考えた一応の正解ではない答えをもらうと、読み手がなぜその答えを考えたのかを推理することができる。そして、読み手がなぜそう答えたのかを推測したコメントを私が書く。そうすると、他の人たちも楽しんで答えを書いてくれるようになった。 ◆◇作品の答えは「(食卓)塩」。これを解説した文章も紹介。 解説: 答えは『塩』なのですが、より正確には、ガラスの器に入った『食卓塩』です。 「 」シリーズの最初の作品です。これを書いた時点ではまだ、シリーズ化することや、解説文を書くことを考えていませんでした。以下、解説。 「壁に〜」は塩が容器にぶつかって鳴る様を。 塩の結晶は角ばっているので、丸くなることを拒んでいるとしました。 「毒なのか薬なのか〜」は、塩分を取りすぎると体によくないけれど、人間にとって塩は必要なものことを示唆しています。 「洒落た〜」「過ぎたる〜」は料理として使われる場合を意味しています。 加減が大事。 塩は鉄を錆びさせるので「光る鉄に恐怖を〜」、 塩は氷を引っ付ける作用があるので「冷え切った〜」としています。 容器の中に水分が溜まると、固まってでてこなくなるので、 その様を「みなが抱き合って〜」としました。 ◇◆◇ いかいかさんの『こんなことを考えながら作品を書いている』も、自作解題という意味ではおもしろい試みだと思います。批評祭りに自作ヒヒョーを出すべきかどうかには、私は反対しますが。 >「投稿しときながらレスレスしない」 この姿勢こそは、こひもさんには得心しがたいんじゃないか、とわたしは推測しています。 ここは、変化しちゃいました。いまもレスレス(コールに対するレスポンス)をしない人の行動を評価はしませんが、書かない人への興味は無くなっていく、というものになって行きました。 この後に書かれた?に対しては、「こういうものの見方もおもしろいんじゃないかな?」という提案でしかありません。この前のやり取りで、自作の解題をしない人を「仕方がない」と私は書きましたが、これも、「私にはどうにもしようがない」という意味を含んでの物言いでした(でも、言い方を柔かくするという澤さんの意見には同意します)。 ?に対しては、このコメント欄に紹介した作品で答えたつもりです。 ?も、おもしろければいいのですが、そうなると「評価する」問題に踏み込むことになりますね。これは難しい。 今回のHHM2提出作品で、自分のやったことが「批評」なのかどうかは今も答えがでていません。「批:つきあわせて良否をきめる。」という漢字の、「つきあわせて」比べるという意味では、私の分析文は当てはまるのですが、「良否をきめる。」と、「評:物のよしあしをはかる。」のほうは、どうなんだろうなと思ってしまう。私にとって「おもしろいかどうか?」という意味での評価ならできるのですが、そうなると、私の評価というのは「おもしろいです/つまらないです」の二通りの言葉で済んでしまう。 >わたし自身も、やはり文芸は「芸」ですから、評価するなら技術が最優先だろうと思っています。内容を重視するってことになると、話も「共感できるかできないか」に終始しがちですし、わたしのやるような読解には、冷静な技術評価を妨げる側面が否めません。 >しかし技術(表現にどの程度の効果があるかということ)は、内容を前提にしなければ評価しようがない、つまりまず読解しなければ論評も始まらない。というのがわたしの所感で、こうなると話がだいぶ厄介になりますね。 澤さんのいう精読も同じところがあると思いますが、今の私が興味を持っているのは、同一人物が書いた「書き言葉」の群から、その人物のひととなりが浮んでくるのじゃないか? というものです。テクスト論主義者(?)だろうがなんだろうが、われわれは興味ある作家の作品・メモ・手紙なんかを知ろう・読もうとする。私は、カミュは大好きな作家なので、作品のみならず、作品を書くためのメモ・ノートである『太陽の賛歌』『反抗の論理』を読む。未完成の『最初の人間』も買う(まだ読んでない)。誰かに見せることを目的として書いたわけではないメモを、その死後に発表されるということと、作者自らがメモを開示することには違いはあるのかもしれませんが、どちらにしろ、そのメモが読解のヒントに成り得ることはある。 澤さんとのこのやり取りも、なんらかの結論が出る可能性の有無も大事なことではありますが、これだけ沢山の言葉の群れが出てきたことが重要だったりします。 (*横槍とゆーか、、誤配、、独り言です。。 ―「一緒に拘束されている、だって?」―「同じ話へと拘束されているんだ」―「そのとおり、でもまた、だからこそじつに注意深くしていなければいけない。ぼくは自分の責任を意識している」―「きみはそうだ、それを認めなければ友愛に外れよう、けれど、ある程度までのことだね」 この限界とは何だろうと彼は考える、ついで彼は自問するのをやめる。「つまり、ぼくらが話をするかぎりで、という意味だね。そのとおりだ、話すということが、ぼくらに残された唯一のチャンスだ、話すということがぼくらのチャンスなのだ」 ブランショ『終わりなき対話』 「契約、結合が生じる〔場を持つ〕ためには、つまり「はい、はい」が両側で生じるためには、それが同時に二つの言語で行われる必要があります。この「同時」の二つの言語とは、二つの国語〔中略〕であるとも言えますが、しかしそれはまた、同一の言語内の二つの言語、つまりあなたのフランス語と私のフランス語―これは当然、同じものではないわけですが―であるとも言えます。したがって、約束、すなわち契約一般は、透明性としての翻訳可能性を内に含むのではなく、諸言語の差異還元〔縮約〕されていると同時に手つかずの〔無傷の〕ままに残されている<バベル>的状況を内に含んでいるはずなのです。もし純粋かつ単純に翻訳できるなら、約束は存在しません。もし翻訳ができないとすれば、やはり約束は存在しないのです。約束が存在するためには、<バベル>的状況が存在する必要があります。」 デリダ『他者の耳』 *** ええと。 自然言語とゆーか、んー、方言とかネトスラングとか幼児語を考えてみればわかることですが、あるどこかの大きな集団の中でも、音素などはもちろんのこと、じつは語彙や文法に関しても各人の偏差は大きいですよね。そしてたぶん、文字以前の声の時代にはさらにバラバラで遊びというか自由度が高かったはずです。おなじ共同体内での個々人のパロールはけっして一様なものでなく今よりも揺らいでいた。しかし、文字がうまれることでそれは?ある程度?規範化される(また、文字とはことばを空間にピン留めする技術のことでもあり、世界はふり返りや分析の対象になります)。そしてそのことはさらに大きな集団の形成を可能にし、より大きな集団(さまざまな自然言語や俗語にあふれたイロンな共同体からなる)をまとめ上げるための言語はさらに恣意性や揺らぎの少ない安定したもの(それはおそらく?透明性としての翻訳可能性を含むもの?)でなければならない。(18世紀に『英語辞典』を編纂したサミュエル・ジョンソンも「ヨシ、不安定な英語を?固定?する!」的なことをサクッとゆってるし、またそれはその地の人々から待望されてもいた) ここまでカナリ駆け足なのでツッコミどころもありましょうけど、、とにかく、そうしてことばの意味もそれが使用されていた各々の発生時の時間軸から切り離されて、ますます字句の論理的な意味関係によって定まっていった。 *** *Bさんがいうように、僕たちぞれぞれが投げ出されている現実の言語慣習には、確立された単一のシステムみたいなものはないように思います。つまり揺らいでいる。(たとえニホン語における?4月の平均気温?や?平年値?みたいなものをグーグル先生が知っていたとして、それさえ常に揺らいでいる。あ、もちろんこの?平年値?の比喩は?国語?とか、?まことの言葉?やプラトニズムとは関係ないです。) だけど、にもかかわらず、かつて僕がSNSでぽつりと「うなぎなう」とつぶやいた時には、みんなからちゃんと「俺はきのうからペヤングしか食ってねぇ…」とか「おなかすいたお…」とか「うるせー、shiね!」とか、、だいたい合ってるイチャモンをつけられました(「ニホン語でおk」みたいな反応はなく)。。まぁ僕が「うなぎなう」を最初に言った人でもないんだろうけど。 ことばを解釈する場面においてあらかじめ学習されていないこと、統語論の観点からみても、文法的な間違いやマツガイや逸脱や不完全なところがある?オレ語?でさえ、時として話者の意図に関する?了解?でもってうっかり通じたりすることがままある、、とゆーのは驚異的なことですね。 *Sさんがいうように、もちろんラテン語や文語、それから謎の古文書や暗号文を解読しようとするさいには文法理論とか考古学の知識とかいろいろ、カナリ必要だと思います。やったことないのでわかりませんけど、いやカナリ絶対に必要だ。。 そしてそれは現代ニホン語文を読むときもそうで、そしゅーるというよりも、参照項として脳内の辞書・文法書的(あるいは歴史文化個別経験的)データベースを使ったり、テキスト空間を命題ロンリ〜述語ロンリまでを駆使してケーシキ的に交通整理したり、デイヴィドソンがいうところの真理条件的意味論で意味らしきものを探り当てる(制作する)必要があると思います。 *対立するものではなく、強いて言えばSさんはデイヴィドソンがいうところの?事前理論?、Bさんは?当座理論?に関する話をしている気がします。 *** *引用・参考文献…手元にないんだけどたぶん昔読んだ『デイヴィドソン〜「言語」なんて存在するのだろうか』 森本浩一 (*http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509 カンケーありませんが、ここでは文法の必要性を十分に認めた上で、言語は文法に先立つ、ということを書いていて途中で投げてしまいました。。orz) 独り言ですが、長々と失礼しました。) >>68 こひもともひこさんへ。 >>「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」 >その人(※自作解題する作者)が、「自分は知識を持っているぞ」ということを言いたいがためにコメントしているのか、そうじゃなくて、「この作品をより良くしよう」だとか、「このやり取りから次に繋がるアイデアが生まれる」だとかを求めてコメントしているのか。 解題に限らず「作者がコメ欄で自作を解説する」という行為を否定する意見には、 「作品として表現できなかったことを解題で穴埋めするのは、言い訳でしかない」 といったものが多いという印象を持っています。 そしてこういう意見が多く出てくるということは、言い訳がましい作者が多いということなんじゃないかなー、とわたしは推測しています。 ほかならぬ自分自身がその類なので、わりと自信のある推測です。 ですからやはり、作品は作品として完成させるのが大原則だろうと思うのですね。 詩だけでは足りないので言葉を尽くしたいなら、注解や解題を作品にするという手もあります。田中宏輔さんの愛読者には言うまでもないことですが。 この機に乗じて、ヒヒョー対象関連作品を宣伝させてください。 ◆いかいかさんの前回HHM参加作品◆ ・ヒヒョー『こんなことを考えながら作品を書いている』 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267971 ・ヒヒョー対象『祖母』(※自作) http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a30 いかいかさんの貴重な自作解題です。元祖JJMなので、わたしはポイントを入れませんでしたが、もちろん精読しました。『星遊び』(http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12)精読のために。 わたしの知る限り、かれは自作解題しない人ではないけれど、レスレスはくれないことが多い。かれの作風を知りたければ、作品から情報を収集するほうが早いです。 「投稿しときながらレスレスしない」 この姿勢こそは、こひもさんには得心しがたいんじゃないか、とわたしは推測しています。わたし自身、レスにはレスレスしてくれよと思うからです。 しかし反面わたしはメビで「作者のレスレスはみっともないから禁止したほうがいい」という意見(もちろんいかいかさん以外の人の)を複数回見かけてもいます。 コメ欄での解題を「言い訳」として、そこまで忌み嫌う人もいるようです。 という前提で、以下。 <quote>------------- ?自作解題を「書き手という読み手の一読解」として捉えて作品を読み解いていくのは面白いんじゃないかな ?難点はやはり、作者自身の解題を「正解」だと捉えてしまう「ものの見方」でしょうか。 ?「いやみったらしく披露する」ということも、大きなポイントになるように思います。 ------------</quote> このうちまず?ですが、コメ欄のやり取りが評価でなく「アドバイス」なんだとすると、作者が事前に作品を解題して「わたしはこういうつもりで書いたんですけど、書けているでしょうか?」とレッサーに問うほうが、話が早いんじゃないかしら?と、わたしは現場にいたころしばしば思いました。 それと言うのも、ものすげーあたりまえの話ですけど、知らないことは読んだってわかりません。 特に詩は表現を凝縮しますから、詰めたネタがわかりにくくなることも多い。すさまじく難解あるいはネタのマイナーな作品の場合、作者が「なにを書いたつもりなのか」をはっきりさせない限り、アドバイスの手段などないということもあり得ますから。 そういう前提でのやり取りだと、?の理想は実現しませんが、こひもさんもおっしゃっているようにわたしは、?が一般的な風潮として定着するとは思えません。 そもそも、?のような交流が有益になり得るほど読み幅のある投稿作品がどれほどあるのか。そして?のような交流を望んでいるレッサーがどれほどいるのか。 このレッサー側に関するわたし個人最大の難関が、?です。 ガチで、わたしはわたしのようなやつにはレスしたくない(だからこひもさんの男気を尊敬するわけですが)、これはわたしひとりの所感ではないと思っています。 メビで活動していたころ「実力がないからプロ詩には行けない」「的外れなことを言ったら恥ずかしいからレスできない」というような話を、頻繁に聞きました。 実際そのころメビには、「難解そうな詩にはレスがつきにくい」という顕著な傾向がありました。 難解そうな詩ほど、便乗レスみたいなのが多くなる傾向もあったように記憶しています。最初に賛辞がつくと賛辞だらけになり、最初に批判がつくと批判だらけになる、みたいな。つまり合評は、どうしたって他人の意見に左右されやすいということです。 さらにプロ詩の周辺には、 「読解をもらっても無意味、技術を評価してほしい」 という意見も散見しました。 わたし自身も、やはり文芸は「芸」ですから、評価するなら技術が最優先だろうと思っています。内容を重視するってことになると、話も「共感できるかできないか」に終始しがちですし、わたしのやるような読解には、冷静な技術評価を妨げる側面が否めません。 しかし技術(表現にどの程度の効果があるかということ)は、内容を前提にしなければ評価しようがない、つまりまず読解しなければ論評も始まらない。というのがわたしの所感で、こうなると話がだいぶ厄介になりますね。 と、ひとまず半端なところで終わっておきます。 ※>>66の訂正※ ・「線形代数」は「線型代数」の書き間違いです。 ・「トルコ公用語」は、トルコ語のうち公用されているものという意味です。 ※ほかになにか間違いがありましたらご指摘ください。 ※>>54に関しても間違いがありましたらご指摘ください。 + + + >>67 蛾兆ボルカさんへ 先立って>>46に書いた通り、わたしは>>41/>>42に心から感謝しています。 また、いままでボルカさんから受けた恩を、忘れるわけもありません。 今後もわたしの間違いを殴っていただけたら、同じように感謝します。 >ネイティブスピーカー同士で話してるときに、『文法』がそれを意味してるなんてわかるわけないですよ。 そこがナ形容詞でなく橋本文法だったとしても、わたしの論旨は変わりませんよ。 >>57でボルカさんがすでに指摘してくださっている通りに。 >>66のわたしの汚い物言いと同じように、>>62の衒学も筋が通りません。 チョムスキー先生のお話は、作品として拝読したいです。楽しみにしています。 >>66 澤あづささんへ >「仕方ない」ではなく、「それにも一理ある」と認めるべきだと思います。 >これは至極単純に、物言いの問題です。対話を潤滑にするための。 ここは全くそのとおり・・・書き方が下手なんですよね、まだまだ。 >「ネット詩の批評の場において自作解題することの意義や難点」 については、自作解題を「書き手という読み手の一読解」として捉えて作品を読み解いていくのは面白いんじゃないかなと思っています。作者が一人でグルグル回るだけの自己完結になる危険性もありますが、そこにコメント者が加わり、作者の読解も、澤さんの読解も、他の人の読解も、どの読解も作品に対する一読解として接してみる。そして、それを読んだ作者が「ああ、これはいい読解だからいただこう」とか、「ここまでこだわって作ってなかったわ、もっと精度を上げよう」とか思考しながら作品が変化していく(必ず変化する必要があるわけではない)。難点はやはり、作者自身の解題を「正解」だと捉えてしまう「ものの見方」でしょうか。 >田中宏輔さんの英訳詩(http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/352.html#20130101_614_6588p)のコメ欄で行われていることは翻訳の研究であり、作者が不在ですから、「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」とはわけが違います。これは自作に対するコメント授受を「研究」と定義するか「評価」と定義するかの相違かもしれません。 >評価なら、粛々と甘受せねばなりません。ド素人のネット詩を共同研究してくれる親切なレッサーなどふつういません。 >こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。 ここに書かれている >いやみったらしく披露する ということも、大きなポイントになるように思います。その人が、「自分は知識を持っているぞ」ということを言いたいがためにコメントしているのか、そうじゃなくて、「この作品をより良くしよう」だとか、「このやり取りから次に繋がるアイデアが生まれる」だとかを求めてコメントしているのか。 なので、 >こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。 これがそのまま、やりたいことに繋がっていく。一般化されていることなのであれば、コメントのやり取りをするより、そのことの説明を上手にしている書籍でも教えてもらうほうが役に立ちますから。 >>64 こひもともひこさんへ >「自作の説明はしない」と主張する人は、それはそれで仕方がない。 だったらそこには、言及する必要はないと思います。 「仕方ない」ではなく、「それにも一理ある」と認めるべきだと思います。 これは至極単純に、物言いの問題です。対話を潤滑にするための。 もしこひもさんに、話を>>48に戻して「ネット詩の批評の場において自作解題することの意義や難点」について話し合いたいというお気持ちがあるのでしたら、わたし自身はそちらを擁護したい人間ですし、>>53の話がでたらめすぎたと後悔もしているので、改めて>>48から仕切りなおしたいと思うのですが、いかがでしょうか。 わたしはこひもさんを信頼しています。これは信じていただきたいです。 + + + >>65 蛾兆ボルカさんへ 物言いがあまりに煩わしすぎ、人をなめくさりすぎてて、心底対話不可能だと思うんですけどね。 わたしが支持しているのは「外国人学習者のための日本語習得の文法」だと、あの場でも説明しました。 それを記憶してなくたってそんなもん、ナ形容詞をググれば一発でわかります。 で、ボルカさんは、日本共通語(東京弁)の文法を、韓国公用語(ソウル方言を整理したもの)やトルコ公用語(イスタンブール方言を整理したもの)の文法と比較したことがあるんですか? 韓国公用語文法との違いから、日本共通語文法の特徴を指摘する程度もできない人間に、「語学」として日本語を語る資格はありません。 比較言語学の研究法も知らない人間がポスモの言語学なんかやったって、>>51のソシュールジャーゴンカオスのようにひたすら間違うだけです。 「日本語の構造に主部や主語はないとする立場」なんて概念は、あなたにはクソの役にも立たないと思いますよ。 なにせあなたは例の会の時点で、助動詞「す/する」と「す/せる」の区別もついてなかったし、主観的ナ形容詞(「好きだ」など)の正しい用法すらご存じありませんでした。 そこまで基礎のできてない人間が、概念だけ覚えてなにになるんです? 割り算のルールを理解できない人間が線形代数を論じるくらい、ばかばかしい詭弁を捏造するだけです。 あなたには、対話の相手への敬意が微塵もありません。 相手の論旨を汲む気が毛頭なく、ただ「おれ様は正しい」(しかも間違ってる)これだけ。 わたしにあなた様を信仰する義理は微塵もないので、たしかに対話不可能です。 >>59 澤あづささんへ >わたしにも、執念深い自注まで添えた思い入れのある詩を、すさまじい曲解で犯罪行為と糾弾され、〜 が。 そこまで他人に粘着し糾弾し続けるという行為にも、相当な問題があったと思います。 私は、自作解題・自作説明をしない人はしない人で、それはその人の自由だと思っています。その実例として、『papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium』葉月二兎さん→http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/339.html#msg6352 のコメント欄での私のやりとりを挙げておきます。このやり取りも、なにがなんでも作者の自作解題を求めているわけではありません。「自作の説明はしない」と主張する人は、それはそれで仕方がない。 >※ツイッターでのご発言にも関係して。 というコメントがなんのことか分からない人もいると思うので、私がツイッターで書いた文章も挙げておきます(少し手直しして)。 ◇ツイッターで書いたこひもともひこの文章◇ うーむ・・・ 職場の上司命令とかならともかく、ネット上でしか付き合いのない相手の言うことが号令に聞こえるという人たちの考え方が分からないのよね。それって、変わらなければいけない自分ということが自分でも分かっているのに、外側の誰かから言われたら、「そんなこといちいち言われなくても分かってます」だとか、「いちいち命令しないでください」だとか、過剰に反応してるだけじゃないのだろうか。私は、最初に文学極道に提出した『あいす』という作品について相当の自信を持っているけれど、あそこでもらったアイデア・意見はちゃんと採用して、作品を改良させてるのよね。良いアイデアであれば、喧嘩した相手だろうが、嫌いな人物からの助言であろうが取り入れる。貪欲さが違うねん。まあ、他人は他人やけどね。 ・『あいす』文学極道に提出した作品。 →http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/316.html#20120326_374_5966p ・『あいす(大画面専用)』文学極道でもらったコメントを参考にして改良したもの。 →http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287365 「意見を言わないという意見にも耳をかたむけるべき」だとかを突き詰めると、「よって、この件についてはなにも言えません」という結論にしか行けない。それでええんやったらええけどね。そんなんもうええねん。ほんで、なんの意見も無くリスカでもしとったらええやん。助けて欲しいんなら、「助けてちょー」って言えばええやん。 なんにも言いたいことなんかないんなら、「なんにも言いたいことなんかない詩」を突き詰めて書いてみればいい。でもな、「なんにも言いたいことなんかない」とかいいながら、言いたいことだらけな詩なのは分かるねん。「助けてちょー」というのを言えないから、濁せるだけ茶を濁してごまかしてるだけ。 私の詩は、私の言いたいことを読み手に伝わるように書くことを目指して書いている。これな、やってみたらめちゃくちゃ難しいねん。どう書いてもひねて読もうとする奴らがどこにでもおる。けれどへこたれずに、そういうやつらにも自分の言いたいことが伝わるように何度でも書く。コメントでやり取りできるのであれば、そこで喧嘩もする。 まあなあ、結局は、他人の作品なんかに興味がないということなんやろなあ。引用も含めて、「この人は前向きなことばっかり書くなあ」と感じてる誰かの書いた文章をすべてまとめて読んでみる。すると、その人物のひととなりが浮んでくる。書き言葉が、(自分を含めた)人にどういう影響を与えうるのか? そして、自分がどんな言葉を書いているのか? >>62 蛾兆ボルカさんへ ※横槍を熱烈に歓迎します。 ボルカさんに悪意のないことはわかりました。 が、この文面は、拷問レベルの難文で、脳みそ破裂しそうです。 >だから僕にとっては、言語学と言えばソシュールなのではないわけ。 >そんなの変だ、やっぱ言語学と言えばソシュールじゃないか、と澤さんは思うかもしれない。あと近代とか現代(ポストモダン)とか言うなら、とかね。それは当然なのかもしれません。だけどしょうがないじゃん。僕は違うんですよ。 >もちろん、澤さんがまずソシュールの話だと考えるのは妥当だろうとは思いますが、ソシュールの名前をあげてるのは澤さんなんですよ。 わたしは>>38で「ソシュールはつまらん」と断言しました。 そのうえで「語学はポスモの言語学ではない」「日本語文法はソシュールではない」と主張し「文法」(語学)の話をしていました。 そのわたしがなぜここで、ソシュールの伝道者であるかのように仕立て上げられ、言及していない言語学知識についての説教を受けなければならないのか。この圧倒的な冤罪の時点で、お話についていけません。 >僕は自分の詩作や生活において、赤ん坊の言葉とか、失語状態のひととのコミュニケーションとかが思考の主要テーマのひとつです。それは過去の作品で示せます。また、暗黙知とか、「まことの言葉」とか、「予知」とかといった、知性の限界の(信仰と言われても異存のない)領域に長く親しみを持ってきたのです。ソシュールからは遠い感じがします。 わたしが親しみを持っている分野(文法=語学)も、ソシュールとはまったく異なる次元にあります。 そのことを>>38できっぱり述べましたが、つまるところ、>>51と>>54の内実はこういうことでしょうか。 親しみのある分野が違っても「ソシュールはつまらん」という見解の一点では共通している二名が、好きでもないソシュールを介して、ソシュールとは関係ない語学と「まことの名前」を、それぞれ一方的に述べていた。 それで、話が通じるわけないですよ、 わたしは>>51の解読にすこぶる難渋し、そのうえ返信のために、つまらんからしたくもないソシュールジャーゴンカオスの定義を指摘するという労まで強いられました。 「おまえがかれにしたのもこういうことなので、ガン無視されてもしかたない」という教訓の事例でも挙げてくださったのなら、ありがたいご教示ではありますが。わたしには、ここまでの難文解読をかれにしいた記憶はないです。 >ソシュールが講義録のなかで、言語学のやるのは語学じゃないよみたいなことは、言ってたような気がするな、程度には印象にありますが。 >どんな言語学のどんな面と、どんな意味でその文法論が無関係なのか、わからない。 「ソシュールの言語学は語学ではない」と認識しているが「日本語文法(語学)はソシュール(言語学)ではない」という主張の意味は理解できない。とおっしゃるんですか。 でしたらわたしには、もはや説明の手段がありません。 わたしのなにが悪くてこの齟齬が生まれたのか、反省したいのは山々ですが、詭弁で自虐を捏造するのはばかばかしいので保留します。 ボルカさんは結局、>>51でわたしのなにを指摘なさりたかったのか、この一点だけ教えてください。 1 2 3 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