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HHM2(第7回批評祭)!!!!!!! (創作系)スレッドオペレーター:香瀬
はい! というわけでみなさまこんにちははじめましてcaseと申します。
現代詩フォーラムの名物イベントである批評祭を前回に引き続き開催しちゃいました。

詳しくはこちら
HHM2要項(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287568&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7764
HHM2を開催します。(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287569&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7764

みなさまの「ご参加」お待ちしております!
質問・要望等々、ございましたらコメントください、善処します。

Twitterもやってます。(https://twitter.com/namatamago_tori

よろしくお願いします!

[82]香瀬[2014 04/21 20:04]阿ト理恵深水遊脚こひもともひこ
遅ればせながら。講評を投じました。
ご笑覧くだされば幸甚です。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=289793&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5

HHM2はこれにて閉幕です。
皆様、ありがとうございました!

大賞受賞者へは後日ご連絡差し上げたいと思います。
よろしくお願いします。
 

[81][2014 04/16 14:42]
(こんにちは、誤配こと骨山です。。そしてこれはひとりごとです。。

***

まず僕もなんでウェールズ語とアイヌ語の話になってしまったのか、、はんぶんくらいしかわかりませんが(半分ぐらいは理解できます)が、、それはそれで興味深い話とお題をありがとーございます、とゆーことで、ナニカひとりごとをつぶやいてみよーと思います。

えーと、現在、地球上にどのくらいの生物種が生息しているのか、という問に、100万と答える生物学者さんもいれば、ざっと2000万くらいかな…とおっさるセンセーもいますが、この総数は未発見の種も考慮して、ということ以上に?ちょっとした線引き?で大きく変わるのですが、、まぁ、とにかく、地球上にはたくさんの多様な生物さんが棲んでいます。
で、言語も、どこで方言を区切るか、みたいな、ちょっとした分け方でびみょーに数が違ってくると思われますが、、仮に、現在地球上には数千(6000位?)種位の言語があるとします。
それで、どんどん減っていってますよね。しかも残念なことに僕は、この流れは止められないんじゃないかなー…という気がします。

>日本でアイヌの末裔に対しこのような教育をおこなうのは困難でしょう。

おっさるとおり難しい思います。なんで最初に生物の話をしたのかといえば、どうぶつや植物の保護(つまり自然の操作)と違って、やはり、とくしゅな理由(例えば戦争とか法的なこととか)がない限り、対-人間を客体のように扱うことはできないと僕は考えるからです。たとえば、琉球語(方言)を若者が話さなくなったからとゆって、「俺は自分で選択して標準語を喋ってるんだよ、オレンジレンジとかまじ誇りに思ってるっす。上京してえ」みたいな沖縄の若者をつかまえていかに琉球方言が素晴らしいかとゆーことを説得し、雇用の厳しい県内に就職しろ、とゆーわけにもゆかず。。
あと。外部の者が調査・保護目的で未開の少数部族の村に介入した結果、輝かしい文明を持ち込んでしまい、村を滅ぼしてしまった、、みたいな話もありますし。

>日本語がいつか滅ぼされたのち、日本語の文書が語り継がれるためにも、文法は必需です。

はい。そう思います。テクストには未来の他者に読まれる夢があるきがします。そして、それとは別の次元で、日本人としてのナニカのアイデンティティに関わる問題として、アイヌ語は絶対的に保存・アーカイブ化(伝統や文化も含めて、国立博物館にでも)されるべきだとおもいます。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509 感想ありがとーございます。)
 

[80]こひもともひこ[2014 04/16 02:49]
>>74 澤あづささんへ:最終便。

質問されたことだけ簡単に返信します。

詩や勉強会などは、mixiでの活発な議論は期待できません。眠っている人はいると思うのですが、活発な動きをしている詩のコミュニティーはなくなりました。

本の紹介はツイッターでもやってるので、それを拾ってください。『ペスト』はぜひ再読を!
田中さんの紹介する本はチェックしてます。エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』は絶対に購入するつもりです。

シクスー/デリダの『ヴェール』はおもしろそうですね。これも要チェックです。
 

[79]澤あづさ[2014 04/15 23:33]
>>75 蛾兆ボルカさんへ

>あなたも、形容詞と形容動詞を区別する必要がない文法の実在や有用性をわかってない。

 学校口語文法でナ形容詞を形容動詞と教えるのは、文語教育との兼ね合いです。
 文語文法と一緒に口語文法を覚えるなら、同じ用語をつかったほうが都合がいい。単に利便の問題ですね。

 文語の形容動詞は、口語では助動詞「だ」に変化したため、実質的に形容詞としての機能しか果たしません。
 よって文語を覚える必要のない外国人学習者は、「形容動詞」という概念を覚える必要がないわけです。

 この程度のことを知らずに文法論議をする人間は、まあいませんよ。

>確信があるなら思うことをどこででも語ればよい。

 というわけで、以上でした。

  +  +  +

 caseさん、おつかれさまです!
 罵倒も含めて講評を楽しみにしております!
 

[77]深水遊脚[2014 04/15 21:08]
>>75 伊藤透雪さま
参加作品一覧としてはHHMのツイッターアカウントをみるのがよいかと思います。
https://mobile.twitter.com/HiHyoMatsuri
あとは散文カテゴリーのタイトルから【HHM2参加作品】のついたものをピックアップして読むとよいです(一作品だけ自由詩カテゴリーに投稿されています)

投稿期間は3月31日で終了しています。評価期間は今日までですが、コメント欄に作品の感想を書き込むことはいつでも出来ます。遅刻作品の投稿というのも過去によくありましたし、なにかネタをお持ちでしたら、強引に参加されてみてもよいかと思いますよ。


いや、主催の仕事を増やす方向で煽るのも無責任でしたね。すみません。香瀬さん、おつかれさまです。
 

[76]香瀬[2014 04/15 19:54]深水遊脚阿ト理恵
おお。ちょっと見ない間に凄いことになってる。
すみません、全然掲示板を終えてないです。
申し訳ないです。

申し訳ない話はもうひとつありまして、
一応、本日がHHM2終了日なのですが、プライベートが立て込んでおりまして、いましばらくお待ちください。
今月中には必ず講評を出します。
お待ちくださっている皆様、今しばらくお待ちいただけますよう、何卒ご寛恕ください。

香瀬
 

[75]伊藤透雪[2014 04/15 15:37]
あのう、肝心の「批評」の方は投稿はどうなっているのでしょう。
書き込みにくいような・・・気がいたします。
 

[74]澤あづさ[2014 04/15 06:32]
>>71 こひもともひこさんへ

>澤さんとのこのやり取りも、なんらかの結論が出る可能性の有無も大事なことではありますが、これだけ沢山の言葉の群れが出てきたことが重要だったりします。

 うん。
 つまり、ボルカさんへのわたしの態度は、完全に間違いですね。

 ごめんなさい。(と、こひもさんに言っても意味ない)

>仮に自作の解題が完全なる「言い訳」であったとしても、その「言い訳」として書かれた文章がおもしろかったら問題ない

 …………これも確かに…………確かに…………。

>私自身が音楽・バンド畑の出身であることによる「ものの見方」の違いのように思っています。バンドでは、作曲者が持ってきた曲に対して、楽器演奏者がアイデアを出し合って、観客の前で演奏するための楽曲にしていく。けれど、一度完成させて疲労した楽曲も、以降の練習中のふとしたアイデアの追加により、生まれ変わることがある。

 ネット詩でも改訂という行為が頻繁になされますから、このような事例はネット詩でも起こると言えるように思います。
 ただこの事例の場合、その楽曲はそのバンドというチームの編曲によって制作されているわけで、「ネット詩の投稿者とそれにレスするレッサー」がチームを組み共同制作に励めるのかどうかですね。
 よくわかりませんが、mixiはそういう環境なんでしょうか。教えていただけたら幸いです。


◆「 」のお話◆

 mixiアカウントないので20作は読めませぬが。
 これ一本拝読した限りだと、「角砂糖」でも通るような気がしました。
【光る鉄に恐怖を覚えさせ/冷え切った二人の仲を繋ぎとめ 】のあたりに多少無理がありますが、カフェ・ロワイヤル(http://blogs.yahoo.co.jp/pinchan_good_1951/37585152.html)ってことで。スプーンに焼かれる恐怖を覚えさせるってことで。

>塩は氷を引っ付ける作用があるので「冷え切った〜」としています。

 やはりこういう比喩はわかりにくいので、解題の価値も高いでしょうね。
 こういうのをイベントとして企画できたら楽しそうだな、と思いました。


◆「評価する」問題のお話◆

>澤さんのいう精読も同じところがあると思いますが、今の私が興味を持っているのは、同一人物が書いた「書き言葉」の群から、その人物のひととなりが浮んでくるのじゃないか? というものです。テクスト論主義者(?)だろうがなんだろうが、われわれは興味ある作家の作品・メモ・手紙なんかを知ろう・読もうとする。

 話が>>25>>27に戻りますが、この件には完全に同意します。
 たとえばデリダ先生だって、作家の背景を無視して文芸批評を書いていたわけではありません。その作家の持論みたいなものがテクストとして存在していれば、それを看過できるテクスト至上主義などいないとも言えるでしょうか。
 バルト先生が批判してた作家論(かれの定義だと作品論)は、「ゴッホは狂人」という前提でしかゴッホの作品を鑑賞できないような姿勢であって、たとえば「一編の詩をその収録詩集のコンセプトや同一作者の他作品から無理やり乖離させる」のが正しいなんて述べたわけじゃありません。

>私は、カミュは大好きな作家なので、作品のみならず、作品を書くためのメモ・ノートである『太陽の賛歌』『反抗の論理』を読む。未完成の『最初の人間』も買う(まだ読んでない)。誰かに見せることを目的として書いたわけではないメモを、その死後に発表されるということと、作者自らがメモを開示することには違いはあるのかもしれませんが、どちらにしろ、そのメモが読解のヒントに成り得ることはある。

 討論にもなににもならない発言に飛びますが、カミュってまじすげー作家ですよね。今回ヒヒョー準備に『異邦人』と『幸福な死』を再読しましたけど、あまりに文章うますぎて、わたしは初読でどこを読んでいたのか……と思いました(←わりとなにを再読してもこう思います)。
 こひもさんがツイッターで勧めてらした『ペスト』は、今回準備不足で再読の時間がなかったので、時間が空き次第読もうと思います。ほかに絶対おすすめがあったら伺いたいです。

 ちなみに一見関係ない話ですが、わたしの友人のおにゃのこは今回ガッピョーののち、マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』にすっ飛びました。わたしはシクスー/デリダの『ヴェール』に飛びたいんですけど、図書館にないので飛べてません。
 なんで『ヴェール』に飛びたいかったら、いかいかさんがツイッターで紹介してたからですよ、われわれはそのような意味でも好きな書き手を読む。その書き手がネット詩人なら、コメントひとつツイートひとつだって看過しない。こひもさんだって田中宏輔さんから甚大な影響を受けてるのに違いない。(とわたしは確信している)
 だから皆さん、コメントも気合い入れたほうがいいですよ。とひとまずオチをつけておきます。
 

[73]澤あづさ[2014 04/15 06:26]
>>71 骨山ヒビ吉さんへ
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509への感想は、コメ欄に書きました。
 個人的希望として、骨山さんにチョムスキー先生を説明してほしいです。

>対立するものではなく、強いて言えばSさんはデイヴィッドソンがいうところの?事前理論?、Bさんは?当座理論?に関する話をしている気がします。

 わたしに対立していた自覚はないんです。そもそも理論の話をしていません。
 だから「なぜこの話の流れで、わたしにそんな話が振られたのかがわからない」と主張していただけなのです。

 つまるところ、わたしの単なる被害妄想です。
 話終わり、以下「わたしが話題にしていた文法」について便乗余談。

  +  +  +

「言語は文法に先立つ」と骨山さんもおっしゃっているように、文法は先人の研究の成果です。それは社会の「制度」でもあり、「政策」にも大いに関与します。
 だから無形文化遺産の至極である言語が、しばしば侵略者の弾圧によって滅ぼされます。
 民族の宝である言語を守るために、あるいは殺されてしまった言語を蘇らせるために、文法は編集され実用されています。
 日本語文法(語学)も同様の意義がある、その歴史と現実は愚弄できるような軽いものではない、と最初から書けばよかったのかもしれません。

>そしてたぶん、文字以前の声の時代はさらにバラバラで遊びというか自由度が高かったはずです。おなじ共同体内での個々人のパロールはけっして一様なものでなく今よりも揺らぎがあった。しかし、文字がうまれることでそれは?ある程度?規範化される(また、文字とはことばを空間にピン留めする技術のことでもあり、世界はふり返りや分析の対象になります)。そしてそのことはさらに大きな集団の形成を可能にし、より大きな集団(さまざまな自然言語や俗語にあふれたイロンな共同体からなる)をまとめ上げるための言語はさらに恣意性や揺らぎの少ない安定したもの(そしておそらく?透明性としての翻訳可能性を含むもの?)でなければならない。(18世紀に『英語辞典』を編纂したサミュエル・ジョンソンも「ヨシ、不安定な英語を?固定?する!」的なことをサクッとゆってるし、またそれはその地の人々から待望されてもいた)

 こういうことの現実的な事例として、ウェールズ語が挙げられるように思います。
 古代には口伝・口承文化によって発展した「パロールしかない言語」があまた存在していました。UKの一国ウェールズの土着語、アーサー王伝説でも有名なCymraeg(ウェールズ語)もそのひとつです。
 ウェールズ語は、ゲルマン語派の英語とはまったく異なる、ケルト語派の言語です。
 たとえば英語の「I’m your love.」(構文はSVC)を、ウェールズ語では「Dw i’n dy garu di.」(構文はVSC、発音は「ドゥインディガリディ」みたいな感じ)と言います。語彙どころか文法からして異なる、まったく別の言語です。

 中世までウェールズの公文書はすべてラテン語で書かれていました。ウェールズ語の口伝がラテン字で編纂されはじめたのは、14世紀に入ってからでした。
 かつてウェールズの各地(古代ウェールズは天下統一されなかった土地と有名です)で話されていた本当のパロールの真相を知る手段は、もはやありません。イングランドによる侵略と言語弾圧のためにひとたび、完全消滅(話者がひとりもいなくなったということ)したからです。
 なので現今ウェールズ内政府は、14世紀ごろからラテン字転写で編集されてきた口伝から文法を再現した、言わば人工言語としてのウェールズ語を、政策として保存しています。
 これはパロールとして、そして日常語としてつかうことのできる完全なラングであり、新造語も生まれ方言も復活し、本も書かれて隆盛しています。ウェールズが「天下統一できない土地」のままだったら、こんな言語は生まれなかったかもしれません。

 ウェールズの義務教育では、ウェールズ語が必修科目です。公共機関の看板も英語とウェールズ語の併記を義務付けられています。
 そのような政策で保存しない限り、ウェールズ語が再び消滅してしまうことは明白です。
 生活するにも教育を受けるにも英語が欠かせず、英語さえ話せれば不自由しないという環境のなかでは、人口的な保存以外にウェールズ語を生き残す道はありません。

 それと同じ危機に、日本でアイヌ語も瀕しています。
 きわめて深刻な消滅危機に瀕しているアイヌ語を保存するために、アイヌ語用の特殊カタカナなどを駆使した「日本語話者がアイヌ語を習得するための文法」が編集されています。そうしたものがなければ、アイヌ語は歴史からすら消滅してしまいます。
 ハワイ語消滅の危機に瀕しているハワイでは、幼児へのイマージョン教育による保存運動などが起きています(http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon090321s.html)が、日本でアイヌの末裔に対しこのような教育をおこなうのは困難でしょう。結局「日本語話者がアイヌ語を習得するしかない」そのとき文法が不可欠になるわけです。

 日本語がいつか滅ぼされたのち、日本語の文書が語り継がれるためにも、文法は必需です。
 わたしが述べていた文法は、そういう社会と実用の次元でのお話でした。
 

[72]こひもともひこ[2014 04/14 23:56]鵜飼千代子
>>70 澤あづささんへ

 >解題に限らず「作者がコメ欄で自作を解説する」という行為を否定する意見には、
 「作品として表現できなかったことを解題で穴埋めするのは、言い訳でしかない」
  といったものが多いという印象を持っています。

多くの人に見られるこの印象は、私も同意します。けれど、

 >そしてこういう意見が多く出てくるということは、言い訳がましい作者が多いということなんじゃないかなー

ここは、私にとってはどうでもいいことになります。理由は、仮に自作の解題が完全なる「言い訳」であったとしても、その「言い訳」として書かれた文章がおもしろかったら問題ないからです(毎度のこと、おもしろさの線引き問題はありますが)。

 >ですからやはり、作品は作品として完成させるのが大原則だろうと思うのですね。
 
ここは難しい。これはおそらく、私自身が音楽・バンド畑の出身であることによる「ものの見方」の違いのように思っています。バンドでは、作曲者が持ってきた曲に対して、楽器演奏者がアイデアを出し合って、観客の前で演奏するための楽曲にしていく。けれど、一度完成させて披露した楽曲も、以降の練習中のふとしたアイデアの追加により、生まれ変わることがある。完成形の捉え方の違い。

 >詩だけでは足りないので言葉を尽くしたいなら、注解や解題を作品にするという手もあります。田中宏輔さんの愛読者には言うまでもないことですが。
 
これは、自作ではすでにやっています。一作だけ紹介。

 ・「 」

 壁にぶつかってはサカサカと笑う

 ギザついたスタイルは丸くなる事を拒み
 浮きだす白さは混ざる事許さぬ純粋か

 毒なのか薬なのか未だ決着はつかず
 必要悪といわれる以上に必要とされる

 洒落たアクセントとしてすべからく利用され
 過ぎたる場合はとたんに嫌われ者となる

 とかく世知辛い世の中加減がむつかしい

 光る鉄に恐怖を覚えさせ
 冷え切った二人の仲を繋ぎとめ

 あまり湿度の高い部屋でほって置くと
 みなが抱き合って出てこなくなりました


◇◆

この題名の「 」は、題名なしという意味ではなく、題名をみんなに当ててもらうクイズのための空白となっています。この作品に対するミクシー内でのやり取りを読みたければ→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1706801216&owner_id=32593294 で見られます。

この作品は20作ありますが、最初はみんな、「自分が間違った答えを書いたら恥ずかしい」という考えから、なかなか答えを書いてくれなかった。けれど、書き手である私の考えた一応の正解ではない答えをもらうと、読み手がなぜその答えを考えたのかを推理することができる。そして、読み手がなぜそう答えたのかを推測したコメントを私が書く。そうすると、他の人たちも楽しんで答えを書いてくれるようになった。

◆◇作品の答えは「(食卓)塩」。これを解説した文章も紹介。

 解説:
 答えは『塩』なのですが、より正確には、ガラスの器に入った『食卓塩』です。
 「 」シリーズの最初の作品です。これを書いた時点ではまだ、シリーズ化することや、解説文を書くことを考えていませんでした。以下、解説。


 「壁に〜」は塩が容器にぶつかって鳴る様を。

 塩の結晶は角ばっているので、丸くなることを拒んでいるとしました。
 「毒なのか薬なのか〜」は、塩分を取りすぎると体によくないけれど、人間にとって塩は必要なものことを示唆しています。

 「洒落た〜」「過ぎたる〜」は料理として使われる場合を意味しています。
 加減が大事。

 塩は鉄を錆びさせるので「光る鉄に恐怖を〜」、
 塩は氷を引っ付ける作用があるので「冷え切った〜」としています。

 容器の中に水分が溜まると、固まってでてこなくなるので、
 その様を「みなが抱き合って〜」としました。


◇◆◇

いかいかさんの『こんなことを考えながら作品を書いている』も、自作解題という意味ではおもしろい試みだと思います。批評祭りに自作ヒヒョーを出すべきかどうかには、私は反対しますが。

 >「投稿しときながらレスレスしない」
  この姿勢こそは、こひもさんには得心しがたいんじゃないか、とわたしは推測しています。

ここは、変化しちゃいました。いまもレスレス(コールに対するレスポンス)をしない人の行動を評価はしませんが、書かない人への興味は無くなっていく、というものになって行きました。

この後に書かれた?に対しては、「こういうものの見方もおもしろいんじゃないかな?」という提案でしかありません。この前のやり取りで、自作の解題をしない人を「仕方がない」と私は書きましたが、これも、「私にはどうにもしようがない」という意味を含んでの物言いでした(でも、言い方を柔かくするという澤さんの意見には同意します)。

?に対しては、このコメント欄に紹介した作品で答えたつもりです。

?も、おもしろければいいのですが、そうなると「評価する」問題に踏み込むことになりますね。これは難しい。
今回のHHM2提出作品で、自分のやったことが「批評」なのかどうかは今も答えがでていません。「批:つきあわせて良否をきめる。」という漢字の、「つきあわせて」比べるという意味では、私の分析文は当てはまるのですが、「良否をきめる。」と、「評:物のよしあしをはかる。」のほうは、どうなんだろうなと思ってしまう。私にとって「おもしろいかどうか?」という意味での評価ならできるのですが、そうなると、私の評価というのは「おもしろいです/つまらないです」の二通りの言葉で済んでしまう。

 >わたし自身も、やはり文芸は「芸」ですから、評価するなら技術が最優先だろうと思っています。内容を重視するってことになると、話も「共感できるかできないか」に終始しがちですし、わたしのやるような読解には、冷静な技術評価を妨げる側面が否めません。
 >しかし技術(表現にどの程度の効果があるかということ)は、内容を前提にしなければ評価しようがない、つまりまず読解しなければ論評も始まらない。というのがわたしの所感で、こうなると話がだいぶ厄介になりますね。

澤さんのいう精読も同じところがあると思いますが、今の私が興味を持っているのは、同一人物が書いた「書き言葉」の群から、その人物のひととなりが浮んでくるのじゃないか? というものです。テクスト論主義者(?)だろうがなんだろうが、われわれは興味ある作家の作品・メモ・手紙なんかを知ろう・読もうとする。私は、カミュは大好きな作家なので、作品のみならず、作品を書くためのメモ・ノートである『太陽の賛歌』『反抗の論理』を読む。未完成の『最初の人間』も買う(まだ読んでない)。誰かに見せることを目的として書いたわけではないメモを、その死後に発表されるということと、作者自らがメモを開示することには違いはあるのかもしれませんが、どちらにしろ、そのメモが読解のヒントに成り得ることはある。

澤さんとのこのやり取りも、なんらかの結論が出る可能性の有無も大事なことではありますが、これだけ沢山の言葉の群れが出てきたことが重要だったりします。
 

[71][2014 04/14 12:31]鵜飼千代子
(*横槍とゆーか、、誤配、、独り言です。。


―「一緒に拘束されている、だって?」―「同じ話へと拘束されているんだ」―「そのとおり、でもまた、だからこそじつに注意深くしていなければいけない。ぼくは自分の責任を意識している」―「きみはそうだ、それを認めなければ友愛に外れよう、けれど、ある程度までのことだね」 この限界とは何だろうと彼は考える、ついで彼は自問するのをやめる。「つまり、ぼくらが話をするかぎりで、という意味だね。そのとおりだ、話すということが、ぼくらに残された唯一のチャンスだ、話すということがぼくらのチャンスなのだ」 ブランショ『終わりなき対話』


「契約、結合が生じる〔場を持つ〕ためには、つまり「はい、はい」が両側で生じるためには、それが同時に二つの言語で行われる必要があります。この「同時」の二つの言語とは、二つの国語〔中略〕であるとも言えますが、しかしそれはまた、同一の言語内の二つの言語、つまりあなたのフランス語と私のフランス語―これは当然、同じものではないわけですが―であるとも言えます。したがって、約束、すなわち契約一般は、透明性としての翻訳可能性を内に含むのではなく、諸言語の差異還元〔縮約〕されていると同時に手つかずの〔無傷の〕ままに残されている<バベル>的状況を内に含んでいるはずなのです。もし純粋かつ単純に翻訳できるなら、約束は存在しません。もし翻訳ができないとすれば、やはり約束は存在しないのです。約束が存在するためには、<バベル>的状況が存在する必要があります。」 デリダ『他者の耳』

***

ええと。
自然言語とゆーか、んー、方言とかネトスラングとか幼児語を考えてみればわかることですが、あるどこかの大きな集団の中でも、音素などはもちろんのこと、じつは語彙や文法に関しても各人の偏差は大きいですよね。そしてたぶん、文字以前の声の時代にはさらにバラバラで遊びというか自由度が高かったはずです。おなじ共同体内での個々人のパロールはけっして一様なものでなく今よりも揺らいでいた。しかし、文字がうまれることでそれは?ある程度?規範化される(また、文字とはことばを空間にピン留めする技術のことでもあり、世界はふり返りや分析の対象になります)。そしてそのことはさらに大きな集団の形成を可能にし、より大きな集団(さまざまな自然言語や俗語にあふれたイロンな共同体からなる)をまとめ上げるための言語はさらに恣意性や揺らぎの少ない安定したもの(それはおそらく?透明性としての翻訳可能性を含むもの?)でなければならない。(18世紀に『英語辞典』を編纂したサミュエル・ジョンソンも「ヨシ、不安定な英語を?固定?する!」的なことをサクッとゆってるし、またそれはその地の人々から待望されてもいた)
ここまでカナリ駆け足なのでツッコミどころもありましょうけど、、とにかく、そうしてことばの意味もそれが使用されていた各々の発生時の時間軸から切り離されて、ますます字句の論理的な意味関係によって定まっていった。

***

*Bさんがいうように、僕たちぞれぞれが投げ出されている現実の言語慣習には、確立された単一のシステムみたいなものはないように思います。つまり揺らいでいる。(たとえニホン語における?4月の平均気温?や?平年値?みたいなものをグーグル先生が知っていたとして、それさえ常に揺らいでいる。あ、もちろんこの?平年値?の比喩は?国語?とか、?まことの言葉?やプラトニズムとは関係ないです。)
だけど、にもかかわらず、かつて僕がSNSでぽつりと「うなぎなう」とつぶやいた時には、みんなからちゃんと「俺はきのうからペヤングしか食ってねぇ…」とか「おなかすいたお…」とか「うるせー、shiね!」とか、、だいたい合ってるイチャモンをつけられました(「ニホン語でおk」みたいな反応はなく)。。まぁ僕が「うなぎなう」を最初に言った人でもないんだろうけど。
ことばを解釈する場面においてあらかじめ学習されていないこと、統語論の観点からみても、文法的な間違いやマツガイや逸脱や不完全なところがある?オレ語?でさえ、時として話者の意図に関する?了解?でもってうっかり通じたりすることがままある、、とゆーのは驚異的なことですね。

*Sさんがいうように、もちろんラテン語や文語、それから謎の古文書や暗号文を解読しようとするさいには文法理論とか考古学の知識とかいろいろ、カナリ必要だと思います。やったことないのでわかりませんけど、いやカナリ絶対に必要だ。。
そしてそれは現代ニホン語文を読むときもそうで、そしゅーるというよりも、参照項として脳内の辞書・文法書的(あるいは歴史文化個別経験的)データベースを使ったり、テキスト空間を命題ロンリ〜述語ロンリまでを駆使してケーシキ的に交通整理したり、デイヴィドソンがいうところの真理条件的意味論で意味らしきものを探り当てる(制作する)必要があると思います。

*対立するものではなく、強いて言えばSさんはデイヴィドソンがいうところの?事前理論?、Bさんは?当座理論?に関する話をしている気がします。

***

*引用・参考文献…手元にないんだけどたぶん昔読んだ『デイヴィドソン〜「言語」なんて存在するのだろうか』 森本浩一

(*http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509 カンケーありませんが、ここでは文法の必要性を十分に認めた上で、言語は文法に先立つ、ということを書いていて途中で投げてしまいました。。orz)


独り言ですが、長々と失礼しました。)
 

[70]澤あづさ[2014 04/14 11:42]
>>68 こひもともひこさんへ。

>>「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」
>その人(※自作解題する作者)が、「自分は知識を持っているぞ」ということを言いたいがためにコメントしているのか、そうじゃなくて、「この作品をより良くしよう」だとか、「このやり取りから次に繋がるアイデアが生まれる」だとかを求めてコメントしているのか。

 解題に限らず「作者がコメ欄で自作を解説する」という行為を否定する意見には、
「作品として表現できなかったことを解題で穴埋めするのは、言い訳でしかない」
 といったものが多いという印象を持っています。
 そしてこういう意見が多く出てくるということは、言い訳がましい作者が多いということなんじゃないかなー、とわたしは推測しています。
 ほかならぬ自分自身がその類なので、わりと自信のある推測です。

 ですからやはり、作品は作品として完成させるのが大原則だろうと思うのですね。
 詩だけでは足りないので言葉を尽くしたいなら、注解や解題を作品にするという手もあります。田中宏輔さんの愛読者には言うまでもないことですが。

 この機に乗じて、ヒヒョー対象関連作品を宣伝させてください。

◆いかいかさんの前回HHM参加作品◆
・ヒヒョー『こんなことを考えながら作品を書いている』
 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267971
・ヒヒョー対象『祖母』(※自作)
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a30

 いかいかさんの貴重な自作解題です。元祖JJMなので、わたしはポイントを入れませんでしたが、もちろん精読しました。『星遊び』(http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12)精読のために。
 わたしの知る限り、かれは自作解題しない人ではないけれど、レスレスはくれないことが多い。かれの作風を知りたければ、作品から情報を収集するほうが早いです。

「投稿しときながらレスレスしない」
 この姿勢こそは、こひもさんには得心しがたいんじゃないか、とわたしは推測しています。わたし自身、レスにはレスレスしてくれよと思うからです。
 しかし反面わたしはメビで「作者のレスレスはみっともないから禁止したほうがいい」という意見(もちろんいかいかさん以外の人の)を複数回見かけてもいます。
 コメ欄での解題を「言い訳」として、そこまで忌み嫌う人もいるようです。

 という前提で、以下。

<quote>-------------
?自作解題を「書き手という読み手の一読解」として捉えて作品を読み解いていくのは面白いんじゃないかな
?難点はやはり、作者自身の解題を「正解」だと捉えてしまう「ものの見方」でしょうか。
?「いやみったらしく披露する」ということも、大きなポイントになるように思います。
------------</quote>

 このうちまず?ですが、コメ欄のやり取りが評価でなく「アドバイス」なんだとすると、作者が事前に作品を解題して「わたしはこういうつもりで書いたんですけど、書けているでしょうか?」とレッサーに問うほうが、話が早いんじゃないかしら?と、わたしは現場にいたころしばしば思いました。
 それと言うのも、ものすげーあたりまえの話ですけど、知らないことは読んだってわかりません。
 特に詩は表現を凝縮しますから、詰めたネタがわかりにくくなることも多い。すさまじく難解あるいはネタのマイナーな作品の場合、作者が「なにを書いたつもりなのか」をはっきりさせない限り、アドバイスの手段などないということもあり得ますから。

 そういう前提でのやり取りだと、?の理想は実現しませんが、こひもさんもおっしゃっているようにわたしは、?が一般的な風潮として定着するとは思えません。
 そもそも、?のような交流が有益になり得るほど読み幅のある投稿作品がどれほどあるのか。そして?のような交流を望んでいるレッサーがどれほどいるのか。
 このレッサー側に関するわたし個人最大の難関が、?です。

 ガチで、わたしはわたしのようなやつにはレスしたくない(だからこひもさんの男気を尊敬するわけですが)、これはわたしひとりの所感ではないと思っています。
 メビで活動していたころ「実力がないからプロ詩には行けない」「的外れなことを言ったら恥ずかしいからレスできない」というような話を、頻繁に聞きました。
 実際そのころメビには、「難解そうな詩にはレスがつきにくい」という顕著な傾向がありました。
 難解そうな詩ほど、便乗レスみたいなのが多くなる傾向もあったように記憶しています。最初に賛辞がつくと賛辞だらけになり、最初に批判がつくと批判だらけになる、みたいな。つまり合評は、どうしたって他人の意見に左右されやすいということです。

 さらにプロ詩の周辺には、
「読解をもらっても無意味、技術を評価してほしい」
 という意見も散見しました。

 わたし自身も、やはり文芸は「芸」ですから、評価するなら技術が最優先だろうと思っています。内容を重視するってことになると、話も「共感できるかできないか」に終始しがちですし、わたしのやるような読解には、冷静な技術評価を妨げる側面が否めません。
 しかし技術(表現にどの程度の効果があるかということ)は、内容を前提にしなければ評価しようがない、つまりまず読解しなければ論評も始まらない。というのがわたしの所感で、こうなると話がだいぶ厄介になりますね。
 と、ひとまず半端なところで終わっておきます。
 

[69]澤あづさ[2014 04/14 11:41]
>>66の訂正※
・「線形代数」は「線型代数」の書き間違いです。
・「トルコ公用語」は、トルコ語のうち公用されているものという意味です。
※ほかになにか間違いがありましたらご指摘ください。
>>54に関しても間違いがありましたらご指摘ください。

  +  +  +

>>67 蛾兆ボルカさんへ

 先立って>>46に書いた通り、わたしは>>41>>42に心から感謝しています。
 また、いままでボルカさんから受けた恩を、忘れるわけもありません。
 今後もわたしの間違いを殴っていただけたら、同じように感謝します。

>ネイティブスピーカー同士で話してるときに、『文法』がそれを意味してるなんてわかるわけないですよ。

 そこがナ形容詞でなく橋本文法だったとしても、わたしの論旨は変わりませんよ。
 >>57でボルカさんがすでに指摘してくださっている通りに。

 >>66のわたしの汚い物言いと同じように、>>62の衒学も筋が通りません。
 チョムスキー先生のお話は、作品として拝読したいです。楽しみにしています。
 

[68]こひもともひこ[2014 04/14 00:23]
>>66 澤あづささんへ

 >「仕方ない」ではなく、「それにも一理ある」と認めるべきだと思います。
 >これは至極単純に、物言いの問題です。対話を潤滑にするための。

ここは全くそのとおり・・・書き方が下手なんですよね、まだまだ。

 >「ネット詩の批評の場において自作解題することの意義や難点」

については、自作解題を「書き手という読み手の一読解」として捉えて作品を読み解いていくのは面白いんじゃないかなと思っています。作者が一人でグルグル回るだけの自己完結になる危険性もありますが、そこにコメント者が加わり、作者の読解も、澤さんの読解も、他の人の読解も、どの読解も作品に対する一読解として接してみる。そして、それを読んだ作者が「ああ、これはいい読解だからいただこう」とか、「ここまでこだわって作ってなかったわ、もっと精度を上げよう」とか思考しながら作品が変化していく(必ず変化する必要があるわけではない)。難点はやはり、作者自身の解題を「正解」だと捉えてしまう「ものの見方」でしょうか。

 >田中宏輔さんの英訳詩(http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/352.html#20130101_614_6588p)のコメ欄で行われていることは翻訳の研究であり、作者が不在ですから、「作者が評者に対しいやみったらしく披露する自作解題」とはわけが違います。これは自作に対するコメント授受を「研究」と定義するか「評価」と定義するかの相違かもしれません。
 >評価なら、粛々と甘受せねばなりません。ド素人のネット詩を共同研究してくれる親切なレッサーなどふつういません。
 >こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。

ここに書かれている

 >いやみったらしく披露する

ということも、大きなポイントになるように思います。その人が、「自分は知識を持っているぞ」ということを言いたいがためにコメントしているのか、そうじゃなくて、「この作品をより良くしよう」だとか、「このやり取りから次に繋がるアイデアが生まれる」だとかを求めてコメントしているのか。
なので、

 >こひもさんの例は特異すぎて、一般化するには無理がありすぎます。

これがそのまま、やりたいことに繋がっていく。一般化されていることなのであれば、コメントのやり取りをするより、そのことの説明を上手にしている書籍でも教えてもらうほうが役に立ちますから。
 

[66]澤あづさ[2014 04/13 21:33]
>>64 こひもともひこさんへ

>「自作の説明はしない」と主張する人は、それはそれで仕方がない。

 だったらそこには、言及する必要はないと思います。
「仕方ない」ではなく、「それにも一理ある」と認めるべきだと思います。
 これは至極単純に、物言いの問題です。対話を潤滑にするための。

 もしこひもさんに、話を>>48に戻して「ネット詩の批評の場において自作解題することの意義や難点」について話し合いたいというお気持ちがあるのでしたら、わたし自身はそちらを擁護したい人間ですし、>>53の話がでたらめすぎたと後悔もしているので、改めて>>48から仕切りなおしたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 わたしはこひもさんを信頼しています。これは信じていただきたいです。

  +  +  +

>>65 蛾兆ボルカさんへ

 物言いがあまりに煩わしすぎ、人をなめくさりすぎてて、心底対話不可能だと思うんですけどね。
 わたしが支持しているのは「外国人学習者のための日本語習得の文法」だと、あの場でも説明しました。
 それを記憶してなくたってそんなもん、ナ形容詞をググれば一発でわかります。

 で、ボルカさんは、日本共通語(東京弁)の文法を、韓国公用語(ソウル方言を整理したもの)やトルコ公用語(イスタンブール方言を整理したもの)の文法と比較したことがあるんですか?
 韓国公用語文法との違いから、日本共通語文法の特徴を指摘する程度もできない人間に、「語学」として日本語を語る資格はありません。
 比較言語学の研究法も知らない人間がポスモの言語学なんかやったって、>>51のソシュールジャーゴンカオスのようにひたすら間違うだけです。

「日本語の構造に主部や主語はないとする立場」なんて概念は、あなたにはクソの役にも立たないと思いますよ。
 なにせあなたは例の会の時点で、助動詞「す/する」と「す/せる」の区別もついてなかったし、主観的ナ形容詞(「好きだ」など)の正しい用法すらご存じありませんでした。
 そこまで基礎のできてない人間が、概念だけ覚えてなにになるんです?
 割り算のルールを理解できない人間が線形代数を論じるくらい、ばかばかしい詭弁を捏造するだけです。

 あなたには、対話の相手への敬意が微塵もありません。
 相手の論旨を汲む気が毛頭なく、ただ「おれ様は正しい」(しかも間違ってる)これだけ。
 わたしにあなた様を信仰する義理は微塵もないので、たしかに対話不可能です。
 

[64]こひもともひこ[2014 04/13 05:49]
>>59 澤あづささんへ

 >わたしにも、執念深い自注まで添えた思い入れのある詩を、すさまじい曲解で犯罪行為と糾弾され、〜
 が。
 そこまで他人に粘着し糾弾し続けるという行為にも、相当な問題があったと思います。

私は、自作解題・自作説明をしない人はしない人で、それはその人の自由だと思っています。その実例として、『papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium』葉月二兎さん→http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/339.html#msg6352 のコメント欄での私のやりとりを挙げておきます。このやり取りも、なにがなんでも作者の自作解題を求めているわけではありません。「自作の説明はしない」と主張する人は、それはそれで仕方がない。

 >※ツイッターでのご発言にも関係して。

というコメントがなんのことか分からない人もいると思うので、私がツイッターで書いた文章も挙げておきます(少し手直しして)。

◇ツイッターで書いたこひもともひこの文章◇

 うーむ・・・
 職場の上司命令とかならともかく、ネット上でしか付き合いのない相手の言うことが号令に聞こえるという人たちの考え方が分からないのよね。それって、変わらなければいけない自分ということが自分でも分かっているのに、外側の誰かから言われたら、「そんなこといちいち言われなくても分かってます」だとか、「いちいち命令しないでください」だとか、過剰に反応してるだけじゃないのだろうか。私は、最初に文学極道に提出した『あいす』という作品について相当の自信を持っているけれど、あそこでもらったアイデア・意見はちゃんと採用して、作品を改良させてるのよね。良いアイデアであれば、喧嘩した相手だろうが、嫌いな人物からの助言であろうが取り入れる。貪欲さが違うねん。まあ、他人は他人やけどね。

・『あいす』文学極道に提出した作品。
 →http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/316.html#20120326_374_5966p

・『あいす(大画面専用)』文学極道でもらったコメントを参考にして改良したもの。
 →http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287365

 「意見を言わないという意見にも耳をかたむけるべき」だとかを突き詰めると、「よって、この件についてはなにも言えません」という結論にしか行けない。それでええんやったらええけどね。そんなんもうええねん。ほんで、なんの意見も無くリスカでもしとったらええやん。助けて欲しいんなら、「助けてちょー」って言えばええやん。

 なんにも言いたいことなんかないんなら、「なんにも言いたいことなんかない詩」を突き詰めて書いてみればいい。でもな、「なんにも言いたいことなんかない」とかいいながら、言いたいことだらけな詩なのは分かるねん。「助けてちょー」というのを言えないから、濁せるだけ茶を濁してごまかしてるだけ。

 私の詩は、私の言いたいことを読み手に伝わるように書くことを目指して書いている。これな、やってみたらめちゃくちゃ難しいねん。どう書いてもひねて読もうとする奴らがどこにでもおる。けれどへこたれずに、そういうやつらにも自分の言いたいことが伝わるように何度でも書く。コメントでやり取りできるのであれば、そこで喧嘩もする。

 まあなあ、結局は、他人の作品なんかに興味がないということなんやろなあ。引用も含めて、「この人は前向きなことばっかり書くなあ」と感じてる誰かの書いた文章をすべてまとめて読んでみる。すると、その人物のひととなりが浮んでくる。書き言葉が、(自分を含めた)人にどういう影響を与えうるのか? そして、自分がどんな言葉を書いているのか? 
 

[63]澤あづさ[2014 04/13 05:07]
>>62 蛾兆ボルカさんへ ※横槍を熱烈に歓迎します。

 ボルカさんに悪意のないことはわかりました。
 が、この文面は、拷問レベルの難文で、脳みそ破裂しそうです。

>だから僕にとっては、言語学と言えばソシュールなのではないわけ。
>そんなの変だ、やっぱ言語学と言えばソシュールじゃないか、と澤さんは思うかもしれない。あと近代とか現代(ポストモダン)とか言うなら、とかね。それは当然なのかもしれません。だけどしょうがないじゃん。僕は違うんですよ。
>もちろん、澤さんがまずソシュールの話だと考えるのは妥当だろうとは思いますが、ソシュールの名前をあげてるのは澤さんなんですよ。

 わたしは>>38で「ソシュールはつまらん」と断言しました。
 そのうえで「語学はポスモの言語学ではない」「日本語文法はソシュールではない」と主張し「文法」(語学)の話をしていました。
 そのわたしがなぜここで、ソシュールの伝道者であるかのように仕立て上げられ、言及していない言語学知識についての説教を受けなければならないのか。この圧倒的な冤罪の時点で、お話についていけません。

>僕は自分の詩作や生活において、赤ん坊の言葉とか、失語状態のひととのコミュニケーションとかが思考の主要テーマのひとつです。それは過去の作品で示せます。また、暗黙知とか、「まことの言葉」とか、「予知」とかといった、知性の限界の(信仰と言われても異存のない)領域に長く親しみを持ってきたのです。ソシュールからは遠い感じがします。

 わたしが親しみを持っている分野(文法=語学)も、ソシュールとはまったく異なる次元にあります。
 そのことを>>38できっぱり述べましたが、つまるところ、>>51>>54の内実はこういうことでしょうか。
 親しみのある分野が違っても「ソシュールはつまらん」という見解の一点では共通している二名が、好きでもないソシュールを介して、ソシュールとは関係ない語学と「まことの名前」を、それぞれ一方的に述べていた。

 それで、話が通じるわけないですよ、

 わたしは>>51の解読にすこぶる難渋し、そのうえ返信のために、つまらんからしたくもないソシュールジャーゴンカオスの定義を指摘するという労まで強いられました。
「おまえがかれにしたのもこういうことなので、ガン無視されてもしかたない」という教訓の事例でも挙げてくださったのなら、ありがたいご教示ではありますが。わたしには、ここまでの難文解読をかれにしいた記憶はないです。

>ソシュールが講義録のなかで、言語学のやるのは語学じゃないよみたいなことは、言ってたような気がするな、程度には印象にありますが。
>どんな言語学のどんな面と、どんな意味でその文法論が無関係なのか、わからない。

「ソシュールの言語学は語学ではない」と認識しているが「日本語文法(語学)はソシュール(言語学)ではない」という主張の意味は理解できない。とおっしゃるんですか。
 でしたらわたしには、もはや説明の手段がありません。

 わたしのなにが悪くてこの齟齬が生まれたのか、反省したいのは山々ですが、詭弁で自虐を捏造するのはばかばかしいので保留します。
 ボルカさんは結局、>>51でわたしのなにを指摘なさりたかったのか、この一点だけ教えてください。
 

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