【HHM参加作品】こんなことを考えながら作品を書いている
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私は、「だから」、貴方達の言葉にいつもうんざりする
                          『祖母』より


 読経が鳴り響く中で、唯一声を発さない静止物があった。私は、それを「人」として呼ばなかった。「他者」でもなかった。読経の中に、誰かのすすり泣く声が混ざって来た。また、声の裏側に、見知らぬ人や見知っている人の声にならない言葉があることもわかっていた。世俗的生活の中で、多くの苦しみや悲しみ喜び、があった、だろう。そして、人々のまなざしも、あっただろう。
 死体を取り巻いて行く声、そこには、憎悪もあるだろう。読経の意味すらわかっていない人たちが、浄土三部経を祖母に送っている。釈迦は、菩提樹の下で、一度、入滅しようとした。そこには、釈迦の諦めがあった。仏教の釈迦の神話には、決定的な諦めが初めにあったわけだ。彼は、誰も自分が悟ったことをわからない、として入滅しようとしたのだから。だから、私は仏教が結構好きだったりしている。この諦めは、仏教の思想の全体を語っているとすら思う。
 祖母の死体を見た時、その体に、耳なし法一のように言葉が書き連ねてあるように見えた。それは、他者の声みたいなもので、罵声や怒り、喜びや感謝など、ああ、こんなふうに、死ぬ時も、人はいろんな言葉を投げかけられて、思われて死んでいくのかと思った。その声は、世間、といわれるようなものから、小さい地域共同体の中の人間関係の中で生まれた、ものではなく、歴史的なもの、もっと古い古い場所から来ている声も含まれているように感じた。
 
読経は、三陸を削り、降灰は、積雪を、頭にとどめる


 歴史的な声、それは、死んだ人すらも縛る声、そんな声は、恐らくこの国の国土も削ってきただろう、とふと思った。

貴方は、恐れをなさず、功徳の一切を、路肩に落とし、有為の花を、喉仏に宿す、遠方から人が着き、隣から、着流しが崩れる、骨は、鳳仙花の、ように、ふくらみ、紫陽花は、胸に、飛来する、口篭る、ままの、頬から、一本の、線が引かれ、寒さは一気に引く、目は浄土の、土の香りを嗅ぎ、足は、涅槃の、瞼につく、わたしたちは、見送るが、あなたはもう、みえないばかりか、体からは煙を吐き出し、煙突のない、家で、静かに篭る、白いのはあなたではなく、わたしたちが白くなったのだ、と、仏間に置かれた、果物がつげる、骨は塩をたれ、たれた塩は、舌の上で、酸味を広げようやく寝そべる、


 祖母が死んだとき、私は、祖母が確実に死ぬことを悟った。母と父が祖母を起こしに行ったきり帰ってこないので、様子を見に行くと、どす黒い嘔吐物があった。母と父はそれが吐血だと気づかなかった。でも、私はその時していた仕事の関係でそれが血だとすぐにわかった。そして、祖母が死ぬことを悟って、父と母に「たぶん、死ぬと思うから、もう見送りという意識で、見送ってあげた方がいいよ」と言った。祖母は、吐血しながら、自分の指輪を外し、母に渡そうとしていた、母はそれを拒否した。気が動転して、拒否した。その拒否は、祖母の死を否定するための拒否だった。
 外で、姉と妹が救急車を待っていたので、「もう助からないと思うからお別れした方がいいと思う。まだ意識はあるから」と姉と妹に告げた。
 吐血し続ける祖母、震える手で指輪を渡そうとする祖母、それを見守る母と父、その光景に、三法印を見た。
 涅槃寂静、諸法無我、諸行無常。そして、こういう行為は、多くの家族で行われてきた。私たちが生きている限り、行われ続けられる行為。一切皆苦。
 それと同時に、その行為のまとなりで、全く別のことも行われているのも事実だろう。一つの死は歴史に残らないが、その一つの死すらにも歴史はのしかかっている。葬儀の際の因習や血縁関係、財産分与、など様々に、地域共同体内での位置など。喜びや感謝もある。
 
 だからこそ、私はいつも「貴方達」の言葉にうんざりする。

 祖母の死が悲しかったわけじゃない。死にまつわる多くの事柄が悲しい。自分が死ぬ時も、多くの声に晒されて、もしかしたらその中には、怒りも、罵声もあるかもしれない、感謝の言葉もあるかも知れないが、私は、そういうものが嫌だ。
 究極的な条件下で、いかにして戦える言葉を、詩を作りだせるか、そこに到達できるか、それを考えている。

即興する、嘔吐物の、頂点から、石弓を引く、大和の呪いだ、と、神々は雨垂れ、に似た、うな垂れの中で、うるさく頭をたたくものだから、昨日からはなすことをやめた、例えば、ここからまじめに求められるような文章を書いたって、石を積み上げる小僧の首に届かないでしょう、と、貴方は言う、じゃ、例えばをはじめてみようかと思うが、すぐにいやになる。それは、こんなかんじで、「床下にたどりつくと、土の匂いが手足を伝って鼻まで這い上がってくるのがわかる。彼らは、鼻腔の奥にかすかにのこっている外の香りに異常に反応するのだ。その反応を僕はこめかみで処理しようとして、眉間にしわを寄せるが、その様子を見て、友人が尻をつつく。早く行けと、彼はいう。懐中電灯に照らされるいくつもの柱には蜘蛛が陣取って、僕らをやりすごそうとしている。友人の懐中電灯が、この空間の隅っこを照らした、そこには、」いやになる。「水星から落下した、クジラの寝息の上で、セーターを編む、時に、くしゃみした、やまちゃん、やまちゃん、と、思い出しながら声をかける、たけるくん、たけるくんの、メガネはいつも曇っている。曇っているのは、彼がやさしいからだ、彼は落下した、クジラの、骨に挨拶をする、古くなった鼻骨、そして背骨、背びれに尾びれ、と、脈拍は空気に混じって酸化して、その酸っぱさの中で、息を吸い込む。」いやになる。


 昨日は死を願い、翌日には、寂しさを謳う、そして、男が群がる。男は、挫折を謳い、女はそれを慰める。そんな人間は嫌いだ。そしてそういう人は、恐らく、私が勝手に名付けている「浅い幸福と浅い絶望」の間を行ったり来たりしながらぬるく生きていくのだろう。でも、本人たちは「浅い」と思えない。底なし沼のように思っているのだろう。私はそれを許せないし、許さない。なぜなら、そういう人たちは、それらを上手に利用しながら生きていくからだ。だからこそ、どこまでいっても「浅い絶望と浅い幸福」なのだと思う。

 うるさい声を、自分が死んだときすらも、生きている時すらも取り囲む声を、かき消すには、自分で大声を、周りの声が聞こえなくなる位の強い声を、あげるしかない。その声をあげるために、どうすれば良いか、その声はどんな声か考えている。

仏の、唇に、たれた、雨垂れの向こうで、羅漢、達が、踊り、浄土、三部の、お経の、内から、たち現れる、人の、後姿に、前姿に、めをうばわれ、蛙はがはねると、同時に、遠くを見る、雨、と、口にする、甘さが、瞳に、耳に、手は自然と、うなだれ、爪が伸びる、草が分かれる、自然に、道を作る、砂浜は、苦い、近くで挨拶を拾う、言葉に、夜に、昼に、体を、投げ打つ、打ち捨てる、


 絶対的な静寂が欲しい。自分の存在すらもかきけされてしまうような静寂が。私は人が寄りつかないような場所に夜行って、暗闇の中でぼんやりしている時が一番心がいやされる。自分の体すらも見えないような暗闇が特に良い。だからこそ、人の何倍も荒れ狂うことができるし、人の何倍も静寂の中に身を置けるしこのむ。自分をむしばんでいると同時に、自分を成立させている者たち、人たち、人であった者たち、共同体、家族、歴史、あど、この体も血も何かが刻まれている、何かがいたからこそ、誰かがいたからこそ今ここにある、そういうものから。事実から、身をひきはがすことは絶対にできないからこそ、憧れる。
 色即是空。私たちには実体がない。本質などない。私は私ですらもない。老いも死もない、生もない。あらゆるものがない。虚無ですらもない。世界もない。愛もない。なんと心地よいことか。 
 
 


散文(批評随筆小説等) 【HHM参加作品】こんなことを考えながら作品を書いている Copyright 01 Ceremony.wma 2013-01-26 20:59:28縦
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