http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269388 思考散歩−サル学から/こひもともひこ
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んー。
こひもともひこさんのゆってることにもボルカさんのゆってることにも頷けるので、ちょと、勝手に整理を。
まず、(自然環境から切り離された場所で、とくしゅな訓練を受けた)一部のチンパンジーや類人猿は、たしかに私たちの"ことば"をあるていど理解するよーになります(限定的であるにせよ)。どのていどかといいますと、そですね、驚くべきことになんとにんげんのコドモ(2〜3歳児未満)とか、観光地や植民地などで飛び交うカタコト・イングリッシュ並の"ことば"を理解するまでになるケースも見受けられる程です。
さぱり英語のわからない僕は、海外のTV番グミなどで、ご主人がペットのラングレン(狩猟犬♂)に向かって超高速の英語でなにやらつぶやき、即座にラングレンがその命令通りに動くシーンを目の当たりにして、「わぁ、この犬、あんな超高速ナチュラル・イングリッシュが解るんだ!スゲー!スゴすぎるよ、ラングレン!!」とよく感激したものですが、それが類人猿レベルの天才的な英語理解能力ともなるともうただただ羨望のマナザシですよね。。
あ!スイマセン、話がそれました。とはいえ、私たちと近縁にある彼、彼女たち(類人猿)がとくしゅなくんれんを受けて理解するよーになった"類人猿の解する私たちのことば"と、こーして"ここで私たちが使用している、私たちのことば"との間には、途方もないキョリがある。私たちがどうぶつから進化(展開)してきた以上、"私たちのことば"のベースには遠く彼、彼女たちに連なるものがあるのだとしても。
チンパンジーが、質問を出す人間の表情や仕草から答えを導き出していたように、会って顔を見合わせるということは、言葉だけの情報以上のことを相手に伝えています。ということは、そうじゃない場合の言葉というのは、どこまでの情報量を持つものなのでしょうか?(思考散歩−サル学から)
こひもさんのことばを借りれば、私たちのことば、"私たちがここで使用していることば"とは、"そうじゃない場合の言葉"のことです。この視点はとても鋭い。そしてこの視点に立って論をすすめるなら、また違った経路を辿りながら同様の結論を導き出せるよなきもするのです。
"類人猿の解することば"と"そうじゃない場合の言葉(私たちがここで使用していることば)"について、シンプルに(紙幅のカンケーでざっくり端折りますが)すこし、僕なりの補足を加えておきます。
えと。こひもさんも指摘されてますが"類人猿の解することば"には身ぶりや表情がともないます(そして彼らは、身ぶりや表情や空気から相手のビミョーな情動を察知したり、ことば、以外のものを"読み取る"能力にも長けている)。また、類人猿(と、一部の鳥類含む)の、数や色の概念把握の学習も、たんなる"箱の中の機械的なプログラム"ではけっしてありえない、テストに成功すると誉められて食べ物が貰えるとか、それ以上に、まるで研究者ファミリーの一員であるかのよーな環境の中での楽しい"遊び"を通して(いわば"ぐ体的な現実環境の中"で)獲得、発現されてゆきます。もちろん、観光地や植民地でのカタコト・イングリッシュも、身ぶりや表情込みの"ぐ体的な現実環境の中"で飛び交っている、とゆーことはいうまでもないでしょう(そして私たちが週末にドトールなんかのオープンテラスで友人とおしゃべりしているときに使用される"ことば"も)。
そう、"類人猿の解することば"とは、"観光地のカタコト・イングリッシュ"とは、"ドトールで私たちが友人と対面で話すときのことば"とは、換言すれば、不可分に"現実状況とリンクしたことば"であり、そして、"そうじゃない場合の言葉"とは、"ここで私たちが使用していることば"とは、まさに「類人猿の解することば」から研究者や施設が、ドトールのオープンテラスが、雄弁な身ぶりや表情が、あらゆる現実状況が"差し引かれた"ことばなのです。(客観的なデータや方法論などのカードが出揃い始め、どうぶつに関する言語研究が本格的にスタートしたのは前世紀の後半も半ば過ぎた頃からですが、無理やり人文知に接続させると、ここでゆう"そうじゃない言葉(現実状況が 差し引かれた ことば)"とは、おそらくかつて哲学者を「われわれを混乱させるのは、語の現れた姿が同じであるように見える、ということである」とか「言語ゲーム」と重々しく語らしめ、また「文脈」を、「テクスト」の概念を創出させた"ことば"のことでもあるだろう(むろん、ドトールで友人とおしゃべりしている時においてすら私たちの口から今、ここに存在しないものや、架空の出来事、フィクションが語られるとき、私たちはしばしば"混乱"するわけだが。))
、、。いかんいかん。哲学者のことばを引いたあたりからうっかりムズかしそうな口調が(口調のみ)移ってしまってた。。シカも、口調だけでは飽き足らずあまつさえ何かカッコイイこと(口説き文句的な)まで口走りそーになってたきがする。。アッブネ〜〜!
それで。僕の見解を述べますと。
基本的に詩は短文であることが多いので、言葉数は少ない。そしてなぜか、「短い言葉で多くの情報を含ませた表現こそが素晴らしい!」という印象を持つ人が多い。(思考散歩−サル学から)
ありますね。タシカ見たことありますよそゆ詩。身体性の経験(ものすごく個人的な)とか、ぴーーんとうんと強く脳に浮かんだ事柄を、げんしょう学的に、主観的に、なるべくそのままの姿で記述しようと試みられたよーな詩とか。でも詩においてそーいう短文系のものは難解とゆーか、どっちかゆーとむしろ退行(?)、、方向性としては"類人猿のことば"や"カタコト・イングリッシュ"や"幼児語"を志向されてるんじゃないかな〜、とか思ってみたりもするんです。
ナンでしょーか、海外の観光地とか行くと雑技場とか出た所で待ち伏せされてて「あなた 売るね ヴィトン (「ヴィトン 売るね わたし」でも可)」とかしきりに声かけられるじゃないですか。まぁ、(文章的に)ふつーに考えたら、ゆってることばの意味がにわかには信じがたいですよ、その人の。てか、理解できませんよ、ことばの意味が!短文だし、語順もテキトー、感動的なほどのショートカットが行われているし、脈絡もなければ、文法要素もあんまりない。「(わたしは)あなたに、ヴィトンを、売るね」といいたいのか、「(わたしに)あなたは、ヴィトンを、売るね」といいたいのかさえ判らない。いえ、ほんとはわかるんですが。実際には、その人がひょいと小脇に抱えている箱からニセ・ヴィトンらしき長財布が顔を覗かせてたりとか、ソレを指差しながら「ホンモノ アルヨ」とかおっしゃっておられるので。食玩のおまけ、、、いえ、まるで豪華弁当の中の鯛のタレ瓶がごときちっぽけな"ことば"が、その人の生々しいジェスチャーや、強かな目線、くっきりした表情、事物、空間etc...と緊密に渾然一体化して、この現実状況そのものが織り成されているので。もちろん、女性研究員の作った「チョコバナナマフィン」を欲しがるときの"類人猿のことば"や"幼児語"だってそですが(e.g.「チョコバナナ 食べる あなた(あなた 食べる チョコバナナ でも可)」(キーボードの抽象的な絵文字を押さえながら、研究員の方をチラ見しながら))。そう、いまだガッチリと文法規則に縛られてない彼らは、いつだって彼らは、胸にぴーんとキタことをすぐに口に、、、
て、あれ?これ、ことばの在り方としてどこか似てませんかナニカに?あいや、コレは難解な現代詩じゃなくてただのバッタもん売りのおまけみたいなセリフですが。
人よりも知能は低いと言われるチンパンジーやサルも、その人の仕草を見て、その時どうすればいいのかをちゃんと判断している。どう読めばいいのか解らない作品をありがたがって見ている人間は、果たして彼らより利巧だと言えるのでしょうか。
だから。利口な彼らに倣うならむしろ、"まともな文法を無ッ視ングしたショートカットしまくりのわけのわからない短文系の詩"はアリてことになる。ンだけど、"そうじゃない言葉(現実状況が 差し引かれた ことば)"でソレやるとますますわけがわからない。
"類人猿のことば"や"カタコト・イングリッシュ(クレオール化以前)"や"幼児語"には、文法要素が希薄だし、語順とかの制約もユルいから(彼らは主語や目的語から語りはじめない。ぴーんとキタことから語りはじめるのだ)、それをそのまま文章化してアレがアレすれば、、どく者にとっては「わたしは、売るね、ヴィトン(場所)で、あなたを」みたいなわけのわからなさをさらに倍増させることにもなりかねない(いえ、コレはただのバッタもん売りのセリフですが...)。うーん、、困った。だってあるしゅの詩ときたら、まるで"類人猿の解することば"みたいなことばを"そうじゃない言葉"で語ろうとしているんだもん。
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ことばを理解する、とか、意味が通じる、とは、いったいどーゆうことなのだろう。多くの場合、僕たちはそれをこんなふうに説明してきた。まず、話し手(書き手)の脳内にもやもやと(あるいは、鮮明な)観念やイメージのよーなものがあり、それがコード化されて客観物(ことば)に変わる。そして聞き手(読み手)は、さらにそれ(ことば)を脱コード化(解釈)して、自らの脳内で再生するのだ、とかゆーふうに(コンピュータのプログラムなんてまさにそゆ考え方の極地から産まれてくださった産物でしょう。また、私たちは常にその時代の先端のテクノロジーとの類比で、私たちの精神や身体を語ってきた。内燃機関に身体が喩えられた時代もあった。石や煉瓦や家を用いて語られた時代もあった。そしていつかコンピュータ時代が去ったとき、いったい私たちはどんなもののアナロジーで語られるだろう。)。
だがぼくはそーいった言語処理の図式そのものに問題があるよーに思う。もちろん、「ナイナイ。話し手と聞き手はべつの人なんだから、ブレイン・マシーン・インターフェース技術のものスゴい進歩の果てに、お互いの脳神経の末端同士を接続でもしないかぎり、、あなたと私、同じ脳内イメージなんて再生(共有)できるはずナイじゃん!」とかいいたいわけではない。また、仮にもしもその時代(テレパシーでも可)が到来したとしてもいちいち書いたり、読んだり、やたらとメンドーくさい詩が滅びるともあんまり思えない(別の理由で滅んでいるかもしれませんが...)。それは彼ら(類人猿)のことを鑑みるに、そもそも再生可能(or 再生不可能)な脳内イメージとはいったいナンのことだろう?それはどこか観念やイメージとゆったものを実体視しすぎていやしないか? "通じる"てそーゆうことなの? とゆ、疑問がうかぶからである。
(ちなみに、この時代にはムリでも、いつしか先述のよーなブレイン・マシン・インターフェース技術(テレパシでも可)が実現したとしよう。
ちょと、コレ つ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16798201 を視聴して欲しい。
ちょうど7分間のライブ映像だ。ここで彼女たちの楽曲や演奏についてヒヒョーすることはしないが、もしも、完璧に個人の内面世界にある観念やイメージやわき起こる情動などをダイレクトに他人と共有(相互にやりとり)することが可能になったとしよう。
そのとき、この音楽の代わりに取り交わされる情報とはいったい、どーゆうものナンだろうか?
もはや熱いパッションを内に秘めた彼女たちはそれを誰かに伝えるために苦心して楽曲をツクル必要もなければ、ライヴも行わなくていい、いっぽう、ぼくの脳内では、楽曲をツクろうとしたり、ライヴをやる寸前のアーティストと同様の脳内ナントカが正しく分泌されていればいい、、のか? 音楽は時間ゲー術だから、これを聴いているあいだにもぼくの脳内では音やことばのつらなりによって様々な感情が現出しては消えてゆくンだけど、、、、、視点を変えよう。
んと、彼女たちの内面世界、ではなくこーしよう。仮に、X氏とゆー人が3日前にこの動画を体験することで現れては消えたもの(内面世界)を友人のY氏に伝える場合、たとえばテレパシならどのくらい一発でそれはすむの?とゆー問題にもこれは置き換え可能だが、それでテレパシ一発でY氏はまったくほんとにX氏が3日前に7分間かけて体験した通りにこの動画を体験したことになり、X氏と同様に歌えるようにまでなってしまっているのだろうか??
そして、万が一そうなっているのだとしたら、それはもう観念やイメージなどではなく、Y氏は3日前のX氏になり7分間かけてこの動画を体験したことに等しい。
、、、。
どーやら事態は慣れ親しんだあの図式で示せるほどそうカンタンなものではないらしい。だが、ブレイン・マシン・インターフェース技術(テレパシでも可)が実現すればすくなくとも、こーしてPCの前に座ってニコ動を見る代わりに、ぼくやあなたの脳神経のチャンネルを介してこの動画と同じ情報を送り込み、どこにいてもこの7分間の動画と同じモノをぼくのやあなたの脳にダイレクトに見せることができるだろう。、、、。て、もはやそれはただのこの7分間の動画そのものじゃないですか!どーやら未来においても彼女たちは、すくなくとも観念や脳内ナントカではなく、音やことばのつらなりにさまざまな感情を現出させながら根つめてこの音楽をツクリ上げ、わざわざライヴまで決行しなければならない運命らしい。そしてぼくもタイムカーソルの移動ともに様々な感情を現出させながらその脳内動画を、、、以下略。そしてそれは詩も同じことだ。)
つづく。