HHM2講評
香瀬


【はじめに】

 2014年4月15日をもちまして、HHM2は完全に閉幕します。ご投稿くださった皆様、投稿作を読んでくださった皆様、現代詩フォーラムやTwitter等でリアクションをとってくれた皆様、ありがとうございました。

 HHM2では「ネット詩を対象とし、読者を面白がらせるヒヒョー作品」を募集しました。「ネット詩」とは、「ヒヒョー」とは、といったことを参加者に委ねる形で企画することは、主催の怠慢と思われる恐れもありますが、あえて、参加者それぞれの考えの反映としての投稿作を求める気持ちから、このような形といたしました。結果、わたしが述べるまでもなく、前回に負けるとも劣らない作品を投じていただけたものと思っております。ありがとうございます。

 それでは、僭越ながらcaseの講評ならびに大賞(と貰っても何の栄誉もない賞)の発表をもってHHM2の閉幕とさせていただきます。順不同です。



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【講評】

・HHM2大賞(図書券1万円分を進呈)
・廊下に硬貨
・熱を作るクッキング
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 ある作品について語ること、こうした行為を批評と考えるなら、どのような方法を選択するか、ということがポイントになると思うのですが、廊下に硬貨氏の選択した方法は二次創作、それも批評対象の作品内で用いられている語やその類語をばら撒き、それでいて出現する順番は守りながら、しかし様相の異なる散文へとしたてあげることでした。その狙いは、ヒヒョー末で氏本人が述べているように、批評対象である「(あるいは昇華核」(横山黒鍵)の見出したアンバランスさ、それを補填することでありました。
 ある作品をきっかけにまた新たな作品がつくられきっかけとなった作品と闘っていく。ヒヒョーもまた、そうした営みのなかに存在するものであるならば、HHM2に投じられた作品の中で、本作がもっとも、批評対象と闘っていたようにおもいました。闘う、という表現に違和感を覚える方もいるかもしりませんが、真剣に行われる遊戯的闘争、プロレス的なエンタメをおもわせる、作品の読解及び表現といえば、本作の達成を理解していただけるかとおもいます。
 HHM2大賞、おめでとうございます。







・最多ポイント(14-04-20現在)獲得賞
・深水遊脚
・詩の入り口に立つためにー『母乳』ちんすこうりなー
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 作品は楽譜であり、読解は演奏である。そんな比喩をきいたことがあります。書き込まれている音符どおりに演奏すること、書き込まれていない音符を追加して演奏すること。魅力的な演奏がどういったものかというのとは別に、作品内に書き込まれていることを丹念に読み解いていこうとする態度は、作品に対する真摯な姿勢だとおもいます。
 本作の批評対象「母乳」(ちんすこうりな)における語り手の位置はまったくの空白であるかのように見える。「平らな胸」とはなんであろうか、なぜ「母乳」かどうか質問したのだろうか。いくつかの疑問点は取っ掛かりとなり、この詩を読解する上でのヒントとなっていきます。深水氏は本作の読解を、多数派と少数派という視点、登場人物とガジェットの関係をゲーム的に捉える視点、という2つの視点から試みました。読解という行為を、ゲームを比喩に説明し、ヒヒョー読者に追体験させようとした点を、とても面白いものと感じました。







・「きゅんきゅんしちゃうぜ」賞
・阿ト理恵
・ドアノブと未満ちゃんの事情
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 「未完成した」(未満ちゃん)を批評対象に、阿ト氏のLOVEが炸裂した作品、以上! そう言い切ってしまってもいいんじゃないかな、と思えるような、この作品ならびに未満ちゃん氏に対して阿ト氏が見出しているかわいらしさが、かわいらしく表現されているように思いました。
 「未満ちゃんの ほぼツンときどきデレ詩」と、作品内の語り手と未満ちゃん氏をほとんど重ねるように読み、ただただこの詩を読むことの気持ちよさについて語っています。キュート!







・「なんてったっておちゃめ」賞
・ハァモニィベル
・世界最短の詩
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 HHM2にぶつける形でJJM(自画自賛祭)が勃興しておりましたが、JJMではなくHHM2の方へ自画自賛を投げ込んでくれるおちゃめっぷりがとても素敵です。「記憶喪失」(ハァモニィベル)を語るまでに、いくつかの短詩を提示し、<愛嬌がある>という言葉でこれらをまとめます。
 詩とは何か、文字数ゼロの詩とはどういうことか、という問いかけを放り出し、自作の宣伝をして締めくくる本投稿作は、愛嬌があるなあとおもいました。







・「素朴さの魅力」賞
・ちんすこうりな
・詩の偶然性、ヌンチャク『ローカル線』
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 「目の前の光景を何も考えずに描写したか、記憶に引っかかっていた情景をなんとなく空いた時間に書き残した」ものとして、「ローカル線」(ヌンチャク)に描かれている、なんでもない日常を評しています。なんでもない日常、それを愛おしいものとして見つめる視線が「ローカル線」の語り手にあるわけですが、ちんすこう氏は、この語り手を作者ヌンチャク氏と重ねるようにして、ヌンチャク氏の「詩のおもしろさは設計図がないところだ」という言葉を引きます。
 設計図なく詩が――「ローカル線」が、描かれていたのだとして、それでも、作中で用いられている語が、それでなければならない、と読者であるちんすこう氏が感じたのであれば、その理由をこそわたしは知りたいとおもいました。「目の前の光景を何も考えず」だったり「記憶に引っかかっていた情景をなんとなく」だったり――素朴さとして、詩が書かれていたのだとしても、読者に、何度も読みたい、と思わせるその魅力は、どういった在り方として作中に存するのだろうか、と読後、考えていました。







・「ガッピョー、あるいは他者の視点」賞
・澤あづさ
・舌平目のムルソー(suigyo)を散瞳する
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 前回に引き続き相変わらずの総力戦、それも今回は援軍を巻き込んだ形となって提出されている本投稿作は、「no title」(suigyo(紅月))の初稿を偏執的に読解(読んで解釈する/解体して釈明する)するにあたって、「異邦人」(カミュ)だったり、「星遊び」(ポチ(いかいか))だったり、を併置しております。つまり、批評対象単体でヒヒョーせず、かつガッピョー(合評)というスタイルを採用することで、読解がひとつの読みへと収斂されることを拒み続けることを宣言しながら、ひとつの読みを書き表していくおもむきとなっています。
 澤氏の読解は、自身の読みに真摯であろうとすればするほど、独りよがりとなってしまう面があるようにおもうのですが、このスタイルでは絶えず揺さぶられる文末が他者の視点を読者に意識させることに多少なりとも成功しているようにおもいました。また、「no title」読解のキーとなる「外人」「異邦人」という他者の存在を、ヒヒョー自体が体現している点で意欲的な取り組みのようにもおもいました。







・「テキストサイトも詩だ」賞
・九十現音
・二階堂奥歯『八本脚の蝶』/小宇宙の不可能性
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 「『ネット詩』について考える際、『テキストサイト』の存在を避けて通ることは出来ないと思います。」と九十現音氏は冒頭で述べ、二階堂奥歯氏が自殺の直前まで書き綴ったネット上の日記を、「ネット詩」として批評対象に掲げています。今回、「ネット詩」については参加者が各々考えてくださればいいとおもっていました。こういった、これも魅力的な詩だとおもう、というおもいや、それを投稿してくださったことを、とてもうれしくおもいます。
 「『書くこと』は『書くべきこと』の存在を想起させます。」「『八本脚の蝶』の『面白さ』は二階堂奥歯という一人の人間がウェブ上に日記を書くことを通じて、『書くべきこと』に向かいあい続けたことにあると思うのです。」 ヒヒョーという言葉を嘯くとき、「何を書くか」ではなく「どのように書くか」ということにウェイトを置いて考えていましたが、「書くべきことは何か」「書かざるを得ないことは何か」という問いかけが有り得るんだな、とおもいました。日記に用いられるメールの引用とは、二階堂氏の「書くべきこと」がすでに書かれていたものだった、引用とはつまり、すでに書かれている書くべきだったものの再表出といったものなのでしょうか。そんなことを考えました。







・「地道な作業をこつこつ」賞
・こひもともひこ
・田中宏輔『THE GATES OF DELIRIUM。』の分析文またはLEGO
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 作品が何を書いているか、ではなく、どのように書かれているか、に着目するとき、対象の作品が長大であれば長大であるほど、複雑であれば複雑であるほど、端的に大変であることがわかります。タイトルにもあるように、LEGO(レゴブロック)を用いて組み上げられた作品をひとつひとつ解体していくかのように、田中氏の作品を分解していくこひも氏の狙いは、作品を鑑賞するにあたって作品から与えられた材料をまずはいったん整理すること・それを視覚的に見せること、でありました。
 極力主観を排した条件で行われた分解の結果を見せ、あとは読者が好きに批評対象を読んでくれ、というのは、必要な材料はすべて下ごしらえしといたからあとは自分で調理して食べてご覧、というようなものにわたしは感じました。あえて評者が調理しない、という形でのヒヒョーが狙いならば、もうちょっと台所に立ちたくなるような装いを演出してくれるとうれしいな、とおもいました。







・「ぼくはこれから<夢>を見るんだ」賞
・uki
・唖草吃音さん
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 「陶酔連鎖」(唖草)を全文引用し、「楊貴妃の生理」に対する読解を開陳されていますが、これがすこぶる面白い。史実にあえてあたらない、事故的に出会った「楊貴妃の生理」というフレーズ、そのフレーズがもたらした読者であるuki氏の快楽、そういったものを感じました。
 ぴょんぴょん飛び跳ねるような文体、「なまなましい夢の部位が床に転がっているのを、おそれながら、半笑いしながら、拾おうとする」手つき、現実からほんの少しだけ位相のずれた世界を垣間見せてくれるような作品がお好きなのだろうか、などと珍しく投稿作者のほうに興味がいってしまいました。







・「誤読のスピード、ブレーキ」賞
・そらの珊瑚
・「旅立つということについて」小林青ヰ
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 「旅立つということについて」(小林)の作中にある、「くびにあらなわをまいて」という言葉に注視した投稿作、「あらなわ」という言葉から連想される拘束のイメージは「ドナドナ」や「異邦人」を召喚するものの、「あらなわをまかれた」と誤読したうえでの読解であったことば文章末で明らかになります。
 この投稿作、誤読のスピードが加速して、作者の読解に移入しそうになる瞬間、ふっと我に返ったかのように「まかれたじゃなくて、まいてじゃん!」と気付く作者を幻視してしまい、どこか、かわいらしいな、とおもってしまいました。







・「ネット詩の広がり/狭まり」賞
・KETIPA
・すべてはネット詩に回収され、しかしここはまだ砂漠だ
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 「ネット詩」とは何か、という疑問(とくに生産性もないような)をもっています。KETIPA氏は、偶然拾ったミスプリや、新国・恭二郎・藤原安紀子のような活字のフォントやページの余白に凝った作品というのは、現状のネット詩には生じないのではないか、と述べています。ネット詩の定義はさておき、現在ネット上に公開されている作品で、偶然性を取り入れたもの、活字のフォントや余白等のレイアウトに凝ったものが存在しないかといえば、いや、そんなことはないんじゃない?という風におもっています。(たとえばni_ka氏)
 自分の読解力を棚に上げて、ちょっと要旨が掴みにくい文章だなとおもいました。ネット詩というものが、ネット上に引用された段階で、それもまたネット詩に組み込まれていってしまう、という認識の一方で、ネット上に引用することで死んでしまう詩情をもった他メディアの作品というものはネット詩化できないものだ、という認識をしている、そんな風に本文を読みました。ネットだろうがなんだろうが詩は詩だろ、という立場の方がいる一方で、インターネットに詩を投じることは他メディアとどう異なるのか、みたいな視点は、個人的にとても興味深いことです。







・「向き合うことのむずかしさ」賞
・N.K.
・「沈黙」を聞き、「いま」を読む ― 縞田みやぎさんの「春に寄せて」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288639&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM2

 「春に寄せて」(縞田)に「荒地」(エリオット)を併置した本投稿作は、311以後の在り方を問うてくる「春に寄せて」に対して、生と死、日常と非日常、発話と沈黙のような二項対立をないまぜにするかのような強度を見出そうとしているようにおもえました。
 語りえぬこと、語らないこと。そうした沈黙をこそきちんとききとること。花を手向ける、という非日常的な行為を通して無理に発話することなく、日常的に花を育てるという行為に寄り添う、祈りという沈黙を。







・「大事なことは言わない言わない」賞
・蛾兆ボルカ
・「おっぱぶ/ちんすこうりな作」がグレートである件について
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288485&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM2

 蛾兆氏は「おっぱぶ」(ちんすこう)に対して多くの理由から好きだと述べており、ここでは2つのこと(おっぱぶという現場性、「ふーちゃん」という固有名詞)をあげています。が、その2つはたくさんある理由の中からベストだから今回の文章に書かれたわけではないことが文章末で述べられています。
 読者を煙に巻くスタイル、読者が本投稿作を読んで興味を持つのは批評対象だけでなく煙の奥にいる作者にまで及ぶような、あえてすべてを曝け出さない書き方は何を意図したものなのか判然とはしませんが、いくつもの理由を列挙し、批評対象の魅力を多角的に照射されたものも読みたいなとおもいました。







・「書いてしまったものがヒヒョーだった」賞
・大覚アキラ
・絶対的矛盾としての馬野幹について
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288544&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM2

 馬野幹の「若い人に捧ぐpoem」と「朗読用テクスト 未完成交響詩 第17楽章「詩人のやさしさについて」」を引用した本投稿作は、文中から察せるような、馬野幹作品の熱さにあてられて、一気呵成に書いたかのような印象です。大覚氏が言い切っている「詩を書こうとして書いた詩は、それがどれほど詩的であったとしても、詩“的”なものでしかない」という言葉を真似れば、作品を評しようとして書いた評は、それがどれほど評としての体裁をなしていたとしても、ただそれだけに過ぎない、のかもしれません。
 結構な分量がある投稿作ですが、ほとんど何も語っていないようにおもえる内容の唯一である「馬野幹すげー!」というおもいが、ほとばしりまくっています。馬野氏の作品が大好きなんだな、というのがつたわってきました。



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【おわりに】

 ある作品を楽しめないのは、その作品を楽しむに足るセンスも教養も勉強も不足しているからだ、という立場があったとします。なるほど、少年野球のスキルでメジャーリーガーに挑戦するのはおかしなことかもしれません。でも、運動音痴であったとしても、巨人戦に熱くなることは出来るともおもふのです。テレビに映ったお気に入りのバッターが空振りするたびに憤慨したり、目をつけていたルーキーが打ち取ったら喜んでみたり。

 詩を書く、というスキルも、少年野球からメジャーリーガーまで幅は広いでしょうし、ネット詩ならばなおさらでしょう。さいきんグローブを手にしたばかりの人と、何十年も欠かさず素振りをし続けてきた人と、三冠王が同居しているような空間、といってみてもいいかもしれません。今後も自分なりのペースで、おもしろがってつきあっていきたいな、とおもっています。

 ヒヒョーとは何か。テレビ画面で野球を見ても野球の本当の面白さはわからない、という意見があったとしても、面白い、と感じた人の、その、面白いと感じた事実は、疑いようがなくあるわけでして。なんかよくわかんないけど好きなんだ! というおもい。それは的外れであってもかまわないものです(はたして狙うべき「的」がはじめからあるかどうかすらわかりませんが!)。

 ネット上にはまだまだ素敵な作品があるし、そうした作品を素敵に語ってくれる人もたくさんいらっしゃいます。今後も、みんながこんな風に、好きに素敵に語ってくださったらいいな。そんな風におもっています。

 皆様、ありがとうございました。

それでは。


2014,04,21
香瀬 拝


散文(批評随筆小説等) HHM2講評 Copyright 香瀬 2014-04-21 20:02:12
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