HHM2(第7回批評祭)!!!!!!![71]
2014 04/14 12:31


(*横槍とゆーか、、誤配、、独り言です。。


―「一緒に拘束されている、だって?」―「同じ話へと拘束されているんだ」―「そのとおり、でもまた、だからこそじつに注意深くしていなければいけない。ぼくは自分の責任を意識している」―「きみはそうだ、それを認めなければ友愛に外れよう、けれど、ある程度までのことだね」 この限界とは何だろうと彼は考える、ついで彼は自問するのをやめる。「つまり、ぼくらが話をするかぎりで、という意味だね。そのとおりだ、話すということが、ぼくらに残された唯一のチャンスだ、話すということがぼくらのチャンスなのだ」 ブランショ『終わりなき対話』


「契約、結合が生じる〔場を持つ〕ためには、つまり「はい、はい」が両側で生じるためには、それが同時に二つの言語で行われる必要があります。この「同時」の二つの言語とは、二つの国語〔中略〕であるとも言えますが、しかしそれはまた、同一の言語内の二つの言語、つまりあなたのフランス語と私のフランス語―これは当然、同じものではないわけですが―であるとも言えます。したがって、約束、すなわち契約一般は、透明性としての翻訳可能性を内に含むのではなく、諸言語の差異還元〔縮約〕されていると同時に手つかずの〔無傷の〕ままに残されている<バベル>的状況を内に含んでいるはずなのです。もし純粋かつ単純に翻訳できるなら、約束は存在しません。もし翻訳ができないとすれば、やはり約束は存在しないのです。約束が存在するためには、<バベル>的状況が存在する必要があります。」 デリダ『他者の耳』

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ええと。
自然言語とゆーか、んー、方言とかネトスラングとか幼児語を考えてみればわかることですが、あるどこかの大きな集団の中でも、音素などはもちろんのこと、じつは語彙や文法に関しても各人の偏差は大きいですよね。そしてたぶん、文字以前の声の時代にはさらにバラバラで遊びというか自由度が高かったはずです。おなじ共同体内での個々人のパロールはけっして一様なものでなく今よりも揺らいでいた。しかし、文字がうまれることでそれは?ある程度?規範化される(また、文字とはことばを空間にピン留めする技術のことでもあり、世界はふり返りや分析の対象になります)。そしてそのことはさらに大きな集団の形成を可能にし、より大きな集団(さまざまな自然言語や俗語にあふれたイロンな共同体からなる)をまとめ上げるための言語はさらに恣意性や揺らぎの少ない安定したもの(それはおそらく?透明性としての翻訳可能性を含むもの?)でなければならない。(18世紀に『英語辞典』を編纂したサミュエル・ジョンソンも「ヨシ、不安定な英語を?固定?する!」的なことをサクッとゆってるし、またそれはその地の人々から待望されてもいた)
ここまでカナリ駆け足なのでツッコミどころもありましょうけど、、とにかく、そうしてことばの意味もそれが使用されていた各々の発生時の時間軸から切り離されて、ますます字句の論理的な意味関係によって定まっていった。

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*Bさんがいうように、僕たちぞれぞれが投げ出されている現実の言語慣習には、確立された単一のシステムみたいなものはないように思います。つまり揺らいでいる。(たとえニホン語における?4月の平均気温?や?平年値?みたいなものをグーグル先生が知っていたとして、それさえ常に揺らいでいる。あ、もちろんこの?平年値?の比喩は?国語?とか、?まことの言葉?やプラトニズムとは関係ないです。)
だけど、にもかかわらず、かつて僕がSNSでぽつりと「うなぎなう」とつぶやいた時には、みんなからちゃんと「俺はきのうからペヤングしか食ってねぇ…」とか「おなかすいたお…」とか「うるせー、shiね!」とか、、だいたい合ってるイチャモンをつけられました(「ニホン語でおk」みたいな反応はなく)。。まぁ僕が「うなぎなう」を最初に言った人でもないんだろうけど。
ことばを解釈する場面においてあらかじめ学習されていないこと、統語論の観点からみても、文法的な間違いやマツガイや逸脱や不完全なところがある?オレ語?でさえ、時として話者の意図に関する?了解?でもってうっかり通じたりすることがままある、、とゆーのは驚異的なことですね。

*Sさんがいうように、もちろんラテン語や文語、それから謎の古文書や暗号文を解読しようとするさいには文法理論とか考古学の知識とかいろいろ、カナリ必要だと思います。やったことないのでわかりませんけど、いやカナリ絶対に必要だ。。
そしてそれは現代ニホン語文を読むときもそうで、そしゅーるというよりも、参照項として脳内の辞書・文法書的(あるいは歴史文化個別経験的)データベースを使ったり、テキスト空間を命題ロンリ〜述語ロンリまでを駆使してケーシキ的に交通整理したり、デイヴィドソンがいうところの真理条件的意味論で意味らしきものを探り当てる(制作する)必要があると思います。

*対立するものではなく、強いて言えばSさんはデイヴィドソンがいうところの?事前理論?、Bさんは?当座理論?に関する話をしている気がします。

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*引用・参考文献…手元にないんだけどたぶん昔読んだ『デイヴィドソン〜「言語」なんて存在するのだろうか』 森本浩一

(*http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269509 カンケーありませんが、ここでは文法の必要性を十分に認めた上で、言語は文法に先立つ、ということを書いていて途中で投げてしまいました。。orz)


独り言ですが、長々と失礼しました。)
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