2014 04/14 23:56
こひもともひこ
>>70 澤あづささんへ
>解題に限らず「作者がコメ欄で自作を解説する」という行為を否定する意見には、
「作品として表現できなかったことを解題で穴埋めするのは、言い訳でしかない」
といったものが多いという印象を持っています。
多くの人に見られるこの印象は、私も同意します。けれど、
>そしてこういう意見が多く出てくるということは、言い訳がましい作者が多いということなんじゃないかなー
ここは、私にとってはどうでもいいことになります。理由は、仮に自作の解題が完全なる「言い訳」であったとしても、その「言い訳」として書かれた文章がおもしろかったら問題ないからです(毎度のこと、おもしろさの線引き問題はありますが)。
>ですからやはり、作品は作品として完成させるのが大原則だろうと思うのですね。
ここは難しい。これはおそらく、私自身が音楽・バンド畑の出身であることによる「ものの見方」の違いのように思っています。バンドでは、作曲者が持ってきた曲に対して、楽器演奏者がアイデアを出し合って、観客の前で演奏するための楽曲にしていく。けれど、一度完成させて披露した楽曲も、以降の練習中のふとしたアイデアの追加により、生まれ変わることがある。完成形の捉え方の違い。
>詩だけでは足りないので言葉を尽くしたいなら、注解や解題を作品にするという手もあります。田中宏輔さんの愛読者には言うまでもないことですが。
これは、自作ではすでにやっています。一作だけ紹介。
・「 」
壁にぶつかってはサカサカと笑う
ギザついたスタイルは丸くなる事を拒み
浮きだす白さは混ざる事許さぬ純粋か
毒なのか薬なのか未だ決着はつかず
必要悪といわれる以上に必要とされる
洒落たアクセントとしてすべからく利用され
過ぎたる場合はとたんに嫌われ者となる
とかく世知辛い世の中加減がむつかしい
光る鉄に恐怖を覚えさせ
冷え切った二人の仲を繋ぎとめ
あまり湿度の高い部屋でほって置くと
みなが抱き合って出てこなくなりました
◇◆
この題名の「 」は、題名なしという意味ではなく、題名をみんなに当ててもらうクイズのための空白となっています。この作品に対するミクシー内でのやり取りを読みたければ→
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1706801216&owner_id=32593294 で見られます。
この作品は20作ありますが、最初はみんな、「自分が間違った答えを書いたら恥ずかしい」という考えから、なかなか答えを書いてくれなかった。けれど、書き手である私の考えた一応の正解ではない答えをもらうと、読み手がなぜその答えを考えたのかを推理することができる。そして、読み手がなぜそう答えたのかを推測したコメントを私が書く。そうすると、他の人たちも楽しんで答えを書いてくれるようになった。
◆◇作品の答えは「(食卓)塩」。これを解説した文章も紹介。
解説:
答えは『塩』なのですが、より正確には、ガラスの器に入った『食卓塩』です。
「 」シリーズの最初の作品です。これを書いた時点ではまだ、シリーズ化することや、解説文を書くことを考えていませんでした。以下、解説。
「壁に〜」は塩が容器にぶつかって鳴る様を。
塩の結晶は角ばっているので、丸くなることを拒んでいるとしました。
「毒なのか薬なのか〜」は、塩分を取りすぎると体によくないけれど、人間にとって塩は必要なものことを示唆しています。
「洒落た〜」「過ぎたる〜」は料理として使われる場合を意味しています。
加減が大事。
塩は鉄を錆びさせるので「光る鉄に恐怖を〜」、
塩は氷を引っ付ける作用があるので「冷え切った〜」としています。
容器の中に水分が溜まると、固まってでてこなくなるので、
その様を「みなが抱き合って〜」としました。
◇◆◇
いかいかさんの『こんなことを考えながら作品を書いている』も、自作解題という意味ではおもしろい試みだと思います。批評祭りに自作ヒヒョーを出すべきかどうかには、私は反対しますが。
>「投稿しときながらレスレスしない」
この姿勢こそは、こひもさんには得心しがたいんじゃないか、とわたしは推測しています。
ここは、変化しちゃいました。いまもレスレス(コールに対するレスポンス)をしない人の行動を評価はしませんが、書かない人への興味は無くなっていく、というものになって行きました。
この後に書かれた?に対しては、「こういうものの見方もおもしろいんじゃないかな?」という提案でしかありません。この前のやり取りで、自作の解題をしない人を「仕方がない」と私は書きましたが、これも、「私にはどうにもしようがない」という意味を含んでの物言いでした(でも、言い方を柔かくするという澤さんの意見には同意します)。
?に対しては、このコメント欄に紹介した作品で答えたつもりです。
?も、おもしろければいいのですが、そうなると「評価する」問題に踏み込むことになりますね。これは難しい。
今回のHHM2提出作品で、自分のやったことが「批評」なのかどうかは今も答えがでていません。「批:つきあわせて良否をきめる。」という漢字の、「つきあわせて」比べるという意味では、私の分析文は当てはまるのですが、「良否をきめる。」と、「評:物のよしあしをはかる。」のほうは、どうなんだろうなと思ってしまう。私にとって「おもしろいかどうか?」という意味での評価ならできるのですが、そうなると、私の評価というのは「おもしろいです/つまらないです」の二通りの言葉で済んでしまう。
>わたし自身も、やはり文芸は「芸」ですから、評価するなら技術が最優先だろうと思っています。内容を重視するってことになると、話も「共感できるかできないか」に終始しがちですし、わたしのやるような読解には、冷静な技術評価を妨げる側面が否めません。
>しかし技術(表現にどの程度の効果があるかということ)は、内容を前提にしなければ評価しようがない、つまりまず読解しなければ論評も始まらない。というのがわたしの所感で、こうなると話がだいぶ厄介になりますね。
澤さんのいう精読も同じところがあると思いますが、今の私が興味を持っているのは、同一人物が書いた「書き言葉」の群から、その人物のひととなりが浮んでくるのじゃないか? というものです。テクスト論主義者(?)だろうがなんだろうが、われわれは興味ある作家の作品・メモ・手紙なんかを知ろう・読もうとする。私は、カミュは大好きな作家なので、作品のみならず、作品を書くためのメモ・ノートである『太陽の賛歌』『反抗の論理』を読む。未完成の『最初の人間』も買う(まだ読んでない)。誰かに見せることを目的として書いたわけではないメモを、その死後に発表されるということと、作者自らがメモを開示することには違いはあるのかもしれませんが、どちらにしろ、そのメモが読解のヒントに成り得ることはある。
澤さんとのこのやり取りも、なんらかの結論が出る可能性の有無も大事なことではありますが、これだけ沢山の言葉の群れが出てきたことが重要だったりします。