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参照先不明 参照先不明 参照先不明 >>15 >>16 「わかる/わからない」については、私は全然関心がないのですが、 まど・みちお(作詞)の『ぞうさん』にからめて、そのことになぜ関心がないか、考えてみます。 * 『ぞうさん』は、曲と一体化することにより、幼児向けの童謡となることで、みごとな傑作となっている作品ですが、 別段、皆さんがおっしゃるように、「わからないけど」、とは思いません。むしろ、わかりやすい良い作品であると思っています。 子どもたちは、『ぞうさん』を歌うことにより、自分の容姿などの特徴(自分の存在の仕方)が、それが醜いにせよ、秀でたものであるにせよ、親から受け継いだ自分の個性なんだ、ということに気づくわけですから。 詩人というのは、本質を直観できる者であり、優れた詩人の詩を読むと、読者も、上例の如く、その詩によって、本質を直観させれられるわけです。凡人には本質直観はできないので、そういう詩を書くことも出来ないわけです。ところが、凡人と詩人の差をどうしても認めたくないのか、ともかくも、認めようとしない為に、「わかる/わからない」が問題だ、などと言い出すのだと、わたしは思います。(悪口ではありません) 凡人が、本質直観めいた詩のようなものを書こうとして書いたとして、それをみたら、かなり惨憺たる印象が(読者には)あるでしょう。そして、それが堆積したのをみせられると、「詩」というものが本来もっている筈の価値までが、どんどん薄められてゆくことになり、「詩」が可哀想な状況・様相に堕ちこんでいく、ように(わたしには)直観されたりします。正直に言えばですが。 なので、凡人は、「わからない」わからなさ、というのを、精確に、発露していけばいいんじゃないか、と思いますね。その方が、まさに、詩になるんじゃないでしょうか。凡人による凡人のための詩ですね。 もっとも、凡人ではない詩人は、それをもっと巧く詠んだりしますが。 「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行) * 私なりに分類してみれば、 わからないけど、腑に落ちる詩 (詩人の詩) わかるけど、腑に落ちない詩 (凡人の詩的な文書) わからないし、腑に落ちない詩 (文字化けと同等の駄作か前衛ゲージツ) わかるし、腑に落ちる詩 (文学的な詩) となります。 以上の3つ目に注目すると、 これは、人間的なものを排した、無機的な表現を狙っているわけでしょうが、 そういうのは、結局、模様が連続しているのと変わらず、絵画では有効な面もあるが、 言葉の場合は、人間には退屈でしかありません。 さて、傑作『ぞうさん』について。 * 『ぞうさん』を、私が最初に歌ったのは、2・3歳くらい、はじめての童謡といってもいいかもしれません。 母と風呂に入ったときに、よく一緒に歌った(歌わされた)記憶があります。 そうすると、思うのは、 なぜ、「父さんも」ではなく、「かあさんも長いのよ」なのだろう?ということでしたね。 父の方が一本長くてゾウさんに見えましたから。母は2つあってどうも象というよりウシだろう、という感じがしたからです。 まど・みちお は、五歳の頃、ある朝目を覚ますと、母親と兄妹が、彼だけを残して、父親のいる台湾に行ってしまった、 という体験をしています。その後、山口県で、祖父とふたり切りで、小学四年まで暮らしたそうです。 書き手としては、「父さん」にするか、「母さん」にするかどちらにでもできそうで、選択に迷うところです。 どちらが、書き手にはしっくりくるのか?まど・みちおにとっては、ここは「母さん」でなければならなかったのでしょう。 ぞうさん ぞうさん だれが すきなの あのね かあさんが すきなのよ 『ぞうさん』の二番はこうでしたね。そして、二番こそ、こうでなければならなかったのだろうと(わたしは)推察します。 『ぞうさん』に籠められた深いマインドは、切なく孤立した者が繋がりを見つけて安心する、 そういう歌でもあるのではないでしょうか。 * (以上、私見をぼやきました) by ハァモニィベル 参照先不明 参照先不明 参照先不明 >>30
まったくその通りのようですね(笑)。 「無理解」ということに、どうしても愚劣さがつきまとっている そんな印象を覚えます。 例えば、単純に【賢/愚】という二項対立で狩りをしている者というのは、 人格を否定する奴は「ばか」だ、と言う自分自身が、 「ばか」だと人格を否定する「ばか」な奴だ、と自らを狩っていることに気づかないようです。
という靭やかなエクリチュールが、読み手の中で何ら美しいテクストも創造されず 「無理解」というゴミ箱に消えるようでは、じつに、哀しいかぎりです。 * 物憂さに共感しつつ、 by ハァモニィベル 参照先不明 >>34 蛾兆ボルカさま 数式で書いた詩について講師の方が"これはつまらないな。"、 "もっと、・・・叡智を見せて欲しいな。"と述べられた意味を 考えてみました。 私も講師の方と同じ意見です。叡智とは哲学的なことと解釈し ますが、数式自体ではなくその哲学的な思想を詩にするのが良い と思います。 例えば数学の最も重要な基本的なもの、無限論や論理学です。 この分野は古くから哲学者も参加しており、現代においても尚、 未知の部分があります。 無限論においては、数学者はふつう実無限派に属します。可能無限派は 少数ですが確実に存在します。古代の哲学者もそうでした。 実無限の殆どの定理は、可能無限では意味がないか否定されるという、 ほぼ相反するものなので、数学者は最初にどちらか1つを選ぶのです。 一般の数学愛好家でも、数学の歴史に興味のある人を除いて、やはり どちらかを選ぶのがふつうです。数式で詩を書き、公理的集合論を知り ながら、最も重要な最初の選択である、無限に無頓着(無知なのかも)な 人間がいるようですが、驚きます。 しかし、数式を引用し、哲学的にして、まるでどなたかの引用詩のようにして 利用するのは、面白いかも知れません。どなたかも、それで興味をお持ちのよう ですね(笑い)。 by st 読者(観客)を意識しない世界が、それを意識しつつも失敗をくりかえす 一時的な練習の場、稽古場であるなら、其処にあるのが、ぴんきりでも当然だし 仕方ないであろう。 しかし、読者(観客)を意識しない世界というのが、自分だけ、あるいは、 自分たちだけの垂れ流しの場であるなら、それは何か別の用途のケアホームだ。 稽古場は嫌だが、ケアホームでほのぼのしたい(悦に入りたい、とまでは言わない) そういう世界や心性を他人が持っていてもべつに私は否定したりはしない。 2つの世界を往復しながら細々と保つというひともいるだろうから。 しかし、(いずれにせよ) まともな読者のいない処には、まともな書き手もいない のである。
by ハァモニィベル 石村さん 「いつ来てもうまい」が変わらないために、微成長をつづける、 というのは、名人・達人たちの暗黙の法則を取り出した格言として感銘ぶかいものがありました。 劇画『ゴルゴ13』でお馴染みの作者さいとうたかを氏は、(TVのインタビューで)20年以上前の『ゴルゴ13』の頁を開いて、「この頃は、上手かった」と、まあ半ば洒落、なかば本気で、つぶやいていました(微笑み)が、 そこで、さいとうたかを氏は、こうも述べられていたのが印象深かかったです。 映画とか書籍を売るというのは、お客から先払いしてもらう仕事であるのだから、作品がそれを裏切ったら繁栄はないんだ、と。信用を重視し、みごとに仕事を成し遂げるゴルゴ13の、その作者らしい言葉だな、と私は感じました。 一定の質をわらない、下げない矜持と能力ということを考えます。 日々微向上というのは、そのために明らかに有効であろう在り方ですね。 かつて、将棋関連の本を読んでいて、二つの(考え方の違い〉を面白く思ったことがあります。升田幸三(昔の天才棋士)について訊かれて、片や、佐藤康光氏(プロ棋士)は、その当時天才であろうと、現代の最先端には何の参考にもならない。そこから得るものはない、と(けっこうハッキリした発言をしたとインタビューした記者が書いていた)。 同じ質問に対して、片や、羽生善治氏(現代の天才棋士)は、升田幸三がもし今も生きていて、第一線で我々(A級棋士)と、しのぎを削っていたら、鬼手炸裂のあの才能を、現代において発揮したであろう。我々が、その升田幸三に勝てるかはわからない。と。羽生善治氏は、升田幸三の当時の芸術的ともいえる棋譜からも(本質を)学べる、と言っていたように私は記憶しています。 本質的に変わらない質を、発現し発揮する力をもつ本質というものがあり、 それに気づかないヒトと、気づく人がいる。 どこか、本質を共有する者だけが、互いに互いを分かり合えるのかもしれません。 * 中学生の頃、ミュージシャンのアルバムを買うと、十数曲入っていても、いい曲は二曲くらいしかなくて、名のある人の詩集というものを、いくつか読んでみても、名作は、二本くらいしかなかったり・・・、パレートの法則が支配しているようなので、 作品が粒ぞろいだったり、出来が良くて均質だったりする人も、また二割くらいしか居ないのでしょう。 ただ、 平均が高めの人は、その作品の二割のうちに、世界的傑作を作り出す可能性があるのかもしれないし、 平均が低すぎるヒトも、二本は、普通のものが書けるかもしれない。 * ある水準に達するとは何か、という問題がそこにはあるようです。 その水準を超えたものは、そこより下がらないように質を保てばよいので、 ずーと向上しても良いが、しつづけねばならないわけでもないからです。(微向上という感覚は良い指針になる) 水準を超えてないものが、質を保つとけっこう悲惨ですが、やはり(微向上という言葉は救いになる) そんなことも思います。 * by ハァモニィベル 参照先不明 参照先不明 石村さんご返信感謝。>>49 想定するオーディエンス について
>自分の聴衆が誰なのかを明確に意識しながら詩を書いている人も当然いるでしょうが、 ここは、ピンと来ない感じ、ですね。積極的にも「明確に〔も〕意識」してない というのが、むしろ私です。そういう「意識」は逆に私には驚きですね。 例えば、応募するとしたら、傾向を考慮しますが、それは「読者を」ではないですね。 (詩誌に応募したことはまだ一度もありませんが) >「投稿欄の選者」か「自分が参加しているコミュニティーの人々」のみが現実の読者 こういう現実の読者をいちいちに想定しては、とても書けませんね逆に。 わたしが漠然と想定するのは、「ごく普通のまともな読者」というイデアなのだろうと思います。そういうイデアな彼と彼女たちに向かって書いてる意識はなんとなくあります。 そういう風に、わたしは作品を書いていると自分で内省しますが、 いわば、聖なる読者にむかって書いているのであって、俗なる読者は眼中にないですね(笑) 「眼中」にも「意識の中」にもないのは、そういう人達を具体的に一人も知らないせいもあると思いますが。 * もっと踏み込んで説明してみると、こんな感じでしょうか。 これまで、わたしは、小学生くらいのころからずっと読書してきましたが、それこそ、手塚治虫、永井豪、本宮ひろ志などのマンガから、古今の文学、批評、哲学、その他(列挙したら切りが無い)にいたるまで、諸々あるわけです。それらの、偉大な作者(書き手)たちが、こちらに向かって表現しているのを読んで来て、〈彼ら書き手が 向かって書いている読者〉というものを、わたしは読みながら、どこかに感じてきたんですね。 そういう偉大な(というか私が認めるような)書き手たちが、想定してきた、読者なるもの、のイメージを、わたしも、自然にというか、勝手にというか、じぶんのイメージの中に連鎖的に持っているのだと感じています。 そういう、反射した歴史的厚みを持った〈読者〉が、わたしの想定する読者(観客)なのだ、 と言ったら、解ってもらえるでしょうか? ** >>50 蛾兆さん コメント感謝。 むしろ文学は、精一杯負ける者にこそ微笑む哀しい栄冠のはずです。 選りすぐられた古典・名作に勝てないとすれば、その負け方で負けているんでしょう。 人生に勝つような感覚では、名作には勝てないのはそのためです。無痛分娩できるほどヤワでなく、 無痛分娩が増えるほど、滅ぶでしょう。 * (補足) オーディエンスを広く漠然と想定しているのが私ですが、 具体的な像のほうは、 コミュニティーの経験に沿って消去法のなかに具体化してきたりします。 例えば、キャッチボールの下手なヒトには読んで欲しくないなあ、 みたいに、消極的な形で、負の具体像がちょっと垣間見えたりします。 * by ハァモニィベル 参照先不明 参照先不明 参照先不明 ぼやくなら(嘆くにせよ)本音でありたいものだ。 堂々とする勇気がない、というのは本音だろう。 「詩人でいてください」は、詩人であってほしい、という他への祈りだろう。 「詩のめざすところ」は、詩がめざしてるのでなく、詩をめざしてるんだろう。 偽装して飾らないことは、めざしたいところである。 という本音の独り言。 by ハァモニィベル 石村さんへ。書き込みしてたのですが、いつか詩にできそうなので、削除しました。ぼやきとか、愚痴とは違うきがしたから削除しました。もし、もう 読んでおられたらごめんなさい。 by るるりら 参照先不明 参照先不明 >>62 石村さんが レスポンスをくださったので、ほかの読者の方々にもうしわけありませんし、一度は削除した書き込みを 復旧しておきます。 以下は、今朝の書き込みです。 **************************************** おはようございます。昨日は、河原で パアベキューをしました。 台風を心配していたのですが 台風の進行が遅くて たすかりました。 その河原は 私の住まいと それほど遠くない場所にしては、美しい景色でした。 参加者は みな大の大人だったのですが、だれからともなく 河原で石を積みだしました。 尖がった方を下にして重ねたほうが あやうい造形となり、うつくしいのです。 あたり一面に 微妙なバランスの 積石ができました。 「風がふけば、すべてが 一斉に 崩れて うつくしい音楽になるはずだ」と 仲間が教えてくれました。 人は ときには、風景に音楽を 加えます。 台風がいつくるかもしれない状況です。 いま、あれらの石は みな 立ったままなのかもしれません。しかし、もう 夜中の河原で 音楽は おきていたかもしれません。 いままさに、わたしたちの夢想した音楽が あの河原で 発生しているかどうか解りません。 とにかく石を倒すのにふさわしい最初の風で 音楽は うまれるはずなのです。 風景と人とか 和合してつくる 一目につかない 聞くこともできないが確かにある刹那の音楽。 こういったことも、詩のめざすところかもしれないです。 by るるりら なぜ、わたしが、 >>60 のように(ぼや/嘆)いたかと言うと、 >>65で復旧された(元No59であった)記事を読んで、 読者として腑に落ちなかったからです。 とくに、石村さんの発言の後にUPされた内容として 違和感が強かったわけですが、 * それを批判するという無駄なことをする意図はなく、 わたしの感じた違和感を表明しただけで、 それ以上の意味はありません。 独り言だと断った所以です(END)。 by ハァモニィベル 一度は削除した理由は、ベルさんの感じておられた違和感を 私自身も感じたからではありますが、 でも 実は 石村さんの文章と無関係では無いです。 わたしは 河原での石積みをする人々の姿をみながら 石村さんの文章>>58を 想っていました。 心というものは とらえるのが難しいので、ガラスに置き換えてみます。 ゆがんだガラス壊れかけのガラス、汚れたガラスや 特殊加工がほどこされたガラスを通すと、実像はつかみにくくなります。ノーマルのガラスでないと 実像はつかめないです。 わたしの心は 汚れているかどうかが 正直いうと わからないです。 とりあえず、なにを美しいと感じているかは 分かります。 自然にとけこもうとしてなのか石積みをしている人を見て、私は 美しいと感じました。 バランスを探る姿は、大地と天を結ぶ糸をみようとしているような感じもしました。 石を直立させようとしている人の心は 立っているとも、感じました。 そのような人の存在する風景は、美しいと 思いました。 どんなに美しい風景であったとしても はたまたどんなに殺風景で退廃的な景色であったとしても アンテナの立っている人の存在する場所(石を積む人のいる景色など)のことを、わたしは きっと美しいと思ってきたはず。 人は 人をとおして 風景にたいして良い感情をもったり その逆である良くない感情を持つようなところもあると思うのです。 わたしの心は、ゆがんでいるかどうかわかりません。汚れているかもしれない。。 でも、大自然の中で アンテナの立っている人の存在する場所(石を積む人のいる景色など)のことを、わたしは 美しいと感じた。心から美しいと思える風景の中でみた人の姿を想起すれば、自分のアンテナの立て方だけはきっと 思い出せる気がしています。 ぜひ 詩人のみなさんにも 綺麗な風景を実際に 探して体現してほしいです。 わたしの場合は 昨日よりも すこしだけ、醜い 色々なものとも戦えるような気が しはじめています。 by るるりら 参照先不明 るるりらさん。間接的にしても心労にご負担をかけ申し訳ない。尊敬の念を持たれるのはたいへん光栄でありがたいのですが、一方、尊敬に値する人物が投稿してまで悪口を書き込みますか? しかも書き込む相手はこちらにも在する一無名の投稿者です。作品の批評で名前を持ち出されるならまだしも自作のコメントについて人物像を勝手に誹謗中傷している。それが幾度もです。 少なくともわたしは思いやりがあるので、名前を挙げてまで作品に投稿するならば、悪意が窺える内容では書き込みはいたしません。 嫌がらせに対する不快な思い受け取り方は、その書き込みされた本人でないとわからない。 しかも再三注意しても知らぬ顔です。 許さない。あたまを疑います。 詩書きと称する人物の書き込みですよ。 どうしてそのような人物が尊敬に値するのか、わたしには不思議です。 by アラガイs 「詩人とはなにか」を巡る討論をずっとされているようにもみえます。 のちほどお邪魔するかもしれません。こちらでは石村利勝さまの >現代詩人よ。 >あなたが風景になってはいけない。 >どうか、詩人でいてください。 >「現代」になってはいけない。 >あなたでいてください。 この言葉をゆっくりと噛み締めるのがよいのかもしれません。 詩人としての肩書きをもち、十分に活躍されている方同士も詩人の定義で先日言い争いをしていたのをみました。そのことについて深く考えてみたいと思っていたところです。 詩人に何を期待するかということと、 詩人を自認して何をすべきかという矜持と、 詩人の自認を避ける人が多いのは何故か。 (討論めいた書き方になっていたら申し訳ないです。詩人には到底なり得ないと早々に諦めた者の愚痴です。) by 深水遊脚 メルヘンを書いた後、よくよく考えると童話・メルヘンをネットで 読むのは大人ばかり。肝心の子供の反応がわからない。このへんが 童話・メルヘンのむずかしいところかもしれない。しかし、子供の こころを失っていない、純粋な大人のかたもいらっしゃるようなの で、それだけが救いといえば、救いですが(笑)。 by st 参照先不明 >>85 石村 利勝さま 某所での、童話『マツの木の王子』の話の中で >いわば、詩人としての私の原点です。 >この作品から自分が受けたような感動を、 >本が大好きな少年少女たちに与えるような作品をかき残すこと。 >それが私の終生の目標のひとつです。 ということは、童話をお書きになりたいという事でしょうか。 by st 参照先不明 >>88 石村 利勝さま まさか わたしとおなじことを考えておられたとは! ただ いつかいつかと思っていたら なにかがおきて人生が終わることも あるのです。(年下の者を亡くしたことがあるので、そう思います。) だから、公募かなにかに ともかく投稿されたら良いのにと思います。 by るるりら 参照先不明 >>89 >>90 るるりらさま 石村 利勝さま るるりらさまの詩には、いつも童話的なものを感じます。童話にも 挑戦してみたら?。石村 利勝さまの詩にも、時々童話的なものを感じ ます。この感じを、物語りとして展開してゆけばよいと思います。 とはいえ、起承転結などの感動するストーリーの構想力が必要ですね。 by st 石村さん。ルリデンですか? おもわず、爆笑でした。 必殺、謎のネガティブ商法❗ですね。 あはは by るるりら みなさま、シャボン玉の推薦図書がおわったのなら、夏休み読書感想文も 一読者として、楽しみです。 by るるりら 参照先不明 瑠璃殿 ^^ by アラガイs 参照先不明 * 安易なコメント は 真摯な作者 に 苦痛を感じさせるものだ。 コメントのあり方や質(それは「読む力」に絡む)という問題を1つには孕んでいる。 もう一つは、「素知らぬ顔存ぜぬ顔で何の答弁もしない」ということを批難していた者が、 素知らぬ顔存ぜぬ顔で何の答弁もしないのは、どういうことなのか、という問題も孕んでいる。 一見、ローカルな話題に見えて、問題の根は深い、ということに周囲が気づかないとしたら それも又滑稽なひとつの話であろう。 ローカルな言葉の持つデノテーションとコノテーションは、土地の人間にしか触れえないニュアンスを 含むだろうが、そこに符牒としての意味あいを指し示してもいる。 「ルリデン」という語は、〈懐旧感〉と、〈愚劣なリフレインのCM〉というローカルなコノテーションを 共通感覚として喚起する面があることは確かであろうから、 評者と作者のあいだで、当該作品の題名と本文の関係をめぐる読解について、 深く議論されるのが望ましいところであろうが、 コメントが、批評というあるいみ崇高なものでなく、たんなる野次に等しいばあいは、 遺憾なことではあるが、おそらく掘り下げに耐えきれないに違いない。 * by ハァモニィベル 参照先不明 ≫127 石村さん、達者にやっておられますかあ。 しつこいようですみませんが、またまた 瑠璃殿の話題です。 今回は、あらためて あの話題に対して お礼を言いに やってきました。 瑠璃殿の話題で一番、心が高鳴っていたのは 私だと思います。 だって、何年も私は「るりるりるりるり」言ってきたんですもの。(ハンドルネームのことですよ) スマホで 石村さんが「薬師瑠璃光如来」と書いておられるのを旅先で確認しました。 そのとき、私はホテルのロビーにいました。 眼前には 日本の屋根である中部地方の立体地図がありました。 そこに「薬師岳」という文字を見つけたんです。その地図を よくよく見てみたら 私が先日「あいづち」という作品で 幻視したと書いた稜線そのものがあったんです。 富山から 飛騨山脈を ある程度の高度を持った視線で俯瞰したなら、私が夢の中で観た稜線そのものになることがわかりました。 地図によると、私が幻視した石英の湖にあたる場所に、ほんとうに湖が書き込まれていたのです。びっくりしました。たまに、ふつうの人間が 千里眼になることがあるのだと 私は思いました。 すごく不思議です。ありがとうございました。 by るるりら 石村 利勝 師匠の応援団?としてこのフォーラムに参加していますが、 本人がお休みなので、私もしばらく休みます。てゆうかデジタルカメラ のブームで、中古市場が激変して、所有するライカの資産再評価調査で かかりっきりなのですよ。それにしても1本26万円のレンズが350万円 に高騰するとは----。このレンズはあまり人気がなかったので、殆ど の人が購入していないでしょう。くやしい(笑)。ボロもうけだったのに。 グチグチ。 by st 石村さーん。おかえりなさいませー 。 あれは「何かのお導き」というやつなのでしようね。 わたしは、他人が見たという事柄や観念を かならずしも信じはしないです。けれど、 わたし自身が見たものなら、おそらく どんなへんてこでも事実として信じちゃいます。 たっぱの高い詩とはなんだろうかとかいったことに、 おもいをめぐらしていた時間や、「景色になるな」という石村さんの詩の言葉のおかげで、 私は背筋が しゃんとした気持ちでした。 思うに、景色をちゃんと見ようとする人は 景色ではないです。景色を見る人です。 わたしの世界は狭いです。 目の不自由な母の目の代わりを務めている私です。 私の毎日毎日に出会う事柄は、なんて矮小な世界だろうと 感じている私です。 ですが、私には私の見たい世界が あることを知りました。 わたしには遠くを見る力があると思える確かな映像が、この胸にある。 このことは、わたしにとって なんと心強い宝を得たことでしょう。うまく言葉にはできないです。 どんなに めまぐるしく私に理解できない事柄が、これから先の わたしの周囲に現象としてあらわれたとしても、そのせいで気がちがいそうになることがあったとしても、わたしの心には たっぱのしっかりとした山や大地がある。 こんな ありがたいことは無いです。 ありがとうございます。石村さんの詩が また 読ませていただけるなんて 楽しみです。 by るるりら 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 わたしは、鳥のウソについて、書いたことがあります。そして、調べが あまかったと すでに、もうしあげています。 また、ある対話文章なかに、キモオタという表現をみかけたことがあり、メールにて 意見させていただきましたら、そこは 理解していただけました。 ウソの鳥についての再燃は、ご勘弁いただけたら幸いです。 by るるりら 参照先不明 なお、途中、送信ボタンに手があたり、失礼しました。 by るるりら 関係ありません。お邪魔しました。 by るるりら ノーコメントと、させていただきます。 失礼しました。 by るるりら しばらくして、訂正をいれたかのように 見えても、わたしは 即座に 訂正したつもりです。 by るるりら ここはぼやく場所です。レスレスは必要無しのはず。 烏の話については、詩作のなかで昇華しましょう。そうすれば辻褄も合うでしょうに。 僕も、そうして見ました。 by りゅうのあくび コホウさん 錯誤の問題を追求するのは、勘違いも甚だしい無礼です。 貴殿には、無責任問題を追求する必要を感じません。 詩作に役立つためであればこそのこの場所です。違いますか? るるりらさん 錯誤の問題であれば、すんなり対応すれば済む問題です。 他言は必要ありません。これは無責任問題でしかありません。 現況優先の問題なだけです。 by りゅうのあくび コホウさん 都合のいい言い掛かりはやめて頂きたいと伝えているだけです。 これを超えると、明らかな規則違反です。 by りゅうのあくび 参照先不明 もうしわけありませんでした。 陽鳥と、からすのことを いったリアルな人物がいます。その人が オモキタといわれるのがしのびなく、蛾兆さんに お願いしました。 孤蓬さんに、配慮して 訂正をお願いしたのではないです。 しかし、 、孤蓬さんを 侮辱する気持ちも、いっさい ありません。 では、なぜ オモキタの話題をしたのか。 理由は無いです。ノーコメントと こたえるしか ありませんでした。 by るるりら おなかへった。 ひとりで味噌汁を作るとあますんだよなぁー。 by 田中修子 ネットストーカーと批評コメンテイターの違いには、何らのガイドラインはないのですかね。 by りゅうのあくび 参照先不明 私は、やはり、ここで、詩作を仕事として、意識的にしたいと思っている人間のひとりです。ですが、そういった前向きかつ生産的な事情を考慮できない状態です。仮想的な係争状態を脱却するため、私の仕事でもある詩作活動を揶揄する人間については、フィルターをかけて、対応しますのでよろしくお願いします。では、該当する方々は、ご承知置き下さい。今後とも、皆さまよろしくお願い申し上げます。 by りゅうのあくび 長編童話詩で、とある児童文学賞で金賞取ります!と来年は神社でお祈りしますので、神さまよろしく。神さまよろしく。神さまよろしく。チャリン。←5円玉。 by りゅうのあくび わたしも 来年は とある童話賞をとるんだもん。竜野さんと かぶってる賞やったらと おもうと、こわくて 具体的には 言えない。 わっはは。 by るるりら 参照先不明 もんしろちょうでした。えー異常気象ではなくて、成虫越冬の種類だったのかしら? by るるりら おなかへったおなかへったおなかへったおなか…… 石村さん、 こんな大変な、 でもぶつぶつつぶやける ところの管理、いつもありがとうございます。 おなかへった。 by 田中修子 役に立つ詩というものがあるのですねー。 最近発表されたレシピ詩。 詩の新たな可能性を切り開くものかも。 私の詩"鏡の世界"も少しは役に立つもの かもしれませんが、役に立つ詩というのは 今のところ思い浮かびません。 by st >>259 stさん、レシピ詩に目を止めていただきありがとうございます。「レシピ詩」という言葉はまい子プラズマさんの「ケーキは何故ケーキなのか」という詩のコメントを書いている時に自分が書いている詩の特徴をわかりやすく簡潔に伝える為に考えました。 レシピが書いてあるということはあまり新しくもないかも。歌詞ですが、アニメの「キテレツ大百科」の「お料理行進曲」はコロッケを作るレシピになっていますが最初聞いた時には「こんなのあり?」と驚きました。私はこの歌は知っていてカラオケでも歌います。 役に立つ詩については、ここは理系も多い詩の投稿サイトですが、「数学を勉強する意味」同様難しいです。わたしのレシピ詩についていえば「花は愛でたり見て楽しむもので食べるものではない」という指摘はありそうです。聞き流しますが。 stさんの「スクリプトと詩の力」にコメントしようとしていたところこちらにも書かれていたので会議室の方にコメントしました。ありがとうございました。꒰•ི̫͡ુ•ྀૂ꒱ by 鵜飼千代子 鵜飼さん、わすれたくないので 一言日記に題名とお名前をメモさせていただきました。いま つくれるはずもないので 庭のキンカンを収穫して リカーにつけることで 我慢しようと 思います。ぺこりん。(礼) by るるりら >>260 やはり「レシピ詩」というのは鵜飼さんの新造語でしたか。 さすがに創造力豊かですね。 私もスクリプトだけでなく、詩でも役に立つものを考えて みたいと思います。 実は最近、役に立つスクリプトだけに関心が向かい、詩は 作る気がしなくなっていたのです。そんな時に、詩にも役 に立つものがあるということがわかり、驚いたという事です。 ありがとうございました。 by st るるりらさんの事件など、なにやらわけのわからない ことが多くなってきました。私も去ります。 皆さん、お元気で。 by st 鵜飼さん、キンカン酒をつけましたわ。わたしも 辛口ですわ。 やっぱ、すこしは氷砂糖も いれましたわ。 のみごろが。わかんないです。7 by るるりら >>268 飲み頃を聞かれていたんですね。 「今が飲み頃」とばかり直ぐに飲んでしまって(仕込んで1時間後に飲んでもおいしいと思えれば飲み頃)熟成されたまろやかな口当たりの自家製酒を飲んだことが無いですよ。 自家製酒の飲み頃はわたしも今後の為に知りたいので、経験や知識のある方はアドバイスくださいな。꒰•ི̫͡ુ•ྀૂ꒱ わたしが知っていることを少し書きます。 中国の金木犀のお酒は白ワインに金木犀を三年漬けたものらしいです。 ホワイトリカーに漬けた人では具を除いた後3ヶ月後くらいは香りが良かったけれど マイルドさではもっとまった方が良いような意見がありました。 香り、舌触りなど味わって「わたしはこれ!」としたらいいのでは? 自家製のお酒は誰も同じ条件では真似出来ないから、いつのどの味をとっておき!としても るるりらさんの密造酒レベルのとっておきさは誰も立ち入れないと思います。 これこれ!最高!って味に出会ってしまったら、同じ味には辿り着けないかもしれないけれど、今からメモしておいてデータ教えてください。真似してみます。꒰•ི̫͡ુ•ྀૂ꒱ by 鵜飼千代子 >>270 一言日記を書いた日(1/6)に漬けたのですが。 仕込んで1時間後に飲んでもおいしいと思えれば飲み頃ですね。 すこし、氷砂糖がのこっています。 机に置いて じっとみていると養分の差で ビンの中で 海底海流のようにゆっくりとした潮流のようなものがみえて綺麗です。 鵜飼さんに たのしい時間のプレゼントしていただいた気分でいます。ありがとう by るるりら 参照先不明 なにもかも忘れていて、すいませんでした。 by るるりら 誰かとゴッツンコしたらいいのかなと思いました。 親しい仲ではゴッツンコで親しさが治ります。 ゴッツンコが詩作では出来ませんね。なかなかね。 いやはやいやはや。れれれのれ。 by りゅうのあくび 参照先不明 参照先不明 参照先不明 ≫305 鈴木 海飛さんへ 文学極道のあなたの妹分て、だれですかああああああ。 まさか ツァンツイ(たしか、このカタカナであっていると思うが、)と似とうたわれている あの方かあ! もし あの方が私のスレにきてくれたら 嬉しすぎる。 ここのスレ主の石村さんに その方と縁を引き込むには わたしがどうすれば良いかと相談したことがあるのだあ。 へたれなんで、全然 実行できてないっ。 あの人を呼び込んだら、神棚にカイトを祭るよ。 by るるりら 最新作は、たなかさんと カイトのおかげです。 by るるりら 廃人スレ、なんかおかしいのか? by 花形新次
★゜*。。*゜☆゜*。Teardrop Field 。*゜★゜*。。*゜☆ コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ ― 井伏鱒二 <ご利用のガイド> べつに誰に、というわけでもないけれど、ぼやきたい、愚痴りたい、嘆きたい「ひとりごと」を自由にかきこむ場としてご利用ください。 <ルールのようなもの> 1. 自分のコメントにレスが付いた時に、レスレスをする義務はありません。しなくても、ここでは非難の対象にはなりません。 2. 誰かのコメントにレス(励まし、慰め、同情、共感、助言など)を入れるのは自由です。 ただし、そのレスにレスレスが付かなくても、怒ってはいけません。 レスレスがもらえなかった悲しみを「ぼやく、愚痴る、嘆く」のはOKです。 3. レスのやり取りから雑談、人生相談などに発展しても構いません。当事者間の合意でご自由に。 でも、けんかはなしね。けんかしたい時は、この野原の外でお願いします。 4. 当事者や第三者に対する攻撃、非難、抗議、侮辱、誹謗中傷、脅迫などは禁止。 該当するコメントはスレ主の判断により通知なしに削除される場合があります。 5. その他、スレッドの趣旨に適合していないとスレ主が独断と偏見で判断した場合、通知や予告なしでコメントを削除する場合があります。 コメントの削除に対する「抗議」は禁止ですが、それに対する「ぼやき、愚痴、嘆き」をコメントするのはOKです。 6. スレ主の任意(きまぐれ)でルールは改変されたり追加されたりするかもしれません。 石村さんへ。書き込みしてたのですが、いつか詩にできそうなので、削除しました。ぼやきとか、愚痴とは違うきがしたから削除しました。もし、もう 読んでおられたらごめんなさい。 ぼやくなら(嘆くにせよ)本音でありたいものだ。 堂々とする勇気がない、というのは本音だろう。 「詩人でいてください」は、詩人であってほしい、という他への祈りだろう。 「詩のめざすところ」は、詩がめざしてるのでなく、詩をめざしてるんだろう。 偽装して飾らないことは、めざしたいところである。 という本音の独り言。 石村さんご返信感謝。>>49 想定するオーディエンス について
>自分の聴衆が誰なのかを明確に意識しながら詩を書いている人も当然いるでしょうが、 ここは、ピンと来ない感じ、ですね。積極的にも「明確に〔も〕意識」してない というのが、むしろ私です。そういう「意識」は逆に私には驚きですね。 例えば、応募するとしたら、傾向を考慮しますが、それは「読者を」ではないですね。 (詩誌に応募したことはまだ一度もありませんが) >「投稿欄の選者」か「自分が参加しているコミュニティーの人々」のみが現実の読者 こういう現実の読者をいちいちに想定しては、とても書けませんね逆に。 わたしが漠然と想定するのは、「ごく普通のまともな読者」というイデアなのだろうと思います。そういうイデアな彼と彼女たちに向かって書いてる意識はなんとなくあります。 そういう風に、わたしは作品を書いていると自分で内省しますが、 いわば、聖なる読者にむかって書いているのであって、俗なる読者は眼中にないですね(笑) 「眼中」にも「意識の中」にもないのは、そういう人達を具体的に一人も知らないせいもあると思いますが。 * もっと踏み込んで説明してみると、こんな感じでしょうか。 これまで、わたしは、小学生くらいのころからずっと読書してきましたが、それこそ、手塚治虫、永井豪、本宮ひろ志などのマンガから、古今の文学、批評、哲学、その他(列挙したら切りが無い)にいたるまで、諸々あるわけです。それらの、偉大な作者(書き手)たちが、こちらに向かって表現しているのを読んで来て、〈彼ら書き手が 向かって書いている読者〉というものを、わたしは読みながら、どこかに感じてきたんですね。 そういう偉大な(というか私が認めるような)書き手たちが、想定してきた、読者なるもの、のイメージを、わたしも、自然にというか、勝手にというか、じぶんのイメージの中に連鎖的に持っているのだと感じています。 そういう、反射した歴史的厚みを持った〈読者〉が、わたしの想定する読者(観客)なのだ、 と言ったら、解ってもらえるでしょうか? ** >>50 蛾兆さん コメント感謝。 むしろ文学は、精一杯負ける者にこそ微笑む哀しい栄冠のはずです。 選りすぐられた古典・名作に勝てないとすれば、その負け方で負けているんでしょう。 人生に勝つような感覚では、名作には勝てないのはそのためです。無痛分娩できるほどヤワでなく、 無痛分娩が増えるほど、滅ぶでしょう。 * (補足) オーディエンスを広く漠然と想定しているのが私ですが、 具体的な像のほうは、 コミュニティーの経験に沿って消去法のなかに具体化してきたりします。 例えば、キャッチボールの下手なヒトには読んで欲しくないなあ、 みたいに、消極的な形で、負の具体像がちょっと垣間見えたりします。 * 石村さん 「いつ来てもうまい」が変わらないために、微成長をつづける、 というのは、名人・達人たちの暗黙の法則を取り出した格言として感銘ぶかいものがありました。 劇画『ゴルゴ13』でお馴染みの作者さいとうたかを氏は、(TVのインタビューで)20年以上前の『ゴルゴ13』の頁を開いて、「この頃は、上手かった」と、まあ半ば洒落、なかば本気で、つぶやいていました(微笑み)が、 そこで、さいとうたかを氏は、こうも述べられていたのが印象深かかったです。 映画とか書籍を売るというのは、お客から先払いしてもらう仕事であるのだから、作品がそれを裏切ったら繁栄はないんだ、と。信用を重視し、みごとに仕事を成し遂げるゴルゴ13の、その作者らしい言葉だな、と私は感じました。 一定の質をわらない、下げない矜持と能力ということを考えます。 日々微向上というのは、そのために明らかに有効であろう在り方ですね。 かつて、将棋関連の本を読んでいて、二つの(考え方の違い〉を面白く思ったことがあります。升田幸三(昔の天才棋士)について訊かれて、片や、佐藤康光氏(プロ棋士)は、その当時天才であろうと、現代の最先端には何の参考にもならない。そこから得るものはない、と(けっこうハッキリした発言をしたとインタビューした記者が書いていた)。 同じ質問に対して、片や、羽生善治氏(現代の天才棋士)は、升田幸三がもし今も生きていて、第一線で我々(A級棋士)と、しのぎを削っていたら、鬼手炸裂のあの才能を、現代において発揮したであろう。我々が、その升田幸三に勝てるかはわからない。と。羽生善治氏は、升田幸三の当時の芸術的ともいえる棋譜からも(本質を)学べる、と言っていたように私は記憶しています。 本質的に変わらない質を、発現し発揮する力をもつ本質というものがあり、 それに気づかないヒトと、気づく人がいる。 どこか、本質を共有する者だけが、互いに互いを分かり合えるのかもしれません。 * 中学生の頃、ミュージシャンのアルバムを買うと、十数曲入っていても、いい曲は二曲くらいしかなくて、名のある人の詩集というものを、いくつか読んでみても、名作は、二本くらいしかなかったり・・・、パレートの法則が支配しているようなので、 作品が粒ぞろいだったり、出来が良くて均質だったりする人も、また二割くらいしか居ないのでしょう。 ただ、 平均が高めの人は、その作品の二割のうちに、世界的傑作を作り出す可能性があるのかもしれないし、 平均が低すぎるヒトも、二本は、普通のものが書けるかもしれない。 * ある水準に達するとは何か、という問題がそこにはあるようです。 その水準を超えたものは、そこより下がらないように質を保てばよいので、 ずーと向上しても良いが、しつづけねばならないわけでもないからです。(微向上という感覚は良い指針になる) 水準を超えてないものが、質を保つとけっこう悲惨ですが、やはり(微向上という言葉は救いになる) そんなことも思います。 * 読者(観客)を意識しない世界が、それを意識しつつも失敗をくりかえす 一時的な練習の場、稽古場であるなら、其処にあるのが、ぴんきりでも当然だし 仕方ないであろう。 しかし、読者(観客)を意識しない世界というのが、自分だけ、あるいは、 自分たちだけの垂れ流しの場であるなら、それは何か別の用途のケアホームだ。 稽古場は嫌だが、ケアホームでほのぼのしたい(悦に入りたい、とまでは言わない) そういう世界や心性を他人が持っていてもべつに私は否定したりはしない。 2つの世界を往復しながら細々と保つというひともいるだろうから。 しかし、(いずれにせよ) まともな読者のいない処には、まともな書き手もいない のである。
>>34 蛾兆ボルカさま 数式で書いた詩について講師の方が"これはつまらないな。"、 "もっと、・・・叡智を見せて欲しいな。"と述べられた意味を 考えてみました。 私も講師の方と同じ意見です。叡智とは哲学的なことと解釈し ますが、数式自体ではなくその哲学的な思想を詩にするのが良い と思います。 例えば数学の最も重要な基本的なもの、無限論や論理学です。 この分野は古くから哲学者も参加しており、現代においても尚、 未知の部分があります。 無限論においては、数学者はふつう実無限派に属します。可能無限派は 少数ですが確実に存在します。古代の哲学者もそうでした。 実無限の殆どの定理は、可能無限では意味がないか否定されるという、 ほぼ相反するものなので、数学者は最初にどちらか1つを選ぶのです。 一般の数学愛好家でも、数学の歴史に興味のある人を除いて、やはり どちらかを選ぶのがふつうです。数式で詩を書き、公理的集合論を知り ながら、最も重要な最初の選択である、無限に無頓着(無知なのかも)な 人間がいるようですが、驚きます。 しかし、数式を引用し、哲学的にして、まるでどなたかの引用詩のようにして 利用するのは、面白いかも知れません。どなたかも、それで興味をお持ちのよう ですね(笑い)。 名前変えたら、誰も気付かなくなった。 孤蓬さん キャッチボールの下手なひとって、私は嫌いなんですが、 あなたはどうですか? 例えば、キャッチボールの下手な人は、この質問にたいして どんな風に答えるもんなんでしょうか? # 下手である以上に、出来ないのかも知れないけれど。 * 知識という墓石にばかり目が行く者には、ソクラテスの〈考える力〉のほうは目に入らないらしい。ソクラテスが賢いのか、プラトンが賢いのか、興味深いところだが、 ソクラテスやプラトンの「性根」が問題なのだとしたら、それは読者の問題である。 * 織物は横糸と縦糸から成る。死んだ筈の「作者」を問題にする嗜みの無さはまあ仕方ないとして、それでもまあ、「作品」「作者」は、知識的な横糸に関する話だ。だから、それを話題にする場合には、「なんぞ読んでいなくても」などという立場は、解っている人ならばとらない。 「なんぞ読んでいな」いのか、読めなかったのかしらないが、自由すぎる経糸だけをぶら下げて平気なひとたちをよく見かける。縦糸こそ、読者の思考力と感性の賜物だが、か細い縦糸オンリー(しかもいつも同じ様)な平板なひと程「性根」なるものもまた、読者の劣等感やルサンチマンでないか、よく思考してみるといい。 テクストは、作者が書くものなのか、読者が書くものなのか、そもそもよく考えて欲しいところだ。(そういう横糸を交えて議論をするならね) * もっとも、私は、テクスト論も読者論も、もう旧いと思っているけれど。 ヲハリ # 蛾兆ボルカさんの〈叡智論〉は感銘を受けました。 >>30
まったくその通りのようですね(笑)。 「無理解」ということに、どうしても愚劣さがつきまとっている そんな印象を覚えます。 例えば、単純に【賢/愚】という二項対立で狩りをしている者というのは、 人格を否定する奴は「ばか」だ、と言う自分自身が、 「ばか」だと人格を否定する「ばか」な奴だ、と自らを狩っていることに気づかないようです。
という靭やかなエクリチュールが、読み手の中で何ら美しいテクストも創造されず 「無理解」というゴミ箱に消えるようでは、じつに、哀しいかぎりです。 * 物憂さに共感しつつ、 了解です。独自に、深めてみます。 とても 有益な発想をいただけました。ありがとうございました。(^-^)/おやすみなさあい みなさん こんにちは わたしは 企画倒れとなった いくつかの企画を 実行するつもりでした。 たとえば、蛾兆さんの ふわゆる わからない詩企画も、私自身は 書いてみたいと思っていました。もしも、どこかでその企画を実行されるなら 私にも 是非 声をかけていただきたいものです。 わからないと わかるの ハザマに 私はいつも身を置いているような気がします。 ですから、まっこうから 「分からない詩」に取り組むことに、もしかしたら 私の伸びしろがあったやもしれません。 さて、「わかる/わからない」。それは 詩においてだけの話ではないです。 わかった気になっていた事柄に 思わぬ大穴が開いていて まったく理解などしていなかったと知ったりすることは よくあることです。 その逆に分からずにいたことを 考えて続けていたら、ほかの 打破しがたい困難にも大穴を開けることができるような機知を得ることになることもあるかもしれない。 まど みちおさんの 「ぞうさん」の話がでていましたね。私は、その詩の大ファンです。 簡単な言葉で構成されている詩ですが、「わかった」だなんて 言いたくないのは、私が あの詩が好きだからです。 蛾兆さんの紹介してくださった まどさんの お人柄がうかがえるようなお話も うかがえて、嬉しかったです。やわらかな 気持ちをいただけました。ぞうさんという詩が好きなのと 同じ 感触を感じさせていただけて 幸せでした。 まどさんのぞうさんを「わかった」と私は 言いたくないのですが、その逆に わたしは、詩が気に入ったという理由で「わかった」と言ってしまうこともあります。 たとえば、この作品に 私は「わかる」と言いました。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=321251 でも どうでしょうか?「しゅるっ」って 感じを、ほんとうに私は理解しているのだろうか? 分かった気になった あの詩の「しゅるっ」とした感じですが、でも あの しゅるっとした感じは ほんとうのほんとうは 新体操の選手でないと わからないはずです。 人間の身体能力は不思議です。あんな動きは ほかの動物では無理。イメージする力と筋力とさまざまなもので 「しゅるっ」なのだと思います。多くの人間が体現することも無理。しかし体現はできない不可能な動きを、詩で「分かった」と 言わせている。読者に思わせている。 簡単に分かった気持ちになるような事柄って、たいていの場合は ほんのすこし深く考えただけで わからない部分が含まれていることに気がつくもんだと私は 思います。https://www.youtube.com/watch?v=yWl_pbayZjM (動画は、鹿児島実業の新体操演技です。この動画は なぜ 彼らの世代で なぜセブンなのかも よくわかりません♪) 心の新体操。それが 蛾兆さんの 「わからない詩企画」だったのじゃあないのかしら。 そんなことも 思うのです。 # (ほやきの補足) 詩人を見つけ出せるのも詩人であって、 詩人を発見できる人というのは、その人も又詩人だからです。 * ただ、多くは、 その確信がもろくて揺れるひとほど凡人に近く、 その称讃の言葉が、説得力を欠いているひとほど凡人に近い という傾向はありがちですが、そういう人であっても 全く区別のつかない、真性の凡人や、 敢えて区別を搔き消す、仮性の詩人より 確かな詩人だと思います。 * # 真性の凡人は凡人を非凡人として選んでも平気であり 仮性は仮性を選びますが、 詩人を自信をもって見出せるのは、詩人だけです。 その評価感覚が、他人でなく自分にむけられたときもおなじ結果になります。 (それが書き上げる作品の質の違いになって現れるわけです) * >>22 私のような(蛾兆語で言うところの)「凡人」には、 とても書けないであろう 腑に落ちない文書に 拍手しながら、 苦笑しつつ、わたしは失礼します。 ここでは、ボツにはできませんからね(笑い)。 * # 蛾兆さんの愛すべき謙虚さに乾杯。 >>15 >>16 「わかる/わからない」については、私は全然関心がないのですが、 まど・みちお(作詞)の『ぞうさん』にからめて、そのことになぜ関心がないか、考えてみます。 * 『ぞうさん』は、曲と一体化することにより、幼児向けの童謡となることで、みごとな傑作となっている作品ですが、 別段、皆さんがおっしゃるように、「わからないけど」、とは思いません。むしろ、わかりやすい良い作品であると思っています。 子どもたちは、『ぞうさん』を歌うことにより、自分の容姿などの特徴(自分の存在の仕方)が、それが醜いにせよ、秀でたものであるにせよ、親から受け継いだ自分の個性なんだ、ということに気づくわけですから。 詩人というのは、本質を直観できる者であり、優れた詩人の詩を読むと、読者も、上例の如く、その詩によって、本質を直観させれられるわけです。凡人には本質直観はできないので、そういう詩を書くことも出来ないわけです。ところが、凡人と詩人の差をどうしても認めたくないのか、ともかくも、認めようとしない為に、「わかる/わからない」が問題だ、などと言い出すのだと、わたしは思います。(悪口ではありません) 凡人が、本質直観めいた詩のようなものを書こうとして書いたとして、それをみたら、かなり惨憺たる印象が(読者には)あるでしょう。そして、それが堆積したのをみせられると、「詩」というものが本来もっている筈の価値までが、どんどん薄められてゆくことになり、「詩」が可哀想な状況・様相に堕ちこんでいく、ように(わたしには)直観されたりします。正直に言えばですが。 なので、凡人は、「わからない」わからなさ、というのを、精確に、発露していけばいいんじゃないか、と思いますね。その方が、まさに、詩になるんじゃないでしょうか。凡人による凡人のための詩ですね。 もっとも、凡人ではない詩人は、それをもっと巧く詠んだりしますが。 「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行) * 私なりに分類してみれば、 わからないけど、腑に落ちる詩 (詩人の詩) わかるけど、腑に落ちない詩 (凡人の詩的な文書) わからないし、腑に落ちない詩 (文字化けと同等の駄作か前衛ゲージツ) わかるし、腑に落ちる詩 (文学的な詩) となります。 以上の3つ目に注目すると、 これは、人間的なものを排した、無機的な表現を狙っているわけでしょうが、 そういうのは、結局、模様が連続しているのと変わらず、絵画では有効な面もあるが、 言葉の場合は、人間には退屈でしかありません。 さて、傑作『ぞうさん』について。 * 『ぞうさん』を、私が最初に歌ったのは、2・3歳くらい、はじめての童謡といってもいいかもしれません。 母と風呂に入ったときに、よく一緒に歌った(歌わされた)記憶があります。 そうすると、思うのは、 なぜ、「父さんも」ではなく、「かあさんも長いのよ」なのだろう?ということでしたね。 父の方が一本長くてゾウさんに見えましたから。母は2つあってどうも象というよりウシだろう、という感じがしたからです。 まど・みちお は、五歳の頃、ある朝目を覚ますと、母親と兄妹が、彼だけを残して、父親のいる台湾に行ってしまった、 という体験をしています。その後、山口県で、祖父とふたり切りで、小学四年まで暮らしたそうです。 書き手としては、「父さん」にするか、「母さん」にするかどちらにでもできそうで、選択に迷うところです。 どちらが、書き手にはしっくりくるのか?まど・みちおにとっては、ここは「母さん」でなければならなかったのでしょう。 ぞうさん ぞうさん だれが すきなの あのね かあさんが すきなのよ 『ぞうさん』の二番はこうでしたね。そして、二番こそ、こうでなければならなかったのだろうと(わたしは)推察します。 『ぞうさん』に籠められた深いマインドは、切なく孤立した者が繋がりを見つけて安心する、 そういう歌でもあるのではないでしょうか。 * (以上、私見をぼやきました) >>15 蛾兆ボルカさま なるほど、ぞうさんの詩が百年にひとつの傑作とは、驚きました。 愛とか恋の詩が多いなか、かわいいペンギンやシロクマ、アリさん の詩が好きな方の気持ちがわかりました。今後はそのような詩にも 挑戦したいと思います。 ここは優しいですね。優しさの野原をありがとうございます。石村さん。皆さんの書き込みを拝読しながら、目から鱗がおちたり、心が洗われたりの、爽やかな心境に久々に浸らせていただきました。愚痴や嘆きも、優しさやユーモアをくぐれば詩になるとのハァモニィベルさんのご意見や、石村さんの、深い悲しみや憤りも、それを刺々しいまま振りかざすのでなく、言葉で調えようとする試みから文学作品が生まれるのではないかとの考察に、深い感銘を受けました。私自身、とかくささくれだってしまう気持ちを調えることもせず、ふてくされてしまいがちな今日この頃でありましたので、このスレッドを覗いてみて本当に良かったとおもっているところです。「優しいことは強いのよ」と言った宮城まり子さんの言葉を思い出させていただきました。 石村 利勝さん わたしの一行日記のsosに対応してくださってありがとうございました。 渚鳥さんへ 蝶としゃぼんだまスレッドで渚鳥さんが書いておられたが削除をされた わかるにいたるお話を興味深く読んでいました。あのときの渚鳥さんのお話しは、心をかけてくださっている方に聞いていただくことで心の中に明るいものの見方のできる変化が生まれるというお話だったと思います。 私はリアルに体現させていただいていたところだから ふかくうなづきながら読んでいました。 心境が変わったような気分になるのは 一瞬です。わたしは今は気持ちが晴れています。ただ事態が変化するのには 時間がかかる。 わかる言葉には ふたつの種類があると思う。一つは、一瞬で心が明るくなるような「わかった」と、 もうひとつは、実際に事態が良いほうに変化したとき ああこの人は問題解決の秘訣を理解できたのだなあという しみじみとした意味の二つです。 事態が良いほうに変化して初めて 物事をわかったということになるのだから、わかった気分の時も あせってはいけない。ときかく前に進もうとしようと思っているところです。 簡単ではないので、あせらないでいようと思います。 ぼやき・愚痴・嘆き もまた、ユーモアという知性とやさしさをくぐれば 文学になる。 でも、そんな強靭な余裕が持てない時やひとも、 この場所はきっとやさしいでしょう。 * なだれ(井伏鱒二) 峯の雪が裂け 雪がなだれる そのなだれに 熊が乗つてゐる あぐらをかき 安閑と 莨(たばこ)をすふやうな恰好で そこに一ぴき熊がゐる * この優しい場所の開設を祝して http://po-m.com/forum/thres.php?did=170262&did2=400 このレスのあとまだ「若い会員は」などの書き込みがあると、管理者の労苦も報われませんね。憶測は温存せずルールを読むなり管理者とコンタクトをとるなどして状況を把握したいものです。私の個人的な価値観には皆さん興味ないかもしれませんが、憶測を憶測のまま放置して恥じない発言が私は嫌いです。 あれれ、"---若い会員はスレ立てられないんです。"だと思って いたら立てられるのですね。 1 2 3 4 5 6 7 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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