ぼやき・愚痴・嘆きの野原[51]
2016 08/30 21:55
ハァモニィベル

石村さんご返信感謝。>>49

想定するオーディエンス について


自分の聴衆が誰なのかを明確に意識しながら詩を書いている人も当然いるでしょうが、
利用できる媒体が特定の「詩誌」かインターネットに限定されている中では、
「投稿欄の選者」か「自分が参加しているコミュニティーの人々」のみが現実の読者である、
というのが現状。すでに「デビュー」している詩人であれば「詩壇の同僚たち」でしょうか。


>自分の聴衆が誰なのかを明確に意識しながら詩を書いている人も当然いるでしょうが、

ここは、ピンと来ない感じ、ですね。積極的にも「明確に〔も〕意識」してない
というのが、むしろ私です。そういう「意識」は逆に私には驚きですね。

例えば、応募するとしたら、傾向を考慮しますが、それは「読者を」ではないですね。
(詩誌に応募したことはまだ一度もありませんが)


>「投稿欄の選者」か「自分が参加しているコミュニティーの人々」のみが現実の読者

こういう現実の読者をいちいちに想定しては、とても書けませんね逆に。


わたしが漠然と想定するのは、「ごく普通のまともな読者」というイデアなのだろうと思います。そういうイデアな彼と彼女たちに向かって書いてる意識はなんとなくあります。

そういう風に、わたしは作品を書いていると自分で内省しますが、

いわば、聖なる読者にむかって書いているのであって、俗なる読者は眼中にないですね(笑)
「眼中」にも「意識の中」にもないのは、そういう人達を具体的に一人も知らないせいもあると思いますが。




もっと踏み込んで説明してみると、こんな感じでしょうか。

これまで、わたしは、小学生くらいのころからずっと読書してきましたが、それこそ、手塚治虫、永井豪、本宮ひろ志などのマンガから、古今の文学、批評、哲学、その他(列挙したら切りが無い)にいたるまで、諸々あるわけです。それらの、偉大な作者(書き手)たちが、こちらに向かって表現しているのを読んで来て、〈彼ら書き手が 向かって書いている読者〉というものを、わたしは読みながら、どこかに感じてきたんですね。

そういう偉大な(というか私が認めるような)書き手たちが、想定してきた、読者なるもの、のイメージを、わたしも、自然にというか、勝手にというか、じぶんのイメージの中に連鎖的に持っているのだと感じています。

そういう、反射した歴史的厚みを持った〈読者〉が、わたしの想定する読者(観客)なのだ、
と言ったら、解ってもらえるでしょうか?


**

>>50 蛾兆さん コメント感謝。

むしろ文学は、精一杯負ける者にこそ微笑む哀しい栄冠のはずです。
選りすぐられた古典・名作に勝てないとすれば、その負け方で負けているんでしょう。
人生に勝つような感覚では、名作には勝てないのはそのためです。無痛分娩できるほどヤワでなく、
無痛分娩が増えるほど、滅ぶでしょう。




(補足)

オーディエンスを広く漠然と想定しているのが私ですが、

具体的な像のほうは、
コミュニティーの経験に沿って消去法のなかに具体化してきたりします。

例えば、キャッチボールの下手なヒトには読んで欲しくないなあ、
みたいに、消極的な形で、負の具体像がちょっと垣間見えたりします。

スレッドへ