2016 08/30 13:10
ハァモニィベル
石村さん
「いつ来てもうまい」が変わらないために、微成長をつづける、
というのは、名人・達人たちの暗黙の法則を取り出した格言として感銘ぶかいものがありました。
劇画『ゴルゴ13』でお馴染みの作者さいとうたかを氏は、(TVのインタビューで)20年以上前の『ゴルゴ13』の頁を開いて、「この頃は、上手かった」と、まあ半ば洒落、なかば本気で、つぶやいていました(微笑み)が、
そこで、さいとうたかを氏は、こうも述べられていたのが印象深かかったです。
映画とか書籍を売るというのは、お客から先払いしてもらう仕事であるのだから、作品がそれを裏切ったら繁栄はないんだ、と。信用を重視し、みごとに仕事を成し遂げるゴルゴ13の、その作者らしい言葉だな、と私は感じました。
一定の質をわらない、下げない矜持と能力ということを考えます。
日々微向上というのは、そのために明らかに有効であろう在り方ですね。
かつて、将棋関連の本を読んでいて、二つの(考え方の違い〉を面白く思ったことがあります。升田幸三(昔の天才棋士)について訊かれて、片や、佐藤康光氏(プロ棋士)は、その当時天才であろうと、現代の最先端には何の参考にもならない。そこから得るものはない、と(けっこうハッキリした発言をしたとインタビューした記者が書いていた)。
同じ質問に対して、片や、羽生善治氏(現代の天才棋士)は、升田幸三がもし今も生きていて、第一線で我々(A級棋士)と、しのぎを削っていたら、鬼手炸裂のあの才能を、現代において発揮したであろう。我々が、その升田幸三に勝てるかはわからない。と。羽生善治氏は、升田幸三の当時の芸術的ともいえる棋譜からも(本質を)学べる、と言っていたように私は記憶しています。
本質的に変わらない質を、発現し発揮する力をもつ本質というものがあり、
それに気づかないヒトと、気づく人がいる。
どこか、本質を共有する者だけが、互いに互いを分かり合えるのかもしれません。
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中学生の頃、ミュージシャンのアルバムを買うと、十数曲入っていても、いい曲は二曲くらいしかなくて、名のある人の詩集というものを、いくつか読んでみても、名作は、二本くらいしかなかったり・・・、パレートの法則が支配しているようなので、
作品が粒ぞろいだったり、出来が良くて均質だったりする人も、また二割くらいしか居ないのでしょう。
ただ、
平均が高めの人は、その作品の二割のうちに、世界的傑作を作り出す可能性があるのかもしれないし、
平均が低すぎるヒトも、二本は、普通のものが書けるかもしれない。
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ある水準に達するとは何か、という問題がそこにはあるようです。
その水準を超えたものは、そこより下がらないように質を保てばよいので、
ずーと向上しても良いが、しつづけねばならないわけでもないからです。(微向上という感覚は良い指針になる)
水準を超えてないものが、質を保つとけっこう悲惨ですが、やはり(微向上という言葉は救いになる)
そんなことも思います。
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