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雑談スレッド7軒目 (雑談系)スレッドオペレーター:片野晃司
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[115]小池房枝[2008 11/16 20:10]ツ
投稿、読ませていただきました。あの、孤蓬さん、敢えてというかわざとでしたら良いのですけど、いえ、良いというか、何かしちゃったかなと反省しなければならないのですけど、蛾兆ボルカさんは蛾兆ボルカ"さん"で小池房枝は小池房枝?
さておき、直接にお話しするのは初めてと思います。書かれたもの全部理解できるわけではないのですが折々にずっと拝読させていただいていました。no.66も有り難うございました。改めまして宜しくお願いいたします。
 

[112]小池房枝[2008 11/16 13:40]
 せっかくリンク貼っていただいたのでこれ幸いと追記です。「てにをは」、これの「て」って今なら「が、の、に、を」に並ぶ助詞の「で」のことだと思うのですけど、古文の「てにをは」レベルってどのレベルで?というのは、ただ単にごく基礎的なこと、という意味でしたら語彙とか発音とか表記とか全部含まれちゃいますけど、そうではなくて文法のことですよね?という意味でした。
 そうだとしたら、語彙は文法とは違って時代とともにどんどん移り変わってきて、はなはだしい例では俗説としてであれ蟋蟀ときりぎりすや豆腐と納豆のようなことが起きたと思われている。だけど、形容詞は名詞の前におくとかこの動詞にはこの助詞を使うとかそういうレベルのことは日本語としてずーっと変わってなくて、だからこそどの時代のどの古語であれ体言には連体形、用言には連用形。そういうのはそれこそ比喩として基本の基本という意味での「日本語のいろは」であって、連体形とか連用形とか言われると分からなくなちゃいがちですけど「きれいな花」と言いたいときに「きれいに花」では変だよねと、そういうことでいいのかなと、そのようなことを考えておりました。
 雅語にも種類かあるだろう、というのは私から見ると語彙の話に見えて、語彙なんかはどの時代も何層にもあってすごそうだなーと楽しみに読ませていただいています。追記終わり。小池房枝 拝。

 ボルカさん皆さんこんにちは。長文読んでくださって有り難う。違和感の話、学校文法の話、「てにをは」のレベルってどのレベル?なのか等々、いっぱいあるのですが毎日長文してると読まれる方もですけど自分も力使い果たしてしまいますので(書くのにものすごい時間かかってます。あげくの駄文・拙文ですが)ぽちぽちと。
 雅語って、ガゴという音がいいですね。たとえば、みやびことば、だとたおやかすぎる感じですけど、がごだと「がごっ」とどうかすると互いに思いっきり齟齬をきたすようで、でも齟齬ってうわっつらじゃなくて話し合えてる証拠かもしれません。
#俚言がついつい狸言に見えてしまうのは秘密です。猥語ではありません。狸語。

 あ、あとひとだつだけ。「吸血鬼ハンターD」はハンターDで切らないで下さい〜。略すなら「吸血鬼ハンター」か、それとも「D」か。ヴァンパイアと、ヴァンパイアを狩るヒトとヴァンパイアの二世、混血、あいのこ、すなわちダンピール、の物語であります。
 

[110]小池房枝[2008 11/15 17:11]佐々宝砂
 一つ前の投稿からの続きです。説明出来なかろうと他がどうあろうと母語については大多数ひとは自分的には何が"正解"で何が"変"なのか知っている。譲りようのない感覚がある。というわけで、でもこれは、母語だけの話。
 覚え方や習い方のせいなのかどうか、ひとにもよりますが、ふつう外国語は母語ほど直感がきかない。理屈があれば別だけど理屈ぬきで自分の心に聞いてみたときに返ってくる答えがない。赤ちゃんがするのと同じように会得していけたら感覚?センス?内的基準?が立ち上がるのかもしれないけれどそれには時間がかかるし、頭の中にあったかもしれない言葉覚え用のスイッチももう切れてしまっている。
 そして同じように、日本語は日本語でも古文などの場合、心の中に自分の文法、自分の感覚があるひとは少ないのではないでしょうか。古文が好きでずっと親しんで来たようなひとたちは別ですが。語彙は、自分の中にある。見聞きしたときに場面や前後や過去知識から意味は分かる。だけど使っていて「それ文法違ってませんか?」と言われたとき、自分の心の中にカタコトやヒトコトずつの言葉があるのは確かだけど、では、文法は?
 だから、ほんとうは慌てる必要も憤る必要もないのです。自分の中に確かにある何かの感覚を、何かを、否定されたわけでもなんでもないのですから。その上で、もし言いたいことや意味したいことに対応する形を古文のやり方に則って作るための物差しが欲しいのならば、外国語を習うときのように学者さんや学校に教わりながら習いながらのアプローチも有用なことでしょう。
 あなたの日本語は正しくない、間違っている、だいいち美しくない、なーんてなこと言われたからって誰も自分の言葉を手放したりはしません。なぜって、だって、自分の言葉なのですから。けれども、ひとぬきでは存在しようも現象しようもないのが言葉たち。言葉たちにも幸せでいて欲しいのです。なんだか変な終わり方ですけど雑談。
 (ちなみにヒトは不幸でもかまわないと思ってるわけではありません。不得手な輩は古文するな外国語するなカタコトするな言葉が可哀想だろーと言っているわけでもありません。ええと、"わけではありません"のところを省いて読んだりコピーしたりはしないでくださいね。お願いします。連続投稿三回終わりの小池でした。) 
 

[109]小池房枝[2008 11/15 16:44]
 すみません、小池です。再々おじゃまします。これもしばらく前にこちらであった、文法が間違ってるっていうのは、文法が間違ってるってことに過ぎないっていう話に関連して、間違い、いろいろな間違い、たとえば文法。文法が間違っているっていうのは、文法が間違っているっていうこと。はい。もしも、そこに文法があるのならば。
 文法はあるとしたらどこにあるのか。それはひとりひとりの心の中に。わぁ、ここでひかないでくださいね。よくある「神様は何処にいるのか」問答ではありません。自分が初めて立って歩いたときのことを覚えている人は少ない。ましてや、説明できる人は。説明できなくても、専門用語なんか知らなくても、わたしたちは自分の中の基準に照らして自分の日本語にとって(母語が日本人のひとは、ですね)何が○で何が×か知っている。
 食べるならタベル。食べないならタベナイ。中には言い間違いでなくタバナイというひともいる。それならそれがそのひとの"正しい"。飲むならノム。飲まないならノマナイ。ノムじゃなくてノムルというひともいるかもしれません。幼児語にあったのか、方言なのか、たまたまそう覚えてしまったそのひとだけの言い方なのか、でも普段は周囲に合わせてノムって言ってるけど自分的にはノムルなんだよなーという場合にはそれがそのひとの"正しい"。
 説明出来なかろうと他がどうあろうと自分にとっては"こちらが正解"。そしてそうじゃないものは"それはなんだか変"。そういう感覚。
 文法はまず、ひとりひとりの心の中にある。言語学者はそれを観察する。共通項やバリエーションや歴史を調べる。それとは別に、教育や政治に携わる人々は彼らの都合からある規範を設定する。入試では入試用の知識が問われる。学者さんたちの研究結果や権力者さんたちのお触れ書のようなものばかりが文法と思われがちですが、まず、最初に、譲りようのないものがそれぞれひとりひとりの心の中にあるということ。そしてそれは実は細かいところでは人それぞれだということ。(既に長文なのにまだ続く。お許しを。許すも何も勝手にやってればって、ああ、そんな・・・。)
 

[108]小池房枝[2008 11/15 13:18]
 おはようございます。こんにちは。よきにはからえ、よいようにはからえ。「ように」だと「はからう」に対する副詞(連用?)成分?ですが、「よう」だけだと形式名詞?か何かなので「よき」という連体形で、そのあと「よう」が落っこちちゃって「よき」だけでも名詞になっちゃった、と考えるのかもしれません。観察結果をどうまとめるかは学者さんたちも様々でしょうから。でもできるならエレガントなのがいいですね。コトは全てエレガントに運べ。これはガンダムWというアニメのトレイズ大閣下のお言葉です。
 それでええと、これ、雑談ですね?雑談ですよね?冗談ありですね?霊媒さんって誰よ、比較解剖学者さんって誰よ、と思いましたが瞬間、あー白川静とか折口信夫とかは霊媒体質だったのかも。橋本進吉は比較解剖学者だなぁまさしく、と素直に納得してしまいました。橋本進吉氏、学校文法のほうではなくて「古代国語の音韻に就いて」のほう、特に。
 日本語の滅びつつある部分はなにか、生まれてきつつあるものは何か、ものすごい勢いで再編成がかかっている最中だとしたらその原動力は何か。どんな言語も程度の差こそあれ変化していくし変化していかないのはそれこそ死語だけですが、菊地秀行という小説家さんの「吸血鬼ハンターD」というシリーズに、こんなセリフがありました。廃墟の天井から、訪問者に降って来た声。
 「去りゆくものをとどめるのは叶わぬ業だが、失われたものに対する礼ぐらいはわきまえたらどうだ。」
 

[106]小池房枝[2008 11/14 19:20]
 小池です。こんばんは。おじゃまします。よきかな、よきにはからえ。辞書ひいてみましたならば「よき」は「よし」の連体形とのこと。ふふふふふ。あれから少しは見覚えて習い覚えて(あれからっていつからかというと乗りし船以来ですね)連体形っていうのは後ろ名詞にくっつくときの形ですね。彼はよき友。よきライバル。でも「よき」だけでも名詞として良いこと、良いもの、だそうです。
 ですけどこれ多分、逆ですね。辞書に載っているから「よきにはからえ」がOKなのではなくて、最初は何形だったにしても名詞としての使い方されちゃってもいるので辞書にも名詞だと載っている。辞書っていうのは「正しいのはこれこれこうってことに決めました!宣言集」ではなくて、往々そういう使われ方だけが目立ちますけれども、本来はただただ謙虚に「ことばに対する観察結果の集大成」なわけですから。

#長野まゆみ作品は、小池さんきっと好きだからと言って勧めてくれたひとがいて一冊読んでみたことがあるのですが、ええと、ちょっと、苦手でした。勧めてくれたひとが何故わたしに勧めてくれたのかは語彙?を見てるとよく分かるのですが、自分語とかたとえば夢枕獏なら夢枕獏語とかって語彙だけの問題ではないのだろうな。文体だけの問題でもないのだろうな、と思われました。
 

[104]佐々宝砂[11/14 05:58]
私は仕事が終わって一服(-.-)y-~
今から寝ます。
今から出勤のかた行ってらっしゃい、お気をつけて。
文語口語の混交についての文章楽しみです。
 

[102]佐々宝砂[2008 11/14 04:25]
現代の口語にも文語的表現は混じっていますね。
小池さんのいう「よきかな」もそうだし、
私がときどき使う逆説の意味の「こそあれ」などがそうです。
「こそあれ」は係り結びだったりします。
そういうのはウソ古語ではなく、現代に残る文語的表現だと思うんですけど、
いかがでしょ。

少し古い歌謡曲にはかなり文語的表現があるように思います。
たとえば、

「過ぎ去りし日々の」(いい日旅立ち)
「悲しきナントカ」(というタイトルいっぱいあります。悲しき願いとか)
「透明人間あらわるあらわる」(透明人間)

私は、こうした多少の文語口語の混淆はかまわんのではないかと思ってます。

#ところで誹風柳多留ですよー。柳樽ではありません。
 

[98]小池房枝[2008 11/13 18:33]佐々宝砂
仮名遣いの話。よきかな、というのは私の口癖の一つなのですが「いいです。」という意味の「よいです。」を「よひです。」と書いたら間違いなんですね。何かの折にRTでこの話になったときに、古文は得意だったという方が「ダメ。ゼッタイ!」と何かのポスターのような仰りようだったので笑ってしまいました。先に「良し」があって「良い」になってるから「良ひ」にはなりようがないんだそうです。ものごとには理由があることよと思って感心させられたことでした。
 

[97]小池房枝[2008 11/13 18:33]
 古語に限らずどんなことばも見よう見まねでなんとなく聞き覚えている通りに使っていたら当然間違えることもあるわけで、でも実はことばって見よう見まねでなんとなく聞き覚えている通りにでも使ってみないことには使えるようにならないのでした。
 使ってみてるうちにプラスマイナスさまざまなフィードバックをうけて自分語を組み立てていく。自分の中の言葉引き出しのどの引き出しにいれておくか、いつどうやってどんなルールの下に使うかルールなしでいくか等々決まっていくわけですが、フィードバックって多分意味が通じたとか通じなかったとかだけじゃなくて、間違いだったとか間違いではなかったらしいとかだけじゃなくて、何かしてみていいことがあったとかうれしくなかったとか、そんなことまで含めてですねきっと。
 

[96]小池房枝[2008 11/13 18:29]深水遊脚佐々宝砂
 こんにちは。神速レスが飛び交った突発性流星群のような昨晩でしたが、あらためましてno.67のかのっぴさん、合いの手ありがとうございました。no.63-65に連ねたことはあくまでも私の場合。それでもコメントを受け取るひとの気持ちが(一例としてでも)イメージできた、と仰っていただけて書いた甲斐がありました。きっと実際はもっともっと千差万別千変万化で、多分それがひとの心の動きというものでしょうから。
 あんたレベル低すぎ!と思ってらっしゃる方もおいででしょうが、いやほんと古文、古文法、得手不得手以前に、そういうものに対する意識や自覚のない人間(この場合私)もいるのだ、いたのだ、ということをお伝えしたかった。最近の雑談スレッドで、「単なる文法の間違い」や「知識不足から来る勘違い」の指摘というレベルを問題にしているのではないよ。それらを指摘することはもちろん問題ないよ。そうじゃなくて、というお話が/も、何度かあったと思います。
 でもそれこそ「単なる文法の間違い」や「知識不足から来る勘違い」を言われただけの時に、それらを言われただけなんだとすっとわかる書き手ばかりではないだろうと、人間まずは自分を基準にして考えてしまうものですから私などはずっとそれが気になっていたのでした。それがわからないと早くもそこからその指摘に対する単なる反発萎縮その他の世界になってしまいかねませんから。
 「私」「私」という文章も見苦しいものですけど「それ」「それ」「そこ」というのも読み苦しいですね。すみません。ええと・・・。また/まだお付き合いくださったらうれしいです。かのっぴ様。みな様。
 

[95]片野晃司[2008 11/13 12:13]
>>94修正されましたので、現在は問題ありません。ありがとうございます。
sage
 

[93]片野晃司[2008 11/13 07:00]
久和さん、
>それなら、もっと効果的な場所があると思います、適切なサイトが‥
現代詩フォーラムにおいて孤蓬さんの行為は不適切である、と言いたいのでしたら、それは間違いです。現代詩フォーラムを企画運営している者として申し上げますが、不適切ではありません。
現代詩フォーラム内でやっていただいていっこうに問題ないことであるにもかかわらず「余所でやれ」という趣旨の発言をするのは、管理人から見ればいささか問題のある発言に映ります。「現代詩フォーラムには書くな」と言っているようなものですから、フォーラムの運営にはマイナスになります。
 

[91]佐々宝砂[2008 11/13 02:02]
今宵はすてきな月夜です。
一等星もかすむような。
 

[90]佐々宝砂[2008 11/13 00:15]
夜も遅いので寝ましょう。
私は夜勤のひとなのでまだ起きてますけんど。

文法と仮名遣いの問題はまた別だと思います。
たとえばここでいうと、三州生桑さんが口語を歴史的仮名遣いで書いておられます。
私も口語を歴史的仮名遣いで表記することがあります。
 

[84]小池房枝[2008 11/12 23:28]佐々宝砂
 こんにちは。小池です。エネルギー使い果たしてしまったのでいただいたレスへの返事は明日あらためて、と思っていたのですが(かのっぴさん孤蓬さんありがとうございます)、どの辺の文語を孤蓬さんが指標にしてらっしゃるのか、ということについては孤蓬さん例えばこの雑談スレッドの前の雑談スレッドでも書いていらしたと思います。今ざっと見てみましたなら例えばno.979とかです。
 ええと、上代、古代、近代、その他、日本語も時代ごとに特徴や変遷があったわけですが、言葉遣いの違ってる部分だけではなく日本語として通底してきた部分、最大公約数として古語、として括れる部分が確かにあって、その範囲での話をしてるんだよ、ということではないでしょうか。平安時代の古語辞典とか、鎌倉時代の古語辞典とか、時代別古語辞典ってあるのかもしれませんが古語辞典、普通、一冊ですから。古語辞典の中で出自の分かる言葉にはきっとちゃんと○○時代からとかって書いてあるのでしょうけど。
 逆に言うと、それぐらい現代語としての日本語と、それ以前の古語全部をあわせた日本語は隔たっている、ということなのかもしれません。わたし以前に沖縄に住んでいたことがあるのですけど、ちょうど琉球方言がそんな感じでした。今の日本にも北海道から九州までいろんな方言があって、ネイティブの方に全開で話されたらそれこそ互いに通じないくらいいろんなバリエーションありますけれども、それを全部あわせたよりももっともっと違うそうです>琉球方言。それでもやっぱり日本語ですが。ああでも、今でこそ沖縄県ですから沖縄の方言ですけど琉球国だったら琉球語と呼ばれていたかもしれません。
 

[79]佐々宝砂[2008 11/12 23:00]
えっと、いまいきなり思いついたことですが、
「知識人の間に伝えられた文語」と「崩れて口語的になってきた文語」と、
「明治以降の擬古文的文語」と、
少なくともそれだけの種類の文語が存在してきたのではないかしら。
今はもう一種類「文語的知識がないまま書いた文語らしきもの」というのがあるかな。

私は文語がすきですが、それは、文語が簡略で潔いからです。
もうすこし文語に強くなりたいものです。
私たちがいくらがんばっても結局「擬古文」なんだとは思いますけれど。
 

[78]佐々宝砂[2008 11/12 22:56]
>久和さん
雑談しましょうよ。
 

[76]佐々宝砂[2008 11/12 22:54]
時代が変わっても知識人の間では正しい文語が継続して存在していて、
孤蓬さんはそうした知識人の間に伝えられた文語を指標にしてるんではないかな、と私は感じました。
#明治以降いやに硬い文語らしい文語が多くなるのは、明治の人々が学校で文語を教わったからなのかなあ、いやこれは単なる推測ですけど。
 

[72]佐々宝砂[2008 11/12 22:10]
>>71
「椿説弓張月」(ちんぜいゆみはりづき)は岩波文庫に入っています。
岩波の古典はなんとなくちょっと特殊な気もします。
気のせいかもしれませんか、なんか読みづらいんですよね。
特に馬琴はとんでもない漢字を多用するのでルビ必須です。
 

[70]佐々宝砂[2008 11/12 21:58]
>>69
なるほど、私が読んだのは庶民的な読み物が多かったので崩れまくっているのですね。
「宿直草」「耳嚢」は読んだ記憶があるけど、文章は覚えていなかったり・・・

「椿説弓張月」は戯作ですが、すごく面白かった記憶があります。
漫画化したら今も受けるんではないかな。
 

[68]佐々宝砂[2008 11/12 21:27]白井明大
雑談といえば雑談、とゆーことで。

私は古文がまあまあ得意でしたが、学校の授業はさぼりまくっておりました。なんでまあまあ得意だったかというと、家にたくさん古典の本があって、こどものころからてきとーに(あくまでもてきとーに)読んでいたからです。最初に読んだのは小学生のころ、本は「浮世風呂」でした。次に読んだのは馬琴の「椿説弓張月」でした。あとはなに読んだかなあ、たしか、「堤中納言物語」「竹取物語」「好色一代男」「更級日記」の4冊は高校生までに読んだはずです。しかし内容がわかっていたかどーかは実にアヤシイ(笑 そんな私にとってもっとも役だった古典案内は、田辺聖子の「文車日記」でした。http://www.amazon.co.jp/dp/4101175047/ 万葉の時代の古典からお江戸の落語まで網羅し、短歌も俳句も紹介したこの本は今も充分に古典案内として役立つと思います。

古典読書歴の最初期にお江戸の本を読んだ私にわかっていることは、江戸期の文語はすでに非常に口語的になっており、文法的には崩れまくっている、ということです。むしろ明治時代の文語の方がとても文語的に感じられます。なので私に気に掛かることは、孤蓬さんがどのへんの文語を指標にしているのか、ということだったりします。
 

[67]深水遊脚[11/12 21:24]白井明大
合いの手を。

やはり自分で確かめて吸収しないと楽しみがないですね。小池さんのお話、コメントを受け取るひとの気持ちが具体的にイメージできてよかったです。これがもし自分で確かめることなく飲み込めば、テスト勉強の繰り返しみたいなもので、楽しくない上に何も残らない。それよりは自ら確かめるという道もあるし、勉強なんか嫌いだ、とコメントを拒否する道もある。なんだか、この議論の発端になった散文を書いた子の気持ちも少しわかってきました。


#あまりお行儀の悪いのを肯定したくはないけれどね。
 

[65]小池房枝[2008 11/12 19:42]佐々宝砂
 みたびの小池です。同一IDからの連続書き込みは3回までというシステム上の制限に則ってあとがありません。よかったな、引っ込んでろという空耳が空耳であることを祈りつつ、続き。
 文法のアドバイスをくださった方にはまずお礼を言って、それから私は考えました。考えて分かったことは、私には分からないということでした。分からないのに直せないです。分からないのに直すということは相手のいうことを鵜呑みに信じるということで、信じるといえば聞こえはいいですけど自分の書いた何かをどうするかを相手に丸投げにお任せにすることは出来ません。例えば極端な例ですが、何人かの人から違うアドバイスを二つ以上もらってしまったらどうするのか。かわりに話し合ってもらうのか。変ですよね。どうして変えたの?と聞かれたらひとに言われたからと言うのか。教えてもらったとおりにぽんぽん訂正しながらいつまでも自分では覚えないでいるのか。そのうちわかるようになるとしてもそれまで相手を添削係りにしていていいのか。違いますよね。
 「乗りし船」「乗りたる船」「乗れる船」、それぞれの船がどう違うのか何度も考えてみて、あ、船という言葉だったのですその投稿。考えてみてなんとなくはイメージできたもののなんとなくでしかなくて結局わたしは「乗りし船」をただの船、「木の船」に直しました。内容にとってはそれで十分だったのです。むしろ木という言葉のほうが相応しいほどで。
 いろいろな意味で、このできごとは私にとってものすごくいい勉強になりました。大切なことを気付かせてくれました。古文には文法があるのでした。知りませんでした。考えてみれば当たり前のことなのに考えてみたことがありませんでした。いつか自由自在に古文を書けるようになりたいと実は今でも全然思ってないのですが(多分無理。)いつかもっと書かれたものが訳なしでも読めるようになりたいです。詠めるじゃなくて読める、ですね。読めるようになりたいとだけは切に願うようになりました。そのために文法書をひもといてみたりはしないわけですけれども。
 以上、フォーラム半万人の中にはこんな人間もおりますという拙文でした。普段めったに使わない「私」「私」をたくさん使って緊張しました。読んでくださった方も(もしいらっしゃるなら)お疲れ様でした。有り難うございました。おそろしいことにフォーラムに来るまでわたしはこれを知らなかった、という経験談等他の方からも伺えたらなぁと思います。あと、みなさん、古文は得意でしたか。出来れば続きの雑談もあるのでどなたかレスはさんでくださったら幸いです。
 

[64]小池房枝[2008 11/12 18:50]
 再び小池です。おじゃまします。それで今度は今の話なのですが、このように古文も好きは好きだけど文法は分からない。でも好きだから、丁度フォーラムにもそういう場所があるから、短歌とか俳句とか自分でも書ける分で書いてみたり投稿したりもする。するときちんと読んでくださる方がいて(ここできちんと、というのは万葉集等に対する私のでたらめ読みに比べて、という意味です。)例えば「この"し"は《過去》の助動詞"き"の連体形ですがここは《完了》の助動詞のほうが適当ではないでしょうか。」等のアドバイスくださったことがあったのでした。今は要約して書きましたが全体をちゃんと読んだ上でここがこうだと意味違っちゃいませんか、という丁寧な文面でした。
 それでじゃぁ私はどうしたかというと、まず、咄嗟には返事が出来ないわけです。びっくりして、というのもありますが、元々いやなびっくりではありませんしびっくりが落ち着いてからでも、なにぶん過去にさぼったせいで、巡り合わせのせいで、過去と完了の違いが分からない。過去は過去で完了は完了なんだろうなーとは思いますが、うーん。何が助動詞で助動詞に何と何があるのかも、うーん。その分からない助動詞のさらに連体形というのも、うーん。古語辞典はあるから開いてはみたけど何をひいたらいいのか、何より自分の心に自分で訊ねても答えがかえってこない。うーん。自分の判断が効かない。これは困ります。
 言われたことの内容が(正否ではなくて内容が)すらすらわかるなら直すとか直さないとかの話になりますが(ときどきいらっしゃいますよね。一旦投稿したものは動かしたくないとか、自分への後の戒めのためにも残しておきますとか、ひとに言われて直すのはしゃくだからいやとか。)まず、何を言われているのかすぐには分からないわけです。でもまぁ当たり前といえば当たり前かもしれません。わかってたなら間違えなかったでしょうから。
 ええと、雑談スレッドの最近の話題にやっと繋がったところでも一度発言かえます。どなたかは読んでいてくださいますように。
 

[63]小池房枝[2008 11/12 18:02]白井明大
 ROMの方、ROMじゃない方、前略ごめんください。小池と申します。雑談スレッドには始めて伺います。いつもはながしそうめんスレッドその他で遊ばせていただいています。以降、この話題?については新しいスレッドに、とのことですが、論争も議論も何も、望むところは雑談、できれば独り言ではなくて雑談ですので、敢えてこちらに書き込みさせていただきます。ええと、まずは思い出話。
 高校のときに、私の高校には、古文の助動詞を覚える用の校歌の替え歌がありました。未然るーらるすさすしむー、といった感じの歌詞でしたが、友人が歌ってたりして歌いはじめだけは聞き覚えていましたが内容不明でした。意味?は今でもわかりません。未然というのは未然形だろーとは思っても、それが何なのかはわからないわけです。
 古文の授業はもちろんありましたが、先生は何ゆえか係り結び命、係り結びだけで校内試験はOK、という方で「ぞ、なむ、や、か、こそ」と「ありおりはべり」だけは覚えましたがこれも今でもなんなのかは知りません。たぶん、ある種の強調なんだろうなーとは思いますが、ぞ、とか、なむ、とかが品詞でいうと何になるのか、古文の品詞自体、何と何と何があるのか知らないのでやっぱり分からないわけです。
 別に古文や古典が嫌いだったわけではなく、授業中ひまだったので(授業聞いてないからですが)万葉集を第一巻から順番に読んでいたりしました。当然ほとんど読めません。でもわかるところがあると楽しくて、知ってる歌が出てくるとうれしくて、そんな風にそれはもう自分勝手にただ好きに古典とつきあっていました。こういう読み方だと、文法も品詞分解も必要ないですから。万葉集みたいなのはわからなければいくらでも現代語訳があるので、あ、今思うと私が読んでいたのも原本であろう筈がなく谷崎訳だったか与謝野訳だったか、そうかこんな意味なのかそうかそうかと見覚えたものだけ覚えている、そんな親しみ方でした。
 今から思うとこれはこれでよい教育を受けたものです。古文嫌いになることを強いられたことだけは一度もなかった。前置き長くなってしまったので分けますね。
 

[62]白井明大[2008 11/12 09:12]
おはようございます。

「論争スレ。」という新しいスレッドができましたので、以後この話題に関しましては、論争スレ。に書き込みさせていただきます。おつきあいくださる方はどうぞスレッドを移行してくださいますよう、よろしくお願いいたします。
 

[56]白井明大[2008 11/11 11:02]深水遊脚
追記です。

孤蓬さんの54の以下のような記述を拝見しますと、やはり語弊があるな、と感じます。

>日本語における文学の場は「多言語を用いる多民族が流動的に交流する場」ではないともうしたのは、私の現状認識であり、実際、日本語における文学の場に参加しているのは、ほとんどが日本語を母語としている人達であるのが現状だと思っております。
>確かに、日本語を母語としていない人達の、日本語による文学の場への参加は目立ちますので大きく話題になりますが、現実としては、そういう人達の数は全体からすると少数でしょう。
>日本語による文学というのはドメスティックな面が強いように思います。

「ほとんどが日本語を母語としている人達」であり、「日本語を母語としていない人達の数は全体からすると少数」であることを論拠とするのは、多数決です。

日本語における文学の場とは、多数決で決まるものではないように思います。

「ドメスティックな面が強いように思う」というおっしゃりようには、背後に「またべつの面もある」という意味合いが含まれているようにも解せます。

としたら、日本語における文学の場は、多面的なものであり、「多言語を用いる多民族が流動的に交流する場」という面がれっきと存在すると捉えることも十分可能ではありませんか?
 

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