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雑談スレッド7軒目 (雑談系)スレッドオペレーター:片野晃司
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[55]白井明大[2008 11/11 10:36]
孤蓬さん

こんにちは。

54でおっしゃっているように、
◯短歌や俳句などの短詩を、文語を用いて表現するのであれば、最低限文語の「てにをは」ぐらいは心得ていなければ覚束ない
には異論ありません。

ですが、
>>51でおっしゃっているような
◯短歌や俳句などの短詩では、片言のような表現しか出来なければ、質の高い作品を量産することは難しいと思います
には首肯しかねます。

文語を用いて、という条件が付されるのであれば、ということです。

口語を用いて、片言のような表現しか出来なくても歌(詩歌)はうたえるのですし、そもそも歌とは、片言のような表現にひとつの源泉を持っていたのではなかったでしょうか。

       *

ちなみに。
写真の例はかえってわかりにくい例を挙げてしまいました。
例はわかりにくいと失格です。すみません。

(以下、余談)
ただ、わかりにくいとはいえ、デジカメ時代の基礎/高度テクニックの線引きということで考えると(「守離破」のお話はそういうことかと思いますが)、それはそれで楽しそうな論点です。もはや詩の話でもなんでもないので、あくまで余談・雑談です。

いま写真家の発言で散見されるのが、一概に高度テクニックのことばかりではない印象があり、よけいに面白い論点になりそうです。

「ピントも露出もカメラ任せ」など典型かと思います。ピントや露出は基礎テクニックの領域かと思うものですから。これは「守」の段階の話になるのだろうなと。脱線失礼。
 

[52]白井明大[2008 11/10 23:29]
孤蓬さん

こんばんは。

>日本語における文学の場は、「多言語を用いる多民族が流動的に交流する場」ではないという現実があるからです。

あの、、少し語弊がある気がいたします。そう言い切れるほど強度な現実はないように思います。

中也賞をアーサー・ビナードさんが受賞なさったり、田原さんが二国を渡す活動をなさったりしているのはけっしてそれらが例外的なできごとではなく、たくさんの人が他国語を母語としながら、日本語の詩を楽しんでいる現実を象徴しているのではないでしょうか。
私の個人的な経験に照らしましても、たとえばベンズカフェを訪れれば(ときどきですが)、国籍を問わず、日本語の詩をいろいろな人がリーディングし、また聴きに来ています。その場もまた、日本語における文学の場ではないでしょうか。

もう一点、

>短歌や俳句などの短詩では(中略)片言のような表現しか出来なければ、質の高い作品を量産することは難しいと思います。
>そもそも、ピアノを演奏する技術を持たなければ、他者からピアニストとして認められないのと同様に。

「片言のような表現」とは技術の巧拙をいうのに対して、例示なさっている「ピアノを演奏する技術を持たなければ」とは技術の有無をおっしゃっており、論理にズレがあるようです。
例示として正確を期すなら「ピアノを演奏する技術がつたなければ」でしょうが、はたして「ピアノを演奏する技術がつたなければ、他者からピアニストとして認められない」とまで明言できるでしょうか。写真という分野を例として挙げれば、むしろ撮影技術がいたずらに巧みになることをおそれる写真家の発言が散見されます。

また「短歌や俳句などの短詩では」とおっしゃいますが、いま書かれている短歌のなかには、あえて禁欲的な語彙のなかでことばを用いて、いま生きている人の実感、心象をありありと表現なさっている方もいらっしゃいますし、さまざまな詩歌の生まれ出る可能性をあえて狭める必要はないかと存じます。

古語を大切になさってのご発言かとは存じますが、ご配慮くださいましたら幸いです。

sage
 

[50]白井明大[2008 11/10 11:09]深水遊脚石川和広
Klausermanspitzwegensdorfentagさん、はじめまして。
プロフィールを拝見しまして、少しずつさかのぼって読んでらっしゃるとのこと。
驚きとともに、敬意を抱きました。
そうした詩の読み手がいらっしゃることのなんて幸せなことだろうと思います。

大村さん
こんにちは。

>自分が書いたものが公やけの場所に掲示される時、誰かにダメージのようなものを与え
うる、という事態を想像出来ないまま書く、というのは無責任な行為だと思う。

の箇所を拝見して思い出したことがありました。
ほぼ同じことを私が、寺西さん(詩の雑誌「詩学」の編集長だった詩人さんです。大村さんはごぞんじでしょうが付記しておきます)に話したことがありました。

そのとき寺西さんは、
「責任とはどういうことですか?」
と訊ねてきました。なにをどうすれば、書き手は責任をとったことになるのか、と。つきつめたところ、他人の人生に責任を持つことは誰にもできないのではないか、とおっしゃっていました。

では、書き手は何を負うのでしょうか。

書きたいものを、書く、ということ以上に書き手に負うことはできないし、それだけなのだといまでは思うようになりました。

かならずしも書きたい気持ちが重いものでなくてもいい。気軽にふっと書いてみるのもいいはずです。そして、願わくば、じぶんの書きたいように詩が書けるように、とその一心になることがあるかもしれません。なにも考えずに手がうごくように詩ができ、あとからじぶんでもおどろくようなことがあるかも。

詩の書き手が、詩を書くとき、また公にするとき、「こうであらねばならない」というなにものもなくてよいと思っています。

もちろん、そこから反応が起きたとき、その反応と向かい合うことにはなるでしょうし、そこからまたはじまるものことがあるかとは思います。

また、じぶんの書いたことばが誰かを傷つけることになるのは、悲しいことです。それでも、書き手は詩を書くだけなのではないでしょうか。そんなふうに思いました。
 

[47]大村 浩一[2008 11/09 15:34]北村 守通
>>44 白井明大さん
 論点を確認するために、再度書きます。
>「1.作品を公開するということは、誹謗中傷を含めあらゆる反応が起こるリスクが、厳然たる
>事実として、そこに存在する。」
>という点は異論ないのです。作品というものは、読み手の反応を呼び起こす可能性を秘めており、
>その反応としてあらゆる事態が起こりうる、というのは文字通り「事実として、そこに存在する」
>と思います。
>ただ後段の「作品公開に当たっては、作者はそれを覚悟すべきであると考える。」
>については、その「覚悟」をするもしないも個々の書き手に委ねてよいのではと思っております。

 私もまた全ての書き手が、あらゆる反応には覚悟しようがしまいが晒されているし、ま
たその覚悟も個々の書き手にゆだねる他はない、と思っています。

 ただ私は、前出のリスクの存在は知るべきだし、そうした批評批判が来た時にどう対応
すべきか、という事は皆に知っておいて欲しいと思います。
 自分が書いたものが公やけの場所に掲示される時、誰かにダメージのようなものを与え
うる、という事態を想像出来ないまま書く、というのは無責任な行為だと思う。

 その他方で、前文のリスクの存在を口実にして、議論を仕掛ける側が自分を過剰に正当
化することも出来ない、と私は考えます。

>これは読み手という立場からの願望ですが、詩の場はちょっとゆるいほうが、思いもよらない自由な詩が出現
>しやすいのではないかと思っております。

 どうなんだろう。厳しかろうがゆるかろうが出てくるものは出てくるし、厳しさに耐え
られないものは数年で淘汰される程度のものだ、と私は割り切っています。
 表現の基層はいま明らかに変化してきている。これまでの文章表現や批評のあり方では
掬い取れない現実の問題や感覚が出てきているのは、私も承知しています。
 その「表せない」やり切れなさが社会的に募ってきているから、今頃になってネットが
世界を変える的な議論が、あちこちで再燃しているのだとは思います。
 ただそれは、どこかで既存の世界と渡り合い越境して行かない限りはどうしようもない。
立場のような妄想や固定観念が、それぞれの書き手の中にあるのだとしたら、それも超越
していかない限り、新しい作品に対する価値観は世界と共有できないでしょう。

>「ヒールというスタンス」とは、どういったことなのでしょう。
>そこには、プロレスのヒール役のような振る舞いで他者の詩にコメントを付す、といった
>ことも含まれるのでしょうか……。

 ヒール云々は現段階ではふさわしくない事を書いたと思うので、私から取り下げておき
ます。

>>45 蛾兆ボルカさん
 イヤ、立場の信憑性じゃないですよ。そこはヘンな誤読です。
「本当にそんな立場がありうるのか?」という問いは、ここでは意味不明でしょ? ボル
ガさんも、いまそんな事を私に問いたいワケじゃないと思うのだけど。

 私が言いたいのは、その立場を支える学説なり理論の信憑性、ということです。それが
議論の中で明らかになれば、立場が違う人も一応納得は出来ると思うのです。
 その意味で、立場が違うのなら、なおさら会話は必要なんじゃないですかね。

>「間違ってるけど、俺はコレでいいんだ」、ということが許容されていればほとんどの場合、問題にはならな
>かっただろうし、「コレが間違っていないという立場もある」、という言明に対して、「自分の立場からは間
>違いだ」という再反論を繰り返すこは、間違った議論のしかたなんじゃないでしょうか。

 その再反論の仕方は、ワタシも間違っていると思う。
 この場合にはその立場の信憑性が問われている訳で、立場に固執して信憑性に対して説
明なり証拠で答えなかったら相手は納得しないでしょうから。
 私は立場に固執する事ではなくて、むしろ立場を離れて議論を進める可能性をイメージ
しています。きちんと会話することは、その始まりだと思うのです。今回は結果として、
その会話や説明が行われた事で、議論はまあ達成されたと私は思っています。

「正しい」という言葉は難しいです。それは私も承知している。
 天動説みたいに論理的に科学的に明らかにオカシイものだって、正しいとされてきた歴
史はあるワケですから。
 利害が衝突しているような場合なら、正しさは決められない。政治的な判断で妥協する
しかない、ということにもなると思う。
 ただ、ここでの議論の場合の「正しさ」ってものは、そんなに曖昧で正反対になり得る
ものなのかナ、と私は常々思うんですよ。そこはもっと煮詰めても良いんじゃないかな。
 それで背景なり立場が分かるまで話をして、そこから汲み取って来れるものがあれば、
それで良いんじゃないかと。

 あと>>47 の「誹謗中傷に対する覚悟」というボルガさんの言い方は、なんだかヘンで
す。集合論ぽく言えば「誹謗中傷」は「反応」の中に含まれるけれど、極論の部分で範囲
を広げてしまっているし、それなのにその後で書いている項目は、私はみな同意できるも
のです。対立する要因がわからないよ。

>恣意的な運用をする場合は、逆に自分に甘く他人に厳しい運用だって出来てしまうと思
>います。
 孤蓬さんの示した>>36 は彼の認識であって、それに乗って運用される「行動原則」と
は意味が違うんじゃないかな。
 運用したって言うよりも、恣意的運用が出来ないものだからこそ議論が発生したんじゃ
ないのかな、と思う。
 

[44]白井明大[2008 11/09 12:10]
大村 浩一さん
孤蓬さん
蛾兆ボルカさん

こんにちは。

大村さん
ていねいなコメントありがとうございます。

>>39 で前述いたしましたとおり、1のうち前段の、

>1.作品を公開するということは、誹謗中傷を含めあらゆる反応が起こるリスクが、厳然たる
>事実として、そこ存在する。

という点は異論ないのです。作品というものは、読み手の反応を呼び起こす可能性を秘めており、その反応としてあらゆる事態が起こりうる、というのは文字通り「事実として、そこに存在する」と思います。

ただ後段の、

>作品公開に当たっては、作者はそれを覚悟すべきであると考える。

については、その「覚悟」をするもしないも個々の書き手に委ねてよいのではと思っております。

これは読み手という立場からの願望ですが、詩の場はちょっとゆるいほうが、思いもよらない自由な詩が出現しやすいのではないかと思っております。

       *

別論点ですが、

大村さん>
「ヒールというスタンス」とは、どういったことなのでしょう。
そこには、プロレスのヒール役のような振る舞いで他者の詩にコメントを付す、といったことも含まれるのでしょうか……。

sage
 

[41]大村 浩一[2008 11/08 21:05]ピクルス伊藤透雪石川和広北村 守通
 孤蓬さんへ、白井明大さんへ。
 蒸し返しになるかもしれないけれど、私の意見を公けにしておきます。

 孤蓬さんの発言 >>36
>ただし、そのリスクから個人を保護するのが、法令であり、また、SNSのような場におい
>ては、更にローカル・ルールが会員を保護しています。
>そうして、その保護は、法令やルールに規定された範囲においてなされます。

 を見て。そう言えば現フォにルール集なんてあったんかいな、と思ってメニューを探し
てみると、ヘルプの中だったんですな。なのでちょっとオドロイタ。(笑) どうりで普段
は見かけないワケです。
  mixiだと「より健全なSNSを目指して」なんていうスローガンじみたのが、トップの見
える場所に入っている。これはまあルールと言うより「mixiはこのような管理運営をやっ
てます」という宣伝みたいなモノだけれど、私にすればうっとうしいし、裏読みすればこ
れを盾にどんなまっとうな訴えが抹消されているのか、などと思えて薄気味が悪い。これ
はまぁ、mixiが様々な人を受け入れる為には仕方のないことでしょうけど。

 ワタシは。現フォのような、目的を持った交信場所のルールというのは最小限度にとど
めるべきだと思っています。
 目的の追求自体が自発的なルールとなるだろうし、その達成のためならばある程度自由
なコミニュケーションが必要だと私は思う。論戦もコミニュケーションの一様式であると
割り切って考えています。(敢えて書けば、目的が共有できないのであれば、それは間違
った会社に就職したようなものではないかと思います)
 ルールがブレるのは良くないから、それを防ぐ意味あいで、ある程度の明文化は必要で
しょうけれど。ごちゃごちゃ書いたって「何だメンドクセエ場所だなァ」で人を遠ざける
だけだろうし。
 ルールを厳格にしたりガイドラインを示したりしても、例えば議論が過激になった時に、
それに対して互いに「ローカルルールの何条何項に反しているぞ」みたいな話しか出来な
いのだとしたら、情けないと思う。
 現フォのやり方はスッキリしていると思います。深刻で法的にしか解決がつかないもの
は、法律で解決するほかはない。私としても、別にフォーラムの上で裁判の真似事をやっ
て欲しいワケじゃないのです。
 詩、あるいは文学の話としての部分を見たいから、議論は持ち込まれてくるのだと思い
たい。

 孤蓬さんの発言 >>34
>1.作品を公開するということは、誹謗中傷を含めあらゆる反応が起こるリスクが、厳然たる
>事実として、そこ存在する。作品公開に当たっては、作者はそれを覚悟すべきであると考える。

 白井明大さんの発言 >>35
>私としては、さまざまな考えの会員のかたがいらっしゃることを思うと、この会内においては
>1を前提にするべきではない、と思っております。

 お二人の考え方の相違点はここにはっきり出ています。

 私としては、孤蓬さんが先に挙げた1.というのは、ローカルルールというよりは、むし
ろそれ以前に、あらゆる公衆の目に触れる場所にものを書く場合の、前提条件じゃないの
かな、と思う。
 あるいは書き手として知るべき事、だと。
 そんな大事だとは思ってなかった、と書いている皆さんは言うかもしれないけれども。

 誤謬の指摘程度は問題にならないと私は思っています。
 間違いは単なる間違いだし、立場の違いから来る異論は、その信憑性が問われる事にな
る。それだけの事です。

 自分を律する規範がブレないのならば、自分を利するのが目的でなければ、ヒールとい
うスタンスは自分が汚名を着ることを交換条件とする分、むしろ潔いとも言えます。
 あと、きちんと議論しようとする人は慣例的に私信を嫌う傾向があるという事は申し添
えておきます。表裏はない、表で言ってることに統一されているという事です。

 文責 大村浩一
 

[39]白井明大[2008 11/08 12:49]
孤蓬さん

こんにちは。お返事ありがとうございます。

おっしゃるとおり、SNSといっても1の前段のリスクは生じるであろうと思います。1の後段は判断の分かれるところかもしれません。

また、SNSといっても必ずしも「穏当な社交の場」とは限らないと思っております(ですので、1の是非をSNSであることから一義的に導こうという考えではありませんでした。拙文申し訳ありません)。いろいろなSNSのありかたがあって、よいように思います。

では、この現代詩フォーラムは、どのような場を志向するのでしょう。システムのあり方や、ローカル・ルールからおおよそが見えてくるのかもしれませんし、実際に志向しているところがあるのかもしれませんので、そうしたところに私は関心を持っております。

孤蓬さんのなさるコメントに関しては、私から申し上げたいことはとくにありません。
1と2、として挙げてくださったことが上記の関心と重なりましたもので興味が起こった次第です。

1に関しては後段が判断の分かれるところであろうか、と上述しましたが、それもSNSとして志向するありかた次第かと思っております(私見は35のとおりです)。

気をつけたいことのひとつは、おっしゃるとおり「法令やルール<以外>の所で、他者を規制しようとする、あるいは、自主規制を強いようとする雰囲気が醸成されること」です。

このことは33でふるるさんおっしゃるように、
「個々に信じる神がいて、それぞれが正しいと信じる道をそれぞれに歩いていける、
衝突もある、けど口はふさがれず望むならなんとなく対話を続けていける、
そういう場所でありますように。」
というものが望ましいように思います。
そのとき「衝突」の度合いをどのあたりまでとみるのかが、いろいろな意見のあるところなのだろうかと思っております。

いずれにしましても、個別のことがらを離れて、ここがどのような場を志向しているのかに関してこうしてお話ができますことは、私には楽しいことです。ありがとうございます。

※sageとしますのも、SNSとしてどのような場なのかいまだ分かりませんゆえ、穏当なラインをふまえようかという浅慮にすぎません。議論の相手方に対して失礼にあたらないかと危惧いたしますが、どうぞご容赦ください。
 

[35]白井明大[2008 11/08 01:36]
こんばんは。

まだ入会して日が浅く、気になっておりましたのは、孤蓬さんが34でおっしゃっている以下のところです。

>1.作品を公開するということは、誹謗中傷を含めあらゆる反応が起こるリスクが、厳然たる
>事実として、そこ存在する。作品公開に当たっては、作者はそれを覚悟すべきであると考える。
>
>2.その反応が、法令及びルール(ここではフォーラムのローカル・ルール)を逸脱する場合に
>ついては、法令及びルールに基づき、しばしば強制力を伴う措置が執られるが、法令及びルー
>ルの範囲内であれば、あらゆる行為が甘受されるべきであると考える。

私自身にかんしては異論ありません。言わずもがなかも知れませんが、1については、
「誹謗中傷を含めあらゆる反応が起こるリスクや、じぶんが書いたことばが誰かを傷つけるリスクが」
と、内心では自戒して読み替えておきたく存じます。

そして(孤蓬さんには迂遠かもしれませんが)、
◯書き手の立場での私は、誹謗中傷が起こるリスクを覚悟して作品を公開するけれども、
◯その誹謗中傷が、2で挙げられる「法令及びルール」を逸脱した場合、しばしば強制力を伴う措置が執られ、その範囲で保護されることになる
という点は、念のため確認しておきたく思います。

また、2の「甘受」の意味として、「その反応」に反論する(相手の反応を認めたうえで、さらにじぶんも「反応」していく)ことも含まれるであろうと解しております。これは作品に対する「反応」もまた、1の下に置かれるということとしてです。

ただ、気になっておりますのは、
「詩のSNSであるこの現代詩フォーラムは、1を書き手に求める場なのかどうか」
ということです。

と申しますのも、SNSを穏当な社交の場と考えましたら「誹謗中傷が起こるリスク」は、2を待つまでもなく書き手に負わせないという判断もありうるのではと思うからです。

この点を明確化することは難しいようにも思えますし、以前も似た議論があっておかしくないであろうところです(すみませんが、過去ログはあたっておりません)。

私としては、さまざまな考えの会員のかたがいらっしゃることを思うと、この会内においては1を前提にするべきではない、と思っております。

(但、この会に投稿された文章は、インターネットで公開されておりますので、会の外部までを規定することはできません。ですから会の外部にあっては、1が原則になるかと存じます)

sage
 

[33]ふるる[2008 11/07 13:36]石川和広
>>25
孤蓬さんへ

再びありがとうございます。

お返事を読みまして、孤蓬さんの信じる道がどんな感じなのかだいたい分かりましたので、
今後私の書いたものにご指摘があったとしても、むやみにむっとしたりあわてたりしないでしょう。

もしよろしければこちらのスレッドででも、古文を愛することになったきっかけ
や思い入れなどを伺いたいなと思いました。(お時間がある時にでも・・・)

個々に信じる神がいて、それぞれが正しいと信じる道をそれぞれに歩いていける、
衝突もある、けど口はふさがれず望むならなんとなく対話を続けていける、
そういう場所でありますように。

sage
 

[32]石川和広[2008 11/07 10:33]
>>30
まず「非力ながらのプロテスト」という表現を適切に用いなかったことをお詫びいたします。
またレスありがとうございました。もう少し丁寧に考えてみます。少し前のレスは乱暴だったかもしれません。

孤蓬さんの指摘の内容自体は、つまり誤用や違和のある表現を指摘すること自体はおかしくないと思うのです。また、もちろん孤蓬さんが文科省の回し者だとも思っていません。個人の責任で活動されていると理解しています。

かつても孤蓬さんとは立場がちがうかもしれないけれど、批評家の福田恒存が官製の国語施策への批判をしておられました。彼はその頃から歴史的仮名遣い表記を用いていましたね。


さて、しかし私も少し感情的になっていたから、乱暴な批判になっていたのかもしれません。ただ、国家を背景にしていないのはわかる。個人的な信念によって活動されていることも理解します。ただ、やはり以下のような一節が気になるのです。
>私の指摘は作者に対する非難ではなく、公開された作品をサンプルとして、そうした言葉遣いが誤り、あるいは違和感のある表現であることを、公開の場で、それを読むであろう方々の参考に供しているのです。

ここでわかったのは、これでは指摘された方々のうち幾人かが困惑したり怒ったりするのは致し方ないのではということです。
「参考になれば」というのは孤蓬さんの譲歩の表現なのかもしれないけれど、しかしこの文章の意味はやはりサンプルとしてあるいは症例として検討するということです。ならば、孤蓬さんが一文をものして、ご自分の文語表現に対する立場を表明する方が私にはすんなりわかるのです。

「作者に対する非難」ではないというのはわかります。けれど、やはり作品の送り手としては作者がいるわけです。第三者に触れられるとしても。

もちろん間違いに無自覚な表現を公開することというのは、私もどうなんだろうかと思う。適切な指摘は受けることは自然ですらある。ただ、「サンプルとして」「公開の場で」「参考に供する」というのは、どうなんだろうかと思う。
それよりは書き手に指南するのであれば、書き手自身に向き合って「これは間違っていますよ」と諭すほうが良いと思う。そうでなく「公開」において多くの方の「参考に」供するのであれば、孤蓬さん自身が間違いやすい文例を作ったりして、古文を書く際の注意点として表示するほうが理解しやすいのではないか。どちらかにしないと何となく指摘された方々も自分の無知を顧みるよりも、自分が出しに使われたと悪意に取る人もいるのではないかと思うのです。その人にも問題はあるのかもしれないですが。
私は優しい配慮を求めているというよりも、現在の孤蓬さんの信条やスタンスからするとそれがいいのかなとお節介ながら感じておるのです。
異なる信条の方々に伝える時、相手の信条との関わりは「サンプル」化できないと思います。

作品それぞれをサンプルとして扱うというのはどうなんだろうか。しかし語りかけているのは作者に対してです。それが広がりを持つというのは当たり前なんだけど、もし広く参考に供するのであれば、孤蓬さん自身のガイドラインを大まかに示すということが妥当と私は思うのですが。

つまり互いの学びということを目的とするなら、ひとりひとりをあたっていくよりも散文として、アナウンスメントをすることが今は効果を持つのではないかと考えるのです。そうして孤蓬さんの考えをコメント欄ではなく公にすること。孤蓬さんは個人でやっているのだが、孤蓬さんの活動は賛否はあれど広く影響をもっているからそう述べるのです。私は個人的には歴史や古いものに対し敬意を持ちたいと思っているのですが。
しかしそれは一人ひとりが愛する心の芽生えるのを待つしかないと絶望半分で思っているのです。また古文も学説的な説はありますが耐えざる新しい読解がありうると思います。それはここでは一応おきます。

#私は石川和広です。よくDMなんかで間違えられるのです。変換では「和弘」のほうが先に出やすいみたいなんですが。sage
 

[29]石川和広[11/07 01:51]
否定するつもりはないんだけど、非力な日本人へのプロテストのために、個個人が指摘をされるってのは、なんとなくお門違いな気がするよ。

個個人は語の使用が不完全な(と孤蓬さんがいう)現代日本人のサンプルなんだろうか。
あるときは孤蓬さんは、間違いを老婆心から指摘するに止めるというんだけども。

もちろん言葉遣いが変な人に疑問や違和感やもっというと怒りをもつのは否定しない。
ただ、孤蓬さんの憂慮の背後に語の用法の乱脈への義憤があり、その乱脈を確かめるように各個人に釘を刺すのはどうか。

俺だって間違うから世の中の腐敗の片棒を担いでいるかもしれん。しかし間違いが腐敗や非力を生み出すというのはちょっと言い過ぎでは?
概ね間違いをして気付くことで、ひとは変わる、けどなかなか変われない。それを放置するのは変だけど、かといって、律儀に釘を刺すことで、互いに学びは訪れるのだろうか。
実際多くの方が稚拙であっても反論するのは無理からぬ面があるだろう。

ひとはなかなか変われないから変わりたいと強く願う。そう思い、その人達が孤蓬さんと学びたいというまで、苦々しい思いをもちながらも待つことが教育なのではなかろうか。

孤蓬さんの態度は美しいと思う。しかしそれがこの日本の国語状況を変えようとするならこのような小競り合いで何が生まれるだろう。

しかし僕個人は国語全体の腐敗というか非力だという観測を持ちえない、誰か英雄的な活躍が国語全体の状況を変えうるとは思わない。言葉は他者とのものだから。
だから、おまえまずいよとは言えても全体状況の改善のために個個人に釘を刺すのは違和感がある。人の語の使用と思索によって言葉はかわる。その中には孤蓬さんが間違いを感じるものもあるだろう
全体の国語のためにひとりひとりが指弾されるのは本末転倒している気がする。
僕はずいぶん批判したわけだが、美しく正しいことを目指す人には「かなわないな」というしかないのだ。

僕だって自分の理のためには人を苦しめることが多い。自分のかわらなさを嘆く。僕は正しく生きられない。昔の人の嘆きや様々な声つまりもののあわれは、人が未完成な生しか畢竟生きられぬという深い洞察からあらわれ、それでもその声を響かせることで何かにつながりたいという切ない希求からあらわれていると思う。僕は古典に対して無学なので、孤蓬さんに申し上げるのは忸怩たるものがありますが。すまない。

sage
 

[24]石川和広[11/06 20:19]大村 浩一
#片野さん、野球つながりで、言ってくれたのかな。気のせいかな。だったら、うれしいね。
>山田さん
そっちもあるね。ビール飲んでオカキ食ってする話じゃなかね。#いま飯食ってビールやりながら野球観戦。

sage
 

[22]山田せばすちゃん[11/06 20:09]
プロテストって、抗議する、のプロテスト?

携帯からだと長文書く気になれないので突っ込みばっかりだ。
 

[21]片野晃司[2008 11/06 20:06]石川和広
コミュニケーションと言うのは言葉のキャッチボールですので、投げるときにはきちんと投げないと受け取れません。
久和さん、「かなわない、ので‥」ので、何ですか?点々で誤魔化すのは誤解を招くもとです。
釣りだと言われるのは、あなたが言葉をきちんと尽くしていない、ボールをちゃんと投げてないからでしょう。点々でごまかさず、最後までキッチリ書き尽くしてみませんか?
あと、無駄に空行を開けるとスクロールが増えるとか(特に携帯から読む際に手間になる)ありますので、行分け詩を書いているつもりでなければ、ひとつの文の間に空行など入れずに続けて書くほうがいいですよ。
さてスレオペからは以上。引き続きどうぞsage
 

[20]石川和広[11/06 19:52]
プロテストってプロ選手になるテストのことかな?野球とかあるよね。

その仮定でいくとプロになる自信がある時点で、ものすごいってことかな…
あとプロって専門家だよね。まあね。野球なら上手い下手わかりやすいねえ。金もらってるし。俺は金もらえる原稿なんて滅多にないもんな〜


ともかく最近日本シリーズ見ててどっちのファンでもないのに見てしまうよ。みんなシーズン戦より必死なんだよね〜

真剣勝負すごい!
西武の選手とくにピッチャーは茶髪で前髪気にしながら投げてるのに、抑えたり、すげえなあ。#雑談スレなんだから話は逸れてもいいかと。ただ確かにつながりはわかりにくいね。

久和さん、釣りではないのね。ふむふむ。

いけねsage忘れてた!
 

[19]佐々宝砂[11/06 19:34]
プロテストってなに?
文脈がみえない。
#せっかくsage進行だったのにね
 

[17]石川和広[11/06 12:41]白井明大
いや白井さんのこととはちがって、いろいろ指摘を巡る作者とコメントする人のやり取りが、どれくらいうまく噛み合っているのかなと。
噛み合っているというかなんというか指摘された方も意地になって言い返してる印象を散見しましたので。これも僕の印象ですので、ちがっていたら修正したいと思っています。

白井さんと山田さんのやり取りは、論点が押さえられていて不明な点は少なく報復合戦だとは感じていないです。

作者と作品がどのように関わるか関わらないか。それを読む人はどう捉えるか大切な問だと思います。

横槍を入れた格好になりましたが、僕もお二人のやり取りを見ていきたいと思います。

また、僕が山田さんの詩の読み取りについて、僕自身の印象を述べてみました。山田さんが批評的な活動で試行錯誤している姿にある敬意を僕も持っています。
僕と方法がちがうので、そこで感じたことを先の発言で述べました。まちがっているかもしれませんけれど。山田さんがそれはちがうというなら、またその時にじっくり考えてみます。

しかし山田さんが非常に真摯であることを僕は今まで見落としていたように思い、それは僕の見方の偏りかもしれなかったなと思っています。

sage
 

[16]白井明大[2008 11/06 11:10]
sage

石川さん
そうですね。15の最後のほうでお書きになっているのはたぶん私のことではと思い、書き込みいたします。もしちがっておりましたら失礼いたします。

どなたか個人のかたに宛てた散文をアップするというのはどうであろうか、という逡巡がありました。それが相手を傷つけうることもまた、文章を表に出すときに思わずにいられないことです。

ただ、詩人としての山田せばすちゃんさんを思いますと、報復合戦へ向かう懸念はありませんでした。同氏が詩の読みにエネルギーを注ぎ続けてきたことは明らかですし、論点をひもといていきながら、そのような読みをめぐる話になっていけばと願うものです。

とはいえ、それが現にどうであったかは他のかたがたからのご意見など、私は受け止めなければなりません。
 

[15]石川和広[11/06 10:27]
真面目にいうならさ、たぶん語の使用のありさまから何かルールというとキツイけど、それを誰かが抽出する過程で文法は生まれる。あるいは言葉は分けるものだから、具体的に使うこと、関係とか文脈の中で使うことと、その使い方を考えたり整理したりする働きは相互補完的だなあと。

語の使用がないと言葉の世界はない。だけど、語の使用のありさまについても、考える深さはいろいろだけど、考えてるんじゃないの。

いいっぱなしもあるけど、そのいったことについて考えるのも、どっちも必要。

なんで指摘する人とされる人が分かれて喧嘩しなきゃならんのかわからん。

そういうのは学歴とかあほだからというだけの問題なのか。自尊心とそれを傷つける者という問題なのか。

やっぱり関係のつくり方、まさにそういうことだと思う。


俺も僕より年上の人と合評したりする。んで、山田さんのように「作品と作者は切り離したい」という人はけっこういる。

で、そういうのはなぜかかんがえてみたんだけど。

したら、結局山田さんよりもさらに上の年齢の人やあるいは同年代の人同士でね、作品について議論するときに書く人の人格批評みたいになってしまっていたのかなと。

だから山田さんのような人はそういうやり合いに嫌悪を覚えて、作品と作者を切り離したいというんじゃないか?
もちろん現代思想とかテクスト論とかの影響もあるとおもうけど。


これは推測だから山田さん、まちがってたらごめんね。けどねそういう事情もある気がするんだ。山田さんの人格批評への違和感はまっとうだと思う。

けれど、うまく伝わっていない。どれだけ第三者性が書いた作品にあっても、作者の意気込みとか作った人の意思と作品はそうそう切り離しがたいんではないか。

切り離している、あるいは切り離したいと相手にいうことで、逆に相手が「いや、でもこれは俺の作品だ」と逆に意固持になっているようにも見えるの。

依怙地になるほうにも問題は多分あるんだけどね。でも自分の作品に誇りとか恥をもつから意地になるのかなと。その指摘された人の出し方が山田さんを傷つけてることも、指摘されているかたは気付いたほうがいいし。
報復合戦だとしんどいよ。

#依怙地、訂正
 

[14]石川和広[11/06 09:54]
>12
そうなんだろうね。

で、久和さんのいう文法マスターは山田さんだったの?
でも久和さんは文法の起源を思いつくから、かなり文法についてお考えのいわば「文法マスター」なのでは?
 

[13]深水遊脚[11/06 09:54]佐々宝砂
釣りでしょ(笑)
無邪気に母を慕う子供が友達や近所のおばちゃんとの会話で自分の母を「お母さん」といったところで、注意する人は稀でしょうね。子供の会話をリアルに描くならその子供が発する言葉として自然なものを選ぶ。きちんとしつけられた子供を描くなら敬語はルール通りに喋らせる。自由にのびのびと育った子供を描くならそれなりのセンスで喋らせる。ルールの逸脱具合も考えながらするからこちらのほうが難しいかもしれない。使い分けるには基本の正しいルールは知っていなければならない。だから正しいものを知っている人のコメントは大事だし、もっと敬意を払っていいと思うな。注意されたって、命を取られるわけでも、世界が終わるわけでもないんだから。


#釣りじゃなかったのね。
#久和さんごめんなさい。
 

[11]山田せばすちゃん[11/06 09:35]
親族に尊称を付けない、というルールは社会慣習であって文法じゃねえだろ。
 

[10]石川和広[2008 11/06 09:32]
文法マスターってだれ?(恐る恐る訊いてみる)


#釣りなのかな…そんな気配が濃厚なんだけども
 

[8]石川和広[2008 11/06 08:06]佐々宝砂深水遊脚
今朝のネコ時計のネコは足をなめていた。カワユス。

別に子供がきちんとした古語を使ってもいいし
そんな奴じっさいいそう。でも、それが愉快に見えるかはまた別。

高校生で漢字・平かなさえ怪しいやつもいるし
あるいは文豪みたいな格調ある文章書く奴もいるだろうね。
三島由紀夫だってまあ高校生のときからいろいろ書いていたのだし。

何かっていうと、なんか「らしさ」って何なんでしょうかと。
それはまあ会社員ぽくとかあるよ。背広でネクタイとか。
その下がジャージだったら心配だけど。

いや年相応にすることは俺は大事だと思いますが。

けど、らしさとか、そういうのが社会的なお約束として機能しているから
だから、そこからの逸脱が可能だというのは、なんか
微妙に違和感があるねえ。
還暦はみんな昔は赤いチャンチャンコ着たけど今の60は若いよねえっていうのは普通な話で。で、ふだん真面目な奥さんが、金髪にしたから
意外だとかイメージがとかそういうことだとしたら別にそんなに面白くないよね。

そうでなくて、佐々さんでは「ゆーと」って使っても賢そうに見えて
ちがう人が「ってゆーと」って使うと急に軽薄に見えるとしたら
その違いは何なんだろうか。こういう話、案外大事と思う。
それは佐々さんが文章や文学のルールを知っているからだろうか
それとも佐々さんのそういうキャラ立ちみたいなもんがあって
それを佐々さんに合ってたり佐々さん自身うまく制御してるからか
あるいは俺が勝手にそう言うイメージをもっているからかな。

しかし読者と作者と作品の中で共有されるイメージみたいな。
村上春樹だなあっていう文章とかあるじゃない。
そういうのはどこから生れてくるんだろうか。

で、キャラが立っている人ばかりではないからさ。

文法の問題は置いとくけどさ、字が間違えようがなにしようが
おもしろいこと書く奴はいる。
けれど、だから一般化してさ、私は字は間違っているけど
面白い文章を書いているってアピールいわれても困るし。

だって文章を読むってさ、やっぱり興味あるから読むのだよ。
で、俺は合評とかでも字間違ってるよ〜とはいわないよね。
ここの字、これどうなんかなあって聞く。

で、興味が持てない、面白くないという兆候のひとつに誤字とか誤用ってのはあるんだけど当然それが1位じゃなくて。やっぱなんかわからんけどぐっとくるってのが大事だぜ。

それとは別にあんまりいい加減な言葉を使う人がいるとさ
ちゃんと考えているのかなって思うよ。文章のこと。俺も指摘されることはここではないけど別の場所ではある。
やっぱりなにくそ〜って俺はなるよね。誤字誤用とかじゃなくて
つまんねえからいろいろ注文付けられているとわかっていたら。

でもなにくそ〜って思うから自分がいいたいことを吟味するし。
なにくそ〜って思ってもまあ色んな人の指摘の作法に腹立つだろうけどね。

けど、文章添削ではなくこの文章に対する思いがどういうものか
指摘したい時はいっていいと思うし。
それを伝えることは大切だし。
指摘されてまあ、なにくそ〜って思うからこいつを見返してやるという感じでやったらいいと思うんだけど。
だって、いろいろいわれて気分いいことはない、俺は。
そういう自分はいるんだよ。で、それはみんなそうなんだよな。

だからって自尊心に配慮しすぎるとさ何も言えなくなるけどね。
でも、尊重した上で批判するっていうのが大事だと思うの。
いくら相手がバカっぽく見えたって、いろんな世界を人は生きているからね。
(ながくなった〜スマソ。)
 

[6]佐々宝砂[11/06 07:43]深水遊脚
>>5
ケースバイケースじゃないですか。
上司にいうときは「母が退院いたしました」でしょうけど
親しい友だちには「お母さん退院したよ!」でしょうし、
私のぞんざいな文体では「わしのおっかさん退院したぜ〜」になるのでした。

そして詩を書く場合にはこんなTPOを守る必要はありません。TPOが守られていないので印象を強くすることもあります。たとえば萩原朔太郎に「いいえ子供」というやや異様な呼びかけが出てくる詩があって、その異様さが効果的だと私は思います。
 

[4]佐々宝砂[2008 11/06 05:15]白井明大
私の基本的な考え方、考えてみたら萬草庵に掲示してありました。

>一句中に口語と文語を混交すること、漢字や語法の間違い、季重なり、ダブル切れ字なども許すぞ。ちなみに普通の俳句結社ではいずれも許されない。私は許すことにしたけど、お約束破りなんて想定内のことに過ぎない。できれば私の想像を超えてくれ。こんなに自由で真面目な俳句投稿板は他にないぞー(過大広告)。ま、自由を味わいまくっていると「句」とは何かわからなくなるのが必然。

私はかつて俳句結社に所属していて、結社主宰に徹底的に訂正されるという経験をしてきました。誤字脱字はもちろん訂正されます。文語と口語の混淆も基本的にはいかんということになってます。それはそれで勉強になったのですが、「えーそんなのまで訂正しないでよ」と思うこともままありまして、私は結社を脱退しました。萬草庵の決まり事がゆるゆるなのは、結社の厳しさの反動ともいえますが、ゆるゆるなルールの中から面白いものが出てきたらいいなという考えから生まれたものでもあります。ただ世の中はそんなにゆるゆるな人ばっかりじゃないよ、という意味で、「ちなみに普通の俳句結社ではいずれも許されない。」という一文を添えました。

文法や文章で、何が正しくて何が間違っているかは、ほんとうのところは誰にも決定できないものだと思います。しかし、何がふさわしくて何がふさわしくないかは文章ごとに決まるものなのではないか、と私は考えています。たとえば、作中の人物が俳句をつくるとして、作中人物が小学校低学年だった場合、その作中作が完璧な文語と季語を用いた本格的なものだったらちょっと似つかわしくない。ちょっと間違ってたり口語的だった方がそれらしいと思います。高校生あたりが短歌を作るという設定だったら、ら抜き言葉など使用するとそれらしくなるかもしれません。明治時代の文豪が俳句を書くという設定なら、ら抜きなんか論外で、難しい漢語や文語を使うといいでしょう。つまり、それらしければいいのではないか、と思うのです。

私はときおり「ゆー」「とーり」「せんせー」などという伸ばす記号を使った表記をします。これは厳密に言えば間違いです。しかし私はその場その場で「ゆー」「とーり」などという表記をわざわざ選んで使います。具体的に言うと、主に文章を軽く見せたいときに使います。そんなにたいした話じゃねーんだよ、というサインのようなものかもしれません。

逆に、私は、がちがちの文語らしきもので書くこともあります。口語と文語を適当に混淆して書くこともあります。前に孤蓬さんが間違いを指摘して下さった拙作「伊栖之湖周辺の伝説について」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=158716は、基本的には古風な口語で単語ひとつだけ文語が使われています。孤蓬さんが指摘して下さったのはその文語ではありませんでした。孤蓬さんが指摘したのは、単なる仮名遣いの間違いでした。だいたい大正期を想定した拙作の意図を孤蓬さんは汲んで下さったのだと思います。

言葉は時代とともに変わるものですけど、いったいどのあたりの何を表現したくて文語(らしきもの)を使うのか、使う前に一歩とどまって考えてできたらちょっと調べたりすると、おのずとふさわしい表現が書けるのではないかなーと私は思います。
 

[2]ふるる[2008 11/06 00:54]
孤蓬さんへ

お返事ありがとうございました。

おっしゃるとおり、作者に「ここ直せ」という権利は誰にもありません。
ですが「正論の持つ逃げ場のなさ」はどうでしょう。
正論や一般論は「罪」や「誤り」を照らし出すものであり、それは往々にして「ゆえに」「お前が悪い」「間違っている」「悔い改めよ」という結論とセットです。
と私は思います。日常でわざわざ「これが正しいんだよ」と言う時は必ず「だからこれ間違ってるから直した方がいいよ」という言葉とセットだから。それで自分の非を責められて
「うぐぐぐ(正論持ってこられたら立つ瀬ないじゃん)・・・ごめんなさい」
となることもしばしばですし。
ジャッジするというのは、作品の良し悪しをジャッジするという意味ではなくて、
「強力なカードである(直すべきである、という強制力を暗に持つ)正論を突きつけていいものかどうか」を誰がジャッジするのか、ということです。
いきなり突きつけられたら作者は、
(私はこれがいいと思ってるのに、正論持ってこられたら立つ瀬ないじゃん)(直す?直さない?どうしよう?)となって、孤蓬さんは「直すかどうかは作者の自由」と思っておられるのにもかかわらず、作者側は自由を奪われた感じで、苦しいと思います。
だから指摘してもいいですかと断るなり、ついでにいいところを褒めるなり、誤りの指摘がメインですよ、というのではなくしたらいいのかなと。

まあ、「正論」や「一般論」や「辞書に書いてあること」や「歴史が証明しているもの」を突きつけられた時に何をどう思うかは人それぞれで、「そんなのただの正論だろ」「そんなの見せられても自分は違うしなあとしか思わない」と軽くいなせる人もいると思うので、あくまでも私個人の感想ですが。

長々と失礼いたしました。
 

[1]石川和広[2008 11/05 07:56]虹村 凌あおば深水遊脚
わあ一番乗りじゃ〜
つうても喋ることが…まずはご挨拶。おはようございます!
今日もいい天気。ねこ温度計昨日初めて知りました。
なるほど、東京の温度なんだな。大阪はちょっとひんやりする程度。
なんとなくまだ冬布団では暑いのです。
(ほんまに雑談じゃ汗)
 

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