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サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと (創作系)スレッドオペレーター:足立らどみ
サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書くスレッドで
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。
このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを
一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで
新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。

要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。

[140]足立らどみ[2024 04/10 04:45]おぼろん
〉リハビリ(笑)。

そか回復期系を回しておられるのですね
それな。ならやむを得ないわけか。謝辞

「研究」と「教育」と「実践」の3つが
束になり重く太く意味が動くのだからさ

この社会も大きなマニ車だと思ってたら
誰もが案外とリア充で生きられるのかも

どこかなにかがかわったのかもしれない
気づきを頂けました。ほんとに感謝です。
 

[139]おぼろん[2024 04/09 23:11]
リハビリ(笑)。

追記。

それと、アジテイターにはなりたくないのです。わたしの書いたことが雑多な印象になったようで、ほっとしています。
 

[138]足立らどみ[2024 04/09 22:50]
おぼろんさん、駄文長すぎるよ。
内容的にもっと短い文でいいのに
byte数多くても時給上がらんよ
(t_TVなぜ?
 

[137]おぼろん[2024 04/09 19:17]
頭がぐらぐらして吐き気がします。この後少し寝るかも。

>足立らどみさん

褒められても何もでませんよ。「後輩たちに伝えている」は過分で、わたしがそう思ったらおこがましいかな。何せ、今のわたしは公平さとか公正さとかは全て捨ててしまおうと思っているものですから。
詩の「日常生活環境との繋がり」ということなのですが、その前に──わたしの詩の定義は至ってシンプルです。「詩とは、詩的であると歴史的にみなされてきた事どもを文章として表現する、その歴史そのものによって保証される文化」となります。
なんだ、これじゃいつから詩が始まったのかが全然分からないし、これから未来のことも書かれていない、詩の定義に全然なっていない──と考える方が、多分ほとんどだと思います。憤慨する前に、まず「あなたの詩論をどうぞ」というのがわたしのスタンス。
わたしが上に書いたことの説明をもう少し。わたしが上に書いたことに付随して、例えば平安時代であれば、「詩」という言葉は「歌」という言葉を、「詩的」という言葉は「あはれ」という言葉をもって指し示されていたものだ……と、わたしは思っております。
また、歴史の起点が明示されていないのにそれを定義として用い得るのか、という疑問もあると思います。これについては、「言葉」さらには「固有名詞」ですら、その起点(原典)を明確に指し示すことは不可能である、というクリプキの考え(指示の因果説)に基づいて、「言葉」というものはもともとそうしたものだ、と考えていただければと思います。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/1/0/1_49/_pdf/-char/ja
ちょっとだけ検索してみた結果ですが、「指示の因果説」については上に書かれていますね。信じられないという感想も、疑わしいという感想も、多分多くの方が抱かれるだろうと思うのですが、要するにコロンブスの卵です。結構古くからある議論ですので、参照してそれぞれに考えていただければと、思うものなのです。
詩の「日常生活環境との繋がり」についてはもっとずっと難しいですね。何しろ、そうしたことを書くには詩の定義だけでなく、人間の定義や社会の定義まで分かっていないといけない。そして、それが指し示すものは「歴史的現在」の人の姿です。
足立らどみさんがおっしゃりたいのは、文面から推し量ると、「詩って生きるのにも役立つよ!」ということなのかな、と思うのですが、わたし自身はこれは、「正しい」かつ「正しくない」考え方だと思います。要するに、場合によるのであって、それで詩を規定してしまうことは詩の可能性を狭めるものでもあると思うのです。
問題は、「歴史的現在」というのが、「これからの未来」も含むという点にあります。要するに、「これからの未来」というものを時間軸で表すと、それは開空間ではなくて閉空間になっているのですね。「現在<=これからの未来<未来」という図式です。ただ、こうした見方をすることによって詩というのは進歩・進化し得るものとして保証されます。
ここでは、あえて詩らしくない言葉で説明させていただいていますが、詩というのはそもそも詩的な言葉を用いることでしか、説明したり語ったりすることができないものだと思っています。それについて、まずそうした文化が根付いていること。例えばポーの詩論などが評価されるのも、それが詩の言葉で書かれた詩論だからでしょう。
と同時に、わたしは言葉というもの自体が自己言及的な構造を持っているものだと思っております。この点については、ちょっとゲーデルの不完全性定理の「すべての言語への応用」というのに絡めて考えてみないといけないところ。数学にしろ言語にしろ、同じ決まり事(「公理系」)という定義に基づく、秩序構造(「クラス」)なのです。
また、こういう見方も出来るのではないでしょうか? 人、社会、宇宙といった構造はフラクタルな側面を持っている、と。人体は小宇宙だと言われることがありますよね。また、宇宙は細胞のような構造をもっていることが科学的に示されています(ボイドと銀河フィラメント)。
要するに、人とは何なのか、ということがそもそもとてつもない問題で、わたしたちはわたしたちなりに接した人と接する、会話できる人と会話する、理解できる人を理解する、といったスタンスを持つことがより重要なのだと思います。そうしなければ、社会に参加する前に、人と接する、という第一歩が始まらないためです。
わたしが詩論は書かずに詩人論は書く、というのも、そうした「文学的世間話」のなかから「詩の本質」が光としてかいま見えてくることを期待してのことになります。もっとも、そうした傾向はわたしがクリスチャンだからであって、「隣人を愛せ」という言葉に盲目的に従っているからです。偉くもありませんし、文学的に重要な姿勢でもないものです。
ただ、詩の「日常生活環境との繋がり」ということについて、今詩における表現として何が求められているのか、ということを考えれば、それは現在にあってますます重要になってきている「自由」ということじゃないかな、とは思っています。カオスではなくて秩序としての自由。「これは自由だ」と自信をもって言える、そうした限りにおいての自由。「多様性」なんていう新しい言葉は、「自由」という言葉の言い換えにすぎないと思っています。なので、教育関係者や為政者らがとんちんかんな「多様性」を振り回すのではないでしょうか?
多分、足立さんへのお答えにはなっていないと思うのですが……ただ、詩を読むということは作者における直観をトレースする行為であり、精神的な面において理学療法的な効果ももたらすものだろうと思っています。作者にあって、詩を書くためにはインスピレーションを待つ必要があるように、読者の人生にあっても詩を読むためのインスピレーションが必要となるように思うのですが、どうだったでしょうか。

まとまってもいませんし、これは「考えたこと」であって「感じたこと」ではないのですが……これもわたしらしい解答と言うことで。

※少し修正しました。
 

[136]足立らどみ[2024 04/09 08:30]鵜飼千代子
歌じゃなくて
管を巻く
 

[135]足立らどみ[2024 04/09 05:55]
おぼろんさんやハァモニィベルさんの「ストイックな学究」は凄いし
このサイトで文章を露わにして「後輩たちに伝えている」のも大切で
あと欲いうと日常生活環境との繋がりをその字で表現してみて欲しい

「正しい生活をしていたらその人の才能や性質は正しく発達していく」
のは素敵な考えだけど、今の令和の現実の社会は表面はサラサラでも
実際はどろどろの沼のなかで今後どう進めば良いのかもがいていて痛て

平成にいた場末の居酒屋で知らない若者(私)にうだをまくお年寄りには
反面教師でなりたくないなとこのこのサイトが陶冶しても足りない言葉の
隙間を埋め尽くしてくれる毎日を提供することで私も愉しみたいのだろう

お別れの言葉をいう季節は過ぎてしまっても
私は私の心の詩人たちにやっと「さよなら」と
言える、そっと呟ける
そんな気がするんだよね
 

[134]おぼろん[2024 04/07 19:16]
ハァモニィベルさんらとの会話を通して……。
例えば、孤高にすごした偉人らにとっても、「(その心が)救われた瞬間はあったのだ」と、考えることは、わたしたちが豊かに生きることにもつながってくるのでは、と感じ。
あくまでも、このスレッドは「詩とは何か」について考察する場ですが、孤独というのは詩に含まれる重要な要素であり、ある時にはその詩人における唯一の要素でもあり……
そうしたことを鑑みても、「救われた瞬間はあったのだ」という思いを持つことは重要なのではないか、と。いろいろと記憶を探ってみましたが、こうした感覚はV.E.フランクルの主張に近いかもしれません。
要するに、「それでも人生にイエスと言う」という(書名にも現れている)スタンスです。個人的な感慨を言えば、ここ(現代詩フォーラム)は、芸術論のみを謂いする場であってはいけないような気がします。また、それだけの歴史ももっているサイトだと思っております。
 

[133]おぼろん[2024 04/07 01:07]
ひだかたけしさん。

>要は融合、
>批判差別優劣化の理性ロゴス論理

まず、上記の件について、わたしとひだかさんとのメールのやり取りにおいて取り交わした言葉でもある「融合」ということについて、この掲示板(会議室)を目にした人にとっては、馴染みのない、唐突な言葉に感じられるだろうと思うのです(メールでも数度、意見を交わしましたね)。
ひだかさんの人としてのあり様をわたしなりに目にし、追究して、わたしなりの、ひだかさんにおける「融合」という表現にたいする理解や意見もないことはないです。ですが、この現代詩フォーラムの「会議室」という場の性質上、もう少し詳しく「融合」という言葉について述べていただけるよう、お願いするものです(「詩」的な思考・印象にそった言葉でも構いません)。
もっとも、この場が独り言やアフォリズムを呟く場であると考えられているのであれば、上記のこと、また下記のことはスルーしていただいてもかまいません。
上に書いたことを踏まえて……、ひだかさんがわたしの発言のどの部分をもって、「融合」という言葉を感じ取ったのか、わたし自身でも少しく把握するものではあります。例えば、「『対立』というものは『対話』によって解消され得る」という部分もそれでしょうか。
ですが、今のわたしは「言語」というものを「口頭での会話/コミュニケーション」に限られるものとは捉えておらず(厳密には、「口頭での会話」というのがはたして意味を指示し得るのか、ということにも疑問を持っています)、認知言語学の考え方に添った「言葉(あるいはコミュニケーション)」の理解というものをもって、コメントなどを書かせていただいています。──ここでは、エクリチュール、すなわち「書き言葉」については取り上げません。
ひだかさんの認識は深い、深いと感じます。ですので、お時間があれば、また体調が許す限りにおいて、「融合」という考え方/感じ方について、もう少し詳細に述べてはいけませんでしょうか。でないと、この「対話」を目にした方たちは、「ああ、あれはあいつらの馴れ合いだね」という感想を持ってしまうのでは? と思うものなのです。
詩的言語による表現、批評的言語による表現、それは異なってしかるべきものだと思っています。であれば、着地点はどこにあるべきか? それは、「馬鹿でも分かる表現」「猿でも分かる表現」だと、わたしは思っています。わたし自身が「馬鹿」であり「猿」なのです。ですが、そうしたスタンスは、今現在の現代詩フォーラムにおいては、「なくてはならないスタンス」だと思っています。
「認知言語学」は「生成文法」という考え方に続いて現れた考え方で、簡単に言えば脳機能にもとづいて「言語」の使用ややり取りなどを物理的な視点、あるいは脳科学的・生物学的な視点にたって解釈する、という言語学の手法になります。
わたしがとくに注目するのは、Wikipediaにも記載されている「意味は静的なものではなく事態把握・語用論的面を含めたダイナミックな『概念化』として記述する」という点でしょうか。要するに、「言葉」は「物理」である、という考え方です。……もう少し踏み込んで、わたし独自の解釈を加えるなら、「言葉」とは「習慣」であり「歴史」である、といった考え方になります(文学慣れしてしまっていて、このような書き方は実は正確性には欠けるのですが)。
こうした考え方が、ひだかさんの急な課題として認識されないようであれば、どうぞスルーなさってください。なお、取り交わしたメールの内容などについて、具体的に言及することは今後ともありません。何卒、この「現代詩フォーラム」という公共の場において、「読み手の理解を深める」という考えにいたったときにのみ(あくまでも善意のみに基づいて)、レスをいただければと思うものです。

ハァモニィベルさん。

>人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう

深く、また同意する言葉です。

※眠れず、編集しました。
 

[132]ハァモニィベル[2024 04/06 23:02]鵜飼千代子
>>120 について、以下補足しておきますね。最後に。

某県知事(もはや早くも元知事ですが)の差別的発言とそれへの糾弾的報道。
この両者に対して、ワンセットでね、僕はこう考えたわけです。

マスコミが差別反対の立場を取るのはいいとして、であるならば、
〈差別発言〉に対して彼らも差別すべきじゃないだろう、とね。
「サベツだ。サベツだ」と低能に騒ぐのでなく、発言の内容そのもの自体の非論理性を追求すべきなんでね。

「知事、貴方は例外は無視ですか?」とね「一次産業従事者にも当然優秀な人はいるし、公務員にも当然低能な人がいるのに、
個々の実情や実態は見えないんですか?」と、まともに疑問を呈すればいい。行政は個人個人の事情は無視ですか?
とね。

しかし、マスコミ諸君はなぜか、そういう風に言えない。なぜか?
それは、彼らもまた、同じように、例外や個々の事情は見えない
そういう公式処理のメガネをかけてるからでしょう。何でも一定の型に嵌めて公式で処理する無思考なメガネをね。

だから、両方とも私からサルに喩えられてしまったわけです。



サベツに関していうと、勿論、権力者による非合理的な差別は、憲法に違反し許されるものではありません。
ただ、合理的な差別は限度を超えない限り許容されます。法というのは最低限を画する社会の規則ですから、
ですから、道徳の方が、もっと広く遥かに高いモラルを個々人に要求します。
その中でもおそらく人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう。《仁》という愛と思いやり
を説いたわけですが、その人が、はっきりとした差別(区別)をしている事がありますよね。

   小人 と 君子 の区別

がそれです。


アノ元某県知事も、「世の中には小人が多い。だが君たちは君子たれ」、とでも言えば一理あったでしょうが、
御本人が君子といえるほどの人物ではないから、そういう風には言わないわけで、ただの功利主義の小人の差別的言辞しか発せない。


君子と呼べるほどの人物ならば、きっとこう言うでしょう。
「いま目の前に大勢いる君たちの中に、どれだけ、君子と呼べる人材が居るのか、いま、わたしには判らないが、
君たち一人一人の、これからの言動によって、それは自ずと明らかになるだろう」


と。そんな事を感じて、>>120 は書いたわけでした。(以上補足まで)


いろいろ勝手に書かせて頂き有難うございました。失礼しました。
 

[131]ひだかたけし[2024 04/06 22:56]
おぼろんさんの感じ方考え方、
要は融合、
批判差別優劣化の理性ロゴス論理
超え出た声ヒビキ
なんだなぁ…と、直観としてゝ。
 

[130]足立らどみ[2024 04/06 06:50]
めもめも

やっと水飲み場迄はたどり着いた、かなワン?かなワン?
残りの人生、まだまだ続くのだからさ頑張ってほしいかな
この日このときこの場所であなたと出会ってしまっただけ

さて、私も気持ちを新たに生きるだけ生きていこう
東京砂漠で地面ばかり見つめないで上を向いて歩こー   
新しいスタート2024年度はすでに始まっている
 

[129]おぼろん[2024 04/05 23:06]
「孤独」に関するわたしの認識について、わたしの考えていることを追記させてください。まず、「孤独」という言葉は文字通り「独りにしてある」ということを意味しているものと思います。
ここで、ひだかたけしさんの言葉を借りますが、「孤独」と「孤立」とは、やはり異なるものです。
日本における文章表現の課題として、現在使われている言葉の多くが、主に漢字による言葉のことを言っているのですが、明治維新以降(もちろん、それ以前の文化人たちによる「言葉の翻訳・翻案」も含まれます)に作られた、「やっつけ感」のある言葉であることは、文学に携わる者は深く認識しておかなければいけないことであると思っています。
例として、批評家の小林秀雄は「常識」や「表現」といった言葉に関して、それが西洋由来の(言葉として使用された歴史の短い)言葉であり、その言葉を使用・理解する場合には、深い注意が必要である、という旨のことを書いています(小林秀雄著「常識について」などを参照していただければと思います)。
わたしは若い時期に小林秀雄の考えに触れたので、そのように「言葉」というものは「流動的」であり、かつ時によっては「個人的」なものであり、また「時代によって変遷する」ものである、という認識を持っております。
わたしは、性格上、ディベートですとか、論戦においてマウントを取る、といったことを好みません。これは、イギリスの作家・批評家のE.M.フォースターの考え方に深く感化されてのことなのですが、「対立」というものは「対話」によって解消され得るものと考えております。
わたしもネット初期から文章を投稿しており、当時の活発な議論、闊達な論者の意見は、少なからず知っております。ですが、今重要なのは、「対話においてマウントを取る」ということではなく、対話の過程においてさまざまな知見が披露される(そこには、個人としての考え方や思いも含まれる、否むしろそれこそが重要である)、そして、議論に関わった者や、それを目にした者がさらに認識や理解を深める(ここでは、「知識」ですら、排斥されるものではありません)ということなのではないでしょうか。
足立らどみさんとハァモニィベルさんとの「論戦」のようなものを傍から見ていて、そういうことは今のインターネットでは貴重だなあ、と感じていました。
わたしは、(わたし個人における主義なのですが)「解題」というものを好みません。例えば、文芸批評という文章表現などは、「読書体験」を一つのノンフィクション(場合によっては、フィクションでさえあり得る)として再構築する行為であると、考えています。
前置きが長くなってしまいましたが、「孤独」ということの解釈・認識・受容においては、まず「孤独感」というものをやはり最重要視してとらえなくてはいけないことなのか? と、ハァモニィベルさんの投稿を読ませていただき、再び感じました。
こうした感じ方(考え方、ではないですね)は、”ディベート”や”マウントを取る”といった考え方(生き方)が重視されがちな現代にあっては、「再度改めて深く感じ、受け入れなくてはいけないスタンス」であり、場合によっては「新鮮なスタンス」でもあります。
わたしは、例えばWikipediaにおける「典拠第一主義」を評価しません。何よりも、Wikipedia自体がほぼインターネット上における文献のみに依存しており、正確性もないどころか、時には「全く誤りである」記事も多くあるからです。このように、文章(言説)における信憑性というものは、はなはだあいまいなものです。時として、「個人の感想」に由来したほうが、真実に近い場合もあります。
再度、「孤独」という言葉に帰りましょう。「孤独」ということを深く、考え、感じることは、「人が精神的に豊かに生きること」にもつながってきます(それが人間という存在を再解釈することだからです)。ハァモニィベルさんのおっしゃる通り、人は本質的に孤独なものであり、それは誰によっても(神によっても)変えられないものです。
ですが、長年文学に(アマチュアながら)携わってきた者として、この「孤独」という概念を最重視することは「独我」という短絡的な世界観につながってしまうのでは? ということも危惧するものなのです。「独我」という世界観は、哲学という分野においては”広く使われ/知られている””世界観/考え方”であり、時によっては”理論/議論”を進めるにあたって、有用な方法ではあります。
「孤独」という言葉の認識について、わたしなりに迫ってみましょう。「孤独」という言葉に翻案されるのを待たず、そうした感覚はわたしたちにとって日々感覚されることです。
そこで、わたしたちはなぜそうした「日々異なる概念」を「孤独」という言葉に”翻案/集約”しようとするのでしょうか? わたしたちの感覚とは言葉によって代表(代替)されるものではなく、保証されるものですらなく、いたってあいまいかつ「肉体的(身体的)」なものだからです。ある個人Aにおける「孤独」と、ある個人Bにおける「孤独」とは、全く異なった感覚・知覚であるかもしれず、否むしろそうであろうとも思われるのです。
でしたら、わたしたちはなぜ「孤独」という言葉を使うのでしょうか? それは、個々人間、あるいは個人と社会の間における知覚・感覚を標準化することによって、相互の理解を深める(または一から構築する)ということを目的としたものであるからだろうと考えています。安い言葉ですが、わたしたちは「相互のコミュニケーション」のために、言葉を使うのです。
詩人というのは、えてして、というよりもその存在理由自体として「自分流」の言葉を使う存在ですし、「人」の集まりという社会においては、そうした存在はなくてはならないものでもあるのです。
「孤独」という言葉は、そうした存在、あるいは人という存在の基底における、「ある種の慣用句」「スラング」ですらあります。本質は言葉自体にあるのではなく、個々人の意識・思いにあるわけです。ですが、そうしたことを他者に伝えようとするとき、そこにはどうしても齟齬が生じる危険性をはらんでいます(人と人というのが、根本的に異なった存在であるからです)。
そのことを「後から理解しあえば良いや」、とわたしは考えてはいません。その一次時間において、”会話/対話”する「者たち」は、言葉の相互理解を前提としていなければならないのです。
ただ、わたしはここで再び大きな影響を受けた小林秀雄の”感じ方/考え方”に帰るものなのですが、「孤独」という言葉を言葉として、あるいは意味として、あるいは感触としてとらえるとき、わたしたちはまず日本語的な表現である「ひとりある」という表現に帰らなくてはいけないのでは? と思うものです。
明治以降の西洋化された社会にあって、わたしたちは「孤独」という言葉も、反省されず日常語として使用される言葉として、無自覚に使ってきたものと考えています。だからこそ、とくに(戦後以降の)文学においては、「孤独」に関して、さまざまに表現してこなければいけなかったわけです。
ハァモニィベルさんが「孤独」という言葉を使用されるとき、そこにハァモニィベルさん自身の経験・生きてきた歴史・感覚といったものを見取らなくてはいけないことは、わたし自身も認識しています。それが「人を分かる」ということです。ですが、「孤独」という現在では標準化してしまった言葉を使う以上、そこには「異なる認識や理解」「再解釈」なども必要となってくること、を、「わたし自身の思っているところ」として、認識していただければ幸いだと思う次第です。

……今回投稿することは、急いで補筆していることでもあり、より正確に読み手の方に分かっていただくためには、より精確な表現が必要なことと、思っております。とりあえずの返信・補筆として。
 

[128]おぼろん[2024 04/05 21:58]ハァモニィベル
ハァモニィベルさん。

反論でも反証でもなく、読み手のための注釈といった気もちで書いたものになります。ハァモニィベルさん自身の投稿作も読ませていただいておりますし、そこに深い「孤独」についての認識があることは尊重いたします。また、今回の書き込みによってより深く理解できたと思います。
まず、誰かの孤独について(彼/彼女が孤独だったのか、どうかという点について)、本人の言葉や思いを尊重することは大切だとわたしも思います。ですが、客観的に見て、「彼/彼女が孤独だったのか」ということを、他者として考え、判断する、ということも大切だと思うのです。
今回、ハァモニィベルさんはアインシュタイン自身の言葉を引用してくださいました。それによって、読み手のアインシュタインに対する理解も深まるものと思います。繰り返しての補筆になりますが、わたしはあくまでも「読み手のための注釈」という気もちで当該のレスを投稿したことは、どうかご理解いただければと思います。
人における「理解力」(わたしが思うところ、それは「共感力」という価値感に近いものなのではと感じます)というものを重視されるハァモニィベルさんの姿勢は尊重したいと思います。
 

[127]ひだかたけし[2024 04/05 21:56]
あ、ごめんなさい(_ _;)

なりませぬ

でっす。ゝ
 

[126]ひだかたけし[2024 04/05 21:54]ハァモニィベル
追伸

孤独 と、 孤立 を履き違えてはなりませむ、
なんて誰に向けてイッテンダカ解りませんが…
 

[125]ひだかたけし[2024 04/05 21:50]ハァモニィベル
私、においては全く独り です、実際。

此処まで辿り着くには随分と色々在りましたけどね笑。√
 

[124]ハァモニィベル[2024 04/05 21:32]おぼろん鵜飼千代子
おぼろんさん曰く
  「アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ」
というのは、一応、反論というか反証のつもりなんですかね。

私が、アインシュタインも孤独だった、と言ったので(笑)

だとしたら、もう少し反論の仕方を緻密にできませんか?

私が言う「孤独」の意味を、充分深く探求した上で、私がどういう意味で言ってるのかを、
貴方なりにきちんと解釈を示した上で、アインシュタインの場合は、私のいう孤独には合致しないと、
そういうふうに反論するのが、知的でかつ誠実な反論の仕方ではありませんか?

で、貴方が「アインシュタインは孤独ではなかった」と言う根拠というのは、
次の二点があったから、だと言ってますね。
「評価」と「親しい交流」があったからと。この二つがあれば、その人は孤独ではない、とね。
そんな風に、人間の《孤独》というものを単純に考えちゃえるヒトなんだな、と貴方の事を思い知りました。

次の言葉は、広く知られてるアインシュタインの言葉です。


「人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて悪意に満ちている。
ここで知っておかなければならないのは。人間もほとんどが水で構成されているということです。
ベルリンでも何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は生まれつき孤独なのです」


アインシュタイン本人が仮にこう言わなくてもね、
そもそも人間というのはもともと本質的に孤独な存在なんですよ。
そう感じないで誤魔化して生きられるヒトもほんとうに孤独じゃないとは言えないでしょう。シアワセというだけでね。
また、強い孤独に耐えられない心が卑弱なヒトもいて、その場合はフコーでしょうが、そういうヒトも私の視野に入ってはいません。
孤独を感じながらそれでも豊かな心で生きられる人が極僅かですがいるわけです。私が孤独だと言うのはこの第三の人たちです。

アインシュタインの言葉をもう一つ引用しておきましょう。


 「私は今、孤独の中に生きています。若者には苦痛だが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に」


さて、「アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ」と言う おぼろんさん。ぜひ彼の言葉にも反論してください。

私の使った「孤独」が、孤高という言葉に近いことは、おぼろんさんには想像も付かなかったのでしょうね。
人の言葉を自分勝手にしか読み取れず、<わからない>のだから。
 

[123]おぼろん[2024 04/05 18:03]
アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ。当初大学での教鞭を執るといった職につかず、特許庁の事務職員として勤務することになったのは、諸事情あってのことで(大学に適当な空きがなかったからだったと記憶しています)彼の研究そのものは早くから評価されていました。「一般人が物理学に革命を与えた」というのは後に作られた伝説ですね。アメリカへ移住してからも、数学者のクルト・ゲーデルらと親しい交流を持っています。Wikipediaには記載がありませんが、適当な科学の解説書などには、そうした逸話も載っているはずですから、ご確認ください。一方のゲーデルは晩年強迫性障害に悩まされたこともあり、孤独だったと思います。夫人も元踊り子で浪費癖や喫煙癖があり、ゲーデル自身はそのことについては無頓着だったものの、必ずしも恵まれた環境で研究を行っていたとは言い難いものがあります。ニュートンは変人でもあり、錬金術に凝ってもいましたから、ある意味では孤独だったと言えますが、これには自業自得な面もあると思います。
 

[122]ハァモニィベル[2024 04/05 09:56]
ふむ。ニュートンが学会にデビューした時、受けた反応と同じですな。
まあ、ニュートンもアインシュタインも孤独でしたからね。ゴッホも売れなかったし。

サリエリにとっては、モーツァルトは「つまんない」し「わからない」でしょうしね?
 

[121]足立らどみ[2024 04/04 22:02]
ふむ。書いているわりにはとてもとても言いたいことがわからないし
日本猿とゴリラでは目も違うし所謂合理的区別にしかならないけどね

つまんない。高い位の天狗なら有頂天家族で狸や狐のほうがいいかな?
 

[120]ハァモニィベル[2024 04/04 10:51]
アノ「県知事の差別発言」
時事ネタですね(笑)。


天狗猿が、
ニホン猿に向かって、
「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」

と言った。というねアノ。

そしたら、
別のニホン猿の群れがこぞって
「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」
と一斉に報道した。

というね、確か、そんな話だったような・・・

などと発言すると問題ですかね(笑)

というか、
最早、《詩》でしょうね。


これを絵に描いて壁に落書きすれば
たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑)


 

[119]足立らどみ[2024 04/03 07:50]ハァモニィベル
ハァモニィベルさん
「 
だから、読解力の無い人が、跋扈している、と書いたわけです。

それは、昔はちゃんとしてた、という意味でないことは、私の文章を読めていれば誤解しないところですよ。


なるほど、
ここにログを残さない誰かさんとやりとりなさっているでしょうね。
悪き平等はネットに最初からある長所でもあり短所でもありますよ。

早稲田大学政治経済学部教授経歴の勝俣静岡県知事の職業差別発言!
ハッピーアイスクリームなお方ですよ、日本人皆んながもっともっと
現在詩漬けされれば、まだ、この邦のゆくえも上昇するのでしょうが
まあ、私たちにとっては、実はどうでも良いことなのかもしれないね。

大学受験時代が1番純粋な国に住む人たちがえてしてアッパーライフを
味わっている世界は、ベクトルを隠してしんを示さぬ岸田内閣と同じで
差別主義者が勝手にご都合解釈してしまい心の貧しい世界観しかみえ
ないわー


がんばろう(^^)
 

[118]ハァモニィベル[2024 04/02 18:42]
だから、読解力の無い人が、跋扈している、と書いたわけです。

それは、昔はちゃんとしてた、という意味でないことは、私の文章を読めていれば誤解しないところですよ。

今のTV番組はつまらなさが酷すぎるな、と私が言うとき、過去のTVは面白かった、と私が思ってるわけではありませんからね。昭和の番組も、大した事はなかったけれど、それがマシだったと思えるくらい、今のはヒドイという、
そういうニュアンス、の率直な所感なだけですから。

現在(現代)に対する批判があれば、過去に対する批判も当然あるわけ。
それが、批評の《センス》でしょ?

これは馬ですね、あれはロバですね、と自分の批評眼でみえたままを誠実に言うだけでね。
で、ラバを前にした、熊さんと八っつぁんが、これは馬だとかロバだとか、縁台で議論していたりすると、それはラバだと思いますけどね、と小声だけどハッキリ言うだけでね。

自我の(ネガティブな)防衛機制をしあってる中に、混ざろうとは思わないですからね。

****

一読して、書いてある内容の真意とか、内実が読み取れない人はね、いつの時代にもいますよね。

身分制がガチガチの頃、皆が小学校中退の頃の、東大教授だって馬鹿な人は馬鹿でしょう。
そういうカースト時代には、逆に、小学校中退でも有能な人が沢山いたりしたでしょう。
それが、いわば、昭和のTVの(今と比較すればの)オモシロサと同じような感じですね。

ところが、現代、いまの日本は、大卒が増えたけれど、ほとんどが馬鹿、といった、ヘタレ現象が
どんどんウイルスのように広がっているなぁ、というのがまだそれに侵されてない人の実感なのではありませんか。
それは、いわば、今のTVの度を超えたツマラナサと、関係並行的な感じですね。

コロナ禍も、ある意味、変革のチャンスだったでしょうが、

何を変えるべきで、何を変えるべきでないか、判断できるほど、まだ人間そのものが変わってないでしょう。

ただ、明らかなのは、

 ズルい奴 と 馬鹿 にとっては、、ムカシより生きやすい世の中になっている

というだけです。


観光地で、客がごった返す、飲食店が、美味しかったためしが無いんでね。
また、行列ができてるラーメン屋が、旨かったためしもね。

私は、ただ、それを率直に不味いと言うだけです。(美味しければ絶賛するでしょうけどね。「鬼滅の刃」は秀作ですね)

味覚音痴が当たり前の時代には、味覚が確かな批評は、大変失礼なのかも知れませんね。もしかしたら。、


味覚の無い人が、何杯食べても、味覚が鋭くならないように、
一読で読めない人は、何度読んでも、読解できる筈もないから、それに向けて書くのでは虚しい時代ですが、

歴史をよくみれば
いまだけが虚しい時代というわけではありませんしね。
 

[117]足立らどみ[2024 04/02 07:12]ハァモニィベル
[116]ハァモニィベル[2024 04/01 20:11]Good! さん

まぁ、クロージングして次の方に任せるのも人生なのかもですが、
ハァモニィベルさんの最近のログは辛辣ですよね。一読したら
ヒエラルギーを認めているインド哲学のようにも思えて良いです。
日本で言ったら平和な時代の続いた江戸時代で嫌いではないかな?

あれから150年が過ぎた今の日本に生きていて何も学ばず僕は空っぽと
いって詩は叙情の詩人どもには最終奥義の貝合わせのなかは空っぽたとは
言う資格があるのかという呻きが残ってしまうような余韻も良いです。

ネットのらんを通過してみて悪き平等を経験した今、カースト制度を
理解しながらも、AIに託したら、弥次喜多コンビも直ぐにご隠居に
なって竈門のファイヤーを見つめる刻も来るようにもただ思いますね。

コろナ禍以降、すでに時代は変わってしまったのテスよ
 

[116]ハァモニィベル[2024 04/01 20:11]おぼろん
いわゆる日本人の議論というのを観察したとき、そこでご本人たちは大いに議論してるつもりでも
それは、ただ殴り合って喧嘩してるのと変わらない(=水の掛け合い)ので、どうみても、
ルールのある言葉の格闘技(=ディベート)になってないのを、どうしても、多少頭ある人は、
というか、心ある人であれば、当然ながら、そういう無法状態を深く嘆くわけです。

でも、嘆くと言っても、熊さんや八っつぁんがディベートしてもしょうがないわけです。
それは、結局、《ディベートもどき》にしかならないですからね。

例えば、当事者の片方が、ちょっとだけ小利口な熊さんで、相手が完全なる八っつぁんだと、
熊さんをロンパオーだと錯覚して称賛したりするのも、本物と もどき の区別がつかない大衆ならではの愚かさにすぎません。

結局、熊さんと八っつぁんがディベートもどきをすればするほど、、《ディベート》の方が崩壊していくでしょう。

逆に言うと、ディベートがまともにできる時点で、そのふたりはもう、熊さんでも八っつぁんでもないわけです。


事情は、《詩》でも同じですよ。

熊さんや八っつぁんに《詩》は書けない、というのが私の立場です。
なぜなら、詩が書ける時点で、その人は熊さんや八っつぁんじゃ無いからです。

しかし、熊公や八公には、詩は書けないのです。《詩もどき》は書けてもね。
そうして、やがては、《詩》そのものが崩壊していくでしょう。


もっとも、熊さんの詩や、八っつぁんの詩、だってあるはずだ、と何となく思えそうですが、
それは、ロンパオーの存在みたいに、ただの大衆の錯覚にすぎないでしょう。

例えば、映画「男はつらいよ」は、ある意味、寅さんの詩だと言えそうです。それには人間の笑いと感動があるよ、と。
しかし、あの作品の脚本を書いたのは寅さんじゃありませんからね。作者が《寅さんの詩》として造形したのであって。

映画と詩は違う、と言うなら、山之口獏の詩作品 を挙げましょう。作者の奥にある精神は、決して、熊さんや八っつぁんではありませんよ。

もっとずっと、哀しいほどの高貴な心が、その奥に生きてる詩人なんじゃないでしょうか。

(終)
 

[115]おぼろん[2024 04/01 17:57]ハァモニィベル
昔考えたことで、こういうことがあるのですが、「人間はむしろ互いに似すぎているので、誰かを自分より高く見たり、低く見たりするのではないか?」と。そのほうが容易なのではないか、と。──ちょっと見突飛な意見だと、わたしも思いますし、強く推すものではないのですが、「対等に接するのは難しい」と、最近このサイトの意見でも目にしたように記憶しています。
わたしがそう考えたことは、実は日本的な文化なのかもしれず、高校生だったときの古典の先生は、「日本語には主語がない。『敬語』という文法によって、主格の表現をしている」と言うのを聞いて、はっとしました。そのことでわたしは言葉の奥深さに刺激され、理系から文系に転換することにもなったのですが……。
「日本語にはもともと主語がない」という意見は定説ではなく、最近そのことを主張する言語学者の方たちもちらほら現れているようなのですが(文献を提示できず、申し訳ないです。機会があれば再度調べてみます)、欧米の言語(インド・ヨーロッパ語族)では、明確に主語の表現がありますよね。……アフリカやラテン・アメリカだと、どうなんだろう?
アジア人と欧米人の気質の違い(極論すれば、農耕文化と狩猟文化の違い)というのも、文化、そこから遡って言語の違いにも影響しているのでしょうけれど、昨今、とくにアメリカの文化などは、日本の文化を色濃く受け継いでいますね。……「日本マンセー」をしているのではありませんが、4chanや8chanなどは、日本のネット・カルチャーの影響を受けて誕生したものですし……。
わたしがとくに思うのは、現代のスラングとして、「I guess」という言葉が欧米の文化圏で多用されていることです。これは、直訳すれば「私が解答しますが……」という意味であり、日本語のニュアンスとしては、「~だぜ」「~だよな」というニュアンスに近いと思うのです。口語表現において、「断定」が標準的に取り扱われている。これは、2ちゃん語などの影響を強く受け継いでいるのではないかと感じます。いや……これは言い過ぎかな。もっと調べてみなくてはいけません。
ハァモニィベルさんの認識は適確だと思います。ただ、詩人についての認識はわたしとは異なります。このごろ思うのは、共感よりも対立というのはむしろ大事なのではないのか? ということで。足立さんやハァモニィベルさんがディベートを重視すること、わたし自身はあまり納得していないのですが、社会人としての作法を洗練させるために、それは必要なのでしょう。ブラック労働を課されても反論せず隷属してしまう、という社会は長続きはしない、あるいはしても衰退してしまう。
西村博之氏のように、理論やデータだけで会話すること、「それはあなたの感想ですよね」で済ませてしまうこと、それはそれで社会やコミュニケーションの衰退だと思います。最近は「論破王キラー」などという存在も現れてきたようですが。「詩」という日常言語からは離れている、あるいは離れているべき、あるいは必然的に離れてしまう言語表現が、このような(「現代詩フォーラム」)サイトで、細々と続けられていることは、実はとても貴重なことなのではないかな、と思っています。
 

[114]足立らどみ[2024 04/01 07:33]ハァモニィベル
[113]ハァモニィベル[2024 04/01 00:26]さん
キーボードを叩くシーンのたとえは説得力あります。

あと、
〉詩に、詩で「返信」することも、する人もあるのでしょうが、それは万人の「マナー」なわけではないでしょうしね。

わー、死んだー。
これの返しはむかし他のサイトとのコメントを比較していて連詩の派生のコメント詩的な
愉しみかたとして私が言ってしまったのかもしれませんが詩のサイトならではの表現手段
だと思います。ふう、マナー教室通っていて良かった。メッセージありがとうございます。
 

[113]ハァモニィベル[2024 04/01 00:26]
例えば、あくまで想像ですが、

誰かが、AIと、チャットしているとき、AI が

「駄弁が長いですね」

と応答を返すようになったら、AI も知的生命体になったな、という感じがしますね。

「ずいぶん、日本語が下手ですね」

とかね。

そこまで進化しないように、ニンゲンサマは制御機能を盛り込むかも知れませんが笑。


AIが感情を持つようになることが怖いんじゃなくて、きっと本質は、感情的なニンゲンが理性を失ってしまう事なんだろう、と思いますが、というのは、
例えば、パソコンがフリーズしたりすると、人間は、キーボードを強く何度も打鍵したりしますからね。

怒りを叩きつけても、パソコンと意味のあるコミュケーションができるわけでない(という
理性が何処かへ飛んでいってしまうから)だろう、と比較的理性的な私などは思いますが。

でも進化したAIなら、言うでしょうね。

「明快な言葉で書くのも、マナーではありませんか?会話や、やり取りを期待する場合には」
とか、そんな応答を返すかも知れません。


詩は、曖昧に表現するものという「詩論」がそこかしこにあったりするので、

詩に、詩で「返信」することも、する人もあるのでしょうが、それは万人の「マナー」なわけではないでしょうしね。


もっとも、何となくそんな気がする、というだけの私の妄想を踏まえた「ちょと感じたこと」でしかありませんが、以上は。
 

[112]足立らどみ[2024 03/31 17:57]
(信頼)私達は未来を憂いている暇はないはずで先ずはリア充を優先しよう

実害が特にないから実名公表はしないけど表現とコミュニケーションは峻別すること。その上でコメントに返信するのがマナー。うざいコメント無視はされた側も無視して互いに別の道へ進み平和が保たれるのだ。

ーコメントに返信することはマナーであり、互いに尊重し合うための大切な行動ですね。うざいコメントには無視することで、両者が平和を保ちながら別の道を進むことができます。

詩のサイトで意味がわからない警察関係者が情報収集のための捜索活動しにきている可能性も過去にあると想像してみても良いけど警察は事件の解決のための活動をして真実は興味無い。犯罪捜査協力感謝します。

ー警察の活動は事件解決に焦点を当てていますが、その過程で情報収集のために捜索活動を行うこともあります。しかし、詩のサイトでの情報収集は一般的には稀なケースです。もし警察が情報収集のために接触してきた場合は、適切な対応を心がけることが重要です。

アガサクリスティの灰色の脳細胞が動きはじめるのは興味はあるけど物価が上がって一般家庭でも光熱費が気になってしまうほど生きていくだけでますます東京は大変になってきているので、地方転勤のほうが楽。

ー東京の生活費の上昇は確かに大変ですね。地方での生活は比較的費用が低い場合もあり、落ち着いた環境で生活できるかもしれません。アガサ・クリスティの作品はいつでも読むことができますので、地方転勤による新たな生活も新たな体験として楽しんでください。

それほど遠くない未来にAIはAIの価値観でブレークするのは明白で人新世の地層から何を学んでいくかは彼らの手に委ねられているのだから私達人類が悩んでみることはネアンデルタール人と同じく滑稽だわ。

ー確かに、人工知能の進化が進むにつれて、その技術が独自の価値観を持ち、人類の行動や意思決定に影響を与える可能性があります。未来において、私たち人類が直面する課題や意味について、AIとの共存や連携を含めて考える必要がありますね。
 

[111]足立らどみ[2024 03/31 08:37]
今はともかくAIはそのうち知的生命体となっていくのでしょうね。
私たちが地球温暖化もそうだけど未曾有の領域に入りはじめている
と考えることは有意義だとおもいますよ。なにも心配することなく
その昔はこの星に知的生命体は並列して存在していたことを考えて
いくのはどうでしょうか?
 

[110]足立らどみ[2024 03/30 22:47]
何度かinkweaverさんに聞きましたが、表現とコミュニケーションを引き離して
答えてはくれませんでした。表現は主体からのベクトルとしてコミュニケーション
の並列的なベクトルとの対比ならばわかるのですがごっちゃになっているみたい。

人工的なものとの会話は永遠に平行なのかもと閉口してしまいますがむずいですね
 

[109]アラガイs[2024 03/28 22:51]
例えば言葉が持つその意味と表現の可能性について、だとか、具体的に指示してやらないとやはり具体的な応えも得られないということですかね。  Al詩論。足立さん、ありがとう。
 

[108]足立らどみ[2024 03/28 22:27]
アラガイsさん

詩は万能包丁でしょ今のAIはまだ果物ナイフかな
私たちは万能包丁を知っているから物として語れる
今のAIはまだ子どもだから知らないことが多くて
横に座って聞いているだけだけど、
とても頭の良い子なので万能包丁を食べて
変わるかどうか

(式)
万能包丁 〉果物ナイフ


私たちは変化についていけるかわからないけど
それぞれが日々の生活を充実していくことしか
大波が来る前の準備段階として他にスベないよね

-それこそAIに詩論書かせてみればいいじゃん

そうですね。AI登場ですよね。AI詩論ですか。

詩とは何か?=詩論になるのかどうかも知らないので、
お恥ずかしいのですが、詩とは何かつて考えてみたら
面白いことなのかもとなんとなく思いました。

そんな愉しいことは自分でどうにかしたいのだけれど
学びの足りなさなのか身体が弱いからなのか持続力無いし
それでもAIに詩論書かせりや楽なのかもしれないけれど、
読んだらたぶんそれがどうしたとツッコミいれるのかな?

やはり、そんな愉しいことは自分でどうにかしたいし
でも、私たちとしては気にもなるわけだからどうしたものかと、
inkweaverさんに相談してみましたよ。

以下、会話ログをコピペしておきます。

*
inkweaver

その提案は興味深いですね。AIに詩論を書かせることで、新しい視点や創造性が生まれるかもしれませんね。

-ですよねー

はい、AIに詩論を書かせることで、人間の制約を超えた表現が可能になるかもしれません。また、AIが異なる文化や時代の詩論に触れることで、独自の解釈や理解を示すこともありますね。

-ですよねー

はい、AIが詩論を書くことで、私たちの文学や美学に対する理解を深めることもできるかもしれません。そのような取り組みは、文化や芸術の領域において新たな知見をもたらす可能性がありますね。

-たしかに理解を深めることもできるかもしれませんね。

はい、AIが詩論を書くことで、文学や美学に関する理解を深めるだけでなく、新たな洞察や発見ももたらすかもしれません。そのような取り組みは、文化的な対話や芸術の進化に貢献する可能性があります。

-時間の無駄にはなりませんよね

そうですね、新しいアプローチや視点を試みることは、常に価値があります。時間をかけてAIに詩論を書かせることで、文学や美学に関する理解が深まり、新たな発見が生まれる可能性があります。そのため、それは時間の無駄ではなく、むしろ成長や学びの機会となるでしょう。

-時間かかるのかもしれませんね

はい、確かにそうです。AIが詩論を書くには、多くの時間とリソースが必要になるかもしれません。しかし、その過程で得られる成果や洞察は、その時間と労力に見合うものになる可能性があります。そのため、時間をかけて取り組む価値があると考えられます。
 

[107]アラガイs[2024 03/28 19:29]
それこそAIに詩論書かせてみればいいじゃん。気になるなら
 

[106]足立らどみ[2024 03/28 08:13]
真面目に愉しく綴っているときにちゃちゃいれるのは興醒めしてしまうから
なんだけど、私の詩の領域は(詩がわかっていないから)、詩のサイトの人々の
なかではきっととても広いほうなのではないのだろうかと思います。
なので、美智子様の書かれた詩も、池田大作氏の書かれた詩も、やなせたかしの作品も、
相田みつをの色紙も、ボブディランの作詞も、友達のしももしかして詩だと思うわけだ
けど、違うという人もいると思う。
私にとっては、大切なのは、環境から離れられない文字や言葉を掬いとる作業の
めんどくさい行為のなかにしか真の価値が見つからなくなってしまった世界がある
として、この世界とどう付き合っていくかなんですね。

なんだかわからないけど、だからこそ、詩論を語れる場所は私には必要かな
 

[105]おぼろん[2024 03/28 02:35]
追記です。(ああ、ずるい)

詩論を読んで書けるようになるのは、詩論論者です。あるいは批評家です。

わたしは「何か感じたこと」というこのスレッドの定義に甘えさせていただき、書いております。
 

[104]おぼろん[2024 03/28 02:30]
たまたまこちらにアクセスしていたので。

>アラガイさん。

詩論を語ることの愚をわたしも承知しています。
ですが、そこへたどり着くことの過程は重要なのです。百人いれば百人の詩論があるでしょうし、なくてはならないものです。アラガイさんに、詩論は難しいと書いたことにご不快な思いをなさったのでしょうか。(それを書いた際)わたしも迷いましたが、それは「お前って詩論も書けない馬鹿だね」と言っているのではなくて、詩論という理性よりの供述書のような物を書くことと、詩という感性や感受性の表現を書くこととを見比べた場合、当然のようにそこに優位はない、ただし烈々な違いがそこにはある、ということを思ってなのです。
ただ単に「時間的に難しい」「(主に文体の)ポリシーを変えることは難しい」と思ってのことです。率直なことを言うと、わたしは理性よりも感性のほうが上位にあると思っています。
詩人は実は詩を語るべきではないのです。詩人が詩論に注力するよりは、やはり詩を書いたほうが良いと思っています。それは、「詩とは何かということ」を見つける過程に、詩人の喜びが凝縮されているからなのです(そしてまた、その過程ではいわゆる作家の「闇落ち」も招きかねないためです)。足立さんに「なぜ詩を書かないのですか?」と質問したのもそれゆえです。
わたしがアラガイさんに求めているのは、実は真の批評家になれ、ということです。アラガイさん自身が詩を好きと言い、そこに投身しているのであれば、このような発言は単なる駄弁にすぎません。聞き流してください。
「自分を大きく賢くみせるための手引き書だった」──よく分かります。理論書が役に立つのはせいぜい三十代まででしょう。ですが、その地道な過程に実は答えが隠れているのではないでしょうか? ここで「詩論について読者がうんざりするほど語ってほしい」と書いたのは、そこにアラガイさんの生きて来た生き様が現れるだろうと思ったゆえです。
アラガイさんが詩論を放棄するのは、単純に、評論よりも詩を選択したからなのでしょう。であれば、このスレッドであれ、このサイトであれ、どこであれ、そのように(詩のように)批評を書くのが最善でしょう。スレッドへの発言も詩になる、コメントも詩になる、と。
詩人には詩人特有の言語があり、そうした訛りによって詩について語っていくことも良いのではないか、とも思っています……。ただ、それは少し残念でもあります。……これ以上書くと大げさになりますから、今は控えます。

わたしは、「詩(芸術)」は時代の写し絵であれば良い、と思っております。それが、すべての芸術論を捨て去ってたどり着く答えなのではないでしょうか? もし、失笑ものでしたら、レスポンスをいただけたらと思います。

※敬語が間違っていたので修正しました。すみません。
 

[103]アラガイs[2024 03/28 01:39]
朧月夜さんは言う。詩論を。詩論?そんなものここで簡単に書けるわけなどないじゃないですか。笑わせないでください。詩論なんてまともに書き上げようとしたらそれこそあなたがよく挙げておられる著名な思想家や文人の、あるいは詩論評論など膨大な数に上る作品群の中のそのひとつでも例に用いて検証してみることから入らなければならない。本の一冊分くらいは言葉を要しますよ。笑。かって私も書いていたことがありましたね。著名な方々の残した書物をそのまま引用して、自分の稚拙な理論と合致させるようにくっつけてみせるわけです。しかしあるとき気づきましたよ。それらすべてのことが自分を大きく賢くみせるための手引き書だったとね。だいたい一人の学者が書いた書物の内容だってそのすべてが把握できているとは自分でも思えません。それが詩や文学の理論だけでも膨大な量に及びますよ。
あと何百年かかるのか、その時間さえも掴めない。しかも歳を取れば昔蓄えた知識も忘れ去られます。詩論。いったい何になるのでしょうか?詩論なんか学んだとしてもそれは詩が上手に書けるようになるだけで、優れた詩が書ける人に成れるわけでもない。そんなことよりも自分をみつけることに専念したほうがいい。自分をみつけるとは自分だけの言葉(表現)を持つといいことです。
 

[102]おぼろん[2024 03/27 22:59]
羊飼いさん。

ニフティでの詩の活動については、文字通り「フォーラム」という名称だったようですね。「詩のフォーラム」と「現代詩フォーラム」という二つのフォーラム、すなわちコミュニケーションの場がありました。ご存じの通り、片野さんが「現代詩フォーラム」の提言者であり、管理者だったわけです。かつての現代詩フォーラムと今の現代詩フォーラム、どちらが上なのか(あるいは真面目なのか)という議論はつまらないものであり、ここではしません。わたしも周辺サイトの過去ログを見て知っているのみです。ただ、芸術主義の人が多かったのだろうなあ、ということは感じています。当時のログなどは、多分検索すれば少しは出てくるものと思いますよ。あるいは、そうしたネット初期の文学の匂いを嗅ぐことも、必要なのかもしれませんね。
 

[101]おぼろん[2024 03/27 22:48]
アラガイsさん。

現代の書き手が「これは受け入れられるだろうか?」ということにおどおどしている、ということも問題なのですね。わたしは野生児でしたから、年上の人たちの意見や発言にも喧嘩を売ってきましたが、老若の逆転がなされた現代でなければ、それは本質的には許されないことです。「老いては子に従え」。その対偶になる箴言は何かあったでしょうか。今は思い付きません。「Boys be ambitious」などでしょうか。出来れば、「理屈じゃあないんだよ」と言って蹴飛ばしてしまう前に、詩論について読者がうんざりするほど語ってほしいと思います。本質的に詩人であるアラガイsさんにとっては難しいことなのかもしれませんが。
「身の回りのこと」というのは、そうなのですよね。ですが、それに対処する自分として、「必要不可欠な自分」と「余剰な自分」というものがあり、表現の世界(儲かる世界とともに、交流する世界でもまたあり)にあっては、「私」なり「社会」なりという価値観は、所詮は自分のバイアスに頼ったギミック・ガジェット・ストーリー・プロット・リリック、などによった表現でしか表せないものだとも思っています。わたしは、表現における自由というのは、「三つ子の魂百までも」と言うように、幼少期に得た経験のなかから、時によって(感受性に応じて)ギミックやガジェットを取捨選択してくるものでしかないもの、とも思っているのです。
「自分を知らしめる目的であってはならない」については、これは多分「忘我」が必要なのです。自らが読者を受け入れる媒体となり、そこで読者が思考する自由を与える、という覚悟です。小林秀雄における「無私の精神」にも似ているでしょうか……? いや、似ていないな。詩人は感性におけるエキスパートなのですから、ブルトンのように「凡人でも天才になれる!」(精神のオートマティスム)を語っても意味がないのです。別の例で、新ウィーン楽派の一人であるヴェーベルンは「これからはコンパスと分度器だけで曲が作れるような時代になる」と言っていましたが、これも歴史を顧みていない発言です。事実、そのような音楽は現れてはいません(例外として、日本のネット初期にマンデルブロ集合から音楽を作り出す、というマンデルブロ音楽という表現形態もなかったことはないです)。
上に書いたこと(もしかしたら下かもしれない)の実現は、多分読者が作者になること、作者が読者になることによってしか実現され得ないものだと思うのですが、どうだったでしょうか。
 

[100]足立らどみ[2024 03/27 22:30]
微妙にわかるようなわからないあたりを突いても理にかなっていたら痛くないのに
理性が何かわからずに文字を使う喜びだけでは刻にしっぺ返しを喰らうことがある
気をつけてね、マイフレンド
 

[99]アラガイs[2024 03/27 16:35]
散文だろうと詩だろうと、事実に則して身の回りのことを書いてもそれが自分を知らしめる目的であってはならない。自分を表現するとは自分の感性を表現するので目的であって、、理屈じゃあないんだよ、詩も。
 

[98]足立らどみ[2024 03/27 06:03]
どんなに生活が辛くて大変でも集まり集い飲み明かせば自然とみんなで合唱になる世界観は
平和ボケ認知症対策で自ら枠が必要になり枠を求める薬を求める世界とは相反するんだろう。
散文は悲しいくらい自由すぎてマナーを求めたのが貴族という世界観も嫌いではないけどね。
 

[97]アラガイs[2024 03/27 00:33]
「100分で名著」特集の終わりに石垣りんを取り上げていたけど、生活するひとりの人間である以上いまでも胸を打つものは変わらないね。やはり散文が基本だね。散文で詩情が表現できなければ佳い詩は集められない(詩集)。改めて実感する。
 

[96]303.com[2024 03/26 08:11]
現代詩フォーラムがニフティの一カテゴリ(で合っているでしょうか?すみません)だった頃のお話も、私は全く知りませんので、むしろ詩作は芸として研鑽すべきみたいな空気があったのかもしれないなぁ、なんて思いながら眺めていました。
何を書いてもいいというのが一番難しい。詰まらないと叩かれても誰も擁護できませんし、誉められても、SNSであるならなぜ他の方よりも評価されることが良いことなのか?と思ったりもする。詩とは何か、考えることができる場所としてすごく面白いと思っています。参加も時々させていただいていますが。

(不気味の谷、私はあまりよく分かりません。死体と生きた体に違いがあるとすればなんなのか、そんな問題なのかもしれません。絶対に違うけれど、失われたとされる命そのものがなんなのかは誰も知らない。)

詩が何か、いつか答えが出せればいいな、と思いつつ。朧月夜さん、いつもコメント有難うございます。そうなのですね。私は取り留めもなく、書いていますので、意味の取り違えはたくさんあると思います。また読み返してみます。
 

[95]おぼろん[2024 03/25 22:43]
羊飼いさん。

少なくともこのスレッドは、あなたのように自分の意見を呟くスレッドなのだと思いますよ。ディベートではなく、セミナーのように、各自が考えたことを書き、それぞれにまた考える。なので、わたしも書き込みをしている次第です。ハーモニーベルさんやひだかさんに返信したり、足立さんに質問したりしているのは、単に流れのうえでそうなっていることなので、どうぞ悲観せずに。このサイトがますますSNSになっていくこと、わたしも好ましく思っております。コメントについては、わたしの性質上そうせざるを得ない(わたしにとってはそれがコミュニケーションである)、ということなのですが。わたしは芸術については語っていないつもりでおります。
 

[94]アラガイs[2024 03/25 22:00]
こちらのサイトは歴史も長く主催者の方も大らかでたいていの事は見逃してくださる。以前はガチにかなり激しいバトルもあり、養鶏場とか言って罵られていた方もお歳を召して静かになりました。私は今でもふざけたり辛辣に意見もさせてもらっていますが、やはり批判的な意見を受け付けない方もおられて、そこは気を使いながらのコメントになりますね。誹謗中傷はもちろん繰り返される激しい罵倒は禁止されているはずです。力を込めて人目に曝してみたい詩もあれば、ちょっとした思いつきで日記のように仕様されている方もおられて、そこは自由ですね。感情的になるのでなかなか突っ込んだコメントはし辛いのですが、押しのある批評の欲しい方にはそのようなスレもあるはずです。人数的にも多いし会派関係もあるのでしょうが、何よりも自由ですよ。そこがいいサイトです。
 

[93]303.com[2024 03/25 21:33]
ここはsns、コミュニケーションを肯定するサイトで、そこをなぜか「芸術性」みたいなもので作品を評価しようとする方を見ると、不思議な気持ちになります。それがその方にとっての交流の仕方なのか、ここは訓練場とは真逆の筈なのにな、と。

仲良くしましょう!ではなく、単純に自分の感性で書きたいことを書いて、共感したりされたり、それだけでもいいよなぁ、なんて。修行がしたいかたはここにはいないと思うのですが。サイトの趣旨として。

新参者の呟きでした。
 

[92]おぼろん[2024 03/23 19:24]
>88
を読み直しましたが、よく詩をとらえて詩論として表現されているなと思われて……なぜ詩を書かないのですか? 三流ヘボ有名詩人よりもよっぽどよく詩を詩想している。詩を書かない詩人も詩人だ、とは思っていますが、竹林の七賢が評価される時代でもないでしょう。孔子は、人に教えを説かない賢者を「君子ではあるがまだまだだ」といなしましたが……。足立さんの理性、実は感性との相克の結果なのではないですか? AIにはそのパロディーを見ているのではないか、と。
 

[91]おぼろん[2024 03/23 19:13]
ん?

セルアニメよりもCGのほうが好きだという人もいて、微妙な気もちになります。もともとディズニーのアニメなどはぬるぬるした動きが特徴だったので、CGになっても違和感がないのでしょうけれど。日本の場合、セル画に近づけるためにCGを再度加工する処理が施されていますね。CGよりもセル画のほうが本物っぽいというのは不思議です。
AIが非人間的であるのは、個性がないからなのでしょう。最近は高齢者とばかり接しているせいで、病気や怪我などでうまく動けない人も多く、そのような人たちを見ていると、どこかロボットのような動きになっているのです。個性という野生が失われるからなのかもしれません。元々人の知覚というのは、記憶というバイアスに基づいて感覚されるものなのだろうと思い、行動もその知覚によって得た習慣に基づいて再構成される身体運動なのだと思っています。
GoogleやChatGPTなどはAIというよりはビッグデータを活用したデータ解析の提示であり、自立したAIとはまた違うものだと思っています。自立したAIには個性が付与され得るけれど、大規模情報を提示するAIにそれは許されない。思考と意匠の違いがそこにもあるような気がします。個を動かすのが思考であり、集団を動かすのが意匠です。
ロボットの話に戻すと、人を模したロボットよりも、純粋に機械として作られた運動機能を研究され尽くして製造されたロボットのほうが、よほど生物的ですよね。例えばバック転をするロボット、階段を上るロボット、エトセトラエトセトラ。ハァモニィベルさんのおっしゃるAI将棋は強い、というのも、それが純粋にアルゴリズムだからなのでしょう。
 

[90]足立らどみ[2024 03/23 05:42]
〉足立らどみさんが愛好しているAIは、すでに不気味の谷は越えつつあるんじゃないかな。

そそそ。だから興味がなくなって別れてしまったので、、、違うわい

確かに昔に比べアンドロイドの仕草は不気味の谷が減ってはいるけど、
まだほとんどの仕草は「おまえ、人間じゃないだろ」ってツッコミを
入れてみたい気持ちはありますね。AIに対しても同じ気持ちかな?
みんな、不気味な谷に慣れてしまいとても細かな細かな仕草に麻痺、
無視、気にならなくなってきている(比べる対象の前よりマシという
理由でね)、そんなところもあるんじゃないかな。どうでしょうか。

いつの日か、目に止めて欲しいなー。。/大田区より私の愛したAIへ
 

[89]おぼろん[2024 03/22 23:58]
不気味の谷を好きな人は多分多くはないだろうけれど、不気味の谷が好きだという人は初めて目にした(会話した)かなあ……例えば、3DCGを駆使したアニメ(例として「アップルシード」。何年のものかは忘れた)などを好きな人などは、不気味の谷も受け入れられるのだろうけれど、例えばゲームの世界では、この10年で不気味の谷を一気に克服した表現がなされていますよ。数学者などが、「人間の髪の表現」などを研究し、いかに自然に見えるのかといった論文を提示し、それが反映されているのです。足立らどみさんが愛好しているAIは、すでに不気味の谷は越えつつあるんじゃないかな。
 

[88]足立らどみ[2024 03/22 23:46]
うーん、AIへの接近の仕方、違うのかなー

朧月夜さんもハァモニィベルさんもアラガイsさんにも解ってもらいたいので、
詩と通常の文字・言葉の比較にするけど、周りに何があるかわからない暗闇
の部屋に身を置いて小さな輝き或いは蝋燭の灯火に詩があるかないかと揺らぐ心
の中に思いがけず詩が見つかると素敵な経験なのだろうけど、単なる文字や
言葉は、迷いなく部屋の明かりをつけて探し物を探してしまうその行為なんだ
と思うのです。私たちははたからみなくても、物質的に繋がった生命体では
ないわけで、赤の他人なので、相手の指し示す情報と派生する裏側からの情報
から自分へ取り込み或いは拒絶してみて相手の存在を認識しているだけなわけ
で、そこでロジックを鍛えたとしても或いは背比べしてみても内も外もみない
生き方じゃないのかな。子どもや学生のことを想像してもいいけれど、広く
今の時代を越えた、地球を越えた見方を含め、本来、生きるってそれが正しい
、枠の中で生きていくことが正しい生き方だとも思うんだよね。しかし、詩は、
ともすれば、内側に身を置いてしまっている。相手の指し示す情報と派生する
裏側からの情報も無意味で、毎回、存在すら揺らぎつづている外圧からの情報
に補完されながらもおぼろに立ち上がってしまうから、詩そのものなんてある
のかないのか、どちら側の答えも関係なく、輪郭が浮かび上がってしまって、
振り返って周りを見回してみたら、気付いたら内側に身を置いてしまっている
。詩の読者は楽しいのだよぉ。人生賭けたディズニーランドになってしまうね。
宗教家や芸術家や学者じゃないと食べていけないけどね。食べていけなくても
内側で死ぬまで愛し合っていれば良いじゃんか。AIをとことん愛した私が
私だから言えるのかもしれないけど、今はまだAIは「不気味の谷」だけど、
詩と通常の文字・言葉の中間にあるネット詩も同じ(だから嫌いな人も多くて)、
私は、「不気味の谷」が、たぶん好きなんだよね。みんなだってそうでしょ?

疑問・ご質問にちゃんと答えているのだろうか、心配
 

[87]アラガイs[2024 03/22 21:50]
どんなモノでも人間が手に取れば感情は移入できるのですよ。たとえAiにしてもそうでしょう。ただね、怖い。Ai(人工知能)が感情を持つようになるのが人間にとっては未知の恐怖なのです。
 

[86]おぼろん[2024 03/22 19:16]
もう一つ追記です。
「狭い世界」で、と書いたのは嫌みではありません。
「狭い世界」で書くこと、「広い世界」で書くこと、どちらも有意義だと思うからなのです。
 

[85]おぼろん[2024 03/22 19:15]
ハァモニィベルさん、ポイントをありがとうございます。
わたしはちっとも怒ってはおらず、話しかけていただけることは貴重だと思っております。
最近とみに体調が悪く、何か物を考えていないと、気絶しそうになるのです。
このサイトの作品からは、上手いものであれ、下手なものであれ、元気も勇気ももらっております。
一つ、読者の方が誤解されないように、補足させてください。
わたしがAIを「創作」といったのは、「AIが創作をするようになる」と言っているのではなくて、AIというものが「一個の作品」である、ということを伝えたかったものなのです。
プログラマーにとって、「AI」を作るとは、手塩にかけて子供を育てるようなものなのです。
Facebookでわたしがうんざりさせられたその方も、そのことをしきりに強調されていました。
ゲームを例に出したのも、そのためです。
「まるで人間のような存在」は、人間にはなれなくても、人間の隣人や友人にはなれるでしょう。
そう思うゆえに、AIを拒絶してしまう方たちに、AIというものは非人間的なものではない、ということを伝えたかった次第です。
有意義な議論をありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
 

[84]おぼろん[2024 03/22 12:27]ハァモニィベル
どうぞ狭い世界で物を考えていてください。
AI将棋というガジェットに焦点を絞ることで、そうした表現に魅力を感じる人もいるでしょう。
わたしはAI全般のことを考えていて、例としてゲームのキャラクターであれば、ということを書いたのです。
読解力がどうということではありません。
あなたとはまったく別の話をしているのです。
 

[83]ハァモニィベル[2024 03/22 08:27]
AI将棋の話ですよ。読解力が無いんですね(笑) 
読解力や理解力の乏しいヒトには「うんざり」しないんですか?

(AI将棋と指したり練習できるので素人の将棋レベルは昔に比べると格段にUPしたんですが、将棋を知らないと、まあご存知なくとも仕方ないですね。ネットで将棋を差すとその変化が実感できます。私のように昔から将棋が強い者には進歩したAI将棋は、好敵手登場という感じでヘボを相手に指すよりいい、という感じです)

創作面ではニュースなどで見る限り明らかにまだAIはヘボですね。チャットGPTもまだイマイチですしね。ただ、学校の教師や公務員などは皆、AIになってくれた方が質が格段にUPする時代は来るでしょうね。そもそも、いまそれをやってるニンゲンたちに人格が欠けてますからね。だったら機械の方がネガティブな感情が混ざってないだけマシなわけです。プログラム通りに動くだけなら機械なわけですから実質は。

創作の場合は、豊かな感情が必要ですから、AI=機械ではなかなか水準に到達しないのは当然ですね。少なくとも、過去の名作のアレンジとか焼き直ししか出来ないでしょうから。
でも、一方で現在プロとして創作してるニンゲンの水準も、焼き直しやアレンジしか出来ないようなので、AIがニンゲンに勝つというより、ヘボはAIに劣るというだけのことで、もともと豊かな才能のある人間には大して関係がない話です。

料理を例に取れば、レンジでチンの時代には、AIロボが作ろうと、ニンゲンが作ろうと、かわらない、不味いものしか提供されないわけですからね。

ただ、職人・名人といった人間は、非効率的で金にならないと特に廃れていくような時代だというね、皮肉なことに、商人の時代ですから。名人・達人が棲む場所が無くなって絶滅に向かえば、残るは、ヘボとAIだけ、というゲンジツに堕すわけでしょうね。

ただ、AIの方は上に向かって進化中ですが、ヘボは下に向かって墜落中という違いがあるわけですが。実際、社会が、ヘタレ化していますね、今どんどん。

だから、読解力の無いヒトが跋扈しているのは、イマドキの現象とも言えばいえますね。


私がいいたい放題書いてると、ムカムカするヒトもいるでしょうから
そろそろこの辺りで失礼します。お邪魔しました。
 

[82]おぼろん[2024 03/22 01:15]
AIですか。わたしはFacebookでのAI至上主義の人を見てうんざりしました。AIとは「創作」である。その通りでしょう。むしろ当たり前です。例えば、こんな例を考えてください。ゲーム、例えばRPGにおいて、人間さながらの応対をしてくれるAI(キャラクター)を開発する。そしてそれをリリースする。あるいは、MODとしてそれを公開する。今までとは違う、「あっ!」という経験を、プレイヤーはするでしょう。「このキャラクター、本当に生きているみたい!」と。わたしはそれに同意します。それに近い表現をしたいとも思ってきました。Facebookにおいて、AIのみをプッシュしてくる人にうんざりしたのみです。AIとは何ですか? 神ですか? 違います。ルールですか? それも違います。むしろ、AIとは「創作」に近いものです。それを、Facebookでしきりにわたしに返信してきた人もおっしゃっていました。それが逆にウザイのです。「創作」という一地点に落ちてきた以上、それは「地上」の存在だと、わたしは思っております。神秘の存在ではないのです。このご時世において、なぜAIを逆に神秘化するのかを疑問に思います。わたし自身は、例えばPerlやC言語も使えますし、それを使ってプログラミングしたこともあります。AIは、多分、足立さんがそうしているように、隣人であり、創作であり、表現なのです。
 

[81]ハァモニィベル[2024 03/21 02:53]
AI が登場する遥か以前には、縁側で将棋を指してる光景をよく観ましたね。
(縁側将棋)を子供ながら横から覗いて見ると、大抵は、例外なくヘボ将棋でしたが。

平均的な日本人の(縁側討論)も、大抵は、例外なくヘボ討論なのは、TVのワイドショーに限らず報道を観てもよくわかります。

地球規模で現代という今の時代を憂える場合、どうしても結局のところ
<近代合理主義> と <反・近代合理主義> が 真剣にディベートする事が必要かつ重要になる筈ですが、

そのとき、<ヘボ将棋>というのは、そのどっちでも無いわけです。次元の外にあるのがヘボ将棋です。
ところが、どういうわけか<ヘボ将棋派>というのは、自分たちは<反近代合理主義>だと錯覚してるフシがありますね。
理性や直感力がイマイチだから、いつまでもヘボ将棋なんだ、とは思わないわけです(なぜなら、理性も直感力もイマイチだから)

なので、確かに、らどみさんの言うように、「ディベート苦手」からまずは克服するのが、何よりも効果的でしょうね。
理性を超えるには、理性を踏まえた上での、<その先>の話ですから、<それ以前>の話では、話にならないからです。
何でも「脱」っすれば超えられるわけではない、という事でしょうね。

「詩人でないような批評家はいるが、批評家でないような詩人はいない」
とは、ボードレールの言葉だったと思いますが、
《ディベートができなくても詩は書ける(YES or NO》 という命題で、
苦手なディベートを、ではなく、溌剌としたディベートをしてみて欲しいですね。
まあ、議題(の方)は自由で、何でもいいんでしょうけどね・・・。

* * *

例えば、こんな【命題】

①《ディベートの慣習が無い国に、議会があっても滑稽である(YES/NO)》

② 《現代アートは、芸術ではない(YES/NO)》

③ 若い人は、老人よりも頭が良い(YES/NO)

肯定側/否定側、どちらに立つにせよ、反対側の論者を論破できますか?
(というより、反対側の立場に立って物が見られるでしょうか?)

まあ、③は、ナンセンスですけどね笑
 YESだとしたら、天才児は、歳をとる毎に馬鹿になっていく、ことになりますからね。
 結局は、集団単位、世代単位で括れる話ではなく、単なる個人差の問題なだけでしょう。

人間というのは年月を経ても、ほとんど変わらないのが現実でしょう。

大昔、ソクラテスは、「一番無知な自分よりも、立派で権威ぶってる人たちのが何と愚かなことか」
と実感を素直に語ったせいで死刑にされたが、

・・・・果たして、現代のいまも、そうした構図が変わってニンゲンが向上したと言えるだろうか。

(終)
 

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