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細心の、最深の、最小の言葉で、 表現してくれている作品。 それが、最果タヒの『死んでしまう系のぼくらに』という詩集だと考えられる。 更に、 広い観点から考えると、 現実の世界とは別に、 1つ、 死んでしまう系に対置したい世界が見えて来る。 それは、吉野弘の詩の世界だ。 吉野弘も最果タヒと同じようような視点から、世界を映していたと思われる詩人だからである。 吉野弘も、 死と死なざるの2つの星雲を、認識していた。 その違いを描き出していた。 違いの生み出す哀切を知っていた。 あらゆる物事の違いを見極め、 違いの箇所を言い当て、物事を正当な場所に当て嵌めていた。 吉野弘とはそんな詩人だった。 『死んでしまう系のぼくらに』という詩集もまた、 現在、只今の、現実世界の中の、人間を取り巻く違いを、見極め、 その違いを言い当て、 正しい場所へと導くような詩集になっているように思う。 それは、 現在、只今の、現実の世界にあって、 圧倒的に優しい、 優しい眼差しであると感じられる。 死んだ系と死んでしまう系の2つの星雲の引力に引き裂かれそうな、 人の心を、 生へと(死んでしまう系へと)導き、 その、震え怯える、人の欠損を、 言葉によって埋めようとする。 そんな優しさを、 この詩集からは感じるのだ。 人と呼応する詩集だと感じた。 (いずれ続きを記したいと考えています) 『クォ ヴァディス――ネロの時代の物語――』上中下巻 シェンキェヴィチ 河野与一訳 (岩波文庫) ◆◇ 物語の背景となるのは暴君ネロの時代のローマ。ギリシアの神々を自分たちの都合のいいように奉る時代に、キリスト教が入ってきて徐々に勢力を広げていく。皇帝であり詩人であるネロは、焼かれる都市を見たいというだけの理由でローマに火を放ち大火災を起し、その罪をキリスト教徒になすりつけて迫害する。 この時代の人々にとってギリシア神話の神々は、日本人の思う八百万の神様たちの捉え方と似たところがある。ゼウスを神々の頂点に置いているものの、個々人が頼みごとをする神様は、お願いする内容により変わる。愛と美を願うならアフロディーテ/ヴィーナス、戦の勝利ならアテナ、海への捧げ物はポセイドンにという風に、人間のする行為・出来事の象徴をそれぞれの神として比喩しているということができる。調べてみると、ローマ神話もあって、それがギリシア神話と混ざり、数多くの神々がそれぞれの用途に合せて祈られていたようだ。この、神の多さがあることから、民がどの神に祈るのかは個人の自由となっている。したがって、キリストを信仰するから迫害するというようなことは起らない。物語を読み進めていくと、日本の踏み絵とは違う様子がよく分かる。 物語の展開は、ギリシア(ローマ)の神々を称え、奴隷を使い、日々贅沢な暮らしをして堕落していくネロをはじめとする廷臣たち 対 新たな信仰であり、愛と許しを説くキリスト教徒(ローマに火を放ったものとして迫害を受ける)という構図になっているものの、ギリシア神を称える側が悪で、キリストを称える側が善という描かれ方をしているわけではない。また、キリストの超絶的な力により奇跡が起こるような展開もない。進んでいく物語はどれも、人間が考え行った結果として納得のいくものになっている。 作中にはたくさんの人物がでてくるのだが、対照として描かれた二人の哲学者が変化していくさまは特に面白い。ペトロニウスとキロンという二人の哲学者の思考・思想と、起した行動の結果を受けての二人の変化の違い。この二人の対照は、コインの裏表や善悪としての比較対象ではない。物事をよく考える人物が、画策し行動した結果を受けて、ペトロニウスはAという考えに至り、キロンはBという考えに至る。二人の進んだ道は違うものの、どちらが良い悪いではない。また、二つの道が極端に違うわけでもない。この人物対照を読んでいると、カミュの『ペスト』を思い出した。『ペスト』もまた、物語に出てくるたくさんの人物が、それぞれに考え行動した結果、どういう道に進むのかが描かれている。そして、どの道が善で、どの道が悪という描かれ方ではない。ある考え方を持つ人物が、物語の展開に影響する行動をとった後に出た結果を受けて、考え方を変える/変えないようになる。 キリスト教徒の迫害がはじまる下巻には痛々しいシーンが多くて読み進めることが辛くなることもあったものの、クライマックスには納得がいくし、淡々と終わる最後も秀逸だった。 私の買った上・中・下の三冊は、表紙カバーのない古い時代の岩波文庫版(河野与一訳)だったので、旧漢字がたくさん使われている。旧漢字が読めない人には木村彰一訳のほうを薦める。でも、旧漢字がクリアできるのであれば河野訳は読みやすい翻訳だと思う。 最後に、『クォ ヴァディス』はラテン語で「(あなたは)どこに行くのか?」を意味するのだけれど、そうであれば題名を『どこに行くのか?』『何処へ向う』のように翻訳してもいいのではないかと思った。『クォ ヴァディス』も『クオ・ワデス』も、日本人の気を惹く言葉・題名には思えない。作者のシェンキェヴィチはノーベル文学賞受賞者(1905年)。 アンデルセン『豚飼い王子』『ナイチンゲール』『雪の女王』(H.C.Andersen,大畑末吉・訳『完訳・アンデルセン童話集(二)』,岩波文庫,1984.) アンデルセンの童話(Eventyr og Historier)は、中央ヨーロッパでは、単なる子供の読み物ではないのでして、近代文学史に重要な地位を占めています。例えば、ポーランド近代文学は、アンデルセンの翻訳から始まったとされるなど。ちょうど日本近代文学にツルゲーネフやチェーホフが果たしたのと同様の役割を、アンデルセン童話が果たしているのです。 そうした文脈──“大人の童話”の文脈──で言うと、アンデルセンの魅力は何といっても、後進ヨーロッパの近代化の影で虐げられた人々の姿、その苦悩と希望を描いていることでしょう。 アンデルセン童話の主人公は、人物ごとにさまざまな希望や情念を抱き、それに一途に導かれて生きて行き、最後は、不幸なまま、貧困のただなかで死んで行きます。そうした、無駄死にのような主人公の終焉を、あたかも壮大なドラマとして描くところに、“大人の童話語り”としてのアンデルセンの本領があると言えます。 たとえば、『マッチ売りの少女』を思い浮かべれば分かりやすいでしょう。 『砂丘』という童話では、非情と無理解に虐げられて一生を過ごした主人公が、最後に大きな教会堂に閉じ込められて死に、教会堂はそのまま砂に埋もれて、主人公の荘厳な墓所となるのです。 あるいは、消しえない一途な愛──自らを不幸にするほかには何もない愛に生き、恋に身を焦がしながら死んで行く主人公もいます。『雪だるま』では、戸外に作られた雪だるまは、暖かい家の中にあるストーブへの恋情を募らせています。“恋人”に会いに家の中に入れば、雪だるまは溶けて死んでしまうのにです。しかし、春が来た時、雪だるまが消えた痕には、心棒にされていたストーブの火かき棒が、ぽつんと残されていたのでした。 主人公たちが逢着する困難は、このようにしばしば運命的なもの──本人の意志や努力によっては回避することのできない構造的なものです。 困難が外部から来る場合には、世間の人々の圧倒的な無理解と蔑み、打算と非情な振る舞いが描かれます。しかし、それらも、一歩下がって眺めれば、歴史的構造的な背景を持つことが見て取れるのです。 ところで、ここで取り上げる3作は、いわばそうした主人公たちが、逆に運命に対して復讐を遂げるような内容でして、アンデルセン童話の中では特異な位置にあるのだと思います。 1 『豚飼い王子』 小国の王子が、身分違いの皇帝の娘に求婚しますが、皇女は、王子の贈物のバラの花も、ナイチンゲール(鶯)も、「まあ、いやだわ、パパ!これ、ほんとの花よ!」「ほんものの鳥よ!」と言って拒みます。そこで王子は、豚飼いに変装して城に入り込み、玩具の壺やガラガラで皇女の気を惹いて“豚飼い”と110回キスさせた上、不行跡が発覚して皇帝に追放された娘を見捨て、自分の国に帰ってしまいます。 2 『ナイチンゲール』 機械仕掛けの鳥の玩具に夢中になった皇帝は、本物のナイチンゲールには飽きて追放してしまいますが、自分が臨終を迎えて臣下から見離された時、かつて追放したナイチンゲールが窓辺にやってきて、その歌声で死神を追い出し、皇帝の命を救います。皇帝は反省して、「いつまでも、わしのそばにいておくれ!」と頼みますが、ナイチンゲールはそれを断った上、「私の好きな時にこの窓のそばの枝にとまって〔…〕幸せな人たちのことや、苦しみ悩んでいる人たちのことを歌いましょう。」ただし、そうやって、国中の貧しい人々のことをお耳に入れる鳥がいるということを、陛下は誰にも言わないように、と約束させるのでした。 3 『雪の女王』 「すべての大きなもの、いいものが、小さく、みにくく映り、悪いものや、いやなものが、はっきりと見え、どんなものでも、あらばかりがすぐ目に付くようになる」悪魔の鏡のかけらが、心臓と眼に入った男の子カイは、雪の女王に攫われ、氷のような冷たい心になって、北極圏の氷雪の宮殿に閉じ込められてしまいます。カイの幼なじみの女の子ゲルダは、あてもなくカイを探しますが、山賊の娘やラップ人、フィン人(非ヨーロッパ系の野蛮人)の女に助けられて雪の女王の宮殿を突き止めます。ゲルダの「やさしい、罪のない心」だけが雪の女王に打ち勝つ力なのであって、それ以外に武器はないのだ、とフィン人の女は言います。 “悪魔の鏡”とは、近代科学の「理知の鏡」にほかならないのでした。 さいごに、カイと出会ったゲルダの涙が、悪魔の鏡のかけらをカイの身体から追い出し、二人は故郷の町に帰ります。家に帰ると、二人は、いつのまにか大人になっており、「子供のままの心を持った二人のおとなが、そこに腰かけていました。」 森絵都『カラフル』と性的なこと ※これも先に小説を読むことをおすすめします。ネタバレを避けるのが下手ですみません。 ツナグに続いて、読書感想文の王道作品を選んでしまいました。ただ母親の不倫現場を目撃したり、同級生からの売春の誘いを受けたり、「ぼく」が強姦未遂をしたり、完成度の高い青春小説としてバランスを保っているものの、この小説に盛り込まれた出来事や個人の性遍歴はけっこうエグいです。 強姦未遂は、死んだ小林真の肉体を借りる魂である「ぼく」が、怪我の見舞で部屋にきた佐野唱子を犯そうとしたものです。唱子は現実とあまり接点のない真についての理想を膨らませていました。周囲が押し付ける間違った小林真像にうんざりしていた「ぼく」はそれを鼻で笑い、背を高くみせようとしたり、エロ本をネタにオナニーしたりしていた滑稽な中学生男子としての小林真像を突きつけます。強姦未遂はそのあと起こります。 母親の不倫は小林真の自殺のいくつかの原因のひとつでした。自殺した真の魂に入っだ「ぼく」はそれを知り、母親を精神的に追い込みます。母親は真が不倫のことを知っているとは途中まで思いもよらなかったようです。真の口からそれを知り、先に書いた強姦未遂のやりとりを陰で聞いたあと、真あてに長い手紙を書きます。平凡な自分が嫌で、次々に習い事を始めては挫折して益々自己嫌悪に陥り、そんな自分が真に希望を託していた、そんな内容がその長い手紙には書かれていました。肝心の不倫については、女としての私はそれをあなたに話すわけには行かない、という理由で手紙には書かず、読者にも明かされません。 物語をぶち壊す想像を2つしてみました。1つめはもし強姦が未遂ではなく真に宿った「ぼく」が真の体で佐野唱子とセックスしていたら。2つめはもし母親がフラメンコ講師との不倫の顛末を過不足なく手紙に書いていたら。 1つめは、唱子が結局いちばん真のことを理解していたのですから、よいカップルになっていった可能性はあります。でも無理矢理はダメです。真の理解者としての唱子はたぶん無理矢理犯された時点で消えてしまいます。「ぼく」は真から益々離れて行きどんどん傲慢になってゆくでしょう。怯えた女と傲慢な男という平凡で不幸な関係しか残らないでしょう。 2つめは、これは真っ直ぐに話したほうが親子関係はもっとよくなったのではないかと思います。結局この部分をぼかした母親の手紙は不信感を残しました。その不信感が幾分回復したのは別のところでの母親の貢献によってでした。「ぼく」の魂は、言い訳のきかない不倫の事実はもう知っていました。どんな話がされようとさして驚かなかったことでしょう。最終的に家族を選んだ、ひとりの女性の軌跡を全部受け止めるにはいい機会だった気がします。そのほうが、その先において人を受け入れる幅が増すことと思います。 それぞれが他者を膜のなかに取り込んだ状態から、少しずつ膜を壊す出来事が起こり、知っているつもりの他者をちゃんと知るようになる。方向としてはそんな話です。膜を壊す衝撃は強すぎても弱すぎても駄目です。それはわかるものの、この話のこの設定だからこの衝撃であるのに、綺麗過ぎると規範性を帯びてしまいます。こうでなければいけない、ここから外れたら救いはない。そういって投げ出されてしまいます。だからこういう小説は想像のなかで汚す読み方も悪くはないと私は思います。 ところでもう1つ、物語をぶち壊すパターンが考えられます。真、いや「ぼく」が桑原ひろかを買っていたら?これは破産して終わりでしょう。この手の破滅にはさすがに同情はしません。でもとてもありふれたことではあります。 締め切りまであと2週間を切りましたのでお知らせいたします。1200字前後でしっかり書きたい方はそろそろ始めたほうが良いかもしれません。昨年までと同様、期間限定のこのスレッドは9月15日の24時に過去ログに移動します。万が一締め切りを過ぎた方のために文書グループをひとつ用意しておきます。散文として(詩や連作短歌などでも構いませんが)投稿したあとに追加ボタンを押していただくことになります。 http://po-m.com/forum/grpframe.php?gid=1476&from=listdoc.php%3Fhid%3D562 ご案内はこの1回とします。引き続き感想文の投稿等をお待ちしています。 ※先に小説を読むことをおすすめします。 辻村深月『ツナグ』を読んで その人自身にみえているもの、その人が想像したもの。他人に見えているもの、他人が想像したもの。起きている事実はひとつなのに、人の数と想像の幅の分だけ認識のされ方は違う。 この小説の設定では生者が面会を希望する死者と会う機会をツナグ(使者)が用意する。希望は相手の死者が依頼した生者に会うことを了解した時だけ叶えられる。面会は死者と生者どちらにとっても1回きりの機会となる。死者が生者に面会を希望することはできない。死者の方で会いに来てほしい人がいてもその人が来るとは限らない。だから生者からの依頼を承諾するときは慎重になる。そして指名する権利があるとはいえ生者にとっても面会できる死者は一人。希望が叶って死者と面会したらもう他の死者と面会することはできない。どの人もそんな契約のもとで行動するということ、誰かを己の欲求に従わせることができないということも、対話の魅力を引き出しているようにみえる。出会うことを切実に欲する人同士の対話には大事な人や物事に接するときの人の気持ちが様々に織り込まれているようにみえる。 生者と死者だけでなく、ツナグもまたこの契約の当事者で、違反すれば命にかかわる厳格なルールのもとで行動している。この小説は5つの連作短編になっており、最後の「使者の心得」ではツナグの事情が描かれ、またそれまでの4編の生者と死者との交流がツナグの視点で描かれる。さらには依頼を伝えてそれを受ける意思を死者に確認する過程で、死者の視点からみえるものもより明確になる。 双方にとって一回きりで、思惑で支配できない面会は、向き合うことが困難なほど重くなることもある。たとえば行方不明の婚約者の女性に会いたいと依頼した男性が、依頼が通ったことで彼女の死を知り衝撃を受ける。そして彼女の生死が不明であることを前提に積み重なってきた様々なものが壊れるのが怖くて、会う直前に逃げ出してしまう(第4話「待ち人の心得」)あるいは生前のちょっとした誤解から殺意を抱き細工し、細工通りに(あるいは偶然に)親友が事故で亡くなった高校生。その親友に会うことを依頼し実際に会うが、その親友は会っている最中はたわいもない話しかせず、ある方法で彼女の殺意を知っていたことを面会後に伝わるように仕組む(第3話「親友の心得」) 感想文なのでこのへんでワガママをいれますが、映画で第1話「アイドルの心得」が省略されてしまったことがとても残念でした。この話、何度も読み返すくらい好きです。依頼した生者は会社員の平瀬愛美。会うことを希望した死者は3ヶ月前に突然亡くなったアイドル水城サヲリ。アイドルとファンという繋がりしかないのに水城サヲリについてよく知る平瀬愛美、また死後の彼女に会いたがる人は大勢いる(ようにみえる)のに平瀬愛美を選んだ水城サヲリ。死にたくなっている平瀬に「来ちゃダメだって。こっちは暗いよ」といったり、すぐ謝る癖のある平瀬にちょっと喝をいれたり、そのあとに「最後に会うのがファンなんて、アイドルの鑑って感じじゃない?」と笑う。それを読んで気持ちを晴らせるくらいには私は単純にできている。 「上遠野浩平『ソウルドロップの幽体研究』のあとがき」 僕は、上遠野浩平が好きで、昔から読んできました。 作品よりもあとがきが好きで、 あとがきを読む為に本編を買っているようなものでした。 ・・・膨大な著作の中から、 一番好きなあとがきは何か?といえば、 僕の場合は『ソウルドロップの幽体研究』のあとがきになります。 この作品は、ブックオフなんかでは100円で売ってますし、図書館にも大体置いてあると思うので、 あとがきを読みたい方がいたら、 チェックしてみてください。 この感想文の中では、全文の引用は出来ないので。 ・・・さて、 そのあとがきですが、 「天使を憐れむ歌」という題が付いています。 ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」のパロディですね。 まず、この遊び心に惹かれます。 では、上遠野浩平は、天使の何を憐れんでいるのか、といえば、 それは、機械のような部分を憐れんでいる。 どんなに純粋で美しくても、 負けたり挫折したことのない天使は、 寂しいということも、ささやかな喜びというものも、理解出来ないだろうと、上遠野浩平は書く。 歌を聴いても、揺さぶられるものを持たないから、分からないとする。 その上で人間を省みる。 人間は揺れ動く。 昔に「これは実はつまんないものだったのかな」と捨て去ってしまった曲を、 ふと聴き返してみたら、新たにこみ上げてくるものがある、ということもあり得るだろうと書き、上遠野浩平は問うている。 そのときに不滅なのは、 その歌なのか、我々の心の方なのかと。 そして、 最後に、いずれにせよそれは、天使などではなく、人間でしかあり得ない。 と纏める。 ・・・そんな途方もない考察をする上遠野浩平が僕は好きなのです。 彼の考察は、 読者1人1人に浸透するだけの、 普遍性と多義性と拡張性を備えています。 僕達は、 上遠野浩平の考察を自分のものに出来る。 上遠野浩平は自分の考察を読者にダイレクトに投げる。 そんな関係性に、僕は、理想の作家と読者の姿を見出しているとも書き添えておこうと思います。 人間は、有限である。 天使は、無限であろう。 ですが、 有限なのは人間だけではありません。 空気も、水も、太陽も、地球も、有限です。 有限に囲まれた人間達と、 無限に囲まれているであろう天使達。 どちらに真の優劣があるのか、 本当のところは、 判らないのでしょう。 上遠野浩平の目線も人間の目線だから。 もし、天使が小説を書いていたなら面白いですね。 天使目線が読めるから。 ただ、この諺は真実だろうと思います。 “隣の芝生は青い” 僕達は、 あとがきの最後に上遠野浩平が言うように、 一歩一歩進むしかないのだと思います。 やがてどこかに辿り着くと信じ続けながら。 戸田山和久著『哲学入門』ちくま新書 この本の著者は、意味、自己、目的、自由、道徳などの「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を、「精神」と「物質」に分けないで「物質世界の言葉」だけで説明しようという試みをしています。 そのためには、「意味」とは何か「情報」とは何か「目的」とは何かをすべて生物や物質の言葉だけで説明しないといけない。そんなことできるの?と思ったけれども、ちゃんとできています。多分。(私のおつむでは分からない部分も多し) その中で、何故我々が「間違える」のか、ということも分かってきます。間違える能力は、目的手段推論のためにちゃんと役に立っているのでした。 それも面白かったんですが、私がへえ〜と思ったのは、「道徳的概念のコアには自由意志の概念がある」というもの。 つまり、助ける、寄付する、許す、賞賛する、逆を言えば助けない、寄付しない、許さない、賞賛しない、という行為の根底には、「それが自由意志でなされたかどうか」ということが関わっているのです。自分の意志でした悪いことには罰が与えられるけど、心神喪失状態だったら無罪になったり。「自業自得」という言葉もあります。 人間が信じてて、尊重している「自由意志」っていうのは、欲望にしたがってやりたいことをやるってことではなく(それは自由というより、欲望に支配されている状態で、社会的地位や生命を損ないかねない)自分をうまくコントロールして過去から学んで良い道を選択できる、っていうことらしい。 この「自由意志=自己コントロール能力」を人間はすごく大事に思ってるみたいだけど、どうしてだろう…?これへの答えも書いてあって「自由意志でやったかどうか」という問いは、自己コントローラーという特別な道具(要するに目的手段推論能力)を使ってお前は何をするのか?という問いで。その道具は文化を作ったり協力したりするためのもので、悪いことしてそれをぶち壊すためではない、ということみたい。 あと、「責任を取る」という行為は「自己コントロール能力を高める」とも書いてあった。 でも、この「自己コントロールがうまくできている」というのは、誰が決めるの…? 自分?周りの人?「うまくできている」と思ってる人は自分で感じているだろうけど、それを決定づけるのはやはり他人からの評価か。 ただこの「コントロールうまくいってる」状態の基準が、現代は結構厳しめで、ついていけないと感じる人も多いでしょう。 たとえば、女性が仕事も家庭もおしゃれも全部できてて、という幻想があって、それが「うまくできてる人」ってされると、困る。一つ良い策を考えることができて、そっちに向かっているんなら「うまくできてる人」って言っていいと思うんだ。 その他、「なぜ人生が無意味に思えるのか」に対する答えが、すごくいい感じに書かれていて、よかったです。 あれっ 立てるの忘れてたと久しぶりにノコノコやってきたら… ありがとうございます \(^o^)/ 「「続・高橋睦郎詩集」を改めて読む」 ・・・といっても、今回の読書感想文スレッドへの書き込みでは、詩集の中から、常に、僕の頭の中で異色の輝きを放ち続けてきた高橋睦郎の短詩についての感想に絞りたいと思います。 僕の頭の中で明滅し続けてきた高橋睦郎の短詩。 その代表格は「集まる」です。 「集まる」は、怖ろしく冷徹な、直截的な作品です。 これはこうである。と、語り手によって規定される、詩集『動詞』の世界観ですが、その規定の普遍性や実効性や汎用性が「集まる」は、非常に高いと思いました。 正に、“集まる”ことの意味を、この上もなく言い当てていると思え、 この「集まる」を読んだ結果、僕は、高橋睦郎を生涯読んでいこうと思った程なのです。 「集まる」については、ずいぶん昔から考えてきたのですが、実は、ここ最近、急に浮上してきた作品があります。 それは、「ある」です。 「ある」は、長らく、語り手の規定が極端過ぎる作品だと受け止めていました。 “淫具”という名詞の“挿入”が、僕には、狭量に思えて、人類史ともシンクロする「集まる」に連なる、世界の広さや長さに比べて、特殊過ぎると思えていたのです。 しかし、前述の通り、ここ最近、「ある」についての認識に変化が起きました。 それは、僕が、性にまつわる作品を積極的に読み、様々な性の世界・場面に少しずつでも触れてきたことが最大の要因になっています。 つまり、僕は、これまで、【性】についての作品は自分にはまだ早いと思って、あまり追求してこなかったのです。 それが、昨年来、急変し、今、一番追求したいテーマは【性】になっているのです。 そんな人間への理解・追求の変化の中、高橋睦郎を振り返ってみた時、以前には、あまり関心を抱かなかった、性についての作品に惹かれるようになったのです。 そして、「ある」の意味合い・重要性にも、ようやくにして気付けたのではないかと、自分では思っているのです。 最後に「ある」の全文を引用して終わりたいと思います。 傍点は省略しています。 「ある」 私たちがたがいにあるとは、たがいに淫具としてあるということか。 私はきみの淫具としてあり、きみは私の淫具としてある? 私は世界の淫具として、世界は私の淫具として? 私は神の淫具、神は私の淫具……? 出典‥『続・高橋睦郎詩集』(思潮社) 著者名‥高橋睦郎 (この詩の“?”から、僕の【性】の追求の、1場面が始まる予感もあるのです) (ほんとうはどうなのか) (ほんとうに“淫具”なのか) (それ以外の“ある”を、もう一度獲得し直す為にも) (追求したいテーマなのです) 1 2 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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