2014 08/07 21:31
ゴースト(無月野青馬)
「「続・高橋睦郎詩集」を改めて読む」
・・・といっても、今回の読書感想文スレッドへの書き込みでは、詩集の中から、常に、僕の頭の中で異色の輝きを放ち続けてきた高橋睦郎の短詩についての感想に絞りたいと思います。
僕の頭の中で明滅し続けてきた高橋睦郎の短詩。
その代表格は「集まる」です。
「集まる」は、怖ろしく冷徹な、直截的な作品です。
これはこうである。と、語り手によって規定される、詩集『動詞』の世界観ですが、その規定の普遍性や実効性や汎用性が「集まる」は、非常に高いと思いました。
正に、“集まる”ことの意味を、この上もなく言い当てていると思え、
この「集まる」を読んだ結果、僕は、高橋睦郎を生涯読んでいこうと思った程なのです。
「集まる」については、ずいぶん昔から考えてきたのですが、実は、ここ最近、急に浮上してきた作品があります。
それは、「ある」です。
「ある」は、長らく、語り手の規定が極端過ぎる作品だと受け止めていました。
“淫具”という名詞の“挿入”が、僕には、狭量に思えて、人類史ともシンクロする「集まる」に連なる、世界の広さや長さに比べて、特殊過ぎると思えていたのです。
しかし、前述の通り、ここ最近、「ある」についての認識に変化が起きました。
それは、僕が、性にまつわる作品を積極的に読み、様々な性の世界・場面に少しずつでも触れてきたことが最大の要因になっています。
つまり、僕は、これまで、【性】についての作品は自分にはまだ早いと思って、あまり追求してこなかったのです。
それが、昨年来、急変し、今、一番追求したいテーマは【性】になっているのです。
そんな人間への理解・追求の変化の中、高橋睦郎を振り返ってみた時、以前には、あまり関心を抱かなかった、性についての作品に惹かれるようになったのです。
そして、「ある」の意味合い・重要性にも、ようやくにして気付けたのではないかと、自分では思っているのです。
最後に「ある」の全文を引用して終わりたいと思います。
傍点は省略しています。
「ある」
私たちがたがいにあるとは、たがいに淫具としてあるということか。
私はきみの淫具としてあり、きみは私の淫具としてある?
私は世界の淫具として、世界は私の淫具として?
私は神の淫具、神は私の淫具……?
出典‥『続・高橋睦郎詩集』(思潮社)
著者名‥高橋睦郎
(この詩の“?”から、僕の【性】の追求の、1場面が始まる予感もあるのです)
(ほんとうはどうなのか)
(ほんとうに“淫具”なのか)
(それ以外の“ある”を、もう一度獲得し直す為にも)
(追求したいテーマなのです)