【期間限定~9月15日】23歳以上の人の『夏休み読書感想文』(原稿用紙3枚)[19]
2014 09/15 12:38
こひもともひこ

『クォ ヴァディス――ネロの時代の物語――』上中下巻 シェンキェヴィチ 河野与一訳 (岩波文庫)

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物語の背景となるのは暴君ネロの時代のローマ。ギリシアの神々を自分たちの都合のいいように奉る時代に、キリスト教が入ってきて徐々に勢力を広げていく。皇帝であり詩人であるネロは、焼かれる都市を見たいというだけの理由でローマに火を放ち大火災を起し、その罪をキリスト教徒になすりつけて迫害する。

この時代の人々にとってギリシア神話の神々は、日本人の思う八百万の神様たちの捉え方と似たところがある。ゼウスを神々の頂点に置いているものの、個々人が頼みごとをする神様は、お願いする内容により変わる。愛と美を願うならアフロディーテ/ヴィーナス、戦の勝利ならアテナ、海への捧げ物はポセイドンにという風に、人間のする行為・出来事の象徴をそれぞれの神として比喩しているということができる。調べてみると、ローマ神話もあって、それがギリシア神話と混ざり、数多くの神々がそれぞれの用途に合せて祈られていたようだ。この、神の多さがあることから、民がどの神に祈るのかは個人の自由となっている。したがって、キリストを信仰するから迫害するというようなことは起らない。物語を読み進めていくと、日本の踏み絵とは違う様子がよく分かる。

物語の展開は、ギリシア(ローマ)の神々を称え、奴隷を使い、日々贅沢な暮らしをして堕落していくネロをはじめとする廷臣たち 対 新たな信仰であり、愛と許しを説くキリスト教徒(ローマに火を放ったものとして迫害を受ける)という構図になっているものの、ギリシア神を称える側が悪で、キリストを称える側が善という描かれ方をしているわけではない。また、キリストの超絶的な力により奇跡が起こるような展開もない。進んでいく物語はどれも、人間が考え行った結果として納得のいくものになっている。

作中にはたくさんの人物がでてくるのだが、対照として描かれた二人の哲学者が変化していくさまは特に面白い。ペトロニウスとキロンという二人の哲学者の思考・思想と、起した行動の結果を受けての二人の変化の違い。この二人の対照は、コインの裏表や善悪としての比較対象ではない。物事をよく考える人物が、画策し行動した結果を受けて、ペトロニウスはAという考えに至り、キロンはBという考えに至る。二人の進んだ道は違うものの、どちらが良い悪いではない。また、二つの道が極端に違うわけでもない。この人物対照を読んでいると、カミュの『ペスト』を思い出した。『ペスト』もまた、物語に出てくるたくさんの人物が、それぞれに考え行動した結果、どういう道に進むのかが描かれている。そして、どの道が善で、どの道が悪という描かれ方ではない。ある考え方を持つ人物が、物語の展開に影響する行動をとった後に出た結果を受けて、考え方を変える/変えないようになる。

キリスト教徒の迫害がはじまる下巻には痛々しいシーンが多くて読み進めることが辛くなることもあったものの、クライマックスには納得がいくし、淡々と終わる最後も秀逸だった。

私の買った上・中・下の三冊は、表紙カバーのない古い時代の岩波文庫版(河野与一訳)だったので、旧漢字がたくさん使われている。旧漢字が読めない人には木村彰一訳のほうを薦める。でも、旧漢字がクリアできるのであれば河野訳は読みやすい翻訳だと思う。

最後に、『クォ ヴァディス』はラテン語で「(あなたは)どこに行くのか?」を意味するのだけれど、そうであれば題名を『どこに行くのか?』『何処へ向う』のように翻訳してもいいのではないかと思った。『クォ ヴァディス』も『クオ・ワデス』も、日本人の気を惹く言葉・題名には思えない。作者のシェンキェヴィチはノーベル文学賞受賞者(1905年)。
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