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詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α (創作系)スレッドオペレーター:中川達矢
情報のタネローン

part1はこちら
http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=217908


このスレッドのテーマは詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換です。

テーマ別レスマップ

下記アドレスの右側に番号を付ければレスを開くことが出来ます。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=

<トピック1(詩に直結すること)>
普遍性(75 90)
詩情・抒情性(70 84)
記号・意味(の解体)(71 95)
イメージ・メタファ・象徴(67 71 75 81 83 95)
レトリック(65 71 73 81)
読者との関係性(65 71 73 81)
詩作・推敲(64 67 70 72 83 96 99)

<トピック2(フリートピック 巡りめぐって詩に?)>
恋愛(79 80 84 86-90 94 96 97 98 99 100)
ジェンダー(97 99 100)
同性愛(97 98)

<人名>
尾崎亜美(80)、小田和正(90)、西野カナ(94 96)、木下牧子(91)
入沢康夫(82)、宮沢賢治(82)、新川和江(86 88 89 91)、石垣りん(88 89)
白石かずこ(88 89)、茨木のり子(88 89)

<キーワード>
美意識(64 67)、作者と作品の関係性(65)、現代詩の閉鎖性(65)、多義性(67 71 72)
限定・無限定(67 71 73)、わかりやすさ(75)、慣用句(75)、発話者の視点(82)
二人称(84 90)、物語性(87)、ラ・メール(88)、寓意(92)
デノテーション(95)、コノテーション(95)、マナ識(95)、アラヤ識(95)
『真夜中の野次さん喜多さん』(しりあがり寿)(98)
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)(100)
ジェンダークィア(99)

<書籍>
『レトリック感覚』佐藤信夫著 講談社学術文庫(81)
『詩のこころを読む』茨木のり子著 岩波ジュニア新書(89)
『言葉・狂気・エロス』丸山圭三郎著 講談社学術文庫(95)

<過去のレスマップ>
1番から61番まで(62)
63番から100番まで(101)

[162]蛾兆ボルカ[12/22 19:46]
先日、詩人で小説家だった伊藤桂一氏が亡くなりました。

享年99歳と聞いて、私は驚きました。何故なら氏は昨年まで『抒情文芸』誌の投稿小説選評を担当されていたからです。
ご高齢であることは存じ上げていたのですが、99歳と聞くとあらためて感銘をうけます。
日本の口語自由詩の歴史と同じぐらい生きた詩人が、一人去ったのだなあと思います。

私は投稿をしていなかったので、氏の批評を、ごくたまにちらりと拝読しては、そのつど勉強させて頂いていたのですが、五年ほど前に、ある投稿小説を褒めて『詩的昇華に至っている』と、書いておられたのが印象に残ってます。

『詩的昇華』・・・、何でもないような、わかりやすい言葉ですけど、私としては大事にしたい日本語のひとつだなあ、と思います。

詩的昇華はなぜ起きるのか。詩的昇華とは何か。

改行や音韻にたよらない純粋詩概念、とか・・・、文学史を辿れば関連用語はいろいろ展開するのでしょうけど、そもそもの『詩的昇華』という概念そのものを、あらためて受け取りたくなっています。
 

[161]……とある蛙[2013 07/24 13:22]
うんとMEMO

文学と言語機能1

言語とは何かという問いに対して
その機能面から考察すると、

 まず、言語は事実や思想の表現・伝達の手段であると定義づけうる。
 しかしながら、言語は伝えるべき情報の伝達手段、媒体の機能を持っているだけではない。

それ以上のナニカである。
そのナニカとは言語自体に内在する創造的意味作用の可能性
          →美的あるいは詩的な機能とでも呼べるものがある。
言語が、伝達手段つまり客体ではなく、言語それ自体が主体となる機能も担っている。

(メモ)

1文学作品の記号性
 ?文学は言語を素材とする→絵画や彫刻とは異なる
  (言語活動の一タイプといえる)
 ?人生に対する指針を与えるもの→文学固有のものではない。
  キすぐれた文学作品
   →哲学や倫理学とは異なる 
 ?内容は文学性とは無関係である。
  WhatではなくHow である
 結論→ものに対する新しい見方を提供するもの

2 文学作品の構造
  ?特定の語の結び付き→階層性→構造体
  ?韻律 頭韻 脚韻 パターン構造
  ?起承転結  意味的パターン構造
  ?Ex 太郎を眠らせ…雪降りつむ
    次郎を眠らせ…雪降りつむ
     三好達治の有名な詩から(笑)
  構造の平行性→無限の繰返しの暗示

3 記述的アプローチ
 ?言葉は必ずしも一義的ではなく、その点単純な記号とは異なる。
  同じことを言うのにいろいろな表現の仕方が出来る。
 ?表現上の選択の結果としての文体→
  言葉の選択の結果「ふつう」からずれた選択も可能
  ※「ふつう」からずれるとは意味の範囲の拡張というより
 ?言葉の使われ方の視点のズレではないかと考える
 ?詩で使われる言葉>日常で使われる言葉
  ずれても許される詩の言葉

4 機能的アプローチ
?感情的意味の表現が可能
 ?一つは音韻リズムなど繰り返しによって感情を喚起させる
 ?一つは表現が主として用いられる環境を連想させる。Ex方言、専門用語
 ?内包的記号性→共通認識として→隠喩 

詩学と文化記号論  池上嘉彦著  ちくま書房
 

[160]こひもともひこ[2013 05/22 00:06]
>>157
ツさんへ:
紹介された映像『□□□(クチロロ)/あたらしいたましい feat. 金田朋子』は面白かったです。ボーカロイドのことはほとんど知りませんが、裏表ラバーズ「歌ってみた」の秋赤音さんの作品などは、文字の見せ方においては、現代詩を完全に追い抜いちゃってると思います。

・【たまには遊びたくなる】裏表ラバーズ、歌ってみた【秋赤音】.mp4
 →http://www.youtube.com/watch?v=XoTUNtSw2ek

他に、歌ではありませんが、これに言葉が加わったら面白いだろうな、と思う作品を紹介。

・Kettel - Pinch of Peer official music video
 →http://www.youtube.com/watch?v=cgAm9U-1Qkc

・Debussy, Prelude to \'The Afternoon of a Faun\' (animation)
 →http://www.youtube.com/watch?v=-YazhxBA7oo

・Beethoven -- Moonlight Sonata
 →http://www.youtube.com/watch?v=yojDu3E9jls

詩のことについてちょっと触れると、これだけ情報過多な時代にもかかわらず、相変わらず短詩ばかりが目に付くというのはヘンテコリンな気がします。短詩だから駄目というのではなくて、詩は言葉を削るものだから、削って削って言葉を研ぎ澄ませるべきだ! というようなものの考え方自体が古くなっているように私は思います。
 

[159]深水遊脚[05/20 07:24]
 中川さん、蛙さん、お久し振りです。はなもとあおさん、はじめまして。ツさん、こひもともひこさん、こちらでははじめまして。

 プロフィールのBBSでいろいろ呟いていましたが、引用するほどではないので、箇条書きでここにも記しておこうと思いました。

〇公に誠実なありかたと、私に誠実なあり方
 詩は私に誠実なあり方を追求したものかもしれません。ただ、私的な誠実さを正しさだと錯覚してしまえば、主観的なもの(たとえばポエジー)を普遍的なものとして押し付けるような、おかしなことになります。ゆるい例えですが、普通に「これ面白いね」といえばいいところ、「え、面白いでしょ。なんで笑わないの?」と思わずとんがってイヤがられるようなおかしさ。
 はなもとあおさんが書かれていた、history
と story ということや、ツさんが書かれた外部に対する緊張感(よそ行きと普段着ということがふと浮かびました)とも関連しそうです。

〇平安朝の和歌
 返歌や本歌取りの名作がなぜ語り継がれたか。そこいらのポエムサイトの、感想の代用品みたいな返詩では歴史に残らなかったでしょう。それぞれの歌人に個としての深さがあり、なおかつ相互に了解しあえる教養や美意識があった、のかもしれません。

〇自己模倣
 模倣の何が怖いか、それは自分でものをつくるという志をくじいてしまうことです。自己模倣は法的、経済的な問題は発生しませんし、誰にも迷惑はかけません。たぶん志の喪失ということが、模倣をやらかした人の評価を下げるのかもしれません。

 最近は短歌を書いています。形式的な約束事が決まっていて、そのなかで言葉そのものの活力みたいなものを生かしきって、そのために多少のルール違反はするけれど、根本的なルールは尊重する、という書き方でいまのところは行っています。あくまで口語で書くことにもこだわっています。自由詩を
また書くとしたら何を書くか、いまは想像できません。だからここでなにかを語ることを遠慮していたのですが、愉しそうなのでつい首を突っ込んでしまいました。これにて失礼します。
 

[158][2013 05/20 01:43]深水遊脚
(>詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。

と、はなもとさんがおっしゃるように、また僕のガクセー時代、ゼロ年代(笑)にもやはりこのもんだい意識はあって、ナニがゲー術で、ナニがゲー術ではないのか? そのへんをクリアにしないと何をやっても空虚(根拠のないゲー術つくること、関わること)だし、そーいうことを考えている人は多かったです。
そして、ごく個人的な話ではありますが、、そのことに対するぼくの周りのアクションのとり方としては、カオスラウンジ(http://www.youtube.com/watch?v=HpueFRzx0PY)的な方向(明治期に輸入されたゲー術という概念は、ついに、この国に根付かなかった。やめにしよう。も、ゲー術は終わりにしよう。オレたちはゲー術を滅ぼして、新しいフェーズに入るべきだ。)に流れた人(カオスラは今のところゲー術に取り込まれてますが、、)と、ゲー術を明治からの文科省の呪縛から解放して、その?意味?をスライドさせよう(近年地方でゲー術祭(http://www.youtube.com/watch?v=HAPx9B-a2u8)とかやってるよーな、、てかぼくはモロこっちに行った、、(もちろん何もかもがうまくいったわけではない、、))みたいな人がいた。。
たとえばヌーヴェルヴァーグにおける作家主義とゆーことばには、作者が作家意識をもって作品をつくるみたいなイミとそれから流通している商業作品の中から?作家性?を見出すことみたいな複数の含みがあったとおもいますが、それともちょっと違って、も、ほんとにナニがゲー術かわからないところまできてた。
(詩やゲー術に限らず、○○とはナニか?とゆーギロンをするとき、たんなる定義論争をこえて領土問題になりがちですが、、すぃ〜と線引いて、
こっからここまでが○○で、あっちが○な、、みたいな、?純粋ゲー術?とか?純粋詩?とか?ニチジョー言語?と?詩的言語?とか、あいや、ぼくヤコブソン嫌いじゃないしポーとかマラルメとか好きですし、そゆギロン自体は興味深くもありますが、、結局は、広田修さん つ http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269456 が指摘されているよーな問題、あるいは哲学者のライルがいうところの?カテゴリ エラー?の問題に突き当たるだけだとぼくは思います。カンタンにいうと、?大学?の事務室や講義棟や体育館や食堂をあちこち見て回った人が、「で、大学はいったいどににあるの?」と質問する、みたいなやつです。逆にゆーと、?ニホン政府?は?コレ?だ! とゆって?国会議事堂?を指さしてしまう、みたいな([日本政府]の部分に[心]や[カレー]や[詩]を、[国会議事堂]の代わりに[頭部(脳)]や[ボンカレーorインド人が作ったカレー]や[根底に歌があるものor規範的な意味作用をズラしたことば]を当て嵌めても可)。広田さんがいうよに?詩?の概念は家族的類似性の観点からとらえるべきだし、勝手に付け加えるなら、詩は、領土区分的に 詩が?アル? とゆーよりも、 詩を?なす? といったほうがより真実に近いきがします。)。

ながくなりました。。〆に入ろーとおもいます。
ほんとはもっともっと書かなきゃいけないこと、拾い切れていないこと、たくさんあります。
ナニも僕は、ナニがゲー術かわからないからといって、価値相対主義的な、なしくずしに価値破壊的なことをいいたいのではありません。そうではなく、ナニがゲー術がわからない、とゆー状況的(或いは根源的)なアリエナサ!そのものに対しての緊張感を常に持ちづづけること。そして、そーするならば、ビ術や詩がガラパゴス化することさえ悪いことばかりではない、と僕は考えます。ただ、そーした?固有のフレーム?の内部でのいっそう先鋭化した問題が、そこでの極めて特異な成果が、外に、世の中に対してどれだけ翻訳可能な汎用性を持ちうるか、つまり、どれだけ外に対しての緊張感を持ち、他者を説得しようしているか、、とゆーことが、その態度が大事だと考えます(そのいみでは、もし、はなもとさんが言うように、返歌、返詩、連詩の以前に、その詩投稿サイトでの?詩を詩でかえす、返歌のようなシステム?が?発表の場を占めてしまう可能性があ?り、結果的に新しい?詩人を潰していく?ことにもなりかねない仲間内だけで完結しているよーなものとして機能しているなら、それはどうかとはおもいます。僕は現在詩フォーラム以外の詩サイトあまりよく知らないのナンともいえませんが。)。

、、もちろん、僕がここまで書いたようなスタンスは、?個人で楽しむような詩やビ術?とはどこか相入れません。つまり、ゲー術であるとかどーかの前に、それ以前に、個人の内面(感動とか感情移入)の問題をまったくあつかい切れていません。そして、小学生が書くよーな詩や絵と違って、ゲー術としての詩や絵は訓練と学習と高度な抽象化によって行為されるものですが、ぼくは?個人で楽しむような詩やビ術?も、小学生の詩も、おじいさんが描いた印象派のまねごとに過ぎない(ように見える)絵も、その人にとって掛け値のないものである限り、それをヒヒョー的に見たり、序列をつけられないのです(J-POPのPVを現代アート的な文脈から語ることはできても)。
そう、、ぼく自身が多くの様々な矛盾を孕んでいます、、、。

、、いぜん、愛媛の佐多岬という場所で岬あじとゆーアジの刺身を食べたことがあります。ちょっと人生観が変わるほど、、とまではいいませんが、とてもおいしい魚です。このあじは、四国と九州の間、関さばなどが獲れることで知られる(や、それだけじゃないでしょーけど、、)豊予海峡という海域で獲れるあじです。そしてこの海域で獲れたあじは、大分側で水揚げされたものが関あじ、愛媛側で水揚げされたものが岬あじ、とゆーべつべつの名前で呼ばれています。岬あじと関あじは同じ海域で獲れる同じ魚ですが、岬あじはブランディングがうまくゆかず、関あじの数分の一の値段で取引されているとゆーのが現状です。、、ちなみに、どちらのあじも、同じくらい、おいしい(どっちも食べました)。ぼくはただ、関あじも岬あじも、おいしい、といいたいだけなのです。(もちろんぼくはメバチやキハダのネギトロ丼で十分な人間ですが。。)

では、失礼ます。)
 

[157][2013 05/20 01:15]深水遊脚こひもともひこ
(はなもとさんへ

挨拶がおくれました。
えと、あらめまして、はじめまして、ツと申します。
ほとんど難クセのよーな文を寄越したのにもかかわらず、しっかりとお読みいただた上でのていねいな返信をどうもありがとうざいます。はなもとさんのゆってることはスゴクわかるとゆーか、心情としては近いきもしますが、そんな自分のキモチはカッコ入れにして、、引き続きややラジカルな立場からモノをゆってみたいと思います(いつか、あなたの前に、こーゆーことを言うひとが現れないとも限らないので)。

さて、まず、なぜ先日のよーな話をしたかとゆえば、僕は、

>詩は芸術か。
>詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか、

はなもとさんのこの発言の背景に、?ゲー術?と?個人の楽しみ?との間にある階級差、ヒエラルキみたいなものを読みとってしまったからです。勝手に読みとりましたごめんなさい。そしてそれがいいとか悪いとかゆーのではなく、そのこと自体についてナニカ語ってみたくなったのです。

で。えと。端的にゆって、?ゲー術?とは、重たいことばです。近年では、ネイル?アート?とか、銭湯の壁絵のFUJIYAMAは?アート?だね! 俺達の足元からわき出て俺達をほっこりさせてくれるこのラドン湯だって?アート?さ!! なんてゆーよーなニチジョー会話が飛び交うくらいに軽くはなっていますが、、やはり依然として?ゲー術?とはとても重いことばです。
たとえばブンガクならブンガク、ビ術ならビ術、えー画にはえー画の、固有の歴史があります。ゲー術作品である、とゆーことはその気が遠くなるほど重たいレキシに参入し、そこで新しいものを生み出す、とゆーよりも、連綿と続けられてきたそのレキシの突端部分で微細なアップデートを行う(行おうとする)ものに他なりません。「見て! あたし今日、すごい線のタッチをあみ出したわ!!」「どれどれ、、君、たしかにこのタッチは素晴らしいけど、、、(カリグラフィーのモデル画集をパラパラしながら..)これは、150年以上前にある絵描きが発明したタッチとまったく同じじゃねーか..!」 ...。「し、知るか!!」
とゆーのでは、もちろん通りません。たとえどれだけの情熱を注ぎ込もうが、どれほど胸に響く作品をつくろうが、あるいはすさまじく珍妙奇天烈なものだろうと、、二番煎じ三番煎じ、過去に誰かがやった手法や方法論では、レキシにその名を残せません。
また、ぼくのガクセー時代、たとえば周りで映像なんかやってる人たちは、じぶん達がつくろうとしているゲー術作品と比べて、宇多田ヒカルのPVがどんだけスゴイかってことを皆しっていました。インタラクティブ系とかデジタル・アートとかやってる人は、じぶん達の周囲にある高尚なゲー術(公共スペースを利用したり、国から助成金をもらったりしている)よりも、ふざけたB級ゲームクリエーターの作品のスゴさを肌で体感していました。しかし、現代アートの外にある(歴史に参入していない)、宇多田ヒカルのPVはけっして国立近代ビ○館に収蔵されることはありません。
ゲー術の根幹を支えるものは連綿と営まれてきた長い固有の歴史であり、がゆえに、それがないもの、その外にあるもので?ゲー術?が成立するのだとすれば、それはそもそも前提としておかしい。ゲー術とはそーいうものです。
(そいえば、タイプライターの登場がブンガクを変えた(正確な記憶ではありません)、とかゆった作家がいましたね。ええと、それ(タイプライター)によって思考速度を超えた高速自動筆記でkeyを叩くことが可能になった、、とかじゃなくて、や、もちろんそゆトンガッタ表現も?含めて?そーなんですけど、、?テクノロジー?がそれまであったソレそのものの営みを、在り様を大きく変容をさせることはありますよね。で、ぼくなんかはコレ(つ http://www.youtube.com/watch?v=ZwGpF9hOdSQ *フルスクリーン推奨)をみて、21世紀、視覚詩もついにここまでキタかー!、、としみじみ思ったのですが、、いえ、ぼくが思ったとゆーよりもコレ、明らかに詩の歴史のどこかの突端をアップデートするものであり、ひとつひとつのも字列が、も字が、記号が、いみ(記号表象は創発的に非記号表象を成し、動きやじかんの伸縮とともに意味は生成されてゆく)が、、線レベルで絶え間なく解体/結合(再組織化)をくり返してゆくときの、意識(≒線と線)のスリットから覗ける空白がそら怖ろしいほどですが、、、でも、、この視覚詩がたとえば現代詩手帖賞とかをとることはけしてないんですよね。なぜなら、、そもそもこのPVは詩として(データなり、パラパラ漫画にして..)現代詩手帖には投稿されないし、たぶん、おそらく、選考の人もこの動画を見ないから、、。またその必要もないし、世の中そゆものだと思いますが、だったら改めて?ゲー術?や?詩?て、ナニ? もう、その概念自体がうまく機能してないじゃん!! てことになりますよね。)

つづく。)
 

[156]はなもとあお[05/19 12:04]
思考メモ。客観的な「歴史history」と主観的な「物語story」の間の区分について、考えなくてはならないかもしれない。『現代思想入門』参照。2013.5.18twitterにて


わたしは、歴史から勉強はじめないと、って感じ。歴史と物語の違いについてもさらに勉強、考察、思考が必要かと。


個人的テーマをもとに、思考メモを加えながら、少しずつゆっくり進めるつもり。
 

[155]はなもとあお[05/17 16:00]
……とある蛙さん


こんにちは。
いやいや、誤解を招く文章を書いてすみません。まだ勉強中ですし、自分の中である程度の見解を持とうとしている段階に過ぎません。はっきりわかってたら、このスレッドに書き込みしないし、もうとっくにどこかの詩壇でバリバリやってるんじゃないでしょうか。

ポエジーとか歌物語とかには自分自身向いていないと思うので、詩人ではないかもしれない、と常に思ってます。


それでも、「詩のようなもの」の付近にいることも、自分自身の不思議のひとつです。


誰かに弟子入りしたりする気持ちもまだなく、自分で納得のいくものを試行錯誤して書いていきたいなあと思ったりしています。
なので自己満足、自己完結の域を出ていないとも思われ、ポイントのたくさん入る詩の作り方も知らなければ、歌のようにみんなに親しまれるような作品を書ける訳でもないので、これからもこのスレッドにはお世話になると思います。


稚拙な文章で偉そうなこと言っているようにうつっていたら、ごめんなさい。そのイメージは出来れば訂正しておいてください。


今後ともよろしくお願いします。
 

[154]……とある蛙[2013 05/17 15:01]
はなもとあおさん はじめまして。

>詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので
ふ〜ん分かっているのですか。たいしたものですねぇ。
みんな悩みつつ、あーでもないこうでも無いと言って書いているのではないかと思っていましたが。自分だけですか。こんなこと考えているのは。

ところでちょいと思いついたことが出来たのでメモ風に書いておきます。

詩と散文の区別はどこでするのかという話で、分けのわからんポエジーと言うことを言う人がいます。ポエジーと言ったところでその定義が人それぞれで他人には意味不明です。勝手に自分でああだこうだ言って悦に入っています。ある意味馬鹿馬鹿しい。

結局、根底に歌があるのが詩で、根底に語りがあるのが小説を中心とした散文ではないでしょうか。そう考えた場合、混合したものも可能で、かつ詩人と呼ばれる碌でなしどもは歌物語みたいなものをもっと書くべきではないかと考えます。私はやらないですが(笑)
 

[153]中川達矢[2013 05/16 19:30]
皆さん、それぞれのスタンスを表明(?)してくださって、ありがとうございます。
詩に対するスタンスも様々であり、このような表明、外形化することによって初めてわかることもあるかと思います。

無責任なことを言えば、「その人にとって、その時、詩とはこういうものである」というものがあれば、その姿勢が、詩にもあらわれると僕は思っています。
それはつまり、人が異なれば、詩が異なるのと同様、時が異なれば、同じ人であろうと、詩が異なっていくように。
ただ、時を隔てたとしても、同じ人が書いた作品には、どことなく、共通性なるものがあると思うんです。
それこそが、その人の揺るがない詩への姿勢なのかな、と思います。

詩には、レトリック、テクニックなどがあると思いますが、これらは、その時その場で自在に使えるものだと思います。
ただ、何かを言葉で書きあげる、という作業は、選択が伴われます。
その選択こそが、人によって異なってくる。
僕は、他人の作品を読む時、このようなことを念頭に置いています。
作品はできあがったものとして、不動の位置にありますが、他の選択可能性を思うことであったり、その人がその時に書いたのだということを思ったりすることで、見方が広がるのではないか、と思っています。


少し雑感として書いてみました。
 

[152]はなもとあお[05/16 11:22]
ツさん、はじめまして。
……とある蛙さん、はじめまして。


詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。それによって、結果としてわたしに同人ができなくても、それも仕方ないのかな、とも思います。詩への見解はまだまだ勉強中でいまはっきり述べることは出来ませんが、……とある蛙さんが話されていた抽象画を書くのとはやはり違うのではないか、と思うのです。ひとつの詩のありかたとして、抽象画的な試みがあっても良い気はしますが、やはり絵は絵、詩は詩であることの理由はあって欲しいものだと思っています。それが作家性にしろ、選択した表現方法が、読者との鏡像だけで語られてしまうには、表現者の主張性を否定してしまうことになると思います。
読者として、受け手としての楽しみ方はある程度個人の投影を楽しむありかたでもいい気はします。その点において正しさ、正しくなさは、作者としてこれは伝えたかったけど、違う受け止め方をされた、ということはあり得る話だと思います。何が正しいかは、置かれている立場によって変わるのだと思います。

わたしは詩を書くひとだけが詩を読むもの、と限定したくない気持ちが強いです。詩を詩でかえすことに違和感があるのはそんなこともあってかもしれません。
わたしは絵も描きますが、わたしの場合、絵はわりと無意識的です。詩も昔は無意識的でしたが、いまは意識的に伝えたいことを持っているつもりでいます。

自分自身作り手として持っている問題はありますが、それはわたしの詩作のテーマであり、まだ同人ももたないわたしは、他の作者からも読者からも左右されることのないものだと思っています。

もちろん、何かに影響されて、ということもありますが、それがメインとはならないものだと思っています。

作り手あり、受け手ありの世界であることはどんな芸術でも変わらないと思います。そこに異議はないです。

文章がうまくまとまらず、おふたりに返信するかたちになり、すみません。
読解力のなさで、うまく話せていないかもしれません。すみません。

詩の生きる道という、とある蛙さんの言葉がとても気になったのでした。それはやはりジャズに例えられたりじゃない、音楽とは別のものでありたい、と個人的には思っています。
朗読する作者は、また違う見解であって、音楽と比較されて語られてもいいものなのかもしれません。


個人的には、自分のテーマを持って詩作を続けることに答えを置きたいと思っています。
 

[151][2013 05/13 22:03]阿ト理恵鵜飼千代子
(んー。キホン的にはぼくもこひもともひこさんに近い立場から話します。
そうですね、えーと、、、コドモのころの話ですが、週刊少年コミック雑誌なんかをぺらぺら捲りながら、よくこんなことを考えたりしました。
美術の教科書に載っているような絵画にはフェラーリが何台も買えちゃうよーな値段が付けらていたりするのに、どーしてジョジョの、、荒木飛呂彦センセーの原画(直筆原稿1ページ分)とか、富樫センセーが描いた1ページ分のゾクゾクする絵には、、フェラーリが何百台も買えるよな天文学的な値段が付けられてナインだろう、、、と(荒木センセーはゲー術家に負けてないのにッ!ゼッタイ!!みたいな、、)。
で、じつは今でも、?ゲー術 以上に ゲー術?な少年ジャンプの巻頭カラーページとか、?詩 以上に 詩?的な140文字のツイートとか、日記やコピー(そいえば糸井重里の?今日のダーリン?という日々の日記みたいな文をまとめた本が谷川俊太郎賞を貰ったことは、お二人の友情を超えて素晴らしいとおもいます)、?ポエトリー・リーディング 以上に ポエトリー・リーディング?しているラッパーとか、、考えればいるし、いくらでも思い当たるんですよね。逆に?ロック 以上 にロック?な現代美術とか詩とかも。。また、どーしようもなく?作家性?をもってしまうヒヒョー家なんかもいますし、大学時代のゼミの知り合いの中には、社会学者(宮台真司)のしかしエモーショナルな文体を、完全に?ブンガク作品?として消費していると公言している人もいました(そいえば、かつて社会現象になったエヴァンゲリオン、?そのエヴァにこそ芥川賞を与えるべきだった?とかゆっていた評論家さえいましたが、、その是非はおいとくしても、キモチはわかるきがします。)。
なんで、?詩 以上 に詩?的な感想やコメントとゆーものはありうるし、あっていいと、ぼくはおもっています。
お察しの通り、僕はソレが、そのゲー術がもしも、?ゲー術と大衆文化?、?ハイアートとサブカルチャー?とゆーよーな、なんらかの?階級差?を利用して成立しているよーなものなら滅んじゃえ! みたいな、ややラジカルな立場から書いています(もちろん僕の発言はフォーラム全体の意思を代弁するものではありません)。それは、ゲー術(詩)がニンゲンがする他のあらゆる表現(ex,ツイート文とかコメント文とか)よりも詩的で優れている、とゆー考えはやはりフィクションだし、その根拠がどこにも見出せないからです。
前フリが長すぎますが、、

はなもとさんへ

なので、仮に、ある詩にたくさんの返歌や詩的なコメントが付き、いったい?ナニ?が?詩?なのか、判別できなくなるよーな状況が生まれているのだとしてもOK(や、ぼくは現在詩フォーラム以外の詩サイトをよくしらないのですが)、だと考えます^-^。

蛙さんへ

あらゆる作品は鑑賞者、つまりそれを?見る?人がいてはじめて成立します。
裏返せば、どく者なんていらない、てさく者の作品も、?見られる?ことまでは否定できない(さく者自身がそれを見るはじめの一人、最初で最後のヒヒョー家として現れる場合も含めて)。
、、神様が死んじゃってからこっち、あらゆる作品は、いかなる超越的な視点からもその身分を保証されない。?じぶん?が?ナニ?であるか?判らない?。だとすれば、こんどはそれ自身が自己反省的に自らを?見る?しかない。作品が自己ブンレツ的に?自分自身を見る?とゆープロセスを通してしか、?自ら?を存立させることが出来ない。?ツクル(作家)?ことと?見る(ヒヒョー家)?ことは鏡像であり、作品においてそれらはその成り立ちからして切り離すことができない、、ぼくは近代以降の?作品?の概念をそんなふうに理解しています。
そしてビ術ならビ術、詩なら詩の内部では、たとえばその?正しさ?を証明することができない(?正しい?とされていることの?正しさ?を証明することができない)。いっしゅのゲーデル問題ですよね。だから、?じぶん?を?知る?ためには?外部?が参照されなければならないし、その?外部?が?超越的?なものであってはいけない。たまたま隣接するものとのカンケー性の中で自分の素顔を垣間見るしかない、、、とこんなふうに。

長々としつれいいたしました。。)
 

[150]はなもとあお[05/13 20:25]
こひもともひこさん


細やかな返信ありがとうございます。


詩は詩なんですね。
芸術でも芸術じゃなくても。

詩を詩でかえすのが詩人を潰す、と思ったのは、発想の、着眼点の優先性からの発言だったのですが、これは個人的にちからのなさからくる負け惜しみだったかもしれません。


その後のこひもともひこさんの文章にある、リスペクト作品への見解につながりますが、いいものはいい、と言えるように、わたしも詩作をがんばりたいなぁって思いました。


なかなかこういった話をできる機会がないので、貴重なご意見が伺えて、よかったです。


詩作を続けて、詩人のお友達もできたらいいなと思いました。


家のパソコンからなぜかフォーラムにログイン出来なくて、携帯からの投稿なので、引用など出来なくてすみません。返信し忘れがありましたら、また、書き込みさせていただくかもしれません。


ひとまずご返信まで。
ありがとうございました。
 

[149]こひもともひこ[2013 05/13 18:31]
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=147
はなもとあおさんへ

『模倣と擬態』というお題を出したのは私なので、ここに書かれたことに対する個人的見解を書きます。

 >詩は芸術か

私は、詩は芸術の一つだと思っています。ですが、仮に詩が芸術じゃなかったとしても、だから何かが変わるというようなこともないという考え方をします。

 >詩の感想が詩になるような『模倣と擬態』のような現象が起こってしまえば、詩人としての確立が難しく、ひとりの詩人を潰していくことになるんじゃないか

「詩の感想が詩になる」ことが何故、ひとりの詩人をつぶしていくことになるのかが分かりませんが、作品の感想欄に書かれたもののほうが、作品そのものよりも優れた内容であったから凹まされるということはあると思います。

 >詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか〜文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか

短歌・俳句は、返歌という形で「コミュニケーションとして詩をやり取りすること」を創作動機の一つとして取り込んでいるので、なんら問題はないのではないでしょうか。

 >詩誌に詩壇があって、ネットにそれがない訳

これは個人個人が繋がれば解決することなので、場の問題ではないように思います。

 >詩作において、リスペクトしての詩作はどの程度みとめられるものなのか、知りたいです。

引用・コラージュ・その人の手法を真似た書き方など、なんでもありだと私は思っています。
問題が発生するとすれば、それは金銭が絡む状況になってからのことだろうなと。

 >どのような動機で、なぜ詩を書いていますか?

他人に読んでもらいたくて、文章を書く。
読んでくれた人を楽しませたくて、内容を練る。
言葉を組み立てていくことがおもしろいので、言葉を綴る。
やり続けていると自分が上達していくのが分かるので、書き続ける。
誰かに「おもしろかったです」と言われたら嬉しいので、作品を発表する。

動機は、こんな感じです。
 

[148]……とある蛙[2013 05/13 13:17]
 最近詩って奴が分からない。ギンズバーグは「主観的真実が読者あるいは鑑賞する者を得て客観化して初めて詩という名に値する芸術が成立する」としている。
 そのように考えたとしても客観化啜るには何人鑑賞者が必要か不明である。結局、鑑賞する者は一人でも良いのか、極端な話、読む側としての自分一人ではどうかという話にもなりかねない。結局不明である。
 言葉というやっかいなものを扱う詩という文芸は、素材自体に意味があるため問題なのである。

 素材自体意味を持たない たとえば 粘土、絵の具、音あるいは空気の振動に意味を持たせるのはなんであろうか。創作者の表現対象、モチーフなどとその構成であると考えられる。しかし対象の模倣(写実)自体はやり尽くされており、新しい芸術は結局人間の根源的なものに訴えるものでは無かろうか、たとえば、リフレインを中心とした規則性の性癖。それに基づく再構成による意味の構築もあり得る。 そうであるならば、究極の芸術の一つは規則性を自覚した無規則なリフレインであって、フリージャズ辺りだったのだろうか。良く分からない(笑)。

 言葉という固まりは解体できない。それを前提とすれば、言葉の意味の範疇あるいはその組み合わせで鑑賞者との関係性を構築して行くしか無い。それすら解体していれば無意味な記号を並べての曼陀羅模様みたいな抽象画にするしかないかもしれない。
 しかし、それなら抽象画を書けばよい訳で、中途半端な絵画擬(もどき)は、鑑賞に値しない。表意文字の漢字は書によって絵画的な感銘を与えることができるかも知れないが、そのことと曼荼羅模様の文字遊びとは別である。
 結局、言葉の意味を抱いたまま言葉による感銘可能なイメージを再構築せざるを得ない。キーワードは言葉の意味の範疇のズレ、つまり並べられた言葉を見る視点ではないだろうか。 
 詩の生きる道はそのあたりか。
 
 ちょっと粗雑かも知れない。素材としての言葉と文芸との関係についてはまたきちんと考えようかな。
 

[147]はなもとあお[05/12 09:07]深水遊脚
詩は芸術か。

某所で『模倣と擬態』というテーマで詩を書いていますが、実際問題として、個人がオリジナリティを持って作品を発表したとして、それを読んで、評価せず、批評という形で話される訳でもなく、以前話にのぼった、詩の感想が詩になるような『模倣と擬態』のような現象が起こってしまえば、詩人としての確立が難しく、ひとりの詩人を潰していくことになるんじゃないか、と思うのですが、どうでしょうか?

詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか、

詩作において、
リスペクトしての詩作はどの程度みとめられるものなのか、知りたいです。


わたしの場合、血肉を削って、詩作します。
発表の場所として、フォーラムがどういう姿で詩をとらえていくのかが知りたいです。


ネットで詩を発表することは、能力や便利さであちこちで活用されていることだと思いますが、詩誌に詩壇があって、ネットにそれがない訳が、どこかにあって、それは詩を本当に大切に思っているのではなくて、どこかで詩を嘲笑やばかにしている面があるのじゃないか、と思ったりします。

楽しさも必要かもしれませんが、

どのような動機で、
なぜ詩を書いていますか?そんなスレッドもあったような気もしますが、訊いてみたいです。
 

[145]はなもとあお[04/25 22:50]鵜飼千代子
奥主さん、丁寧な返信ありがとうございます。
中川さん、はじめまして。


昨日返信を考えて、文章をまとめていたのですが、ちょっと何かが足りない気がして、いちにち考えるともなく考えていました。


怖れや暴力的側面については、奥主さんが分かりやすく説明してくださっているので、概ね、共感です。
付け加えるとするなら、詩はひとつの主張ととらえることで、そこにコミュニケーション性をつないでしまうと、簡単に言えば、賛成反対というか敵と味方をつくるものになりえる、という事でしょうか。


奥主さんの、作品を上手く仕上げたということがごまかして嘘をついているようなもの、というのと、思考・思想とのつながりについて知りたいと思い、図書館に行って、吉本隆明さんの「思想とはなにか」という本を読みはじめたところです。


中川さんがお話されていた、詩は楽しむものか、勉強するものかは、わたしも考えました。


詩はコミュニケーションではない、というのは誰の言葉だったか忘れましたが、詩はコミュニケーションではなく、思考・思想だと思うのです。


だから、「思想とはなにか」の項目にも、詩歌についての記述がなされているのだと思います。


思想を持って詩を書く、というと、ちょっとやはり楽しむからは外れてしまうのかな、と思ったりします。

でも、楽しいからいいんだ、という側面からだけで書かれてしまう、というところに、わたしは暴力性を感じてしまうのだと思っています。


自分が書いていることに、背景をつけていくと、勉強したり歴史を調べたり、に、個人的にはなっていってしまうのですが、それ以前の無意識の期間の、昔カテゴリとしてあった未詩・独白のような、自分を消さない書き方のデトックス効果は詩を楽しむ時期として、有ってもいいのかな、と思います。


詩を誰のために書くのか、何のために書くのか、というのも、思想や暴力性とつながりそうです。


なにかひとつの主張をすれば、そこに良し悪しというか、賛成反対はうまれる訳で、それを越えるのに、芸術性があるのかな、とも思ったりします。


とりあえず、いま言えそうなことはこれくらい、かな。
 

[144]中川達矢[2013 04/25 11:15]……とある蛙はなもとあお鵜飼千代子
はなもとあおさん


書き込み、ありがとうございます。
率直な感想として、詩は勉強するものなのか、楽しむものなのか、その点からの議論も必要になってくる気がしました。

僕自身、ついつい難しい言葉を使って、詩を語ったりしてしまうことがあるのですが、詩の感想を述べる時、難しい言葉をつらつら並べると、その批評の言葉に妥当性があろうとも、胡散臭さなるものが出てきてしまうんじゃないか、とも思ってしまいます。
極端なことを言えば、詩に対する感想もまた詩になりうる、と考え、その感想もまた、人の目にさらされるものであることを意識しなければならないのかな、と。
もしよろしければ…、はなもとあおさんが仰った、「創作の暴力的側面」ということについて、もう少しご説明いただけたら…、と思います。

あと直感的になりますが、揺らぐ自分がいなければ、詩を書き続けることはできない気がします。詩は一瞬一瞬の記録になりうるかもしれないですが、書き上げて、その詩および自分に満足してしまったら、書き続けることはできないような…。
 

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