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詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α (創作系)スレッドオペレーター:中川達矢
情報のタネローン

part1はこちら
http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=217908


このスレッドのテーマは詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換です。

テーマ別レスマップ

下記アドレスの右側に番号を付ければレスを開くことが出来ます。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=

<トピック1(詩に直結すること)>
普遍性(75 90)
詩情・抒情性(70 84)
記号・意味(の解体)(71 95)
イメージ・メタファ・象徴(67 71 75 81 83 95)
レトリック(65 71 73 81)
読者との関係性(65 71 73 81)
詩作・推敲(64 67 70 72 83 96 99)

<トピック2(フリートピック 巡りめぐって詩に?)>
恋愛(79 80 84 86-90 94 96 97 98 99 100)
ジェンダー(97 99 100)
同性愛(97 98)

<人名>
尾崎亜美(80)、小田和正(90)、西野カナ(94 96)、木下牧子(91)
入沢康夫(82)、宮沢賢治(82)、新川和江(86 88 89 91)、石垣りん(88 89)
白石かずこ(88 89)、茨木のり子(88 89)

<キーワード>
美意識(64 67)、作者と作品の関係性(65)、現代詩の閉鎖性(65)、多義性(67 71 72)
限定・無限定(67 71 73)、わかりやすさ(75)、慣用句(75)、発話者の視点(82)
二人称(84 90)、物語性(87)、ラ・メール(88)、寓意(92)
デノテーション(95)、コノテーション(95)、マナ識(95)、アラヤ識(95)
『真夜中の野次さん喜多さん』(しりあがり寿)(98)
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)(100)
ジェンダークィア(99)

<書籍>
『レトリック感覚』佐藤信夫著 講談社学術文庫(81)
『詩のこころを読む』茨木のり子著 岩波ジュニア新書(89)
『言葉・狂気・エロス』丸山圭三郎著 講談社学術文庫(95)

<過去のレスマップ>
1番から61番まで(62)
63番から100番まで(101)

[142]はなもとあお[04/23 23:30]鵜飼千代子……とある蛙
はじめまして。
過去レス60まで読みましたが、わかるところとそうじゃないところがありました。
詩について全然不勉強ですし、理解力がある訳でもないのですが、いま疑問に思っていることを書いてみたいと思って、お邪魔しました。参加の仕方がこれで良いかもわかりませんが……。


書くにしろ、読むにしろ、詩と対峙するとして、まず、咀嚼する自分を持っているだろうか?と、考えました。


自分はこういう理由で、自分である、と主張できる自己個性を持つには、さらされる強さを持たなければならないということだと思います。


そして、それが何であれ、書く理由、書く目的を持つということ。伝えるために書くということ。
そこからすら現代詩は、外れている部分もあると思うのです。
とりあえず読んだところまでの過去レスで気になったのは、読者の在り方についてと、遊びとしての詩の在り方についてでした。フォーラムにいるすべての詩作者、読者の価値観に統一制をもたらしたりできないことはわかっていますが、芸術作品と大衆文学としてある詩の解離を見過ごしたまま放っておくのも、せっかくフォーラムのような場所があるので、現代詩について、Wikipediaにある以上の意見交換がされてもいいように思い、初参加してみました。

よくわかっていもしないのに、語って、すみません。

要は、感動する作品を書けばいいのかもしれませんが、詩を書くこと、読むことでフォーラムに参加するだけでうまれる創作の暴力的側面に疑問を持ちました。

確固として、詩人であることを肯定して、詩作されたり、読んだり批評したりされているのでしょうか?


わたしは自己が揺らぐので、時々、怖くなります。
 

[141]中川達矢[2013 02/26 00:32]
最近読んだ、野家啓一『物語の哲学』において、森有正さんの論が紹介されていたような気がします。
N.K.さんがご指摘なさるように、ただ単に経験を積むことがいいのではなく、それが活用され、詩論・理論の理解に繋がるのは盲点でした。
おそらく循環されていくものでしょう。
経験が主観的、詩論・理論が客観的(一概に分類はできませんが…)が、循環的に影響を及ぼすような気がします。

森さんのおっしゃるのは、体験が点で、経験が線のようなものであり、体験は出来事、一瞬一瞬であり、それを蓄積していくことで経験になっていく。
そして、その蓄積していく主体が必要であり、その主体こそが、「いま・ここ」で体験を語りうる「私」である、といった論旨だったように思えます。
(一部、僕による勝手な改ざんがあるかもしれません…)
そして、そこに付け加えるならば、「私」が「私」たりうるのは、その経験を語るからこそであり、つまり、たとえば、「死」はその人のものであり、他者の「死」を私が死ぬことはできないように、他者の経験も私が経験することはできないのです。
ただ、「死」は経験として、語りうることができないのに比べ、過去の体験は経験として語ることができる。
無論、「あの人は昔、こうで、ああで」と他者の経験を語りうることはできるかもしれないですが、それは、「私」が見た他者の経験に過ぎず、観測点としての「私」、そして、語る者としての「私」からは逸脱できないように思えます。


少し、思いつきで書いてみました。
 

[140]N.K.[2013 02/25 21:41]
 経験を積むことと詩論や理論を読むことについて、詩論や理論の理解とい
うものが、経験を積むことにより深まるように思えます。
 唐突かもしれませんが、森有正の体験と経験という枠組みでいえば、体験
が経験になることに比せられるでしょうか?(森有正については随分と昔の
記憶に頼っていますので、正確ではないかもしれません・・・。体験が経験
になるという言い回しは、森有正の文脈で意味をなすのかさえ良く思い出せ
ていません・・・。)
 

[139]中川達矢[2013 02/25 18:54]
放置癖がある中川です、ごめんなさい。
ひとまず、久々に、このスレをあげてみます。
詩作、思索メモとしてお使いいただけたら、と。
出来る限り、僕もコメントできるようにしていきます。

最近は、現象学・解釈学を学んでいるのですが、
(ずいぶんと話が飛躍…)
詩論や理論を学ぶことが、果たして、読書を豊かにするのか、ということを常々考えます。
現段階で意見を述べさせていただくなら、それはNOで、豊かにしないような気がします。

じゃあ、何が豊かにしてくれるかって、
敢えて、根拠を示さずに、結論だけ投げときますが、
経験を積む
および
他人の話を聞く
この二つが根本的に大事なのではないか、と思っています。


というわけで、議論の余地を残し、
これに即さなくても、皆様のご自由な「しさくメモ」をお書き下さい。
 

[138]吉田DVD[2013 01/21 21:25]
電子書籍にマッチする、新しい現代詩。

現代詩は、散文になりがちです。
わたくしは、文体や韻律よりも「他の現代詩とのつながり」こそ現代詩の特徴だと思いました。

電子書籍に適した、常に更新できるExcel(SkyDrive)のレイアウト。
タイトルと本文(散文)以外にも2つ、表現対象のある形態。
プラレールのように他の詩とつなげて作品を追加できる形式。
まだ改良の余地を感じさせる、キャラクター・ブック(笑)。

 わたくしの「クロノ・メビウス」は、そんな新しい電子書籍(html、常時更新)向け現代詩のプロトタイプ(叩き台)だと自負しています。
 現代詩フォーラム発の新しい現代詩を作るため、みなさんのご意見ご感想をいただきたく存じます。

現代詩「クロノ・メビウス」
http://space.geocities.jp/cornorposts/index.html
 

[137]……とある蛙[06/17 19:39]佐藤伊織りゅうのあくび
読者について考えてみることの意味を理解されなくて残念です。まぁ私の書き方の問題もあるかな(笑)。
 もちろん現代詩フォーラム内のみでの読者について考えることはまったく無意味です。その意味ではKETIPAさんの言っていることは間違ってはいないのですが、読者論ではないですね。ほとんど参考にならない散文です。
 自分が書いているものが仮にも文芸という物だと意識している以上、その享受する側を無視することは傲慢過ぎると思います。
 一般的に読者の意味を考える際、読者側(受け手)からの意味と、作品側からの意味の両面から考えるのは当然想定される前提です。これまであまり繋げて論じられていない受容理論と批評理論が裏表で意外と密接な関係にあるのでないかと考えられます。そのあたりも問題提起した動機なのですが(笑)。
 エミリー・ディキンソン除き、みな想定される読者を意識して書いています。ポオにしろ、その影響を受けた詩人はみな。ランボーですら詩人が責任を負うべき対象として受け手側(人類及び動物という規定の仕方ですが)を意識しています。
 考える意味はあると思います。日本の詩論でほとんど欠落している部分ではないかと思います(全くないとは言いませんが)。山本太郎さんが半ば自嘲気味に詩人の独善についてその趣旨のことを書いていたと安藤元雄さんがエッセイで書いていましたが(笑)。
 

[136]……とある蛙[2012 06/11 11:40]
読者論は非常に難しいテーマなので余り深入りしなくとも良いとは思います。私自身が考えたのは、単純に詩を余り読まないというか授業以外で読まなかった人の視点が完全に欠落している。それが今の詩でそれを補っているのがはやり歌などの世界ではないかとふと思ったからです。
 古本屋で入手した現代詩手帖の「松本隆の世界」という特集号を読んだとき北川透が馬鹿馬鹿しいくらいくだらない視点でしかも偏見だらけで書いていたので(彼の「私的レトリック入門」や評論集など読んでいたので)ちょっとがっかりしたからです。
 つまるところ、面白い、つまらない、感動したしかいいようのない読者でも良いかという問題(物言わぬ読者ですね)それを無視して良いのかという問題です。
 確かに私小説的な詩もあって良いとは思いますが、その私小説が余りにもすかすかすぎて仲間内だけ(寺山修司なんぞ最終的にはそんなもんだと言い切ってはいますが)でも良いかというと言う問題もあります。
辺見庸の「眼の海」を読んだとき言葉にならない感情がわっと出てきて、感想すら文章に上手くできない経験をしたので、詩を読むって、何さっ?と思ったからです。結局原始的な印象批評、突き詰めて言えば面白いつまらん感動しただけなのかなというkとを思ったので、ン問題提起しました。
 悪口問題は少し誤解を持たせたようです。
 ただ客観的に余りにもインチキなことを書いた場合はたとえ詩でも訂正すべきで(明らかに何らかの意図を持って違うことを書いたのではなく取材不足や適当なだけと見て取れる)、何時も書く必要もないのに書いてしまいますが(笑)。
 

[135]深水遊脚[06/10 07:52]
 題名検索で出てきたこのサイトの読者論を「会議室向け」と書いたのは完全に気分ですが、これらの読者論と、このところ話題になっている読者像とで共通しているのは、言葉そのものではなく言葉の背後の人を見ているのではないか、ということです。過去にこのスレで中川さんが「私小説的」と評したものの見方があるような気がします。作者についての情報を重視する考え方があるのを感じます。加えて、ネットは距離感がつかみにくい分、他者に対する安易な決め付けが簡単にされてしまう。

 私小説的なものの見方と安易な決め付けが、自分のなかに「不快な物言う読者という怪物」を作ってしまっている。ここだけの話ではなく、10年くらい変わっていない現象として、そういうものが多分あります。

 読むということも、書くということも、もっと個人的なものでいい気がしますよ。そして、自分で生み出した「不快な物言う読者という怪物」の始末は、自分でするしかありません。それもまた個人的な行為です。
 

[134]深水遊脚[06/09 23:42]
 題名検索で「読者」といれて検索すれば、会議室向けの読者論はたくさんでてきますよ。現フォも捨てたものではないです。ななひとさんのとか、かなり痛いところをついています。KETIPAさんのも興味深いです。例の人の話ですが。

 この手の話、私はあまり意味を感じないんですよね。強いて言えば最近おすすめリンクに投稿した文章のコーヒーの味の話、苦味と酸味が美味に転換する体験が、どこまでも個人的なものでしかないという部分、苦味と酸味を誰もが美味に感じる必要がないという部分が、詩についても言えるかもしれない、とは思います。誰もが試行錯誤の最中で、言葉を吐き出すことが必要な人もいる。それだけのことですよ、きっと。
 

[133]花形新次[06/09 08:13]
つづき
要は、自分を無謬化しちゃいけないってことでさあ。
死んじまった吉本の旦那は
批評する際には、最高綱領と最低綱領が必要なんだって言ってた。それを使い分けるんだって。
いきなり、最高綱領ぶんまわしたら、聖書以外はろくなもんじゃねえとかって話になるし、勿論そういわなければならない場合もあるんだけれど、それじゃ批評自体がなりたたないし、自分の書いたものもぶったぎられちゃうんだから、やっぱり根気強く最低綱領で評価するんだって。その場合の最低綱領ってのは、自分が書けていること、書けていないことになると思うんですよ、未熟者の俺は。
それで、最初に戻るわけ。無謬化しているわけではないんだろうけれど、そう思わせる文体。言葉遣い。
それが問題だと思うんですよ。
 

[132]深水遊脚[06/08 20:46]
「作品を読む」ということと関連して。

言葉にできることはごくわずかです。言葉にしようとする読者もごくわずかですし、彼は勇者です。作品そっちのけで喧嘩を始めたりしなければ、勇気はたたえるべきです。レベルとか資格の話はよくわからないのでノーコメント。
 

[131]花形新次[2012 06/08 18:33]
「作品を読む」ということとは関係ないです。流れに乗らずにすみません。

よくコメントでいっぱしの批評をしようとしてる人で、その本人の書いたものを見ると、とんでもないクソだったりすることがあります。
クソを書いてはいけないとは言わないんです。俺のもこれ以上ないほどクソだから。
でも、俺の場合、自分の書いたもんがクソだということが分かっているから、他人を批評する勇気がない。(喧嘩売られたときは別です。)自分をクソだと分かっていないのだとしたら、そのセンスは、批評してはいけないレベルで、そんな人に批評されるほうはいい迷惑だ。
まあ、クソ書いてるくせに、他人を批評するのが悪いといってるんでもないんだよな・・・。そうね、その場合は、それなりの言葉遣いがあるってことなんだと思うんですよ。批評においては、言葉遣いが問われるんだと思うんです。
それが分かんない人は、黙っていたほうがいいと思います。
俺も黙ります。
 

[130]……とある蛙[2012 06/05 10:45]
ノースロップフライなど「文学作品は読者と作者の共同作業によって成立する」などと言っております。読者概念自体曖昧ですが(笑)。ところでこのサイトの訳の分からない他人非難の方法として、ろくに詩を読んでいないとか詩をきちんと読んでいないとか言う人たちもいます(もっともその人たちが何を読んでいるかは不明ですが)。作品を読むとはどのようなことか忌憚のない意見を述べてくれる人がいると良いのですが(まぁ結論が出るわけでもないのですが……)。読まれなくとも良いなどと豪語してわざわざ投稿してくる人もいますが、結局作品を読まれることとはどういうことなのか考えてみませんか??
 

[129]……とある蛙[2012 05/22 16:36]
最近読んだ本で考えたこと。
最近俳句関連の本ばかり読んでいます。

それらに度々出てくる芭蕉の「軽み」について

俳句についての考え方は古くからいろいろ俳論という形で議論されているようですが、詩作にも参考になると思い(というか,最近自分自身が詩が書けない、読めないという状態が続き)ちょっと考えたことをざっくりまとめました。

まず芭蕉の考え方について

芭蕉の俳句あるいは芸術に対する基本的考え方は不易流行と呼ばれる。
不易とは句体の基本であり、芸術の根源である。
芭蕉は中国の詩人や茶道などの芸術感を基礎として室町以来のわびさびの境地を五七五に載せて著していた。しかし、そのままではマンネリが免れずそこには自ずから工夫による新風が必要である。これが流行と言うことができる。
奥の細道から帰った元禄3年頃から離俳志向の発句から向俳志向の発句への変化(ひさごあたりから)が見られ軽妙洒脱な俳諧性を再び連歌発句などに取り入れるようになった。

たとえば
ひさご花見の巻歌仙の発句

木のもとに汁も膾も桜かな

和歌的叙情的尚古趣味かつ現像的観念的性格の発句(っわ分けわかんない)から日常卑近的な情景から生み出される新鮮な感興を平俗な言葉で書く発句へと変化している。
この考え方の発展したさきにあるものが、晩年芭蕉の唱えた「軽み」である。日常とは生の営みの連続であるが、決して卑下するような低俗な物でなく、これを昇華して新たな観光視点で表現する境地こそ俳諧の目指すところである。
 つまり、芭蕉の余り良くない弟子の子考の著した東西夜話などに書かれた「言語は仮のものなれば……」つまり、言語の表現自体を目指すのではなく、言語の表現しようとした先(新たな視点による外界の捉え直し)を目指して平俗的な言葉で表現することこそ俳諧の目指すところだとしている。定石の域を出ない高踏な言葉は並べたところでマンネリにならざるを得ない。

猿蓑の有名な発句にもその萌芽が見られる。

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

晩年の五年間に芭蕉は「軽み」を深化させようとした。
つまり「軽み」とは「高く心を悟りて俗に帰」(三冊子)高い境地にありながら重々しくならないことこれを句の極意とした。
しかし、古くからの弟子其角やかけいはそっぽを向いてしまった。
結局、軽みは軽薄につながり易く扱い憎かったのではないかと考えられる???いや其角などは元より軽々と軽みを体得していたのではないか。などと思ってしまう。どこか芭蕉は教養主義的なところが鼻につく。漢詩和歌の膨大な遺産を引き継いでいるところが見え隠れてしまって鼻につく。其角は漢詩や和歌の教養が半端なくあった人ですが、洒落ていて適度の軽さがあって、嫌みでない。その分難解な発句も多いが……。其角の方が俳諧性という観点からは芭蕉より才能があったようです。

「笈日記」の中の「軽み」の深化したといわれる句をいくつか

秋の夜を打ち崩したる咄かな
秋深し隣は何をする人ぞ
秋近き心の寄るや四畳半
この秋は何で年寄る雲に鳥

軽みの深化は生の重みを軽く表現するが、生の重みを実感させるものになってゆく。このあたりは詩作の目指す高みのひとつではないかと考えられる。


参考 尾形仂著「芭蕉・蕪村」岩波現代文庫学術16
   嵐山光三郎著「芭蕉紀行」新潮文庫7399
   同 上   「悪党芭蕉」新潮社
   成川武夫著「芭蕉とユーモア」玉川大学出版部

※不易流行 軽み 作為無き句を詠むことが軽みにつながる。また、流行は作為無き新展開が必要。不易は底流としての基本であり、あえて述べる必要があったのか?誤解を避けるためにあえて述べたものかなぁ。結局四文字熟語になってしまった(笑)。
 

[128]……とある蛙[05/19 23:22]
神保町の古本屋街で読みきれないのにとりあえず本を買って読んでいます。八木書店は評論、詩集は安い長島書店一律500円。沢口書店は品揃えがよい。などなど穴場行っていませんが、ランダムに買うので、愉しいです。
 

[127]深水遊脚[05/19 13:00]
 本に囲まれているのが好きです。図書館はいつまでいても飽きないです。書店でも立ち読みで時間をつぶしたり、新刊本の背表紙やポップをチェックしたりしています。
 家の本棚の本は、常備薬みたいなものかもしれません。この気分のときはこれを読む、この状況を明日から乗り切らなければいけないからこれ、などなど。
 腰を据えて読むことは、かつて苦手でしたが、哲学書で鍛えました。まだ鍛練の途中ですが、たいていの難解な書物にはひるまなくなりました。

いまの愛読書

『陽だまりの彼女』越谷オサム著
いま読んでいる。ところどころ違和感あり。世代のズレかな。逆にそれが楽しい。不穏な伏線が出すざらつく感じも。

『プロレゴメナ』カント著
純粋理性批判のエッセンスにたどり着くための架け橋的な本。ほどよい長さだけれど読み応えはかなりある。

『中勘助詩集』中勘助著
「塩鮭」が気に入っていて、探した末に手にいれたもの。「塩鮭」をどんなふうに読むかが、私にとって自分自身の状態を知る、体温計のようなものかもしれない。
 

[126]伊藤透雪[2012 05/15 13:51]
こんにちは。お久しぶりです。
私はいい読者ではないのですが、やはり「音」「リズム感」があるものは、入り込みやすく
文字で読んでも朗読しても世界に入りやすいと思っています。

この間、谷川俊太郎さんが出演されたコンサートで売られていた本「私の胸は小さすぎる」
恋愛に関する詩集と思えば分かりやすいです。
恋愛詩はありふれていると思われがちなのですが、歳を経ていくとどんどん磨かれていくものを感じます。
言葉が研がれて美しく無駄なく、冗長でない。
私心だけでない客観性というか、そういうこともあるなあ、と思いつつ表現の言葉が
うまい。さすが大先輩と思いました。
心を書こうとするとき、恋愛は人間を描くことになりますので、平凡には書けない難しさが実はあります。
そして読者におもねることなく、世界を描くと、「共感した」という人は少なくないものです。
ジャック・プレヴェールの「Paroles(高畑勲氏訳が秀逸)」に収録されている短い恋愛詩、それもそうです。

自分の事をつらつらと書くのとはまた違っていて、誰にでもあてはめることが可能
であり、または想像すること、思い描くことができる。
もし空想が好きならば、必ずなにかしらの心の変化が起こるでしょうね。
現代詩、という括りに当てはまるのかはわかりませんが。

そうそう、谷川さんと共演の桑原滝弥さんとのトークで、韻というかリズムは大事だね、
というお話に頷いていました。読み手を引きつける力になるようです。
また、私が詩人ではなく編集をしていた人から教わったのは、ら行の言葉が散りばめて
あると、光って美しい、との話でした。
 

[125]中川達矢[2012 05/15 08:21]
戻りました。

朗読については、蛙さんのおっしゃる通り、テクニックが存在してしまいます。
そうすると、一つの不安としては、朗読によってむしろ解釈が狭くなる恐れがあるということ。
ただ、それはあくまでも広義の音が目の前にあり、それを踏まえてどう解釈するか、はテクニックと別のものかもしれません。

昔の和歌・俳句は文語。
古典の授業でもそうですが、古語の理解でよくなされるのが、現代語訳、そして、なんといっても助詞の役割。
ここで疑問が生じるのは、果たして日常会話において、助詞の正当性をどれだけ疑っているのか。
仮に、習慣的な違和感と名付けますが、「〜は〜した」「〜を〜した」では動作の方向性が異なり、こういった場合、その違和感はすぐに気づけるものですが、もはや習慣化された日常言語としては、意味内容から判断するより、記号表現、つまり音によって判断するレベルにあるのではないか。
俳句を読む時に検討されるのは、助詞の良し悪しよりも語と語の並びや衝突が主ではないでしょうか。
#この読みを強要するとイデオロギーになる。そもそも文学において「こう読むべきだ」から発展した「解釈は多様である」という考えすらもイデオロギーに感じる。


岡井さんは短歌作者であるだけあって、詩の読解には必ず音数を用いて分析しますね。
その徹底ぶりは、むしろ引いてしまう部分があるのですが…。
それはさておき、何となく皆様の意見が出尽くした感がありますね。


書くことから少しだけ離れて「読書」について何かあればどうぞ。
果たして「影響」なんてものが存在するのか。
好きで読む作家はいますが、それを書こうとするかどうかもまた別な話な気がします。
気楽に読書遍歴なども語ってみてはいかがでしょう。
 

[124]小池房枝[2012 05/14 23:49]
sage
#こんにちは、小池と申します。スレッド、折々に拝見させていただいています。
#No.120のかのっぴさん発言、「黙読の歴史自体が浅いみたい」に関して、それはもう人類が文字を発明する以前に言語があり、言語があった以上、部族ごとの創世神話や物語や詩は暗唱という形で伝承されていたわけだし、などと言わずもがなのことを考えておりました。
#小さな子でも、人間の脳の何ゆえの都合からか最初は音読、ですよね。大人になっても、ヒトはパソコンが文字情報を読み込むように詩を含めた文学作品等々を読み込んでいるわけではなく、声には出さないだけで脳内のどこかで音声化して味わっているようなふしがある。気に入りの作品がアニメ化されたときに声優さんに対して感じる違和感などはその証拠の一つでしょう。
#というのはさておき、プラトンは知らないのですがユークリッドにこんな紹介本があったのを思い出してpbではなくRTひとりごとではなく此方に書き込ませていただこうと思ったのでした。
http://www.amazon.co.jp/dp/4000074881
#当たり外れの多い岩波科学ライブラリーですが(どんな出版社のどんなシリーズでも同じでしょうが)ユークリッドと言えば幾何学、幾何学と言えば「原論」、そして「原論」はいわゆる読み物ではなく、モノローグではなく、ダイアローグ/対話、であったであろうこと、が書かれていたと記憶しています。
#意味はわからなくても何かを口に出して読めたとき、目にして読めはしたとき、それは意味の理解とは違うけどそれはそれで一種の読めたという行為ではないだろうか、という点ではそれを拒みあくまでも数学的/幾何学的理屈の伝達の達成を目的とした書物であったがゆえの「原論」だったのだろうと。(それそれそれそれごめんなさい。ホントにもう日本語に限らずコソアド言葉の現場指示と文脈指示と彼我のカテゴリーの微妙な使い分けときたら・・・。)
#朗読や音読や詩の話から離れてしまっていて申し訳ありません。翻訳に超訳、があるみたいに朗読や音読における超・朗読や超・音読も楽しいことでしょう。桃尻語訳枕草子、あるいは未だに読み解き方に定説のない難読額田王@万葉集、エトセトラ、エトセトラ。逆に注意深く注意深く意味を排除して気持ちの良い音の連なりだけを人の声でヒトの言語音で抽出してゆく、そんな試みも出来そうです。地球人類征服乃至は友好を目指す宇宙人とかが研究してそうです。
 

[123]深水遊脚[2012 05/14 22:01]
>>122 ・・・・・・とある蛙さん
>現に書かれた詩を朗読する場合のテクニックの問題と肉声による感動を前提とした詩作の試作との関係とは別の問題をはらんでいる気がします。

これについては朗読にさして真剣に取り組んでいない私の手には余ります。テクストが朗読を目的に作られる場合と、朗読のために最初からあるテクストを利用する場合、それぞれに取り組む問題がでてくるということですね。岡井隆さんの言葉のなかで詩の本性は肉声、というのが出てきたので、120-121で歴史的に掘り下げるための布石を打ってみました。詩の本性は肉声、ということを吟味なく無批判に受け入れることは、私にはできそうにないので。

>さらに言えば読み方の分からない和歌だとか俳句について今風の解釈で音を付けても良いと思いますが、どのように考えますか??必ずしも昔を再現しなくとも良いのではと思いますが。

また大河ドラマの「遊びをせんとや」を持ち出しますが、あれにつけた今風の音は、漂う感じを出す目的があったそうです。私はありだと思いますよ(ほかのことで大河には言いたいことはいっぱいありますがここでは関係ないので控えます)。古典文学はけっこう守られているので、昔を再現するとまでは行かなくても、伝統としてどこかで受け継がれているでしょう。今風の解釈でいろいろやってみるのは、いいと思います。ただその場合、オリジナリティの要素と、古典のリアリティの要素に私は注目します。どちらも欠けている場合に、何でこれがしたいの?という疑問はわくでしょう。


話を広げるだけ広げてしまった・・・・・・
とりあえず中川さんを待とうかな。
 

[122]……とある蛙[2012 05/14 12:40]
現に書かれた詩を朗読する場合のテクニックの問題と肉声による感動を前提とした詩作の試作との関係とは別の問題をはらんでいる気がします。
さらに言えば読み方の分からない和歌だとか俳句について今風の解釈で音を付けても良いと思いますが、どのように考えますか??必ずしも昔を再現しなくとも良いのではと思いますが。
 

[121]深水遊脚[05/14 11:52]
声に出さなければ始まらない時代
話し言葉は記憶に残してなんぼだったかもしれないです。
 

[120]深水遊脚[05/14 09:48]
 黙読の歴史それ自体が浅いみたいですね。ネットでさっと見た感じでは、信頼できる情報はなさそうですが。

 Wikipediaの「読書」という項目をみましたが、検証可能性に疑義か出ていました。考えてみれば何百年も前に人が書物を声に出して読んでいたか黙って読んでいたかなんてわかりっこないです。まあでも声に出さなければ始まらないという時代は確かにあって、弁論術なんていうものも発達したこともあって、そこではリズムも追求されていたのでしょう。

 知的な営みのなかでさえ感動が追求されたのでは。弁論術でのレトリックはオーディエンスを感動させるために発達したものでもあったのではないか、と考えます。韻を踏むということも当然行われていたでしょう。古代ギリシャのことを念頭において今これを書いているので、実際にどうだったかは知るよしもありません。プラトンが実在の対話を忠実に再現したわけではないし、そのプラトンの著作も現代日本語訳でしか知らないし。でも万葉集におさめられた長歌なんかが読まれたのと同じような営みが哲学の生まれる現場で起きていたかもしれないです。

 妄想終わり。歴史はある程度検証可能ですが、人がどのように言葉を発し、どのように感じでいたかまでは本当には分からない。手がかりはあったとしても。
 

[119]……とある蛙[2012 05/13 20:56]
岡井隆さんは詩と韻律との関係を次のように考えているようです。

 現代詩は文字言語として目の前に現れる。したがって一般的にはそれを目で追って読む。詩がその発生史的には肉声として提供されていたことがあり、文字言語として読むこと自体は詩の本性とは異なる。したっがって、詩を読むことでも肉声に近いものが聴きとれねば詩としてのある要素が欠落している。

 現代詩を文字言語として読んで、意味を遂っても(慣用語法からの超越も含めて)知的悦びのみで感覚的な美は見いだせない。意味と言ったところで言葉である以上韻律と共に展開する。音韻に担われた感覚的な美も詩に求められるべきである。

※参考 岡井隆著「韻律とモチーフ」大和書房刊1977年4月発行

 前述の考えを前提として、谷川雁の証人や吉岡実の僧侶あるいは萩原朔太郎の詩などを意味論も含めて音数律の分析も合わせてしています。


韻文の音数律に関しては菅谷規矩雄「詩的リズム」が詳しいですが/日本語のリズムを音数ではなく拍数で捉えて四拍四小節と捉えています。基本そのように考えると分かり易いですが(笑)。ただそれだけでは何の結論も出ません。

 七五調と言ったところで奇数の音数は二と三あるいは四と五など異なる音数の組み合わせとなり、言葉数の増減による動的イメージが発生するようです。それに対して偶数の音数は同じ音数の組み合わせが可能で静的なイメージが発生するようです。
 そうであれば奇数音数の組み合わせのリフレーンで展開部 の連で偶数音数のフレーズをいれれば変化を持たせることは可能です。その後、奇数音数の組み合わせを続け最終連の最後の一行を同一音数のリフレーンで落ち着いた終わり方ができます。

 岡井さんは奇数音偶数音の音数の組み合わせの効果には言及していませんが、展開部の連で音数律が変わることは吉岡実の「僧侶」でのは音数分析で述べています。

実際どんな音数の組み合わせでも自由口語詩ですのでセオリーってことはないのですが、独断ですが詩による感覚的な美は音楽的なものを考えざるを得ないと思っています。

 ※よく言葉を並べて絵を描こうとしている詩人もいますがしゃれにもならず感動も覚えず美しくもなくその創作意図が理解できません。ちょっと言い過ぎかも知れませんが(笑)。
 

[118]……とある蛙[05/12 00:26]
たしか、岡井隆さんが歌人らしく音数律と言葉の意味を絡めて谷川雁と吉岡実の代表的な詩を分析した文章がありましたね。今日眠いので明日詳しく書きます。
 

[117]中川達矢[2012 05/11 23:51]
詩の解釈や雰囲気を壊す、のではなく、それがあくまでも現存しているのであって、それを含めて解釈するのではないでしょうか。
と、先ず目に入ったことから返信をして…、
#疲労とお酒でまともではない、いいわけ

詩と散文の違いを語るのもめんどそうなので…、
#詩はこういうものだ、と、こういうものだから詩だ、という二つの語り方があるとして、ひとまず、黙読、音読の側面から詩を見てみようと。頭から詩はこういうものだ、と決めていては、それ以上も、それ以下もない。

何となく皆さんの詩作の方向が見えたような気がするのです。
頭でっかちに語るならば、詩にはリズムが必然的に伴っている。
それは和歌・俳句→文語定型詩→口語自由詩の流れを踏まえた上で。
ただ、果たして話し言葉で書けるようになった時代、自由に書けるなった時代において、かつての形式的(57調)のリズムが失われ、そのことで詩のリズムが失われたのか。
いや、都合のいいことを言えば、口語・文語問わず、言葉そのもののリズムを引き出すこと、それが詩に繋がるのではないか。
シニフィアンを引き出せるか。
どちらが第一でも何でも人の勝手だが、意味・思想性などは後からついてきてもいいのではないか。
そう言った意味では、韻文が持つリズムが読者に思想性を植え付けるのに利用されるのもわかるのです。
意味はわからなくとも、とある詩を口にして読めた時、それは意味の理解の上では読めないが、それはそれで一種の読めたという行為ではないだろうか。

話の方向性がよくわかりませんが、明日の朝冷静になって、もう一回あらわれます。
その間にも何か気になること、関係ないこと、補足、反論などお願いします。
おねげーします。
 

[115]深水遊脚[2012 05/11 18:26]
 散文で済むものは散文で書こう、という考えなのでなかなか自由詩を書くことに前向きになりにくい私ですが、ここ1年くらい少しずつ書けてきました。「かなしみ」「塔」はかなり散文に近いですが。それでも私なりに言葉の間合いのようなものには納得して、詩作品として世に出しているつもりではいます。
 私が気づかっているのは、ひらがなを多く含ませて柔らかさを出したり、あるいは逆に漢字を使うことで引き締まった印象を出したりする効果です。ある意味、リズムかもしれませんが、視覚的に詩を眺めないと成立しないものです。
 他には、あまり意識してこなかったのですが、自分の作品を読み返すと体言止めを多用しているようです。言葉を少なくしようとする引き算みたいな詩作をするので、述語で余計なことをがちゃがちゃ書きたくなくて、そうなっているのかもしれません。
 送電鉄塔を詩にするくらいですから、あまり美は追求していません。音においてもそうです。逆に不快なノイズと同じ効果を出す詩行を追求するというスタンスもありかな、と思います。このサイトがイージーな美で溢れているような状況ならそういう挑戦もありですね。みたところ、実はかなり多くの方がノイズ的な方向を模索しているようですが。

# そんなわけで「声に出すか」と問われれば「気が向いたらね」と答えます。でも結果として声に出して読んでもいいな、という作品になっていますが。私がこれまでここに投稿した自由詩は声に出してもいけてる♪と自分では思っています。リーディングでやってもいいですよん♪



20120513 追記
いうほど体言止めをつかっていなかったので訂正。短歌や俳句みたいな感覚で言葉を探ることが多いので、世に出していないネタ帳にそれが多いんです。ノイズを感じる詩を今日ポイントしたなかからひとつ紹介。魚屋スイソさんの「まがいものの温度」
 

[114]……とある蛙[05/10 23:59]
黙読だけの韻文ねぇ???散文じゃないの?という素朴な疑問。自白だな(笑)。散文も朗読するけど意味が違うよな。散文の朗読はまさにみんなに聞かせるためだよね。詩が韻文である以上基本朗読します。
 

[112]中川達矢[2012 05/10 20:29]
なんか疲れてしまって、書こうと言ったからには何かしら書かないといけないのですが…。

まあ、皆さんって詩を書く時に、声に出してますか?
僕は書き終わったら声に出しています。
なぜって、声に出して、リズムのチェックをするんです。
自分が気持よく読めたからといって、他の方が気持よく読めるとは限らないですが、最低限、自分ですら気持ちよく読めないものは出したくないかな、って自分の表明ですね。

書き言葉と話し言葉の一致、(言文一致)は明治時代、二葉亭四迷の『浮雲』によってなされたとされ、詩の歴史で言えば、もう少し遅く、川路柳江が元祖とされながらも、文語定型詩(新体詩)から口語自由詩の変遷は、萩原朔太郎が祖とされていますね。
ふむ、そうすると、日本のちゃんとした詩の歴史なんて100年なんでしょうかね。
いや、でも、新体詩なんて見ても、五七調や訳詞ばかりで、ああ、俳句・短歌の流れは詩には欠かせないわけです。
が、それは、あくまでも過去から現在に向かっての見方であり、現在から遡る形であるなら、現代詩の歴史は1960年からなんじゃないかって。
戦後詩は、韻文が持つ共同体性を否定し、自由な書き方がなされました。
が、あまりにも思想的価値に重きを置きすぎており、それに嫌気がさしたのが、60年代で「日常」を書いたっていいじゃないか〜、というムーブメントがありました。
そんなことでようやく詩が自由詩になりえたのではないか。

なんて、歴史的なことは置いといて、まあ、詩には韻文性が伴っていた歴史があり、その韻文性に共同体性を見出していた一派がいた、という記述もあるのです。(ソースはあるのですが、今はめんどうなので、希望があれば引用します)

言葉の持つ思想性など、バルトに言わせれば、作者の死、解釈なんていくらでもできますが、言葉の持つ音韻性=物質性は均等なんじゃないかって。
つまり、本=黙読=個人的、に対して、声=音読=集団的要素があるんじゃないかって。

長くなりました、すいません。
根つめて書いていないですが、とりあえずこんな感じでネタ投下しときます。
 

[111]中川達矢[2012 05/10 11:31]
蛙さんに退屈だから面白いテーマを設定してくれ、とケツを叩かれました。
そこで、先ずは、何故退屈かと思われたのかを蛙さんに説明していただき…、ということはせず、とりあえず近況報告でもしてみます。

4月から大学院に入り、「現代詩の受容体系」について研究しようなどと意気込んだ青年中川は、この1カ月でぼこぼこにされます。
「詩ってなんですか〜?」という質問が絶えず飛び込む。
僕は答えられません。
考えたことがないからです。
というか、そんなこと考えなくても詩は書けます。
だけど、詩を読むにあたっては若干必要な気もするのです。

改めて新体詩から現代詩までの流れを抑え、また、吉本隆明の詩論を読んだりしています。

そろそろ大学に向かわねばならないのですが、僕がこの1カ月で考えてきた、「詩の朗読」について、帰宅したらまとめてみます。
 

[110]深水遊脚[05/10 11:23]
いろは歌は、極上の言葉遊び。
 

[109]深水遊脚[04/23 16:22]
 遊び、戯れ、楽しむこと、といったことが、何か快いことを受動的に経験することであれば、詩作は遊びじゃないとのお叱りは受けるかもしれませんね。
 本当に遊びに熱中すると、その人のこだわりが段々でてきて、譲れないものもたくさん出てきます。多分創作はそれくらいの情熱が自然と沸き起こるものではあるとおもうのです。大河ドラマの「遊びをせんとや…」の解釈は、人生についてこれと同様に考えたものでしたね。我が身を振り返ってそれくらい夢中になれるなにかがあるのかと聞かれれば答えに詰まってしまいます。願望として、それくらい楽しんで何かを生み出したい。それくらいの楽しみを作品にしたい、という気持ちはあります。
 

[108]中川達矢[2012 04/22 10:40]
お久しぶりです。
また何か語りましょうか。
詩が遊びかどうかは、僕は干渉してはいけないような気がして触れられないのです。
ただ、楽しんでいるかどうかは重要な気がして、僕は一体詩を楽しんでいるのかどうか。
芸術、という観点におけば、楽しみといった概念から遠いような気もしますが、詩は芸術なのかどうか、そして、やはり偉大な画家やら作家やらは根底に楽しみがあって、それをきっかけに芸術をつくったのではないか、なんて。

とりあえずネタふりとしてそんなことを言っておきます。
 

[107]深水遊脚[04/21 18:02]花形新次
 詩作も遊びや戯れのひとつ。まあ他の遊び方があるっちゃああるけれど、ここでアカウントをとろうとした時点で、皆かなり積極的にこの遊びを選んでいる。このサイトでのあらゆる言葉のやりとり、作品の投稿やコメントや会議室でのボヤキを、遊びだと捉えれば、心穏やかに読んだり書いたりできるというもの。でも遊びだからと舐めてかかれば痛い目にも会う。遊びはどこか別の場所にある何かではない。きっと。
 

[106]N.K.[2012 01/31 22:35]
寒中お見舞い申し上げます。

いつもロムって勉強させていただいております。
ちょっと前には、RTで中川さんに石原吉郎について
教えていただきました。ありがとうございました。
おかげさまで、柴崎聡著の本を買い込んで読んでいます。

 話の流れを絶ち切ってしまうのは、意図とするところ
ではありませんので、遊びをせんとや生まれけんの話に
コメントいたします。
 小西甚一(なんか辞書の編者で名前を見た覚えが・・・。)
先生の解釈、勉強になりました。
 他方で、自分の身近なところで梁塵秘抄が引用されたのを
視たことがあり、それは確か、子の親を対象として子どもた
ちに「よく遊び、よく学べ」を勧める文脈でだったように思
います。
 翻って、悔恨を歌っていたとする解釈は、ある意味自分には
衝撃でした。無邪気な子どもを眼前にしたからこそ、我が身を
痛切に振り返ることになったと読めます。
 また、無心に「遊んでいる子ども」や「遊び」そのものに引
き寄せられているようにも読めます。おそらく「良く遊び、良
く学べ」の文脈での引用はこちらだったのかなと思います。
 遊びは人間の本質的な部分かどうか、についてはロジェ=カ
イヨワ(だったか)が人類学の観点から述べていたかもしれま
せん。自分が馴染んでいる考え方としては、特に子どもの遊び
は大人になった時の社会的に意味のある行動を取るために大変
大切だという言説があります。
 そう言えば、自分の子どもについて、妻と「子どもは遊びが
しごとだから・・・。」いう会話をする機会が少なからずあり
ました。(そっとしておいて気が済むまで(大人には無意味に
みえるけど)熱中していることをやらせてやろうよ、といった
文脈です。)
 思いつくままの発言ですので、もし、お気に召さないところ
がありましたら、みなさま、御寛恕下さい。
 

[105]……とある蛙[2012 01/04 12:44]
明けましておめでとうございます。

ちょっと書きたくなったことを書いてみます。
梁塵秘抄にある有名な今様についてです。

梁塵秘抄 359番め

1 遊びをせんとや生まれけむ
2 戯れせんとや生まれけむ
3 遊ぶ子供の声聞けば
4 我身さへこそゆるがるれ

一番有名な歌です。

梁塵秘抄考 小西甚一
「平成罪深い生活を送っている遊女がみづからの沈倫に対して身をゆるがす悔恨をうたったものであらう」とする。仏教の邪淫戒→僧侶の遊女罪業視からくるもの。法然の遊女救済の道などの前提的な考え方。

 素直に読むと罪悪感とは別物。つまり「我身… ゆるがるれ」はあそびに戻ろうとしている。

老境に入ろうとする者の子供の声による微妙な心理の揺れという解釈もある。1、2と4を論理的につなぐ3という極めて論理的な解釈→そうも読みたいが自分中心の読み方です。

「詩は絶えず時間を消す。詩は始まりが終わりで終わりが始まりでなければならない」

4は遊びにそそのかれ遊び出すという人の性みたいなものを謡っていると解釈できる。そのように解すれば4から1、2に繋がり無限連鎖

遊びは人間の性、本質的な部分か?? なんて事を考えてしまいました。今年の大河ドラマ「平清盛」の番宣を見ていてこの今様が使われていたので(笑)
 

[104]深水遊脚[2011 12/15 10:56]
 『智恵子抄』に関する肯定的な評価をあまり聞かない。たまにみる雑誌でのたまたま目にした評価でありちゃんと調べたわけではないけれど、高村光太郎の名前を目にしたとき、悪くかかれたものしかなかった気がする。その一つは、うろ覚えだけれど「あなたはだんだんきれいになる」が書かれたときの智恵子の年齢を詮索して、その年齢の女性に美辞麗句を並べ立てても嘘くさいとする、何とも失礼な内容だった。対談のなかでうっかり喋られた内容であり、何かの例に出したのがたまたまこの詩であり、他の詩でもよかったのだろう。おそらく詩行の一つ一つの記憶も曖昧だろう。この詩にまっすぐ向き合って出た言葉ではないのだろう。そう思って軽視しようとしても、軽い違和感のように腹立たしさは拭いきれないまま今に至る。
 軽い違和感のポイントは、女性の年齢ごとに男性が描く勝手なイメージを普遍性の判断基準にしているところだろうと思う。確かに日本人は、人の属性のなかでも年齢を必要以上に重視する傾向にあるようだ。やたら年齢を詮索するし、はじめに年齢ありきで人の個性を判断するという感覚が染み付いて剥がそうとしても剥がれず、いろいろな場面で人が不愉快な思いをしてしまい、また人に不愉快な思いをさせてしまう。時には人から仕事を奪う。
 もうひとつは、ほめる言葉を軽くみる傾向だろう。「あなたはだんだんきれいになる」を『智恵子抄』全体のなかに置いてみれば、たいして深く読んでいない私でさえ「あなた」に見出した価値がいかに重いものかがわかる気がする。質素な生活を送り、先も見えないなかで自分が選んだ道を生き抜こうとした光太郎と志をともにして生きようとし、時に光太郎を叱ったり励ましたりする智恵子の価値が。
 「年齢による偏見」「ほめ言葉に対する蔑視」どちらも、ベタベタの社会通念であり、それがもたらす害悪からは、日々の生活では避けたいと願っている。詩を語る言葉でこのようなベタベタの社会通念を右から左に流しているものをみると、心底がっかりしてしまうのだ。

#私ばかり語っている気がするので、このへんでお休みをいただきますね。
#文書、一部訂正しました(訂正前:「質素な生活を送り、先も見えないなかで自分が選んだ道を生き抜こうとした光太郎が、志をともにして生きようとし、時に叱ったり励ましたりする智恵子の価値が。」これだと意味が通らないので)
 

[103]深水遊脚[2011 12/09 22:13]
 うーん、前スレか〜。ほかに絶対代わりのいないあのメンツだからあの雰囲気だったというのもあるから、前スレをあまり求めないほうが良いかもしれないよ。ここの色はまだ作られている最中で、これからどんどん人が来ると思うから、気長に育てたら?語りたいことがあって順番待ちの人がすでに2人(蛙さん=発話者の視点(言語学も?)、伊藤さん=寓意)いるから大事にしてあげてね。

 図書館で『深海魚摩訶ふしぎ図鑑』(北村雄一著 保育社)という本に手が伸びて面白かったから借りてしまったけれど、これを見たら男らしさ、女らしさ、美しさなどについての認識がぶっ飛びます。見た目グロテスクだけど、だからといって彼らは悪ではない(善でもない。そういうものさしで測ることはできない)。栄養が少なくて過酷な深海の環境に、長い時間かけて適応してきた生態をみると発見も多いです。特に生殖。生殖の目的は遺伝子の交換で、一方は遺伝子のみを運ぶ細胞(精子)をたくさん作り、もう一方は遺伝子とたっぷりの養分を含む細胞(卵)を作る。養分の少ない環境だと、前者もそれなりに大変かもしれないけれど、後者のほうが圧倒的に大変。だから小さいときはオスになって精子をたくさん作り、十分に体が成長したらメスになって卵を作る魚(ヨコエソ)もいるし、メスは最大50センチに成長するけれどオスは3センチにしかならない魚(ミツマタヤリウオ)もいます。なかには小さなオスが大きなメスにかじりついて、そのままメスの体の一部になってしまう魚もいます(ビワアンコウ)。オスが大きく力強く成長するには時間も養分も必要ですが、ただでさえ養分の限られる深海底でそんな無駄なことはできない。だからメスのほうが大きくなるし、オスは広く遺伝子をばらまく必要最低限の機能体となる。これをどう評価するかなんですが、私はこの場合もオスはオスなりに必死なんだと思いますね。ちゃんと役割を果たしている。

 抜き差しならない生殖の側面を強調しすぎたかもしれないけれど、ルックスもライフスタイルも愛のかたちも、人間の比でない多様性をもつ深海魚は、アイデアの宝庫かもしれないです。
 

[102]中川達矢[2011 12/08 15:12]
かのっぴさん、ありがとうございます!
更新いたしました。

前のスレッドの時みたいに、
一人の人が語りたいことを語る方式でもいいのかもしれないなー。
話題提供だけじゃなく、その後も一定期間の間、その方を中心に何かを語っていただけないでしょうかー。
 

[101]深水遊脚[2011 12/08 10:38]
 新たなテーマ別レスマップを作成しました。投稿したレスマップをそのままレスマップの過去ログとして活用するので、私信はやめてここに投稿することにします。中川さん、トップの更新をお願いします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

テーマ別レスマップ 63番から100番まで

下記アドレスの右側に番号を付ければレスを開くことが出来ます。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=

<トピック1(詩に直結すること)>
普遍性(75 90)
詩情・抒情性(70 84)
記号・意味(の解体)(71 95)
イメージ・メタファ・象徴(67 71 75 81 83 95)
レトリック(65 71 73 81)
読者との関係性(65 71 73 81)
詩作・推敲(64 67 70 72 83 96 99)

<トピック2(フリートピック 巡りめぐって詩に?)>
恋愛(79 80 84 86-90 94 96 97 98 99 100)
ジェンダー(97 99 100)
同性愛(97 98)

<人名>
尾崎亜美(80)、小田和正(90)、西野カナ(94 96)、木下牧子(91)
入沢康夫(82)、宮沢賢治(82)、新川和江(86 88 89 91)、石垣りん(88 89)
白石かずこ(88 89)、茨木のり子(88 89)

<キーワード>
美意識(64 67)、作者と作品の関係性(65)、現代詩の閉鎖性(65)、多義性(67 71 72)
限定・無限定(67 71 73)、わかりやすさ(75)、慣用句(75)、発話者の視点(82)
二人称(84 90)、物語性(87)、ラ・メール(88)、寓意(92)
デノテーション(95)、コノテーション(95)、マナ識(95)、アラヤ識(95)
『真夜中の野次さん喜多さん』(しりあがり寿)(98)
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)(100)
ジェンダークィア(99)

<書籍>
『レトリック感覚』佐藤信夫著 講談社学術文庫(81)
『詩のこころを読む』茨木のり子著 岩波ジュニア新書(89)
『言葉・狂気・エロス』丸山圭三郎著 講談社学術文庫(95)

<過去のレスマップ>
1番から61番まで(62)
63番から100番まで(101)
 

[100]中川達矢[2011 12/07 19:19]
意外と反応があり、
そして、
ただのあほうさん、ようこそ。

ジェンダー論を出してしまうと、いわゆる「恋愛」とは離れてしまうおそれがあったのですが、それでも何かしらの発話が生まれてよかった。

やじさん、きたさんの物語を全く知らない…。
東海道中膝栗毛ですよね、十返舎一九でしたっけ。
動物における同性愛。
動物ってなんだか、本能的だと人間が規定してしまっているようでいて、いや、人間も十分本能的だろうと思うのです。
今日も授業の中でジェンダー論なんかをならったのですが、100%の男、100%の女なんているんだろうか、なんてことがトピックの一つでした。
性行為だけが全てなわけではないですよね。

伊藤さんの
差別感がなく、というのはジェンダー論における一つのキーワードだと感じます。
批判する、ということではないのですが、
差別感を主張するのとは別に、差別感を表層化させることも一つ大事なのかなとも思いました。
差別感の助長のためではなく、知らず知らずのうちに埋め込まれた差別感であったり、無意識の下の差別感への気づきをどこかでしないといけないのかな、とも。
今問題になってきているのは、生理的性と社会的性が切り離されるようになってから、難しくなってきたのだと思います。
逆にいえば、こういった問題がなければ、恋愛というものはもっともっと簡単に語れてしまうのかもしれません。

なぜ、男と女がうまれたのか。
それは、もともと一つの体を持ったものが
男と女にわかれ、それぞれが元の一つの体に戻るため
お互いを求めあっている。
なんていう物語がありますが、
これは簡単な物語として受容されやすいですが、
本質的なものは隠されていますね。


「恋愛」に関して
ちがう観点からもどんどん話題をなげこんでくださーい。
洋服とか食べ物とかなんでもかんでも。
ぼくはあまいものだいすきでーす!
(あまいもの=女性的という考えもまた偏見なんじゃないか、なんていう反論をおそれず…)


#かのっぴさんが述べた
#>それぞれに書くパッションを与えたのは何だろうか
#ということ、これをお互いに探れたらいいと思う。
 

[99]伊藤透雪[2011 12/06 12:33]
私は中性、ジェンダークィアを表明しているので、明確に男女を規定した作品もあっていいと思うし、
どちらにも取れる作品でもいいと思います。
要は差別感がなく、そこに人としての豊かな情感が流れていればいいと思うんです。
ノンケの女性を好きになって悩む女性とか、その逆もあっていいと思うし、それはそれで人として情感溢れ、読み応えがあるでしょう。
世の中がどうであれ、存在することを書くことに誠実であればいいと思うだけです。
ジェンダーについては以前よりも複雑になってきていることを、理解する必要はあるかと思います。
 

[98]只野亜峰[2011 12/06 05:50]
なんか面白そうな話してるのでホモについて調べてたら真夜中の弥次さん喜多さん見たくなってきた。真夜中だけに。
人間だけじゃなくて他の動物にも同性愛があるという前提を踏まえると色々面白い思索になりそうですな。
動物の場合は異性との繁殖が前提にあるケースとか異性がいない環境に適応したケースとかもあるみたいですが、
なんかそれだけだとロマンが無いですし学術的に動物の同性愛を目的とした同性愛論が確立されたら良いなとか。
そうなったら人間社会の同性愛ももっと深く認知されるようになって日の目が当たるんじゃないかなとか。
その過程でセックスやジェンダーを取り巻く論調に新しい波が訪れて世の価値観が一変したら面白いなとか思ったり。
 

[97]中川達矢[2011 12/05 23:53]
反応ありがとうございます。

恋愛、とは違いますが、ジェンダー論、フェミニズムの問題なんかも男女関係の問題として、文学とは切り離せない関係になりました。
ここで、こういった性別問題の関する一つのトピックを置いておきます。


ゲイが否定される。
その行為の特徴の一つに、いくら性交しても子どもを産めない環境であることを指摘できる。
しかし、男女の性交だって、生殖を目的とした性交がどれだけあることか。
つまり、コンドームをつけたカップルの性交なんて、ゲイの性交と同じである。
異性を愛する自分が正常であり、同性を愛する人が異常であると考える人は、この点において言えば同類である。

(女性の肉体的な環境については、この場合、考えておりませんが…。それに端的に申し上げており、この意見が全てではないと思います。ジェンダー、セックス、セクシュアリティの一つの問題として例を挙げました。気分を悪くされる方がいたら申し訳ありません)
 

[96]深水遊脚[2011 12/05 21:08]
>>94 中川さん
(コピペにマジレス@笑)
 案外、恋愛のすべてが個人的なわけでなく、「会いたい」気持ちが人と人との関係によって満たされたり満たされなかったり、満たされたとしても会うごとに何かが違うと感じるようになったり、そうした気持ちの浮き沈みの裏にあるのは社会です。西野カナのリスナーの裏にも社会はあります。不自由がないようで思うように行かない、時々すごくつらい目にあう、そんな社会が「会いたい」を盛り上げる。
 曲の一つ一つは知りませんが、「会いたい」という言葉に自分を重ねたかったり、「会いたい」と言われたかったり、そんな人が「会いたい」と歌う曲を聴くのでしょう。一人ひとりのリスナーの奥に「会いたい」を盛り上げる何かが存在する。
 そんな状況で何を詩にするか。瞬間の「会いたい」気持ちの強さを閉じ込めるか、「会いたい」を期待させる心地よさを歌うか、「会いたい」を妨げるものに怒りをこめたり悲しみを書いたりするか。突き放して醒めた抽象的な書き方をするか。いろいろでしょう。
 題材に対する向き合い方を探るなら、西野カナも天沢退二郎も丸山圭三郎も同じ要素は持っている。その現れ方が違うだけで、根底にあるのは人間のあり方に対する視線です。違いを強調することは誰にでも出来る。縄張りを主張することも。でも、それぞれに書くパッションを与えたのは何だろうか。私が「恋愛」をぶちあげたのはそれを探るのもいいんじゃないかと思ったからです。
 もちろん、隠喩も技法も言語学も、題材や主題とは縦糸と横糸のような関係です。いつ展開されてもいいとは思います。きりのない話なので気長にやるのがいいと思いますよ。
 

[95]……とある蛙[2011 12/05 16:15]
隠喩に関して、読んだ本の一部のメモ書き

「言葉・狂気・エロス」丸山圭三郎著 講談社学術文庫
ー第四章 深層の言葉と言語芸術ー MEMO

? 言語芸術の目的→日常の表層世界
         一義化され合理化された制度
         画一化された価値観
              等の否定及び再構築
 ※深層意識の言葉の流動性こそ言語芸術の源

? 言語における多義性の回復
  目的 デノテーション(外示ー最大公約数的意味)
          ↓
     コノテーション(含意ー一回的??アウラ)
  方法 ?隠喩(メタファー)類似性→語の多義性
      無意識下では複数の意味の重なり→圧縮
      深層意識の言葉→言葉の連鎖?意味の類似性
                   ?音の類似性
     ?換喩(メトニミー)隣接性→文の多義性
      堤踰(シネドック)隣接性→文の多義性
      無意識下では意味の断絶をもたらすもので→置換

? 無意味な言葉の連鎖
  語とその意味
  文とその意味作用
    それぞれの絆の破壊は狂気を生み出す。
  
  ※東洋哲学におけるマナ識(自我意識)を生み出すアラヤ識
   という表層の五感以外の深層意識
     
           
 

[94]中川達矢[2011 12/03 14:38]
若者らしい話題として、2chのコピペの中にこんなのがあります。
西野カナという歌手が歌詞の中でどれだけ会いたがってんねん!というものです。

西野カナ
『君に会いたくなるから』   ♪会いたかった〜君に会いたくなるから〜いつか会おう
『遠くても』           ♪会いたくて会えなくて〜会いたいの私だけなの?会えなくて切なくなる〜会いたい会いたくて仕方ないよ
『会いたくて 会いたくて』  ♪会いたくて 会いたくて 震える〜会いたいって願っても会えない
『love & smile』        ♪君の笑顔に会いたいから〜会えない日も見守って
『もっと…』          ♪今すぐ会いたい〜今日も会えないの?いつ会えるの?会いに来て
『celtic』            ♪週末会いに行くね〜会えない時会いたいよ〜今すぐ会いにきて
『September 1st』      ♪またバイトなの?いつ会えるの?
『ONE WAY LOVE』     ♪やっと会える
『Yami Yami Day』      ♪『ゴメン今日やっぱ会えない』
『Dear…』           ♪すぐに会いたくて〜会えない時間にも愛しすぎて
『LOVE IS BLIND』     ♪考えてたらもう会いたいよ やっと会えたのはいいけど
『Saturday☆Night』     ♪会った気がしない…出会いから数秒で〜君と会ったdayz
『GIRLS JUST WANT TO HAVE FUN』 ♪出会いにMake me fun
『Sherie』           ♪君に出会いそして輝き出して
『You are the one』      ♪君に出会いたい〜会えますように
『Kirari』            ♪また会えますように
『Dear My Friends』     ♪みんなと笑って会えますように
『Just a friend』       ♪会いたいとき会えるのに
『君の声を』         ♪会いたくても会えない
『missing you』        ♪会いたい 胸が痛いよ
『失恋モード』        ♪夢ではいつでもキミに会える〜「会いたい」のメッセージ〜会えなくなった
『MAKE』           ♪早く会いたくて
『Yours Only』        ♪いつかめぐり会うその日まで…
『会えなくても』       ♪会いたくても会えない〜すぐ会えない君…今は会えなくても〜会いたくて仕方ないよ
 

[93]中川達矢[2011 12/03 14:37]
この名前、呼びかけにくいと本当によく言われます。
ふつうに中川の方でかまいません。

小田和正さんの歌は好きです。
あまり歌詞に注目したことがないですが…。

そういえば、合唱曲で歌う詞に恋愛ものってあるのでしょうか。
複数の人が個人のことを歌うっていう奇妙な現象がおきそうで、なかなかないんじゃないでしょうか。
気のせいですかね。

伊藤さんへ
せっかくですので、話題が少ないと言えども、もう少しこの話題を続けていきましょう。
今変えてしまうところころ変わっているように感じてしまいます。
申し訳ないです。
 

[92]伊藤透雪[12/02 22:19]
話の腰を折るようで申し訳ないけど、「寓意」についてのトピックは必要ないですか?
 

[91]……とある蛙[2011 12/02 14:43]
>>86

木下牧子さんが曲をつけた合唱曲ですが、私の入っている団は混声と男声なので、歌ったことはありません。ママさんコーラスで良くうたわれる曲なので先入観としては母親と子供というイーメージがあります。ちょっと男女間だと気持ちの持ち方が少し……字面は男女のすれ違いという感じはしますが、自分には不自然に感じてしまいます。私がおかしいのかも知れませんが。
 

[90]深水遊脚[2011 12/01 12:12]
 ファンの方がいれば申し訳ないのですが、私は小田和正さんの歌詞に作者のエゴのにおいを感じてしまいます。直接それを感じるのは「秋の気配」「夏の日」「ラブストーリーは突然に」ですが、何となく全体的にという感じです。理想像をラッピングしてどこかに大切にしまっておくような感覚。「君」「あなた」と呼びかけられている実際の人は、実はそこに参加できないような世界を作っているような気がします。
 でも、大ヒットしているし、しかも歌詞を大事にして聴いている方も多いでしょうから、普遍性がないとはいえません。好き嫌いはともかく、歌詞としての完成度は私も否定できません。
 

[89]深水遊脚[2011 12/01 11:54]
>>88 中川さん
 その呼びかけにくい(笑)ハンドルネームは茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」から来ていたのですね!私の大好きな詩人の一人です。「汲む-YYに-」について2回も熱く語っていますし、『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は何回読んだかわからないくらいです。その茨木さんや新川和江さん、石垣りんさんは、平易な言葉の中に奥深さを感じさせる作風が私も好きです。白石かずこさんの作り出す調子外れの混沌もまた好きです。ジャズを聴いているような読み心地で。

 新川さんの言葉に品のよさを感じます。明示せずに男性像、女性像を描き出せたのは、示された言葉の奥にきめ細やかなものの見方、考え方があるからなのでしょう。いっぽんの木に求める様々なかたちのひとつひとつもお見通しで、そっと見守っているような感じもしないではないです。妄想といってしまえばそれまでですが、それくらい他者に対するまなざしの深みを感じます。

 この作者が二人称で呼びかけても暴力やエゴは感じない。でも、
 

[88]中川達矢[2011 11/29 13:43]
題材をありがとうございます。
>「わたし」が女性で、「あのひと」が男性と解釈するのが一応は自然かもしれません。

というのはすんなり納得できたのです。
その要因を探るとしたら、それはやはり「いっぽんの木」とか掴まされる存在であるからだと思うんですね。
ここに一つの男性像を植え付けてしまうような気もするのですが、なぜそれが男性像なのか、ということを探ればジェンダー論になってめんどくさいことになります。
中には、逆のケースもあり得るよ!なんて言う人もいると思います。
男性が女性にしがみつくこともあると思います。
それでも、この詩のいいところは、自然的に、流れの上でそのような像を描き出してくれたことです。
(作者が新川和江という女性であるという背景を抜きにしても、その像を描くことができる)

全然関係ないですが、「らめーる」という80年代に女性詩人が中心となった詩誌が話題になっていて、そこで新川さんや石垣さんや白石さんやらが活躍していましたね。
僕の「ばかもの」という名前も茨木さんの詩から拝借したものですが、僕はあの女性たちの詩がストレートながらパワフルで好きなのです。
と言っても、僕は生まれてませんでした、はは。



#というわけで、顔を出す頻度があがってますね。
 

[87]伊藤透雪[11/29 00:39]
うーん、恋愛詩に先入観があると読めないのかしら。
私は人間の内面が露わになる題材として、架空の私や俺、僕、彼女などを使います。
1つの物語性を作って、そこに漂う情感を、掘り起こしているんですね。
「大きな猫」はこきおろされましたが、架空と捉えて貰えなかったようでした(汗
隠喩の使い方、少しずつ勉強してみます。
 

[86]深水遊脚[11/28 23:46]
http://kanoppi.seesaa.net/pages/user/iphone/article?article_id=4770740

蔵出しします。材料に使ってください。新川和江さんの『鬼ごっこ』という詩について書いた文章です。すがりついて泣くにしても、刈り倒すにしても、関係性、それも空想のなかで満たしたい願望のかたちです。時代とともにこういう願望のかたちも変わってきているかもしれないですね。男と女がこの2パターンで語れる時代ではないかもしれない。
 

[85]中川達矢[2011 11/28 22:25]
そして、伊藤さんにはあえて隠喩を多用してみてほしいですね。
使いこなすぐらいに隠喩を使ったら何か見えるもの、わかるものがあるかもしれません。
悩むぐらいなら使いまくるか、全く使わないか。

ちょっと端的に述べてしまいました。
僕だっていろいろと悩むことがあるのですが、
今のようなことを自分に言ってやりたいですね。
 

[84]中川達矢[2011 11/28 22:24]
名ばかりスレオペです。

かのっぴさんの働きには感謝するばかりです。
レスのまとめについては、とことん甘えさせていただきます。

蛙さんも新しい議題を提案してくださいましたが、今はひとまず、かのっぴさんの出した「恋愛」について扱いましょうか。

現代詩フォーラムでも恋愛を扱った詩って多いと思うんです。
僕は好意的に読まないだけで、「あなた・きみをおもう」なんていう詩は何気に多いですよね。
「きみ」って詩の中に出た時って意外と作者の暴力だと僕は考えていて…、「そのきみってだれ?」ってことはわからないわけです。
それをこえて何かを思わせてくれる詩ももちろんあるのですが…。
そのような意味で言えば、日記でもいいのでは、なんて思うことも。
ただ、詩、もしくは自分がそのような表現を排除することをしていいのか。

恋愛だと、蛙さんの議題を交えるなら、どうしても情を描いてしまい、また、その情を持つ人間はどうも「ぼく」になりがちになってしまう。
そのような点から個人的な詩がうまれやすいんじゃないかって。

僕は抽象的な考えしかできないですね。
何か、題材であったり、具体的な歌詞やら詩やら、何やら、ネタを提供してください。

#明らかに前の時より堅くなってしまってるな〜
#もっとみんな気軽に書いてほしいな〜

#かたくするのは大事なところだけ
 

[83]伊藤透雪[2011 11/28 15:03]
隠喩のことを持ち出した当人としてちょっとだけ。
隠喩が無いように見える、淡々と書かれている、一見つまらない。
そういうのってありなのかなあと悩んでいたんですね。
視点の流れや焦点の合わせ、自分で無い性からの感覚、等々、
描写にはいろいろ使って来たのですけれども。
包まれた情感を読み込んで欲しいなあと思いつつ、なかなか伝わらなくて、
動画よりか写真の見せ方の方が様々に読めていいのかしら、とも思いました。
気を遣っているのは視線が錯綜しすぎると乱雑になるので、気をつけること、です。
言葉の言い換え程度の比喩表現しかできないと、面白くないかなと思って投げかけたのでした。
 

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