詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[148]
2013 05/13 13:17
……とある蛙

 最近詩って奴が分からない。ギンズバーグは「主観的真実が読者あるいは鑑賞する者を得て客観化して初めて詩という名に値する芸術が成立する」としている。
 そのように考えたとしても客観化啜るには何人鑑賞者が必要か不明である。結局、鑑賞する者は一人でも良いのか、極端な話、読む側としての自分一人ではどうかという話にもなりかねない。結局不明である。
 言葉というやっかいなものを扱う詩という文芸は、素材自体に意味があるため問題なのである。

 素材自体意味を持たない たとえば 粘土、絵の具、音あるいは空気の振動に意味を持たせるのはなんであろうか。創作者の表現対象、モチーフなどとその構成であると考えられる。しかし対象の模倣(写実)自体はやり尽くされており、新しい芸術は結局人間の根源的なものに訴えるものでは無かろうか、たとえば、リフレインを中心とした規則性の性癖。それに基づく再構成による意味の構築もあり得る。 そうであるならば、究極の芸術の一つは規則性を自覚した無規則なリフレインであって、フリージャズ辺りだったのだろうか。良く分からない(笑)。

 言葉という固まりは解体できない。それを前提とすれば、言葉の意味の範疇あるいはその組み合わせで鑑賞者との関係性を構築して行くしか無い。それすら解体していれば無意味な記号を並べての曼陀羅模様みたいな抽象画にするしかないかもしれない。
 しかし、それなら抽象画を書けばよい訳で、中途半端な絵画擬(もどき)は、鑑賞に値しない。表意文字の漢字は書によって絵画的な感銘を与えることができるかも知れないが、そのことと曼荼羅模様の文字遊びとは別である。
 結局、言葉の意味を抱いたまま言葉による感銘可能なイメージを再構築せざるを得ない。キーワードは言葉の意味の範疇のズレ、つまり並べられた言葉を見る視点ではないだろうか。 
 詩の生きる道はそのあたりか。
 
 ちょっと粗雑かも知れない。素材としての言葉と文芸との関係についてはまたきちんと考えようかな。
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