谷川俊太郎さんの好きな詩について教えてください(5) 全自動一行物語シアター(750) 連座 萬草庵 参軒目(226) サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(237) Youtube配信スレ(298) ながしそうめん10軒目(101) 雑談スレッド7軒目(625) ことことひとこと。その2。(886) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(93) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示]
あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 またひとことダイアリーで切れてしまったので。 慣れた方法で書きましたね? という感じの詩にはポイントはつけないのですよね。変わらない巧みさ、という詩にはポイントをつけますが。前者は、ロイヤルストレートフラッシュは、本当はスペードだけなんですよ、という意味でそうしています。 ひとことダイアリーで切れてしまったので。 前にも書いたことなんですが、ネットの民意自体もすでに民意じゃない、という感じがしています。具体的なエビデンスとしては、今の若者が一番多く使うSNSがLINEで40%くらい、次がXで15%くらい、という調査。LINEって、そもそもSNSではないし。 偉そうにカタルことでもないとは思うんですが、やはりそういう自覚がないと危険かなという。この調査の記事自体はYahoo!に掲載されていたものですけれど、気に留めた人はあまり多くいなさそうだったな、という印象。まあ、それはそうですよね。 そういうことより、LINEという、インターネット以前のパソコン通信?の時代のような局所的な集まりのほうが、開かれた場所の情報よりも拠り所にされている、というのが、順調に社会はそういう方向に進んでしまったんだな、という感慨を持つものです。 室町さま、おはようございます。 たぶん、それぞれの人にそれぞれの詩があるから、どんな詩もありなんでしょうけれど、 個人的には、やはり限度はあってほしいかな、ということは思っています。 朧月夜さんのつぶやきを読んで自分にとって詩とは何かを 語ってみようかなと思い立ちました。 基本わたしは最初小説を書いてまして詩は三十代になるま で読んだことがありませんでした。意識の隅にすらなかっ たとすらいう感じです。 しかし小説は長いのですよね。それが非常になんというか 苦痛というか面倒になりました。それは小説という形式が 悪いのではなくそういう形式をちゃんとこなせる書き手が いなくなって読むのが苦痛になったという意味です。電話 帳を一冊読むような退屈さと虚無を味わって、それで短い 読み物である詩にいやいや関わるようになったのです。と ころがわたしのそういう姿勢はもともと詩に魅せられ詩に 愛情を感じて書いてきた人にはすぐにわかるらしく、蛾兆 ボルカのような人にはずいぶん嫌悪されました。 なんでおまえのように詩が好きでもないやつが詩のサイト に顔を出して偉そうなことをわかりもしないで喋っている のだみたいに。わたしも正直それほど詩が好きでないし読 んでもわからないのですがしかし短い読み物、書き物とし ては詩しかないわけで、これはもうしょうがないわけです。 そんなこんなするうちに段々、詩の世界そのものが散文的 になってきた。 わたしのような散文的な人間でも詩だよとすまして書いて も受付られる雰囲気が出来てきた。これはまあ、あまりい いことじゃないのですが、そういう世の中になってきたよ うに思います。街を歩いていて飛んできたたんぽぽの綿毛 がふっと頬に触れる瞬間をとらえたような詩、そういう何 も考えないし意図もない瞬間芸のようなもの、それがいま の詩のひとつのかたちでとしてあることが、いわゆる詩が 書けないわたしにとっては救いのようなものだと思ってい ます。 父の介護で忙しいので、コメントをいただいても、レスはまあ遅れます。スマソ。 ひだかさんから、意志をもってポエムを書くのであれば、 ポエムをなんと考えているのかを書くべきだと指摘され……。 そういうツッコミもいつかはあるだろうというふうに思ってはいたのですが、 なんでしょう。詩作(今はポエム作なんですが)って、いつでも現在進行形であって、 先が見えていたら、それはインチキも含めた幅広い意味での預言にしかならないのでは、 といったような感じもしていて。例えば、今日恋人が死んだら、 その人の作品は変わらざるを得ないわけで……変わらなかったら人非人です。 わたしはわたし自身のスタンスとして、 ・同じテーマでは2回は書かない ・自分が本当につらかったことと本当にうれしかったことは題材にしない というのを決めていて…… それはまあ、ポエムとは関係のない話なのね。 ただ、「現代詩」と銘打つサイトであえてポエムを書こうとする人は、 意識的に作品をつづる人にあっては、少ないだろうと思え…… みなさんにとって、<時に見下されることもある>ポエムというものは、何? ということは聞いてみたくもあるのですが、あまりレスは期待できそうにないかもしれませんね。 ただ、わたしは<現代詩はむしろポエムであるべき>と、一昔前までは思っていて、 なぜそう思うのかと言えば、芸術の技巧の発展の上に行くつくものはマニエリスムであること。 そして、マニエリスムには<その先>がないということ。 その先へ行くには、個人主義、つまりロマンティシズムへの回帰が必要であること。 ……そういうふうに思っているのですね。 今は、今さらのようにそんなスタンスに帰っているのではあるけれど、 そうしたスタンスはわたしのオリジナルなものでは当然なくって、 たぶん、やなせたかし氏などが(谷川俊太郎氏ではない)目指していたことなんだろうな……と。 カタストロフ的に漢詩が死滅して短歌になる、短歌が死滅して俳句になる (それ以前に短歌は謡曲に取り込まれていますが)、 といったことはあるとは思います。 ですが、今なおゆくゆくは紙媒体で本を出版したい、 そういう姿勢で書いているだろう方は多いだろうと思われて、 わたしはネットにアクセスして以降、そういうことに少なからず疑問は感じていたのですが、 今になってまた、同じような思いにとらえられていて。 印刷物として最適化されるものとしての文章を書く、 ということに再度懐疑的になっていたりします。 わたしがよく書く散文詩(自由詩ではないです)であれば、 ネット上の(横書きでの)見た目と紙媒体での(縦書きでの)見た目も、 そう変わらないだろうということは思うのですが、 ネット詩のとくに自由詩としては「ポエム」を書くことは、 わたしのその時なりの姿勢であってスタンス(譲れない信念)ではないのですが、 例えば、「小説家になろう」や「携帯小説」などを無批判に肯定するものでもないのですが、 何か、時代的な要請がなくはない? ということは感じていたりします。 相田みつをを肯定する人は少なくっても、金子みすゞを肯定する人は、 結構こちらのサイトには多くいらっしゃるのではありません? もちろん、わたしは「詩」を学ぶことから始めたのであって、 「ポエム」を学ぶことから始めたわけではないのですが、 ランボーやら萩原朔太郎やら釈迢空やらの模倣は、 ほんとうに数年(2~3年)で終わったと記憶しています。 芸術家は単なる隣人に過ぎず……ということもいつも言っているように思うのですが、 そんなに<詩作>が特別なものでなければいけないのかな? ということを思い。 なぜと言って、そうであった場合、それは本当に読者に伝わるものなのだろうか? という。 相田みつをを無条件で肯定もしませんが…… ただ、「わたしは現代詩を書いている」という人にあっても、 <それは真に現代詩なのか?>という疑問(自省でもありますね)は感じていてほしいかな、 ということを思っていて。なぜなら、そういう自省がなければ、 その人が詩作を続けていけるとは到底思えないためです。 「いや、俺は書けるよ」という人もいるんでしょうね。 有名な方で何人か名前を挙げることもできますが…… ただ、わたしの眼中にはない(偉ぶっているわけではない)ので、 「ん? あの人?」などと思っていただければそれで良いのですが。 まとまってもいませんし、まとめる気もあまりないのですが、 何か、心のなかにふと思うことなどあれば幸いです。 レスがあればよろしくお願いします。 俳句の部屋で中心的にご活躍している一人の森田拓也さんの作から 始まるコメント欄から、こちらに引っ越してきました。 https://po-m.com/forum/pointview.php?did=385480&from=menu_d.php%3Fstart%3D0 さて、森田さん、素敵なコメントありがとうございます。 パラレルワールドをSFと決めつけるのは勿体ないよね。 リアルタイムの意思疎通は私らの今の科学では無理でも 先に行ってる地球外知的生命体は到達しているのかもで 今のAIはまだ生まれたばかりの赤ちゃんでもそのうち 一気に素粒子の謎の時と空間を解き明かして量子ゆらぎ を妄想から現実社会で利用可能ななんだか知らない何か 例えば、遠く離れた空間の知的生命体との意思疎通の 「電話」とかに変わっていくのでしょうか? 大切なことはいま現在は無理な話しなので(今がチャンス)、 とくに日本人は外の良いものを吸収し真似て改良することに 長けていたわけですから、機は熟したのだからそろそろ みんな本気を出して、最初は抵抗があろうがなかろうが 理論的な根のブラックボックスの中身は理解できなくても、 AIを取り入れた世界にいち早く染まりlearning by doing。 私は外界のアナキストだから良くわかるのですが、でないと、 最後は以前の(今はもっと進んでいる?)1%の富裕層と99%の 虐げられた庶民の構造のアメリカ人の悪いモノマネに堕ちていき サヨクの波に飲み込まれてしまうのではないのでしょうか。 多くの勉強不足のネット詩サイトユーザが陥ってしまうのは、 詩の本質を作る努力をしている詩書き人と単なる詩読み人は、 同等という「悪しき平等」にずぶずぶになっていて(楽だから)、 本来は作者と読者の間には、渡るに渡れない天の川くらいの 差があるのにということを理解しなくちゃ と 自分にいつも言い聞かせているわけなのです. でないと、法政大学教授の島田雅彦先生は影響力ある作家で どちらかといわなくても根っから楽しいサヨクなわけで、 どちらかというと、私は、彼の作品をアフォリズムとして、 読んでしまうけど、大転生時代を時間があれば読みたいかな? たぶん、読後感は、ここに書いた感じになると思うのですね。 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD047B00U4A001C2000000/ 発句 きっと地球見てる人ゐて天の川 拓也 発句 孤独だわ令和のわれら宇宙人 らどみ 付句 されどらどみは宇宙船もつ 拓也 三句 花火みて侵略止める宇宙人 拓也 四句 核兵器みてやはり侵略 らどみ 五句 方法は心を変えるmental アウト らどみ 足立氏こんにちは。 聖書にも「捨てられた石が隅のかしら石になった」とありますよね。福音書で語られていることって、道徳でもなんでもなくって、言われてみればそうだ、みたいな単なる実感が多いようにわたしは思っているのですけれど、「高き者は低くされ、低き者は高くされる」……詩の周辺部にいることも、詩の本質ではなくって詩の周辺を理解することも、その人がそれを貫くのであれば大切な姿勢だと思うのですが、このごろのわたしは同時に思うんですよね、自分の作品を残そうとしない人の作品って残る価値があるんだろうか、とか。 万葉集に取り上げられなかった傑作も膨大な数あるのでしょうけれど、わたしたちには知り得ないわけで、その残らなかった詩人の息吹というものも、万葉集には反映されていて、それが人の世の中だということは思いますが……。ただ、現代の大伴家持を待つのもどうなの? ということは思います。 詩の周辺部……から思い出す、わたしの実感(単なる思い出)を思いながら書いてみました。 ラスコーリニコフみたいに、その時代にあっては異端、次世代にあってはスタンダード、のような表現がされる場合も(詩ではないですが)あるわけですし、周辺部と聞くと、本質や王道よりよほど難しい気も、なんとなくします。 いつも矛盾したことばかり考えているので、まとまっていないですね。スマソ。 おぼろんさん、こんばんわー 詩を語るときはどうしても周辺部を意識しないといけないと わたしは、そういった強迫観念みたいなのあります。たぶん、 むかし居た(今も名前変えているかもですが)、どうしてか、 その人の前では、頭の上がらない姉御さんが、言ってた感覚、 詩の周辺部をうろついているだけというところから見てみたいというのが あるんだと思います。姉御さんのお名前は、確かヒグチさんって言ってた。 まだ、詩の周辺部におられるのだろうか?。ふと思い出しました。 足立氏こんばんは。ひだか氏こんばんは。お返事遅くなりました。 >足立氏 コミュニケーション取れていない感じでしたか? わたしはあまりそんなふうには感じなかったですし、もともと詩を読んで全部を理解できているのかと言えば、そういうことはなくって、恥もなにもなく、作者にどういったスタンスで書いたのかを質問してやっと理解できることもままありますし。そもそも文学好きが集まればお互いに話していることをわかるのかといえばあやしくって、お互いに言葉にはこだわりをもっている、がゆえに逆に理解しあえないもののように思えます。なので、わたしは作者にその詩の意図を聞く、といったこともためらわないのですが。ちょっと思ったのは、わたしは足立氏の言う「詩≠文学」「詩≠芸術」というのを意図的に外してコメントしてしまっていますし、なので足立氏にディスコミュニケーションとして感じられても仕方ないかな、ということはあります。そのうち、そちらに話題が戻っていければ良いかな、というのはあったのですが……。 詩が才能だとしたら、わたしはたぶん詩を書けてはいないですね。おとなしく理系の道に進んだと思います。 >ひだか氏 「誤読です!」と言うと失礼なような気もして、というのは今ひとつわたしにはそれが当たっているのか外れているのかわからず。わたしが「詩の諸相」と書いたのは、E.M.フォースターの「小説の諸相」を受けてのことで、「詩の特徴」ですとか、そんな感じの意味です。フォースターが「小説の諸相」のなかでなんと言っているかと言うと、「小説とは詩から発生した詩ではないもののことである」と、そんなふうで。なので、わたしは「詩とは小説ではないもののことである」とずっと言っていましたが……。それはそれとして、フォースターは小説について七つの「諸相」があると言っていて、それは順に、ストーリー、登場人物、プロット、幻想、予言、パターン、リズムとなります。今はそういうふうではない小説も多いですし、小説とエッセイとの境目もあいまいですが、小説の本質論ということを考えた場合には、今もってフォースターの言うとおりで間違いはないかなあと思っています。 「詩の諸相」というものをつかんだ作者が、その作品にもその「諸相」を反映するだろう、という感じのことでしたら、誤読ではないです。 こんな感じでよろしくお願いします。ではでは。 追記ですが……興味深いのは、西洋を含めてアジア圏までも、ほぼ詩のほうが先に発生して、小説のほうが後に誕生しているのに、日本の場合は最古の物語と言ってもよい「古事記」のほうが先に出来て、最古の歌集である「万葉集」のほうが後にできた、ということですね。んまあ……それ以上の感想をわたしは持っていないんですが。 おぼろんさん、誤読してたらすみません。 ふと感じ閃いたものですから。√ゝ 詩はやっぱり先ず、自らの魂の奥底に在る普遍の大洋からイメージの核を直観し、それからこの世界次元の言葉に翻訳対象化されるものだと僕は想いますが… 諸相なるものが色々と在るのは、それぞれがそれぞれの個性で掴み取った普遍の諸相様相の在り方から現れ表されるものだから ではないかと。 おぼろんさん、こんばんわー 222を再読したけど、お昼休みに斜め読みしてから書いた感想とは ぜんぜん違うことを書きたかったのかなというが2度目の感想です。 とても難しいし 詩を読む側の詩読人としては、そこに既に読む詩はあるんですよね。 ある日、あるものを作り出す側になるなんて、今までなんと愚かだったのか と なんだかわからないけど、余分のものが全く無いとしかいいようもない現代詩に 会ってしまい、今まで書いていたのはなんだったのかという気持ちになったこと。 それからも、何度も何度も殻を破ってきたつもりでも、なんだ、詩は才能なんだ と 親ガチャや環境や肉体や知恵やその他もろもろ、書けない理由探しも、一段落して 気持ちが楽になっていたのかなあ。 結局、こんなスレッド立てても、おぼろんさん1人とのコミュニケーションも 取れないわけだし、詩は何かなんて、考えるのは100年早かったのかなぁ ま、この前、お寿司屋さんで食べてたら、しゃこの方が高くて、驚きました。 最初から、凄いやつを書こうなんて思わなければ、なんか書けるのかな? 詩はとても難しい 詩ではなくても、身の丈にあった、なにかを描いていこうと思いましたよ。 足立氏こんにちは。病院から帰ってきました。 ぶっきらぼうな表現になっていて、足立氏を脅迫しているような印象でしたら、申し訳ないです。最初、昔イタリアン・レストランで働いたことがある、ということから話を始めようかと思ったのですが、あまりにも長くなりそうで。 詩の本質を書こうとは思わないと書いたのは、ですね。むしろ、詩の諸相についてなら書きたい、という意味でした。わたしの場合には、物事をそういうふうにしか捉えられなくって。 足立氏の投稿から始まったお話ですし、最終的にそこに帰結できれば良いな、とは思っているのですが……そこで出てくる話題ですとか、脱線することについては躊躇しない、という感じかな。 あと、もちろん、コメントとして新しい話題は持ちだしつつ、同時に足立氏の使っている言葉の意味を足立氏に確認している、というのもあります。 ではではよろしくお願いします。 おぼろんさん、こんちー。お昼休みにアクセスしています。 たぶん、おつしやつていることは「詩とは何か」に通じているのですよね。 だからさらに細分化のすり合わせなのだろうと勝手に思っていたりですが、 今まで、感覚で捉えていたところに、詩と詩情、詩心が細分化され始めた のかなと思いました。 私は「冷めた人」なのだと自己分析してきましたが、あえていうとですが、 細かな言葉の定義のすり合わせからしないと、科学サイトの自分としては たぶん理解できないのですね。私にとっては言葉を使うことは難しいです。 ありがとうございました。 足立氏こんにちは。コメントありがとうございます。 ちょっと考えすぎかなあと思うのですが、「詩の中に歌詞があれば」とおっしゃっているのは、「詩⊃歌詞」ということだったでしょうか。わたしとしては、それは違うように見えていて、現代では詩に魅了されてから作曲をするようになった方も、歌に魅了されてから詩作をするようになった方もいらっしゃるとは思うのですが、詩と歌詞とはやはり似て非なるもので、「エビとシャコは似て非なる生き物」というとこれもまた正確な比喩ではなくって、いや見方によれば正確だとも言えるのですが、ランは被子植物に含まれますが、ランとラン以外の被子植物はほとんどまったく別の植物です。鳥も恐竜の一部が進化した生き物ですが、鳥を見て恐竜だと言う人はいません。「鳥は恐竜の生き残り」と誰かが言えば、それは表現としては<ありうべき>言葉ではあるのですが、事実はどうなのかと言えば、鳥と恐竜とは179度くらい違う生き物です。ですので、「詩の中に歌詞があれば」というアプローチは、すこし現代的すぎる捉え方かなあという感じがします。「それで足りる、むしろそれが良い」と感じる方もいらっしゃるとは思いますが。 「エビとシャコは似て非なる生き物」という比喩がなぜ間違いではないのか、と言えば、西洋の詩の発生についてわたしはあまり詳しくないのですけれど、日本の場合ですと、「詩歌」というのは、「祝詞」という暗唱される言葉から始まって、そこから「長歌」が生まれ、さらに「短歌」が生まれた、という順になっています。短歌も当初は書かれるものではなかったでしょうし、平安時代になると短歌はまずは書かれるものになりましたが、このときにも最終的な目的として、歌合わせに用いられることもありました。ですので、日本の場合、「詩歌」というのはむしろ<発声されるもの>として誕生したと言えます。このへんの事情については折口信夫が詳しく書いています。ですから、「詩歌⊃(詩∪歌詞∪そのほかの詩歌的な表現)」としてとらえれば、その場合には正しいと言えるのです。<エビもシャコも同じ甲殻類として発生した>と言うのと同じように。いや、ちょっと違うんですが──「詩の中に歌詞があれば」という表現に即座には変換できない、という点において。 ……ですが、そこまで深く考えなくても、そもそも、歌詞と詩とでは、それが書かれた目的が異なるものですし、その時点で足立氏は考えすぎていらっしゃるかな、ということを感じます。 ……こちらでいま「詩の本質」ですとか、そういったことを書こうとは思っていなくて、ですので、わたしがどのような理由で「ミュージシャンは詩人にはなれない」と書いたのかは、それぞれの方がそれぞれの形でとらえていただければ、と思う次第です。わたしとしては、「詩人はミュージシャンにはなれない」とは書きませんでしたし、「詩人はミュージシャンになる必要がある」とも書きませんでしたし、「詩人はミュージシャンになる必要はない」というのが、最初に生じた感覚ではあるのですけれど、それだけ書いてもなにか不足だということも感じて。「エビはシャコにはなれない」ですとか、「鳥は恐竜にはなれない」ですとか、「イタリア料理はフランス料理にはなれない」と言うのと似たニュアンスであると思っていただければ、わたし的にはほっとします。目的だけで詩と歌詞とを判別するのも、まだ不足だとは感じますが……まずは、そこから入ったほうが良いような気がしています。わたし自身は読んでいませんが、デリダとか読んでいると分かるのかな。。。 これから病院です。 ※すこし書き直しました。 まだすこし時間があるので、追記です。 誰かが、「シャコ」を見て「エビだろう?」というのは、人として正しいと思いますよ。生物学者が「シャコ」を「エビ」ですと言えばくびになるでしょうけれど……。そもそも、言葉というものについて、「カタツムリ」という言葉の厳密な(生物学的な)定義は存在しませんし、「草」という言葉の厳密な(生物学的な)定義も存在しませんし……それでもなお、人は「カタツムリ」や「草」という言葉が理解できる、ということが重要だと、わたしは思っています。そうした線で読んでいただけましたら、ありがたいです。ではでは。 おぼろんさん、こんばんわー 歌詞ですよね。さあ、飛び出そう。 歌詞、歌詞、歌詞。歌詞、歌詞の歌詞🎵 しかしかしかし、しかし歌詞🎵 書いてみても、なんだか、よくわからないです。 私自身は、詩≠芸術、詩≠文学なので、 詩の中に歌詞があれば、歌詞≠文学ですね。 私は今の歌詞の創作は曲先だと思うので、その場合、 もしかすると歌詞は詩ではないときもあると思うけど、 詩に曲を付けても歌詞になるのだから歌詞は詩でも良いと思う、、、 というか、詩と曲、曲と詩が同時に出てくる場合は、、、 難解だけど、これは、、、 セットで歌になるので、歌詞は歌です。うん、当たり前。 Lyrics are songs. 今、出来ることは、それくらいかな おぼろんさん、こんちわ いつも読み込んでいただきありがとうございます。 お昼休み中なのでほとんどあんまり書けませんが お礼を兼ねて短めの直接ベタ打ちいたしますので、 誤字脱字等、あったら申し訳ございませんでした。 おぼろんさんの文章から詩とは何か学ぶことが多いなと思います。 たぶん、今まで生きてきた世界が違うけど、言葉や文字に対して 真摯に対峙してこられた方なのだとリスペクトをもって読んでます。 だから、以前も違和感のあった「詩壇」という使い方も、何か 別の意味合いを含んで、今回も使っているのだろうと思うのです。 「ネット詩壇」ですか。概念としては、おぼろんさん的使用法で 私の通過してきたネット詩とは少し違う気がするのですが、これ はこれで、突き詰めてみると、今の詩サイトの何かにぶつかる ようにも思います。 仕事終わったら、歌詞のことで、何か書けたら、書いてみたいです。 ではでは、、、 足立氏こんばんは。コメントありがとうございます。 発達心理学ですか……わたしも心理学について勉強したことがないわけではないですけれど、心理学というのがどれだけ正確なものか、ということについてはすこし考え込んでしまいます。例えば、精神分析を作品に応用した作家としてアナイス・ニンなどもいますけれど、彼女の精神分析はきわめて不正確なものだと、今あらためて考えると思いますし……アナイス・ニンには心理学者としての素質と芸術家の素質、両方があった、というのが正解かななどと思ってしまいます。 発達心理学の例を持ちだしてきたのは、足立氏が「とある人のネット詩歴(ネット連詩→自称詩→辞書詩→AI詩→現在詩)」というタイトルについてあらためて考えてみて、「時系列としての5つでも、同時だという矛盾があるということ」ということを強く感じたから、ということのような気がするのですが、「リカレント教育推進派」とおっしゃっていることを踏まえれば、もともとそういったことを考えていらっしゃったのかな、という。 小林秀雄が「年齢」というエッセイを書いていて、20歳の人間なら20歳の人間が書いたこと、60歳の人間なら60歳の人間が書いたことで、その年齢でしかわからないこと、というのが含まれていて、読む側でもその年齢になってみなければ実感としては分からないものだ、と言っていますね。それと同時に思い出すのが、トーベ・ヤンソンが年上の人形作家と会ったときに、「あなたはまだ若いから」と言われ、その時のヤンソンが70歳くらい、人形作家が90歳くらい、だったと思うのですが…… 老いのなかに若さもあるでしょうし、若さのなかに老いもあるでしょうし、小林秀雄の意見は一見暴論なんですけれど、ヤンソンと人形作家との対話の例もあるように、そういうもの(年齢による感性や感覚や理解の違い)というのはあるような気がします。ですから、これも暴論ですけれど、40歳というのはやはり今でも「不惑」ですし、15歳は今でも「志学」なんだろうということは思っていて。それを踏まえたうえでの「学び直し」ということであれば良いと思うのですが…… 最近思ったのですが、孔子が15歳で学を志した、というのは、あの時代ではかなり遅いことですよね。なので、孔子の言葉に含まれているのは、自分は平凡な人間に過ぎない、というニュアンスだと感じるのです。年齢ですとか時間ですとか、については、もうすこし違ったアプローチも持っているのですが、なんとなく会話の流れからして、思いつくのはこんなことかなあと。 足立氏はWIN95の時代から、ネット詩壇に参加なさっていたのですね。わたしよりもずいぶん長いです。わたしはせいぜい2000年くらいからですから。わたしが当時のネットのことで思い出すのは「ぞぬ」のことだったりしますが……。でも、あまり懐かしさは感じないかも。そのころ職場で、「俺、1999年に本当に地球が滅亡すると思っていたもん」と言う男子がいたりして、1995年ころから1998年くらいまではそんな空気感の時代だったかな、ということは当時思いましたし、今も思ったりします。わたしにとっては、hideさんの死がいちばんショックでしたが……Zilchの「3・2・1」とか和訳したこともありますが、面白いですよ。 話題が詩からは逸れてしまいましたが、hideさんの「DOUBT」とか聴いたときに、今の時代では詩人というのはミュージシャンにならないといけないのだろうか、ということを思って、一年かそれくらいずっと考えていたりしました。わたしの出した答えは、ミュージシャンは詩人にはなれない、ということで、むしろミュージシャンのほうでは、中島みゆきにしろ、ボブ・ディランにしろ、自分の書くものは歌詞であって文学ではない、とプライドを持って言っていますね…… なんだかとりとめもなく。とりあえず、お手柔らかに。 おぼろんさん、おはよう。。。です。 毎回、面白い切り口で、カッパえびせんみたいに、 返信したい衝動?にかられます。今回もありがとう! 今回、「辞書詩」なのものを二つに場合分けされたのは とても興味深かったです。たくさんあるなかで詩の5 つの類型を造語してみたりしているのは何故なのだろ うかと自分に対して途中から疑問を投げかけたくなり ましたよ(良い意味で)。全部、経験からの思いつき だけで綴っているのですが(だからといって、題名の とある人が私だけではなく)おぼろんさんに「辞書詩」 を二つにしてもらったおかげで、「辞書詩」についても もっと深めて、これはこれで、さらに韋編三絶して、 より深く、今後さらに追求してみたいなと思いました。 今、言えることは、時系列としての5つでも、同時だ という矛盾があるということ。既に答えているところ もあり、「人は矛盾した生き物」で、終わりにするつもり もなく、ブロンフェンブレンナーらの同心円を意識して 最初から書いているわけですが、「政治家の言葉は民に 浸透する力が、子どもの言葉は最初は身内とのやり取りに ある」ので、別に同じ時代に生き同時進行でも良いのです。 ゆきゆきてポエムで、以前書いた「公と私」に近いのかな? (DJの内藤忠さんのしたことはあの時代仕方なかったこと なんだけど、個人的には改めて内藤忠さんに感謝します)。 あの時代というのはむかしのネット詩サイトのシスオペの ポチさんが、当時、やむにやむをえず?、詩サイト作品を DVDに焼き増し、谷川俊太郎先生に送ったこと。ポチさんの ご自宅が荒らされてサーバーごと盗まれたこと(私では無い) 。とにかく、今の詩サイトは変わった人が多いと思うけれど、 あの時代は、大きく変わった世の中だったと思う。懐かしい。 谷川俊太郎先生がブロンフェンブレンナーだとは思ってない けども、詩人は細かいところに気付きながら、俯瞰した目を 俯瞰心のある書き方が出来る人たちなんだろうと思います。 ITやDXやAIについての部分で前の文で加筆する と、 イラレ等を使って作業するときには、コッホ曲線の神秘と いうのか、数学的美意識を考えているデザイナーは少ない というか「それはないでしょ」という感じかなぁ〜 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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