2024 10/29 03:52
朧月夜
ひだかさんから、意志をもってポエムを書くのであれば、
ポエムをなんと考えているのかを書くべきだと指摘され……。
そういうツッコミもいつかはあるだろうというふうに思ってはいたのですが、
なんでしょう。詩作(今はポエム作なんですが)って、いつでも現在進行形であって、
先が見えていたら、それはインチキも含めた幅広い意味での預言にしかならないのでは、
といったような感じもしていて。例えば、今日恋人が死んだら、
その人の作品は変わらざるを得ないわけで……変わらなかったら人非人です。
わたしはわたし自身のスタンスとして、
・同じテーマでは2回は書かない
・自分が本当につらかったことと本当にうれしかったことは題材にしない
というのを決めていて……
それはまあ、ポエムとは関係のない話なのね。
ただ、「現代詩」と銘打つサイトであえてポエムを書こうとする人は、
意識的に作品をつづる人にあっては、少ないだろうと思え……
みなさんにとって、<時に見下されることもある>ポエムというものは、何?
ということは聞いてみたくもあるのですが、あまりレスは期待できそうにないかもしれませんね。
ただ、わたしは<現代詩はむしろポエムであるべき>と、一昔前までは思っていて、
なぜそう思うのかと言えば、芸術の技巧の発展の上に行くつくものはマニエリスムであること。
そして、マニエリスムには<その先>がないということ。
その先へ行くには、個人主義、つまりロマンティシズムへの回帰が必要であること。
……そういうふうに思っているのですね。
今は、今さらのようにそんなスタンスに帰っているのではあるけれど、
そうしたスタンスはわたしのオリジナルなものでは当然なくって、
たぶん、やなせたかし氏などが(谷川俊太郎氏ではない)目指していたことなんだろうな……と。
カタストロフ的に漢詩が死滅して短歌になる、短歌が死滅して俳句になる
(それ以前に短歌は謡曲に取り込まれていますが)、
といったことはあるとは思います。
ですが、今なおゆくゆくは紙媒体で本を出版したい、
そういう姿勢で書いているだろう方は多いだろうと思われて、
わたしはネットにアクセスして以降、そういうことに少なからず疑問は感じていたのですが、
今になってまた、同じような思いにとらえられていて。
印刷物として最適化されるものとしての文章を書く、
ということに再度懐疑的になっていたりします。
わたしがよく書く散文詩(自由詩ではないです)であれば、
ネット上の(横書きでの)見た目と紙媒体での(縦書きでの)見た目も、
そう変わらないだろうということは思うのですが、
ネット詩のとくに自由詩としては「ポエム」を書くことは、
わたしのその時なりの姿勢であってスタンス(譲れない信念)ではないのですが、
例えば、「小説家になろう」や「携帯小説」などを無批判に肯定するものでもないのですが、
何か、時代的な要請がなくはない? ということは感じていたりします。
相田みつをを肯定する人は少なくっても、金子みすゞを肯定する人は、
結構こちらのサイトには多くいらっしゃるのではありません?
もちろん、わたしは「詩」を学ぶことから始めたのであって、
「ポエム」を学ぶことから始めたわけではないのですが、
ランボーやら萩原朔太郎やら釈迢空やらの模倣は、
ほんとうに数年(2~3年)で終わったと記憶しています。
芸術家は単なる隣人に過ぎず……ということもいつも言っているように思うのですが、
そんなに<詩作>が特別なものでなければいけないのかな? ということを思い。
なぜと言って、そうであった場合、それは本当に読者に伝わるものなのだろうか? という。
相田みつをを無条件で肯定もしませんが……
ただ、「わたしは現代詩を書いている」という人にあっても、
<それは真に現代詩なのか?>という疑問(自省でもありますね)は感じていてほしいかな、
ということを思っていて。なぜなら、そういう自省がなければ、
その人が詩作を続けていけるとは到底思えないためです。
「いや、俺は書けるよ」という人もいるんでしょうね。
有名な方で何人か名前を挙げることもできますが……
ただ、わたしの眼中にはない(偉ぶっているわけではない)ので、
「ん? あの人?」などと思っていただければそれで良いのですが。
まとまってもいませんし、まとめる気もあまりないのですが、
何か、心のなかにふと思うことなどあれば幸いです。
レスがあればよろしくお願いします。