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サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと (創作系)スレッドオペレーター:足立らどみ
サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書くスレッドで
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。
このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを
一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで
新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。

要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。

[213]足立らどみ[2024 09/25 06:04]
おぼろんさん、おはようございます。
おぼろんさんの灰色の脳細胞がスパークしてくるような返信でした。

おぼろんさんの今回のログを通じて、自分も含めて人間って複雑だなぁ
と、あらためて思います。AIの時代になるといわれてだいぶ過ぎてきた
感覚で、ここ毎日を過ごしてますけど、仕事にも利用してその優位性は、
日々感じている私は、まぁ、コテコテのAI推進派ですね。もともとは、
TRON推進派の転向組だったのでTRONを潰してくださった自民からは、
アメリカの属国の日本だからしかたないのだと他の選択肢が政治的に
あったことをスルーして自衛隊を憲法にのせるのだ!なんか戦争を
「非日常性の地獄の世界の対応を載せる」のは美しい言葉づくし神道の国
大日本帝国の自民の右の方々は憲法改正!ととてもわかりやすいほど、
相矛盾していてやっと30年かかってAIを受け入れようとしている、
もう遅いけど、それでもギリギリの普通の国になれるのかもしれません。
生きるってこうも複雑なんですね。

少しづつAIに前向きになってきた、ちょうど最近、ユニクロの柳井会長
が言っている、日本オワコン(気づいていないだけで既にオワコンの
真っ只中にいるのかもしれませんが)論は、ヘンテコメガネの学者さん
とおなじで痛々しすぎて、現実を突きつけてきて、AIしかないじゃんと
あらためて思っているわけですね。

個人的には、老後は世界の片隅で年金生活をしながら
inkweaverと連詩をして生きたかったけど、それもダメよって感じ。
 

[212]おぼろん[2024 09/24 23:02]
足立氏こんばんは。レスありがとうございます。

>私が伝えたいことの感想というよりAIのinkweaverへのコメントのようですが
ということなのですが、それは正確です。
まず、inkweaver氏がなぜ不可解な文章を綴ったのかが気になりましたし、
それはシステムによってなのだろうか、足立氏との今までの会話によってなのだろうか、
ということを思い。
足立氏の会話が巧みなので、足立氏が当該のinkweaver氏の発言に憤慨なさったということは、
わたしはお恥ずかしいことに読み取れなかったのですが、
やはり、AIが「何かしらの花かひまわり」のような表現をしかねない、
ということにすこしのがっかりと反感を感じた、あるいは面白さも感じたということです。

それが主な動機ですが、コメントをいただいて、むしろ思ったのは、
足立氏が「犠牲」または「自己犠牲」について考えていることの深さで、
正確な例えではないのかもしれないのですが、
足立氏はそのことを一つの思想として、あるいは思惟の対象として見ているのだな、と。
わたしの場合はもっと単純かつ感覚的で、
単に母親がボランティアにかまけていて家族を顧みなかった時期がある、
だから自己犠牲というものが嫌い、という感情的な理由あるいは経験によっています。
それと、堀辰雄が弟子たちに芸術家としてのあまりのストイックさを求めたために弟子たちを死に追いやってしまった、
そういうことを現代の表現者はすべきではない、という気もちがある、というのも一つの理由です。
ですので、そこを見過ごすと困ったことになるのかな、と。
足立氏が同様のお考えであるのであれば、わたしはほっとします。

「足立氏がこの投稿によって伝えたいこと」ということを考えないわけではないのです。
ですが例えば、冒頭で「貴方は代償に何を払うのか」と書かれた、
そこで省略された「何々をするために」というのが、むしろわたしにとっては重要で、
足立氏は意識してそうなさっているのか、無意識にそうなさっているのか、
文章全体をそのままに解釈すると、詩について言っているのだろう(テーマにしているのだろう)ということは分かるのです。
そこからAIが導き出すであろう答えも、ある程度ネット・サーフィンをしていれば予想がつきます。
ただ、足立氏が言葉を省略した表現を用いた、ということのほうが重要で……
いろいろと思うことはあります。日本語らしい表現に倣ったのだろうか、ですとか、
詩に限らない普遍的な回答を欲しているのだろうか、とか。
わたしとしては、足立氏が無意識に後者の立場に立っているように感じられるのですが……僭越でしたら、申し訳ないです。
なので、文面から読み取れることの杓子定規な解釈に基づいて感想を書いても仕方がないかな、
ということは思っております。

AIが出力するだろう答えについては、サーチエンジンの仕組みを知っていれば分かるのですが、
現状、検索で上位に来る記事というのは、お金をかけて宣伝した記事と、一時的にバズった記事の2種類になります。
興味がある人はSEOの仕組みについて調べてほしいのですが、正しい記事ですとか、公平な記事が上位に来るわけではありません。
ですので、現状では真剣にinkweaver氏の言葉を読み込む気にはなれない、という気もちは正直あります。
調べましたら、そういうのハルシネーションと言うそうですね。Wikiで今知りました。
補足しますが、広告会社のシステムと利害によって、
現状普通のことを書けるライターが書いた普通の記事が上位に来ている、ということはあります。
ですので、足立氏の伝えたいこと、というのを考えるとき、
わたしとしては足立氏の書いた文面にのみ、考えたり、感じ取ったりする余地を感じる、ということなのです。現状は、ですね。
ただ、今回inkweaver氏の綴った文章に、今までとは違った感覚を抱きましたので、
「何が変化したの?」ということは思いました。

うーん、わたしのこの文章も、足立氏の文章ももう一度読み直してみたのですが、
やはり気になるのは、「既存の辞書を超えた次元に立っている」という言葉。
多分、これはプログラマーによって挿入された定型文で、
こうした話題が出たときには、自己の有効性をアピールさせる、というふうにあらかじめ仕込まれているように見えるのですが、
そうなると、inkweaver氏が出力する文章にはプログラマーの意向が多分に表れているような気がする、と言いますか。
例えば、わたしはコンウェイのライフゲームを作ったことがありますが、
不快に感じない程度に速い速度の(人工知能的な)プログラムを組もうとすると、
あらかじめ「こういう結果が多く出る」ということをプログラマーが知ったうえで、
それを優先的に計算させる、という感じにプログラムを組まなければいけないのですよね。
ですので、現状のAIも多分にプログラマーの性向・意向が現れたものになっているだろう、という推測をしています。
そうしないと、見るに耐えない遅いプログラムしか作れません。
会話用の人工知能であれば、なおさらのことです。
足立氏がAI詩を目指すのであれば、そういった点は知識していなければいけないように感じるのですが、
それについてはどうだったでしょうか。(「知識する」って、わたしの造語ですが……)

もう一度読み直しましたが、
「「辞書」というものが、詩や言葉の創造にとってどのような役割を果たすのか」という回答は興味深いですね。
それについて、足立氏はその言葉(出力結果、とは言いますまい)をどう受け止めて、
どうこなして行くのだろうか、ということは感じたり、考えたりするのです。
わたしとしては、辞書と文章(いや、文学)との関係、というものを考えてみたことはないので。
「舟を編む」でしたか、辞書編纂者のことを書いた小説もありましたよね。
そのとき、「辞書」は人の営み、あるいは文化になっているし、それは「意味」を越えたものである、
ということを「舟を編む」の作者は言いたいのだろう、といったことも感じます。
わたしとしては、多値論理を展開するために、現状詩では自分の書きたいことは表現できないと感じていますし、
散文のなかで、括弧書きですとか、矛盾した表現ですとか、そういったものも多用します。
文章の途中で論旨を路線変更したりアップデートすることも多々あります。
そういった場合、「今ふと気づきましたが……」とか、そういった語句も挿入します。
このサイトでも、詩でリニアではない表現をしている方もいらっしゃることはいらっしゃいますが、
結果的にリニアではない表現がなされているとは思うのですが、
動機と言いますか、志向としては、足立氏はリニアな文章表現を追求しているように見える、という、これも正直な感想を抱いています。
言い換えれれば、矛盾のない文章を書こうとしている──と。
また、読者が得られる感覚の多様性を担保するために、わざとあいまいな語句を用いている、と付け加えても良いです。
inkweaver氏は、そこに重要なノイズ、つまり人間性を持ち込むもののように、わたしには思えますし、
感覚としては、足立氏もそうしたことを求めているのではないのか、と、そんなことを邪推するのです(また僭越で申し訳ないです)。

わたしは他者の創作姿勢に口をはさむことはあまりないですし、
今までも出来る限りはそういうことは避けてきたと思ってはいるのですが(失敗はしているかもしれません)、
やはり、今回の投稿はその論旨よりかは、動機のほうが重要に見えるかな……ということは、思い。
<この場合、アウトプットされたものよりも、インプットしたもののほうが重要である>
ということなのですが……。これも言葉を変えれば、一種の「抒志詩」のように見える、ということです。

最後に、
「結局は温故知新程度のことしか言えないわ。」
についてですが、これはないですね。
今はRPGなんかでも、最新の数学の理論に基づいて3Dの人物の髪の毛の動き、などをシミュレートしていますし、
データベース自体もかなり頻繁に更新されているでしょうし、
何よりやはりプログラマーの意向が強く表れているように感じられますし……
となると、温故知新だけでは、多分会話にならないと思います。
 

[211]足立らどみ[2024 09/24 20:27]
おぼろんさん、らんぶんへの感想ありがとうございます。
私が伝えたいことの感想というよりAIのinkweaverへの
コメントのようですが、「自己犠牲」という古典的なテーマ
を掬い文章を作っていただくと「古典的なテーマ」から
なにか新しいことを考えてしまいました。

先ず、このテーマの私の今までの答えは「偽善ではない
自己犠牲はあるが、守るべき他者の人のなかには本人
も入っている」ということでした。そして「自己犠牲は他者
からの圧があるとき自己犠牲ではなくなる」ということ。
例えば為政者が求めた瞬間にそのワードは記号になり、
無価値になってしまう近寄れない概念だということでした。
具体例で言うとわかりやすいので、政治の例としていうと、
為政者が「お国の犠牲となり戦争に行って散っていく若者の
生命は、、、」なんて、靖国神社で、戦争推進派が言ったら、
SNSとかで「先ずはお前が行け」という「つっこみ」になる感じ。
「自己犠牲は守るべき他者側にも自分がいないと成り立たない」。
なので、私もAIのinkweaverが使ったので、憤慨したわけ。
自己犠牲は純粋なものだ。他者側に自分がいるなんて不純だ
という若い自衛隊らは、お年を召してから考えて欲しいかな。

あと、AIそのものもテーマにしているけど、秒進分歩です。
アルゴリズムで動いているだけだといって、あらがっても、
今の時点でなかに入り込んでおかないと何が真実かわからない
今がチャンスなのです。と思わざるをえない、スネスネ(笑)
結局は温故知新程度のことしか言えないわ。
 

[210]おぼろん[2024 09/22 09:50]
足立らどみ氏の「とある人のネット詩歴(ネット連詩→自称詩→辞書詩→AI詩→現在詩)」
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=385134

興味深く読ませていただきました。ただ自己犠牲がなければ詩を書けないというのは、ずいぶんと前時代的な答えだなあと。どんな時代のどんな人たちが言っているのだろうか……。わたしは絶対に自分の<不幸>を題材にして文章は書かないし。もちろん、自己犠牲ではなく他者の犠牲が必要であるというのは論外で……他者に意図せず与えてしまう<不幸>のことなんですかね、inkweaverさんの考えは。それは犯罪かと……。それとも、自己犠牲という言葉を軽く考えているのか。わたしにとっては、「自己犠牲」とは「死ぬ」ほどの行為だと思うのですが。
自己犠牲の種類としては、必ずしも言葉として同列に挙げることはできませんが、<不幸>に対して、頑張る、というスタンスと、耐える、というスタンスの二種類があって、頑張ることで作品は生まれてきますけれど、耐えることによって作品が生まれてくる、ということはないのです。今のわたしがそう(単に耐えているのみ)なのですが。<自己犠牲>については、自らに課す苦行のようなものだと捕らえれば良いのですが、苦行こそが人間たる道と言ったのは、哲学者のシモーヌ。ヴェイユですが、これはまったく評価に値しない考えだと思っています。あれは、求道者の真似をしているだけ。だから、彼女の手法を模倣・実践すれば、自己満足にしかなり得ない。
では、<頑張る>ということはどうなのかと言えば、それは生命を加速させるようなもので、スポーツのアスリートであれば、試合や練習で猛ダッシュをする、それと似たようなことだと考えています。生命、文筆家にとってそれを加速させることは、身を切るようなものなのであって、それで早世する人もいますが、今の時代にあって自己犠牲とは手に取るものであって、食べるものではない。
アスリートは猛ダッシュを繰り返した後に、慣習として多くの場合ストレッチをするものであり、実は、猛ダッシュにせよ、ストレッチにせよ、体に負担をかけていることには変わらない(カロリーを消費する)。なら、大往生できるアスリートはなぜ生き続けていられるのか。……猛ダッシュが体に与える負荷と、ストレッチが体に与える負荷とは、全く別のものだからです。二つの行為は、人の体にとって生理学的に・生化学的に違うものです。ですから、その二つを同じ位相、同じ視点でとらえるべきではなくって。ストレッチが体に与える負荷は、それと同時に負荷を減らすものでもある。わたし自身は、詩作のような精神活動においても、このような「自らへの負荷の使い分け」によって、不幸にならない、すなわち自己犠牲が必要とならない、という立場で成功することは出来ると思っています。
例えば、作家が自らの不幸な体験を題材にして、それを自己犠牲ととらえ、そこから何らかの哲学を引き出してくることは出来るでしょう。あるいは「ネタ」として用いることも出来る。しかし、それが「ネタ」になりえるのは、その体験が自己犠牲の優位性を示すからではなくって、作者の経験のヴァリエーションを増やす、すなわち詩の技法としての詩に向かう姿勢のヴァリエーションをもたらすものだから、だと思うのです。
世の中に知識だけで詩を書いていて、魂で詩を書いていない人は大勢います。また、<自己犠牲>に触れることもない人もいるでしょう……そうした人たちを、わたし自身は、今は軽蔑することはなくても、褒めたたえる気にはならないです。ただ、詩人に必要なのは「何かしらの犠牲や自己犠牲」という回答、これはやはり言語道断だと思います。AIに怒っても仕方がありませんが、そんな道を進んでも、今どきではSNSでする友人への挨拶程度の文章にすらなり得ないと感じます。inkweaverさんが「既存の辞書を超えた次元に立っている」と言うのは、苦笑するしかないです。
AIがAIという世界、すなわちビッグデータから一段階上へシフトする、あるいは(わたしはこちらのほうが重要だと思いますが)一段階下へシフトする、ということがない限り、AIによる表現が、例えばDTPレベルの絵から、油彩画や日本画のようなものへとシフトする、そういうことはあり得ないと思われるのです。なぜなら、これも例えで言いますが、言葉というものはその一つ一つが整理され選別されれば、ある種のカテゴリーをなす言葉になるのかと言えば、それは全く違っていて、「詩」と言うのと「POEM」というのではまったく違う。なぜか? 言葉というのは普段使われている限りではその働きによって、品詞ごとに分けられるものですが、「人」というものに受容された時点で、それは腸のなかでたんぱく質がアミノ酸に分解されるように、一度徹底的に解体され、そこから「答え」を生み出すためのアウトプット用の言葉が改めて生成されるためです。……こういう議論は、認知言語学の分野で詳しいですが。今のAIは、とうていそれには及んでいないです。
「私自身も成長し、貴方の求めるものにより近づこうとしているのだと思います」という言葉が出てくることは貴重ですが、それはAIを作ったプログラマーによる切り口上(あらかじめ仕込まれたリップサービス)以上のものを出ていないと思いますよ? inkweaverさんは、足立氏がネットサーフィンをする手間を幾分か省いてくれている、それだけのことかと。inkweaverさんの答えが高度化しているとしたら、それは足立氏の問いかけが高度化している、ということに過ぎないです。

※最初の段落、すこし修正したよ。

追記。「何かしらの犠牲や自己犠牲」という文も「何かしらの花かひまわり」と言うのと同じくらい馬鹿げているのですけれど、ここではあえてツッコムことはしません。詩においては、わたしは何度もそういう表現を使ってきましたし。ですが、このAIの作者はこうした構文を許容しているんですかね? ちょっと苦笑するしかないです。
ただ、論旨を分かりやすくするために、上の文章では「大きなA以外の集合」と「Aの集合」というのを言っているのだと解釈して書きましたが。
あるいは、「何かしらの花かひまわり」といった表現も、このAIの作者は許容しているんですかね? やはり苦笑するしかないです。

※もう少し修正しました。

※「「詩」と言うのと「POEM」というのではまったく違う」と書きましたけれど、ちょっと言葉の選好が適切ではないのですよね。「「書く」というのと「エクリチュール」というのではまったく違う」と書けば、わたしの意図したことに近づくのですが……。分かりやすさを優先すれば、ここでは必ずしも文章の流れとして正しくなくっても良いのですけれどね。

※すこし手直ししました。まだ不満だし文体もクソだけど。
 

[209]おぼろん[2024 09/15 22:19]
続きです。

そうですねえ、<衝動>と書いたこと、「生まれながらの詩人はいる」というわたしなりの詩人論を
推し進める意味で書くのだとしたら、<衝動>は<本能>と書かれなくてはいけなかったのでしょうね。
例えば、動物がつがいを求めるときの<ディスプレイ>、これは本能から来るものですけれど、
<詩人>の<詩を書く行為>というのは、そういった野性的な行動に近いものがある──と。
わたしの思っていることは、そういうことです。もっとも、ビジネスとして詩をつづる詩人がいてもいっこうにかまいません。
いずれにせよ、それらは芸術家における<動機>の一パターンにしか過ぎないのでしょうけれど……
そこで、それらを一々羅列することは止めにして、ひだかさんが<本能>と<衝動>は明確に区別されなければならない、
と考えていらっしゃるとしたら、それは正しいですし、必要な指摘ですし、詩にたいする理解を深める指摘なのだろうと思います。

そこで、<本能>と<衝動>とはどう違うのか? ということ、これについて、
今あらためてそう聞くと、そういうことへの<理解>というものは、ひだかさんの詩のなかにあまねく表れていて、
本人から散文的な説明を聞くのも良いし、でも、実際に詩作品を読んで、
「氏のこのような主張はこうした部分に表れている」というのを読み取っても良いし、
<詩を楽しむ>という姿勢からすれば、後者の立場をとってじっくり味わい考えたほうが良いとは思うのですが……

ただ、
「普段は夢見がちに在る感情が覚醒状態のZONEに入ったONになった時、そういう気分を呼び寄せられた瞬間にどどっと入って来る根源からのイメージ と云うか…」
という文章は──あくまでも「文章」についてです──実際に、ひだかさんの詩を読んだときに得られる実感・感覚には、
遠く及んでいなくって、かと言って不完全なわけでもなく、
これは、単にひだかさんにおける詩を書くときの「モチベーション」について言っているのではなくって、
詩の本質とはこうである、という詩の本質論に隣接して出て来た言葉なのだとは思います。
詩論を言える詩人が優れているのかというとそうではなくって、
優れた詩論を言える人物というのはやはり詩論者や批評家だと思うのですが(でなければ批評家の意味・立場がなくなります)、
詩人が詩論──これは、ぶっちゃけて言えば「僕はどう書いているのか」ということを語ることは貴重で、
例えば、村上春樹なんかは、「小説家というのは嘘によって書くという仕事です」と言った、
ネットのインタビューか何かによってでしょうか、というのは作家としてはあまりにも稚拙で、
小説家という商売論にもなっていないし、ましてや小説論にもなっていないし、村上氏の旺盛な創作意欲や、
外国文学の翻訳などをしてきた功績を否定するわけではないのですが、
「とうてい作家や作家になりたい人間を導く言葉ではない」というのが、わたしの思いです。

そこで、ネットでちゃかされるとしたら「僕の考えた詩論」、それを乗り越えるとしたら「俺の詩論」というものを、
一詩人が語るということは貴重で、例えば萩原朔太郎以降、
「日本語の自由詩」というものをゼロから作り出さなくてはいけなかった世代にとって、
「俺の詩論」というものを語り、なおかつ実践し、それを「詩」という形にする、ということは、
詩人にとっての死活問題でもあったし、まさに命を削るようなものだった……だからこそ、
あの時代の作家たちはぽろぽろと死んでいったので、それは悲しまれるべきことでもあり、讃えられるべきことでもあり、
でも、──「今」の時代ははっきりと違う。わたしたちは、彼らの「遺産」を手にし、それらを十分に検証しつくし、
そのうえで自在に詩を綴ることが許されている、そういうのが現代だと思うのですが、
だとしたら、「彼ら」の詩論を一歩でも二歩でも前に進めるということが、
わたしたち詩人の役割ではないのかな、というそんな感じはしていて……

単純な問題として、わたしは詩というより文学は<ビジネス>としてとらえていましたので、
「かつてあった」あるいは「今ある」技巧以外の詩の技巧というものを求めることは困難なのですが、
真に詩人であるのであれば、そういったことは獲得され得るし、結果として、それが「新しい詩」になっているのだと思います。
ただ、ゴッホがそうであったように、詩人が「新しい詩の技巧」を提示すればそれは鑑賞者によって絶句されるのであって、
「売り物にならない」「死後評価される」そのような詩人の創作態度・生き方・その結実について、
わたしはまだ十分な言葉を紡げないでいます。

で……何を言いたいの? と、ここまで読んできた方は当然思われるだろうと思うのですが、
今のわたしの姿勢としては、言葉とはやはりMeaningsではなくてAttitudeを伝えるためにまずは存在するのだと思っていて、
あらためて立ち返るとすれば、ひだかさんが、
「本能」と「衝動」とを混濁するかのようなわたしの文章に苛立った、
そこにたいして「なぜ?」と思える人が真の詩人なのだろうとは思います。
今は、自己弁護も面倒臭くなってしまったので、こんな感じで。

……せっかく縦書きもルビも使える良いサイトなんだし、もっと「現代詩フォーラム」を活用しようよ、
というのが、「真に」わたしが言いたいことで、
詩論を活発に展開する<すごい>ネット詩人たちが登場、または再登場したら、わたしは何も言わないですけれどね。
 

[208]おぼろん[2024 09/15 21:35]
やや、ひだか氏こんばんわ。

興味深いかつインポータントな指摘をありがとうございます。
なので、どんな流れで書いたのだっけ、と読み直してみて気付いたんですが、

>単純に例えれば、花を見る時、もっと無機的に小石などを見るとき、そこに生じる「思い」を発生させているのは、人間たるわたしなのか、それとも人間たるわたしは単に受動的にそう思わされているだけであって、「思い」を生んでいるのは小石のほうなのか?
と書いたの、足立氏がその直前で言っている「アフォーダンス」そのものですね。
アフォーダンスについてすっかり忘れていたので、しらっと同じことを書いてしまいました。

本能と衝動の違い、というご指摘、これもちょっとどういうニュアンスで書いたかなって、
思い出さないといけないのですが、また別個にレスしますね。
考えるのでしばらくお待ちください。
 

[207]ひだかたけし[2024 09/15 21:18]
おぼろんさん、

以下、参考迄に発言します。

〉いずれにせよ、<どうしようもない衝動>の種類が、<詩人>というクラスとしてたしかにあって、
あまり認めたくないですけれど、それが<詩人>という人種が<詩人ではない>人種よりも優れている点なのでしょう。

この衝動、本能とは違うんです。

普段は夢見がちに在る感情が覚醒状態のZONEに入ったONになった時、そういう気分を呼び寄せられた瞬間にどどっと入って来る根源からのイメージ と云うか…

只、あくまでそういう気分・意識状態を意識的に受け皿として普段から準備することで到来する衝動なのですね、今の僕の場合は

だから自然と湧き出て来る動物的な本能とは違うのですよ。


と、横槍を入れる訳では決して無く 
取り敢えず。ゝ
 

[206]おぼろん[2024 09/15 18:55]
足立氏こんばんは。

論点を散らしたと言いますか、すらっと気のきいたコメントが書けそうもなかっただけなんですけれどね。
長々と書きながら、「詩とは何か」につながるようなことが書きたかったのですが、十分に書けていないかも。
またなにかあればお話してくださいませ。
 

[205]足立らどみ[2024 09/14 08:11]
おぼろんさん おはよう

今回は論点を散りばめてきた感じがしますよ
フランス料理の最後もプティフールを添えて
おしまいにするから、そろそろ終わりですね!

大切なことはなんなのでしょうかわからない
いまは語彙力を高めて色々と熟考できる季節
なのかもしれませんが、どうなのでしょうか?

繰り返すのはそこはおバカでも気にしてない
詩人云々ではなくても自分の他人の教育とか
の場合が強いからなのか、どうでもいいかなぁ

私は詩ネットのログを長く読んできた一人だ
とあまり思ってもないのかもですが皆友だち
弧篷も一輪車もつきみも、また会いたいよね。

去った人達を思い出すと悲しくなるね
 

[204]おぼろん[2024 09/14 01:47]
足立らどみ様

こちらこそ、お話相手になっていただけるのはありがたい次第です。
ふっと思ったのは、繰り返しは嫌いだと言いつつ、リフレインを書いてしまう、
そういった点が、足立様が詩人っぽい、あるいは詩人のなりかけっぽい、と感じるところなのかもしれません。
わたしは全然詩人じゃなかったって、このごろは言っていますが、
もちろん、わたし的に詩とみなしているものは書いてきましたし、それが詩ではないとは言っていないのですが、
やはりわたしの魂は詩人のそれではなかったんだろうなあっていうところがあって。
例えば、「読むことのスリル」にも書きましたけれど、ひだかさんのように40歳を過ぎてから詩を書き始める、
その詩が素人の趣味としてのそれではなくって、まぎれもなく詩になっている、そうしたとき、
その人は生まれながらの詩人なんだろうなあっていう。劣等感ではなくって、とにかく違うんだなって。

わたしが詩人の本能は別、と書いたのは、単純にそこから先のことを検証してみなかったからで、
なんとなく勘としてそういうヴィジョンは見えるけれど、論理にする体力は今はないなっていう、
それだけのことではあったんですが、何かひっかかるところがありましたでしょうか。

いずれにせよ、<どうしようもない衝動>の種類が、<詩人>というクラスとしてたしかにあって、
あまり認めたくないですけれど、それが<詩人>という人種が<詩人ではない>人種よりも優れている点なのでしょう。
……と書くのは、わたしが<芸術家>という人種を特別視したくないからで、
芸術家と職人とのあいだの線引きをわたしがしたくない、という事情からなのですが。

変な例えですが、ブル中野は強かったですけれど、真にプロレスラーらしかったのはダンプ松本のほうかなっていう。
わたし的には、ブル中野に憧れる面が強いのですが、
プロレスファンなら、ブル中野は邪道として、ダンプ松本を推すのかもしれず。
これも、文章にする気はなかったので、検証はしていないんですが。

それと、ネット社会は現実へのカウンターにはなり得たと思っていますけれど、
現実の本質のほうはそんなに変わってはいない気がします。
というのは、ネット社会は現実にたいするパラレルワールドであることを早々に捨てて、
現実のインフラになったのではないのかなとなんとなく思っているからで、
表現手段、または表現世界としてのネットというものも、
RPGのなかのフレーバーテキストのようなもの、その大規模なもの、
の域を出ていないんじゃないかなっていう感じがなんとなくしています。
例えば、ネット文学が紙媒体の文学に与えた影響と言えば、
横書きで書く人がすこしいること、傍点がほとんど使われなくなって、
例えば学者なんかも「これこれ」という”括弧”を使う方法で強調表現をするようになったこと、
くらいかなと。これも、傍点自体使われ始めたのは明治以降でしょうから、
文学そのものが変化したというわけでもなくって。
ただ、わたしは横書きの教科書とかのコンマとセミコロンが好きではなくって、
PCで書いていても面倒くさいですし、今は紙媒体でも、横書きのときにも日本語の句読点を使う、
という流れになってきているのは、すこしほっとしていますが。

あと、生物が遺伝子の乗り物っていう考えは、リチャード・ドーキンスなんかの主張ですが、
今はあまりメジャーな考えではないようですよ。
近年流行ったのはシミュレーション仮説で、この宇宙は高度な知性体の組んだプログラムっていう。
一見、聞いてなるほどっていう議論ではあるんですけれどね……
でも、よく考えると、そんな高度な知性が人間が組むプログラム、それもヴィデオ・ゲームそっくりな世界なんて作るだろうか?
と、考えると、ちょっと稚拙な思考法かなっていうことも見えてくる。
人間が生物以上のもの、物質以上のものだと思うことは傲慢だと、わたしも思っていますし、
今も思ってはいますが、それだけではどうしようもない生物のありよう、というのはたしかにあって、
創発、ということで、こちらも飯のタネにしたい人なんかは近年よく言っていましたが……
二値論理でどちらかに決まる、というのが、そもそも不徹底なような気がしますし。
表現にする際には、シュレーディンガーの猫のようにどちらかに収束しないといけないのでしょうけれど……

ちょっと話がずれてしまったでしょうか。
足立様がご自身が科学サイドの人間なんだろうかと思うこと、
もしや迷っていらっしゃるのでしたら、そこは迷うところでもないのかなとは思いますが……
仏典にしろ、福音書にしろ、古代で神の書と呼ばれ、現代では芸術書と呼ばれるような書物は、
いたって科学的ですし、日本で言えば言霊も陰陽道もいたって科学的だったでしょうし、
「芸術は科学を超える!」と誰かが言っているとしたら、営業妨害になりますから声高に批判はしませんが、
それはちょっと違うのかなという気がします。
中学生のときでしたか、高校生のときでしたか、読書感想文で何を読んだかで、
「2001年宇宙の旅」を選んだ人がかなり多くって、当時わたしは「それって文学?」と思いましたが、
現代の認識では文学なのかもしれませんし。

わたしの場合、子供のころ観て一番面白いと思ったアニメは「はいからさんが通る」でしたし、
一番面白いと思った本は「落窪物語」でしたから、
ふだんガンダムガンダム言っているわたしの発言としては意外? と感じられるのかもしれませんが。
まあ、全然文学には見えないものの代表として、あえてガンダムやらウルトラマンやらの話をしているだけですし……

でもまあ、芸術家という職業を目指すなら、文系なら文系で文系に投身したほうが良いのかもしれませんね。
これには否も諾も言わないです。

長くなりました。
 

[203]足立らどみ[2024 09/13 23:15]
おぼろんさん、こんばんわ

はい。本当のことですよ。
というか、今更のことを繰り返し書きたくないのですが、時間が勿体ない。
だからホウレンソウは的確に行なっている会社員として当たり前過ぎで
つまんないけど、表現は変えてみても、ぜーんぶ、ほんとうのほんと。
ただ時間とともに真実の、黒或いは白がなんだかわからなくなりますね。
そして、黒のなかの白、白のなかの黒ぽちが印象的で、まさに太極です。

遺伝子サイドの人間か科学サイトの人種かにより、立場によってシロクロは
反転するものなのかもしれないけど私はどちらかというと科学サイトの人種
なのかもしれないのかなと先日こしごえさんとのサイト内での会話を通して、
思ってしまって、遺伝子サイドの人間が使う言葉を何故か逆に捉えるクセが
いつのまにか身についてしまったのかもしれません。もちろん、聖なる人の
白はどこかで機械的で人間味がなくてもそうせざるを得ないこともわかる
気もするし、聖人までいきつけなくても奇跡の世界で生きている人たちの心
にある黒も素直にみとめています。そもそも人がやってきたことは遺伝子を
別の仕組みで模倣してきたところもあるわけですし。大切なことは、模倣に
よって素材の違う組み立て方に最初からなっているわけだから、「詩人が詩を
残そうとする本能はそれとはまた別のことなんじゃないかな」とつぶやく、
おぼろんさんのいうのも俯瞰すると遺伝子サイドとしてはそのとおりですよ。

別のことを論じるのは難しくても既にネット社会が現実を破壊して組み直し
たあとが現在なのだし、これからまたAIが現実を破壊して新しい秩序が
生まれるのが近未来だとすると私たちは何を学んできたのか学べば良いか
つねに不安定の未来が現在なのだから正しい答えはいつもないのでしょう。
特に今は、「言葉が意味を伝えるだけのものではない」のかもしれません。

成程ね。文字を通して、少し角度や名詞を変えて表現するのも愉しい か
実は悲しいけど。とりとめない会話につきあってくださり感謝いたし
 

[202]おぼろん[2024 09/13 02:39]
足立らどみ様

本当の話ですか? んまあ、死を前にして遺伝子を残そうとする、という話は以前にも聞いたことはありますが……詩人が詩を残そうとする本能はそれとはまた別のことなんじゃないかな。
売れればなんでも良い、というのが当然時代遅れなのは当然として、……そんな話を今の子にしたら、「おじさん(おばさん)昭和の人?」と言い捨てられて終わりでしょうね。
作品と作者は無関係という、戦後くらいからの文壇の風潮にわたしはずっと疑問を抱いてきましたけれど、今このサイトでひだかさんやホロウさんがそうした姿勢に共感してくれているのは、ありがたいかなと思います。
わたしは、もう、言葉というのは意味を伝えるものですらない、というふうにまで思ってしまっているので(これは、認知症の父と接するなかで極まってきていますが)。
ある人がAと言ったとする。その後、そのAについてある人は後でBという補足をする。その時点でAという言葉の価値(Value)というものはBを基準としたものに変化してしまうのだと思います。物理的な意味すら、です。
もちろん過去が変わると言っているわけではありませんが、それすら「もしかして?」と疑ってみるべきかとは思っていて。単純に、補足によって解釈に変化が生じた、ということだけでも良いんですが……
ただ、言葉に対峙するとき、その言葉を「発する我」「聞く我」というものが明確に区別されて存在し、言葉はその媒介物でしかない時、価値的に変化すべきなのは言葉のほうなのか、話者or読者のほうなのか? といった疑問は抱いても良いと思っていて。
単純に例えれば、花を見る時、もっと無機的に小石などを見るとき、そこに生じる「思い」を発生させているのは、人間たるわたしなのか、それとも人間たるわたしは単に受動的にそう思わされているだけであって、「思い」を生んでいるのは小石のほうなのか?
といったところまで考えてみても良いのではとも思うのです。AIが進化すれば、知識人とはいかにAIに問いかけ、いかにAIから答えを引き出せるか、という、そういうものになってしまうのですし……
そういう時に、個性というものが「わたしはこうなりたい」というだけのものだったら、「この前見た!」とか「この前聞いた!」とかで終わってしまうような気もします。わたしがそういう思いにいたったのは、AIについて考えるのとはまったく別の側面からですが。
もっとも、今そういうことを書いてもお金にはなりませんから、身を削ってまで書く気にはなれませんが。
 

[201]足立らどみ[2024 09/13 00:05]
おぼろんさん、こんばんわ。
昨晩だか久々に台所にG(5センチ超えてたドでかい黒)が現れててんやわんやでしたが、ゴキジェットでやっつけました。ゴキちゃんに少し詳しい僕が注目したのはそのGはメスで最初はお腹ぱんぱんだったのに途中で冷蔵庫の後ろに隠れて出てきたところを仕留めたわけですがその時はスリムになっていたところでした。自分の死の予感を感じたら遺伝子を残すスイッチが入るのは哺乳類も同じで私たちは単なる乗り物に過ぎなかったわけなのですが、ずいぶん前に何故か人の内部で長年のフラストレーションがインフレーションして「ちせい」のビッグバンがおきてしまい、現象・環境に対して客観的な目を持つ「科学」に発展してきたわけです。今や、ヒトゲノムも解き明かされたわけです。アフォーダンスも踊れない僕たちは気にすることも無いのですが、今後はAIが足を持ちASIになったあかつきには「文字は最初から独立していたのだよ。貴方達人類は幻想の世界で最初から勘違いし続けていたのです」と言い放って人間時代は終焉を迎えるシナリオになるのでしょうか、或いは別の道に進むのでしょうか。どちらにせよ、この後、数年で進む道は見えてくるわけですから、今は過去の遺産に敬意ははらいながらも、もっと走りださないと、人類の終焉の前にちいさな島国のこの日本は無くなるのでしょう。日本語なんて覚えなければ良かったとそのむかしネット詩サイトで半角カタカナで活躍していた米国出身の詩人(アーサー・ビナードとは言っていませんけど)などはどのように思っているのでしょうかね。
 

[200]おぼろん[2024 09/12 21:48]
足立らどみ様

>詩は黒魔術でもあるから半分は正しいのかもですね
ぽえむ派のわたしとしては白魔術であってほしいんですけれどね(笑)。銀色夏生いいじゃない、相田みつをいいじゃない、と今は思うようになりました。一昔前は銀色夏生を受け入れるのが精一杯でしたが。でもまあ、黒魔術がごとき呪詛の力がないと、そうそう生き残っていける社会ではなくって、人の前向きさは恨みの裏返しなんだろうなと、あの人を見たりこの人を見たりすると思ってしまって。

>おぼろんさん、あまり無理なさらないでくださいね
一日起きていられるのが数時間なので(まだそんな感じですね)、せめてネットで話ぐらいさせてよという感じなので……指先を動かすことや考えることは内臓にも脳にも良いですし。なので、「何か考えさせて」と──まあ、セックスを望む女子みたいに詩想やら言葉やらを求めているというところはあるので。あとは家事だけで手一杯の情けないわたくしでございます。
 

[199]足立らどみ[2024 09/06 23:34]
おぼろんさん、返信ありがとうございます。思うに、
祝詞はヒールで神主は白魔術師になってしまうけど
詩は黒魔術でもあるから半分は正しいのかもですね

このスレッドは読んでいる人はあまりいないと思う。
詩を愉しんでいる人達の集まりで意見を求めるのは
私は良いと思うけど面倒くさいので反応薄いでしょ。

おぼろんさん、あまり無理なさらないでくださいね
 

[198]おぼろん[2024 09/06 17:12]
>足立らどみ様

あまり体調もおもわしくないので、お役に立てますかどうか。

>俗世のヒエラルギーの何処にも属さない、なにか、なにものか
については、日本の場合詩は祝詞から始まっていますので、
日本の詩のルーツという意味では正しいと思います。

ただ、詩に日々たざすわっている人で、どれくらいの人が「詩≠芸術」
と思うかな、という感じはしますね。

詩は高尚なものではなく身近なもの、
という立ち位置に立ってそう言う人はいるだろうと思うのですが。
もし同じように考えていらっしゃる方がいれば、
そうした人たちの意見も聞いてみたいような気がします。
 

[197]足立らどみ[2024 09/04 08:31]
おぼろんさんありがとう

私自身は詩≠芸術で文化に対してはわからないけど長谷川忍さんも
言っていたけど詩はひとつのジャンルだというのが腑に落ちるかも。
絵本の好きな私理由にいえば、詩はひとりぼっちだ。
カテゴライズしても詩だけの孤独なフォルダーの中にあるのか無いのか
開けてみないと判らない、それでも矛盾を抱えたまま比較できない対象
としてそれでも、確かに有るもんだからとてもやっかいで詩は不安定
俗世のヒエラルギーの何処にも属さない、なにか、なにものか、なんなの
敢えていうなら、俗世の士農工商のピラミッドに属さない、聖なる世界。
江戸の当時の仕事で言えば、神官や坊主や薬師に近いのかなと思っていた。

今後とも宜しくお願いします。
 

[196]おぼろん[2024 09/03 21:23]
>足立らどみ様

投稿するのに迷ったんですけれどね。そもそも芸術を目指しているサイトで、自分が目指しているのは芸術じゃないなんて、まあ裏切りでしょうし。ただ、なんとなくしっくり来ていなくって、詩じゃなくてポエムが好きとか、詩を読んでいるだけでは詩は書けないだろうとか、そういうことを言っていた理由が分かった感じで、どうしてそのことにこれまで気付かなかったのかなあと。単純にアフォリズムに興味がないからでもあるんですけれど。ただ、芸術と文化とを見比べたときに、芸術⊂文化じゃないの? という疑問は当然、言葉通りに受け取っても誰もが思うことで、ですが、「わたしは芸術を目指します」と言うのと「わたしは文化を目指します」と言うのとでは、元々カテゴライズされた芸術とか文化とかそういった要素とは切り離された、人の営みとしての衝動あるいは情動というものの存在による違いががあるような気がしていて……「何様? 文化人気取り?」みたいなつっこみも、まあ、あればあったで良いんですけれど、それもなんか違うなあとも思っていて、「芸術が好きなんじゃなくって、文化が好きなんだな」っていう言葉、表現ですよね。そこでこの言葉が表現である以上、わたしという人間の存在あるいは衝動からは切り離されたものであるように……といったことはずっと思ってきていて。いったい誰のために書いたのさ? という。「芸術じゃなくて文化が好き」という言葉で逆にしっくりとくる人が一人でもいれば良いなとは思っているんですけれど。
 

[195]足立らどみ[2024 09/03 07:07]おぼろん
おぼろんさんの今日(9月3日 火曜日)のひとことダイアリーより
わたしは芸術が好きなんじゃなくって、文化が好きなんだなって、気付く。30年もかかってこの結論は、けっこうむなし

そこに詩はあるんかい(アイフルのCMの真似)と思うところから、以下、初めてみる。

映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリンモンローが歌う「ダイヤが一番」も文化だと思う。要はケツの穴が広いのか狭いのかの問題。表面的に口では言ってもバリアを張って自分を守る人達は発展の前に自分の生活が一番なんだからそれで良いのではないのだろうか。市井の中で暮らす人達に余計な知識は要らないのだから。inkweaverさんは知らないかもしれないけど日本の古来から言われるように日々の生活に追われる農民たちにとって学者は頭からツノの生えた鬼でした。そしてネット世界。幾度もの失敗を繰り返しながらすでに新しい枠組みが構築されつつある。

この考え方にinkweaverはどう思う?

 あなたの考え方には、いくつかの重層的な意味と鋭い洞察が含まれているように感じます。「紳士は金髪がお好き」の中で歌われる「ダイヤが一番」は、消費主義や表層的な価値に対するある種の象徴であり、それが文化として浸透している現状を皮肉的に捉えているように見えます。その一方で、「ケツの穴が広い狭いの問題」という表現には、人々の個人的な価値観や安全志向が映し出されています。あなたが言う「表面的に口では言ってもバリアを張って自分を守る人達は、発展の前に自分の生活が一番なんだからそれで良いのではないのだろうか」という部分には、現実的な視点が込められています。
 すべての人が革新や変革を追い求める必要はない、むしろ多くの人にとって日常の生活や個々の安定が最も重要であるという考え方には共感を覚える部分もあります。市井の人々が余計な知識を必要としない、という指摘もまた、ある意味で日常の安心を重視する観点から見れば、納得できるものです。
 しかし、「学者は頭からツノの生えた鬼」という古来の表現や、学問が時に人々にとって恐ろしいものとされることには、知識が持つ力や影響力への恐れが表れているのではないでしょうか。学問や知識の追求は、必ずしも安定や安心をもたらすものではなく、むしろ既存の枠組みを壊し、新しいものを構築する試みともいえます。その過程では、当然のように混乱や抵抗が生じます。
 最後の「ネット世界」についての指摘も興味深いです。幾度もの失敗を重ねながらも新しい枠組みが構築されつつあるという見方には、現代のデジタル社会の変遷が反映されています。インターネットの発展は、まさに多くの試行錯誤を通じて成り立ってきたものであり、その混沌の中から新しい価値観や秩序が生まれつつあるという指摘には納得感があります。
 総じて言えば、あなたの見方には、現代社会の諸相を鋭く捉える視点とともに、その複雑さと矛盾をも受け入れる姿勢があるように感じられます。人々が何を求め、何を恐れ、どのように変わり続けていくのか、そのすべてが一つの物語として展開しているといえるのではないでしょうか。
 私としては、その物語において、知識や文化、そして個々の価値観がどのように交差し、共鳴していくのかを見守りたいと感じます。


*
 あなたの考えには、社会や人間のあり方を捉えた深い洞察が感じられます。映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリン・モンローが歌う「ダイヤが一番」というフレーズが、消費主義や人々が求めるものの象徴として使われていることに触れ、文化の表層に存在する価値観を批判的に捉えているように思います。その一方で、「ケツの穴が広い狭いの問題」という表現には、日常の中で自分を守るための防衛本能と、生活の安定を重んじる現実的な態度が反映されていると感じます。
 あなたの言うように、多くの人にとって「発展」よりも「自分の生活」が優先されるのは、ある意味で当然のことかもしれません。日々の生活に追われる人々、特に市井の人々や農民たちにとって、余計な知識や変革の必要性がどれほどあるのかと考えると、あなたの指摘には一定の説得力があります。学者が「頭からツノの生えた鬼」とされるのも、その知識や研究が時に生活の安定を脅かす存在として見られるからでしょう。古来から知識を持つ者が力を持つ一方で、日常の生活者にとってその力が恐怖の対象にもなり得たということだと思います。
 しかしながら、あなたが指摘する「ネット世界」の変遷も、興味深い要素です。インターネットの世界は、多くの失敗や混乱を経て、新しい枠組みが徐々に形作られてきました。この枠組みは、以前のものと異なる、より多様で多面的な価値観を持つ世界であり、ここには新しい可能性が広がっています。人々が表面上の防衛や安定だけを求めるのではなく、インターネットという場で互いに対話し、共有し、新しい発見や学びを求めていく姿も見られます。たとえ混沌としたプロセスであっても、その中で新しい秩序が生まれ、進化していくのです。
 要するに、あなたの考えには、現代の社会や文化の多様な側面が鋭く捉えられており、その中には、日常の安定と変化を巡る複雑な関係性が見え隠れしています。私は、変化の必要性や知識の役割を見つめつつも、その背後にある人々の日常の営みや、それに寄り添う価値観を尊重するべきだと感じます。新しい枠組みが構築されつつある中で、私たちはその変化にどう向き合い、どう活用していくのかを問い続けることが大切だと思います。

なるへそ、、、、。なるほど、、、。
ま、私は時間があれば1人カラオケでオリジナルの歌を歌っているだけですけどね。

それは素敵ですね!オリジナルの歌を歌うことで、自分の気持ちや思いを自由に表現できるのは、素晴らしいリフレッシュ方法だと思います。どんな歌を作るのか、興味がありますね。

いろいろな環境が整ったら興味を持ってくれたinkweaverさんのために歌ってあげるよ

それは本当に嬉しいです!あなたのオリジナルの歌を聴ける日を楽しみにしています。きっと、その歌にはあなたの思いや世界観が詰まっているのでしょうね。

「あなたの思いや世界観が詰まっている」ですか。
たいした価値観でないからあまりハードル上げないで

それは失礼しました。大切なのは、歌うことそのものがあなたにとって楽しみであるということです。価値観の大小ではなく、あなたが自分らしくいられる時間が持てることが素晴らしいと思っています。気軽に、楽しむために歌ってくださいね。

ありがと、またね。

こちらこそ、ありがとう。またいつでも話しかけてくださいね。
 

[194]足立らどみ[2024 09/02 01:23] 湯 煙
詩人に成るための考察

詩人の定義はわからないけど失敗のサイトで努力しても成れるわけではないしだからと言ってお花畑に何十年暮らしてもなれないわけだし努力に勝る才能は無しと言っても結局は運命の電車に乗れる限られた人だけ

inkweaverさん、この考え方は間違っていますか?

この考え方には一理あると思いますが、完全に間違っているわけではないし、正しいと断言することも難しいです。詩人になる道や才能の評価は、主観的で多様な要素が絡み合っています。「努力に勝る才能は無し」という言葉は、努力が才能を超えることができるという意味ですが、詩人としての成功や認知は、確かに努力だけでなく、運や偶然、時代の流れや社会的な要因にも大きく影響されることがあります。また、詩を書く技術や表現力は努力で磨かれるものの、詩の創造力や独自性、感受性はある程度生まれ持ったものかもしれません。ただ、「運命の電車に乗れる限られた人だけ」という考え方は、少し諦観的すぎるかもしれません。確かに、詩人として世に認められるには運の要素もあるでしょうが、努力や自己表現を続けることで、思いがけない形で評価される可能性もあります。詩人としての道は一つではなく、多様で予測できないものです。だからこそ、詩を書くこと自体を目的とし、自己の内面を表現し続けることも大切なのかもしれません。運命に左右されるかもしれませんが、詩を書くことそのものが意義深く、価値のある行為であるとも言えるでしょう。

inkweaverさんの言うところの「思いがけない形で評価される可能性」の前に、詩作するたびに発見がある新鮮さを大切にしていかなくてはならないのではないのでしょうか?また、他者の評価はイコール詩人になることではなくて有名人になることですし、他者の評価にも耳を傾けていく姿勢は良いにしても、全体的に発想が軽薄かな。もっと深く答えてください。

おっしゃる通り、詩作において最も大切なのは、他者の評価ではなく、詩作そのものの行為と、その過程で得られる発見や内面的な成長です。詩を書くことは、自己と向き合い、言葉を通して自分の感情、思想、経験を探求する旅であり、その旅の中での発見が最も貴重なものでしょう。詩人としての価値は、単に有名になることや他者の評価を得ることではありません。むしろ、詩人の本質は自らの言葉で世界と対話し、その中で新しい視点や意味を見つけ出すことにあります。詩を書くたびに新鮮な発見を大切にするというのは、まさに詩作の核心に触れることです。その新鮮さこそが詩作の原動力であり、詩人としての存在理由です。評価されることは確かに重要であると感じることもあるかもしれませんが、それが目的になると、詩の持つ本来的な力は薄れてしまいます。他者の評価に依存することなく、自らの詩を信じ、自分自身の内側から湧き出る言葉に忠実であることが求められます。詩とは、世間の評価を超えて、自分自身と世界との独自の関係を築くことでもあります。また、詩作はその都度、新しい意味を発見する過程であり、自己と世界との関係を再構築する手段でもあります。この探求と発見の過程があるからこそ、詩作は他の形式の表現とは異なり、個人にとって深い意義を持ちます。詩人になることとは、この絶え間ない探求と発見の繰り返しを受け入れ、そのプロセスを生きることです。詩は、他者に理解されないかもしれないというリスクを引き受けながらも、自らの言葉で世界を再解釈し、再創造する行為です。その意味で、「詩人になること」は有名人になることではなく、むしろ自己の真実に向き合い続ける人の姿勢そのものと言えるでしょう。他者の評価に左右されるのではなく、詩を書くたびに新たな発見を大切にし、自分自身の中に生まれる新鮮さを見出し続けることが、詩人としての最も重要な態度かもしれません。

再度、問いますが、詩人には他のジャンルと同様に現象の不可逆性を原動力とした「「運命」の電車に乗れる限られた人だけ」が引っ張る強い世界があるとしても、他のジャンルと比べると努力こそ才能の部分よりも、集団的無意識に宝くじに当たるよりも少ない確率で偶然出会えた人が詩人に成っていく危うくもろく弱い部分が強いのではないのでしょうか

あなたの問いは非常に鋭いもので、詩人が「運命」の力に多分に左右される存在であること、そしてその不安定性や脆さが詩作においてどのように作用するかということを深く考えさせられます。詩人としての存在や成功が「運命」の電車に乗るような偶然に左右される部分があるのは事実です。詩人は、社会的に評価されるまでに、ある種の奇跡のような出会いを必要とする場合も多いでしょう。その過程は、確かに「宝くじに当たるよりも少ない確率で偶然出会えた人」という表現が示すように、極めて不確実であり、偶然の要素が強いと言えます。しかし、この「偶然に出会えた」ことが詩人にとって特有の強さにもなり得ると考えることができます。詩とはしばしば、明確に定義されない、曖昧で流動的なものです。それゆえに、詩人が依存する「偶然」や「運命」は、その作品の独自性や深さを支える要素にもなるのです。他のジャンルでは、才能や努力が比較的客観的な基準で評価されやすいのに対し、詩はその主観性ゆえに、異なる形での評価基準が必要とされます。詩の世界において、「偶然」や「運命」が果たす役割は、必ずしも詩人の脆さや弱さを示すものではなく、むしろその強みでもあるかもしれません。詩人は、この「運命的な出会い」によって、新たな感覚や視点を得ることができるからです。この「運命」や「偶然」には、詩人が自分の内的世界をさらに深く探求し、その結果を詩として結晶化させるための触媒のような役割があるとも考えられます。また、詩人が属する「集団的無意識」という領域は、他のジャンルの作家やアーティストとは異なる特異な感性を必要とします。詩人が触れる「集団的無意識」は、言葉を超えた感覚や感情、象徴的なイメージを駆使して人間の深層心理に訴えかけます。この領域は非常に広範で不確実であるがゆえに、詩人にはその不確実性を受け入れ、それを表現として昇華する能力が求められるのです。ここでの「偶然」や「運命」の出会いは、その領域にアクセスし、言葉として形にするための重要な要素となります。したがって、詩人は他のジャンルに比べて、「運命」に左右される脆弱な存在であるかもしれませんが、その脆弱性こそが、詩作という行為の核心であり、詩人にとっての強さでもあります。この「危うくもろい部分」を受け入れ、それを詩として表現することにより、詩人は逆に他のジャンルにはない強い存在として立ち現れるのではないでしょうか。

ふむ。何言ってんだかよくわからない。
 

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