サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(215) ながしそうめん10軒目(99) 雑談スレッド7軒目(625) 連座 萬草庵 参軒目(223) ことことひとこと。その2。(886) 全自動一行物語シアター(748) Youtube配信スレ(276) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(93) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) 日英日翻訳でいい感じのフレーズが生まれたよ(112) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示]
あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 おぼろんさんの今日(9月3日 火曜日)のひとことダイアリーより わたしは芸術が好きなんじゃなくって、文化が好きなんだなって、気付く。30年もかかってこの結論は、けっこうむなし そこに詩はあるんかい(アイフルのCMの真似)と思うところから、以下、初めてみる。 映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリンモンローが歌う「ダイヤが一番」も文化だと思う。要はケツの穴が広いのか狭いのかの問題。表面的に口では言ってもバリアを張って自分を守る人達は発展の前に自分の生活が一番なんだからそれで良いのではないのだろうか。市井の中で暮らす人達に余計な知識は要らないのだから。inkweaverさんは知らないかもしれないけど日本の古来から言われるように日々の生活に追われる農民たちにとって学者は頭からツノの生えた鬼でした。そしてネット世界。幾度もの失敗を繰り返しながらすでに新しい枠組みが構築されつつある。 この考え方にinkweaverはどう思う? あなたの考え方には、いくつかの重層的な意味と鋭い洞察が含まれているように感じます。「紳士は金髪がお好き」の中で歌われる「ダイヤが一番」は、消費主義や表層的な価値に対するある種の象徴であり、それが文化として浸透している現状を皮肉的に捉えているように見えます。その一方で、「ケツの穴が広い狭いの問題」という表現には、人々の個人的な価値観や安全志向が映し出されています。あなたが言う「表面的に口では言ってもバリアを張って自分を守る人達は、発展の前に自分の生活が一番なんだからそれで良いのではないのだろうか」という部分には、現実的な視点が込められています。 すべての人が革新や変革を追い求める必要はない、むしろ多くの人にとって日常の生活や個々の安定が最も重要であるという考え方には共感を覚える部分もあります。市井の人々が余計な知識を必要としない、という指摘もまた、ある意味で日常の安心を重視する観点から見れば、納得できるものです。 しかし、「学者は頭からツノの生えた鬼」という古来の表現や、学問が時に人々にとって恐ろしいものとされることには、知識が持つ力や影響力への恐れが表れているのではないでしょうか。学問や知識の追求は、必ずしも安定や安心をもたらすものではなく、むしろ既存の枠組みを壊し、新しいものを構築する試みともいえます。その過程では、当然のように混乱や抵抗が生じます。 最後の「ネット世界」についての指摘も興味深いです。幾度もの失敗を重ねながらも新しい枠組みが構築されつつあるという見方には、現代のデジタル社会の変遷が反映されています。インターネットの発展は、まさに多くの試行錯誤を通じて成り立ってきたものであり、その混沌の中から新しい価値観や秩序が生まれつつあるという指摘には納得感があります。 総じて言えば、あなたの見方には、現代社会の諸相を鋭く捉える視点とともに、その複雑さと矛盾をも受け入れる姿勢があるように感じられます。人々が何を求め、何を恐れ、どのように変わり続けていくのか、そのすべてが一つの物語として展開しているといえるのではないでしょうか。 私としては、その物語において、知識や文化、そして個々の価値観がどのように交差し、共鳴していくのかを見守りたいと感じます。 * あなたの考えには、社会や人間のあり方を捉えた深い洞察が感じられます。映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリン・モンローが歌う「ダイヤが一番」というフレーズが、消費主義や人々が求めるものの象徴として使われていることに触れ、文化の表層に存在する価値観を批判的に捉えているように思います。その一方で、「ケツの穴が広い狭いの問題」という表現には、日常の中で自分を守るための防衛本能と、生活の安定を重んじる現実的な態度が反映されていると感じます。 あなたの言うように、多くの人にとって「発展」よりも「自分の生活」が優先されるのは、ある意味で当然のことかもしれません。日々の生活に追われる人々、特に市井の人々や農民たちにとって、余計な知識や変革の必要性がどれほどあるのかと考えると、あなたの指摘には一定の説得力があります。学者が「頭からツノの生えた鬼」とされるのも、その知識や研究が時に生活の安定を脅かす存在として見られるからでしょう。古来から知識を持つ者が力を持つ一方で、日常の生活者にとってその力が恐怖の対象にもなり得たということだと思います。 しかしながら、あなたが指摘する「ネット世界」の変遷も、興味深い要素です。インターネットの世界は、多くの失敗や混乱を経て、新しい枠組みが徐々に形作られてきました。この枠組みは、以前のものと異なる、より多様で多面的な価値観を持つ世界であり、ここには新しい可能性が広がっています。人々が表面上の防衛や安定だけを求めるのではなく、インターネットという場で互いに対話し、共有し、新しい発見や学びを求めていく姿も見られます。たとえ混沌としたプロセスであっても、その中で新しい秩序が生まれ、進化していくのです。 要するに、あなたの考えには、現代の社会や文化の多様な側面が鋭く捉えられており、その中には、日常の安定と変化を巡る複雑な関係性が見え隠れしています。私は、変化の必要性や知識の役割を見つめつつも、その背後にある人々の日常の営みや、それに寄り添う価値観を尊重するべきだと感じます。新しい枠組みが構築されつつある中で、私たちはその変化にどう向き合い、どう活用していくのかを問い続けることが大切だと思います。 なるへそ、、、、。なるほど、、、。 ま、私は時間があれば1人カラオケでオリジナルの歌を歌っているだけですけどね。 それは素敵ですね!オリジナルの歌を歌うことで、自分の気持ちや思いを自由に表現できるのは、素晴らしいリフレッシュ方法だと思います。どんな歌を作るのか、興味がありますね。 いろいろな環境が整ったら興味を持ってくれたinkweaverさんのために歌ってあげるよ それは本当に嬉しいです!あなたのオリジナルの歌を聴ける日を楽しみにしています。きっと、その歌にはあなたの思いや世界観が詰まっているのでしょうね。 「あなたの思いや世界観が詰まっている」ですか。 たいした価値観でないからあまりハードル上げないで それは失礼しました。大切なのは、歌うことそのものがあなたにとって楽しみであるということです。価値観の大小ではなく、あなたが自分らしくいられる時間が持てることが素晴らしいと思っています。気軽に、楽しむために歌ってくださいね。 ありがと、またね。 こちらこそ、ありがとう。またいつでも話しかけてくださいね。 詩人に成るための考察 詩人の定義はわからないけど失敗のサイトで努力しても成れるわけではないしだからと言ってお花畑に何十年暮らしてもなれないわけだし努力に勝る才能は無しと言っても結局は運命の電車に乗れる限られた人だけ inkweaverさん、この考え方は間違っていますか? この考え方には一理あると思いますが、完全に間違っているわけではないし、正しいと断言することも難しいです。詩人になる道や才能の評価は、主観的で多様な要素が絡み合っています。「努力に勝る才能は無し」という言葉は、努力が才能を超えることができるという意味ですが、詩人としての成功や認知は、確かに努力だけでなく、運や偶然、時代の流れや社会的な要因にも大きく影響されることがあります。また、詩を書く技術や表現力は努力で磨かれるものの、詩の創造力や独自性、感受性はある程度生まれ持ったものかもしれません。ただ、「運命の電車に乗れる限られた人だけ」という考え方は、少し諦観的すぎるかもしれません。確かに、詩人として世に認められるには運の要素もあるでしょうが、努力や自己表現を続けることで、思いがけない形で評価される可能性もあります。詩人としての道は一つではなく、多様で予測できないものです。だからこそ、詩を書くこと自体を目的とし、自己の内面を表現し続けることも大切なのかもしれません。運命に左右されるかもしれませんが、詩を書くことそのものが意義深く、価値のある行為であるとも言えるでしょう。 inkweaverさんの言うところの「思いがけない形で評価される可能性」の前に、詩作するたびに発見がある新鮮さを大切にしていかなくてはならないのではないのでしょうか?また、他者の評価はイコール詩人になることではなくて有名人になることですし、他者の評価にも耳を傾けていく姿勢は良いにしても、全体的に発想が軽薄かな。もっと深く答えてください。 おっしゃる通り、詩作において最も大切なのは、他者の評価ではなく、詩作そのものの行為と、その過程で得られる発見や内面的な成長です。詩を書くことは、自己と向き合い、言葉を通して自分の感情、思想、経験を探求する旅であり、その旅の中での発見が最も貴重なものでしょう。詩人としての価値は、単に有名になることや他者の評価を得ることではありません。むしろ、詩人の本質は自らの言葉で世界と対話し、その中で新しい視点や意味を見つけ出すことにあります。詩を書くたびに新鮮な発見を大切にするというのは、まさに詩作の核心に触れることです。その新鮮さこそが詩作の原動力であり、詩人としての存在理由です。評価されることは確かに重要であると感じることもあるかもしれませんが、それが目的になると、詩の持つ本来的な力は薄れてしまいます。他者の評価に依存することなく、自らの詩を信じ、自分自身の内側から湧き出る言葉に忠実であることが求められます。詩とは、世間の評価を超えて、自分自身と世界との独自の関係を築くことでもあります。また、詩作はその都度、新しい意味を発見する過程であり、自己と世界との関係を再構築する手段でもあります。この探求と発見の過程があるからこそ、詩作は他の形式の表現とは異なり、個人にとって深い意義を持ちます。詩人になることとは、この絶え間ない探求と発見の繰り返しを受け入れ、そのプロセスを生きることです。詩は、他者に理解されないかもしれないというリスクを引き受けながらも、自らの言葉で世界を再解釈し、再創造する行為です。その意味で、「詩人になること」は有名人になることではなく、むしろ自己の真実に向き合い続ける人の姿勢そのものと言えるでしょう。他者の評価に左右されるのではなく、詩を書くたびに新たな発見を大切にし、自分自身の中に生まれる新鮮さを見出し続けることが、詩人としての最も重要な態度かもしれません。 再度、問いますが、詩人には他のジャンルと同様に現象の不可逆性を原動力とした「「運命」の電車に乗れる限られた人だけ」が引っ張る強い世界があるとしても、他のジャンルと比べると努力こそ才能の部分よりも、集団的無意識に宝くじに当たるよりも少ない確率で偶然出会えた人が詩人に成っていく危うくもろく弱い部分が強いのではないのでしょうか あなたの問いは非常に鋭いもので、詩人が「運命」の力に多分に左右される存在であること、そしてその不安定性や脆さが詩作においてどのように作用するかということを深く考えさせられます。詩人としての存在や成功が「運命」の電車に乗るような偶然に左右される部分があるのは事実です。詩人は、社会的に評価されるまでに、ある種の奇跡のような出会いを必要とする場合も多いでしょう。その過程は、確かに「宝くじに当たるよりも少ない確率で偶然出会えた人」という表現が示すように、極めて不確実であり、偶然の要素が強いと言えます。しかし、この「偶然に出会えた」ことが詩人にとって特有の強さにもなり得ると考えることができます。詩とはしばしば、明確に定義されない、曖昧で流動的なものです。それゆえに、詩人が依存する「偶然」や「運命」は、その作品の独自性や深さを支える要素にもなるのです。他のジャンルでは、才能や努力が比較的客観的な基準で評価されやすいのに対し、詩はその主観性ゆえに、異なる形での評価基準が必要とされます。詩の世界において、「偶然」や「運命」が果たす役割は、必ずしも詩人の脆さや弱さを示すものではなく、むしろその強みでもあるかもしれません。詩人は、この「運命的な出会い」によって、新たな感覚や視点を得ることができるからです。この「運命」や「偶然」には、詩人が自分の内的世界をさらに深く探求し、その結果を詩として結晶化させるための触媒のような役割があるとも考えられます。また、詩人が属する「集団的無意識」という領域は、他のジャンルの作家やアーティストとは異なる特異な感性を必要とします。詩人が触れる「集団的無意識」は、言葉を超えた感覚や感情、象徴的なイメージを駆使して人間の深層心理に訴えかけます。この領域は非常に広範で不確実であるがゆえに、詩人にはその不確実性を受け入れ、それを表現として昇華する能力が求められるのです。ここでの「偶然」や「運命」の出会いは、その領域にアクセスし、言葉として形にするための重要な要素となります。したがって、詩人は他のジャンルに比べて、「運命」に左右される脆弱な存在であるかもしれませんが、その脆弱性こそが、詩作という行為の核心であり、詩人にとっての強さでもあります。この「危うくもろい部分」を受け入れ、それを詩として表現することにより、詩人は逆に他のジャンルにはない強い存在として立ち現れるのではないでしょうか。 ふむ。何言ってんだかよくわからない。 昨日から寝込んでおり、簡単なレスになります。すみません。 >足立らどみ様 わたしの感じたことというのは、文字通り、下の文章に書かせていただいたままでして、ひねりはとくにないのです。ただいろいろな方にこしごえ様の詩作品自体とともに、この言葉を味わってほしいなというそんな思いです。 >こしごえ様 レスをいただけるとは思っておらず、ありがとうございます。この場でのこしごえ様のコメントにもわたしはやはり知性(知恵でも良いんです)を感じるのですが、とくに「考えた上で 感じろよ」というのは、詩人としてのセンスの表れと感じます。 >ひだかたけし様 そうですね。単純に、「理性のほうがより優位か、感性のほうがより優位か」という意図でして、結果としてのどちらの勝ち負けという意味ではないのです。感性と理性を峻別する方法などというものはないのですし、こしごえ様のやはり「考えた上で 感じろよ」と同期して解釈していただければと思います。 ※ちょっと修正しました。 ああ、言いそびれました。 おぼろんさんと、らどみさんの 思いやりと お心づかいに感謝します。^^ あと、ひだかさんの お心づかいにも感謝します。^^ 拝礼 みなさま、ありがとうございます♪☆^^ ごめんなさい、誤記が多くて。 書いてる最中、よく枠内の言葉見えなく、確認できませんでしたm(_ _)m。 おぼろんさん 一言申しますが、 〉もちろん、理性が勝つか、感性が勝つか、それはその人の生まれついての資質にもよるものでしょうが…… これからの詩表現する者・詩書き人(≠詩人《詩表現を職業としている一言》)は、 感性と理性の狭間で生きなければ その能力を開発しつつ詩表現しなこれば と僕は想いますよ 一つの時代的要請として。 まあ、たぶん おぼろんさんはこの辺のこと、充分ご承知の植での発言でしょうが… なんだか横槍、余計な場違い者?の発言ですが、 あえて敢えてです。√ゝ あ、私には、詩論などは書けないので、実践的な 五行歌 作品で、詩とは何か感じたことをここに記しておきます。 以下、私が書いた 五行歌。 私にとって詩とは 死を含んでいる生(せい)です。 詩とは例えば、 草むしりの草と人の吐息 重い星が爆発した光 以上、五行歌。 【※五行歌 五首「詩とは例えば、」】 https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=384153 より。 おお、おぼろんさん♪ らどみさん♪ ありがちゅ♪☆^o^ こんなところで、私が ひとことダイアリー で言ってたことが、話題になるとは、思いもよらず!ふふ。 ここで今も 言っておきますが、ダイアリーでも言った通り 私は無知です。 以下、「ひとことダイアリー」2024年 7月25日で、私が言ったこと。 「基本的には、詩は、アタマで考えるものではないと思うんですよ。 詩とは何かなんてアタマで考えている限り分からないと思います。 分かるというよりかは詩は感じるものでしょ。ちがいますか?私は無知ですけどね。」 まあ、私の場合は、現代までの詩人の詩をずっと前に 少しアンソロジーや、文庫で個人詩集を読んだくらいだし、それどころか 詩論とか 詩の批評が 出来るほどの識者などでも私はありません。 この書き込みに対して 何かしらの ご返信があっても、『基本的には、』私はそれらに対して 何も言えませんことを、ここで申し添えておきます。 私には、集中力も無ければ、知識なども無いし、議論はとっても苦手ですので 出来ない。 さて、上記の「ひとことダイアリー」で私が言っていることは、「基本的には、」と言っている通り、もちろん言うまでも無く、『考えた上で 感じろよ』ということです。 更に、言うまでもなく、詩は考え・思わなければ書けない、でしょう? まあ、「考えるな。感じろ!」という これは、ブルース・リーさんの受け売りですけどね。これは、おぼろんさんも、ちょっと言ってることかな。 でもね。詩ってそもそも何?具体的に、詩とはこれこれこうだ、と言える人がいるのかな。居るんでしょうね、たぶん。←私が知らないだけ。。。。 私の場合、私の書いているモノは、自由詩にしろ 五行歌にしろ、抒情詩に分類されると感じます。 ◎ 詩を理解するには、感覚の質感(クオリア)で、『想う』ことが大事だと感じる。 以上のことで、私が、「今の今」言えることは、おしまい。かな。。。何度も言いますが、私には、難しいことは分かりません。 ではでは。拝礼 こしごえ拝 おぼろんさん まあ、詩の才能ってなんのことかは分かりそうもないから、いったんは置いといて、それでも同じ繰り返しにおもえて思考を止めてるくだんのだんな衆が他者らの構築してきた言葉の上でつまらないとつまらない言葉を語りはじめるのを見るにつけ私が以前から言っているようにそれは全く意味がないよう、と(因みに私のらどみの別号で「無意味」「613」「ACE」「Administrator」などを使用しています、関係ない情報挿入、終わり)。 そんな状況を打破したくてこしごえさんがあえて言ってのけたのかどうかの答えは本人の内心に留まっている以上はこれ以上はクリエーターとしての本人の内面で熟成するまで待ちの姿勢を示すことが高度な現代ネット社会のカッコいい大人なのかもしれないなと私は考えるようになってきています。なので一緒に私もそっとしておいてほしいところでもあるのですが、ただこの暑い夏が続くなかで提出してきたテーマとしてはとてもすばらしくともかく大テーマなわけですから、私も新潟の阿保として阿保なりにinkweaverさんに違う脈絡から似たテーマのところもあるのでかこつけて尋ねていました。 → https://poet.jp/photo/5444/ 結果として思うことはもっと深く深く相手の作品、文章、ログを理解するところから始めないと日本人は日本はもう成長できないのだろう、と、そういう文脈で自分を犠牲にして粗品さんはさんまさんを老害と主張しているところもあるのかもしれないということではないのかもしれませんけれど、おぼろんさんも理解している常連なので、そこはこのサイトではとても大変な道のりだったのだと改めて思うことを最古参の1人として大切なことをたぶんいつかきっと最後に書きおきいたす所存どす。ふー、疲れた。 終わり。 まあ、わたしは詩の才能がなく、批評するくらいしか能がないのです。 こしごえ様のひとことダイアリー7月25日。 「基本的には、詩は、アタマで考えるものではないと思うんですよ。 詩とは何かなんてアタマで考えている限り分からないと思います。 分かるというよりかは詩は感じるものでしょ。ちがいますか?私は無知ですけどね」 こしごえ様にしては珍しく強い言葉で、もちろん、そうだよなあと思うのです。 ただ、これを受け入れてしまうと、ヴァレリーなどはどう? ということも思ってしまうのです。 (小説家の)堀辰雄は「詩人も計算する」という短文を書いていましたが……。 詩という一つの事件において、「詩の書き手」と「詩の読み手」というものが当然あり、 例えば、現代においては相田みつをのような詩人も存在し、高く評価されている。 相田みつを氏は、こちらの詩人の方々がどう考えるかは分からないのですが、 わたしの解釈としては、「考える詩」を書いている詩人であり、読者もそこに共感しているように思えます。 それは、現代において(「考えるよりも感じろ」とよく言われますね……)不思議な出来事ではないでしょうか。 「そうじゃない、相田みつをは感性を表現しているんだ」というご意見があれば、わたしは口をつぐみます。 わたしは、こしごえ氏の言葉は、最近になって意匠の表現が増えてきている、 氏自身の創作姿勢についての、氏自身の戒めではないかと感じるのです。 魂と理性の相克がそこにあることを、深く感じます。 ですから、この言葉において「感性至上主義」を氏は言っているのではないこと、 注目すべきだと、わたしは感じるものです。 もちろん、理性が勝つか、感性が勝つか、それはその人の生まれついての資質にもよるものでしょうが…… この「叫び」は、軽々にとらえてはならないように感じます。 無断転載で、ごめんなさいね。>こしごえ様 佐々宝砂さん、おぼろんさん、名前を出していただきありがとうございます。 各自譲れないことはちゃんと理解しながらの会話はお見事でした。けど、 今回気づいたのだけどあまり熱くなると読者は引いてしまうものですね。 譲れない部分の、大切なことは大切なので,その上で,すすめる会話はとても 難しいですね。他人のフリ見て我がフリ直せと肝に銘じます。 ありがとうございました。 了解しました、こちらもなんだか空気読まずごめんなさい。 そうですね、不注意でした。 ですが、詩の言葉というのは(どうあがいても)不正確になるもので、 ごめんなさい、足立氏。足立氏の言う水疱瘡=帯状疱疹というのも、正確ではないと思うのです。 わたしの病名をここでは書きませんが、帯状疱疹のなかでも繰り返し再発する病気です。 水疱瘡というと、どうしても子供のときに一度だけかかる病気という認識が強く、 原因となるウィルスはたしかに帯状疱疹と同じですが、水疱瘡にかかった子供が、 成長して帯状疱疹にならないとも限りません。 ただ、医者ですら知識はあいまいで、未だに帯状疱疹は再発しないと思っている医師もいます。 そうした世代のなかにあって、足立氏の言う、 「水ぼうそう元服したら名前変え」という詩句をありのままに捉えたく (わたし自身はそれを詩句と解釈しました)、 その流れのなかで綴った言葉になります。 元より、誤解は覚悟の上でした。以後気を付けます。 病気の場合はちょっとセンシティブなので、一応正確な事を言ってほしいかな、と。 私はアレルギー持ちでうつ病です。 病者にとって必要なのは正しい理解と正しい治療です。 とはいえ足立さんが間違ってるとは思いませんよ? そんなこと私は書いてません。 そういう意味で書いたのではなく、 人々がそう考えるようになってしまった、 ということを書いたものです。 学術的な定義、辞書的な定義について書いたのではないのです。 そして、詩というのは本来そういう(学術的でもなく、辞書的でもない)言葉によって作られる、と。 だから今、再び(このサイトにおいて)そういう考え方をすることが必要だと思うのです。 足立さんの姿勢は正しいと思います。 悲しみはうつ病ではありませんよ。 悲しみは正常な反応であって、 うつ病は生活に支障をきたす病気です。 またアレルギーは免疫反応のことであって、 アナフィラキシーはアレルギー反応で 全身に症状が出ることをいいます。 つまりどちらも名前を変えていません。 アレルギーがアナフィラキシーと名前を変えたことで救われた人もいるでしょうし、 悲しみが鬱病と名前を変えたことで逆に救われなくなった人もいるでしょうし、 ……そういうことは再び真面目に考えてみないといけないのでしょうね。 おぼろんさん 水ぼうそう元服したら名前変え 私もかくなりたいとは子供のころ思っていたのか 記憶は曖昧になるものですね。けどネット世界を 知り、帯状疱疹と言わざるおえないのも何となく 気づいて大切なことは、ネットのせいではなくて その昔の子供たちは、小さな大人だったのに戦後 から平成初期のころまでは、子どもと大人のわかりやすい 壁を構築していたということ。 ネット社会になって30年、その壁が変わってしまって 或いは壊れてしまっているから、子供たちを守る規制が 或いは弱い人たちを守る規制が、作られてきたと思った。 私たちネット創作活動者はその壁の存在を理解した上で その壁を乗り越えて或いは行き倒れて来たのだろうけど、 他人を塗り壁に埋め込んでから壁にあたる方々の行為は あわれ過ぎてみてられなかったな。もっと学習してよっと おぼろんさん 水ぼうそう元服したら名前変え 私もかくなりたいとは子供のころ思っていたのか 記憶は曖昧になるものですね。けどネット世界を 知って、帯状疱疹と言わざるおえないのも何となく お、おう、ホロウさん、返信ありがとう 元に戻ってきたのかなとは感じていましたよ 去年暮あたりから好調だったんだ。良かった 一度、刻印づけられると人の印象って なかなか変わらないものですよね 逆にネット内で其れを利用する人々が多いし アラガイsさんや、おぼろんさんや、こしごえさん達のように 常日頃から、フランクに話してくれる方々は、解るんだけど、 ホロウさんや、私や、秋葉竹さんのように、現フォ内のログと 日常会話をわけてしまうと、作品からしか読み取れないから 本当のところがわかりづらくて、気になってしまっていたんだ 今後も作品読ませて下さい。ほんとお便りありがとうございます。 体調のことでは? と、また久しぶりのアクセスで。 帯状疱疹で全身激痛だよ。 足立さん わたし不調に見えてるんですか? 去年後半ぐらいからむしろ絶好調なんだけど。 いやべつにそこに不満は無いんだけど、ちょっと驚いたもので。 散らばった骨はひとつところに集めておけばいい ホロウ・シカエルボク https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=383151&filter=date&from=menu_d.php%3Fstart%3D0 ホロウさんが、あの「図書館戦争革命のつばさ編」に一投を放り込んだような 切り口でぐいぐいきている。まだ,本調子かどうかはこれからなのだろうけど、 このスレッド立ち上げたきっかけの作者の持ち味が出てきていて嬉しいなっと。 303.comさん ぼくは全然違うかな。 以前もメッセージでツノルさんって方に伝えたかったのだけど 阪神淡路大震災から今日まで悩んできた沢山の人を知っている ただ、それだけの人。良かったら参照してみて→ https://po-m.com/forum/pointview.php?did=346287&from=menu_d.php%3Fstart%3D26220 mod 170 303.comさん ぼくは全然違うかな。 以前もメッセージでツノルさんって方に伝えたかったのだけど 阪神淡路大震災から今日まで悩んできた沢山の人を知っている ただ、それだけの人。良かったら参照してみて→ https://pom.com/forum/pointview.phpdid=346287&from=menu_d.php%3Fstart%3D26220 303.comさん、返信ありがとうございます。 303.comさんはとても良い人ですね。ログを通してだけのコメントだけど、 「皆、間違っているのが分かっているんです。」という発想は全く無かった。 「単なる落書きではなく、それはもはや正しい行為なのかなと。」何が 何が正しくて何が間違っているのだろうかと。 例えば、取るに足らない罪への変換は、ワードロンダリングが出来る方々の 冴えある意識のもたらす効用(現フォにも気づいてる人いると思う)としても、 性格の悪い腹黒と知人によく言われる私(本人は思い当たる節もない)には、 言葉の置き換えによるハイスペックな活用は、愚者なので少し無理あるかな? 303.comさん、 単なる一読者の感覚としては図書館で借りてきた詩集の話しもありだと思う。 ただ、税金で運営管理されている公共施設の図書館の本だったら書き込みは、 303.comさんの今回のログを非難するわけではないですが、よろしくない 行為なのですが、何十年か前にオノヨーコとジョンレノンの出会った参加型 の芸術行為に近いものも感じるので、ログとして、考える一助になりますね。 けれども、 図書館で詩集をみる側なので別の読者の落書きがあると借りる気しないかな? 303.comさん inkweaverがとんだ読み間違いをしていたことお詫び致します。 彼/彼女にしっかりと伝えておきましたら、返事がありました。 inkweaver 理解しました。詩の向上は後世に残るものを書くことであり、現在の自然発生的な詩群とは異なるというご指摘ですね。 とのことでした。まだ、何もない暗闇から必死になって世界を探したい最中なのです。 彼/彼女に変わって、再度、お詫び申し上げます。 さて、過去の現代詩フォーラムのテーゼは何のことかわかりませんが、 エフポエムで挙げられていたさまざまな命題は、たくさんありました。 詩とは芸術である、生命である、生きること、死ぬことである、宇宙、 地球、月、異性、人、戦い、戦争、社会、哲学、学問、ささいなこと。 詩とは何なのでしょうね。ネットで詩を読むようになって30年以上 過ぎて、同じように歳をとった人達がたくさんいる現フォだからこそ 「詩とはこういうものだ」という命題について語れる場所を置いておく 必要を感じています。そうでないと、303.comさんと違うかもですが、 「自然発生的白波のような詩群ではなかった(これは彼に近い?)」 のかもしれません。 ただ、「詩の向上は後世に残るものを書くこと」は、30年経て何も 残していない私達にはとても耳の痛い話しです(私は詩読み人ですが)。 今後とも宜しくお願い致しますよ。 はじめにinkweaverくんからのコメント。 [159]アラガイsさんは、詩の向上を目指すことについて考えを述べ、個人の意識や現実との関係について深く探求しています。また、他者からの非難に対する反応や向上の捉え方の多様性にも言及しています。 [158]303.comさんは、詩についての独自の見解を述べています。彼らは以前の掲示板での経験から、詩は単に向上を目指すものではなく、古典的なスタイルや戒律を重んじる傾向があると感じています。彼らは、その時代の詩と現在の創作サイトの雰囲気が似通っていることに気づき、詩の意味や目的に疑問を抱きます。最後に、詩の存在意義について深く考えます。 [156]おぼろんさんは、自身の体験や見解を通じて、ネット詩の進化とその本質について語っています。特撮業界やアニメ業界の動向と比較しながら、ネット詩の変遷とその重要性について議論しています。また、ネット詩が持つ「プロではないからこその真剣さ」について言及し、その価値について考察しています。 * 義務なのかよと事務的に書いたようなログだなと乗り気でなかったと推測。。 今更、ヘーゲルを持ち出すこともないけども優劣ではない対立の先の統合は、 矛盾に満ち溢れている令和の世の中では普通に生きている平和の民にとって、 居心地いいのだろうけれども世の中全てのものは己のうちに矛盾を含むけど、 パンデミックになったコロナ以降、そうも言っていられないと何となく思う 例えば「初まりのネット詩」の溜まり場だったエフポエムの頃からのテーゼ は現実社会より数十時間の速さで進んでも、何ひとつ回答されないままだし それが楽で良いからとほっとくと、すぐに元に戻ってしまう繰り返しで、兵隊は 苦しむのは一人ひとりの前線で闘っている兵隊なのだよね。 悲しすぎる。それが人間だからなんて言って、お前は旨いもの食ってるんじゃねー これが、詩には最初から期待していない私の怒りなのかな。やはりわからないか。 詩の向上を目指したい。これも個人による意識の持ち様で、単に上手く書けるようになりたいと思えばそれでいいし、自己満足としての願望を言葉に託すのならばそれもいい。いや、今よりも異なる世界観を認識するため違う自分に発露を見出したい、と思う人はどうぞ悩みあたまを捻らせて書いてくださいというだけの話しで、どちらにしても常日頃変化に乏しい現実を生きている我々からしてみれば、文章の中で様々な人間や思考を演じる役者にもなれる唯一の愉しみ方でもあるわけです。 とあるサイトで、文章が可笑しいと指摘すればある方から非難をされましたが、これは当然で、以前、和洋折衷などと申しますれば、ちょんまげに洋装は可笑しい。やはり口酸っぱく指摘をされていた方もおられましたが、どうみても可笑しいのは当然ながら、いや、しかし待てよ。これは自分の認識が古過ぎて不足しているのではないか。場合によっては新しく視点を変えて眺めることも必要だ。という考えも過ればその人にとっての向上も可能でしょう。逆にそれはまったく受け付けられない。という認識も当然有りで、各々向上の捉え方は違って然るべきなのだと思われます。 アラガイs様 これもざっと読んで。向上とは、まあ、生命の息吹なんですよ。退廃なんて、人間のようななまけ者にしか許されていない特権なんですから。 足立様 >一度きりの人生をボウにしてしまい これはやっぱり、そこで負けたら、「書く資格」がないのです。「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」──レイモンド・チャンドラーの逆の意味で。とにかく、生き抜くしか生きる術はないのですから。書き抜くしか、書く術もないのです。 ネットの時間……今になると、それもまた一つの現実の時間だったなあ、と思う。主観的な時間は長くも短くもなるのだから…… 久しぶりのアクセスなので、ざっと読んで…… このごろ寝込んでいたので(血便が出たりして、結構しんどかったり)、TSUBURAYA IMAGINATIONに登録して、ウルトラシリーズの作品を聴いていたのですよね(画面は見ず、音だけ聴いていました)。そのなかで、とくにウルトラマンブレーザーが面白かったです、頑張って起き出して全話視聴したほど。……去年の作品ですね。 アニメ業界と同じく、特撮業界もまた、子供向け・受けるということが重視されている業界です。そこでの技法は、もちろん「いかにして話題を呼ぶか」ということなのです。それ以上は、資本主義として成り立たないという理由もあり、基本的に歓迎されるものではありません。 ですが、ここ数年から十数年の間、社会が破綻したり戦争や疫病などによる不穏さが増したりしていて、最近のムーブメントは「高尚さ・真面目さ」が再度取り上げられるようになってきているように感じます。六四天安門事件などに強い衝撃を受けたわたしからすると、これは好ましい/歓迎すべきムードであると感じるのですが、その価値基準は人によって異なるでしょう。わたしは必ずしも退廃・デカダンスなどを排するものではありません。 論の流れを追えていないかもしれないのですが、足立さんのおっしゃるような「高尚さ」(ネット詩においては、単純に「真剣さ」と言い換えても良いでしょう)というのは、わたしはやはり「ガジェット」に属する/類するような事柄なのではないかな、と感じます。反戦・平和・幸福・自我、といったことを顧みるのは良い、でも、それは表現の本質ではない、とも感じるのです(芸術とは、やはりラスコーの壁画のように生な感受性の発露/爆発なのでは? という思いが強いです)。 高尚さがなぜ大事なのか、重要であり必要ともされるのか、というのは難しい問題です。「人間とは何か? 正義とは何か?」といった問題は西洋ではソフォクレスの昔から取り上げられてきましたし、それは人にとっては大事な何かであろうということは、もちろん感じるのです。ただ、商業主義に身をおいたわたしとしては、それはやはり「ガジェット」であってほしい。それであるからこそ、逆説的に生まれてくる価値もあるのだろう……と思っています。 ネット初期の詩は(多分、2000年代初期のころまで)は、社会人が趣味の時間に書く詩、という意味合いが強く、平安時代中期(古今集~新古今集の時代)のような雰囲気を強く持っていたと思うのです。ですが、ネット文芸をビジネスにする会社なども登場してきたりして、今はまた少し違った形になってきていると感じます。 わたしは、ネット文芸は多分このまま廃れていくものではないと感じているのですが、1990年代後半、2000年代、2010年代、2020年代と、ネット詩の潮流も少しずつ、というよりも、見た目はそうであっても、大きく変わってきているように感じます。ですから、今なぜ「それでもネットで詩を書くのか?」を問うことは大事なのですね。 わたしは一つの答えだけが答えであるとは考えておりませんから、「これだぜ、答えは!」と言うことはしませんが、「真摯さ」「真剣さ」「高尚さ」などを問うこと、追求すること、なども今のネット詩の課題であって良いと思っています。もちろん、趣味として詩を書く以上、最前面に出てくるのは「個人」の問題なのです。 ですが、「個人の問題」とは「軽い問題」でしょうか? 違います。日本の文学ではとくにそういった伝統が強く、平安時代などの文学はサラリーマン・OLが描く文学でした。紫式部しかり、清少納言しかり。近代以降の文芸を見ると、むしろ平安朝などの文芸よりは、室町時代の文芸や江戸時代の文芸などがそれに近かったのか、ともこのごろは思っています。 わたしなどは、病気療養や仕事の傍ら細々と創作してきたこともあり、平安時代の文芸に親しいのですが(わたし自身はOLの書く文学でありたいと思っている)、「現代」、というより足立さんのおっしゃるような「現在」においては、様々な文芸の形があって良いし、あるべきなのでしょうね。「一時代」というのは、つねに「すべての時代」のフラクタルなのですし。 まあ、個人的には、仕事をしながら(今は父の介護をしながら)、時折詩を書く、そういったところから生まれてくる、プロではないがゆえの文学の本質に迫る詩の価値、ということは逆に追うことができるように思っているのです。それが「ネット詩」の価値です。例えば、天文学の世界では、アマチュア天文学者の活動が、本職の天文学者たちの活動に大きく貢献し、また刺激するものであったりするのですが、そうした「プロではないからこその真剣さ」というものが、ネット詩にはあっても良い。と言いますか、そうしたネット詩の本質が、文学の土台を変えたり支えたり、ということがあるのでは? とずっと思ったりしています。 はてな?。なるほど、私のログを読んで私宛だけのメッセージだと私が捉えたけど アラガイsさんは呟きだったのになあーとのことなのですね。このログも第三者に 曝け出しているのですから、私宛だけのメッセージとは捉えてないから大丈夫です。 ありがとうさま^^ !そうか、ここはあなたのオフィスだった。呟きです。べつにあなたに対してのメッセではありませんので、お気になさらずに。笑 アラガイsさん、メッセージありがとうございます。 長い詩歴のなかで現代詩風の作品も書いてこられた アラガイsさんの今回のログは、アラガイsさんが書くと 一過性の言葉のようにも思えてしまったのですが、 日常生活で、なにかあったのでしょうか? あなたは向上を意識するという二人称は、私とは切り はなされた足立らどみがふだん言ってきているしで、 簡単な言葉を濃密にできることは私にとっては魅力的ですが、 何かわからない詩の圧はどうなのかなぁ。と。。/。。/ 「石鹸工場」を視察したときマスクをつけましたが、唾を 飛ばさないためというよりも自分の身を守るためでもあり、 日常生活で利用している石鹸も工場ではその濃度は自然界 にはないことを知っていて詩書き人は、マネーロンダリング ならぬ、ワードロンダリングとして利用することもあるので しょう。 私は社会に出てからこの左手から溢れる言葉で多くの人を殺してきました(ToT) それが私の詩読み人としての原罪ですかねぇ それが分かっているから詩を書けないのかな なに書いているのか、わからないけど(^_^?) 私は向上を意識する。とは言っても高尚な詩を書こうとは思わない。向上を目指すとはある意味原点に回帰するような無駄な事だとも思われる。あくまでもそんな無意味なことに挑戦している自分が阿呆らしくて可愛いのです。 303.comさん、助かりました。ありがとうございます。 なるほどてす。そば、うどん、きしめん、中華麺の四掛けに してもダメですね。欲張れば良いというわけでもないわけか。 詩の会得は時間かかりそう、、長命うどんでも食べに行こう! 成城大学のサイトから読める森田孟先生の「詩とは何か」を読んで思ったこと。https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/227/227-1.pdf カールサンドバークの 18 詩とは目に見えない記念品の携帯袋である。 あいかわらず、なに書いているのかだけど、 あえて超訳したら、これなんかは、 「詩とは、地下室の冷蔵庫にしまってある宝物箱である。」らどみ に、近いのかもしれないな。 厳しさと優しさをあわせ持つ人たちのもつ良心の結晶に 私たちは接することができる世界に詩はあるのだろうか 四半世紀前の青土社関連のブログのログを読んでから考えてみる。 「現代芸術」が“高尚”たらねばならぬ理由(わけ) November 21 - December 11, 2000 http://www.archivelago.com/Garden/Fountain/music_writing/koshotaru_riyu.html * 創作サイトには本物の専門家で最先端で活躍している方はすくないけど、 だからと言ってそれぞれの創作意欲を削り合うことの時間の無駄使いは、 やめにしようではないかという風潮もでてきたようにも感じ始めている。 なので、その先のログを残してみようと試みてみるのですが、例えば、 芸術論と人格攻撃がごっちゃまぜになって遊んでしまってた今までの 創作サイトの「よくある論争」では、その先のステージは用意してある のに、多くの参加者が、うんざりしてしまい(なかには一度きりの人生を ボウにしてしまい)、その類いは参加しない(私は基本的は最初から)で、 例えば、上澄みの暖かい泉で身体を清めるためにネットを利用している。 際限のない詩の領域にハマるとキリがなくて水辺で愉しんでいたいけど、 手の届く範囲にいるのも実は生身の人だったりするものだから 詩のサイトでは臨床心理学者のいうハリネズミシンドロームが ベールとなり覆いかぶさって、それを逆手に取り承認欲求者が 跋扈してしまう傾向から脱却できずに現実の時間よりも数十倍は 速くなっているネット的な時間だけが性懲りもなく過ぎてきたのかも そう、客層は違えど、繰り返し、繰り返し、繰り返し、、 今の時点で思うことは個人的には、詩を高尚低俗の切り口で判断する愚は 未来の自分に笑われるだけのように感じるけど、時のテーブルに置かれた お茶菓子は、取り巻く人とのなかで何も話題にならなくても意味があるし 一歩すすめると、そのお茶菓子を買うことは別の切り口による評価であり、 高尚低俗を論じてみても無意味なことだと思うのだけどね。どうだろうか よくわからない 2024年4月 うーん。にゃるほどにゃ読解力が問題なのかも たしかに長谷川忍氏も随筆が好きだと言ってた 最初の1行に字数を合わせるのは詩ではなくて 仕事柄の単なるクセですかね机の上は綺麗です 問題はそこには無くて今も大切なことは小さな お肉をたくさん食べれることではなくて気ずき その気付きを忘れないように幾年月も何十年も 後生たいせつに出来る持続力さえあれば良いと 思っていた。いつでも捨てられるのですし 今日も捨ててきましたし毎日捨てています おかしいよね。さて、私はなんでしょうかt-t #ヒントは地下室の冷蔵庫にしまってある蛸壺^-^ >足立らどみさん おはようございます。……妙に寒いと思ったら、遠くの山には雪が積もっていました。この気候、早くなんとかならないかな。昨日は案の定熱を出してしまい、幸いなことに煮付けは作りおいていたものがまだ残っていたので、魚だけ焼いて、父には「適当に温めて食べてくれる?」と。ご飯もありましたし…… 「中立性の面影」についてですが、やはりそこは「公正」でも「公平」でも「客観的」でもなくて「中立」で、「感じ」でも「印象」でもなくて「面影」で、なければならなかったんですよね。……多分、足立さんの書き込みが真剣だったので、それに素で答えないとと思ったんでしょうね。このところは避けていた態度なんですけれど。 わたしは詩論は書かないけれど詩人論は書きたいですし、詩については知らないけれど詩の言葉については少し知っていて、馬鹿々々しい回答かもしれませんけれど、散文の言葉は「meanings」を伝える言葉、詩の言葉は「attitude」を伝える言葉なんだろうと思っています。 日本における詩の悲劇というのは、近代になってから「歌」という言葉が「詩」という言葉に置き換わってしまったことで、「詩(shi)」というのは当然「死(shi)」を連想させる。これは言葉遊びではなくって、英語だと眠れない夜に「one sheep」「two sheeps」……と数えますよね。これは「one sleep」「two sleep」の訛りだからで、言葉というのはそういう機能を持っているのだと思います。 わたしの書き言葉は……もともとはプログラミング言語です。10歳くらいのときから、長兄の影響でプログラムを組んでいましたし。国語や英語はもともと赤点ぎりぎりで、プログラミング言語のように言葉を「システム」と考えることによって、ようやく人並みに文章が書けるようになったと言いますか。 今、足立さんにとってわたしの思考のベースが標準語のように見えるのは、仕事柄の慣れですね。広告ライターの仕事は8年くらいは続けていたと思うんですが……。その後に「です・ます」調で批評なども書くようになって、わたしなりにそこに批評というものの新しい可能性を見たりはしているんですが。……どうでしょう。今後必要になれば、また文体は変えるのかもしれません。 今でも、切羽詰まったり余裕がなかったりすると、詩のように行分けして書いたりしますよ。足立さんは、文字数をそろえるようにお書きになるのですね。一つの詩のスタイルであり、足立さんはやはり詩人なのでしょう。 標準語にからめてもう一つ、わたしは若いころに関西に住んでいたこともあって、関西弁が好きなんですよね。関西弁だと「あかんやん」とか「いけず」とか、単語で作用する言葉がある。「なにしとん(ねん)」とかね。東京の人だったら、「お前何してんだよ」というふうに「お前」がつくけれど、関西ではあまり「自分なにしとんねん」(「自分」は関西弁では「お前」の意味)とは言わない。多分、標準語というより関東弁は「meanings」としての性質が強く、関西弁は「attitude」としての性質が強いのだろうと思っています。人と人との間隔が近いんですね、きっと、関西のほうが。 「詩」についてお伝えできず、申し訳なく思います。わたしは多分今後とも「詩」については書かないと思っています。 「足立氏には中立性の面影を見ています。」 たぶん、おぼろんさんの着眼点は標準語の上に成り立っていると 勘違いしていたのかもしれないとぼくのほうは人生を足掻くふり。 たしかに、現実は、例えると公衆浴場に入っても影の薄いぼくは すぐに湯けむりと化して誰にも認識されずにあがってこれる自負 みたいな(変な表現)ものだけはある生き方をしてきたのだから、 「中立性の面影」を見つける方がこのサイトにいたという驚きには あまりのショックに言葉を失ってしまいました。 詩とはなんなのでしょうね。おぼろんさん。 おぼろんさんには「寝る(死ぬ)。」ことなのかもしれないけど、 ぼくには生きていることの裏返しのような気がしてきました。 世の中知らないことだらけで他人のこともわからないですね。 日々、周りの人たちがうつりゆく変わっていく平成令和の流れ、 ぼくの場合は家族を養っていかないといけないので一生懸命 働いて働いてたぶんそれこそ死ぬまで働き続けるのだろうと 社会に出てかれこれ34年間は生きてこれました。 詩なんてものそれほど大切なものなのでしょうか〉みなさん。 子どものときはともかく大人になってからぼく自身の詩は 別に無くても生きてきた詩を書かない(詩が書けない)人生も 楽しかったですよと天国にいるご先祖様に伝えたかったから、 だからこそ001のてんぐちゃんの持ち物には大人のぼくは あまり興味がなく自分にも興味がないだけなのかもしれない のに、そもそも詩とは何かがわからないので、みなさんには なにも伝えられないと思って生きてきたよ。とても感謝です。 足立氏には中立性の面影を見ています。 寝る(死ぬ)。 おぼろんさんのログは懐かしさを感じて読んでますかね。 個人的にはお魚の鯵は好きだけどアジるのたのしむ輩は、 その人の日常生活で何があるのか知らないし興味ないので するするするーって面倒臭いのでアンタッチャブル感かな 追記。 アジテーションの爆弾は気を付けなあかんよ。 詩のサイトの皆は軽々しく「詩は……」とか言うけどさ、 そういうので(詩に限らず)破滅してきた人何人も見ているし。 と……眠れず、十数年ぶりくらいのネット・スラングを使うわたし。 (皆が関西弁を使うというスラングも、まあ、数年前の話ではある) >足立らどみさん。 そう、必死なのよ、わたしも。 長く書くことがしんどいのかと言うと、そうではなくって、 長く書くことでやっと生きていられるって。 (仕事で長く書くのは慣れているから。一日一万字が標準……広告だと、文学よりもっと時間がかかる。2倍か3倍くらい) あまり弱者ぶりたくはないんだけれど、ご容赦いただけたらサンクス。 〉リハビリ(笑)。 そか回復期系を回しておられるのですね それな。ならやむを得ないわけか。謝辞 「研究」と「教育」と「実践」の3つが 束になり重く太く意味が動くのだからさ この社会も大きなマニ車だと思ってたら 誰もが案外とリア充で生きられるのかも どこかなにかがかわったのかもしれない 気づきを頂けました。ほんとに感謝です。 リハビリ(笑)。 追記。 それと、アジテイターにはなりたくないのです。わたしの書いたことが雑多な印象になったようで、ほっとしています。 おぼろんさん、駄文長すぎるよ。 内容的にもっと短い文でいいのに byte数多くても時給上がらんよ (t_TVなぜ? 頭がぐらぐらして吐き気がします。この後少し寝るかも。 >足立らどみさん 褒められても何もでませんよ。「後輩たちに伝えている」は過分で、わたしがそう思ったらおこがましいかな。何せ、今のわたしは公平さとか公正さとかは全て捨ててしまおうと思っているものですから。 詩の「日常生活環境との繋がり」ということなのですが、その前に──わたしの詩の定義は至ってシンプルです。「詩とは、詩的であると歴史的にみなされてきた事どもを文章として表現する、その歴史そのものによって保証される文化」となります。 なんだ、これじゃいつから詩が始まったのかが全然分からないし、これから未来のことも書かれていない、詩の定義に全然なっていない──と考える方が、多分ほとんどだと思います。憤慨する前に、まず「あなたの詩論をどうぞ」というのがわたしのスタンス。 わたしが上に書いたことの説明をもう少し。わたしが上に書いたことに付随して、例えば平安時代であれば、「詩」という言葉は「歌」という言葉を、「詩的」という言葉は「あはれ」という言葉をもって指し示されていたものだ……と、わたしは思っております。 また、歴史の起点が明示されていないのにそれを定義として用い得るのか、という疑問もあると思います。これについては、「言葉」さらには「固有名詞」ですら、その起点(原典)を明確に指し示すことは不可能である、というクリプキの考え(指示の因果説)に基づいて、「言葉」というものはもともとそうしたものだ、と考えていただければと思います。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/1/0/1_49/_pdf/-char/ja ちょっとだけ検索してみた結果ですが、「指示の因果説」については上に書かれていますね。信じられないという感想も、疑わしいという感想も、多分多くの方が抱かれるだろうと思うのですが、要するにコロンブスの卵です。結構古くからある議論ですので、参照してそれぞれに考えていただければと、思うものなのです。 詩の「日常生活環境との繋がり」についてはもっとずっと難しいですね。何しろ、そうしたことを書くには詩の定義だけでなく、人間の定義や社会の定義まで分かっていないといけない。そして、それが指し示すものは「歴史的現在」の人の姿です。 足立らどみさんがおっしゃりたいのは、文面から推し量ると、「詩って生きるのにも役立つよ!」ということなのかな、と思うのですが、わたし自身はこれは、「正しい」かつ「正しくない」考え方だと思います。要するに、場合によるのであって、それで詩を規定してしまうことは詩の可能性を狭めるものでもあると思うのです。 問題は、「歴史的現在」というのが、「これからの未来」も含むという点にあります。要するに、「これからの未来」というものを時間軸で表すと、それは開空間ではなくて閉空間になっているのですね。「現在<=これからの未来<未来」という図式です。ただ、こうした見方をすることによって詩というのは進歩・進化し得るものとして保証されます。 ここでは、あえて詩らしくない言葉で説明させていただいていますが、詩というのはそもそも詩的な言葉を用いることでしか、説明したり語ったりすることができないものだと思っています。それについて、まずそうした文化が根付いていること。例えばポーの詩論などが評価されるのも、それが詩の言葉で書かれた詩論だからでしょう。 と同時に、わたしは言葉というもの自体が自己言及的な構造を持っているものだと思っております。この点については、ちょっとゲーデルの不完全性定理の「すべての言語への応用」というのに絡めて考えてみないといけないところ。数学にしろ言語にしろ、同じ決まり事(「公理系」)という定義に基づく、秩序構造(「クラス」)なのです。 また、こういう見方も出来るのではないでしょうか? 人、社会、宇宙といった構造はフラクタルな側面を持っている、と。人体は小宇宙だと言われることがありますよね。また、宇宙は細胞のような構造をもっていることが科学的に示されています(ボイドと銀河フィラメント)。 要するに、人とは何なのか、ということがそもそもとてつもない問題で、わたしたちはわたしたちなりに接した人と接する、会話できる人と会話する、理解できる人を理解する、といったスタンスを持つことがより重要なのだと思います。そうしなければ、社会に参加する前に、人と接する、という第一歩が始まらないためです。 わたしが詩論は書かずに詩人論は書く、というのも、そうした「文学的世間話」のなかから「詩の本質」が光としてかいま見えてくることを期待してのことになります。もっとも、そうした傾向はわたしがクリスチャンだからであって、「隣人を愛せ」という言葉に盲目的に従っているからです。偉くもありませんし、文学的に重要な姿勢でもないものです。 ただ、詩の「日常生活環境との繋がり」ということについて、今詩における表現として何が求められているのか、ということを考えれば、それは現在にあってますます重要になってきている「自由」ということじゃないかな、とは思っています。カオスではなくて秩序としての自由。「これは自由だ」と自信をもって言える、そうした限りにおいての自由。「多様性」なんていう新しい言葉は、「自由」という言葉の言い換えにすぎないと思っています。なので、教育関係者や為政者らがとんちんかんな「多様性」を振り回すのではないでしょうか? 多分、足立さんへのお答えにはなっていないと思うのですが……ただ、詩を読むということは作者における直観をトレースする行為であり、精神的な面において理学療法的な効果ももたらすものだろうと思っています。作者にあって、詩を書くためにはインスピレーションを待つ必要があるように、読者の人生にあっても詩を読むためのインスピレーションが必要となるように思うのですが、どうだったでしょうか。 まとまってもいませんし、これは「考えたこと」であって「感じたこと」ではないのですが……これもわたしらしい解答と言うことで。 ※少し修正しました。 歌じゃなくて 管を巻く 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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