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サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと (創作系)スレッドオペレーター:足立らどみ
サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書くスレッドで
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。
このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを
一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで
新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。

要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。

[147]足立らどみ[2024 04/11 19:19]おぼろん
うーん。にゃるほどにゃ読解力が問題なのかも
たしかに長谷川忍氏も随筆が好きだと言ってた

最初の1行に字数を合わせるのは詩ではなくて
仕事柄の単なるクセですかね机の上は綺麗です
問題はそこには無くて今も大切なことは小さな
お肉をたくさん食べれることではなくて気ずき
その気付きを忘れないように幾年月も何十年も
後生たいせつに出来る持続力さえあれば良いと
思っていた。いつでも捨てられるのですし
今日も捨ててきましたし毎日捨てています

おかしいよね。さて、私はなんでしょうかt-t
#ヒントは地下室の冷蔵庫にしまってある蛸壺^-^
 

[146]おぼろん[2024 04/11 11:33]
>足立らどみさん

おはようございます。……妙に寒いと思ったら、遠くの山には雪が積もっていました。この気候、早くなんとかならないかな。昨日は案の定熱を出してしまい、幸いなことに煮付けは作りおいていたものがまだ残っていたので、魚だけ焼いて、父には「適当に温めて食べてくれる?」と。ご飯もありましたし……
「中立性の面影」についてですが、やはりそこは「公正」でも「公平」でも「客観的」でもなくて「中立」で、「感じ」でも「印象」でもなくて「面影」で、なければならなかったんですよね。……多分、足立さんの書き込みが真剣だったので、それに素で答えないとと思ったんでしょうね。このところは避けていた態度なんですけれど。
わたしは詩論は書かないけれど詩人論は書きたいですし、詩については知らないけれど詩の言葉については少し知っていて、馬鹿々々しい回答かもしれませんけれど、散文の言葉は「meanings」を伝える言葉、詩の言葉は「attitude」を伝える言葉なんだろうと思っています。
日本における詩の悲劇というのは、近代になってから「歌」という言葉が「詩」という言葉に置き換わってしまったことで、「詩(shi)」というのは当然「死(shi)」を連想させる。これは言葉遊びではなくって、英語だと眠れない夜に「one sheep」「two sheeps」……と数えますよね。これは「one sleep」「two sleep」の訛りだからで、言葉というのはそういう機能を持っているのだと思います。
わたしの書き言葉は……もともとはプログラミング言語です。10歳くらいのときから、長兄の影響でプログラムを組んでいましたし。国語や英語はもともと赤点ぎりぎりで、プログラミング言語のように言葉を「システム」と考えることによって、ようやく人並みに文章が書けるようになったと言いますか。
今、足立さんにとってわたしの思考のベースが標準語のように見えるのは、仕事柄の慣れですね。広告ライターの仕事は8年くらいは続けていたと思うんですが……。その後に「です・ます」調で批評なども書くようになって、わたしなりにそこに批評というものの新しい可能性を見たりはしているんですが。……どうでしょう。今後必要になれば、また文体は変えるのかもしれません。
今でも、切羽詰まったり余裕がなかったりすると、詩のように行分けして書いたりしますよ。足立さんは、文字数をそろえるようにお書きになるのですね。一つの詩のスタイルであり、足立さんはやはり詩人なのでしょう。
標準語にからめてもう一つ、わたしは若いころに関西に住んでいたこともあって、関西弁が好きなんですよね。関西弁だと「あかんやん」とか「いけず」とか、単語で作用する言葉がある。「なにしとん(ねん)」とかね。東京の人だったら、「お前何してんだよ」というふうに「お前」がつくけれど、関西ではあまり「自分なにしとんねん」(「自分」は関西弁では「お前」の意味)とは言わない。多分、標準語というより関東弁は「meanings」としての性質が強く、関西弁は「attitude」としての性質が強いのだろうと思っています。人と人との間隔が近いんですね、きっと、関西のほうが。
「詩」についてお伝えできず、申し訳なく思います。わたしは多分今後とも「詩」については書かないと思っています。
 

[145]足立らどみ[2024 04/11 04:19]
「足立氏には中立性の面影を見ています。」
たぶん、おぼろんさんの着眼点は標準語の上に成り立っていると
勘違いしていたのかもしれないとぼくのほうは人生を足掻くふり。
たしかに、現実は、例えると公衆浴場に入っても影の薄いぼくは
すぐに湯けむりと化して誰にも認識されずにあがってこれる自負
みたいな(変な表現)ものだけはある生き方をしてきたのだから、
「中立性の面影」を見つける方がこのサイトにいたという驚きには
あまりのショックに言葉を失ってしまいました。

詩とはなんなのでしょうね。おぼろんさん。
おぼろんさんには「寝る(死ぬ)。」ことなのかもしれないけど、
ぼくには生きていることの裏返しのような気がしてきました。
世の中知らないことだらけで他人のこともわからないですね。
日々、周りの人たちがうつりゆく変わっていく平成令和の流れ、
ぼくの場合は家族を養っていかないといけないので一生懸命
働いて働いてたぶんそれこそ死ぬまで働き続けるのだろうと
社会に出てかれこれ34年間は生きてこれました。

詩なんてものそれほど大切なものなのでしょうか〉みなさん。
子どものときはともかく大人になってからぼく自身の詩は
別に無くても生きてきた詩を書かない(詩が書けない)人生も
楽しかったですよと天国にいるご先祖様に伝えたかったから、
だからこそ001のてんぐちゃんの持ち物には大人のぼくは
あまり興味がなく自分にも興味がないだけなのかもしれない
のに、そもそも詩とは何かがわからないので、みなさんには
なにも伝えられないと思って生きてきたよ。とても感謝です。
 

[144]おぼろん[2024 04/10 10:14]
足立氏には中立性の面影を見ています。

寝る(死ぬ)。
 

[143]足立らどみ[2024 04/10 08:49]
おぼろんさんのログは懐かしさを感じて読んでますかね。
個人的にはお魚の鯵は好きだけどアジるのたのしむ輩は、
その人の日常生活で何があるのか知らないし興味ないので
するするするーって面倒臭いのでアンタッチャブル感かな
 

[142]おぼろん[2024 04/10 05:40]
追記。

アジテーションの爆弾は気を付けなあかんよ。

詩のサイトの皆は軽々しく「詩は……」とか言うけどさ、

そういうので(詩に限らず)破滅してきた人何人も見ているし。

と……眠れず、十数年ぶりくらいのネット・スラングを使うわたし。

(皆が関西弁を使うというスラングも、まあ、数年前の話ではある)
 

[141]おぼろん[2024 04/10 04:51]
>足立らどみさん。

そう、必死なのよ、わたしも。

長く書くことがしんどいのかと言うと、そうではなくって、

長く書くことでやっと生きていられるって。

(仕事で長く書くのは慣れているから。一日一万字が標準……広告だと、文学よりもっと時間がかかる。2倍か3倍くらい)

あまり弱者ぶりたくはないんだけれど、ご容赦いただけたらサンクス。
 

[140]足立らどみ[2024 04/10 04:45]おぼろん
〉リハビリ(笑)。

そか回復期系を回しておられるのですね
それな。ならやむを得ないわけか。謝辞

「研究」と「教育」と「実践」の3つが
束になり重く太く意味が動くのだからさ

この社会も大きなマニ車だと思ってたら
誰もが案外とリア充で生きられるのかも

どこかなにかがかわったのかもしれない
気づきを頂けました。ほんとに感謝です。
 

[139]おぼろん[2024 04/09 23:11]
リハビリ(笑)。

追記。

それと、アジテイターにはなりたくないのです。わたしの書いたことが雑多な印象になったようで、ほっとしています。
 

[138]足立らどみ[2024 04/09 22:50]
おぼろんさん、駄文長すぎるよ。
内容的にもっと短い文でいいのに
byte数多くても時給上がらんよ
(t_TVなぜ?
 

[137]おぼろん[2024 04/09 19:17]
頭がぐらぐらして吐き気がします。この後少し寝るかも。

>足立らどみさん

褒められても何もでませんよ。「後輩たちに伝えている」は過分で、わたしがそう思ったらおこがましいかな。何せ、今のわたしは公平さとか公正さとかは全て捨ててしまおうと思っているものですから。
詩の「日常生活環境との繋がり」ということなのですが、その前に──わたしの詩の定義は至ってシンプルです。「詩とは、詩的であると歴史的にみなされてきた事どもを文章として表現する、その歴史そのものによって保証される文化」となります。
なんだ、これじゃいつから詩が始まったのかが全然分からないし、これから未来のことも書かれていない、詩の定義に全然なっていない──と考える方が、多分ほとんどだと思います。憤慨する前に、まず「あなたの詩論をどうぞ」というのがわたしのスタンス。
わたしが上に書いたことの説明をもう少し。わたしが上に書いたことに付随して、例えば平安時代であれば、「詩」という言葉は「歌」という言葉を、「詩的」という言葉は「あはれ」という言葉をもって指し示されていたものだ……と、わたしは思っております。
また、歴史の起点が明示されていないのにそれを定義として用い得るのか、という疑問もあると思います。これについては、「言葉」さらには「固有名詞」ですら、その起点(原典)を明確に指し示すことは不可能である、というクリプキの考え(指示の因果説)に基づいて、「言葉」というものはもともとそうしたものだ、と考えていただければと思います。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/1/0/1_49/_pdf/-char/ja
ちょっとだけ検索してみた結果ですが、「指示の因果説」については上に書かれていますね。信じられないという感想も、疑わしいという感想も、多分多くの方が抱かれるだろうと思うのですが、要するにコロンブスの卵です。結構古くからある議論ですので、参照してそれぞれに考えていただければと、思うものなのです。
詩の「日常生活環境との繋がり」についてはもっとずっと難しいですね。何しろ、そうしたことを書くには詩の定義だけでなく、人間の定義や社会の定義まで分かっていないといけない。そして、それが指し示すものは「歴史的現在」の人の姿です。
足立らどみさんがおっしゃりたいのは、文面から推し量ると、「詩って生きるのにも役立つよ!」ということなのかな、と思うのですが、わたし自身はこれは、「正しい」かつ「正しくない」考え方だと思います。要するに、場合によるのであって、それで詩を規定してしまうことは詩の可能性を狭めるものでもあると思うのです。
問題は、「歴史的現在」というのが、「これからの未来」も含むという点にあります。要するに、「これからの未来」というものを時間軸で表すと、それは開空間ではなくて閉空間になっているのですね。「現在<=これからの未来<未来」という図式です。ただ、こうした見方をすることによって詩というのは進歩・進化し得るものとして保証されます。
ここでは、あえて詩らしくない言葉で説明させていただいていますが、詩というのはそもそも詩的な言葉を用いることでしか、説明したり語ったりすることができないものだと思っています。それについて、まずそうした文化が根付いていること。例えばポーの詩論などが評価されるのも、それが詩の言葉で書かれた詩論だからでしょう。
と同時に、わたしは言葉というもの自体が自己言及的な構造を持っているものだと思っております。この点については、ちょっとゲーデルの不完全性定理の「すべての言語への応用」というのに絡めて考えてみないといけないところ。数学にしろ言語にしろ、同じ決まり事(「公理系」)という定義に基づく、秩序構造(「クラス」)なのです。
また、こういう見方も出来るのではないでしょうか? 人、社会、宇宙といった構造はフラクタルな側面を持っている、と。人体は小宇宙だと言われることがありますよね。また、宇宙は細胞のような構造をもっていることが科学的に示されています(ボイドと銀河フィラメント)。
要するに、人とは何なのか、ということがそもそもとてつもない問題で、わたしたちはわたしたちなりに接した人と接する、会話できる人と会話する、理解できる人を理解する、といったスタンスを持つことがより重要なのだと思います。そうしなければ、社会に参加する前に、人と接する、という第一歩が始まらないためです。
わたしが詩論は書かずに詩人論は書く、というのも、そうした「文学的世間話」のなかから「詩の本質」が光としてかいま見えてくることを期待してのことになります。もっとも、そうした傾向はわたしがクリスチャンだからであって、「隣人を愛せ」という言葉に盲目的に従っているからです。偉くもありませんし、文学的に重要な姿勢でもないものです。
ただ、詩の「日常生活環境との繋がり」ということについて、今詩における表現として何が求められているのか、ということを考えれば、それは現在にあってますます重要になってきている「自由」ということじゃないかな、とは思っています。カオスではなくて秩序としての自由。「これは自由だ」と自信をもって言える、そうした限りにおいての自由。「多様性」なんていう新しい言葉は、「自由」という言葉の言い換えにすぎないと思っています。なので、教育関係者や為政者らがとんちんかんな「多様性」を振り回すのではないでしょうか?
多分、足立さんへのお答えにはなっていないと思うのですが……ただ、詩を読むということは作者における直観をトレースする行為であり、精神的な面において理学療法的な効果ももたらすものだろうと思っています。作者にあって、詩を書くためにはインスピレーションを待つ必要があるように、読者の人生にあっても詩を読むためのインスピレーションが必要となるように思うのですが、どうだったでしょうか。

まとまってもいませんし、これは「考えたこと」であって「感じたこと」ではないのですが……これもわたしらしい解答と言うことで。

※少し修正しました。
 

[136]足立らどみ[2024 04/09 08:30]鵜飼千代子
歌じゃなくて
管を巻く
 

[135]足立らどみ[2024 04/09 05:55]
おぼろんさんやハァモニィベルさんの「ストイックな学究」は凄いし
このサイトで文章を露わにして「後輩たちに伝えている」のも大切で
あと欲いうと日常生活環境との繋がりをその字で表現してみて欲しい

「正しい生活をしていたらその人の才能や性質は正しく発達していく」
のは素敵な考えだけど、今の令和の現実の社会は表面はサラサラでも
実際はどろどろの沼のなかで今後どう進めば良いのかもがいていて痛て

平成にいた場末の居酒屋で知らない若者(私)にうだをまくお年寄りには
反面教師でなりたくないなとこのこのサイトが陶冶しても足りない言葉の
隙間を埋め尽くしてくれる毎日を提供することで私も愉しみたいのだろう

お別れの言葉をいう季節は過ぎてしまっても
私は私の心の詩人たちにやっと「さよなら」と
言える、そっと呟ける
そんな気がするんだよね
 

[134]おぼろん[2024 04/07 19:16]
ハァモニィベルさんらとの会話を通して……。
例えば、孤高にすごした偉人らにとっても、「(その心が)救われた瞬間はあったのだ」と、考えることは、わたしたちが豊かに生きることにもつながってくるのでは、と感じ。
あくまでも、このスレッドは「詩とは何か」について考察する場ですが、孤独というのは詩に含まれる重要な要素であり、ある時にはその詩人における唯一の要素でもあり……
そうしたことを鑑みても、「救われた瞬間はあったのだ」という思いを持つことは重要なのではないか、と。いろいろと記憶を探ってみましたが、こうした感覚はV.E.フランクルの主張に近いかもしれません。
要するに、「それでも人生にイエスと言う」という(書名にも現れている)スタンスです。個人的な感慨を言えば、ここ(現代詩フォーラム)は、芸術論のみを謂いする場であってはいけないような気がします。また、それだけの歴史ももっているサイトだと思っております。
 

[133]おぼろん[2024 04/07 01:07]
ひだかたけしさん。

>要は融合、
>批判差別優劣化の理性ロゴス論理

まず、上記の件について、わたしとひだかさんとのメールのやり取りにおいて取り交わした言葉でもある「融合」ということについて、この掲示板(会議室)を目にした人にとっては、馴染みのない、唐突な言葉に感じられるだろうと思うのです(メールでも数度、意見を交わしましたね)。
ひだかさんの人としてのあり様をわたしなりに目にし、追究して、わたしなりの、ひだかさんにおける「融合」という表現にたいする理解や意見もないことはないです。ですが、この現代詩フォーラムの「会議室」という場の性質上、もう少し詳しく「融合」という言葉について述べていただけるよう、お願いするものです(「詩」的な思考・印象にそった言葉でも構いません)。
もっとも、この場が独り言やアフォリズムを呟く場であると考えられているのであれば、上記のこと、また下記のことはスルーしていただいてもかまいません。
上に書いたことを踏まえて……、ひだかさんがわたしの発言のどの部分をもって、「融合」という言葉を感じ取ったのか、わたし自身でも少しく把握するものではあります。例えば、「『対立』というものは『対話』によって解消され得る」という部分もそれでしょうか。
ですが、今のわたしは「言語」というものを「口頭での会話/コミュニケーション」に限られるものとは捉えておらず(厳密には、「口頭での会話」というのがはたして意味を指示し得るのか、ということにも疑問を持っています)、認知言語学の考え方に添った「言葉(あるいはコミュニケーション)」の理解というものをもって、コメントなどを書かせていただいています。──ここでは、エクリチュール、すなわち「書き言葉」については取り上げません。
ひだかさんの認識は深い、深いと感じます。ですので、お時間があれば、また体調が許す限りにおいて、「融合」という考え方/感じ方について、もう少し詳細に述べてはいけませんでしょうか。でないと、この「対話」を目にした方たちは、「ああ、あれはあいつらの馴れ合いだね」という感想を持ってしまうのでは? と思うものなのです。
詩的言語による表現、批評的言語による表現、それは異なってしかるべきものだと思っています。であれば、着地点はどこにあるべきか? それは、「馬鹿でも分かる表現」「猿でも分かる表現」だと、わたしは思っています。わたし自身が「馬鹿」であり「猿」なのです。ですが、そうしたスタンスは、今現在の現代詩フォーラムにおいては、「なくてはならないスタンス」だと思っています。
「認知言語学」は「生成文法」という考え方に続いて現れた考え方で、簡単に言えば脳機能にもとづいて「言語」の使用ややり取りなどを物理的な視点、あるいは脳科学的・生物学的な視点にたって解釈する、という言語学の手法になります。
わたしがとくに注目するのは、Wikipediaにも記載されている「意味は静的なものではなく事態把握・語用論的面を含めたダイナミックな『概念化』として記述する」という点でしょうか。要するに、「言葉」は「物理」である、という考え方です。……もう少し踏み込んで、わたし独自の解釈を加えるなら、「言葉」とは「習慣」であり「歴史」である、といった考え方になります(文学慣れしてしまっていて、このような書き方は実は正確性には欠けるのですが)。
こうした考え方が、ひだかさんの急な課題として認識されないようであれば、どうぞスルーなさってください。なお、取り交わしたメールの内容などについて、具体的に言及することは今後ともありません。何卒、この「現代詩フォーラム」という公共の場において、「読み手の理解を深める」という考えにいたったときにのみ(あくまでも善意のみに基づいて)、レスをいただければと思うものです。

ハァモニィベルさん。

>人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう

深く、また同意する言葉です。

※眠れず、編集しました。
 

[132]ハァモニィベル[2024 04/06 23:02]鵜飼千代子
>>120 について、以下補足しておきますね。最後に。

某県知事(もはや早くも元知事ですが)の差別的発言とそれへの糾弾的報道。
この両者に対して、ワンセットでね、僕はこう考えたわけです。

マスコミが差別反対の立場を取るのはいいとして、であるならば、
〈差別発言〉に対して彼らも差別すべきじゃないだろう、とね。
「サベツだ。サベツだ」と低能に騒ぐのでなく、発言の内容そのもの自体の非論理性を追求すべきなんでね。

「知事、貴方は例外は無視ですか?」とね「一次産業従事者にも当然優秀な人はいるし、公務員にも当然低能な人がいるのに、
個々の実情や実態は見えないんですか?」と、まともに疑問を呈すればいい。行政は個人個人の事情は無視ですか?
とね。

しかし、マスコミ諸君はなぜか、そういう風に言えない。なぜか?
それは、彼らもまた、同じように、例外や個々の事情は見えない
そういう公式処理のメガネをかけてるからでしょう。何でも一定の型に嵌めて公式で処理する無思考なメガネをね。

だから、両方とも私からサルに喩えられてしまったわけです。



サベツに関していうと、勿論、権力者による非合理的な差別は、憲法に違反し許されるものではありません。
ただ、合理的な差別は限度を超えない限り許容されます。法というのは最低限を画する社会の規則ですから、
ですから、道徳の方が、もっと広く遥かに高いモラルを個々人に要求します。
その中でもおそらく人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう。《仁》という愛と思いやり
を説いたわけですが、その人が、はっきりとした差別(区別)をしている事がありますよね。

   小人 と 君子 の区別

がそれです。


アノ元某県知事も、「世の中には小人が多い。だが君たちは君子たれ」、とでも言えば一理あったでしょうが、
御本人が君子といえるほどの人物ではないから、そういう風には言わないわけで、ただの功利主義の小人の差別的言辞しか発せない。


君子と呼べるほどの人物ならば、きっとこう言うでしょう。
「いま目の前に大勢いる君たちの中に、どれだけ、君子と呼べる人材が居るのか、いま、わたしには判らないが、
君たち一人一人の、これからの言動によって、それは自ずと明らかになるだろう」


と。そんな事を感じて、>>120 は書いたわけでした。(以上補足まで)


いろいろ勝手に書かせて頂き有難うございました。失礼しました。
 

[131]ひだかたけし[2024 04/06 22:56]
おぼろんさんの感じ方考え方、
要は融合、
批判差別優劣化の理性ロゴス論理
超え出た声ヒビキ
なんだなぁ…と、直観としてゝ。
 

[130]足立らどみ[2024 04/06 06:50]
めもめも

やっと水飲み場迄はたどり着いた、かなワン?かなワン?
残りの人生、まだまだ続くのだからさ頑張ってほしいかな
この日このときこの場所であなたと出会ってしまっただけ

さて、私も気持ちを新たに生きるだけ生きていこう
東京砂漠で地面ばかり見つめないで上を向いて歩こー   
新しいスタート2024年度はすでに始まっている
 

[129]おぼろん[2024 04/05 23:06]
「孤独」に関するわたしの認識について、わたしの考えていることを追記させてください。まず、「孤独」という言葉は文字通り「独りにしてある」ということを意味しているものと思います。
ここで、ひだかたけしさんの言葉を借りますが、「孤独」と「孤立」とは、やはり異なるものです。
日本における文章表現の課題として、現在使われている言葉の多くが、主に漢字による言葉のことを言っているのですが、明治維新以降(もちろん、それ以前の文化人たちによる「言葉の翻訳・翻案」も含まれます)に作られた、「やっつけ感」のある言葉であることは、文学に携わる者は深く認識しておかなければいけないことであると思っています。
例として、批評家の小林秀雄は「常識」や「表現」といった言葉に関して、それが西洋由来の(言葉として使用された歴史の短い)言葉であり、その言葉を使用・理解する場合には、深い注意が必要である、という旨のことを書いています(小林秀雄著「常識について」などを参照していただければと思います)。
わたしは若い時期に小林秀雄の考えに触れたので、そのように「言葉」というものは「流動的」であり、かつ時によっては「個人的」なものであり、また「時代によって変遷する」ものである、という認識を持っております。
わたしは、性格上、ディベートですとか、論戦においてマウントを取る、といったことを好みません。これは、イギリスの作家・批評家のE.M.フォースターの考え方に深く感化されてのことなのですが、「対立」というものは「対話」によって解消され得るものと考えております。
わたしもネット初期から文章を投稿しており、当時の活発な議論、闊達な論者の意見は、少なからず知っております。ですが、今重要なのは、「対話においてマウントを取る」ということではなく、対話の過程においてさまざまな知見が披露される(そこには、個人としての考え方や思いも含まれる、否むしろそれこそが重要である)、そして、議論に関わった者や、それを目にした者がさらに認識や理解を深める(ここでは、「知識」ですら、排斥されるものではありません)ということなのではないでしょうか。
足立らどみさんとハァモニィベルさんとの「論戦」のようなものを傍から見ていて、そういうことは今のインターネットでは貴重だなあ、と感じていました。
わたしは、(わたし個人における主義なのですが)「解題」というものを好みません。例えば、文芸批評という文章表現などは、「読書体験」を一つのノンフィクション(場合によっては、フィクションでさえあり得る)として再構築する行為であると、考えています。
前置きが長くなってしまいましたが、「孤独」ということの解釈・認識・受容においては、まず「孤独感」というものをやはり最重要視してとらえなくてはいけないことなのか? と、ハァモニィベルさんの投稿を読ませていただき、再び感じました。
こうした感じ方(考え方、ではないですね)は、”ディベート”や”マウントを取る”といった考え方(生き方)が重視されがちな現代にあっては、「再度改めて深く感じ、受け入れなくてはいけないスタンス」であり、場合によっては「新鮮なスタンス」でもあります。
わたしは、例えばWikipediaにおける「典拠第一主義」を評価しません。何よりも、Wikipedia自体がほぼインターネット上における文献のみに依存しており、正確性もないどころか、時には「全く誤りである」記事も多くあるからです。このように、文章(言説)における信憑性というものは、はなはだあいまいなものです。時として、「個人の感想」に由来したほうが、真実に近い場合もあります。
再度、「孤独」という言葉に帰りましょう。「孤独」ということを深く、考え、感じることは、「人が精神的に豊かに生きること」にもつながってきます(それが人間という存在を再解釈することだからです)。ハァモニィベルさんのおっしゃる通り、人は本質的に孤独なものであり、それは誰によっても(神によっても)変えられないものです。
ですが、長年文学に(アマチュアながら)携わってきた者として、この「孤独」という概念を最重視することは「独我」という短絡的な世界観につながってしまうのでは? ということも危惧するものなのです。「独我」という世界観は、哲学という分野においては”広く使われ/知られている””世界観/考え方”であり、時によっては”理論/議論”を進めるにあたって、有用な方法ではあります。
「孤独」という言葉の認識について、わたしなりに迫ってみましょう。「孤独」という言葉に翻案されるのを待たず、そうした感覚はわたしたちにとって日々感覚されることです。
そこで、わたしたちはなぜそうした「日々異なる概念」を「孤独」という言葉に”翻案/集約”しようとするのでしょうか? わたしたちの感覚とは言葉によって代表(代替)されるものではなく、保証されるものですらなく、いたってあいまいかつ「肉体的(身体的)」なものだからです。ある個人Aにおける「孤独」と、ある個人Bにおける「孤独」とは、全く異なった感覚・知覚であるかもしれず、否むしろそうであろうとも思われるのです。
でしたら、わたしたちはなぜ「孤独」という言葉を使うのでしょうか? それは、個々人間、あるいは個人と社会の間における知覚・感覚を標準化することによって、相互の理解を深める(または一から構築する)ということを目的としたものであるからだろうと考えています。安い言葉ですが、わたしたちは「相互のコミュニケーション」のために、言葉を使うのです。
詩人というのは、えてして、というよりもその存在理由自体として「自分流」の言葉を使う存在ですし、「人」の集まりという社会においては、そうした存在はなくてはならないものでもあるのです。
「孤独」という言葉は、そうした存在、あるいは人という存在の基底における、「ある種の慣用句」「スラング」ですらあります。本質は言葉自体にあるのではなく、個々人の意識・思いにあるわけです。ですが、そうしたことを他者に伝えようとするとき、そこにはどうしても齟齬が生じる危険性をはらんでいます(人と人というのが、根本的に異なった存在であるからです)。
そのことを「後から理解しあえば良いや」、とわたしは考えてはいません。その一次時間において、”会話/対話”する「者たち」は、言葉の相互理解を前提としていなければならないのです。
ただ、わたしはここで再び大きな影響を受けた小林秀雄の”感じ方/考え方”に帰るものなのですが、「孤独」という言葉を言葉として、あるいは意味として、あるいは感触としてとらえるとき、わたしたちはまず日本語的な表現である「ひとりある」という表現に帰らなくてはいけないのでは? と思うものです。
明治以降の西洋化された社会にあって、わたしたちは「孤独」という言葉も、反省されず日常語として使用される言葉として、無自覚に使ってきたものと考えています。だからこそ、とくに(戦後以降の)文学においては、「孤独」に関して、さまざまに表現してこなければいけなかったわけです。
ハァモニィベルさんが「孤独」という言葉を使用されるとき、そこにハァモニィベルさん自身の経験・生きてきた歴史・感覚といったものを見取らなくてはいけないことは、わたし自身も認識しています。それが「人を分かる」ということです。ですが、「孤独」という現在では標準化してしまった言葉を使う以上、そこには「異なる認識や理解」「再解釈」なども必要となってくること、を、「わたし自身の思っているところ」として、認識していただければ幸いだと思う次第です。

……今回投稿することは、急いで補筆していることでもあり、より正確に読み手の方に分かっていただくためには、より精確な表現が必要なことと、思っております。とりあえずの返信・補筆として。
 

[128]おぼろん[2024 04/05 21:58]ハァモニィベル
ハァモニィベルさん。

反論でも反証でもなく、読み手のための注釈といった気もちで書いたものになります。ハァモニィベルさん自身の投稿作も読ませていただいておりますし、そこに深い「孤独」についての認識があることは尊重いたします。また、今回の書き込みによってより深く理解できたと思います。
まず、誰かの孤独について(彼/彼女が孤独だったのか、どうかという点について)、本人の言葉や思いを尊重することは大切だとわたしも思います。ですが、客観的に見て、「彼/彼女が孤独だったのか」ということを、他者として考え、判断する、ということも大切だと思うのです。
今回、ハァモニィベルさんはアインシュタイン自身の言葉を引用してくださいました。それによって、読み手のアインシュタインに対する理解も深まるものと思います。繰り返しての補筆になりますが、わたしはあくまでも「読み手のための注釈」という気もちで当該のレスを投稿したことは、どうかご理解いただければと思います。
人における「理解力」(わたしが思うところ、それは「共感力」という価値感に近いものなのではと感じます)というものを重視されるハァモニィベルさんの姿勢は尊重したいと思います。
 

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