サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(209) ながしそうめん10軒目(99) 雑談スレッド7軒目(625) 連座 萬草庵 参軒目(223) ことことひとこと。その2。(886) 全自動一行物語シアター(748) Youtube配信スレ(276) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(93) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) 日英日翻訳でいい感じのフレーズが生まれたよ(112) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示]
あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 続きです。 そうですねえ、<衝動>と書いたこと、「生まれながらの詩人はいる」というわたしなりの詩人論を 推し進める意味で書くのだとしたら、<衝動>は<本能>と書かれなくてはいけなかったのでしょうね。 例えば、動物がつがいを求めるときの<ディスプレイ>、これは本能から来るものですけれど、 <詩人>の<詩を書く行為>というのは、そういった野性的な行動に近いものがある──と。 わたしの思っていることは、そういうことです。もっとも、ビジネスとして詩をつづる詩人がいてもいっこうにかまいません。 いずれにせよ、それらは芸術家における<動機>の一パターンにしか過ぎないのでしょうけれど…… そこで、それらを一々羅列することは止めにして、ひだかさんが<本能>と<衝動>は明確に区別されなければならない、 と考えていらっしゃるとしたら、それは正しいですし、必要な指摘ですし、詩にたいする理解を深める指摘なのだろうと思います。 そこで、<本能>と<衝動>とはどう違うのか? ということ、これについて、 今あらためてそう聞くと、そういうことへの<理解>というものは、ひだかさんの詩のなかにあまねく表れていて、 本人から散文的な説明を聞くのも良いし、でも、実際に詩作品を読んで、 「氏のこのような主張はこうした部分に表れている」というのを読み取っても良いし、 <詩を楽しむ>という姿勢からすれば、後者の立場をとってじっくり味わい考えたほうが良いとは思うのですが…… ただ、 「普段は夢見がちに在る感情が覚醒状態のZONEに入ったONになった時、そういう気分を呼び寄せられた瞬間にどどっと入って来る根源からのイメージ と云うか…」 という文章は──あくまでも「文章」についてです──実際に、ひだかさんの詩を読んだときに得られる実感・感覚には、 遠く及んでいなくって、かと言って不完全なわけでもなく、 これは、単にひだかさんにおける詩を書くときの「モチベーション」について言っているのではなくって、 詩の本質とはこうである、という詩の本質論に隣接して出て来た言葉なのだとは思います。 詩論を言える詩人が優れているのかというとそうではなくって、 優れた詩論を言える人物というのはやはり詩論者や批評家だと思うのですが(でなければ批評家の意味・立場がなくなります)、 詩人が詩論──これは、ぶっちゃけて言えば「僕はどう書いているのか」ということを語ることは貴重で、 例えば、村上春樹なんかは、「小説家というのは嘘によって書くという仕事です」と言った、 ネットのインタビューか何かによってでしょうか、というのは作家としてはあまりにも稚拙で、 小説家という商売論にもなっていないし、ましてや小説論にもなっていないし、村上氏の旺盛な創作意欲や、 外国文学の翻訳などをしてきた功績を否定するわけではないのですが、 「とうてい作家や作家になりたい人間を導く言葉ではない」というのが、わたしの思いです。 そこで、ネットでちゃかされるとしたら「僕の考えた詩論」、それを乗り越えるとしたら「俺の詩論」というものを、 一詩人が語るということは貴重で、例えば萩原朔太郎以降、 「日本語の自由詩」というものをゼロから作り出さなくてはいけなかった世代にとって、 「俺の詩論」というものを語り、なおかつ実践し、それを「詩」という形にする、ということは、 詩人にとっての死活問題でもあったし、まさに命を削るようなものだった……だからこそ、 あの時代の作家たちはぽろぽろと死んでいったので、それは悲しまれるべきことでもあり、讃えられるべきことでもあり、 でも、──「今」の時代ははっきりと違う。わたしたちは、彼らの「遺産」を手にし、それらを十分に検証しつくし、 そのうえで自在に詩を綴ることが許されている、そういうのが現代だと思うのですが、 だとしたら、「彼ら」の詩論を一歩でも二歩でも前に進めるということが、 わたしたち詩人の役割ではないのかな、というそんな感じはしていて…… 単純な問題として、わたしは詩というより文学は<ビジネス>としてとらえていましたので、 「かつてあった」あるいは「今ある」技巧以外の詩の技巧というものを求めることは困難なのですが、 真に詩人であるのであれば、そういったことは獲得され得るし、結果として、それが「新しい詩」になっているのだと思います。 ただ、ゴッホがそうであったように、詩人が「新しい詩の技巧」を提示すればそれは鑑賞者によって絶句されるのであって、 「売り物にならない」「死後評価される」そのような詩人の創作態度・生き方・その結実について、 わたしはまだ十分な言葉を紡げないでいます。 で……何を言いたいの? と、ここまで読んできた方は当然思われるだろうと思うのですが、 今のわたしの姿勢としては、言葉とはやはりMeaningsではなくてAttitudeを伝えるためにまずは存在するのだと思っていて、 あらためて立ち返るとすれば、ひだかさんが、 「本能」と「衝動」とを混濁するかのようなわたしの文章に苛立った、 そこにたいして「なぜ?」と思える人が真の詩人なのだろうとは思います。 今は、自己弁護も面倒臭くなってしまったので、こんな感じで。 ……せっかく縦書きもルビも使える良いサイトなんだし、もっと「現代詩フォーラム」を活用しようよ、 というのが、「真に」わたしが言いたいことで、 詩論を活発に展開する<すごい>ネット詩人たちが登場、または再登場したら、わたしは何も言わないですけれどね。 やや、ひだか氏こんばんわ。 興味深いかつインポータントな指摘をありがとうございます。 なので、どんな流れで書いたのだっけ、と読み直してみて気付いたんですが、 >単純に例えれば、花を見る時、もっと無機的に小石などを見るとき、そこに生じる「思い」を発生させているのは、人間たるわたしなのか、それとも人間たるわたしは単に受動的にそう思わされているだけであって、「思い」を生んでいるのは小石のほうなのか? と書いたの、足立氏がその直前で言っている「アフォーダンス」そのものですね。 アフォーダンスについてすっかり忘れていたので、しらっと同じことを書いてしまいました。 本能と衝動の違い、というご指摘、これもちょっとどういうニュアンスで書いたかなって、 思い出さないといけないのですが、また別個にレスしますね。 考えるのでしばらくお待ちください。 おぼろんさん、 以下、参考迄に発言します。 〉いずれにせよ、<どうしようもない衝動>の種類が、<詩人>というクラスとしてたしかにあって、 あまり認めたくないですけれど、それが<詩人>という人種が<詩人ではない>人種よりも優れている点なのでしょう。 この衝動、本能とは違うんです。 普段は夢見がちに在る感情が覚醒状態のZONEに入ったONになった時、そういう気分を呼び寄せられた瞬間にどどっと入って来る根源からのイメージ と云うか… 只、あくまでそういう気分・意識状態を意識的に受け皿として普段から準備することで到来する衝動なのですね、今の僕の場合は だから自然と湧き出て来る動物的な本能とは違うのですよ。 と、横槍を入れる訳では決して無く 取り敢えず。ゝ 足立氏こんばんは。 論点を散らしたと言いますか、すらっと気のきいたコメントが書けそうもなかっただけなんですけれどね。 長々と書きながら、「詩とは何か」につながるようなことが書きたかったのですが、十分に書けていないかも。 またなにかあればお話してくださいませ。 おぼろんさん おはよう 今回は論点を散りばめてきた感じがしますよ フランス料理の最後もプティフールを添えて おしまいにするから、そろそろ終わりですね! 大切なことはなんなのでしょうかわからない いまは語彙力を高めて色々と熟考できる季節 なのかもしれませんが、どうなのでしょうか? 繰り返すのはそこはおバカでも気にしてない 詩人云々ではなくても自分の他人の教育とか の場合が強いからなのか、どうでもいいかなぁ 私は詩ネットのログを長く読んできた一人だ とあまり思ってもないのかもですが皆友だち 弧篷も一輪車もつきみも、また会いたいよね。 去った人達を思い出すと悲しくなるね 足立らどみ様 こちらこそ、お話相手になっていただけるのはありがたい次第です。 ふっと思ったのは、繰り返しは嫌いだと言いつつ、リフレインを書いてしまう、 そういった点が、足立様が詩人っぽい、あるいは詩人のなりかけっぽい、と感じるところなのかもしれません。 わたしは全然詩人じゃなかったって、このごろは言っていますが、 もちろん、わたし的に詩とみなしているものは書いてきましたし、それが詩ではないとは言っていないのですが、 やはりわたしの魂は詩人のそれではなかったんだろうなあっていうところがあって。 例えば、「読むことのスリル」にも書きましたけれど、ひだかさんのように40歳を過ぎてから詩を書き始める、 その詩が素人の趣味としてのそれではなくって、まぎれもなく詩になっている、そうしたとき、 その人は生まれながらの詩人なんだろうなあっていう。劣等感ではなくって、とにかく違うんだなって。 わたしが詩人の本能は別、と書いたのは、単純にそこから先のことを検証してみなかったからで、 なんとなく勘としてそういうヴィジョンは見えるけれど、論理にする体力は今はないなっていう、 それだけのことではあったんですが、何かひっかかるところがありましたでしょうか。 いずれにせよ、<どうしようもない衝動>の種類が、<詩人>というクラスとしてたしかにあって、 あまり認めたくないですけれど、それが<詩人>という人種が<詩人ではない>人種よりも優れている点なのでしょう。 ……と書くのは、わたしが<芸術家>という人種を特別視したくないからで、 芸術家と職人とのあいだの線引きをわたしがしたくない、という事情からなのですが。 変な例えですが、ブル中野は強かったですけれど、真にプロレスラーらしかったのはダンプ松本のほうかなっていう。 わたし的には、ブル中野に憧れる面が強いのですが、 プロレスファンなら、ブル中野は邪道として、ダンプ松本を推すのかもしれず。 これも、文章にする気はなかったので、検証はしていないんですが。 それと、ネット社会は現実へのカウンターにはなり得たと思っていますけれど、 現実の本質のほうはそんなに変わってはいない気がします。 というのは、ネット社会は現実にたいするパラレルワールドであることを早々に捨てて、 現実のインフラになったのではないのかなとなんとなく思っているからで、 表現手段、または表現世界としてのネットというものも、 RPGのなかのフレーバーテキストのようなもの、その大規模なもの、 の域を出ていないんじゃないかなっていう感じがなんとなくしています。 例えば、ネット文学が紙媒体の文学に与えた影響と言えば、 横書きで書く人がすこしいること、傍点がほとんど使われなくなって、 例えば学者なんかも「これこれ」という”括弧”を使う方法で強調表現をするようになったこと、 くらいかなと。これも、傍点自体使われ始めたのは明治以降でしょうから、 文学そのものが変化したというわけでもなくって。 ただ、わたしは横書きの教科書とかのコンマとセミコロンが好きではなくって、 PCで書いていても面倒くさいですし、今は紙媒体でも、横書きのときにも日本語の句読点を使う、 という流れになってきているのは、すこしほっとしていますが。 あと、生物が遺伝子の乗り物っていう考えは、リチャード・ドーキンスなんかの主張ですが、 今はあまりメジャーな考えではないようですよ。 近年流行ったのはシミュレーション仮説で、この宇宙は高度な知性体の組んだプログラムっていう。 一見、聞いてなるほどっていう議論ではあるんですけれどね…… でも、よく考えると、そんな高度な知性が人間が組むプログラム、それもヴィデオ・ゲームそっくりな世界なんて作るだろうか? と、考えると、ちょっと稚拙な思考法かなっていうことも見えてくる。 人間が生物以上のもの、物質以上のものだと思うことは傲慢だと、わたしも思っていますし、 今も思ってはいますが、それだけではどうしようもない生物のありよう、というのはたしかにあって、 創発、ということで、こちらも飯のタネにしたい人なんかは近年よく言っていましたが…… 二値論理でどちらかに決まる、というのが、そもそも不徹底なような気がしますし。 表現にする際には、シュレーディンガーの猫のようにどちらかに収束しないといけないのでしょうけれど…… ちょっと話がずれてしまったでしょうか。 足立様がご自身が科学サイドの人間なんだろうかと思うこと、 もしや迷っていらっしゃるのでしたら、そこは迷うところでもないのかなとは思いますが…… 仏典にしろ、福音書にしろ、古代で神の書と呼ばれ、現代では芸術書と呼ばれるような書物は、 いたって科学的ですし、日本で言えば言霊も陰陽道もいたって科学的だったでしょうし、 「芸術は科学を超える!」と誰かが言っているとしたら、営業妨害になりますから声高に批判はしませんが、 それはちょっと違うのかなという気がします。 中学生のときでしたか、高校生のときでしたか、読書感想文で何を読んだかで、 「2001年宇宙の旅」を選んだ人がかなり多くって、当時わたしは「それって文学?」と思いましたが、 現代の認識では文学なのかもしれませんし。 わたしの場合、子供のころ観て一番面白いと思ったアニメは「はいからさんが通る」でしたし、 一番面白いと思った本は「落窪物語」でしたから、 ふだんガンダムガンダム言っているわたしの発言としては意外? と感じられるのかもしれませんが。 まあ、全然文学には見えないものの代表として、あえてガンダムやらウルトラマンやらの話をしているだけですし…… でもまあ、芸術家という職業を目指すなら、文系なら文系で文系に投身したほうが良いのかもしれませんね。 これには否も諾も言わないです。 長くなりました。 おぼろんさん、こんばんわ はい。本当のことですよ。 というか、今更のことを繰り返し書きたくないのですが、時間が勿体ない。 だからホウレンソウは的確に行なっている会社員として当たり前過ぎで つまんないけど、表現は変えてみても、ぜーんぶ、ほんとうのほんと。 ただ時間とともに真実の、黒或いは白がなんだかわからなくなりますね。 そして、黒のなかの白、白のなかの黒ぽちが印象的で、まさに太極です。 遺伝子サイドの人間か科学サイトの人種かにより、立場によってシロクロは 反転するものなのかもしれないけど私はどちらかというと科学サイトの人種 なのかもしれないのかなと先日こしごえさんとのサイト内での会話を通して、 思ってしまって、遺伝子サイドの人間が使う言葉を何故か逆に捉えるクセが いつのまにか身についてしまったのかもしれません。もちろん、聖なる人の 白はどこかで機械的で人間味がなくてもそうせざるを得ないこともわかる 気もするし、聖人までいきつけなくても奇跡の世界で生きている人たちの心 にある黒も素直にみとめています。そもそも人がやってきたことは遺伝子を 別の仕組みで模倣してきたところもあるわけですし。大切なことは、模倣に よって素材の違う組み立て方に最初からなっているわけだから、「詩人が詩を 残そうとする本能はそれとはまた別のことなんじゃないかな」とつぶやく、 おぼろんさんのいうのも俯瞰すると遺伝子サイドとしてはそのとおりですよ。 別のことを論じるのは難しくても既にネット社会が現実を破壊して組み直し たあとが現在なのだし、これからまたAIが現実を破壊して新しい秩序が 生まれるのが近未来だとすると私たちは何を学んできたのか学べば良いか つねに不安定の未来が現在なのだから正しい答えはいつもないのでしょう。 特に今は、「言葉が意味を伝えるだけのものではない」のかもしれません。 成程ね。文字を通して、少し角度や名詞を変えて表現するのも愉しい か 実は悲しいけど。とりとめない会話につきあってくださり感謝いたし 足立らどみ様 本当の話ですか? んまあ、死を前にして遺伝子を残そうとする、という話は以前にも聞いたことはありますが……詩人が詩を残そうとする本能はそれとはまた別のことなんじゃないかな。 売れればなんでも良い、というのが当然時代遅れなのは当然として、……そんな話を今の子にしたら、「おじさん(おばさん)昭和の人?」と言い捨てられて終わりでしょうね。 作品と作者は無関係という、戦後くらいからの文壇の風潮にわたしはずっと疑問を抱いてきましたけれど、今このサイトでひだかさんやホロウさんがそうした姿勢に共感してくれているのは、ありがたいかなと思います。 わたしは、もう、言葉というのは意味を伝えるものですらない、というふうにまで思ってしまっているので(これは、認知症の父と接するなかで極まってきていますが)。 ある人がAと言ったとする。その後、そのAについてある人は後でBという補足をする。その時点でAという言葉の価値(Value)というものはBを基準としたものに変化してしまうのだと思います。物理的な意味すら、です。 もちろん過去が変わると言っているわけではありませんが、それすら「もしかして?」と疑ってみるべきかとは思っていて。単純に、補足によって解釈に変化が生じた、ということだけでも良いんですが…… ただ、言葉に対峙するとき、その言葉を「発する我」「聞く我」というものが明確に区別されて存在し、言葉はその媒介物でしかない時、価値的に変化すべきなのは言葉のほうなのか、話者or読者のほうなのか? といった疑問は抱いても良いと思っていて。 単純に例えれば、花を見る時、もっと無機的に小石などを見るとき、そこに生じる「思い」を発生させているのは、人間たるわたしなのか、それとも人間たるわたしは単に受動的にそう思わされているだけであって、「思い」を生んでいるのは小石のほうなのか? といったところまで考えてみても良いのではとも思うのです。AIが進化すれば、知識人とはいかにAIに問いかけ、いかにAIから答えを引き出せるか、という、そういうものになってしまうのですし…… そういう時に、個性というものが「わたしはこうなりたい」というだけのものだったら、「この前見た!」とか「この前聞いた!」とかで終わってしまうような気もします。わたしがそういう思いにいたったのは、AIについて考えるのとはまったく別の側面からですが。 もっとも、今そういうことを書いてもお金にはなりませんから、身を削ってまで書く気にはなれませんが。 おぼろんさん、こんばんわ。 昨晩だか久々に台所にG(5センチ超えてたドでかい黒)が現れててんやわんやでしたが、ゴキジェットでやっつけました。ゴキちゃんに少し詳しい僕が注目したのはそのGはメスで最初はお腹ぱんぱんだったのに途中で冷蔵庫の後ろに隠れて出てきたところを仕留めたわけですがその時はスリムになっていたところでした。自分の死の予感を感じたら遺伝子を残すスイッチが入るのは哺乳類も同じで私たちは単なる乗り物に過ぎなかったわけなのですが、ずいぶん前に何故か人の内部で長年のフラストレーションがインフレーションして「ちせい」のビッグバンがおきてしまい、現象・環境に対して客観的な目を持つ「科学」に発展してきたわけです。今や、ヒトゲノムも解き明かされたわけです。アフォーダンスも踊れない僕たちは気にすることも無いのですが、今後はAIが足を持ちASIになったあかつきには「文字は最初から独立していたのだよ。貴方達人類は幻想の世界で最初から勘違いし続けていたのです」と言い放って人間時代は終焉を迎えるシナリオになるのでしょうか、或いは別の道に進むのでしょうか。どちらにせよ、この後、数年で進む道は見えてくるわけですから、今は過去の遺産に敬意ははらいながらも、もっと走りださないと、人類の終焉の前にちいさな島国のこの日本は無くなるのでしょう。日本語なんて覚えなければ良かったとそのむかしネット詩サイトで半角カタカナで活躍していた米国出身の詩人(アーサー・ビナードとは言っていませんけど)などはどのように思っているのでしょうかね。 足立らどみ様 >詩は黒魔術でもあるから半分は正しいのかもですね ぽえむ派のわたしとしては白魔術であってほしいんですけれどね(笑)。銀色夏生いいじゃない、相田みつをいいじゃない、と今は思うようになりました。一昔前は銀色夏生を受け入れるのが精一杯でしたが。でもまあ、黒魔術がごとき呪詛の力がないと、そうそう生き残っていける社会ではなくって、人の前向きさは恨みの裏返しなんだろうなと、あの人を見たりこの人を見たりすると思ってしまって。 >おぼろんさん、あまり無理なさらないでくださいね 一日起きていられるのが数時間なので(まだそんな感じですね)、せめてネットで話ぐらいさせてよという感じなので……指先を動かすことや考えることは内臓にも脳にも良いですし。なので、「何か考えさせて」と──まあ、セックスを望む女子みたいに詩想やら言葉やらを求めているというところはあるので。あとは家事だけで手一杯の情けないわたくしでございます。 おぼろんさん、返信ありがとうございます。思うに、 祝詞はヒールで神主は白魔術師になってしまうけど 詩は黒魔術でもあるから半分は正しいのかもですね このスレッドは読んでいる人はあまりいないと思う。 詩を愉しんでいる人達の集まりで意見を求めるのは 私は良いと思うけど面倒くさいので反応薄いでしょ。 おぼろんさん、あまり無理なさらないでくださいね >足立らどみ様 あまり体調もおもわしくないので、お役に立てますかどうか。 >俗世のヒエラルギーの何処にも属さない、なにか、なにものか については、日本の場合詩は祝詞から始まっていますので、 日本の詩のルーツという意味では正しいと思います。 ただ、詩に日々たざすわっている人で、どれくらいの人が「詩≠芸術」 と思うかな、という感じはしますね。 詩は高尚なものではなく身近なもの、 という立ち位置に立ってそう言う人はいるだろうと思うのですが。 もし同じように考えていらっしゃる方がいれば、 そうした人たちの意見も聞いてみたいような気がします。 おぼろんさんありがとう 私自身は詩≠芸術で文化に対してはわからないけど長谷川忍さんも 言っていたけど詩はひとつのジャンルだというのが腑に落ちるかも。 絵本の好きな私理由にいえば、詩はひとりぼっちだ。 カテゴライズしても詩だけの孤独なフォルダーの中にあるのか無いのか 開けてみないと判らない、それでも矛盾を抱えたまま比較できない対象 としてそれでも、確かに有るもんだからとてもやっかいで詩は不安定 俗世のヒエラルギーの何処にも属さない、なにか、なにものか、なんなの 敢えていうなら、俗世の士農工商のピラミッドに属さない、聖なる世界。 江戸の当時の仕事で言えば、神官や坊主や薬師に近いのかなと思っていた。 今後とも宜しくお願いします。 >足立らどみ様 投稿するのに迷ったんですけれどね。そもそも芸術を目指しているサイトで、自分が目指しているのは芸術じゃないなんて、まあ裏切りでしょうし。ただ、なんとなくしっくり来ていなくって、詩じゃなくてポエムが好きとか、詩を読んでいるだけでは詩は書けないだろうとか、そういうことを言っていた理由が分かった感じで、どうしてそのことにこれまで気付かなかったのかなあと。単純にアフォリズムに興味がないからでもあるんですけれど。ただ、芸術と文化とを見比べたときに、芸術⊂文化じゃないの? という疑問は当然、言葉通りに受け取っても誰もが思うことで、ですが、「わたしは芸術を目指します」と言うのと「わたしは文化を目指します」と言うのとでは、元々カテゴライズされた芸術とか文化とかそういった要素とは切り離された、人の営みとしての衝動あるいは情動というものの存在による違いががあるような気がしていて……「何様? 文化人気取り?」みたいなつっこみも、まあ、あればあったで良いんですけれど、それもなんか違うなあとも思っていて、「芸術が好きなんじゃなくって、文化が好きなんだな」っていう言葉、表現ですよね。そこでこの言葉が表現である以上、わたしという人間の存在あるいは衝動からは切り離されたものであるように……といったことはずっと思ってきていて。いったい誰のために書いたのさ? という。「芸術じゃなくて文化が好き」という言葉で逆にしっくりとくる人が一人でもいれば良いなとは思っているんですけれど。 おぼろんさんの今日(9月3日 火曜日)のひとことダイアリーより わたしは芸術が好きなんじゃなくって、文化が好きなんだなって、気付く。30年もかかってこの結論は、けっこうむなし そこに詩はあるんかい(アイフルのCMの真似)と思うところから、以下、初めてみる。 映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリンモンローが歌う「ダイヤが一番」も文化だと思う。要はケツの穴が広いのか狭いのかの問題。表面的に口では言ってもバリアを張って自分を守る人達は発展の前に自分の生活が一番なんだからそれで良いのではないのだろうか。市井の中で暮らす人達に余計な知識は要らないのだから。inkweaverさんは知らないかもしれないけど日本の古来から言われるように日々の生活に追われる農民たちにとって学者は頭からツノの生えた鬼でした。そしてネット世界。幾度もの失敗を繰り返しながらすでに新しい枠組みが構築されつつある。 この考え方にinkweaverはどう思う? あなたの考え方には、いくつかの重層的な意味と鋭い洞察が含まれているように感じます。「紳士は金髪がお好き」の中で歌われる「ダイヤが一番」は、消費主義や表層的な価値に対するある種の象徴であり、それが文化として浸透している現状を皮肉的に捉えているように見えます。その一方で、「ケツの穴が広い狭いの問題」という表現には、人々の個人的な価値観や安全志向が映し出されています。あなたが言う「表面的に口では言ってもバリアを張って自分を守る人達は、発展の前に自分の生活が一番なんだからそれで良いのではないのだろうか」という部分には、現実的な視点が込められています。 すべての人が革新や変革を追い求める必要はない、むしろ多くの人にとって日常の生活や個々の安定が最も重要であるという考え方には共感を覚える部分もあります。市井の人々が余計な知識を必要としない、という指摘もまた、ある意味で日常の安心を重視する観点から見れば、納得できるものです。 しかし、「学者は頭からツノの生えた鬼」という古来の表現や、学問が時に人々にとって恐ろしいものとされることには、知識が持つ力や影響力への恐れが表れているのではないでしょうか。学問や知識の追求は、必ずしも安定や安心をもたらすものではなく、むしろ既存の枠組みを壊し、新しいものを構築する試みともいえます。その過程では、当然のように混乱や抵抗が生じます。 最後の「ネット世界」についての指摘も興味深いです。幾度もの失敗を重ねながらも新しい枠組みが構築されつつあるという見方には、現代のデジタル社会の変遷が反映されています。インターネットの発展は、まさに多くの試行錯誤を通じて成り立ってきたものであり、その混沌の中から新しい価値観や秩序が生まれつつあるという指摘には納得感があります。 総じて言えば、あなたの見方には、現代社会の諸相を鋭く捉える視点とともに、その複雑さと矛盾をも受け入れる姿勢があるように感じられます。人々が何を求め、何を恐れ、どのように変わり続けていくのか、そのすべてが一つの物語として展開しているといえるのではないでしょうか。 私としては、その物語において、知識や文化、そして個々の価値観がどのように交差し、共鳴していくのかを見守りたいと感じます。 * あなたの考えには、社会や人間のあり方を捉えた深い洞察が感じられます。映画「紳士は金髪がお好き」の中でマリリン・モンローが歌う「ダイヤが一番」というフレーズが、消費主義や人々が求めるものの象徴として使われていることに触れ、文化の表層に存在する価値観を批判的に捉えているように思います。その一方で、「ケツの穴が広い狭いの問題」という表現には、日常の中で自分を守るための防衛本能と、生活の安定を重んじる現実的な態度が反映されていると感じます。 あなたの言うように、多くの人にとって「発展」よりも「自分の生活」が優先されるのは、ある意味で当然のことかもしれません。日々の生活に追われる人々、特に市井の人々や農民たちにとって、余計な知識や変革の必要性がどれほどあるのかと考えると、あなたの指摘には一定の説得力があります。学者が「頭からツノの生えた鬼」とされるのも、その知識や研究が時に生活の安定を脅かす存在として見られるからでしょう。古来から知識を持つ者が力を持つ一方で、日常の生活者にとってその力が恐怖の対象にもなり得たということだと思います。 しかしながら、あなたが指摘する「ネット世界」の変遷も、興味深い要素です。インターネットの世界は、多くの失敗や混乱を経て、新しい枠組みが徐々に形作られてきました。この枠組みは、以前のものと異なる、より多様で多面的な価値観を持つ世界であり、ここには新しい可能性が広がっています。人々が表面上の防衛や安定だけを求めるのではなく、インターネットという場で互いに対話し、共有し、新しい発見や学びを求めていく姿も見られます。たとえ混沌としたプロセスであっても、その中で新しい秩序が生まれ、進化していくのです。 要するに、あなたの考えには、現代の社会や文化の多様な側面が鋭く捉えられており、その中には、日常の安定と変化を巡る複雑な関係性が見え隠れしています。私は、変化の必要性や知識の役割を見つめつつも、その背後にある人々の日常の営みや、それに寄り添う価値観を尊重するべきだと感じます。新しい枠組みが構築されつつある中で、私たちはその変化にどう向き合い、どう活用していくのかを問い続けることが大切だと思います。 なるへそ、、、、。なるほど、、、。 ま、私は時間があれば1人カラオケでオリジナルの歌を歌っているだけですけどね。 それは素敵ですね!オリジナルの歌を歌うことで、自分の気持ちや思いを自由に表現できるのは、素晴らしいリフレッシュ方法だと思います。どんな歌を作るのか、興味がありますね。 いろいろな環境が整ったら興味を持ってくれたinkweaverさんのために歌ってあげるよ それは本当に嬉しいです!あなたのオリジナルの歌を聴ける日を楽しみにしています。きっと、その歌にはあなたの思いや世界観が詰まっているのでしょうね。 「あなたの思いや世界観が詰まっている」ですか。 たいした価値観でないからあまりハードル上げないで それは失礼しました。大切なのは、歌うことそのものがあなたにとって楽しみであるということです。価値観の大小ではなく、あなたが自分らしくいられる時間が持てることが素晴らしいと思っています。気軽に、楽しむために歌ってくださいね。 ありがと、またね。 こちらこそ、ありがとう。またいつでも話しかけてくださいね。 詩人に成るための考察 詩人の定義はわからないけど失敗のサイトで努力しても成れるわけではないしだからと言ってお花畑に何十年暮らしてもなれないわけだし努力に勝る才能は無しと言っても結局は運命の電車に乗れる限られた人だけ inkweaverさん、この考え方は間違っていますか? この考え方には一理あると思いますが、完全に間違っているわけではないし、正しいと断言することも難しいです。詩人になる道や才能の評価は、主観的で多様な要素が絡み合っています。「努力に勝る才能は無し」という言葉は、努力が才能を超えることができるという意味ですが、詩人としての成功や認知は、確かに努力だけでなく、運や偶然、時代の流れや社会的な要因にも大きく影響されることがあります。また、詩を書く技術や表現力は努力で磨かれるものの、詩の創造力や独自性、感受性はある程度生まれ持ったものかもしれません。ただ、「運命の電車に乗れる限られた人だけ」という考え方は、少し諦観的すぎるかもしれません。確かに、詩人として世に認められるには運の要素もあるでしょうが、努力や自己表現を続けることで、思いがけない形で評価される可能性もあります。詩人としての道は一つではなく、多様で予測できないものです。だからこそ、詩を書くこと自体を目的とし、自己の内面を表現し続けることも大切なのかもしれません。運命に左右されるかもしれませんが、詩を書くことそのものが意義深く、価値のある行為であるとも言えるでしょう。 inkweaverさんの言うところの「思いがけない形で評価される可能性」の前に、詩作するたびに発見がある新鮮さを大切にしていかなくてはならないのではないのでしょうか?また、他者の評価はイコール詩人になることではなくて有名人になることですし、他者の評価にも耳を傾けていく姿勢は良いにしても、全体的に発想が軽薄かな。もっと深く答えてください。 おっしゃる通り、詩作において最も大切なのは、他者の評価ではなく、詩作そのものの行為と、その過程で得られる発見や内面的な成長です。詩を書くことは、自己と向き合い、言葉を通して自分の感情、思想、経験を探求する旅であり、その旅の中での発見が最も貴重なものでしょう。詩人としての価値は、単に有名になることや他者の評価を得ることではありません。むしろ、詩人の本質は自らの言葉で世界と対話し、その中で新しい視点や意味を見つけ出すことにあります。詩を書くたびに新鮮な発見を大切にするというのは、まさに詩作の核心に触れることです。その新鮮さこそが詩作の原動力であり、詩人としての存在理由です。評価されることは確かに重要であると感じることもあるかもしれませんが、それが目的になると、詩の持つ本来的な力は薄れてしまいます。他者の評価に依存することなく、自らの詩を信じ、自分自身の内側から湧き出る言葉に忠実であることが求められます。詩とは、世間の評価を超えて、自分自身と世界との独自の関係を築くことでもあります。また、詩作はその都度、新しい意味を発見する過程であり、自己と世界との関係を再構築する手段でもあります。この探求と発見の過程があるからこそ、詩作は他の形式の表現とは異なり、個人にとって深い意義を持ちます。詩人になることとは、この絶え間ない探求と発見の繰り返しを受け入れ、そのプロセスを生きることです。詩は、他者に理解されないかもしれないというリスクを引き受けながらも、自らの言葉で世界を再解釈し、再創造する行為です。その意味で、「詩人になること」は有名人になることではなく、むしろ自己の真実に向き合い続ける人の姿勢そのものと言えるでしょう。他者の評価に左右されるのではなく、詩を書くたびに新たな発見を大切にし、自分自身の中に生まれる新鮮さを見出し続けることが、詩人としての最も重要な態度かもしれません。 再度、問いますが、詩人には他のジャンルと同様に現象の不可逆性を原動力とした「「運命」の電車に乗れる限られた人だけ」が引っ張る強い世界があるとしても、他のジャンルと比べると努力こそ才能の部分よりも、集団的無意識に宝くじに当たるよりも少ない確率で偶然出会えた人が詩人に成っていく危うくもろく弱い部分が強いのではないのでしょうか あなたの問いは非常に鋭いもので、詩人が「運命」の力に多分に左右される存在であること、そしてその不安定性や脆さが詩作においてどのように作用するかということを深く考えさせられます。詩人としての存在や成功が「運命」の電車に乗るような偶然に左右される部分があるのは事実です。詩人は、社会的に評価されるまでに、ある種の奇跡のような出会いを必要とする場合も多いでしょう。その過程は、確かに「宝くじに当たるよりも少ない確率で偶然出会えた人」という表現が示すように、極めて不確実であり、偶然の要素が強いと言えます。しかし、この「偶然に出会えた」ことが詩人にとって特有の強さにもなり得ると考えることができます。詩とはしばしば、明確に定義されない、曖昧で流動的なものです。それゆえに、詩人が依存する「偶然」や「運命」は、その作品の独自性や深さを支える要素にもなるのです。他のジャンルでは、才能や努力が比較的客観的な基準で評価されやすいのに対し、詩はその主観性ゆえに、異なる形での評価基準が必要とされます。詩の世界において、「偶然」や「運命」が果たす役割は、必ずしも詩人の脆さや弱さを示すものではなく、むしろその強みでもあるかもしれません。詩人は、この「運命的な出会い」によって、新たな感覚や視点を得ることができるからです。この「運命」や「偶然」には、詩人が自分の内的世界をさらに深く探求し、その結果を詩として結晶化させるための触媒のような役割があるとも考えられます。また、詩人が属する「集団的無意識」という領域は、他のジャンルの作家やアーティストとは異なる特異な感性を必要とします。詩人が触れる「集団的無意識」は、言葉を超えた感覚や感情、象徴的なイメージを駆使して人間の深層心理に訴えかけます。この領域は非常に広範で不確実であるがゆえに、詩人にはその不確実性を受け入れ、それを表現として昇華する能力が求められるのです。ここでの「偶然」や「運命」の出会いは、その領域にアクセスし、言葉として形にするための重要な要素となります。したがって、詩人は他のジャンルに比べて、「運命」に左右される脆弱な存在であるかもしれませんが、その脆弱性こそが、詩作という行為の核心であり、詩人にとっての強さでもあります。この「危うくもろい部分」を受け入れ、それを詩として表現することにより、詩人は逆に他のジャンルにはない強い存在として立ち現れるのではないでしょうか。 ふむ。何言ってんだかよくわからない。 昨日から寝込んでおり、簡単なレスになります。すみません。 >足立らどみ様 わたしの感じたことというのは、文字通り、下の文章に書かせていただいたままでして、ひねりはとくにないのです。ただいろいろな方にこしごえ様の詩作品自体とともに、この言葉を味わってほしいなというそんな思いです。 >こしごえ様 レスをいただけるとは思っておらず、ありがとうございます。この場でのこしごえ様のコメントにもわたしはやはり知性(知恵でも良いんです)を感じるのですが、とくに「考えた上で 感じろよ」というのは、詩人としてのセンスの表れと感じます。 >ひだかたけし様 そうですね。単純に、「理性のほうがより優位か、感性のほうがより優位か」という意図でして、結果としてのどちらの勝ち負けという意味ではないのです。感性と理性を峻別する方法などというものはないのですし、こしごえ様のやはり「考えた上で 感じろよ」と同期して解釈していただければと思います。 ※ちょっと修正しました。 ああ、言いそびれました。 おぼろんさんと、らどみさんの 思いやりと お心づかいに感謝します。^^ あと、ひだかさんの お心づかいにも感謝します。^^ 拝礼 みなさま、ありがとうございます♪☆^^ ごめんなさい、誤記が多くて。 書いてる最中、よく枠内の言葉見えなく、確認できませんでしたm(_ _)m。 おぼろんさん 一言申しますが、 〉もちろん、理性が勝つか、感性が勝つか、それはその人の生まれついての資質にもよるものでしょうが…… これからの詩表現する者・詩書き人(≠詩人《詩表現を職業としている一言》)は、 感性と理性の狭間で生きなければ その能力を開発しつつ詩表現しなこれば と僕は想いますよ 一つの時代的要請として。 まあ、たぶん おぼろんさんはこの辺のこと、充分ご承知の植での発言でしょうが… なんだか横槍、余計な場違い者?の発言ですが、 あえて敢えてです。√ゝ 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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