【HHM2参加作品】詩の入り口に立つためにー『母乳』ちんすこうりなー
深水遊脚

 詩を読みたい。それはどのような心の状態だろう。詩人はきっと詩を読みたがってはいない。ひどい言い方かもしれないし、根拠はない。間違いかもしれない。詩人が何を読みたがっているのか、私がそれに興味がないだけなのだろう。詩人ではなく、詩人ではないふりをした詩人でもない、そんな人で詩を読みたいと思っている人がいたら、そんな人のために私は詩を語ってみたい。その人のために詩を語る言葉は、とても少ない気がするから。

母乳

ママたちは
赤ちゃんを大事そうに
胸に抱いている
赤ちゃんは安心しているように見える

通りすがりに聞く
平らな胸に両手をあてて

失礼ですが、母乳ですか?粉ミルクですか?

ママたちは
恐怖に満ちた顔をして
逃げていく
ぎゅっとママの胸に抱き寄せられる
赤ちゃん


母乳ですと
答えてくれたら
それで満足なのに

家に帰る道を
思い出すかもしれないのに



(著者 ちんすこうりな)

(作品URL)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=287272

 決して心地よい詩ではない。「わからない」「気持ちが悪い」この詩の第一印象は、こうした否定的なものではないかと想像する。「失礼ですが、母乳ですか?粉ミルクですか?」という問いによって毒が流され、清浄な世界が汚されてゆく印象をもつかもしれない。少し理解を示して踏み込んでみても、「通りすがりにこんな失礼なこと聞くのは誰?はっきりさせてよ」というように、問いの主体のあいまいさ、非常識さに苛立つかもしれない。あるいは、こんな問いを投げそうな具体的な人物像と瞬時に結び付けて「嫉妬深い女ね」「変質者?」などと、その人物像に毒づくかもしれない。「平らな胸」という問いの主体についての数少ない描写も、こうした感情的な文脈では、毒づきに侮蔑のエッセンスを加えてマイナス感情を強化してしまうだろう。娯楽ならば、ママたちと赤ちゃんに肩入れしたい気分を緩やかに共有する世間に向けて、わかりやすくするために、問いの主体にいかにもそれらしい悪役が当てられ、その悪役が期待通りの悪を演じる。悪役が一見善人にみえるという古典的な変化球もあるけれど構造は同じだ。反感も、同情も、目に見える悪役が吸収してくれる。この詩はそうはなっていない。主体は謎のままであり、もし具体像を作り上げるなら、想像するしかない。必ずしも無理に具体像を作り上げる必要はないし、問いの主体についての具体的な描写がないことは、この詩の欠点ではない。私はむしろ、この詩の魅力だと考えている。書かれない言葉には、書かれない理由があるのだ。「平らな胸」で、たとえば胸の小さい女性に問いの主体の具体像を絞り込むこともできるかもしれない。でも、わからないほうが気味の悪さ、怖さが引き立って魅力的だともいえる。

 踏み込んで理解しようとした人が、もう一つ苛立つポイントがある。

母乳ですと
答えてくれたら
それで満足なのに

家に帰る道を
思い出すかもしれないのに

問いの主体があらかじめ期待する答えは「母乳」なのである。その答えを聞き出して家に帰る道を思い出すかもしれない、という考え方について、一切理由は書かれない。答えを決めつけられて、理由のないままに投げ出されれば、母乳に対して好意的な解釈をしにくいのが人情だろう。母乳は母性と結びつき、育児についての精神論が連想されるかもしれない。母乳は母から子への愛情だと解釈され、問いの主体がそれに飢えている状態だと解釈されるかもしれない。この精神論に対する反感というのも、社会になんとなく共有されている。母乳が出る出ないは、個々の母親の身体的な条件によって様々であり、もちろんそれは愛情の有無とは無関係である。共有されやすい、いや、かつて共有されやすかった「母乳」=「愛情」という考え方をうっかり口にすれば、八つ当たりも込みであらゆる苛立ちが一気に注がれるかもしれない。母乳の出ない(出にくい)母親、粉ミルクを選んだ母親、粉ミルクを選ばざるを得なかった母親がいたら、苛立ちはもっと鋭い怒りに変わるかもしれない。答えを母乳に限定する理不尽さを、理由なく受け入れるはずもない。それゆえに主体は曖昧なのかもしれない。主体を明らかにして、適当な理由を押し付けて片づけるのに都合のよい悪役がいては、「その人が悪いんだ」「その人がおかしいんだ」ということで片づけ、それ以上のことを、読む人は考えなくなってしまう。

 視点を変えて、少数派にシンパシーを感じる見方というのも想定してみよう。幸せそうな母親と子供が最初に登場するが、「ママたち」というふうに複数形で登場することに注目したい。問いの主体はおそらく一人。空気の読めない問いを、止むに止まれず発する。それを受けてママたちは、答えることなく怖がって去って行ってしまう。この一連の流れで際立つのは、問いの主体の孤独感だ。「家に帰る道」とあるが、この場合の家は、次に書く英単語の "home" の語義が近いのではないかと思う。

home:the place where you live or where you feel that you belong

belong:to have a right or usual place

語義にあった "belong" も考慮すれば、住む場所、なじみの場所、居場所といった意味に捉えることができる。そうした場所を失って、それを渇望している状態がある。そのような状態を発見し、単に住む場所でなくなじみの場所、居場所を見つけられるようにできるのか。あるいは友人としてその人の心地よい場所となることができるのか。そうすることは簡単ではない。発見しなければどうしようもない。発見するということは、まず第一にあるがままを見ることなのだ。

 話は一度それるが、詩を書く人が詩を読むときに陥る罠について書いておきたい。今回題材とした『母乳』のコメント欄に「○○する表現が何かもう一つ欲しかった気はします」「○○が暗喩している事柄を表現しきれておられないと思います」「もうちょっと書いてほしかったな」といった言葉が散見された。私から見て、個々の読み手は真摯だと思うし、考え方の違いに差はあるものの一概に稚拙だともいえないし、稚拙な読みを排除するべきだとも思わない(どこまで作者および読者に踏み込んでよいのか、デリカシーは理解しておくに越したことはないけれど)。ただ、書き方の押しつけともとれる現象については一言書いておきたい。目の前の詩が理解できないとき、人は情報を補って理解しようとする。それに加えて、もし読む人が同時に書く人であれば、補う情報、つまり書いて欲しい言葉が、いつの間にか書かれるべき言葉であると錯覚してしまい、その書かれるべき言葉を作者に気付かせることが批評であると錯覚する、というおかしな現象が起きてしまう。これは詩の読み方としてどうなのか、私は疑問に感じる。私が詩人(=詩を書く人)に向けて詩について書きたくないと思う理由の一つはこれである。書かれていないという事実、物語が与えられていないという事実、理不尽なものが理不尽なまま作品で解決されないという事実、書き手として他人の作品を読むならば、一度はこれらの事実を丸ごと受け入れる必要がある。目に見える事実(言葉)と、そこから想像したものとを区別することは、とても大切なことであると思う。その区別ができて初めて詩は作品として読むことができ、また読んでもらうことができるのだ。

 この詩は一方に恐怖と不安、もう一方に孤独を与え、それを解決しない。なにかを補って納得のいくストーリーに仕上げる読み方を無意識にするかもしれないし、読み手自らが詩の書き手であればあからさまに補うべき言葉を要求する。目に見える言葉だけに注目しようとするならば、この詩を読む人が、自分がどの位置にいるのかを確認するための地図のようなものが必要であるように思う。ひとつの試みとして、複数の Player が登場するゲームに見立ててこの詩を分析することにしたい。

Player1:ママたちとその赤ちゃん
Player2: 問いの主体

Item1:home(家、家族といる幸せ、居場所)
Item2:poison(Favorite Item、問い、異物、毒)
Item3:barrier(結界)

Block1
 ママたちは
 赤ちゃんを大事そうに
 胸に抱いている
 赤ちゃんは安心しているように見える

Block2
 通りすがりに聞く
 平らな胸に両手をあてて

 失礼ですが、母乳ですか?粉ミルクですか?

Block3
 ママたちは
 恐怖に満ちた顔をして
 逃げていく
 ぎゅっとママの胸に抱き寄せられる
 赤ちゃん

Block4
 母乳ですと
 答えてくれたら
 それで満足なのに

 家に帰る道を
 思い出すかもしれないのに


Game Summary
 Block1
  Player1 Offence: home(家族といる幸せ)を見せつける
  Player2 Defence: home(居場所)に憧れる
 Block2
  Player1 Defence: poison(異物)を認識する
  Player2 Offence: poison(問い)を発する
 Block3
  Player1 Offence: Barrier(結界)を張る
  Player2 Defence: Barrier(結界)に拒絶される
Game Over

 Block4 Translation
  Player2の home=居場所、poison=止むに止まれぬ問い、barrier=孤独の原因

この散文の前半部分はもしかしたら読みにくかったかもしれない。読むときに生じる可能性のある感情を考え、その一つ一つについて私の考え方を示したから。ここでは言葉に戻って、ゲームの Player の視点で詩の構造をみてみた。こういう分析ができるということは、詩に無駄がなく、完成度が高いということがいえると思う。

 言葉は意味を持つ。言葉を重ねることで、意味は強化される。しかし全ての言葉をいつも使うわけにはゆかないので不用なものは削除される。言葉が現れ、結びつき、省略される、このようなプロセスを経て、心地よい者同士、つまり home の構成員同士の言葉が形成される。Player2 は Player1 の home の構成員にはなれなかった。Player2 は Player1 の言葉を共有できなかった。Player2 をもっと攻撃的な存在だとするなら、Player1の言葉の体系を壊したくてPoison(止むに止まれぬ問い)を発したと考えることもできる。home を得ることだけが目的ならば、poison とは別のアイテムを使えばよかった。より効果的なアイテムを使うことは、現実においては、空気を読むということなのかもしれない。しかし、使い慣れたアイテムを使うことを Player2 は選んだ。

 barrier(結界)の外にあるもの、Player2 にとっての home(居場所)となるもの、Player2 にとって Poison(問い)であり、Player1 にとって Poison(毒)であるものについて、少し可能性を探ってみたい。そのために、Poison のありのままの姿、すなわち詩の言葉に戻りたい。

失礼ですが、母乳ですか?粉ミルクですか?

 単純なこの問いに、Player1 は Block3 でOffence を発動した。Player2 を拒絶する結界を張った。何故か?ひとつは、育児にとって危険なものを排除して赤ちゃんを守ろうとする行動が考えられる。Player2 が home(居場所)と感じ、Player1 が危険だと感じるものは、たくさんある。いわゆる大人の世界にあるものは全てそうだろうと思う。性的なもの、暴力的なもの、異なる価値観をもつもの、将来子供をダメにするもの、などが考えられる。すべてを拒絶する潔癖な人からユルめの人まで様々だと思う。何を受け入れ、何を拒絶するかは個々の母親が決める。しかし、見知らぬ人というのは、「見知らぬ」というだけで拒絶の対象となる。何が飛び出すかわからないから。

 もうひとつは育児について分かっていない人、専門家でも母親の事情を丸ごと受け止めていない人の決めつけもあるかもしれない。その背景には、世間になんとなく共有されている、根拠のあいまいな精神論もあるだろうと思う。「母親が笑っていれば、赤ちゃんも幸せに笑うものよ。元気出して」たとえばこの励ましにも暴力性は宿る。「母乳が出る出ないは個人差があるものよ。すぐに出ないからと諦めないで。乳房を赤ちゃんが口に含むだけでもスキンシップになるの」母乳がなかなか出ない母親へのこの励ましも、暴力になる可能性はある。赤ちゃんに母としての(女としての)(人としての)すべてを差し出す、子供に常に無償の愛を差し出す、すべての母親がそうしているわけではない。旧世代の生き方や価値観の押しつけがセットでついてくる、人から人への伝承より、情報から得た知識を普段のお喋りのなかで交換し合い、無理のない範囲で母親も赤ちゃんも生きて行けるような子育てを模索している。あるいは、人から人への伝承というのも、お喋りの話題のひとつになり、ママたちに共有される言葉になるかもしれない。WHOが母乳育児を推奨するのには根拠がある。よかれと思って母乳育児を推奨する人の経験則にも根拠はあるかもしれない。でも、現実に受け入れ可能なものだけが共有されるのであり、無理に何もかもを押し付ければ、barrier(結界)が張られ、伝わるものも伝わらなくなってしまう。

 以上、この詩全体をゲームにたとえて、できるだけ客観的に分析してみた。この詩が与える刺激は、この詩の魅力のひとつだと私は考える。でもこの詩は、読む人が自分の思い込みに引き寄せて読んでしまいがちだと思う。どの立場から読んでも、詩の言葉だけでは解消しない不快感が残ることと思う。だから、一度骨組みだけの状態をみて、言葉だけを確認できる状態にして客観的に目に映るものをみつめる作業が必ず必要になる。そうして言葉に虚心に向き合うことが、詩の入り口に立つことなのだと思う。言葉だけを虚心にみることは難しい。わからない不安は経験で埋め、気味の悪いものは避ける。瞬時にそうした判断をして人は社会生活を営んでいる。詩に向き合うから、現代芸術に向き合うからといって、そうした知恵や警戒心のすべてを放棄し、武装解除する必要はない。どのような人であれ、生きて行くためには暴力的である。目に見えるものを、目をそらしたいものも含めて、できる範囲で、よく観察し、何故?という問いをたててみる。その答えはあえて出さない。放っておいても人は答えを出したがるし知りたがる。あえてそれに逆らってみる。これらのなかで出来る武装解除を出来るときにして行けばいいのだと思う。そこで異なるものがみえたならばそれを記憶し、記録する。そんなふうに言葉を重ねて行けばいいのだと思う。そんな言葉がある程度積み重なったとき、barrier(結界)を張る必要は、いつの間にかなくなっているのかもしれない。利用できるアイテムもたくさんもっているかもしれない。

 単純化したものの見方は、複雑すぎるものを少しずつみるうえで、あくまで途中のステップとして役に立つ。たいていのものは、そのまま理解するにはあまりに複雑で、刺激に反応して単純な思考でもってどこまでも強引に行こうとするならば、暴力に頼らざるを得なくなる。そのようなときに、単純化した図式は、自分がどこにいるのかを把握するうえで役に立つだろう。冷静になるために、他者を理解するために、筋の通った明快さ、単純さ、わかりやすさは必要になる。でも、筋の通ったことはそんなに大事なことかな?と私も考えている。物事が単純に見えすぎるとき、説得的だと思えるとき、それとは異なる考え方がある可能性を探す癖をつけたほうがいい。見えなくなっている細部に大事なものがある可能性を考えた方がいい。考え方が一通りしか出来なくなったとき、本能的に危険だと感じたほうがいい。

 性的なもの、暴力的なもの、行動しないまでもいろいろな可能性を考えてみることは、とても大事なことだと思う。生々しい利害関係はない状態で、単一の正義感から、必要のない反射的な暴力が、言葉によってなされるのを最近よく観察する。おそらくこれらの言葉の暴力の主体は、自身の暴力性をみつめていない。刺激に反射するのではなく、辛抱強く観察し、「何故?」を問い、それを実行し継続して行くことで、客観性を獲得して行くことが、詩を読むこと、詩を書くことに、より幅を増して行くのだと私は考える。

 ここまで書いてみて気づいたが、性と暴力をテーマとしている作者のちんすこうりなさんと、理解と対話を志向する私とでは、相当に違う。この矛盾は解消しない方がいい。そして、ここまで書かれた内容は、単純すぎるようであれば、疑ってかかった方がいい。答えは視野を狭めるだけ。詩にそれを書いても仕方がないのだ。答えがほしいとき、人は詩を読みたがってはいないのだ。


散文(批評随筆小説等) 【HHM2参加作品】詩の入り口に立つためにー『母乳』ちんすこうりなー Copyright 深水遊脚 2014-03-20 19:43:06
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