【HHM2参加作品】舌平目のムルソー(suigyo)を散瞳する
澤あづさ

「これよりわたしたちがHHM2へ献呈いたしますガッピョーは」
「一組の【私と傍らの友人】の立体視です」
「二本の詩の交錯で編まれた網膜に、一網打尽な舌平目のムルソー」
「そんな散瞳はいやだ、「そんな舌平目な偏見を並べたってね、


●ヒヒョー対象
・suigyo(紅月)『no title』(無題)初稿
 http://mb2.jp/_prs/7935.html-0(メビウスリング プロ詩投稿城)

「上記メビ版には『suigyo』と署名されていますが、著者は下記改訂版決定稿と同一です」
「めんどくさっ」
「メビおよび文極では『no title』と題されましたが、現フォ版からあきらかなように『題名なし』の意です」
「めんどくさっ」
「ほかの無題作品と区別するためこのヒヒョーはこの作品を「あだ名で舌平目のムルソーと呼び「たくな「ます。

※おすすめイメージ:カミュ『異邦人』LDP版の表紙イラスト
 http://eurocles.com/arpoma/arpoma-ipad.php?action=video&image=../data/litterature/camus/camus.jpg


●ヒヒョー対象改訂版決定稿
・紅月『無題 青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を……』
 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=284564(現代詩フォーラム)

「改訂版決定稿は『no title』の表題で文学極道2014年1月間優良作品に選出されました」
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%8dg%8c%8e#a08(文学極道 紅月選出作品集より)
「この版には興味ない」
「ってほざいたら雛鳥むくさんに喜ばれました」
「どなた」


●併読作品
・アルベール・カミュ『異邦人』中村光夫訳
 新潮社『カミュ全集2』所収(文中引用は新字新仮名に直しています)
・ポチ(いかいか)『星遊び』(文学極道 いかいか選出作品集より)
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12
 ↑
「このタピオカに食われてるっぽく見えかねないというのが、改訂版決定稿に興味ない理由のひとつです」
「あのタピオカに食われるような水魚ではないんです舌平目のムルソーは、むしろわたしなどあのムルソーにたまげるまで、舌平目にもあのタピオカの瞳を「Eureka、「魂削たことにEureka!」

【彼はそう叫びながら家を焼くんだよ、】(※あのタピオカより改竄)
【私の炎は彼の家をも飲み込むだろう、】(※舌平目のムルソーより改竄)

「すげー! 舌平目のムルソーすげー!「だめだもうあのタピオカに惚れてしまった、「すげー! あのタピオカすげー!「だめだやはり舌平目のムルソーに惚れてしまった、(※合評に続く。


●目次

◆読解「白眼視の文法「偏見を散瞳する
 ※この文章は、澤あづさと友人の三ヶ月間の共同読解を編集したものです。
+‥‥‥‥‥‥‥‥+
◆1章【●ring「寸断された両眼「木魂の群生する視野
◆2章【●kasou「視線(焦点「の延焼(盲点
◆3章【●eyes「眼中にない「のに網膜に焼きついている
◆4章【●yagate「鰓弓の射るかつての矢が手「なぜ涅槃寂静として
+‥‥‥‥‥‥‥‥+
 ↑「題名だけで完成だ。「安心して読み飛ばしていただけます。
 ↓「「こっちはさすがに読まれてほしい」」
◆合評【たまげるってのは、魂削るって書くんだよ(あのタピオカより。
◆あとがき「そういえば自慢ですが澤あづさは、前回HHMの(以下略)


「たとえば」
「きのう、盲学校の入学説明会に行った。わたしがこの詩を読んだのはその二日前だった。だからきょう、傍らのきみに、わたしが連ねた焦点と盲点の読点を見てほしい。パパンを埋葬した日と同じ太陽が眩しくて、わたしが殺したかつてのわたしはもはやわたしの『異邦人』ではない」
「なんていきなり言われたって、わけがわからないので意味もわかりません」
「わからないわけを推察したところで、わかっていないのですから間違いです」
「詩への恋は「人への恋と同じように「どうせただの誤解です」

「読解は「永遠にただの誤読です「が「愛には違いありません「絶望的に、「僥倖です、


※心ある方に、わたしたちの読解が始まったきっかけをご覧いただけたら幸甚です。
●澤あづさ「舌平目のムルソー(suigyo)を散瞳する 序文」
 http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/35917495.html(ライブドアブログ)
※上記リンク先の鑑賞と本稿の「読解」は、内容も前提も異なります。


「鳥目のしたで跳ねている魚つまり舌平目、」
「主体は世界の限界である、」(†ヴィトゲンシュタイン先生)

+‥‥‥‥‥‥‥‥+
●舌平目のムルソー冒頭・最終連の謎の解読●
※ヒヒョー1章の項で詳述します。
※眼球の構造の図解(下記:視力回復の研究ノート「目の構造」)との併読をおすすめします。
 http://www.me-kaiteki.com/eye-mechanism/eye-structure/

 <quote>-------------
 青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく夢を見たんだ、
 ------------</quote>

【青い花】→ iris(虹彩/アヤメ/映像の絞り)
【赤い少女】→血液、あるいは炎症(熱)
【白い文法の群生する野原】→白眼(白眼視)に覆われた「脈絡」膜
+‥‥‥‥‥‥‥‥+

「すげー!」
「この詩すげー!」





◆読解「白眼視の文法「偏見を散瞳する

 此岸のだれにも他我は読めない。
 此岸のだれにも自我を書けないからだ。

 それでもその詩は書かれた。それでもこの読解は長々と書かれた。
 それでもこの読解は、この読者の生きる限り終わらない。

 なぜならその異邦人がもはや外人ではないから。

<quote>-------------
「君はわかっているのか。一体本当にわかっているのか? 誰でもが特権を持っているのだ。特権者しかいはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それに何の意味があろう?」(カミュ『異邦人』中村光夫訳より)
------------</quote>

 これよりこの詩(http://mb2.jp/_prs/7935.html-0)は、この読解の特権で殺される。

  +  +  +

 詩には【no title】(無題)と題されている。
 にもかかわらず詩は、題を四つも持っている。【●】の記号で銘打たれた四つの章題だ。

 詩の舞台は「眼」。1、3章が「眼前」(開眼)の、2、4章が「眼中」(瞑目)の世界を描出する。
「眼前と眼中」はひとつの視野、【白い文法の群生する野原】(1、4章)を綴り出す因果だ。どちらも因だがどちらも果で、果はつねに因より大きい。その連鎖に呪縛され、この詩という果が【最果て】(4章)に至った。ここはヴィトゲンシュタインが述べた世界の限界、釈迦が説いた凡夫の迷妄「自我」の極地。
 詩は死んだ星のように、最果ての重力をひらききり、みずから吐いたあらゆる言葉を吸収し圧縮する。
 光背の逆光に炙りだされる逆喩の【影】に、【●】に。瞳孔が穿つ見解の穴、盲点に。

 1章【●ring】は、瞳孔に入射する外界を描出する。
 その瞳孔、【私の黒い瞳】(3章)は、死んだようにひらいている。2章で【●kasou】(仮想/火葬/仮葬)されたからだ。
 3章【●eyes】は、散瞳されたその眩しい、「目の玄(くろ)い」死んだような視野を描出する。
 目が開けば開くほど世界は見えない。瞑目の眼中に飛び散る4章【●yagate】の歌のように。
 自身を仮想で火葬しておきながら、来るという前提で未来を仮想する矛盾のように。見えていないので的を射ない。

 この詩の語り手は、語り手自身の特権によって殺された。
 よって死んでいる、のに生きている。
【ただ、外人としてありつづけたかった私】(4章)は【もはや外人ではない】(3章)からこそ【紛れもなく外人】(4章)だ。
【外人】とは、つまり他者だ。

  +  +  +

「目は口ほどに物を言う」と言うけれど、この詩には【くちなし】(2章)の【瞳】が捕えた「記憶」しかない。
「記憶」という字は「己を言い、心の音を心する」と書くが、口なしの声なき詩は【鰓】(4章)で「思」うだけだ。
 心に【幾数の四角形】(3章)を乗せて「思」えば思うほど、【焼け焦げて歪む写真のように】(2章)心がつぶれる。
 交錯する「意」見の摩擦が【ぱちぱちと音を立てて】(2章)拍手を浴びせるように。己の声を押し殺す。

 この詩の声は殺されている。
 だから根も葉もなく読まれてしまう。

 虫食いで失せた言葉を、声にならない【鰓】の息が穴埋めして、白々しい【文法】が繁る。
【私】の「木」魂が三人称で「記」す【森】に鬼火がひかる、この詩には「我」しかいないのに「吾」がいない。
 語りたい「吾」を悟れないことしか「記」せない、から読まれてしまう。声にならない息がこぼす「読点」を。

<quote>-------------
【その光景を友人と同じような黒い影たちがゆらゆらと取り囲んで眺めている、そして、そのさまを遠くから観察する何組もの私と友人、】(1章)
------------</quote>

 詩を語る【私】は「片眼」、ひいては「偏見」だ。
 その視野は「自我の投影」で埋まり狭窄している。
 その眼底が、「眼中にないのに網膜に焼きついている他者の視線」で埋まっているからだ。

【瞳】という字は「童の目」と書くが、この詩の偏見は、幼児どころか胎児まで退行している。
 あらゆるヒトは胎児のころ、頭部に「鰓弓」と呼ばれる器官を持っていた。一説には鰓の名残と言われるその器官は、咽頭や中耳や表情筋など、会話のための器官に分化するが、語り手の息は声へ分化しない。
 この詩の「思」はあたかも、声なき鰓弓の射る的外れの矢。
 彼方の的を見すぎたために、水晶体が【氷晶】(3章)に凝り固まり、極度の仮性近視に陥っている。

 この詩は、
【ただ、外人としてありつづけたかった私の、瞳や、鰓の、最果て】(4章)
 繰り返すが【外人】とは、つまり「他者」だ。
 たとえばラカンの発達論に、鏡像段階という仮説と「寸断された身体」という概念がある。幼児が他者を鏡として自身の身体イメージを確立するという内容だ。これにアンナ・フロイトの提唱した自我防衛機制のひとつ「投影」の概念を絡めてみよう。
 そしてこの詩の【瞳】を、以下のように想定してみよう。

 語り手はかつて、眼に入射した他者の視線の反映で自我を築き、築いたその自我を他者へ投影した。
 そしてその「自我の投影である他者」を反映して自我を強固にし、その「自我の投影である他者を反映して強化した自我」を他者へ投影した。
 そしてその「自我の投影である他者を反映して強化した自我の投影である他者」を反映してさらに自我を強固にし、その「自我の投影である他者を反映して強化した自我の投影である他者を反映してさらに強化した自我」を他者へ投影した。

 このように狂気的な投影の反復で、語り手の自我が崩壊したことが、2章の誤謬と【オオスカシバ】の比喩から窺える。
 2章では「口なしの言葉」を貪る蛾(我)の幼虫が、焼き殺されることで羽化し、成虫となって飛び回るのだ。

  +  +  +

 自我迷執のためにいま、語り手の視野には、語り手自身の【影】しか映らない。
 あらゆる他者が【黒い影】にしか見えないどころか、自分自身すら【黒い影】の【外人】にしか見えていない。
 他者が自我の投影で、自我が他者の反映だからだ。他者にフィルターをかけているから自我にもフィルターがかかる、他者に貼ったレッテルがそのまま自我に貼られる。【静寂に色彩を宛がうように】(1章)
 偏見は木魂だ。すべて己に返る。己しか言いあてないまま己を「記」す【文法が手を広げる色彩の森の中で】(4章)

<quote>-------------
【外人のことなんて何もわかりません、なぜなら私が殺した人々はもはや外人ではないから、】(3章)
【なぜ死は静寂として齎されないのだろう、と、友人は言う、波が嘲るように声をあげる、いきものはひたむきに躰をくねらせるのにどこまでも静寂だ、静寂に色彩を宛がうように、俯瞰の渦を巻き、】(1章)
------------</quote>

 自我迷執がきわまって結果的に、自他不二に至ると言わんばかりの曲解。
 涅槃寂静に程遠い、この現実が空即是色であるとでも言わんばかりの詭弁。
 なのに、筋が通ってしまう。脈絡がついてしまう。どれであれ辿れば心臓へ至る血管のように。
 此岸は諸法無我だから、どれほど根も葉もない空論の【枝】(3章)でも、だれかのなにかを【指】(3章)してしまう。

 これが、白眼視に群生する【白い文法】だ。
 ママンを埋葬した日の太陽に裁かれたあの『異邦人』や、かれを殺したあの検事やあの司祭の法律だ。
【青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく夢を見たんだ】(1、4章)このような訥弁の独白も、あれほど饒舌だったムルソーの陳述も、変わらない。同じように誤って読まれる、言ってもいない意味ばかり読まれる。
 ムルソーは「かつてママンの葬儀で泣かなかったから」処刑された。かれの陳述をあの検事は「この男は頭がいい」という理由で退けたのだ。

 そのような白眼視の文法に、この詩は【死】とレッテルを貼る。諱(意味名)をつけて「仮葬」する。
【負わされた、終わらせられた色の、明度】(4章)この瞑目の眼中は冥土。
「仮想」の「火葬」の業火だが【なにひとつ比喩ではない】(4章)【夢ではない、夢ですらない】(2章)
 見えないものは実在しても知られない。同様に、見えてしまうものは実在しなくても存在してしまう。ヴィトゲンシュタインが言ったじゃないか「私」は世界に属するのでない、それは世界の限界だと。

 読解は、知りもしない他者を見る目は、多かれ少なかれみな偏見の木魂。
 世界の視野を焼き払い、狭い了見の【明度】を上げて、いま自分に必要なものだけ瞬かせる。
 絶望的に、極楽だ、



◆1章【●ring「寸断された両眼「木魂の群生する視野

 詩を解く鍵のひとつは、1章冒頭で【友人】が言い4章終連で【私】が繰り返す言葉にある。
 その解釈は、1章冒頭の詩文に解剖学の用語を当て込むのが最も手っ取り早い。

<quote>-------------
青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく夢を見たんだ、と、洩らした傍らの友人は墨のように真っ黒でなぜか直視できない、
------------</quote>

【青い花】→ iris(虹彩/アヤメ/映像の絞り)
【赤い少女】→血液、あるいは炎症(熱)
【白い文法の群生する野原】→白眼(白眼視)に覆われた脈絡膜
 ※ちなみに虹彩、毛様体、脈絡膜を併せて「ぶどう膜」と言う。
【白い文法の群生する野原を赤い少女が駆けていく】→目の充血、あるいはぶどう膜炎
 ※ぶどう膜炎は飛蚊症や霧視を起こし、緑内障や白内障を併発することがある。
【墨のように真っ黒でなぜか直視できない傍らの友人】→(【私】と同じく)片眼の瞳孔
 →ひいては「偏見」の「(見解の)穴」

  +  +  +

 この詩の舞台である語り手の視野は、ぶどう膜炎を患い飛蚊症を起こしている。
 飛「文章」をだ。記憶の綴りからこぼれた墨(インク)が、【影】として視野へ飛び散る。

 視野は青そこひ(緑内障)を患い、狭窄している。
 緑が【白い文法の群生する野原】の内で障っているので、【野原はやがて森になる】(3章)。
 その障っている緑(青)は、【外人の青い瞳】(3章)だ。
【外人】は他者、【青い瞳】は青眼(歓迎のまなざし)、語り手が自我に反映して取り込んだ、「眼中にないのに網膜に焼きついている他者の視線」の表象。眼中になくとも眼底でふくれ上がっている記憶の圧力が、網膜を傷めるのだ。

 他者の視線は語り手の自我に取り込まれ、語り手の自我を支配しているので【もはや外人ではない】(3章)。
 だから3章で、【私の黒い瞳】(瞳孔)が【吐血】する血溜まりに、【たくさんの外人の瞳が転がる】。
 ひとたび外へ吐かれた思いは、自分自身の血であっても【紛れもなく外人】(4章)。
 片眼である【私】の【傍らの友人】も、つまり語り手自身の片眼なのに、眼中にない【外人】でしかない。

【私】は【友人】を【なぜか直視できない】にもかかわらず、その色を【墨のように真っ黒】と認識している。
【影たち】の色から自身の色を推測したのだろう。鏡像段階の幼児のように、他者を鏡として自身を認識しているからだろう。
 そのように他者は自我を支配している。自我を他我へ歪曲させるほど高い眼圧で自我を【俯瞰】(1章)している。

【友人】が(ひいては【私】も)【影たち】と同じように【墨のように真っ黒】なのは、瞳孔(ひいては見解の「穴」)だからだが、文脈から推測できる理由はそれだけではない。かれは2章で焼かれる【くちなし】の焼け焦げた炭でもあり、日記帳を汚す【インク】(記憶)もあるだろう。
 そして3章で【私が殺した人々】のひとりでもあるのだろう。
 語り手の両眼は寸断されている。直視し合わない両眼の交錯する摩擦が、2章で視線の「焦点」となる。

 先述したように、この詩に表れる【影】は、すべからく語り手の「投影」だ。
 このことは、1章の終盤で【友人と(ひいては私とも)同じような黒い影たち】が口々に言う言葉に顕著だ。

<quote>-------------
浜辺に打ち上げられた青い少女が昨夜食べた赤い花は文法の白い野原に群生しているんだよ、と、影たちは口々に言う、彼らもまた文法なのか、
------------</quote>

【浜辺に打ち上げられた青い少女が昨夜食べた赤い花は文法の白い野原に群生している】という言葉は、単に【青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく】の換言でしかない。
「角膜の内側にある虹彩に栄養分を与える血液は、白眼の下で虹彩に繋がっている脈絡膜に豊富に流れている」ということしか述べていない。言い回しが違うだけで、【私と友人】(=語り手)が述べる言葉とそっくり同じ内容だ。

 なにせ【影たち】は語り手自身の投影、語り手の【文法】が編集した木魂でしかない。
 3章の【教授】の問いも同様に、自問でしかない。すでに出ている自答でしかない。

 この自我迷執のさまを、「死んだようにひらいた瞳孔」の表象が描出している。

<quote>-------------
明け方の浜辺、打ちあげられた魚たちが至るところで跳ねている、その上空を鋭い目つきの鳥たちが旋回している、
------------</quote>

【明け方の浜辺】は「開眼」、【鋭い目つきの鳥たち】は「鳥目」(夜盲)の表象。
 光のない盲点が眼に入射して、虹彩をねじのように旋回させ、瞳孔をこじ開ける。死体のように瞳がひらく。
 だから、この視野は「眩」しい。目が玄(くろ)い。目が開けば開くほど視界は目映く、見えない。

 この視野で言「葉」たちは、羞明している。光合成の養分を拒んで明るきを羞(は)じている。
 3章の視野に、根も葉もない【枝】(3章)が群生して【森】となるのはそのためだ。

 羞明する「鳥目」のしたで跳ねている【打ち上げられた魚たち】は、「思」のない【鰓】(4章)。声の嗄れた息だ。
 目は口ほどに物を言うはずだが、語り手の偏見は声にならない。3章でも【吐血】にしかならない。
 それでも生きている。活きてしまうので息が跳ねる。

<quote>-------------
なぜ死は静寂として齎されないのだろう、と、友人は言う、波が嘲るように声をあげる、いきものはひたむきに躰をくねらせるのにどこまでも静寂だ、静寂に色彩を宛がうように、俯瞰の渦を巻き、
------------</quote>

 網膜から角膜へ跳ね上がって、外へ飛べず内へ跳ぶ声の息が、眼中に波を打ち渦を巻く。
 他我を自我で縛り、その他我で自我を縛る、自縄自縛の二重螺旋。
 さながら遺伝、あたかも原罪だ。智者も悪人も等しく迷執する自我の監獄は。



◆2章【●kasou「視線(焦点「の延焼(盲点

 冒頭で鏡像段階と自我防衛機制を踏まえ一例を挙げたが、2章で語り手の自我は崩壊している。
 直視し合わない両眼、交錯する見解の摩擦が自我を焼き焦がす。歪んだ視線の「焦点」から「盲点」が延焼して、視野を焼け野原にする。そうして了見が狭まれば狭まるほど、見解の穴から射す光明の【明度】(4章)が上がる、【なんの比喩もそこに介入できない】

<quote>-------------
庭のくちなしに火を放つ、炎に浮かぶオオスカシバの幼虫は痙攣しながら溶けていくまるで焼け焦げて歪む写真の像のように、
------------</quote>

 クチナシの害虫として有名な【オオスカシバ】は、鱗翅目スズメガ科の蛾だ。「我」だ。
 害あるその幼虫が示唆するものは、語り手の【瞳】(童の目)だ。
 語り手は「口なし」の言「葉」で、虫食いの視野を養っている。

 その虫食いで開く穴は、盲点か、逆に風穴か。
 自我に自己の記憶を食わせて「視野を狭窄させている」とも「視野を拡大している」とも取れるが、どちらでも結果は変わらない。
 視野が狭窄して自我しか見えなくなっても、視野が拡大して多くの他者が見えるようになっても、まさに同じことじゃないか。語り手はそもそも、自他の区別がついていないのだから。

 自我に養われた虫食いの視野は、網膜を焼く「他者の視線」の延焼で焦げる。
【焼け焦げて歪む写真の像のように】、映され入射したそのときは写「真」だったはずの記憶が、投影として他者へ反射するそのときには、他者ごと自我を焼き殺すような歪んだ認知に化ける。この視線は歪んでいる。

<quote>-------------
やがてこの炎は私の家をも飲み込むだろう、ばちばちと音を立てて炎上する私の家の中で生活している私も炎上する、なんの比喩もそこに介入できない、かつてここに私の家があったころ、と、前置きをしよう、私はここで生活していました、していたことがあります、
------------</quote>

【炎上する私の家の中で生活している私も炎上する、なんの比喩もそこに介入できない】と述べてから、思い出したように【かつてここに私の家があったころ、と、前置きを】する。
 自他の区別がついていない語り手には、現在と過去の区別も明瞭でない。まさにあの異邦人ムルソーの語り口だ、「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」(上掲書より)
「ママンを埋葬した日と同じ太陽」に憑かれ焦がされながらムルソーは、最後まで「私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ」と確信していた。それはそれで確かに(不条理なのはムルソーだけではなかったという意味で)一面的には真理だったが、この詩の語り手はそのようにはひらき直れていない。
 過去の記憶、網膜に焼きついた他者の像を編集して、言わば自演している【架空】の自我の脆弱を、思い知ってしまっている。

【溶ける幼虫】が象徴するその脆弱な自我は、自身に入射する他者の視線によって、なん度も焼き滅ぼされる。
 そしてなん度も蘇る。羽化し成虫となり、より強固な我執となって。
 この【オオスカシバ】が示唆するところについては、冒頭ですでに述べた。

 自我の死と我執の強化に、【ばちばちと音を立てて】拍手を浴びせるのが他者と自我のどちらなのか、そして死ぬことと迷執することどちらへの歓迎なのか、自他も去来も区別のつかない語り手には判断の基準がない。

<quote>-------------
ふいに羽音が聴こえて顔を上げると煙る空にたくさんのオオスカシバが踊っているんだ、火の粉、空から降り注ぐひかりの鱗粉、透明の翅、夢ではない、夢ですらない、
------------</quote>

 オオスカシバの成虫の翅は、羽化したてのころは灰色だが、飛翔によって鱗粉が脱落し、無色透明の翅が現れる。
 その灰色の、いわば生死や自他のグレーゾーンを描出する鱗粉が、4章の【燃やされた私の灰】に該当するのだと考えれば、【ひかりの鱗粉】はマッチおよび鬼火の「燐」に換言できるだろう。

 幼い蛾(我)は【kasou】(仮想/火葬/仮葬)によって羽化し、灰を振り落として飛翔する。
 言わば「かつて(過去)の自分」をふるい落として、あらたな自分へ転生する。あたかも不死鳥だが、この【架空の翅】(4章)は甘い【夢ではない】。
【空から降り注ぐひかりの鱗粉、透明の翅】、ここで【空】は空即是色の「クウ」(目に見えない不動のもの)を示唆する。透明とは無色、すなわち「シキ」(目に見えて変化するもの)ではない。
 捏造された迷妄のまま凝り固まり不動となる自我のなかに、ふるい落されふり落ちる【かつて】(過去)の灰が、語り手の眼中では【ひかり】である、光明であるという事態が【夢ですらない】。語り手は、あるいはこの詩は、自身がみずから切り捨てた過去に照らされる【影】でしかなく、未来永劫不動である。
 この詩の眼中では、そのように脈絡がついてしまっている。

 別の脈絡を当て込めば、【空から降ってくるひかりの鱗粉】は、白内障で曇った水晶体から眼底へ「羞明」が降り落ちるかのようでもある。
「鳥目」をねじ込まれて死体のようにひらいた瞳孔を通り、「明るきを羞じる心」をふるい落とした水晶体を通って、眼へ大量に入射する「眩」しい【ひかり】。
 その熱が網膜を焼き焦がし、【影】だらけ盲点だらけの視野を映し出す。

<quote>-------------
熱、黒い父や黒い母が炎の中に揺らめいているのが見える、インクで汚れていく日記帳、文字が咲き乱れているよ、
------------</quote>

 焼け焦げるように余白が黒く塗りつぶされていく【日記帳】の、記憶からこぼれ落ちて【文字が咲き乱れている】。
 飛蚊症。飛「文章」だ。自我に食われた「口なし」の言「葉」が、他者に食われた自我を記憶に「記」す。
 語り手は「己を言」えない。だからこの詩が書かれたのだ。



◆3章【●eyes「眼中にない「のに網膜に焼きついている

 この詩は血痕で記されている。それがこの3章で示唆される。
【私の黒い瞳】は、1章で示唆された「死んだようにひらいた瞳孔」を指す。
【私の黒い瞳の中に指を入れる私】は「死体のようにひらいた瞳孔へ入射する、自我の投影であるところの他者」を指す。
 このような【指】(指示=決めつけ)が【枝】(支持)となって根も葉もないまま生い茂り、「白眼視の文法」の群生する野原が【森】となって視野を塞ぐ。それを知っているので、語り手の歌は【吐血】にしかならない。

<quote>-------------
外人の青い瞳の中に指を入れてかき混ぜるとします、赤い言葉が溢れますか、そしてそれをあなたは解読できますか、と、教授は私に問う、
------------</quote>

【教授】は「享受」の換言だ。後述の「私が殺したもはや外人ではない人々」のひとりだ。
 これは1章【影たち】の言葉と同じく、語り手の言葉の木魂に過ぎない。ただの自問でしかない。

 問いについては当然「解読できない」。
【外人】(他者)の眼中について、自問することはできないからだ。

 だから語り手も、【教授】に木魂を、すでに出ている自答を返すことしかできない、

<quote>-------------
外人のことなんて何もわかりません、なぜなら私が殺した人々はもはや外人ではないから、
------------</quote>

「他者のことなんて何もわかりません。なぜなら私が殺した人々はもはや他者ではないから」
 なん度も述べているように、この詩中で「殺された他者」とは、つまるところ自我なのだ。
 よって語り手はここで、「自分のことなんて何もわかりません」と述べているに過ぎない。

<quote>-------------
私の黒い瞳の中に指を入れる私、かき混ぜる、混ぜられる、赤く染まる視界、射精する、吐血する、吐き出された私の血溜まりにはたくさんの外人の瞳が転がっている、
------------</quote>

 死を象ってひらいた瞳孔に、自身の投影である他者を反映させ、かき混ぜてかき混ぜてそれでなにが出てくる?
 自我が自我に射精し自我が自我を分娩する、語り手の眼中に他者はない。なにせそもそも自我がない。
 なにせ【紛れもなく外人】(4章)だ。

 血を吐いてすら自愛できない。
 書いた詩すら、自分の心と認めてやれない。

<quote>-------------
青、赤、色彩の花畑、文法を摘んでいく少女は傍らで干からびている私の死体には目もくれない、あなたが外人だから、と、教授は言う、私は答えない、応えられない、外人だから、
------------</quote>

【私の死体】は、2章で【燃やされた私の灰】(4章)だ。鬼火であり光明であるところの【ひかりの鱗粉】(2章)だ。
 片眼であった語り手はもはや、炎症を起こしたぶどう膜の内側で、硝子体に飛散する炎症物質と化している。
 その【影】が飛蚊症。飛「文章」だ。この詩だ。

 この詩は語り手の【吐血】の痕跡。自分自身の血、自分自身の熱にすら見限られて眼中を漂う歌のむくろ。
 自他の境界を焼き滅ぼし、自我を灰燼に帰しながら、それでも血は白眼視の下で、脈絡膜を駆けめぐる。
 生きている。活きてしまう。読解とかいう根も葉もない戯言のように、否応なく生まれてしまう。

<quote>-------------
氷晶、幾数の四角形、あざやかな指が延びていく、枝、野原はやがて森になるのさ、
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【氷晶】→白内障による羞明、あるいは水晶体の緊張による仮性近視
【幾数の四角形】→「思」の字において「心」に圧し掛かっている「田」=【焼け焦げて歪む写真】(2章)
【あざやかな指】→指示/決めつけ/レッテル貼り
【枝】→(決めつけやレッテル貼りの、根も葉もない)支持
【野原はやがて森になるのさ】→【私】の「木」魂によって狭窄あるいは拡大する視野(※結果は同じ)

「君はわかっているのか。一体本当にわかっているのか? 誰でもが特権を持っているのだ。特権者しかいはしないのだ」かつて異邦人のムルソー(死と太陽)が、マグリブ(日の沈むところ)でそのように述べたそうだ。日の沈むらしい北アフリカでも、日いずるらしい極東でも、智者も悪人もみな自我に迷執する凡夫だ。
 地球が回るように万物は流転するのに、自我だけが不動でいられるわけがない。かつての【私】が、いまの【私】ではなかったように、【私】はいまやがての【私】を知らない。そもそも「いま」とはいつだろう、そして【私】とはだれなのだろう。【吐き出された私の血溜まりにはたくさんの外人の瞳が転がっている】

 此岸のだれにも他我は読めない。
 此岸のだれにも自我を書けないからだ。



◆4章【●yagate「鰓弓の射るかつての矢が手「なぜ涅槃寂静として

 吐血で書かれたこの歌について、もはや特筆することはない。

 それでもその詩は書かれた。それでもこの読解は長々と書かれた。
 それでもこの読解は、この読者の生きる限り終わらない。

 なぜならこの読解がすでに紛れもなく外人だから。





◆合評【たまげるってのは、魂削るって書くんだよ(あのタピオカより。

 傍らの友人:……で、わたしが考えた「鳥目のしたで跳ねている魚つまり舌平目」説は?
 澤あづさ:ただでさえなっげえ今回編集のどこにそんな錯視を書く余地がある、あだ名に採用してやったんだから光栄にでも思え! もちろんネタや内容がどうだろうが、賛辞だろうが批判だろうがね、読解はすべからく偏向報道だけどさ。だからこそ恥を知れ作品に表敬しろって、きみがわたしに罵倒したんでしょうよ!
 友人:あー確かに罵倒したし、撤回する気もないけどね。他人をネタにしてふける自己表現っていう卑しい行為を、恥と自覚して憚ろうがひらき直ろうが、作者の自覚が読者の眼中になければ理解されないって現実も見過ごせないよ。舌平目のムルソーの吐血を読んだおかげでわたしは、ヴィトゲンシュタイン先生が独我論を提唱したことの意味に開眼したんだよ。
 澤:ああまさにデリダ先生が言ってた通り「他者がどうするのかを自問することはできない」。自問すべきは自分の能力のみ、ここから生涯学習散種的読解の【延びていく文章】がはじまるのだ。であればこそいまここで、舌平目のムルソーがあのタピオカ(http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12)に食われるような水魚でないことを熱弁しないことには、しりかげるおたくの沽券に、
 友人:どなた。



「それにしても、たまげましたね、」
「魂削ましたよね。昨今おりしもデリダ先生の散種的読解ごっこにはまってたので、舌平目のムルソーにあのタピオカを接ぎ木(※散種の別称)するという、園芸ごっこに戯けてみたところ」
「接いでも接いでも根っこから、舌平目が群生し森となる。あの青い地球で、あたかも焼き畑農業です」
「魂削るほど【瞳】が違う。視野があまりに異次元すぎる、もちろん差なんかありませんよただ差延すぎるだけです。このように種(詩句)は、畑(文脈)を変えて輪廻するんですね。経験できない他人の視野という彼岸から、諸法無我の此岸へ散り蒔かれて、別の魂に脱臼(※脱構築の別称)するんですね」

+‥‥‥‥‥‥‥‥+
※推奨資料:ジャック・デリダ『散種』
 よりむしろ鈴村智久さんのすばらしい批評空間
 http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1681.html(FC2ブログ)
+‥‥‥‥‥‥‥‥+

「あのタピオカは【Eureka】を【魂削る】と、発見を盲点と脱臼したうえで、命名に砕かれた言霊のかけらを木魂のように響かせていた。黒い夜空に青い地球を撒くように、排中律へ中庸を散り蒔き、壮麗な諸法無我とそんな理屈では得心しがたい生死や自他の重力を描き出して、沈黙するしかない語りえぬもの(†ヴィトゲンシュタイン先生)を歌い上げていた(とわたしたちは魂削た)というのに」
「舌平目のムルソーときたら、その言霊の木魂こそ視野狭窄と喝破して白眼視に森を生やし、空即是色を『自他もろともレッテル貼り』と脱臼した挙句、自我迷執が結果的に自他不二という逆光逆喩のどつぼを情景で吐血する始末。語りえぬものにガチで沈黙しながら、なにが諸法無我だってんだ主体は世界の限界である(†ヴィトゲンシュタイン先生)と全身全霊で主張する(とわたしたちは魂削た)んですから」
「心底、あの青い地球を焼き畑農業にされた気分です。あのタピオカは、きっとおそらく断じてそんな木魂では、」
「というのはもちろん偏にわたしたちの森の木魂削であるうえに、そもそもわたしたちはあのムルソーに出くわすまで、舌平目にもあのタピオカの瞳を「Eureka、「魂削たことに Eureka!」

【マヌケにも「Eureka!Eureka!」としか言わない】(あのタピオカ1章)

「やさしいよね、あのタピオカ、すっごくすっごくやさしいね」
「ムルソーのイカ墨がどす黒すぎるせいで、あの青い地球が太陽のように」

【なぜか直視できない】(舌平目のムルソー1章)

「黙れ白眼視の文法!!「心底焼き畑農業です「惚れたら地獄、「もうあの地球に帰りたい、

【そして、やっぱり返らない】(あのタピオカ4章(※読解に戻る。



◇あのタピオカ◇
※ポチ(いかいか)『星遊び』
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a12

 友人:この詩は一見とにかく、脈絡が読みにくいよね。文章がかっこいいから、個人的な関心に引きずられやすいせいもあるんだろうけど。凝縮が濃すぎるうえに叙述が淡々としてて、語り手の感情がよくわからないから入り込みにくい。そのわからない感情つまり「筆舌に尽くしがたい」ってことがこの詩の見所なんだって、なにかのきっかけで開眼するまでは。
 澤:今回そのきっかけを、舌平目のムルソーがくれたわけだけども。いっぺん目が開くと、見えなかった自分に絶句するしかない。
 友人:たとえば【星へ(土に)上がる(落ちる)】っていうのは、星になるとか土へ還るとかいう以前に「目を伏せる」っていう動作で、それが【ずっと昔からのまじない】なのかなー……とかね。
 澤:きみのその「目を伏せるまじない」って発見を聞いた瞬間わたしは、寓喩も叙情もこの世で一番どうでもよすぎるって気分に本気でなったよ!
 友人:でしょ! わたしなんか思わず床に鏡を置いて自分の目を観察したからね、そりゃ【彼が一緒に送ってきた人形はマヌケにも「Eureka!Eureka!」としか言わない】はずだよ。
 澤:まさにわたしは魂削た人形の節穴な目だったのだEureka! 心底それ以外なんの感想があるんだよ!

 友人:2章『星へ上がる』は、地球の外から地球の上に立つ自分を俯瞰してるから、目を伏せるっていう行為が【(視線が)星へ(土に)上がる】ってことになる。って仮定してみよう。死んだ人の瞳は地球になるから、地球の外から見れば青いわけだ。
 澤:なぜ青いかったら水の星だから、あるいはみどりの星だからってことで。【星へ上がった人たちの瞳は青いから、とても「き」をつけないといけない】は、「沐」の字に換言できるかな。
 友人:お、いいねそれ。水と木に喩えて輪廻を表してるんだって思えば、【燃えたものは、白く冷えて土に上がる。上がってから、下がって、また黒くなるのさ】って詩文も納得だよ。循環する水を浴びるように浴びせるように人は祈る、あるいは呪う、それで心に白黒つけたがるんだって感じだね……自分が祈ろうが呪おうが、それで自分に白黒つこうがつくまいが、他者には関係ないのにね。
 澤:そうだね、目を伏せて【星へ上がらない、まじない】(4章)をかけると、その我執に気づくのかもしれない。たとえば、身内の死を悼んで祈りながら、地に眠る幾多の死者を踏みにじって立ってる自分の矛盾とか。自分を立たせてる他者の重力とかいう、みずから編み出した根も葉もない戯言にみずから縛られるような我執、別称詩想とかいうやつに。

 友人:で、3章『まじない』の舞台は、死者の墓でもあるところの地球上。ここでは目を伏せるって行為が重力どおり【星(地球)へ落ちる】ってことになる。って仮定してみても、ここの比喩は密度が高すぎて結論出しにくいねー。
 澤:まったくもって。……たとえば【耳をつけたまま走ったあの人】は「恥」で、【首をか(狩/駆)られる】のは「忌」だって考えてみよう。かられた「己」は人類発祥の地と言われるアフリカにも還元される、それを【君】が拾って「心」に乗っけて「忌」むと、その祈りは天に届かず地に落ちる。
 友人:むしろ「念」じゃね? かられた「今」はアフリカで人類が発祥した過去まで回帰する、それを「心」に乗っけて「念」じると、その祈りは天に届かず地に落ちる。
 澤:だったら「忘」でもよくね、かられた「亡」はアフリカにも偏在するのにそれを「心」に乗っけて「忘」れると、その祈りは天に届かず地に落ちる。……って、きりもなく思いつくけど。

 友人:そもそも「天に届かず地に落ちる」とか換言してみたところで、この詩は「天地」に生死とか是非とか善悪とかの二元論を当て込んでないわけで。
 澤:多義性のためあの手この手が尽くされて、まさに「中庸」としか言いようのない印象。
 友人:その中庸を崩すのが、たとえば集約癖の読解ってわけだ。生とか死とかの一面的な一義では定義も結論もできない命が、「命名」されると【くだけちったまま、魂削る】(4章)というあざやかな形容矛盾。
 澤:世界は無常で無我の色即是空だっていう思想を受け容れられれば、箴言だね。
 友人:ん。わたしが死のうが生きようが、ただ「色」が変わるだけで「空」にはなんの変わりもない。黒い瞳孔が火葬されて白い灰になり、埋葬されて青い地球になり、輪廻して再び黒い瞳孔になったところで……。……?
 澤:……? 生きてるあいだは白黒すなわち無色つまり「空」(目に見えない不動のもの)だったのが、死ぬと「青い」という諱をつけられて「色」(目に見えて変化するもの)になる、って考えるとなんだこの形容矛盾は、
 友人:魂削てはいけない!
 澤:青いからきをつけないといけないよEureka!

<quote>-------------
渡して、
わたしや、
わたしたちの、
あおいままの、
ことばで、
------------</quote>

 友人:この詩は、美しい、
 澤:なんの収拾もつかず結局そういう一言でまとめるしかない感銘これが詩情だ。



◇舌平目のムルソー◇
※suigyo(紅月)『no title』(無題)初稿
 http://mb2.jp/_prs/7935.html-0

 友人:わたしたちの読解事例においてあのタピオカは、【たまげるってのは、魂削るって書くんだよ】っていう題を詩文で表現しただけじゃなく、読解を通して読者に「経験させた」ってことになる。
 澤:そんなのはヒヒョーの筆舌にも尽くしがたいよ。ただ余韻に浸って衝撃の余波を実感でもするしかない。
 友人:それこそ【瞳が黒いまま燃える】みたいに、闇に目がだんだん慣れてくるみたいにね。
 澤:わたしは鳥目だからきみのその比喩は実感できないけど、舌平目のムルソーがあらゆる意味で対照的だってことは実感できるよ。こっちの読書経験は、さながら眼科の眼底検査で食らわされる散瞳剤の冷や水、
 友人:目が開けば開くほど世界は見えないんだって比喩を、確かに経験したよわたしも!

 友人:きみにこの詩を、眼球の構造図と見比べながら読まされたとき、あーこれだわたしが読みたかった詩はこれだって思ったなー。初見一発の言葉尻で「なるほどこいつらは片眼で、つまり偏見なんだねEureka!」ってちょう興奮するうえに、この当て込みから辻褄を合わせるだけで、全詩文の全内容がわかったような気になれる。わかったような気になっただけじゃだめだって意見もあるだろうけど、わかるのも「わかったような気になる」のも舌平目のムルソーによれば同じことなんだ(とわたしたちは魂削ている)からいいのいいのEureka!Eureka!ってもうそれしか言えない。
 澤:実際あのマヌケな人形そのものだったよ。あの日あのカフェ(http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/35917495.html)できみは。
 友人:だってほんとすごかったんだもん。この仕掛けを発見したきみもきみで、まあすなおにすげーって思ったけど。
 澤:それは光栄だけども、褒められるほどの発見なのかな。【そのさまを遠くから観察する何組もの私と友人】(1章)って書いてあるんだから、こいつらが片眼だってことくらい気づくでしょ。
 友人:もちろん気づくよ、だからすごいんだよ。初見一発の気づきで読者を引きずりこんで、ぜぇんぶわかったような気にさせといて、なんなのこの詐欺師は、

 澤:違う、
 友人:ぜんぶわかったはずなのに、読めば読むほどよくよく考えたらぜんっぜん違う!
 澤:たとえば【浜辺に打ち上げられた青い少女が昨夜食べた赤い花は文法の白い野原に群生しているんだよ】、
 友人:【青い少女】は房水なのか涙液なのかって、あんなに無駄に紛糾したのに。よくよく考えたらただ単に【青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく】の換言じゃん!
 澤:ね。舌平目のムルソーはあのタピオカとは違う、根本的に論理そして論理破綻が見所なんだたぶん。
 友人:リズムが心音のように響く読点とか行わけとか、いかにも叙情的に余白たっぷりなふりしといてね!
 澤:叙情と論理のそのギャップは、わたしが思うこの書き手に顕著な見所です。特に2章はさらっとしてるぶん、破綻がすげー迫力に見えるねー。まーなぜそう見えるかったら、単にわたしたちの頭が悪すぎてEureka!の衝撃に引きずられてるから、読めば読むほど発見の盲点が発覚するってだけなんだけどね!
 友人:ほんっっっと偏見ってこういうことなんだなって思い知らされたよ。

 澤:だが。
 友人:その誤読の錯視が、最高におもしろい。
 澤:ね、それがわたしの思うこの書き手に最大の魅力! 叙情のせいか論理のせいか頻繁に、「口なしの虫食いの言葉」とか「虫食いの言葉と、根も葉もない枝で塞がれて狭窄する視野」とか、対照的な情景が立ち表れて形容矛盾を起こす。その矛盾の裂け目から、目くるめく錯視が無駄なほど湧き出す。
 友人:表面的な語法だけじゃなく、情景からして脱臼させるから、詩の世界を無駄なほど多層的に味わえるんだね。

 澤:たとえばこの詩は眼底、反映と投影を繰り返す鏡!
 友人:そうこの詩は眼底、硝子体をくるむ網膜を水晶体脱臼が打ち鳴らす呼び鈴!
 澤:なにせこの詩は眼底、ぶどう膜に覆われた果実。種子であると同時に母胎であるという矛盾!
 友人:海底でありながら地底に沈む、地球の反転のような矛盾だってここは眼底!……って収拾つかないほどガッピョーが錯乱したよね。
 澤:特に【ひかりの鱗粉】がね。それはマッチあるいは鬼火の「燐」に決まってるっていうきみの意見を、わたしに納得させるのに、きみがどれほど苦労したことか。
 友人:あーあれはほんと苦労したねー。きみのゆるふわすぎる脳みそを固めてあげたのに、その恩を忘れやがって。わたしが考えた「鳥目のしたで跳ねている魚つまり舌平目」説も「硝子体をくるむ網膜を水晶体脱臼が打ち鳴らす呼び鈴」説も「鰓弓の射るキューピッドの矢が寸断された両眼を繋ぐ」説も、結局今回採用しないしなんなの、
 澤:だからあだ名に舌平目を採用して差し上げたでしょうが、わたしの錯視だって抹殺しまくったんですから平等です! 特にキューピッドの矢は、あり得ない、この書き手がそんな詩を書くわけも、この書き手の詩がそんな詩であっていいわけも、
 友人:そんな舌平目な偏見を並べたってね、頭が拒んでもハートは拒めないのが恋ってやつだよ。あのタピオカだって青い地球で、マヌケにも「Eureka!Eureka!」としか言わない人形をかわいがってたでしょ。
 澤:あの青い地球では、彼の祖父がそう叫びながら家を焼いたようだが、
 友人:Eureka! わたしの祖父がそう叫びながら家を焼いたとは聞いてない、耳をつけたまま走って砂浜で首をかられたのさ!
 澤:おいどこへ行く!? 





「他者の視野は経験できませんし、できない経験は分かち合えません」
「だからこそこんなふうに、一編の詩を分有できるんです」
「読解は「永遠にただの誤読です「が「進化します「絶望的に、「輪廻します、





◆あとがき「そういえば自慢ですが澤あづさは、前回HHM1のcaseセレクト受賞者です。作品が長大すぎて現フォに投稿できず、批評祭アーカイヴスにも載せてもらえず、しまいには投稿先とともに投稿作品が消え去った、われながら大変かわいそうなやつですので、この機に乗じHHM1のヒヒョーをさらすことをお許しください」

●澤あづさ【HHM参加作品】葉月二兎『p(以下略)』を現像する
 http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-1.html(FC2ブログ)
 ↑「なっっっげー話ですが、まえがきだけ「見る」だけでいいので見ていただけたら、
・ヒヒョー対象:葉月二兎『papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium』
 http://bungoku.jp/monthly/?date=201209#a08(文学極道)
 ↑「そんなことよりこの詩に読まれてほしい。「なんという適切な要求!

「あのタピオカのEureka!と、あの鬼灯の (do)lorem ipsum、」
「どっちの散瞳が、舌平目のムルソーとよりマリアージュか、」
「二匹食えばいいね」
「二十回でも二億回でも読めばいいよね」


散文(批評随筆小説等) 【HHM2参加作品】舌平目のムルソー(suigyo)を散瞳する Copyright 澤あづさ 2014-03-28 20:16:12
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