【批評祭参加作品】■シロン、の欠けラ(1)
川村 透

 なんだか祭りが始まっている。といってもなんて言うか、たいしたものは書けやしないのだが、要するに「鑑賞文」の断片を私的メモを公開するようにひとまとめにしておけば、僕が好きだなあと思ったり、もっと触れてほしいなぁと思っている言葉に少しでも注目してもらえるのかもしれない。もしかしたら僕にとっての意義は、どう「気になったのか」を書くことによって、そのカケラたちを「詩論」めいたものに育てることが、「いつかは」できるようになるかもしれない、ということ。僕はどうしても「詩」に接するときに、「自分だったらどう書くのか」というスタンスから自由になれない。せめて自分の「コトバ」を自分で「育てる」ために象をなでるアキメクラのように、印象に残った僕にとっての大切な「詩」に改めて「触って」みるところから始めよう。



□『テーブルのうえのフランチェスカ』  なを
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 三つを過ぎて、幼児は女の子になる。女の子になるということは、ひとつの魔法を使えるようになったということなのかもしれない。女の子は身の回りにある、きらきらしいものに「なまえ」をつける、ということを覚えるのだけれど、過渡期のようにおんなのこは自分のなまえをいくつもいくつも発見しつづける、ことがある。ひとつひとつの自分をさがし発見し定義し続ける。自分で自分の名付け親を演じ続ける。「誰にでもなれる、なんにでもなれる」ということは、「まだ何者でもない」自分とともに「在る」ことだ。と同時に「名付ける」という主体がそこに、咲き初めている、ということだ。なんとなくいらいらしている様子さえも、かわいいなぁ。

□『生きていくこと』 たもつ
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 うん。生きていくということは、こんなことだ。と、この詩にさわってみて僕はうなづいた。とんでもなく変なことかもしれないけれどフツーに受け入れてみている、これがほんとうのリアルな手触り、かもしれない、でもそうじゃないかもしれない、でもとりあえずリアル、でいい。佐野元春は生活をウスノロ、と呼んだ。たもつさんの詩の中のヒトは、名付けない。呼ばない。ただ、「彼」の名刺をもらうために、ならぶのである。生活は物語のようには終わらない。ただ「途中」なだけなのだ。

□『プロムナード』 沼谷香澄
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 形と空白が、「レイアウト」という「饒舌」となって、言葉の方から僕の手のひらに「触れて」くる。マリオネットに暖かい体温を感じる、みたいな。人工的な切実さがある。うまく言えないのだけれど。モダンな人形浄瑠璃のようなのだ。硬質の硝子細工のようだ。びいどろを吹くように言葉が響いてくる。ところどころコトバがぎざぎざでまちがえて触れると指が切れそうだ。時に途切れがちなかすかな風のように、けれどもヒュッとかまいたちのようにナイフの欠片が混じっている。みぞれ、なのかもしれない。抒情はキライだと、かつて言っていた、あの人のことを思い出した。

□『ガーベラ』 川元緋呂子
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 身近にいる人に、赤い花は、手折ってほしい、と密かに恋焦がれている。赤い砂は赤い花だ。枯れてなんかいない。手折ってほしい欲望はあっても、「もの」のように手に入れられたくはなくて、さらさらの赤になってあなたの「目」を「あたし色」で手に入れつづけたいのだ。誰にも気づかれず、けれど気づかれなかったら、ほんとうに気づかれなかったら、赤い生きた砂は、あなたの行くところを先回りして。

□『裸の羊』 あする
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 きらりん。ただ、きらりん。それだけでいい。僕たちはほんとうに、羊のままでいいのだろうか?羊飼いの声は、昔、この詩に初めて出会ったときよりもずっと絶望的に枯れた音に聞こえる。僕たちはまだ、「裸」じゃないのかもしれない。羊を脱ぎ捨てるための「夏」は自分たちでこしらえなくちゃならない。「誰かの眠りのために数えられ」ることはなくても僕たちの毛皮は十分に高価なのかもしれない。目覚めている「彼ら」は僕たちのことを僕たちよりも熱心に「数えて」いるにちがいないのだ。さらにもっと、「裸に」ならなくてはならない。きらりん。

□『井戸』  アンテ
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 おとぎ話は、ほんとうは虚空を渡る木霊のようにただ、無機質な響きを繰り返すだけなのかもしれない。繰り返し繰り返す「構造」だけがここにはある。ぺらぺらの紙に書かれた「男」という文字と「村人」という文字にふっと息を吹きかけると、どうどう巡りの遍歴のカリカチュアをオルゴールの音とともに繰り返す、かに見えて一オクターブずつ高まってゆきガガ、と止まってしまう。「男」は生きては壊れる、ぺらぺの「悪意」なのだ。

□『螺旋、飛んだ』  あほん
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 僕たちは日々「どこでもない国の愛国心」に責めさいなまれている。小泉純一郎は選挙のポスターで「この国を想い、この国を創る。」と訴えた。「この」国はいったい、「どこの」国だろうか?僕たちはひばりの様に飛び立ってしまっている。わが国、という言葉は穢れてしまって久しい。するり、「どこでもない国の愛国心で/僕は胸がいっぱいだ」
もう「帰り道」なのに帰る所は、記憶の中だけにしかないのだ。忘れてほしくない、と願うだけで、「傲慢」なのだと、さいなまれる。「どこでもない国はここでもいい」だけだ。螺旋は飛ぶ、けれど蛇なのだ。鳥ではなく蛇、なのだ。くらり


□『当院における貴腐死病の一例』 たかぼ
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 読みましょう。これはショートショートを読むときのモードになって読んだ。形式は、今となってはありふれているけれど、ウエル・メイドだ。ひねりすぎていないから、かえって良いのかもしれない。オチが「気が利いていない」けれど、報告書的なスタイルであればいかにも気が利いていない、方が「それらしい」という計算をしていると思わせるのであれば、これはこれでもいい。

□『重力と火』  六崎杏介
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 主よ。愛と炎のクロスするところに夜がある。硝子をひっかくようなどこかノイズィな賛美歌。モノクロだ。蓄音機からサンプリングした音に記号をはりつけて鏡の上にちいさくぶちまけてみたようだ。十文字にすべっては神に召されてゆく。重力と火のたてるオトを鏡に映してからこなごなに砕いてつやつやした夜の顔の上をすべらせてゆく。主よ。


(時間切れ)
★2004/12/17追加分

□『キャンパスから』  天野茂典
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 Good-GOD morning! 朝は熱とひかりに満ちた、かみさまのトースト、なのだ。小川の中で息づく、ひそやかな赤い海、空に映し出されたときそれは、薔薇色の夜明けとなって、僕たちの、たましいごと、焦がしてくれる。夜は朝に恋していたい。「美貌の熱」よ。
僕のたましいは、ほの暗い夜の身体をしている。夜の魂の持ち主だからこそ、朝への信仰を告白できるのかも知れない。

□『Are You Wake Up?』  大村 浩一
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=1741
 もう一人の、「自分と重なった午後の彼」に、胸倉を掴まれて問いただされる。水のような尋問の一滴一滴を噛み締めながら、午後三時。オフィスの中に風の気配がある。真昼のざらざらとした「暗愁」とともに在る。静止画に切り取られた、一輪の虎のように「酸素のいちばん深いところ」で、息をひそめて、じっと、うずくまっているのだ、たった5分前に「延髄を打ちぬかれ」て、緑色の血潮がこんこんとあふれて来る。少しずつ少しずつ身体をとりもどさなくてはならない。「風は吹いているか?」



散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】■シロン、の欠けラ(1) Copyright 川村 透 2004-12-13 18:25:57
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