アクロバティックな午後/合耕氏の作品について
渡邉建志

フレージストのためのアクロバティック体操


■拡大コピーの時間 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13696

文字通り、拡大コピーをしてみてみよう。一行一行を虫眼鏡片手に見ていってみよう。

昨日 いつも市場で会う少年と水遊びをしたとき

市場で会う少年、という妙な限定と、水遊びである点に注目しよう。遊びじゃない、水遊びなんだ。ただの少年じゃない、市場で会う少年なんだ。市場では少年は何かを売っているのかもしれないし、逆に僕が何かを売っていて少年が買いに来るのかもしれないし、或いは両方とも買いに来ているのかもしれない。はたまた両方とも何かを売っているのかもしれない。そんな少年と、水遊びをしているのだ。この水遊びは私の目にはプールや海ではなく、噴水や池のような、市場に比較的近い、街中での水遊びのように見える。

「お兄ちゃん、腕まくりが似合うね」って言われて
戸惑って
戸惑ってしまったまま 朝が来て起き上がる

お兄ちゃんというのだから僕は少年より年上なんだろう。水遊びをしているから腕まくりをするわけだが、その腕が「腕っぷし」という感じの腕なのか、あるいは艶かしい白さなのか。戸惑っているぐらいだから、後者なんだろう。腕っぷしという感じの腕ならば、「腕まくりが似合うね」といわれても力こぶの一つや二つ、作るだけだろう。
「戸惑って/戸惑ってしまったまま 朝が来て起き上がる」この一文はとても好きだ。「戸惑って/戸惑ってしまったまま 朝が来て起き上がる」と、繰り返すことによって助走ができ、その助走で朝が来て起き上がるのだ。繰り返しによる助走のリズム、とか名づけてみようか。

いつもと同じように寝床に向かい
膝を曲げ 腕を伸ばし 反魂の跡を探る僕の顔を
どこかにいる誰かが 下から覗き込んでいるのなら
そんなことを考えるとき いつも思う

最後の二行の「どこかにいる誰かが 下から覗き込んでいるのなら」が好きだ。下からというのがとても重要なんだろうと思う。ディテールへのこだわり。そしてこの、「覗き込んでいるのなら」と、次の行の「そんなことを考えるとき」のつながり方は、ちょっと意表をついていて、読み返さないといつもよくわからなくなる。そういう意表のつき方。それから、最後の「いつも思う」というのも、いったい何を思うのかをふつうの順序ではかいてない(倒置してある)。しつこいけどもう一度まとめると、「そんなことを考えるとき」において、まさか前までの内容が「考える」の目的格になっているだろうなんて思わないまま読者は読み進め、「そんなことを考えるとき」という文にたどり着いて初めて、ああ、いままでの文章は客観的な文章ではなく主観的な文章だったのだ、と認識するだろう。重要なのは、客観的から主観的に移る場所が、一読では把握できないことであり、このへんの「気がつけば屈折」現象が作者の詩をとっつきにくいものにし、また魅力的なものにもしている。客観的から主観的に変わるのは、読み返せば「反魂(瘢痕?)の後を探る→僕の顔を」の僕あたりからだということが読み取れるであろう。「考える」の内容がこれだけ複雑なのに比べて、「いつも思う」の内容は次に明示していますよとフラグが立っている。そうすれば、おのずといったい何がくるのだろうと期待するだろう。この期待(と期待外し)こそ作者の得意技なのではないだろうか。

僕達は いつか必ず恋してしまう

たぶん僕は腕まくり発言少年と「いつか必ず」恋してしまう、と予感したのだろう。しかしそう解釈すると一行前の「そんなことを考えるとき いつも思う」と矛盾が生じる。恋愛の対象を腕まくり発言少年に限定すると、「いつも」思うことはできなくなるだろう(なぜなら腕まくり発言少年と「水遊び」したのは「昨日」のことだからだ)。ここで、私は作者はそこまでの論理的に正確な読みを要求しているのではないのではないか、という気がしてきてならない。ひょっとしたら、

僕達=僕+腕まくり発言少年

ではなく、

僕達=僕+下から覗き込んでいる誰か

なのかもしれない。今日はその誰かが偶然腕まくり発言少年だったのかもしれないし、違うのかもしれない。いつも「そんなこと」を考えているらしいから、「下から覗き込んでいる誰か」は「僕」にとって常連さんなんだろう。あるいは、「そんなこと」というのは、もっと限定しない言い方で、今日は偶然下から覗くひとという形をとったに過ぎないのかもしれない。明日はひょっとしたらテレビから覗いてくるかもしれないし、あさってはひょっとして井戸から覗いてくるかもしれない。そんなふうに、「そんなこと」を広く捕らえ始めると、僕達についてもそんなに限定する必要があるのだろうかと思えてきて、

僕達=僕+一般のひとびと

というふうな感じの呼びかけになってくるんじゃないだろうか。僕達のヒーロー、というときの僕達と同じ用法だ。多分これだろうという気がしてきた。

決め台詞が出た後で、一行をおいての始まり方が素敵です。

洞窟の入り口に吹き込む風は

とつぜん洞窟。どこから現れたのかわからないけれど。

僕と 僕の父さんの失敗した企みが見ちゃいられなくて

第3(4?)の登場人物、僕の父さんが前触れなく現れました。二人でたくらみが失敗したそうだけれど、「みちゃいられない」(特徴ある言葉遣い)のは、擬人化された風だというのです。

蓋をするみたいに
なぎ倒さずに なぎ倒す いろいろ
笑えるけど まだ笑わないでいる僕は

このあたりに主語動詞関係を主にいろいろ入り乱れて作者らしい味だとおもう。「蓋をするみたいに/なぎ倒さずに なぎ倒」しているのは風だろう。その同じ行で改行しないままにいろいろときているのはおそらく「いろいろなぎ倒す」でもありつつ、もう次の行にかかっていて「いろいろ/笑える」でもあるんだろう。笑えるという言葉はとても口語的で、こういうふうに使われるとうれしくなる。で、笑えるけど僕は「まだ」笑わない。なんで笑おうとしているのかは不思議だ。なぎ倒さずになぎ倒している風をわらっているんだろうか。それとも僕と僕の父さんの失敗した企みも含めて笑っているんだろうか。それともなんだかごちゃごちゃしたこの状態自体に笑いがこみ上げてくるんだろうか。

ファー付きのジャンパーに青いシャツで
小高くなった砂丘に上り 君達と会い
そこでまた違う風を受ける

砂粒は 会う度に僕達をずらしてゆく

なんだか急に具体的な服装を紹介したりして、出かけていく僕の気概がちょっと感じられる。君達に会いに行くので胸が躍る感じ。砂丘の上にいる君達は何の目的でそこにいるのかわからないし、もはやたぶん君達は腕まくり発言少年とは違うんだろう。戸惑うわれわれをよそに僕と君達は気持ちよさそうに違う風を受ける。そして決め台詞。「砂粒は 会う度に僕達をずらしてゆく」恋愛のことだろうか。何のことなんだろうか。フレーズ自体に酔いしれろということなのではないか。僕達をずらしてゆくって、なんだかかっこいいし、砂粒だぜ。

さてクライマックスです。

いつか破裂する糸電話の糸で
誰かに話しかけていてもいいのかな

誰かに話しかけていてもいいのかな、と誰に話しかけているのかわからないという二重構造がここにあります。こうやって作者(僕?)は読者を無理やり巻き込んでいきます。「いいのかな」と、つねに会話しながら。こんなところにすらりと「いつか」なんてワードを入れることができるのはいいですね。いつか破裂する糸電話。糸電話というのは、なんにせよ萌えを誘うものがあります。

青空を見なくても保存されるような
驚いた顔のまま 触り合っているみたいだ
あの娘が魔女の死体片付けるの手伝ったり
あの人に刀の抜き方を教えてもいい
やっぱり僕達は恋してしまうのだから

魔女の死体や刀の抜き方や、こういったおもちゃ箱をひっくり返したような事例を作者はやろうと思えば無限に出してきてくれそう。そういう余裕を感じさせる。「だから」はもはや普通の論理からは逸脱し始めている。

もしも君の顔が
ホバークラフトに乗り込み カーテンの後ろから飛び立つ神様に似てきても
お互い 影を踏み合うだけだ

さて、合耕氏作品ほど読んでいると抜書きしたくなり、抜書きすると元の味わいがなくなってしまうというのはそうそうないかもしれない。つまり詩全体が屈折運動している感じで、上の3行も折れ曲がってる。一文が長く、その中で順接や逆接でとんでもないところに曲がってしまうのも彼の特徴だ。ここでは「ホバークラフトに乗り込み カーテンの後ろから飛び立つ」わけだが、この順接も時系列的につながってない(後記:ひょっとしたらホバークラフトはカーテンの後ろから飛び立つのかもしれないと思いはじめてきた。とするとこのへん一帯の記述は誤りになる)。なんというか、映画のカット割りみたいに、一つの場面があって、もう一つの場面に移っていくかんじ。あるいはやはりカット割りの多い、アニメのオープニング映像にも近い感触。南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと言うし、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言う人みたい。神様はいろいろやってしまう。だから僕らもいろいろやってしまうし、やっぱり恋もしてしまう。君の顔が(ホバークラフトに乗り込み カーテンの後ろから飛び立つ)神様に似ている、という異様に長い形容詞節。「似てきても」、どうなのかというと、陽気に影を踏み合っています。

何もわかってこないまま 
笑顔が綺麗になる

君が触る心臓も 僕が触る心臓も
全て風に吸い込まれてしまい
もう一度砂丘に上る
砂粒が通り過ぎ 忘れられてしまいそうなときにまた思う

僕達は いつか必ず恋してしまう

なんだか、君が恋愛対象として立ち現れてきました。笑顔が綺麗なんだって。もう一度僕達は砂丘に上り(君達のうちの君以外の人はどうなったんだと思うんだが、たぶんあんまり重要人物じゃなかったんだろう、)、僕達をいつもずらしてゆく砂粒の中で、僕達は(たぶん恋愛的に)ずれていって、だけどまた思うんだという。

「僕達は いつか必ず恋してしまう」



■私の水 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=23509 より

出してくれって叫びながら
ドンドンって窓を叩く人の
汗ばんで 黒い 顔に
乗り移れば流れ出す
私の水

この詩も票が少ない。。まず全部読んできてください。
引用部の、ドンドンって、っていうのにぼくやられました。
「出してくれって」と「ドンドンって」と、「って」を二回使って可愛らしさを出した後に、
でてくる描写は妙にホラーです。
「汗ばんで 黒い 顔」
です。わざわざスペースで遅いリズム感を強調し、さらにそのあと
「乗り移」っています。ホラーです。
そして、「流れ出」しています。何が?

私の水

こわいですね、こわいですね、ホラーみたいですね。
このあとの流れていきかたのリズムもなんだかいいです。
最後の

もう一度 胸をふくらませたい
おんなじくらい跳ねるなら

はわくわくします。胸をふくらませる、ですよ。
おんなじぐらい跳ねるなら、ですよ。おんなじ、がいい。
おんなじぐらい跳ねるなら、をみながら、
グレート・ギャツビーの巻頭文を思い出した、これがまた素敵。

さあ 金色帽子を被るんだ それであの娘がなびくなら
あの娘のために跳んでみろ みごとに高く跳べるなら
きっとあの娘は叫ぶだろ 「金の帽子すてき 高跳びもいかすわ
恋人よ あんたはあたしのもの!」

                   ―――トマス・パーク・ダンヴィリエ

Then wear the gold hat, if that will move her;
if you can bounce high, bounce for her too,
Till she cry "Lover, gold-hatted, high-bouncing lover,
I must have you!"

                   ―――Thomas Parke D'Invilliers

トマス・パーク・ダンヴィリエはフィッツジェラルドの処女作「天国のこちら側」の登場人物で、フィクションだそうです。この野崎孝訳は本当に素晴らしいですね。原文を先に読んで、よく意味が分からなくて、訳文を見て、なんだかものすごく感動したのでした。完璧です。
「さあ 金色帽子を被るんだ」、ですよ、きんいろぼうしってのがすばらしいし、さあっていう呼びかけのさわやかさったらない。
「それであのこがなびくなら」、ですよ。あのこですよ。いい響き。なびくならですよ。moveがなびくですよ。名訳。
「みごとに高く跳べるなら」、ですよ。みごとって言葉がこんなにぴたっと来る例がありますか。しかも「なら」、で韻ふみですよ。
「きっとあのこは叫ぶだろ」って、だろですよ。だろうじゃないですよ。だろ、と短くすることによって次のセリフへと加速しますよ。さあセリフだ、
「金の帽子すてき」って助詞抜きですよ。
「高跳びもいかすわ」って高跳びってすごいいい名詞じゃないですか。いかすわって英語に書いてないですよ、もう野崎孝独壇場ですよ。
「あんたはわたしのもの」ですよ。あんたっていう言葉がもうはすっぱ感すばらしい。あんまり全部がすてきなんで全部感嘆してなぞってしまいました。


話を元に戻して、



■10時に食べ終わる http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=21265 より

フルスピードの余韻で橋の上 いつまでも固まっていたかった
変なポーズで

題名がまずすごいんだけど、やっぱりここで驚きなのは「変なポーズ」ですね。自分で自分のことを変といっているのがたまらないと思います。どんなポーズか読者は考えずにはいられず、読者参加型詩と言えるのではないでしょうか。



■割り箸の飛び方 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=22168 より

ばたばたと暴れる割り箸を
鳥かごから出して
その腰を捉えにくく感じているうちに
また空に見入る

実はこの引用の前の五行(「小麦をこぼしながら走り去るトラクター」以降)も気になる。そこを読んでいると、詩の翻訳不可能性なんてあるのかないのかわからないけどかっこよさげな言葉が頭に浮かんでくる。翻訳してしまうということは、解釈を含んでしまうんじゃないだろうか。いろいろつかみがたい絵が浮かんでくる。

引用部は比較的イメージが固定しやすくかつユニークだと思った。この作者にはこの二つの特徴があるんだと思う。つまり、錯綜したとらえがたいいろいろなイメージがわいてくる場面と、非常にユニークでありえないけれど確固として固定できるイメージと。私は後者が好きなのだけれど、最近前者の特徴も好きになってきた。現代詩フォーラムの投票の行き方を見ていると、前者を愛する人が多いみたいだ。後者の決定打みたいにおもえる「狐つき」があんまり票を得ていないのだもの。



■狐つき http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24155

狐つきというよりむしろかわいい狐が目に浮かぶ詩です。百科事典みたいにいろいろ出てきます。いちいち萌えます。冒頭からすごいです。

長縄跳びの長い紐で 電車の窓から誘う
あれは狐つき

長縄跳びの長い紐というツールは中学校以来ひょっとすれば小学校以来ながらく見てないもので、そういう懐かしのツールを具体的に一つ選んで提出してくるという意外性の萌えパターンというのがあります。さらに曖昧性の問題として、「電車の窓から誘う」なのですが、まったく論理的になってなくて、どうやって長い紐で誘えるのか、そもそも電車は動いているのにどうやって誘うのか、なんで電車なのか、そのへんをぜんぶほおっておいてあるのが素晴らしい。こうした論理的な穴を埋めさせることによって読者参加を余儀なくさせること。そしてそこから各読者が創造する「誘い方」のスペクトルはかなり広いはず。読者は自分の描いたイメージの愛らしさにやられるべきです。「あれは狐つき」って歌みたいでいいですね。決まってます。さて次の聯。

ビルの屋上に上り 糸電話をどこまでも伸ばそうとする
あれも狐つき

これも絵がすごい。糸電話のながい糸がたるんだりからまったり風が吹いたりで奮闘する狐つきの絵です。たぶん糸の持ち方は電車の窓から誘う長い紐の持ち方となにかしらの関係がありそうです。糸電話のさきのコップがちょっと垂れ下がるようすとか、あるいはそのコップを振り回して次のビルまで投げたり、跳んだり、もういろいろイメージが広がることを止めません。次の聯。

順番に口を開き 遠くの山を意識するよう指示した
聞こえる? 聞こえているのかな どうもこの空気は黄色すぎて
素早く全員にカメラを向けるためのケーブルを
掴み上げたり 踏んだりしていると泣いてしまう
これも狐つき

これは先に指摘したどこからどこまでが主観でどこからどこまでが客観なのか分からない構文上のいたずらの聯でたまらないです。まず「指示した」のが誰か分かりません。聞こえる?聞こえているのかな という独り言はかわいくて萌えだし、たぶんこれは狐つきのセリフで、「どうもこの」という自明性というか読者があたかもそこにいて同意を求められている性というかがたまりません。突然現われる全員(誰がいるの?)とかカメラ(今回の狐つきはテレビマンなのだろうか)。しかも摘み上げたり踏んだりしているのは誰でしょうか。泣いてしまうのは狐つきなんでしょうけれど、まず泣いてしまうのがいたいけで萌えですが、これは一人で長いケーブルを踏んだりして泣いているのか、全員のうちの誰かに苛められているのか分かりません。分からないところをほおっておいて先に進んでいく置いてきぼり感がたまりません。次の聯。

プラカードを首から下げる紐で 一瞬で壁にペンキを塗る
あれは狐つき

やり方がわかりません(笑)。分からないからいろいろ読者は考えてしまうでしょう。そのへんの余地の残し方がうまいです。あんまりナンセンスだと読者はあきれるけれど、微妙にナンセンスなんであって、なんとか塗ろうと思えば塗れそう、その危ういバランス感覚がすばらしいです。次の聯。

飛行機に細い糸をつなげ こっそり飛ばしてぶつける
あれも狐つき

また糸が出てきます。こっそり飛ばすのもかわいいし、ぶつけているのはたぶん失敗なのだろうと思われ(あるいはこれも意図されたうちかもしれない)、失敗だったらやっぱり泣くんだろうなとおもいます。かわいいですね。さて、全体の聯の構成は短い→短い→長い、短い→短い→長い、ときて、きれいです。短い部分は構文的にはすっきりしていますが、長いところは構文が多義的でした。さて最後。

隠れんぼしているうちに寂しくなるといけないから
みんな同じ服を着ていればいいかも 病気のとき専用のコスプレ術を知るのだ
素早く全員にマイクを渡すにはどうしよう、と悩み
結果ロープを使うことにして 振り回していると熱中してしまう
これだって やはり狐つき

最初の二行がどこにかかるのかが構文的には分からず、頭から読んでいる我々は、たぶんこれは著者がわれわれに呼びかけているのだと思うだろう。だけどこれは狐つきが自分自身に言っている言葉かもしれないし、著者かだれかが狐つきに語りかけているのかもしれない。かくれんぼしているうちに寂しくなるというのはよく分かるけれど、ならばみんな同じ服を着ようというのが解決策としてたまらなく魅力的です。だってそんなに役にたたなそうなんだもん。同じ服ってのはちょっといいギャグですね。「同じ」というのはたぶん合耕さんの作品のリーサル・ウエポンで、たとえば「君は声優、僕も声優」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=22620の

自分と同じ顔をした人達を揃えて
一人一斤の食パンを持ち コインロッカーに嵌り込む

とか、出土http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32275の

いつか 彼と僕はもうビルの屋上に着いていて
同時にメガネを外す準備もばっちりなんだ

(これをはじめて読んだときにはその映像のすごさにひっくり返ってじたばたしました)とか、その「同じ」ということがなんかのフェチズムみたいになってぼくらを襲います。で、狐に戻りますが、「病気のとき専用のコスプレ術を知るのだ」のわけのわからなさもたまりません。専用が間違っていると思います。コスプレしてどうするんだ!とおもいます。いちいちつっこんでもつまらないけど、ええいままよ、ぜんぶいうのだ。コスプレじゃなくてコスプレ術というのもいいし、なにより「知るのだ」というちょっと偉そうな言い方がたまらず、そういえばキキさんの「水玉じゃないのだ」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=16220というのもかわいかったなあと思い、いまちょっとしたかわいい「のだ」ブームが巻き起こりつつあります。で、また「全員」がでてきて、またテレビマン的狐つきは相変わらずロープで奮闘する(これもどうやってロープでマイクを全員に渡すのか、相変わらずやり方がよく分からない)のですが、やっているうちに本来の目的を忘れてロープを一生懸命振り回すのを楽しんでしまう。そのかわいらしさはもう言語に絶します。


■合耕さんの句たち

情報の抜けが我々の妄想を刺激し萌えを誘うそのようす。逆に言えば、どのような情報を与えるかがポイントになる。彼の短い句では、その数少ない単語がじつにすごい単語であり、それが我々のそれぞれの妄想野を刺激してやまない。

萬草庵スレhttp://po-m.com/forum/threadshow.php?did=15339より

ショーン君 満ち満ちてきて 携帯したい

ショーン君について与えられている情報とそれに関する妄想
・カタカナである→外人だろう
・さらに君である→外人の子供だろう
・満ち満ちてくる→ショーン君が満ち満ちてくるのであれば、ショーン君は増殖するのだろう「わたし」が満ち満ちてくるのであれば、著者のなかの萌え的感情を誘っているのだろう
・携帯したい→ショーン君は携帯できる、あるいは携帯したいと思わせる性質があるのだろう
結局「わたし」はショーン君を見ていて携帯したいとおもうぐらいショーン君に萌えているのだと思う。携帯したいっていうのがやっぱりいい。満ち満ちてというのもよくわからないけどいい。

タイ語でも お星様には 鋭すぎ

タイ語がいい。

よさないか 白濁しないで そのまんま

よさないかがいい。なんだか偉そうだけど偉そうじゃない。何が白濁するのかわからないし、そのまんまってどんな状態なのか気になる気になる。

酸欠の背中にそっとウェルダンを

電卓を盗んでそのまま背中の上へ

どうも、普段乗せない体の部位に、普段乗せないものを乗せる、というのは萌えである。なぜ背中!しかも電卓とかウェルダンとか。「そっと」とか「そのまま」とか可笑しい。

髪留め見た 緑の服は見なかった

ああこれはすごく綺麗。一瞬を捉えた感じ。髪留めが光ってる。緑の服は、っていうリズムも、緑の服も、たまらない。

逆さまにできないのなら 生ネズミ

ガス室から出て来たばっかり 周五郎

うわあ。
逆さまにできないならっておもしろい。生ネズミって、どういう刑なのか、きになってたまらない。それよりもっとわからなくて気になるのが次の句のシチュエーションで、周五郎。誰、みたいな。すてき過ぎる名前。しかもガス室から生還しています。すごい生命力ですね。しかも出て来たばっかりっていう字余りがたまらないです。よたよたした感じで、たぶん周五郎相当やられているけど、でもなんとか生きてます。この2句はほんとうにすごい。情報が少ないというのは、何でもありになってしまうおそれがあるけれど、この2句はその与えられている情報が強烈すぎて、何でもありにはならず、強烈なインパクトを与えつつ、細かいところはご自由にご想像をと言う感じで、読者をコントロールしてしまっている。わぁすごい。


■河合塾。札幌校、http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=30214 より

浮かばない毎日を過ごすあなたは
気づかないうちに 地下鉄を地下に閉じ込めてるから

四角く押さえてあげたくて
半紙を板に載せる

よくわからないけど、でもおもしろい。地下鉄を地下に閉じ込めてるからって、「から」って言われても。そして半紙。なつかしいですね。


■リサイクル http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33665
どひー。これはすごいよ!とんでもないよ!まず全部読んでくるべきだよ!

売れないたこ焼き屋をやってる子を好きになった
屋台の前に置いてあるスツールを意味なく動かしたよ
すごくドキドキする

好きになるのが売れないたこ焼き屋の子っていうのがいいですね。そして、その好きという気持ちをおさえきれなくて、スツールを「意味なく」!動かしたりしてしまう。一緒にドキドキしてしまいますね。この1連目素晴らしい。

どうかテントの骨組みの重しに
僕のこの空気抜けタイヤを使ってくれないだろうか
いくつか積み上げれば土手の向こうからも見えるだろう
いつまでも世界の秘密事

たこ焼き屋の子のために奔走するわけですす。「僕のこの空気抜けタイヤ(!)を使ってくれないだろうか」 役にたつのかどうか分からないですよね、読んでいる私はもどかしいです。この2連目も素晴らしい。

君に似た髪形を探しても結局真ん中分けに落ち着いたんだ
おかしくて外人さんを付け回したよ
それから英語で手紙を書いた
読めなくても 食べてほしいな

好きだから髪形を似せたいというきもちです。でも真ん中分けに落ち着いたことのおかしさにとる行動が外人さんストーキングです。どうですかこれ!しかも勢いあまって英語で手紙を書いています。なんでだー。たこ焼き屋の子、日本人なのに。で、「読めなくても 食べてほしいな」といっています。いいですね、これは今後、英語で書いた恋文で使っていきたいフレーズです。この3連目も素晴らしい。

いつか こうしてるだけで必ず
テントにかぶせてるその青のシートには芝生じゃなく
堤防の近くのと同じくらい茶色びた草が生えて来ると思うんだ

ここはちょっと僕には難解です。青のシートに芝生が生えたり、茶色びた草が生えたりするらしいんだけど、なんだかわざわざ熱い、近い会話調で「思うんだ」といわれたら、たぶんたこ焼き屋の子も困惑するのではないでしょうか。その困惑を想像させるこの4連目も素晴らしい。さてさいごです。

さて 今日も対岸からスチール缶を投げた
拾った君はその缶をしっかりアルミ缶と区別したよ

リサイクルだね
リサイクルだよ

ね、すごいよねこれ、萌えですよね。「さて」の使い方は奇跡的ですよ。それに、「今日も」って、あっさり言ってるし。いつもやってるのかよ!対岸からスチール缶をなげる、というのは迷惑なはなしで、やっぱり好きな子にちょっかいを出さずにはいられないもどかしさなのか。そして拾った君は「しっかり(!)」アルミ缶と区別するわけです。笑えます。挙句の果てに歌ったりしています。「リサイクルだね/リサイクルだよ」 リサイクル音頭!

ちょっとすごすぎてこれはフォーラム宝といえよう。ふごごごご


■水玉記念日 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33922 より

あなたは 黒いゴミ袋好きなのに
その黒いゴミ袋に追い回される夢にうなされたりする

「黒いゴミ袋好き」 て!しかも追い回されてるし!ぎゅいんぎゅいんですね。

だけど ゴミ袋をいっぱい 宙に浮かせた
変なポンチョみたいのかぶって恥ずかしい思いをしたりしても

でましたね。「変な」が。すごい。ゴミ袋をいっぱい宙に浮かせた変なポンチョみたいなの。どんなんだ。

とにかくなんだか、アクロバティックにすごいなあとフレージストはつぶやいた。


散文(批評随筆小説等) アクロバティックな午後/合耕氏の作品について Copyright 渡邉建志 2005-09-21 20:30:14
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