記憶→記録
大覚アキラ

 ぼくが、日記をつけているというと、意外な顔をされることがしばしばある。
 中学の頃から、2年書いて1年休んで、というようなペースで書いてきて、就職してからしばらくは書いてなかったんだけど、ここ数年はずっと書きつづけてきて、今年で9年目になる。

 日記をつけている理由は、すごく単純。
 「物忘れがひどくなったから」だ(笑)。

 歳をとるごとに、記憶ってどんどん曖昧になっていく。
 例えば、ひとつここで質問。
 去年の誕生日に誰かからプレゼントをもらいましたか? 何をプレゼントされたか覚えてますか? 一昨年は?
 どう? けっこう曖昧じゃないですか? 平凡な日常ならともかく、誕生日みたいな特別な日の出来事でさえ、どんどん記憶の中で風化してしまう。

 これって、すごく恐いことだと思う。

 なぜならば、ぼくの持論では、記憶っていうのは、自分が自分であることの証拠(=アイデンティティ)に他ならないからだ。つまり記憶が曖昧になってしまうことは、すなわち、自分自身の立脚点が危うくなることなんだ。

 なんだかややこしいハナシになっちゃいそうだけど、自分が自分であることの証明って究極的には自分自身では不可能だと思うんだよね。それを支えているのは、自分を取り巻く環境だと思うから。

 家族や会社の同僚は当然のように自分を受け入れてくれるし、銀行のキャッシュカードは暗証番号を打ち込めば当然お金を出し入れできる。でも、そういうのが全部チャラになったらどうする? それでも、自分が自分であることを証明する手だてって、なにかあるんだろうか?

 つまり、自分が自分であることの証拠って、すべて自分の「外」にあるものなんだよね。自分を取り巻く環境が、自分を自分であると認めてくれているからこそ、自分は自分でいられるわけだ。

 印鑑とか、パスポートとか、法的な枠組みの中ではパワーを発揮できるかもしれないけど、あんなのは気休めでしかない。いざというときに、あんなものに自分自身を証明してくれるパワーがあるとは到底ぼくには信用できない。

 ん? 日記と関係ないって? そう思ったあなたはもしかすると、正しいかもしれない(笑)。
 でも、どれだけ脆く危いものだったとしても、自分の中にも、“自分が自分である証拠”って持っておきたいでしょ?
 ぼくにとっては、それが日記なんだと思う。

 ちょっとジャンプしよう。

 すでにサイバーパンク(死語)の古典となった感もある、映画『ブレードランナー』。あの映画の根っこの部分にあるテーマは、「自分たちが何者で、どこから来て、どこへ行くのか」っていう問いだと思う。

 劇中のワンシーンで、自分は人間だと信じているレプリカント(アンドロイド)が、昔の写真を大切に持っているっていうエピソードがあった。その写真自体はニセモノで、写真に関する記憶も与えられた偽の記憶でしかないんだよね。でも、彼女にとっては、その写真こそが、自分の“現在”を支えてくれる、ささやかな真実だったわけだ。
 その写真(=記録)は、彼女の心の中の思い出(=記憶)を裏付けてくれるものであり、世界と自分の橋渡しをする、“細く美しいワイヤー”((c)浅井健一@BJC)なんだよね。

 結果的には、ハリソン・フォード演ずる、レプリカントを抹殺する任務を命じられた刑事自身も、「われわれ人間も、結局は同じように、自分が何者で、どこから来てどこへ向かおうとしているのか、という不安を抱えているのだ」ということに気付く。

 誰かと自分だけが共有している、ささやかな秘密、小さな出来事、忘れがたい景色……そういう、記憶の集積こそが、自分を自分たらしめているものの本質なんじゃないだろうか?
 そして、それこそが、自分と世界を結び付けてくれている、“細く美しいワイヤー”なんじゃないかな?

 そう信じているからこそ、ぼくは日記をつけることで「記憶」を「記録」に変換する作業を今夜も続けるのだ。


散文(批評随筆小説等) 記憶→記録 Copyright 大覚アキラ 2005-07-07 16:33:03
notebook Home 戻る  過去 未来