ありえざるもの
大覚アキラ

 ホテルや旅館に泊まる時、部屋に入って、まず一番にぼくがすることは、壁に掛けてある額縁や鏡をめくって、その裏側を見ることだ。これは、出張でもプライベートでも、素面でも泥酔状態でも、必ず、やることにしている。

 なんのためにそんなことをするのかと言えば、アナタ! そりゃ「お札」が貼られていないかどうか確かめるためですわよ! 「おさつ」じゃないよ「おふだ」ね、お札。魔除けのお札だわよ。

 ホテルや旅館は不特定多数の人々が利用する場所だ。自分がその部屋を利用する以前に、そこで何があったかなんて、知りようがない。もしかすると、心中や殺人なんていう血生臭い事件が繰り広げられた舞台であるかもしれないのだ。むむむ……。

 で、よくツアコンの人なんかが言うには、そういう事件があった部屋には、さりげなく額縁の裏なんかに、お札が貼られているそうなのである。ホントかよ……と思ったアナタ! ぼくも以前は、そんなこと信じていなかったのだ。そう、あのホテルに泊まるまでは……。信じられないというアナタに、ぼくの恐怖体験をお話しようではないか。



 ぼくは特に霊感があるわけでもなければ、常人に見えないモノが見えるわけでもない。ただし、金縛りには結構あう。寝入り端とか、真夜中にフッと意識が戻って、おや? と思ったときにはもう手も足も動かない。だからといって、白い人影が見えるとか、恐ろしい呻き声が聞こえるとかいうことは全然なく、ただ単に動けないだけなんだけど。

 だが、数年前に出張で広島のとあるホテルに泊まった時の金縛りは、ひと味違う恐ろしいものだった。

 だいたい、その部屋は暗すぎた。切れかけの蛍光灯と申し訳程度のフットライト、カーテンを開けても見えるのは隣のビルの壁面だけ。ベッドの布団も何だか妙にじっとりと重く、とにかく“イヤな感じ”のする部屋だったんだよね。取材も終わり、夕食を済ませて、ホテルの部屋に戻ったのは夜の10時頃。翌朝が早い予定だったこともあり、シャワーを浴びてすぐにベッドに入った。

 真夜中に突然目が覚めた。時間はわからなかったんだけれども、部屋の中は真っ暗だ。おまけに例によって体の自由が利かない。

 あ、金縛りだ。

 いつものように、深く考えずそう思った。だが、本当の恐怖はそこからだったのだ。

 突然、何の前触れもなく、テレビがついた。当然、ぼくはリモコンには触っていない。画面に映し出されているのは、灰色の砂嵐だ。これだけでも、ぼくはほぼパニック状態に陥った。

 テレビは、ぼくの寝ているベッドの右側に置かれていて、ベッドの左側は壁になっていた。テレビから放たれる灰色の鈍い光が、部屋の中を照らしている。

 と、そこで、ぼくはさらにおかしなことに気がついた。

 ぼくの左側の壁に何か不自然な影が浮かび上がっている。部屋の中にはぼくの他には誰もいない。いるはずがない。なのに、その壁には、テレビの光によってできた、何者かの影がくっきりと映し出されているのだ。ぼくは左目の端で、ゆっくりとその影を確かめた。

 それは……どう見ても、天井からぶら下がった、首を吊っている人のカタチだった。

 もちろん、天井からは首吊り死体なんかぶら下がってはいない。
 なのに、テレビの光は、そこにあるはずがないものの影を映し出しているのだ。

 恐怖というやつは、ある一線を越えてしまうと、ちがう種類の感情になってしまうようだ。ぼくは半ば呆気に取られて、その“ありえないものの影”をぼんやりと眺めていた。

 どのぐらいの時間そうしていたのかわからないが、何の前触れもなく突然テレビが消えた。部屋の中は再び真っ暗闇になった。同時に、金縛りも解けた。

 途端にぼくは、それこそ腹の底から湧きあがってくるような物凄い恐ろしさを覚えた。ベッドから飛び起きて、スリッパも履かずに部屋を飛び出すと、隣の部屋で眠っていた同行のカメラマンを叩き起こしたのだった。

 ……翌日。
 恐る恐る部屋に戻ったが、部屋の中には、別段おかしなところは見当たらなかった。カメラマンは、ぼくが寝惚けてたんじゃないかと笑いながら言う。そう言われてみると、そんな気になってしまうぐらい、部屋の中には何の気配もなく、あまりにも普通だった。
 ふと見ると、クローゼットの横にどうでもいいような水彩画の入った額縁が飾られているのに気がついた。

 そういえば、そういう、何かが“出る”部屋には、どこかにお札が貼られているっていうよね……そんなことを言って、笑いながらカメラマンと二人で額縁をめくって見た。

 あった。

 そう、あったのだ。

 蛇がうねったような文字で、なにやら経文のようなものが書かれた、茶色く変色した長方形の紙が、そこにしっかりと貼られているのを、ぼくたちは確かにこの目で見た。



 そんなこと信じられない、というあなたは、信じなければいい。
 だが、もしいつか、ぼくと同じような体験をすることがあったら、その時は部屋の額縁の裏側を確かめてみてほしい。
 その時こそあなたは、ぼくのこの話を信じる気になるだろう。


散文(批評随筆小説等) ありえざるもの Copyright 大覚アキラ 2005-07-07 00:52:18
notebook Home 戻る  過去 未来