「日本文学盛衰史」書評
佐々宝砂

日本文学盛衰史
高橋 源一郎著
出版:講談社
ISBN:4-06-210585-3
発行年月:2001.5 本体価格: \2,500

 この600ページ近い大冊を書評するのは、個人的に勇気が要る。私は偏屈読書家ではあるけど、日本文学に精通してちゃいないからねえ、とはいえ、この本は必ずしも読者に特別な知識を要求する本ではない。これは文学史の本じゃなくて小説、それもかなり無茶やってる小説なんである。

 しかし滑り出しはマトモだ。洋上で死を迎えた二葉亭四迷の状況が、きっちりしたノンフィクション風の文体で説明される。その後場面は、明治の文豪たちが集う二葉亭の葬儀に変わる。このあたりから私は戸惑いを感じはじめる。葬儀に参列した夏目漱石は森鴎外に向かって「たまごっちは手に入らないか?」と訊ね、葬儀の受付をしていた石川啄木(石川一)は、「あほやねん、あほやねん、桂銀淑(ケイウンスク)がくり返すまたつらき真理を」なんていう歌を作ったりするのだ。このわざとらしい作者の作為を笑っていいのかどうか、この時点の私にはまだわからない。

 続いて私が見せられるのは、啄木のローマ字日記だ。PHSと伝言ダイヤルを駆使して女子高生と援交しまくり、アダルトビデオを借りまくる啄木。この行動は、啄木らしいといえば非常に啄木らしいので、ふんふんつまりそういう小説なのね、明治の文豪連中の生活と現代をまぜこぜにしてみたのね、なかなか面白いじゃん?と私は独り合点して読み進む。

 次に登場するのは「若い詩人たち」だ。最初の口語詩を書いた川路柳虹、詩から永遠に去ってゆこうとしている島崎藤村……私の好きな北村透谷も登場してくる。透谷ときたら、ジャニス・ジョプリンをヘッドフォンで聴きながら「これがほんとの詩だぜ。ジャニス、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリスン、鈴木いづみ、おれの好きなやつはどいつもこいつもどうして早死にするのかねえ」なんてうそぶく。このセリフは重要なセリフってわけじゃないんだが、いかにも透谷らしくてヨイ。透谷が死ぬシーンではドアーズの「ハートに火をつけて」が流れてる。きゃあ、あたしの大好きなドアーズだわ、透谷ってばあたしと趣味が同じだったのね、嬉しいわっ♪……いや、話が逸れた、これはこの本の本筋ではない。こういう個人的なヨロコビも、この本の楽しさのひとつではあるのだが、この手の小さいことにかまけてると全然書評が進まないので、ちょっとはしょる。

 長大なこの小説の第一の圧巻は、田山花袋が『蒲団'98・女子大生の生本番』なるAVの撮影に参加する章である。「露骨なる描写」を求める田山花袋と、とにかくオカズになるものを撮ろうとするAV監督……確信は持てないのだが、この両者の関係は、対比ではない気がする。ただまぜこぜに並べられた明治の文豪とAV監督の姿。田山花袋が貶められているのではなく、AV監督が高められているのではなく、だのに両者が同じような地平に立っている。それはとても不思議な感じだ。

 もうひとつの圧巻は「WHO IS K?」と題された章。Kは、夏目漱石の『こころ』に登場する人物。あのKという人物は、本当は誰だったか? 『こころ』というあの有名すぎる小説が、実は解き明かせない秘密を孕んでいることを示唆する部分は、下手な小説よりよほどスリリングだ。

 ……あ、そういえば本書は小説だったはずなのだが、クライマックス手前のこの部分では、小説と言うより評論のような体裁になっているのである。説明をはしょった中ほどの章では、エッセイ風になっていたり行分け詩のような体裁になっていたりする部分がある。数多くの文体を駆使し、雰囲気もバラバラ、形式も体裁もバラバラ、小説と評論の垣根も超えてしまって、さらには谷川俊太郎・穂村弘・藤原龍一郎などの詩を作中に引用し、しかし、全体的にはまごうことなき「高橋源一郎」印が色濃く押されている。

 クライマックスは、死の羅列だ。羅列でなければリレー。登場人物たちは、これでもかこれでもかと死んでゆく。文学者の死ではじまった物語は、文学者の死で締めくくられるしかないのだろうか。いや、違う。物語は産声で締めくくられる。しかし、その産声は悲鳴なのだ。まだ生きている作者の、私の、そしてあなたの悲鳴でもあるのだ。


散文(批評随筆小説等) 「日本文学盛衰史」書評 Copyright 佐々宝砂 2003-12-05 17:56:02
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