贋者アリスの洞窟の冒険
佐々宝砂

荒野には屍などない。屍は豊饒の証である。荒野は小気味よいほどの空白であり、そこにはふくふくした糞便も滋養豊かな腐肉もない。目立つものといったら枯れ木だけだが、その枯れ木ときたら、湿っぽいので燃料にもならず、中がうつろなので材木にも使えない。

それでも足元にはいじけた草が生えている。白い小さな花が咲いている。それはハコベという花なのだとあたしはおもう。空っぽの荒野に生えた愛らしいちいさな花。あたしはハコベをうっとり眺めたあとでそれを根こそぎ抜いてしまう。ハコベはなかなかおいしい草なのだ。

誰かいないのお!と叫んでみる。

緑色のこびとはひとり荒野に立ちすくむ。あかい帽子。灰色のベルト。薄汚れた茶色なベスト。彼が身につけているすべてはまがいもの、でなければ借り物、彼は妖精の里を昨日出奔したがゆくあてはなし、かといって彼は人里にも馴染めない。なぜってそこでは毎日毎時教会の鐘が鳴り響くからだ。

何かほしい?と訊ねたら緑色のこびとは黙って首を横に振った。

頭上では時計のかたちをした月が光っている。あたしは詩を書かなくちゃならない気がするのだけど書けないからただたらたらと灰色の糸を紡いで灰色の布を織ってゆく。つむで指を刺したらきもちいいかしらとふと思ってつむを見ると、それはまだらの蜘蛛に変わっている。それは毒蜘蛛じゃなくて小さな赤い眼を八つ持った愛らしい生き物に過ぎないのだとあたしは知っている。

蜘蛛が好きなの?と緑色のこびとが言った。まだそこにいたのね。

だけど、さあ、顔をあげて、二銭銅貨の唄をうたおうよ。ポケットにはコルトがしまってあるのでしょ、そしてブラックバードには翼がないのでしょ、だけど、ほら、臍からずるずると出てくる白い紐をひっぱれば、これまで見えなかったものが見えてくる。あたしはコアセルベート、どろどろのべとべとのオーガニック・スープ、そしてそこに必要なのは雷なのよ、わかる?

緑色のこびとは、また黙って首を振った。


いとおしい終末よ破滅よ浪漫の屍よ。そんなものはもうない。神も悪魔ももういない。死ねるひとは死になさい。苦悩できるひとは苦悩しなさい。ここはとてもあかるい。あかるいけれども、それは終末のこのましいあかるさではない。魔術と手妻だけがのこって荒野をいろどる。

さようなら!

ああ、あたしは誰に別れを告げているのだろう。

まひるのあかるいまったいらの荒野にぽかんと口をひらいている地下への入口。そのさきにあるものが何かあたしは知っている。それについて話してはいけないのだということをあたしは知っている。あたしはあたしを忘却し、地下に降りてゆく。


洞窟の入口には両面宿儺が鎮座している。こっちがわに見せた額には怒りの皺が寄っている。あたしは両面宿儺の腹を思い切り蹴り上げる。ぐらぐらとあっけなく埴輪は崩れ、みっともなく不釣り合いに小さな裏側の顔がこちらをむいた。可哀相な存在よ、埴輪でしかないおのれの力を幻想する哀れな存在よ。あたしは腰を落としてどっちにも折れ曲がる便利なその膝に接吻する。両面宿儺はひくひくと痙攣しながら身体を小さくし、双頭のゼニガメにかわってしまった。

滋養分のない水が滴る洞窟。目のみえない無数の生き物たち。ほかに世界を知らない、小さな生き物たち。ここで生まれ、ここで生き、ここで生殖し、ここで死んでゆく、盲目で、小さくて、何の役にもたたなくて、誰からも注目されない、微かな生き物たち。なんと愛されるにふさわしい存在なのかしら、そうよ、ここは、愛を語るにふさわしい暗闇。

あたしはランタンを手に、歌いながら石の階段を降りてゆく。歩くにつれて闇は濃くなってゆく。あたしの手は次第に腐食し、黄土色になり、灰色になり、爪先からぽろぽろと崩れてゆく。赤いマニキュアを塗ってあったからいけないんだとどこかで声がする。おまえの指は切り落とされるべきなのだとどこかで声がする。しばらくするとあたしの指はすっかりなくなってしまい、あたしはランタンを取り落とした。

闇。

一歩踏み出すと、あたしは落ちた。どこまで? どこまで? 落ちきってしまうまで、あたしには、わからない。あなたにも、わからない。


下から上へと通り過ぎてゆく景色。見覚えのある風景。古ぼけた全集本の並ぶ書棚。埃っぽい市松人形の首ばかりが揃えられた棚。空っぽの広口ビン。壁から草のように生えた無数の口吻。灰色の指。そこに塗られているどぎつく真っ赤な口紅とマニキュア。それを見てあたしは確信する、あたしは間違えてはいない、あたしは確かに正しい道を進んでいるのだ。

歌い続けながら、あたしはにぎやかに着水した。

あたしが落ちたからといって水は波紋をつくろうとはしない。水面は鏡のようだ。そこにうつっているのは、いじけたハコベ。緑色のこびと。うつろな木材。双頭のゼニガメ。それから、けたたましい鳴き声をあげて走るドードー鳥。サーベルタイガーとモアも走っている。ステゴサウルスもいる、三葉虫も、ウミユリもいる。見上げれば、この地下の要塞に果てもなく広がる、雲ひとつないばかげた青空でリョコウバトが群をなして飛んでいる。

おお、滅びたものどものレース! 勝利者はいない。すべての参加者が敗者なのだから。あたしは笑う。笑うと、笑ったぶんだけあたしの指のない手にうすっぺらな羽根が生えてくる。トンボの羽根みたいに透明な、ちゃちな、何の役にもたたない羽根、だけど、羽根なのよ、これは羽根なの、そう言うとドードー鳥は、フン、と小馬鹿にしたみたいに鼻で息をして、あたしにみっともないお尻を向けた。

さあ、みんな出てきなさい、隠れていてはだめ!

ひゅいひゅいひゅい。妙な効果音とともにしらばっくれた顔して影のうすいホムンクルスがあらわれる。ちっちゃいから役に立たないけれども、それでもこいつもここの住人なのだから適度に相手してあげましょうとおもってあたしはホムンクルスを指のない手で抱きとる。ホムンクルスは喜んであたしの胸に放尿した。これでよい、これでよいのだとあたしは溜息をつきホムンクルスの熱い尿をなめとる。

羽根は生えたのだしこれで役者は揃った、準備は整った、ゆかなくては! でも、どこへ? ここは閉ざされた洞窟の中だ。明るい青空も、走り回る生き物も、あたしの羽根も、すべては鱈の目に過ぎない。でもそれでいいのよ、そういうもんなのよ、ゆかなくては! 

門の中に音をしまいこむと、それが、闇だ。それでは、洞窟にしまいこまれた光はなんだろう? それは星よ、それこそが星、なのよ、あたしは星を探していたの、そうよ、星は地下にあったのよ、あたしはずっと前からそれを知っていたの、あなたがそれを知らなかったとしても。


あたしは飛ぶ、腐りかけた手にちいさなうすいトンボの羽根を生やして、はだかの胸をホムンクルスの尿で汚して、ピテカントロプスとバイソンとニホンオオカミとそのほか大勢の生き物を従えて、あたしは飛ぶ、荒野に向かって。地上には何もないと、あなたは愚かにも言う、けれどあたしは知っている、そこに充満する星の気配を、やがて生まれてくるであろう何者かのかすかな息づかいを。

愛するあなたよ。あなたは荒野だ。あなたは孕んでいる。あたしは告げよう、あなたに、孕みながら、それにまるで気づかぬ鈍感なあなたに、受胎を告知しよう、あなたに、愛をこめて。あなたはちっぽけなハコベを生やした、うつろな木を育てた、嘘っぱちでできたホムンクルスを創造した、あなたは生み出した、イグアナを、パンダを、ダンゴムシを、プラナリアを、あたしを、そして最後にあなたはもうひとつ生まねばならぬ、荒野にひとすじの光をもたらす星を。ひとつの星を。

泡だつ夜空は混沌としたテレビの空きチャンネル色だ。目を見張れ。見えるはずのないものを見よ。あたしは東方の三人の博士それぞれにメールを送る、ねえ、あなたには星がみえますか?

本当のことを教えてあげるわ、あたしはアリスじゃない、あたしは本当は天使なの。そうよ、あたしは天使、告知を終えたら消える定め、あたしが消えれば荒野の果てに夕陽は落ちて馬小屋に幻の産声があがる。

おお、グローリア!












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もうすぐクリスマスですので受胎告知ものなど。
この詩は私の詩集『仮想地下海の物語』に収録されています。
詩集の詳細は左記URLから。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sasah/poems/book-kaso.html


自由詩 贋者アリスの洞窟の冒険 Copyright 佐々宝砂 2003-12-05 00:41:51
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