「われわれは、愛と平等を否定」しうるか?−「障害」と「言葉」の関係を繋ぎなおすための考察
石川和広

 脳性まひ者の運動の言葉の中で、私に、とても印象を残したのは、「青い芝の会」という団体の「われわれは、愛と平等を否定する」というものだった。
この言葉は、たとえば、十九世紀末の詩人哲学者であるニーチェのキリスト教の「同情」批判と近い趣があると感じる。ニーチェも、五年間で大学を退職し、あとは、大学からの年金で、転地療養生活を送っている。社会的には今で言う「障害者」だ。

 そもそも、かれら(青い芝の会)は、なぜ、キリスト教的語り口の否定=「われわれは、愛と平等を否定する」を、行ったか?かれらの直感では、現実との、精神的あるいは現実的齟齬そして葛藤を無視して、「同じ人間ですよ」と話をすすめられるのは、おかしい。いったい、彼(ら)は、この正体不明な運命に苦しめられ、しかし、そこから、生の実感を掴んでいくほかなかった。そのプロセスを差し置いて、同じだと近寄ってくる連中が、彼らには、何か、話が(それぞれの異なる生を大切にしつつ)でき難いものたちに見えたのではないか?

「障害」ということばがある。これは、近年の障害学の取り組みからは、社会学的、哲学的、海外との比較史的な、または、当事者運動研究といった観点から、様々なアプローチがなされている。
立岩真也は、その代表的な研究者といえるだろう。かれは、「青い芝の会」という団体の「われわれは、愛と平等を否定する」の紹介者だ。また、身体障害当事者の一人暮らしの現場から、レポートを、障害者自身と共に、出したり、それを、梃子にして、障害や、その自立という言葉に潜む、日常性からの微妙な乖離を問題としている。そこから彼は、実際に、障害を持つ人々が、基本的な日常性を、障害を、特殊的な前提にしすぎないで、確保できる社会の仕組みのあり方へと考察をすすめている。
(立岩真也のリンク先http://www.arsvi.com/index.htm

 しかし、3年間、知的障害者のグループホームの現場で、働き、また、けして、そのせいだけではないが、今は心を病み、うつ状態や不安を通過している私にとって、立岩のいささか、厳密、かつ、事象の複雑性を捉えようとして、どんどん、くねっていく文体の長さは、とても疲労感を感じてしまう。
 もちろん、彼だけのせいとは、いえないし、彼の論文が、複雑な、かつ従来の哲学研究の文体から、介護、くらしの「現場」の感触を取り戻そうと懸命になっていることも、理解できる。
 しかし、彼の著書を紐解くとき、何か、ぼくら介護労働者が、感じてきたことが、これだけ、引き伸ばされたら、なにか、逆説的に、ぼくらの感じてきたことと、かけはなれていくし、そもそも、多くの障害者が、これを読むのは、かなりしんどいのではないかと思うのだ。僕は、障害者が、難しい本を読めないといっているのではない。
 要は、語り口の問題である。文学といってもいいかもしれない。
案外、介護や、障害は、即物的な面と、構造的な面が生活の意味空間をつくるのだが、わりあい、平凡なようで、劇的なものがある。そこを丹念にたどろうとする研究者としての哲学者文体は、参考にはなっても、生活にとっては退屈なのかも知れず、焦れてしまうのかもしれない。もちろん、メルロ=ポンティの哲学書が、吃音者だった竹内敏晴に与えた感動を考えれば、長い目で見れば、効き目のある議論なのかもしれない。
しかし、学者との対談では、平たい言葉で、話せる立岩が、なぜという思いは消えない。青い芝の会の言葉を私に教えた彼が私には遠く見えるのは、なぜだろう。
彼は、「障害」というニュアンスを大切にしようとしてそれをこぼしてしまっている気がするのだ。

今、差別語とされている言葉がある。もちろん、そう機能していたからか、使うことが禁じられた過程もある。
ただし…
かつては、谷崎潤一郎が、トルストイが、中上健次がこだわったように、「はくち」「めくら」「かたわもの」、こういった今では、「障害」と一括されている人や暮らしの言葉の中に、差別とは異なる「差異」さまざまな「営み」や「匂い」があったし、それを残すものとしても文学は機能していたと感じる。
 さて、繰り返すと立岩が紹介している、脳性まひ者の運動の言葉で、私に、とても印象を残したのは、「青い芝の会」という団体の「われわれは、愛と平等を否定する」というものだった。
立岩の業績を、基本的には私は肯定している。なぜなら、こういう言葉が、知りたいときに知られ、残されていくことに、意義があるからだ。
 彼ら(青い芝の会)は、もちろんいたづらに違いに拘ろうとしたのではない。しかし、語ることは、困難であり、もちろん彼らも批判対象の特定に苦しんだこともあろう。
 これは、しかし、彼らのような特定の人たちに、あてはまる話だろうか?、彼らは、「真の」平等や愛ではなく、葛藤や波乱を含みながらの、愛=他者のわからなさとわかりあいたさ、セクスを、掴みなおしたかったのではなかろうか?
ここから、文学における、伝えるときに現れるコミュニュケーションの難しさ、対象のつかみがたさのヒントは得られるかもしれない

 例えば俳句は、わが国において、ひろく親しまれる文学である。おそらく、作者、読者は、現代詩をこえて、ひろい。よく、老人の趣味として、親しまれるのは、なぜか?

正岡子規を、考えてみればよい。
彼は明治時代当時、不治の病といわれる「脊椎カリエス」で、寝たきりであったのだ。
今、介護現場で、寝たきりは、「なる」ものではなく、周りが「寝たきり」に「させている」という認識が広がりつつある。
しかし、明治の頃、いい車椅子も、なかっただろう。その時、寝ているしかない、写生しかできない子規の情感溢れる目から見えた風景を、写生としての「俳諧」という絶望の地平に置き換えたと見たらいかがだろうか?
そこから様々な可能性。尾崎方哉、住宅顕信…
「五体不満足」の乙武氏とは、ちがう風景が見える。
今も障害という理不尽はある。意匠を変えて、しかし、単に不便のみではないものがあるはずだ。そして、それを沈黙する乙武氏にも、見えない苦味があるのではないか?
 それは、やはり、身体の操作性以前の「不遇」の感覚。その子規が時代の制約の中で感じ取らざるをえなかった「不遇」を削り取っているからこそ、彼は、奇妙に「明るく」見える。影を失っている。これは、私たちと無関係か?
 子規はbase ballを「野球」と訳したし、乙武氏は、スポーツライターとして本も書いている。二人ともライターであり、観察者だ。が、「野球」はbaseを頭とし、これは塁、基地、とも訳せる。「野球」は、米からの輸入であり、日本は明治以来、長い間アメリカの基地のある地、あるいは、極東の塁=踏み台をなしている。それを「野=フィールド」とも取れる訳し方は「この踏み台、基地=外を内部に含んでいる」日本という「野=フィールド」を意識している。というのは、彼が漱石と並ぶ開化への抵抗者だったことでも、類推できる。独自の身体からの「不遇」への感度、日本に生まれて来た者の。
乙武氏はワールドカップサッカーについて、かなり書いているが、そこには「世界=ヨーロッパ的な、への挑戦」は、あっても、ネイションとしての日本への批評意識は、ライターとしては、かなり欠けているだろう。これで、フィールドを立ち上げることは出来るのか、心許ない。以下、乙武氏のサイトからの引用
http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2004/08/post_6.html

 「 自分のため。あるいは自分を支えてくれた近しい人のため。プレッシャーをごく限られた範囲に絞ることで、彼らはその能力を最大限に発揮させたと見ることはできないだろうか。
  日本選手団の主将を務めた井上康生に、旗手を務めた浜口京子。他の選手以上に日の丸の存在を意識せざるをえなかった2人がともに残念な結果に終わったことは、はたして偶 然と言えるだろうか。
 “長嶋JAPAN”という、やはり日の丸に近い重圧を背負わされた選手たちが準決勝で敗 れたことも、奇妙な共通性を感じさせる。
  国家を背負ったなかでは活躍できないほど、メンタリティが脆弱化していると嘆くのか。個がいきいきと輝く、新たな時代に突入したのだと歓迎するのか。とらえ方は、もちろん個々の自由である。
  私自身は、後者の輝きとすがすがしさを肯定したい気持ちがある。
だが、「これで勝てなかったら、もう日本へは帰ってこれないというくらいに自分を追いこんで、それを試合で爆発させたい」と挑みながら散っていった、井上康生の昭和の匂いも決して嫌いではない。」(引用)
このどっちつかずは、私は?である。なぜなら
「個がいきいきと輝く、新たな時代に突入したのだと歓迎するのか。とらえ方は、もちろん個々の自由である。
  私自身は、後者の輝きとすがすがしさを肯定したい気持ちがある。」(引用)

この辺りに、「個がいきいき」と言う言葉が、どう機能するか、見ただけの実感を書いたのではない、奇妙なリアリティの無さと無自覚を感じさせる
で「だが、「これで勝てなかったら、もう日本へは帰ってこれないというくらいに自分を追いこんで、それを試合で爆発させたい」と挑みながら散っていった、井上康生の昭和の匂いも決して嫌いではない。」(引用)みたいな事も書いちゃう。甘さと言えばいいか。「薄れつつある昭和の匂い」って何か、よく説明の無いわからん記事だ。「根性我慢」とか?昭和が、何をさしてるのか、よく調べた方がよい気がする。「根性我慢」とか?
この対極に「もちろん、歓喜の瞬間には国旗を振りかざしたり、胸につけられた日の丸を指し示す選手はいたが、それは国家のために戦った証というより、ある種のファッションとしての行為にも思われた。」(引用)
?「ファッション」国旗とは誰に見られ何のためにあるものか、ここにも考察の浅さが見えてきて、その選手達がそう考えているか、どうなのか、配慮のない論かもしれない恐れがある。その浅さは、まぎれもなく選手を飛び越し、必死の選手を追い込む奇妙な明るさとなっていないか?そして、国旗は、まぎれもなく、所属する国の表示として、他国の人たちには見えるはずだ。その観点を抜かして国旗を流行?衣装?謎だ…

 乙武氏は、現代的テクノロジーと自身のがんばり、トレイニングで、かなりの動きが出来る。スポーツも、楽しめることもあるだろう。そして、依然、介助の手は必要である。
 子規は、進行性の運動障害になすすべなく、日記と、新聞の切り抜き、病床から見える風景の写生としての俳諧を、絶望の中のユーモアの糧とした。
脳性まひ者は、先天性あるいは後天性、様々なケースがある。しかし、乙武のような、民放で「かっこいい障害者の笑顔」を強要されるかわりに、福祉番組で「がんばってる顔や笑顔」だけを切り取られることも多い。
 これは、顔に対する認知にも関わるだろうが、ゆがむ顔、痺れる、強張る身体も、様々な処世や趣味がある。
 子規は、俳句というフィールドを作った。
障害には、それぞれの差異とフィールドがある。乙武氏は、日本のマスコミというフィールドを選んだが、差別的=逆差別的な日本のマスコミというフィールドを駆けるための、この国への批評的意識は、彼にあるのか?それは心もとなく、私は、彼の今後を危惧するし、もう、危機は訪れ、彼は富を得られても、障害者としての自分を襲う、彼を見た人や彼自身が削ったかもしれない「不遇」の感覚を、何かで誤魔化していきはしないかと思ったりしてしまう。(まあ、男前なら、それでいいという考えもあるが、かなりのチャンスと覚悟が試されよう)
これが、杞憂だといいのだが…逆に、私は、お節介ながら、訪れるかもしれない危機から、彼の失ったものの豊かさと苦を見出して欲しいと願うのである。
それを前にして、つまり、自己の生きる条件のニュアンスを噛みしめて、書き手として、成長していただきたい。
私の好きな、急逝したスポーツライター山際淳二のように。


散文(批評随筆小説等) 「われわれは、愛と平等を否定」しうるか?−「障害」と「言葉」の関係を繋ぎなおすための考察 Copyright 石川和広 2005-02-18 21:18:29
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