「思い出の渚」の冒頭歌詞を検証してみる「作詞家岩谷時子の発言を聞いて」/
洗貝新
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
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りつ
出来上がりを楽しみにしています。
(取り敢えず、眠ってはいかがですか?暑い日が続いているので、倒れてしまいますよ。)
---2025/08/24 09:53追記---
見つけた。
私の解釈は、運命的である場合は、「見つけた」。
直感で分かるのですよ。「あ!このひとだ」って。
米津玄師「月を見ていた」より
生まれ変わったとして 思い出せなくたって 見つけてみせるだろう あなたの姿
出会った。
これは偶然が必然になったもの。
出会うのは、見知らぬ者同士として。
だんだん惹かれあって、出会いが必然になる。
ダイアリーで読んでから、続きを読みたいなと思っていたので、
読めて良かったです。
ゆっくりお休みください。ありがとうございます。
PS:私も時々、一語に拘ります。特に俳句は。
---2025/08/24 10:02追記---
---2025/08/24 10:30追記---
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菊西 夕座
このような解釈、分析、洞察というものは、とても楽しいですね。刺激を受けます。
どうして「出会った」でなく「見つけた」なのだろうか、という表現方法に対する疑問への回答の旅路。文学的な感性を養ううえでたいへん重要な追求だと思われます。
私なりにも考えてみました。「見つけた」というと、やはり発見の意味合いが強く、宝を見つけたといったような功績へつながる要素が色濃くなるのかと思います。そういう意味で、「きみ」というものの価値がいっそう強まるのではないか、と考える次第です。
問題はなぜプロの作詞家にはそうした表現ができないのか、ということ。それはやはり追求する姿勢がちがうからと思われるわけであり、そういう意味で、内省的・技巧的なイメージのあるプロの作詞家に対し、ナンパという外向的・直線的な姿勢をもちだしてきた洗貝新さんの解釈は説得力が感じられました。
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海
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
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室町 礼
アラ貝センセイにしてはめずらしく眼の付けどころが
悪くない。ただし解釈や想像はまったくデタラメだが、
「きみを見つけた」という冒頭の歌詞を棚に載せたのは
アラ貝にしては上出来だろう。褒めてやっていい。
歌謡曲なんてバカにしている自称詩人が多いが、例えば
「背伸びしてみる海峡を~」♪という歌詞の「背伸びして
みる」「海峡を」なんて言葉を思いつく現代詩人なんかいない。
それほど現代詩としても傑出している。上句に続く、
「~きょうも汽笛が遠ざかる」♪という歌詞もいまどきの
現代詩人には不可能。それほど天才的。
これはなかにし礼の曲ではなく無名の天才的な詩人の歌詞を
なかにしが惚れ込んで歌にしたものだ。
「きみを見つけた」なんて岩屋時子には不可能。現代詩人的
感性の冒頭句なんだから作詞家には無理。それをまあ「きみ
と出会った」と対比するとは、バカ丸出しだが、まあしかし
この句に眼をつけたのはめずらしく◯だ。笑
---2025/08/24 16:27追記---
もうひとついえば、「あなたの過去など知りたくないの」
という歌詞もとうてい思い浮かばない歌詞。
「あなたの~」まではだれでも思い浮かぶがその続きをど
うするかでなかにし礼は死ぬ苦しみをした。
「あなたのことなど」では凡庸だ。いまどきの現代詩人な
あら「あなたのことなど知りたくない」で終わる。
ところがなかにし礼はそれでは満足しなかった。七転八倒、
一ヶ月近くも睡眠も十分とれないほど考えても浮かばない。
ところがある日、茶店でふと雨の銀座通りをみると和服の
ホステスが傘をさして店を出ようとしている。それをみて
なかにし礼は「あなたの"過去など"」を思いついた。
これはレコード大賞をかっさらったが今どきの詩人は
観念的なことばかり考えて言葉の真のうごき、必然を
考えない。だからアラ貝もふくめてクソのような詩しか
かけないのだ。と、おれは思うのだけどね。
作者より:
りつ様、書き上げる前からのコメント伊丹空港へ参ります。笑。ありがとう。
※
そう。だから、浜辺で見つけたちよっちゃん。直感的な一目惚れですね。それをお目当てにビーチに来ているわけだから、見つけた!というのは一方的な想いから同時に不安定な別れをも示唆している。読んだ岩谷時子氏はそこまでこの主人公をイメージとして浮かべたのでしょうね。あの歌詞の眩しくも初々しさとして。
---2025/08/24 10:13追記---
---2025/08/24 10:35追記---
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