「思い出の渚」の冒頭歌詞を検証してみる「作詞家岩谷時子の発言を聞いて」
洗貝新


『思い出の渚』 ザ、ワイルドワンズ

きみを見つけた この渚に
一人たたずみ  思い出す
小麦色した  可愛いほほ
忘れはしない いつまでも
 水面走る  白い船
  長い黒髪 風になびかせ
   波に向かって 叫んでみても 
    もう帰らない あの夏の日
~                   作詞 鳥塚繁樹 作曲 加瀬邦彦


昨晩懐かしいGS時代の番組を見た。
ザ、スパイダースからGSの頂点を極めたタイガースまで、その爆発的な人気を誇った期間は僅か3~4年あまりだが、いまでも活動しているグループもある。
番組を見ていてザ、ワイルドワンズのコーナーに来たときだった。リーダーだった加瀬邦彦は既に他界しているが、彼らはいまでも活動している。そしてグループのベストヒット曲はもちろんデビュー曲でもある「思い出の渚」だ。
上記されているのは一番の歌詞だが、当時のメンバーを交えて話題がそのときの「思い出の渚」の裏話に移ったときのことだ。
冒頭、きみを見つけた~この曲を聴いた作詞家の岩谷時子氏に言われたという。彼女は当時既に著名な作詞家でもあった。
 彼女はメンバーに向かって言った。~この、きみを見つけた~の見つけた、という表現はわたしら(プロの作詞家)にはできないわ~と。そしてそのことを褒めたという。
僕はこのメンバーのコメントを聞いて、え?と思った。
岩谷時子は何故単純に、見つけた~という表現ができない、しかもその表現を称賛したのだろうか。
きみを見つけた、が表現に浮かばないのならば、きみと出会った~とでも表現するのだろうか? そう思って少し考えてみた。
見つけたと出会った、の違いなんてサングラスの色の濃さによる違いのようなものではないか。しかも、きみと出会ったこの渚に~ちゃんと小節に歌えるのだ。
どうしてこのような細かいところに拘るのだろうか。
歌詞を読めばなんていうこともない。普通にある短いひと夏の経験で、若い恋人たちの出会いと別れという。悲恋話しを刹那に思い出として歌っているだけなのだ。それなのに、

いや、まてよ、物語の舞台は夏の浜辺である。当然若いカップルや水着弾ける女の子たちのグループで埋め尽くされ、それを目当てに若者(青年)たちの眼もこころもトキメキ揺れるのだ。
そうだ!そうなんだ。陽を浴び夏の浜辺に向かわせる男たちの目的は、装う波乗りばかりではない、恋の宝物探し、女の子のナンパなのだ。
はじめからナンパ目的に夏の思い出作りに来ているわけだから、きみとの出会い、ではその偶然性も重なり、少し消極的だ。ここは能動的かつ積極的に見つけた、とされるほうが適しているのではないか。 
故岩谷時子氏が女性であるが故に、見つけたとは表現できないと言ったのか、そのことは定かではないが、
作詞を担当したメンバーの鳥塚茂樹はおそらく詩書きとしても駆け出しで、そんなことは意図も介さずに書いたのだろう。
仮にそこまで若い男たちの気持ちを読んで、このような初々しくも汗迸るような表現は、作詞家として定着しているわたくしたちにはとても真似できない。という意味が込められているのだとしたら、彼女の秀でた洞察力はお見事でもある。
詩や小説にしても同様だが、物語る場合の主人公の像(イメージ)が如何に大切であるか、 
理解できる一コマであったのだ。


※ 筆者である(僕)わたしの勝手な憶測で書き上げている。もしも故岩谷時子氏によるこのことへの正確なコメントが存在するならば、お許しと同時にご一報頂ければ幸いであります。









散文(批評随筆小説等) 「思い出の渚」の冒頭歌詞を検証してみる「作詞家岩谷時子の発言を聞いて」 Copyright 洗貝新 2025-08-24 07:56:18
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