そのとき光の旅がはじまる/
yo-yo
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
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るるりら
敷居の溝でわたしもあそんでました。
しばらく 詩の題名をなめるように
ながめました。ビー玉を転がすように
っていったほうが良いのかも♪
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イナエ
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未有花
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宣井龍人
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梅昆布茶
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㎡
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乾 加津也
感傷も良質な
さらに
六連目の「決心」と「連結」と、これ以降
展開もしっかりと届きました
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鵜飼千代子
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ただのみきや
素晴らしいです。
ひとつの完成のように感じました。
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衣 ミコ
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殿上 童
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夏美かをる
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石川敬大
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Lucy
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たま
とっても♪
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唐草フウ
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
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アラガイs
拝見いたしました 。どこまでも続く線路のように、甦る遠い記憶への回想は、消えてしまった祖母や駅舎の面影を慈しむ。毛糸玉や古い服、土手のヨモギといった子供の頃の思い出が、どこまでも記憶をつなぐ二本の線路を旅するように語られています。主題は記憶の中を旅するように「そのとき光の旅がはじまる」閉じ込められた風景が、ビー玉のガラスに反射して映し出されるように、光と甦る子供の頃。あくまでも語り手に寄り添いながら発語される言葉たち。慈愛と語られる想いの他は何の淀みも感じはしない。しかし力量のある方だから敢えてこれに疑問をぶつけてみたい。終わりに置かれた四行は具体的に内容を把握できる重要な呼び掛けだが、誰が誰に語られたのだろうか。あるいは何が誰に、誰が何に。 文全体が心象と置かれているだけに、こうして呼び掛けで終わる構成が果たしてこの詩をより活かさせているのだろうか。私には明確な判断が就かない。。
作者より:
読んでいただき、ありがとうございます。
貴重なコメントまで頂き、ありがとうございます。
最終連についての疑義もいただきました。それについては作者である私にも正確な(?)ご返答はできません。
それまでの言葉の流れとして走りすぎたのではないかという思いがあり、最後に立ち止まったところで呼吸を整えるように息を吐きだした。とくに意図したものでもなく自然に吐き出されたものを言葉にした。私としてはそれで落ち着いたのでいいかな、といったところでした。
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