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参照先不明 参照先不明 みなさんの投稿をよんで、おおきく三種類あるなとおもいました。 詩でなくちゃならないひとと、詩でなくてもいいひとと、 たまたま詩であったひと、です。わたしは最後のタイプですが、 文章をかくいがいのことはあまり得意でなかったので文章をかいています。 小説でも評論でもよかったのですが、詩をかくのがいちばん巧くいったので、 詩をかきます。 (演奏と作曲はできないじゃないけどヘタ、絵や造形はおはなしにならない稚拙さ) なんで詩なのでしょう? 暇つぶしならゲームやパズルをやってもいい。 自己確立のためなら仕事でも勉強でも子育てでもできるはず。 自己顕示欲を満たすためなら演劇やカラオケでもいい。 文章をかくにしても、詩みたいな人気のないものよりエッセイを書いたほうがいい。 なのになぜ詩をかくのですか。 by 佐々宝砂 頭の中にあるコンプレックス(複合体という意味での)を他人に伝えようとする場合、私たちは「直結」されていませんので、 なんらかの「翻案」あるいは「ユニバーサル・ランゲージ」「暗黙の了解」が前提/最大公約数として必須なわけです。 つまり、どうしたって譲歩しなければならないわけです。 目の前で歌って聴かせるのではなく、CDで聴いてもらう、などの方法を採る、ということですね。 その方法として何を採用するか、という問題でしょ。 それを「文字」「言葉」で表現するというのは、精確なようでいて、とてもアンビバレントです。 だって、自分の思う「赤」と、他人の思う「赤」は、 同じであるはずがないのですから。 では何故詩人は言葉を選んだのか? 手っ取り早いから? 楽だから? いいえ。逆だと思います。 言葉は、メディアとしてはホントは落第生なのです。 でも、詩人などのアーティストは、抑制された範囲で、どれだけ力が発揮できるか、を知りたくてたまらんのです。 というか、ある枷、限定された手段だけを利用して何かを達成したいという、マゾ的な(サド的なのかな?)欲望保持者なんだと考えます。 あえて不自由な媒体を選んだのが詩人さんだと思います。 「手っ取り早いから」と「詩」の形態を採用した人は、まだまだ先は長いです、きっと。 by クリ あー、出会ってしまった というのが正直な所ですね。 あと、小説も、戯曲も書いてみましたけど、お話にならなかったし、音楽も、美術も人並みにさえ出来なかったんですね。で、詩だけが残ったわけです、俺の場合。 で、じゃあ詩は簡単かつーとそんなことはなくて、たぶん、リクさんの仰ったことに尽きるとおもいます。 ではなぜひつっこく書き続けているかといいますと、やはり言葉にどうしようもなく惹かれるからなんですね。救われたい とか 稼ぎたい とか モテタイ とかそゆーんじゃないんですね。 救われたい という時期もあったのは確かだけど、もうそんな時期はとっくに過ぎてしまったんです。それでも、書かなければ とおもっているのは ほとんど習慣なのかもしれません。常に書かなければ とおもっている 中毒みたいなもんかもしれません。 蛇足ですが・・・ 詩を表現の手段として、手っ取り早くて簡単で、効率がいいとおもっている人はそりゃあ多分勘違いですよ。 経験的にそうおもいます。 by 窪ワタル あ、こりゃ失礼 クリさんゴメンナサイ。 by 窪ワタル 何度かこちらのスレッドは目を通させてもらっていて 星もいくつか付けさせて貰っているのですが、 なんで俺が詩を書いているのか。 正直、よくわかりません。 理由が特に見当たらないし、使命感も義務感も優越感もないです。 なんでだろ。こういう書き込みはありでしょうか。 by 半知半能 問題提起ばっかしてて申し訳ない、のですが、えと。 小説はムービーだと北村さんは言うけれども、そして確かに大部分の小説はムービーなのだけれども、小説の中にはとんでもないものもあります。小説というものは非常にさまざまな形式を許してきた芸術です。手紙形式、カルテ形式、裁判記録の形式、アンケート形式、座談会形式などなどいろいろあります。ものすごく古くはいわゆるゴシック小説というものがありまして、これは物語を語ってはいるのですが断片からなりたっています。もう少し新しくなりまして日本のかんべむさしの「集中講義」「会議ひきのばし」、連想連想で言葉を連ねたストーリーのない奇妙な形式の小説です。最近でも(っていうほど最近でもないけど)津原泰水、牧野修の作品のような「これが小説なら詩はどーすりゃいいんだ!」と叫びたくなるようなシロモノもあります。単純に表記の面からみて、行分け・句読点なしという普通の行分け詩の体裁をとった小説もあります。とりわけJ・G・バラードが提唱し日本では筒井康隆が試していたコンデンス・ノベルという形態の小説、あーいうものは非常にデジタルで詩的な跳躍をするので、詩よりも詩的なくらいです。 したがって私には、小説と詩の見分けがつきません。なので私は、作者か批評屋が「これは詩だ」とか「これは小説だ」とか言うのをそのまま信じます。 私がみなさんに訊ねたいと思うのは、なぜ詩なのかってことでもあるんだけど、「なぜ自分の書くものが詩だと思うのか」ってことなのかもしれないです。もしも自分の書くものが詩ではないと思うなら、詩でなくってもいいやと思っているなら、「なぜ現代詩フォーラムという詩のサイトに投稿しているのか」ということも訊きたいなあと思います。 勘違いしてほしくないんだけど、なんていうのかな、詩じゃなくてもいいやと思いながら詩を書いてる人を糾弾するつもりはぜんぜんないです。むしろものすごく気軽に詩を書いてほしいなと思っています。詩というジャンルそのものはそんなに高級なものでもないと思っています。っていうかジャンルそのものに貴賤はないですわ。 なので、>>53みたいな書き込みに賛同する私なのでした。 by 佐々宝砂 ★はじめに ちょっと話の流れからは遅れますが。 モリマサ公さんが最初に、哲学を語った後で自分の事を語られたのが、私に はここでの象徴的な出来事に感じられました。 動機と哲学との乖離は、イメージが言葉を借りて表出され、詩が作者を蹴っ て世界に転生する時、すでに始まっている。哲学の先行が、詩に対する不誠実 さのごとく作者に直感された事に、私には詩の侮れなさ怖さの一面を見る思い がしました。 また同時に、そうした詩や世界への誠実さに殉じうる人の、すぐれた感受性 にも目を見張ります。…そういう人にしか、到達できない場所がある。 自分の論理や哲学に囚われて、表現のうちがわへ落ちてしまう詩の何と多い ことか。只の変換テーブルでは詩は作れないという事が分からずにいる人たち。 彼らは真実に迫る事なく言葉で言い訳めいた意識の壁をこしらえているだけで、 自分たちが詩の歴史を汚しているという認識すら無いに違いない、と私は肩を すくめます。 ★私のきっかけ 踏み絵を済ませておきましょう。 私じしん、決して美しい理由で詩を書き始めたのではなかった。実は大学に 入って東京に出てきた頃、イジメに遭ったのね。強くないと護れないものがあ るって事が、当時の自分には分かっていなくて。 それで何とか自分を建て直したいと思って、19になった正月から、ジョギン グなんかと同時に「週2編、詩を書く」という目標を突然立てて詩を書き始め た。日記では無かったけれど全くの我流。学校で教わった西脇順三郎と、D− day の暗号で知ったベルレーヌを掘口大学の訳で読んで。ベルレ−ヌ詩集から 恋仲だったランボーの事を知って、それも読んだ。でも勉強はそれっきりで半 年ぐらいは全く我流。結構恥ずかしい自己憐憫の詩も多かった。 で半年経って、こういう事をするからには専門雑誌も1冊ぐらいは読もうと、 厚木の有隣堂で現代詩手帖を買った。そこに平出隆さんが『胡桃の戦意のため に』を連載していて、強い感銘を受け現代詩へ転向して…という顛末は、以前 からあちこちに書いてきました。 ★いま書いている理由 いまは、やっぱり「面白いから書いている」のだと思う。 と言うか書き始めた当初から、自分や他人の文章表現の特異さに魅入ってし まうようなところが私にはあった。ナルシシズムとかお宅とか言われればそう かもしれないですけど。 それとともに、作文を通して世界の手応えを感じる事が出来るようになった からだと思います。自分に、他者や世界と張りあっていく自信を与えてくれた ものは詩だったし、社会的な使命感も充足出来て、それが最終的には私自身の 運命をも変えてきた。 ここまで生き延びられたのは詩を書いてきたからで、書いていなければ自滅 の顎から私は逃れられなかっただろうし、妻や仲間たちと出会う事も無かった。 ★私たちはほんとうにこの質問に応えているのか 私も不誠実のそしりを受けたくは無いし、詩を始めた動機や環境は決してキ レイゴトでは無かったので、敢えて踏み絵に参加させて頂いた次第です。 ただ、こうした類いの「私は貴方と違って不幸だから」的な体験の特異さを 詩をする理由として際立たせてしまうと却って読者をスポイルしてしまう、と いう吉田文憲さんの意見を、一色真理さんから教わった事がありました。 カワグチタケシさんはある合評の席で「誰でも、言葉を通じて他者と感情や 体験を共有する事が出来る」と断言していました。余りにも明快な答えに私は 驚きましたが、ことばにするという事は本来そういう事で。共有する困難さを 認めるにしても「あなたには分からない」で逃げる事は、言葉しかない詩人に とって許されない事ではないのか、と思うのです。 詩のボクシングで、癌患者だという中年男性の出場者が、ある少女詩人に敗 れる場面を見た事があります。敗れた相手が彼女で幸いだったと私は思いまし たが、実はそうした残酷さを前提に、表現の世界というのは成り立っている。 作者の動機や目的などは、読者・詩の受け手にとってはあとの話。まず自分 が関心を持てて楽しめる、或いは無視できない詩に出会えることが先であって、 むしろ『なぜ詩を読むのか』のほうが大事だと私には思えるのです。 『なぜあなたは詩を書くのか?』この設問に、なぜみんな「反射的に」自分の 理由ばかり書こうとするのだろう。私はこのスレッドに業界人的な自分の意見 を書くのは、実は「間違い」じゃないのかなと思う。 例えば古今東西の様々な詩人や評論家が語る『なぜ詩を書くのか』だとか、 あるいは詩に馴染みの無い人があなたに問う『なぜ詩を書くのか』と、それを 解き開かそうとする詩人の答えのほうをむしろ読みたい。そう私は願う者です。 2006/01/19〜23 大村浩一 by 大村 浩一 直接関係ないし、どうでもいいことなんやけど、 どうも「○○さんらしくて好きです」という類の感想が ひっかかってしょうがない。 それはその詩がすきなんじゃなくてそのひとがすきなんじゃないのか? あ、別にそれでもいいのか。 詩人も芸能人だからな。 by れつら 今夜、ドアーズの動画みてておもったこと。 私、これまでいろんなとこでいろいろとあれ読んだーこれ読んだーって書いたけど、 確かに私、たくさんのもの(割合からすると詩は少ない)を読んだけれど、 だけど、だけど、私、私が詩を書き始めたのは、谷川俊太郎のせいでも、 長田弘のせいでも、新川和江のせいでも、寺山修司のせいでもない。 まして入沢康夫や吉増剛造や田村隆一のせいでもない。 よく考えてみたら親のせいでもない。親に教わったっていやなことは続けない。 ジム・モリソンがわるいのだ。あの気狂い男のせいで私は詩なんて業に捕らわれた。 私は私を癒そうとして詩を書き始めたんじゃない。 さみしかったからじゃない。しんどかったからじゃない。辛かったからじゃない。 失恋したからじゃない。だけど、偉そうな理由さえ、ひとつもない。 ただ惚れたからだ。ほかに理由あるか。 私は好きなひとのようになりたかったのだ。 ううん過去形にするのは間違いだ。 私はあのひとのようになりたいのだ。無理だとしても。否、無理を承知で。 今夜、彼の"Texas Radio"を聴いておもった。あれは音楽に乗せてるけど、 歌じゃない。あれは詩の朗読だ。私はああいうものがやりたかった。 (なんで過去形にしてしまうんだろう、ほんとうは違うのに、違うのに) 私はああいうものがやりたいのだ、今も、わずかにでも、可能性があるのならば。 愛されるのはそもそも無理なのだし望んだこともない(相手はもう死んでる)。 好きなひとのようになりたいっていうのは、おかしいことだろうか? そんな理由で詩を書くのって、へんなのだろうか? by 佐々宝砂 理由をもうひとつ見つけたので書いておく。 願望充足のため。自分のためだけの天国を妄想だけでなくつくるため。 もっともそれは詩じゃなくてもいいと思われる。 むしろ詩じゃないほうがいいかもしれない、と最近思っている。 #感情吐露、独白、毒吐いてすっきり、オナニー詩というのとは違う。ねんのため。 #どっちかとゆーとオナニーのオカズを自分で作るのであるよ。 by 佐々宝砂 詩人だから。 by 大覚アキラ 個人的な無差別テロ計画のメモとして。 by れつら 私の病気は玉ネギ畑だから。 by 佐々宝砂 どうせ誰にでも書けるって知ってるから。 技量の違いはあれど、書けると思う。 けれどみんな書かないから。 敢えてをやりたいひねくれ者ですよんw by 雨流れ。 とりあえず現フォにきてる人は詩か詩に関するものを書くか読むかしてるんで、 「みんな」じゃないと思うんだよなあ。 by 佐々宝砂 ボケ防止 by 花形新次 未来への参照 未来への参照
ただ純粋に書きたいから? 書かずにはいられないからですか? それほど言葉があふれてくるのですか? 趣味で書いているのでしょうか? 書くことでは救われないと思います。 詩を書くことで、こうしたい、とか明確なビジョンをお持ちの方もいらっしゃるのでしょうか? 詩を書くことは楽しいことですか? ものすごく幸せな生活から、詩は生まれて来ない様に思うのは私だけですか? そんなこと考えもせず、詩を書いているのでしょうか? あなたの詩論、詩人論、ぜひ聞かせてくださいね。 詩であると思い込んでいるのは、例えばわたしが真実、神の存在を思い込むのと同じである。 思い込まなければ詩も泡のように儚く消える。 詩を書くのは投稿板があり、そこにあなたが存在するからである。 何故書くのか、ほんとうはよくわかりません。 けれど、今、ふと思ったのは、わたし、自分をよく知らないんです。 だから、知りたいのだと思います。 たとえば、風には意思は無いのだろうけれども、 それはそこにあるでしょう? 地球が自転をするから、磁力が生まれるでしょう? わたしがこうしてつぶやくことにも、巡り巡ってもしかしたら、 なにかになにかが影響しあうかもうしれないの。 それを知りたいんです。 わたしは、わたしを知りたいからきっと書いているのだと思います。 ほんの数ヶ月前の自分の言葉が、心をすり抜けていく 書くことは、雨がサラサラと降る青い朝方の光の中、窓の外にちらちら 風に揺れる長い黒髪の幽鬼を見るような見つけ出すようなもの 書けない方が幸せな時もある きっと、それは手慰みなもので、きっとそれは怖さと紙一重の幽鬼を見つけるようなもの 、だと、今の私は、思います 「詩を書く」 と、一言で当然のように言えるほど 「詩」も、「書く」ということも当然のことではないが、 詩を書く行為そのものが、そもそも目的的な行為なのかは問題であり、 また、そうだとしても、どの程度までそうなのかが問題である。 本来、詩人というものは、自然に「詩を書いてしまう」ものかも 知れないからである。 * 自分にしかない人生論に出会えると思ったから。それは、幸せなことと気付いています。 心に残ったこと(いろんな感情を含む)について、強烈に残しておきたい事柄を詩にする。 それにより、より鮮明にその記憶が蘇ってくるのです。 ですから、私のとっての詩は、日記と同等のものです。 ただ、内面的な日記ですね。 お話を書くとくらくなるけど、詩はなんだかあかるくなる。 景色があって、心があって、 五感があって、言葉があるなら、 と思っていて、 他に難しい事とか考えた事が無いです。 芯のある人は素敵だなと思いながら読んでいます。 盆栽だわねぇ。 孤独だから ……たまらなく、孤独だから でも、誰も、私も責めたくないから だから、私の心を救いたくて、書いてる 私の心が汚れて手遅れにならないように 過ちで、心を汚してしまわないように 書いてる 私の心を救ってくれるのは 私しかいないから 悲しくて書いてる 暇つぶしでもあり僕の呼吸でもある。 降りてくるから。 小さい頃、買ってもらった12色鉛筆に、間違って「詩を書く鉛筆」が混じっていたから。 1 2 3 4 5 6 7 8 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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