英語は喋らないと
佐々宝砂

私の詩に英語タイトルのものはそう多くない。皆無というわけではなく、詩集に収めたものの中には"A Japanese Prayer"と"LOVE STORY"と二つ英語タイトルのものがあるが、前者はジム・モリソンへのオマージュ、後者は受け狙い(&ラブ・ポエムのパロディ的な意味)、いずれも英語タイトルの必然性が私なりにあってこその英語だ。我が盟友芳賀梨花子の詩は英語タイトルが多いが、わりと幼い頃から英語に親しんできた彼女の場合、英語タイトルは必然的に選ばれたものなのだろうと思う。しかしふつーに暮らしてる日本人の場合、英語タイトルにする必然性ってそれほどないのではなかろうか。

私の英語の出来はあまりよくなかったし、今も私の英語はかなり怪しい。英語ができるといいなあとは思うが、それは英語でないと得られない情報があり、英語でないと意志を通じ合わせることのできない相手がいるからだ。でもそれをいうなら、中国語でないと意志を通じ合わせることのできない相手もいるし、ヒンドゥー語でないと得られない情報もあるわけだ。

私は英語だけを重要視する理由がよくわからないし、日本人が日本語の詩に英語を使う理由もよくわからない。日本語がわからない人に読ませたい場合は別として、日本人が日本語の詩のサイトに発表する詩なのだから、日本語を使えばいいじゃないか?

と思っていたのだけれど、もしかしたら、日本語の詩に混ぜ込まれた英語の語句は、詩的な雰囲気を醸し出そうとしてのものなのかもしれない、と最近は考えている。誰だっけ、誰か皇族が英語でプロポーズしたというエピソードがあったことを思うと、日本語で話すとこっぱずかしいことも英語なら言える、というのはありそうだ。しかし日本語で恥ずかしい言葉は、やっぱり英語にしても恥ずかしいと思うのは私だけかしら。どうせ英語で書くなら脚韻くらい踏めよと思うのは私だけかしら。英語の脚韻は、日本語の脚韻に比べて難しくない。たとえば、

I'd rather cry than lie
I'd rather die than shy
The star children dance in the sky
And I'm waiting for the certain reply

とかいう幼い英詩を、私はずーっと前に書いたことがあった。こんな四行詩でも、一応は脚韻を踏んでいる。英語が正しいかどうか怪しいし、韻の踏み方が正しいかどうかもわかんない。でもともかく脚韻のまねごとだけはしている。なんでもいいから洋楽の歌詞をきちんとみてくれたらわかると思うのだが、英語の歌詞というものは、かなりくだらんポップスの歌詞でも、いちいち律儀に脚韻を踏んでいることが多い。たぶん、英語圏の人は、律儀に韻を踏まないと詩のような気がしないのだろう。と私は勝手に思っているが、それがほんとかどうかは知らない。なにしろ私は英語に詳しくはないのだ。

私は決してナショナリストではないけれど、日本人だし、日本語以外の言語を使いこなす自信がないので、日本語で詩を書いている。日本語の詩らしい日本語の詩を書きたい、日本語の特性を生かした詩を書きたいと願っている。ま、英語で詩を書く日本人がいてもちっともかまわないけどね。


散文(批評随筆小説等) 英語は喋らないと Copyright 佐々宝砂 2004-03-31 02:32:20
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