俳句の非ジョーシキ具体例2
佐々宝砂
少年や六十年後の春の如し (永田耕衣)
加藤郁乎と同じくらいに、このひと永田耕衣もすごいおひとなのであった。加藤郁乎に比べるとかたちが非常に整っているので一見まともな印象を受けるが、上記引用の俳句など冷静に考えるとおそろしい。とゆーか相当に非ジョーシキではないか。なんで「少年や」と「六十年後の春」が結びつくのだ?
永田耕衣は、この手の突飛な発想も得意だが、繰り返しをうまく使う俳人でもある。「鯰笑ふや他の池の鯰のことも思ひ」「死螢に照らしをかける螢かな」「舐めにくる野火舐め返す童かな」などなど、繰り返される言葉が、二度と同じ意味では使われていないような感じがして、これまた、おそろしい。私はこれをまねようとして「やどかりのやどかり越えてゆきにけり」というのをつくってみたが、とても相手にならなかった。最初っから完敗である。「死螢に照らしをかける螢」や、「舐めにくる野火舐め返す童」の姿は、想像するだにぞっとする凄みを持つ。しかしこれらの句はある意味わかりやすい。
私は、冒頭の句「少年や六十年後の春の如し」の方がずーっと凄いと思うのだった。
少年と六十年後を描くなら想像がたやすい。少年が老いるだけだ。少年と春を思い描くのもたやすい。やわやわした日射しのしたに若い獣がいるだけだ。六十年後の春を思うこともそんなに難しくはない。六十年後だって今年の春と同じように桜が咲き、空気はいまより汚いかもしれないが、春は春に違いあるまい。しかしこの俳句では、生死も時間もとびこえた地平で、少年と六十年後と春が馴れあっている。それもいたってかろやかに。あかるく。
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俳句の非ジョーシキ(トンデモ俳句入門)