ヤコブの梯子
佐々宝砂

東の空 雲間から矢のように落ちる光
あれはヤコブの梯子というのだと
少年に教えたクリスマスの朝
うすらいは俺の足に踏みにじられ
音も立てずに割れた

少年の茶色っぽいクセっ毛を
少年が育てた仮想のモンスターの名を
俺は覚えている
もちろん俺は少年の名を知っている
けれど俺はその名をここに記さない

俺たちは寒バヤを釣りにゆくはずだった
あんなつまらないザコだけど
南蛮漬けにすりゃ旨いんだと言うと
クリスマスに南蛮漬け?と
彼女は笑った

しかし彼女はもう笑わない
俺の名を呼ぶこともしない
けれど日常はまだ続いている
この 砂色の日常は
服み込み損ねた胃薬のように苦い

たとえば 昨日のことだけれど
彼女はポインセチアの鉢を割った
赤と緑は世界最悪の配色だと言って
でもそれは赤と緑ではなかった
あかるいレモンイエローと緑だった

色の問題じゃないことは俺にもわかっている
俺たちにはクリスマスを祝う習慣がない
ただポインセチアは俺の友人からの贈り物で
それも俺でなく彼女のための贈り物で
いや でも そんなことは忘れよう

俺はいきつけのスナックで水割りを一杯
店の入口にはクリスマス・ツリー
色とりどりに点滅する明かりを眺め
俺は思い返している
少年が生まれたときまだ時代は華やかだったと

流れてくる音楽が俺を憂鬱にする
しかし俺にはできない
低い声で「その曲はやめろ」とは言えない
たとえこの店が俺のものだったとしても
バカバカしくてできやしない

恋人がサンタクロース と
歌っているのは俺より十は若そうな女
俺の眉間にはきっと皺が寄っている
俺はぐいぐいと水割りを飲む
それからストレートを注文する

サンタクロースは交通事故を起こさない
川に車を突っ込んで
自分一人生き残ったりはしない
ぜいぜい騒ぐつぶれ損ないの肺に
煙草の煙を自ら吹き込んだりはしない

カラオケが終わる
マスターが拍手する
俺はおざなりに三回ほど手を叩く
女がウインクして微笑む
美人だがウエストが寸胴だ

そういえば俺がつきあってきた女たちは
なぜかいつもウエストが寸胴だ
彼女も そうだ今にはじまったことじゃない
昔からあんな体型だったじゃないか
あれはたぶん年齢のせいではなくて

どくん。

不意打ちの頭痛が襲ってくる
壊れかけた肺がうずく
微笑む女の顔がまっしろに塗りつくされる
俺はマスターの姿を探す
すると彼は石でできた天使像に変わっている

なんだ?

俺は目をこする
幾度も幾度もこする
華やかなクリスマス・ツリー
見慣れた店内
白塗りの顔をした女

突然あかるく眩しい白い光が目を射る
どこからやってきた光なのか俺にはわからない
そしてあたりに響きわたる聖歌
いつくしみふかき と歌う声は
うすらいのように澄んだボーイ・ソプラノ

光の中から少年がやってきて
カウンターの中の天使像に向かって言う
マスター ぼく パパを連れてくよ
いいじゃん もう 死にかけだもん
四年も眠ったままなんだもん

少年は俺の腕を握る
うすらいのように冷たい手で
石になったマスターは何も言わない
行ってしまってもいいのか俺は
もう許しを得たのかいつくしみふかきイェスよ

俺は目を閉じて澄んだ声に身をゆだねる
少年の声だけではない
たくさんの澄みとおった声が俺を取り囲む
調和した・不安のない・美しい
濁りのない・混じりけのない・歌声が

いや。
何か和にならないものが聞こえる。

不安げな・なつかしい・いとおしい声が
俺の名を呼んでいた
俺にはその声が見えるように思われた
揺れ動くやや赤みを帯びた光は
懐かしい声が呼ぶ俺自身の名は
一直線に俺の前におちてきた

俺は俺の名前にすがった
俺の名を呼ぶ温かい光にすがった
そうして俺は叫んで応えた

ようやく思い出した彼女の名を

すると
スナックも少年も歌声も
拭き消されたように消え
俺のかすんだ目にうつるのは
ぼんやりと白い天井

ゆっくりと首を動かすと
点滴の管があった
彼女の顔があった
やつれた顔には見覚えがあったが
その表情には見覚えがなかった

それから

不安げな・なつかしい・いとおしい声が
再び俺の名を呼んだ
俺ももういちど彼女の名を呼んだ
見開いた彼女の目に
たちまち涙があふれた




自由詩 ヤコブの梯子 Copyright 佐々宝砂 2003-12-16 00:02:53
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